張学良の死

平成13年10月17日

平成13年10月16日の朝日新聞の報ずるところによると、張学良がハワイで100歳という長寿を全うして死去したとなっていた。
今、日本でこの張学良という人を知っている人はどのくらいのいるであろう。
恐らく60歳以上の人でも歴史に興味のある人以外知っている人は少ないであろうと思う。
まして若い世代では知る人もいないと思う。
私は近現代史に興味があるので多少は知っているが、専門家ではないので書物から得た知識に過ぎないが、前から興味を持ってはいた。
以前、彼が台湾に住んでいたとき、NHKの磯村尚徳がインタビューした映像を持っている。
彼の父親というのが張作霖で、その父親が日本軍の謀略で列車ごと爆破されて、彼は今の中国東北地方のドンというか、首領というか、権力者になったわけである。
この時代の中国というのはまさしく混沌としており、蒋介石の国民党政府と、毛沢東の中国共産党の確執があり、その中に日本軍の大陸進出というものがあって、三つ巴の大混乱を極めていたわけである。
彼の父親、張作霖というのは、その混迷の犠牲者であったわけであるが、それを仕掛けたのが我が同胞であったという事が何とも忸怩たるものを感じずにはおれない。
その事件というのは1928年、昭和3年に起きている。
満州、今でいうところの中国東北部の軍閥としての張作霖が、全中国統一を中華民国の蒋介石と話し合うために北京に向かい、その談判が決裂して奉天に戻る途中に、日本の関東軍の高級参謀であったところの河本大作によって列車もろとも爆死させられたというものであるが、この頃の日本の陸軍、特に関東軍というのは、まさに手綱の切れた暴れ馬のようなもので、日本政府の方針さえも無視して、傍若無人に振舞っていたわけである。
父の張作霖の死を受けて長男であるところの張学良がその跡目を継いだわけであるが、この頃の中国大陸というのもこれまた筆舌に尽くしがたいほど乱れていたわけで、張作霖の軍閥というのもかなり今の基準からすればいい加減な者であった。
日本でいえば、江戸時代前の戦国時代のようなもので、張作霖と彼の長男の張学良といったところで、いわば織田信長のようなものであったわけである。
それは取りも直さず、中華民国という主権国家が主権国家としての機能を果たしていなかったという事で、その間隙に日本の関東軍の進出があったというような状況であった。
だから日本が中国の地に支配権を延ばしてもいいということにはならないが、当時の日本の陸軍としては、こういう状況の中国の現状を目の当たりにすれば、中国人に代わってこの地を平定することも吝(やぶさか)かではない、という気持ちになるのもある面では致し方ない。
しかし、父を殺された張学良にすれば、自分達の領地内で、日本軍が好き勝手な事をして良い感情を持てる筈はないわけで、反日、侮日、嫌日になるのも当然の成り行きである。
この時代の中国において、軍閥の跋扈というのは、まさしく日本の戦国時代そのもので、統一政府というのは全く陰が薄かったわけである。
辛亥革命で清朝を倒したとは云うものの、中国の国家統一というのはまだ遠い先のことで、中国各地には軍閥が跋扈し、その上共産主義者たちが八路軍という軍隊を持っていたわけである。
よって中国内では日本軍と国民政府の軍隊と、共産主義の軍隊というのが三つ巴に絡まっていたわけである。
ところが張作霖を爆死させたことにより、中国の地では一気に反日感情が広がってしまったわけである。
当然の成り行きと言ってしまえばそれまでであるが、それでその息子としての張学良というのは、国民政府につくことになってしまったわけである。
彼自身は軍閥の子息として高度な教育も受けていたわけで、共産主義にも大いに理解を示したが、基本的には軍閥の長としての帝王学を捨てきれず、その意味では生涯無冠の帝王のような境遇であったに違いない。
この時代の軍閥というのは実に不思議な存在である。
中華民国という主権国家の中にありながら、この国家に拘束されることもなく、地方自治と言えるかといえば、そうとも言えない面があるわけで、我々の概念では計り知れない面がある。
国家の中に小国家があるようなもので、その小国家を束ねれば連邦制の大国家が作れるように思えるが、そうならないところが中国の中国たる所以である。
しかし、そういう混沌とした中に、日本軍が列車ごと軍閥のドンを殺してしまったものだから、かの地では一種のナショナリズムが湧き上がったわけである。
中華民国を引き継いだ蒋介石は、この地方の軍閥を平定するために、北伐という事をして軍閥を一つ一つつぶす事を考えてそれを実施していたが、その間に共産主義の勢力も各地に蔓延し、中華民国の蒋介石としては 軍閥も成敗しなければならないが、共産主義勢力というものも撲滅しなければならなかったわけである。
それで蒋介石は北伐の途上、西安に立ち寄ったとき、中国東北部の首領であったところの張学良は、この蒋介石を軟禁してしまったわけである。
日本では5・15事件の起きた年である。
この張学良の西安事件というのも、こういうクーデターの類であったわけであるが、張学良の狙いは国民政府の蒋介石と、中国共産党の毛沢東が一緒になって、日本と戦えという事を勧めたかったわけである。
いわゆる国共合作である。
国民党と共産党が合い携えて抗日戦に勢力を集中せよという事であった。
中国側の立場からすれば、当然の欲求であったわけであるが、蒋介石は中国国内を平定してから抗日戦に力を注ごうと思っていたわけであるし、共産党の方は目の前のものは何でも破戒しなければならなかったわけで、目の前にあるものならが国民党であろうと日本軍であろうと何でも構わなかったわけである。
それで張学良にしてみれば、蒋介石が一応中華民国の主権者であって見れば、彼を拘禁して共産党と協力して日本と戦う事を彼に認めさせたかったわけである。
それで彼は蒋介石を西安で監禁しておいて、共産党側に協力する事を約束させたわけである。
最初、蒋介石も張学良の言うことを素直に聞く耳は持っていなくて、抵抗していたが、自分がとにかく捕らわれの身である限り、無意味な抵抗をすれば、自分の身が危ないわけで、しぶしぶ共産党と協力して抗日戦を戦う事を了承したわけである。
こうして国民党と共産党の約束が成就すると、張学良は蒋介石の監禁を解き、彼を護衛する意味をこめて、蒋介石と共に南京に飛んだ。
その時から、彼の心の中では、自分は国家主席に謀反を起した、という慙愧の気持ちで、蒋介石の処罰、つまり自分は謀反罪というようなもので処分を食う事を覚悟して、蒋介石に同行したといわれていた。
こういう彼の行為でもって国共合作というものは出来上がっては見たものの、その実効は全くと言ってもいいほど上がらなかった。
しかし、張学良の立場というのは、蒋介石に楯突いたと言うことで、刑法上のきちんとした裁判の上で処罰が確定したというようなところはなかったが、実質それに近い処遇を受けたわけである。
この辺りが中国の中国たる所以で、刑法というものがあるのかないのかさっぱり理解しがたい面がある。
張学良が国家主席である蒋介石を監禁したのだから刑法上の何々の罪に当たるという基準というものが全くないわけで、彼は刑が確定してそれに服したのか服さなかったのか、その辺が全くもって曖昧模糊としている。
西安から蒋介石と共に南京で飛行機で移動した張学良というのは、それ以降というものの自分の故郷、中国東北部には帰っていないのではないかと思う。
彼はそのまま国民政府と共に中国大陸内を移動し、第2次世界大戦後は国民政府そのものが台湾に逃れ、その台湾に移動したわけである。
西安事件の謎といわれているが、今から考えてみると、この西安事件というのは一体なんであったのか理解に苦しむ。
国共合作をさせるためだけの事件であったとすれば、その時点でも彼ら中国の側は日本に対してもっともっと果敢に抵抗してもよかったわけで、そういう動きにはならず国共合作ということは、その中での勢力の再配分に終わってしまったわけで、統一戦線としてその力を結集して外圧としての日本に向けるという動きにはならなかったわけである。
それよりも前に、父親を日本軍に殺された張学良は、その後中国東北部のドンとして、その後の日本軍の大陸進出に対しては、奥に奥に逃げるという手法を取った、と本人が述懐しているが、この戦略は案外日本に対して有効であった。
日本は中国大陸の奥に奥に攻め入る事によって補給線が延び切り、勝った勝ったと喜んでいたが、所詮それは点と線でしかなかったわけである。
その後日本は張学良の地盤であった中国東北部、いわゆる満州に満州帝国という傀儡政権を打ち立てたが、この新興帝国の命運はわずか13年でしかなかった。
張学良というのは紛れもなく中国の軍閥の末裔であったが、この軍閥というもの自体が我々の認識では計り知れないものである。
その意味からすれば、満州国皇帝愛親覚羅溥儀は、清帝国のれっきとした末裔であったわけで、清皇帝の末裔という事は理解しえるが、軍閥、地方軍閥の末裔というのはどうにも理解しがたい。
この状況というのはやはり日本の戦国時代の尾張の国、美濃の国、三河の国という捉え方に匹敵するのではないかと思う。
だとすれば清帝国というのは一体なんであったのか、といわなければならない。
1894年、明治27年の日清戦争の清とは一体なんであったのかといわなければならないし、1911年、明治44年の辛亥革命で倒れた清王朝というのは一体なんであったのかといわなければならない。
その事は、つまり清という中国の統一国家というものが如何に力のない存在であったのかということに他ならない。
国家を凌駕する地方があったという事で、これは中国東北部のみならず中国各地にこれに匹敵する地方勢力があったわけである。
蒋介石というのはこういう地方を平定して中華民国という統一国家を作ろうとしたが、それは中国4千年の歴史が物語っているように安易なものではなかったわけである。
片一方の共産主義というのは、目の前のものは悉く壊していいというものであったわけで、地方の豪族であろうと、軍閥であろうと、統一国家であろうと、壊す事には事欠かないわけで、その上彼らには守るべきもの、守るべき価値観というものもなかったわけで、まさしくアメーバー的な広がりの要因があったわけである。
彼ら中国の民衆の側から見れば目の前にあるものは悉く破戒すべき俗物であったわけで、日本軍であろうと、国民政府であろうと、軍閥であろうと、山賊であろうと、夜盗であろうと、目の前のものはなんでもかんでも革命の名のもとに引き込んでしまわなければならなかったわけである。
第2次世界大戦が終わった時、日本が作った満州国、いわゆる中国東北部、張学良の地盤であった地域はソビエット軍が占領した。
終戦の1945年、昭和20年8月15日において、日本の天皇の詔勅がこの地に及ぶと、日本の軍隊、旧日本軍というのは一斉に武器を地において戦う事を止めてしまった。
それと同時にこの地にいた日本人は故国への引揚げに奔走しだしたわけであるが、その間隙に中国共産党の勢力がこの地方に広範囲に広がってしまったわけで、ソビエットという共産主義国家と中国共産党の進出という二重の圧力で一気にこの地方は赤化してしまった。
国共合作というのは何度も出来てはその度ごとに破綻したわけで、それが中国の歴史でもあったわけである。
以上、見てきたように張学良というのは日本とかなり深い関わりを持っているが、これは良い関わり方ではなく、悪いか関わり方である。
張作霖の子としての張学良は、その地盤を日本軍によって蹂躙され、その挙句は中国共産党によって接収されてしまったわけで、土地というものに固執する限りにおいては彼の人生はまさしく流転の人生であったに違いない。
しかし、中国という大地において土地に固執する事は意味をなさないようにも思える。
昔、パール・バック女史の「大地」という小説を読んだが、ここで書かれていた事は中国の民の生き様というものが縷縷述べられていた。
張学良の出自が軍閥という事がはっきりしている以上、彼を中国の民と言えるかどうか定かには分からないが、中国の大地に生きる民には「栄華盛衰世の倣い」という事は実感をもって感じられる。
そのことから考えると何も持たない民というのは誠に強いわけで、失うものが無いという強さというのは非常に強靭な生命力になりえる。
張作霖とその息子の張学良というのは、日本の国土以上に大きな領地を名実共に失ったわけであるが、毛沢東のような農民出身の人間は得るものはあっても失うものは何もないわけで、これほど強いものはない。
張学良が軍閥の末裔ならば、愛親覚羅溥儀は清の皇帝であったわけで、彼こそ中国大陸の大部分を失ったわけである。
世が世ならば秦の始皇帝なみの権勢をほしいままに出来たわけである。
彼の失ったものはあまりにも大きかったわけである。

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