はしがき
1991年8月19日、原稿を脱稿しようとしたら、ソ連のゴルバチョフが失脚したというニュ−スが飛び込んできた。
この書き下ろし評論の最初の頃にソ連の問題についてかなり突っ込んでいたので、このショックの分、古くなった感じがする。
ク−デタ−そのものはあっけなく終わって、世界中が3日間はテレビの前に釘づけにされたが、終わってみれば大山鳴動鼠一匹という感じである。
時の流れというのは実に早く、つい2ヵ月前のことが、古くなってしまう。
この書き下ろし評論というのはNHK TVと中日新聞社が思考の糧となっている。
その大部分の考えは、私の頭脳の中で考えたもの、思いついたものであり、100%創造的なものである。
社会的な常識や世間の一般的な考えとは大いに違っているかもしれない。
その違うところがこの冊子の価値の有るところである。
その根底に流れているのは遊びの精神である。
遊びというのは一種の余裕である。
この余裕というのが世の中に不足している。
人間が真正直で、思考に遊びがないと世の中がぎくしゃくして、窮屈になる。
人間の社会には身命に掛けて守るべき事と、遊びというゆとりを持つという相反する要因が同居している。
社会というのはこのバランスで成り立っていると思う。
このバランスが適切だとゆとりある穏やかな社会になると思う。
ソ連におけるク−デタ−でも、精神的に遊びのない連中が、危機感をつのらせて引き起こしたもので、物事には遊びが必要である。
人間には遊びが必要なことは万人が認めるが、どういう遊びをするかとなると、個々の問題で、かなり大きな選択の幅がある。
私の場合、この文章を書くため、もう一つの遊びが中断してしまって、どちらかというと家庭内では後の方の遊びが歓迎される。
と言うのは曲がりなりにも野菜の一つも採れるので、一文にもならない文章書き、乃至はワ−プロ遊びは歓迎されない。
又、目下、夏の真っ盛りで、陽の有るうちは外の作業は出来ないので、結果として草ぼうぼうになってしまった。
非日常性ということはストレスの解消には誠に都合がいいが、この文章作成の方は非日常性とはまた違った意味で精神的な糧となっている。
何を書こうかと考えることにより、精神的に意欲が沸き、新聞を見たり、TVを見るときの視点が違ってくる。
けれども人間の思考にも限界というものがある様で、ぼつぼつ種切れになってきた。
思考が堂堂巡りに陥っている。
そろそろスランプというか、底が尽きたというか、三日坊主の本領発揮というところである。
今回はソ連のこと、外交のこと、終戦のことがメインのテ−マになっているが、今の世の中は一つ一つの問題が独立して存在するわけでない。
全ての事がお互いにリンクしている。
そういう意味でグロ−バル化している、だからそれを全部知ったうえでないと本当のことは書けないのであるが、私のは自分の考え、自分の思考のみが書きつらねてある。
事の善悪とは次元が違う。
正しいとか、正しくないという問題ではなく、私自身が思った事、思い付いた事を書いただけで、その中には間違ったことや、間違った認識も当然まぎれこんでいる。
間違った認識は何時でも改めるつもりである。
第一、TVを見ていても、知らなかったこと、間違って思い込んでいた事というのは幾つでもある。
自分の書いたものが正しいなどとは、微塵も思っていない。
自分以外の物は全部先生であるという、古人の話があるが全くそれと同じである。
この間違っているかもしれない意見を、臆面もなく書くというところが、これが遊びだと言う所以である。