同時多発テロ事件について

平成13年10月16日

平成13年、2001年9月11日にアメリカのニューヨークで2機の旅客機が世界貿易センタービルに突っ込むという前代未聞の事件が起きた。
犠牲者はビルの中にいた人たち約6千名とも言われ、旅客機の乗員乗客180名近くの人達も同時に犠牲になった。
この事件は発生の段階からマスコミが詳しく報道しているので、私が今更記述するまでもないが、問題はマスコミの論調が反アメリカ的になると言う事である。
世の中が平和と言うか、言論の自由が保障された所ではどういう訳か反政府というか、反体制の論調が散見されるのが不思議でならない。
この事件というのは明らかに犯罪であり、犯罪に対して戦争で報いるという言葉を使ったからアメリカのブッシュ大統領は非難されているが、確かに犯罪に対して、軍事力で対応するということは誤解を招きやすい言い回しである。
このテロ事件に対してブッシュ大統領がこれは「新しい戦争」だと言った事に対して.イスラム側からの反応が過剰反応しているわけである。
ブッシュ大統領が「新しい戦争だ」という言葉を使わずに、「犯罪者を何処までも追い求める」とでもいえばイスラムの反応は多少違ったものになっていたに違いない。
ただアメリカ人の国民性から言うと、戦争と言う言葉の方がアメリカ国民への国威掲揚には効果があるわけで、ここの部分が非常に難しく、又世界を相手にする時には非常に微妙な影響があるように思われる。
特に日本というのは戦争という言葉に非常に敏感なわけで、戦争という言葉さえ使わなければ我々の能天気な国民は、能天気なままでやり過ごしてしまうわけである。
確かに、あの事件に関しては新しい戦争という位置付けの方がその事件の性質を的確に表現してていると思う。
しかし、戦争という言葉を使うとなれば、相手は主権国家でなければならないわけで、あのオサマ・ビン・ラデインをかくまっているタリバンというのが主権を持っているのかどうかという点が非常に微妙な問題なわけである。
アメリカは今度の事件がオサマ・ビン・ラデインの犯行であると言う証拠を著名な外国には示したとされているが、その証拠を信じるとすればこのオサマ・ビン・ラデインという男は常軌を逸した人物と言わなければならない。
世界貿易センタービルの犠牲者と、旅客機の乗客には何の罪もないわけで、こういう何の罪もない人々を道連れに自らの主張を世界にアピールして世界の共感が得られると思っているのであろうか。
イスラム原理主義というのは一体なんなのかということを我々は考えなければならない。
事件から1か月を過ぎてアメリカがアフガニスタンに報復攻撃を掛けいる段階で、世間のマスコミの論調はアメリカの報復の是非が取り沙汰されているが、このオサマ・ビン・ラデインの罪もない人々を道連れに自らの主張をアピールする事の是非を論ずる論調は影をひそめてしまっている。
目前のアメリカの武力行使の是非のみが騒がれているが、この不合理を世界がこぞって非難しない事には彼らを増長させるだけのことになってしまう。
ラデインという人物が自分の主義主張の正当性をアピールするためにだけに、罪もない人々を道連れにしたという事実に対しては、マスコミは論調のトーンを下げてしまって、アメリカが貧乏なアフガニスタンに武力による攻撃をする事にのみ注目が行ってしまっていることは、論点の欺瞞につながるのではないかと思う。
アフガニスタン政府なり、タリバンというものがラデイン氏を拘束しアメリカ側に引き渡せばアメリカの武力行使というのは即刻中止されるのに、アフガニスタン政府なりタリバンというものがこのラデインをかくまいつづけているからアメリカの攻撃というものがあるわけである。
物事には必ず因果応報ということがあるわけで、何も理由がないのに事件が起きるわけがない。
タリバンの一員としてのラデインという人物が世界貿易センターというものを2機の旅客機を使って破戒して罪もない人々を道連れにしたからこそ.アメリカが犯人と思われるオサマ・ビン・ラデインという人物の身柄の引渡しを要求しているわけで、これだけの大事件を引き起したのが本当に彼であったとすればそれは身柄を引き渡すべきで、それをかくまいつづけているということはアフガニスタン乃至はタリバン勢力と言うものが彼の行為を正当な行為と認めているからに他ならない。
そうだとすればこれはアメリカとしても戦争と認識せざるを得ないと思う。
イスラム教徒とアメリカ資本主義との確執というのは今に始まった事ではない。
イスラム側からすれば、アメリカ資本主義がイスラム教を抑圧しているという言い方をしているが、これはイスラム教徒が宗教に固執している限り、この構造は直らないわけで、それはアメリカの所為ではない筈である。
しかし、この論理は彼らイスラム教徒には理解される事はないであろう。
何となれば彼らは彼らなりに唯我独尊的に自らの宗教に嵌り込んでいて、他を見るということが出来ないわけで、他との比較が出来ない以上、自分以外の周囲は全部敵となってしまうからである。
アフガニスタンを例にとってみればかっては共産主義国ソビエット連邦との内戦に明け暮れたわけで、ソビエトが手を焼いて引揚げれば次はアメリカが敵となったわけで、そのことは常に自分以外のものは敵という認識にはまり込んでいると言う事である。
アメリカがイスラムを抑圧していると云う言い分もただの言葉のあやで、アメリカは抑圧するのではなく、ただ単に存在するだけでも彼らからすれば自分以外の存在が直ちに敵になるわけで、存在そのものが既に敵であるわけである。
こんな不合理な論理には付き合いきれないわけで、こういう不合理な論理であるからこそ、罪もない飛行機の乗客もろとも、罪もなくビルで働いている人々共々6千猶予人の犠牲者を出すような行為をするわけである。
こういう不合理なことを信じて止まないオサマ・ビン・ラデインに誰がその不合理を解き、彼の誤解を解き、そのテロを止めさせる事ができるのであろう。
テロに対して報復すれば、その報復に対する報復が予想される事は誰でもが想像できる事である。
このテロの悪循環を断ち切る事は誰がどう説得すればこの悪循環を断ち切れるのか、その答えは誰も出し切れていない。
同時多発テロに対して報復を止める事はいともたやすい事であるが、もしそうだとすればその犠牲者はそのまま放置しておけばいいということであろうか。
そんな事が許されて良いものだろうか。
テロに対して報復すれば、報復する側つまりアメリカ側にも新たな犠牲者が生ずる事は目に見えているが、新たな犠牲者が生ずるから6千余命の犠牲者の事は忘れ去っても許されるということであろうか。
やはりそれは許される事ではないと思う。
人間には理性というものがあって、この理性が間情をおさえ、テロに対して報復すれば再び報復の報復が起きるということは分かるが、感情のほうはそう簡単に収まるものではない。
テロに対して報復すべきだというのは今やアメリカ国民の国民的感情となってしまっているわけで、こういう感情の高ぶりというのは理性でもっても御しきれないものである。
人間はその場の感情で行動すると失敗を重ねがちで、理性でもって自らの行為を冷静な目で見直さなければならない事はなんびとも分かっているはずである。
アメリカの報復攻撃というのもただたんなる感情の条件反射ではなく、約1ヶ月という準備期間を置いた冷静な判断だと思う。
しかし、アフガニスタンというのはもともと何もないところなわけで、何もないところにいくら空爆をしたところで相手を破戒し尽くすということはありえないわけである。
東京や名古屋という大都市ならば空爆をすればそれだけ目に見える形で報復した効果というものはあるが、アフガニスタンの禿山をいくら空爆したところでその効果というものは目に見える形ではありえない。
この事件というのは非対称の事件なわけで、あらゆるものが共通の認識の上に成り立っているわけではない。
ブッシュ大統領はこれは新しい戦争だと言う表現を使ったが、これを戦争と捉える事すら大いなる疑問があるわけで、戦争であれば相手が主権を持った主権国家でなければならないが、今回の事件と言うのはアフガニスタンという主権国家の先制攻撃でもなさそうで、その実体の不明確な点が既に非対称になっているわけである。
そしてオサマ・ビン・ラデインという人物がアフガニスタン人かと言えば、そうでもなく、タリバンと言うのがアフガニスタンの政府かと言えばそうでもなく、まさしく雲を掴むような事ばかりで実体というものがまったく存在しない非対称と言うか、霞か雲かというような実体のないものとの戦いなわけである。
イスラム教徒が全部敵かと思えばそうでもなく、しかしイスラム教徒の中には強烈な反米思想もあるわけで何がなんだかさっぱりつかみ所のない事件である。
その意味からすれば、ブッシュ大統領の言う新しい戦争でもあるわけで、古い主権と主権の衝突というものから脱皮した、得体の知れない文明との衝突でもあるわけである。
アメリカがイスラム世界を抑圧しているという言い方は間違いの元だと思う。
確かにアメリカというのは豊で自由で、はつらつとしており、、ある意味では不遜でもあり独り善がりな面もあるが、一方イスラムというのは中世以前の思考に凝り固まっているわけで、中世の思想と超近代の思想と言うのは相容れないのは致し方ないが、それをアメリカの抑圧という言い方をする事は間違った認識だと思う。
イスラム世界も現代の生き方を選択する事はいくらでも可能なわけで、それを自ら拒否しておきながら、その結果をアメリカの所為だというのは倫理的にゆるされない事だと思う。
尤もこの倫理というものがイスラム世界とキリスト教世界で共通の土俵があればこういう齟齬は生じないわけであるが、この2大宗教の間に共通の倫理というものがない事が問題の核心に潜んでいるわけである。
イスラム教というものが宗教の戒律の維持に重きをおき、 キリスト教徒達が変革に重きをおくという宗教的倫理に束縛されている限り、この二つの宗教の融合というものは存在し得ないわけで、それがある以上、この宗教の勢力の融合というのは将来に渡ってありえないことになる。
イスラム教徒というのは自らが貧乏な方へ、貧乏な方向へと突き進んでいるわけで、イスラム教徒が豊になろうとすれば必然的に宗教の戒律から逃れる方向に向かわなければならないと思う。
タリバンと言うのはそれを阻止する方向に向かい、古い戒律に限りなく忠実たらんと欲しているわけで、それはいわゆる近代化に背を向ける事でもあるわけである。
そしてアメリカとの格差が広がればそれは相手側の抑圧と称して自分達が近代化に背を向けている事を覆い隠すことになるわけである。
今パキスタン内の反米運動というのは情報操作によって世界で起きていることを民衆に知らせないので、情報から隔離された民衆が騒いでいるという構図ではないかと思う。
アフガニスタンの民衆の生活が非常に貧しく子供等はろくに教育を受ける機会にも恵まれていないという状況はひとえにアフガニスタンの主権国家としての国家の選択であったわけで、これはアメリカの所為でもなければ日本の所為でもないわけで、自らの選択の所為であるわけである。
我々はこういう現状を見ると、自分の置かれた潤沢な経済的立場からついつい同情的に、これらの国々は気の毒だという印象を受け、子供達が可愛そうだという感情に浸ってしまうが、それは彼らの民族の自らの選択であったという事をついつい忘れがちである。
しかしながらそういう国でも主権があるわけで、むやみやたらと援助の押し付けをすればそれは親切の押し売りになってしまうわけである。
そもそも人の生き様に対する価値観が全く違っているわけで、自分と同じ価値感を相手も持っていると思い込む事自体が、我々の側のお思い上がりなわけである。
今、21世紀に差し掛かった時点で、我々はお互いに助け合ってこの宇宙船地球号を後世に引き継がねばならないと願っている時に、民間の飛行機をハイジャックして、民間人もろとも、世界貿易センターという世界経済の中心地で働いている何千と言う無辜の人々を道連れにテロ行為をすると言う事は宗教の如何を問わず、人としてあるまじき行為である。
罪もない人々を道連れにして自己の宗教の正当性をアピールするなどということが許されて良いわけがない。
こんな事はギャングの抗争よりももっともっと卑下されてしかるべきである。
ギャングでももっともっと人倫をわきまえ、仁義をわきまえている。
このテロに対してタリバンというのは犯人であろうところの、オサマ・ビン・ラデインの身柄引渡しを拒んでいるが、そういう背景があるからこそアメリカは彼をかくまている人もテロ行為犯と同罪だとみなしているわけで、このところが既に文明の衝突となっているわけである。
タリバンの人々、乃至はパキスタン内のイスラム教徒にとってはあの事件というのはイスラム教徒にとっての聖戦となっているわけで、そういう認識で彼らがいる限り、アメリカの報復で民間人の犠牲者が出ても致し方ない。
あの事件の日から1か月も経つと人々は冷静さを取り戻し、アメリカの報復でアフガニスタンの民間人の中に犠牲者が出ることに憂慮の気持ちを表明するようになってきたが、これはやはり文明国の証拠なわけで、逆に非文明国の側ではアメリカに対する反抗の気分が高揚しているわけである。
我々、日本という自分の住んでいる環境の中で、アフガニスタンとかパキスタンという言葉をテレビを主体とするマスコミに依存して見聞きしている限り、これらの国も日本と同じような主権国家で行政機構も国の隅々にまできちんと機能した普通の、つまり日本と同じような主権国家だと思いがちであるが、実際は禿山にある竪穴住居の縄文人化や弥生式文化と同じレベルの人々なわけである。
いわば時計の止まった地域に住んでいるわけで、社会そのものがなりたっていないわけで、まして国家の機構など存在せず、山賊か夜盗が銃器を持っているような状態ではないかと想像する。
人間は道具を使う動物なわけで、社会が構成されていなくても、移動の道具としての車、人殺しの道具としての銃器、テロのための現代科学というものは彼らの未開人の生きんが為の道具としては存在しうるわけである。
オサマ・ビン・ラデインの教えに従ってこれほどのテロを実行した人たちというのはそうとでも云わなければ説明がつかない。
特に忌まわしき事は罪もない乗客と罪もなく犠牲となった人々である。
これは通りすがりの人殺しの類の犯罪ではなく、宗教を背景としてアメリカを明らかに敵視した自己アピールであったわけで、する方もされた方も戦争という概念で捉えているに違いない。
ブッシュ大統領が新しい戦争というのもむべなるかなである。
問題は我々がこれをどういうふうに捉えるかということであるが、日本国内ではこの事件に日本人も30名近くが犠牲になっているということを忘れ去られているような気がしてならない。
アメリカの尻馬に乗っかって報復攻撃の支援をいとわないということはすぐに表明されたが、その中でも日本人の犠牲者のために報復するということは一言もなかったわけで、日本人の犠牲者というのは日本のマスコミも無視しがちである。
6千人の中の30人程度だから割合としては少ないので無視されたのかもしれないが、ここに我々の危機管理の甘さがあるのではなかろうか。
このテロに対する日本人の犠牲者の立場を代弁する論調は全く散見出来ないのはどういうことなのであろう。
我々の同胞も30名近くがイスラム原理主義者のテロの犠牲になっているということを我々は忘れてしまっている。
我々はアメリカの報復行動には出来る限りの事をするということを事件早々に表明したが、その中では日本人の犠牲者が含まれているからという言質はなかったわけで、これは我々の認識が少々間違っていたのではなかろうか。
第2次世界大戦後の我々、日本人というのは戦うという言葉に非常に敏感になってしまったが、その点アメリカ人魂というのは本質的に戦うということが美徳の一つになっているわけで、それは何も好戦的ということではないが、人生の試練に対しても戦うという言葉で表現して憚らないし、義を見て戦わざるは卑怯者という認識が普遍化している。
それに反し我々の側は和の精神でもって耐える事に価値を置いているわけで、その発想が全く逆転している。
だから日本がアメリカの後方支援するという時に、武器弾薬を運搬する事が後方支援にあたるかどうかというナンセンスな議論がまかり通っているわけで、これこそ不毛な議論である。
それと同時に国家の大儀という概念も失われてしまっているわけで、これは自分の国を自分達で作っているという認識がないということでもある。
アメリカという国は云うまでもなく移民の国で、世界中のあらゆる国から人々が集まってきて自分達の国を自分達で作っているという観念が強いが、我々は生れ落ちた時からこの小さな4つの島の中できちんとした社会基盤の中で生育したものだから太古から国というものは何かの時には頼れるものだという認識が抜けきれない。
だから国家というのは自分のために何かをしてくれ存在だという甘えの精神が払拭しきれないわけである。
だから我々人民は国家の恩恵は十分の受ける権利があるが、国家に奉仕するという事は人々の意識の中にないわけである。
戦後の民主教育では自らの権利を主張する事は教えれられても、自らの義務を履行する事は教えられなかったわけで、国家というものは自らの権利は保障してくれるが自らの義務の履行を迫られるとそれは国家の横暴ということになるわけである。
戦前はお上の言う事には何一つ疑問を差し挟む事はなかったが、あの戦争というものが日本人が日本人を騙しつづけた結果が敗戦になったという歴史的な教訓から国家の言う事はそのこと如くが信用できないということになったわけである。
だから国家の言う事を信じ、それに奉仕する事は真っ平ご免だという心境に陥ったわけである。
しかし確かに戦前から戦後というのはこういう場面が多々あったことは否めない。
しかし、今、21世紀という時代はあれから半世紀、50年という歳月を経たわけで、その間には当然の事として世代交代もあったわけで、認識のずれというのも回復してしかるべきである。
もうそろそろ戦後の新しい倫理というものが出来上がっても良い時期である。
この新しい認識の中でも、戦うという事の嫌悪感というのは拭い切れないわけで、戦うという言葉を使わない場面では我々は大いに戦うという行為をしているわけである。
例えば、自由競争そのものが既に戦いなわけで、食うか食われるかの戦いであるにもかかわらず、我々は戦いという言葉を遺棄して自由競争と言い換えているわけである。
そしてこの戦うという行為を止めて、お互いに話し合いで事を解決しようとするとそれは談合だと称して、話し合いで事を解決する手法を封じておきながら、談合はけしからんといっているわけである。
経済活動そのものが既に戦いなわけであるが、我々は戦うという言葉を忌み嫌っているわけである。
だから今度のようなテロ事件においても、ブッシュ大統領はこれは「新しい戦争だ!」といわず、「比類稀な凶悪事件だ」と言い換えれば、日本のマスコミの対応というのは好意的な論調になるに違いない。
ところがアメリカ国内では新しい戦争だと言った方がアメリカ国民に対しては好感度が上がるわけである。
しかし、アメリカの報復攻撃も始まってはみたが、相手は禿山の中の穴の中にいるわけで、そうたいした効果というものは期待できないのではないかと思う。
相手は近代的な都市ではないわけで、攻撃してもしなくてもその防衛力に大きな影響を与えることにはならないと思う。
だからあの同時多発テロというものをなされるままにしておけということにはならないだろうが、このような形で報復したところで目に見える効果はありえないように思える。
実際問題としてアフガニスタンなどというところは国であるようでも国の体をなしていないと思う。
こういうところに最新鋭の兵器で攻撃してもせいぜい土の壁と砕くぐらいの事しか出来なくて、目に見える形の効果というものはありえないと思う。
それでもしないことにはアメリカ国民が納得しないという面があるのではないかと思う。
平成13年10月16日の朝日新聞、天声人語の欄に記されていたことであるが、日本の女性団体がアメリカ、ニューヨーク・タイムズにテロ報復に反対する広告を出したということが載っていた。
あの同時多発テロに対してアメリカが目下アフガニスタンに対して報復攻撃をしている事はマスコミとうで報道されているが、アメリカに「報復を止めよ」と言うことは簡単である。
ならばあの犠牲者にはどういって報いればいいのか、その答えを出すべきではなかろうか?
そういうことを言う人はオサマ・ビン・ラデインにも「潔く裁きを受けよ」と正面から言うべきではないのか?
アフガニスタンのタリバンにも「潔く首謀者を国際社会に引き渡せ」というべきではないのか?
問題の本質は、あの何千にも及ぶ無辜の人々を、自分達の主義主張のアピールのために殺した、という行為にあるわけで、この行為さえなければアメリカの武力行使ということもないわけである。
この云う状況が充分にわかっていながらアメリカにのみ「武力行使をやめよ」という主張は、ある意味で非常に無責任な行為だと思う。
我々には古くから「喧嘩両成敗」という格言があるが、最初に同時多発テロというものがなければ、無用な武力行使というのもないわけで、犯罪が起きてからそれに対処しようとすると「反対」ということは、人倫の道を外れた独り善がりな偽善だと思う。
こう云う事を言っている人は、被害者の事は忘れているのであろうか?
イスラム世界とは何のかかわりもなく、自分の仕事をしようとしている人を無差別に死に追いやった犯人というのは、それ相当の報復というか、裁きを受けて当然であるし、アメリカの報復でアフガニスタンの罪もない人々が巻き添えになることも当然考えられるが、それに対してはタリバン側、乃至はオサマ・ビン・ラデインの側で、疎開とうの措置を講ずるべきである。
我々の歴史では、アメリカの空襲が予想された場合、学童児童は田舎に疎開させて、児童の安全を図ったが、湾岸戦争のときのサダム・フセインやオサマ・ビン・ラデインは、自国の人々を自分達の盾に使っておるわけで、これほど価値観が違っていれば、我々の常識で語る事は不可能なわけである。
そのことは我々の倫理でアフガンで「巻き添えを食う人々が気の毒だ」という認識を考え直さなければならないのではないかと思う。
その事はアフガニスタンを滅多矢鱈と攻撃していいというわけではないが、この認識の違いというのは既に克服の仕様がないのではないかと思う。
最初にそれが、つまり認識の違いがあったればこそ、同時多発テロというものがあったわけで、そこからボタンの掛け違いというものが起きたわけである。
アメリカの行為を非難する人というのは、如何にも無責任でおれる。
自分の周りに身内がおらず、アメリカ政府にも利害関係をもたず、自分の偽善を無責任に吹聴して回る事に喜びを感じているとすれば、これほど偽善に満ちた行為もないと思う。
オサマ・ビン・ラデインが世界貿易センタービルを破戒して聖戦の効果があったと思うのと同じ轍を踏んでいるに過ぎない。
所詮は自己満足の欺瞞である。
これはテロ組織と主権国家の対立なわけで、テロ組織というのは主権という枠組みを持たないので、まさしくつかみ所がない。
しかしテロというのは社会を根底から揺るがしかねない力をもっているわけで、これを根絶するにはやはり力の行使しかありえないわけである。
話し合いで解決できる状況ならばこういう事件そのものがありえないわけで、こういう事件が起きるという事は、それに見合うだけの力の行使しかその再発を防ぐ手法はないわけである。
人が生きる上で、理想を掲げその理想に向かって一歩一歩階段を登る姿というのは健気なもので、実に好ましい事であるが、理想と現実というのは冷静に、そして冷酷な目で見極めて、追えば追い求められる理想か、それともただ単なる夢想に近い、絵に書いた餅かを現実に則して見極めなければならない。
オサマ・ビン・ラデインのようなイスラム原理主義者に「テロを止めなさい」という事を口で言って納得させるという事は、まさしく絵に書いた餅を追うが如き行為なわけである。
人の心の奥底に宗教がある限り、狂信的な人ほど改宗ということは困難なわけで、長崎のキリスト教徒受難の碑を見ても、死んでも自分の信じるものを捨てないというのが宗教人の一貫した姿であるとすれば、人が少々説得したところで、イスラム原理主義者が説得に応じて改宗する気遣いはないわけである。
それを無理強いすれば究極的にホロコーストにたどり着いてしまうわけである。
我々は21世紀の社会に生きようとしているのに、彼らは中世の社会に戻ろうとしているわけで、この両者の間では価値観を共有する事は全くないわけである。
イスラム社会をアメリカが抑圧しているという言葉ほどのまやかしはないと思う。
イスラム文明とアメリカの文化の接点では確かに計り知れない格差があることは認めざるを得ないが、それはアメリカが抑圧した結果ではなく、イスラム側が近代文明というものから逃げようとしているからであって、彼らが中世の戒律で自らを律しようとする限り、この格差は広がるばかりで、その現実の前には両者の歩みより、融合というものはありえない。
イスラム圏以外の人は近代文明に接した時、その恩典を自ら受けたいと思い、良い目がしたいという俗物的感情に支配されて、自らの宗教の戒律に目をつぶってしまったが、イスラム教というのは近代の文明に接すること自体が戒律に反することになり、そういうものから逃げよう逃げようとするわけで、そうである限り、近代文明との乖離は大きくなる一方である。
イスラム原理主義の方からアメリカと言うものを見た場合、その存在そのものが「悪」ということは具体的にどういうことを云っているのであろう。
湾岸戦争でアメリカがイスラム圏に軍事力で介入した事が「悪」であったとすれば、イラクのサダム・フセインのクエート侵攻をイスラム圏の指導者が話し合いで止めさせれば湾岸戦争というものもなかったわけである。
イスラム圏にアメリカが進駐した事で、アメリカの存在そのものを「悪」というのは、これも大きな論理の飛躍で、こんな事が普通の常識では通るわけがない。
しかし、我々、非イスラム圏では常識と思っていても、彼らの世界に入ればこれは非常識なわけで、その逆もまた真なりということであれば、何とも説明の仕様がない。
世界一の強力な主権国家を、その存在そのものを「悪」ということは、我々の思考を超越した考え方で、何とも理解しがたいものがある。
アメリカの報復攻撃でアフガニスタンの罪もない人々が巻き添えを食うというのも何とも忌まわしい事であるが、それを避けるためにイスラム側からオサマ・ビン・ラデインの自首を勧める人が現れないのかと思う。
彼さえ捕縛できれば無用な殺生はしなくて済むのに、彼を説得出来る人がこの地球上にはいないのか、そこが歯がゆいばかりである。
アメリカに反戦PRする前に、オサマ・ビン・ラデインに自首を勧める方が先ではないのかと思う。
アメリカを言葉で叩くことは簡単な事で、いくら言葉で悪口を言ってもそれだけで身柄を拘束される事はない。
これは我々は当たり前に思っているが、地球規模で見た場合、こういう状況というのは非常に稀なわけで、世界中が何処でもこういう事が許されると思ったら大間違いである。
そういう状況下でオサマ・ビン・ラデイアンにどういう手法とノウハウでテロを止めるように伝え得るのか指し示してもらいたいものだ。
そして彼に対して過去のテロも含めて今回のテロの償いをさせるには如何なる対処の仕方があるのか指し示してもらいたいものである。
ブッシュ大統領だとて、好きこのんでアフガンに攻撃を仕掛けているわけではないと思う。
彼の立場から、こういう処置を取らないことには、世界貿易センタービルと旅客機の乗客に対してどう説明できるのであろう。
「皆さん方は不運な星の元に生まれたのだからあきらめてくれ」とでも言えばいいのであろうか?
この点を報復攻撃に反対している人たちはどう考えているのであろう。彼らの立場からすれば、他にどういう方法が残っているというのであろう?その方法を示さずに、アメリカ政府の行為に反対をするというのは偽善ではなかろうか?

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