湾岸戦争を考察する

 

 

日本人の判官贔屓

 

1991年(平成3年)2月27日現在、クエ−トに昨年1990年(平成2年)8月2日に侵攻したイラクが撤退した。

撤退したというよりも敗北して遁走したといった方がいいかもしれない。

アメリカを中心とした多国籍軍に追いやられたといった方がいいかもしれない。

どんな素人目に見てもイラクとアメリカが戦争して、イラクに勝ち目はないことは一目瞭然である。

並みの常識ならば当然の帰結である。

イラクのサダム・フセインというのはこの普遍的な常識が分からなかったのだろうか。

少なくとも一国の指導者ともなれば、クエ−トに侵攻するときから、こんなことは当然承知しているべきことである。

それを敢えて行なったということは、我々の普通の常識の枠を越えた行為で、全く理解に苦しむ。

サダム・フセインの行為が世界中の並みの常識を越えているが故に、世界各国はイラクをこぞって非難したわけである。

サダム・フセインの考える事は常識の枠を越えているにもかかわらず、そのやることは我々の常識からすると実に悪賢い。

いくら敵対関係にあるとは言え、我々では想像もつかない盲点をついてくる。

日本国民がこのサダム・フセインを眺めるとき実に半数近くの人間がこの悪魔のような人間を養護するような発言をしている。

今回の湾岸戦争に対してアメリカをはじめとする多国籍軍の行動を非難する発言がそうである。

サダム・フセインの行動を是認しておいて、アメリカの軍事行動のみを非難している。

話し合いで解決せよだとか、もう少し時間を掛けてやればいいとか、全くナンセンスなことを声高に叫んでいる。

自衛隊が避難民の輸送にいくのがいけないといってデモをしている。

あのサダム・フセインに匹敵する程の非常識が日本人の中で罷り通っている。

反戦平和運動を行なうならばイラク大使館の前でデモをやるべきだ。

湾岸戦争の元凶はサダム・フセイン一人に掛かっているので、サダム・フセインがクエ−トに侵攻、併合したから今回の戦争が勃発したのであって、イラクがクエ−トから撤退すれば何一つ難しい問題は起こり得なかったわけである。

国連でもイラクはクエ−トから出るようにという結論が出ているわけであって、それさえ実行されれば戦争は起こらなかった筈である。

そのことをアメリカを始め西洋各国もソ連も世界中の大半以上の主権国家が言っていることである。

日本の社会党も共産党もそこまでは認識が一致している。

そしてそれを是正させる手段となると反対となる。

アメリカのやることには反対を唱える。

ならば他に方法があるかというと、話せば分かるとか、合意を得なければとか、時間を掛ければとか、とにかく軍事力はいけないとか、これでは事態の解決にはならない。

ただサダム・フセインを喜ばせるのみである。

90億ドルはいけないとか、非難民の輸送は民間でやれとか、これでは主権国家の自覚に欠けている。

主権を放棄しているにも等しいようなことを言っている。

今、地球上には150ヵ国以上の主権国家がある。

正確には数えたことがないので分からないが、この150の中でも大きなものはアメリカ、ソ連を始めとする超大国から、イギリス、フランス、ドイツ等あるがこの150ヵ国の中でも日本は経済力では1番なのである。

アメリカと並んで1番2番を競っている。ソ連などはとうの昔に追い越しているのである。しかし、軍事力では今並べた順で7番目か8番目である。

これだけの経済力と軍事力を持った主権国家、しかも国連中心主義を自認している主権国家が、このサダム・フセインの悪業に対して一兵も提供しない。ただ金だけ出す。これで世界の秩序の維持と安寧に対して貢献しているといえるであろうか?

国連を中心とする国連中心外交に貢献しているといえるであろうか?

アメリカを始めとする西欧先進国の政治家、特に首脳者は一応学識も理性、知性も有ると思われるので、表向きは日本国憲法の第9条に規定された戦争放棄の成立から、現在の履行に至までのことに理解を示している。

日本は憲法に縛られて軍事面の協力は出来ないということを理解している。

しかし、それでもその国の国民レベルでは案外そうでもないかもしれない。

中東紛争は日本にとってはアキレス健になっているのは紛れもない事実である。

アメリカ人から見れば、日本の石油のために何故アメリカ人の青年が血を流さなければならないのか、という疑問は当然出てくるであろう。

何故日本は金だけ出して軍隊を出さないのかという疑問は当然だと思う。

 

日本は前の大戦の反省から憲法9条で戦争を放棄している。

しかし、これは終戦直後の国力の弱いときならいざ知らず、経済力が世界No1になっても軍隊は有りません、自衛隊だけですといっても世界では通用しないことだと思う。

自衛隊も実質は軍隊であるが、軍隊でありながら災害派遣も出来ず、避難民の輸送も出来ない軍隊では、世界の人々は理解に苦しむことと思う。

大体憲法9条の存在そのものが世界の人々にとっては珍奇な存在に映るに違いない。

現在の日本というより、戦後の日本は軍隊とか戦争というものに非常に神経質になっている。軍隊イコ−ル悪という短連した感覚である。

戦争というものは誰しもすき好むものではない。

しかし、この世にサダム・フセインのような国家元首がいる限り、軍隊というものの存在を少しは認識したかもしれない。

サダム・フセインも我々日本の一般の国民にとっては比較的馴染みの薄い遠い国の出来事である。

石油が出るところというぐらいの認識はしていても、イラクのサダム・フセインなんて今回の紛争が起きるまでは我々は全く馴染みの薄い存在でしかなかった。

それでも国連加盟国であるクエ−トを同じ国連加盟国であるイラクが武力で侵攻、併合するという事態に対して、日本国民の認識は今一歩鈍感である。

よその国の出来事という傍観者の意識が拭い去れない。

イラクが武力でクエ−トに侵入したので、アメリカを始めとする多国籍軍は征伐いく。

この単純明快な図式が理解できない。

イラクの侵入があったのでアメリカが出るという、このアメリカが出る事のみが悪で、イラクの方の行為は不問にふされている。

これが日本の革新系の人々の感覚である。

その証拠にアメリカを批判するデモがあっても、イラクを批判するデモは聞いたことがない。この辺の日本人の感覚というのは実に不思議である。

 

中東問題というのは我々日本人にとっては確かに難しい、アラブとイスラエルの問題など何が何だか分からない。

ただ我々の知っているのは石油をここから買っているということぐらいである。

アメリカを始めとする西欧先進国が何故イラクを非難し、クエ−トからの撤退を要求するのかといえば、イラクがクエ−トを武力で併合したからである。

では何故クエ−トという小さな国が併合されただけでこれほどの軍事力を動員してまでやろうとしているのかといえば、その裏というか、その根本のところには、民主主義の養護ということがある。

この所が重要であるにもかかわらず、日本人にはこの重要な部分が理解できていない。

民主主義の養護のためには血を流しても、それに値するものがある、ということが日本人には理解し得ないところである。

イラクがクエ−トで行なったことの表面の現象としては領土の拡張であるが、つまり侵略である。

それと同時にこれは民主主義の冒涜である。

そのところが西欧先進国がイラクに憎悪をあらわにする影の部分である。

しかし、世界の常識では、今時、民主主義の擁護などということは声高に叫ばなくても、これは人間として不可欠なことであるので、表面に出てくる現象としては侵略に対する征伐という図式になるわけである。

今回の湾岸戦争で日本人の感想で一番常識的な声は、戦争が早く終わればいい、というものであったが、誰一人、サダム・フセインが早くクエ−トから出ていけばいい、言ったものはいない。

これはとりもなおさず、テレビのニュ−スが多国籍軍の側からの報道が多いせいか、アメリカが早く戦争をやめればいい、というニュアンスがあるが、日本人は頭と尾の部分のみを眺める傾向がある。

世の中には絶対悪と絶対善とがある。

日本人はこういう物の見方をしない。

悪と善の間に中間の物があるという物の見方をしがちである。

「泥棒にも3分の理」といった絶対悪というものは存在しないという考え方である。

総論賛成各論反対ということが日本人の政治の特徴である。

今回の場合でもイラクのクエ−トへの侵攻は悪い、この部分は総論にあたるが、それならばどうしようかとなったとき、アメリカは断固征伐するという各論を実行しているが、日本国民の半数以上はこの各論の部分ではアメリカのやることに不賛成である。

ではどうするのか、というと手段も方法も分からない。

よって日本政府としてはアメリカと同じ歩調を取る以外に道はなく、協力せざるをえない。アントニオ猪木代議士がイラクまで行って人質のみは返してもらったが、まあ偶然のタイミングということもあったかもしれないが結果的にはそうなった。

社会党の土井さんも送り込んでみたものの、土井たか子の話を聞くようなサダム・フセインではなかったではないか。

ならばイラクがクエ−トから撤退させるにはどうすればいいか、日本人が常識的に考えれば何ら有効な方法も手段も日本にはないことが理解できるはずである。

これは誰が見てもないものはない。

しかし、政府としては無いでは済まされないので、せめて金だけは出さうということである。しかし、社会党はこの金も駄目だといっている。

日本の石油のためだけではないが、アメリカもイギリスもフランスもサウジアラビヤなどがイラクで戦っているのに、日本のみは傍観者とも、高見の見物と決め込んでいていいものだろうか?

これで国連を中心とした国際社会の平和に貢献するといえるだろうか?

日本の常識は、世界の非常識と昔からよく云われることであるが、日本の常識では世界に通用ないかもしれないが、それでも避難民の輸送ぐらいは黙ってさっさと行くべきではないか。

多国籍軍と一緒になってF15を飛ばしたり、イ−ジス鑑を派遣することは確かにアジアの国々にいらざる思惑を与える要因になるので今一度考える方がいいだろうが、避難民の輸送と限定されている限りにおいてはもっとスム−スに派遣すべきである。

 

日本人の戦争遺棄の構図

 

日本の政治は自民党と社会党を始めとする野党に二分されている。

と言うことは大雑把に言って日本人の半分は反政府であるということである。

日本が湾岸戦争に何一つ有効な手段をもたず、仕方なくアメリカに協力することに対し、日本人の半分は反対する。

避難民の輸送に自衛隊機を出して、人道的な立場から貢献しようとすると、自衛隊機の派遣は憲法に反するから駄目だという。

社会党には今日のイラクの侵攻で難儀をしている人々を救助しなければならないという義務感も使命感もない。

こうした人達が日本人の半分もいるということを、我々は認識しなければならない。

金は出すけれど弾丸や武器の購入に使ってはいけないと、釘をさしている。

日本人は戦争とか軍備という言葉に異常な過敏さで反応する。

終戦以来身近に戦争というものが無かった。

朝鮮戦争というのがあったが、あれはアメリカ軍と中国共産党の代理戦争であった。

又、あの時点で日本は占領下であった。

それ以降というもの平和、平和といっていれば平和が満ちてくると信じていた。

戦争は悪である。

悪であるには違いないが、その悪がこの世のなかに現実に存在しているのである。

その現実には目をつむって、ただ念仏のように平和、平和と唱えていれば平和がやってくると思っている。

しかし、戦争というのは世界の何処で起きるか分からない。

中東紛争、湾岸戦争だって日本から遠く離れたところでの戦争である。

もし仮にこの地方から石油が入ってこなかったら、日本の今の生活様式は維持できないことは明らかである。

もしアメリカがアメリカには関係ない、アラブのことはアラブ人に任せるといったら、日本の石油は一挙に高騰し、入ってこないかもしれない。

その時日本人はどうしたらいいのか。

多分、社会党に代表される日本人の半分は政府を批判し、攻撃するであろう。

政府の対応が悪いといって政府を攻撃することは火を見るよりも明らかである。

海部総理大臣も大変だと思う。

アメリカがフセインと戦うのに協力したり、金を出したりしたら駄目だといわれ、アメリカが中東から手を引けば引いたで、石油は入らないか高揚して、また社会党からは悪口を言われるに違いない。

社会党を始めとする野党というのは責任がない。

どんな悪口を言っても言葉尻を捕まえて、上げ足を取られなくて済むので、悪口の言い放題である。

政府に協力する義務はないので気楽なものであろうと思う。

ただただ政府に反対していれば国会議員としての職責を果たすことになるので、こんな気楽な稼業はほかにはない。

反対する仕方によって国政の場で存在感が示される。

日本の全有権者のことも、納税者のことも、過半数をしめる自民党の立場も、日本の将来のことも一切関係ない。

有るとすれば党への忠誠のみである。

しかし、本心は今述べたとおりであるが、口から出る言葉、大衆を前に演説するときはこの本心とは裏腹に、まことに格好言い耳障りの言い民主的だとか、人権を守るだとか、有権者のためだとか、日本の将来のためだとか、住民の合意を得るだとか、そういう綺麗事ばかり羅列する。

今回の湾岸戦争においては民社党と、公明党は部分的には賛成、協力しようとする面もあったが、これは当然のことである。

本来政治というものは自民党・与党のやることは何でもかんでも反対では政治ではない。

戦争には非常に敏感である社会党も、戦闘用語を一番よく、好んで使うのも社会党である。たとえば「断固戦う」「賃金闘争」というような勇ましい戦闘用語を頻繁に使う。

かってル−ス・ベネジェクト女史が日本人論の中で「恥の文化」ということを言った。

社会党のやっていることを見ると、政府に協力することが恥ずかしいのだろうか?

アメリカに協力することが恥ずかしいのだろうか?

政府のやること、アメリカのやることを恥なければならないほど悪いことをしているのだろうか?

日本政府やアメリカのやっていることがサダム・フセインと同じような所業だろうか?

社会党から見ると案外そのように映っているのかもしれない。

政府のやること、自民党の考えていることと社会党の考えていることとの違いが存在することは理解できる。

しかしサダム・フセインに協力しなければならない程の意見の違いがどうして社会党に存在し得るのだろうか?

アメリカがサダム・フセインを倒すのに金が要るといえば素直に出してやればいいのに、と私個人としては思う。

総論賛成、各論反対の反対の部分に、社会党があまり強力に反対すると、これはサダム・フセインの廻し者ではないかと思う。

私に言わせれば「社会党は恥をしれ!」と言いたい。

政府に反対し、アメリカに反対し、結局は回り回って政府の恩典に浴し、アメリカの恩典に浴し、それでいながら審議拒否しては、国会審議を妨害している。

私はアメリカに追従することをよしとしているわけではない。

しかし、日本とアメリカは文字通り話し合いで物事が解決できる間柄である。

日本の否をアメリカが指摘し、アメリカの否を日本が指摘し、話し合いによって妥協点を探ることが可能な国同志である。

西欧の先進国は大体アメリカと同様のパ−トナ−・シップというものが確立されている。

しかし、国連という枠組みの中でこのパ−トナ−・シップというものがイラクには通用しなかったではないか。

今回の湾岸戦争に反対するデモでも、対アメリカに対してだから出来るのであって、イラクに対しては恐らく出来なかったに違いない。

これはアメリカがデモクラシ−の国であって、そうした政治活動を認める、反対意見を認める気運がアメリカサイドに有るから出来ることであって、そうでない国にやれば内政干渉と決め付けられる可能性がある。

だからデモクラシ−の国では政府に反対するデモでも可能なのである。

避難民の輸送に「自衛隊機を出すな」といって基地の周りでデモをやっている。

世界の常識ではナンセンス以外の何物でもないばかげた行為であるが、それでも許されている。

彼らはデモの出来る幸せというものを認識していないに違いない。

イラクのサダム・フセイン体制のもとであのデモ行為が許されると思っているのだろうか?前線の背後に銃殺隊を配備しているフセインが、このような示威行為に寛大な態度を取るだろうか?

 

デモクラシ−と我儘

 

日本人はデモクラシ−というものを本当には理解していないのではないかと思う。

デモクラシ−には権利と義務が表裏一体として存在するが、権利のみを主張して、義務の方は放棄してしまうきらいがある。

それと不思議なことにデモクラシ−は多数決で物事が決まるのに、多数決で決まったことにクレ−ムを付ける。

これはデモクラシ−を否定することに他ならない。

多数決で決まったことに対しては黙って従うという義務があるのに、この部分では我儘を押し通す。

又、少数意見を尊重するということもよく言われるが、これもデモクラシ−の否定につながる考え方である。

多数意見も少数意見も両方尊重していれば民主主義は行き詰まってしまう。

これでは全会一致、ファッショになってしまう。

この辺りが日本人の不可解なところである。

日本のデモクラシ−というのは市民レベルで勝ち取ったというか、自然発生的に沸き上がったというか、真から市民レベルで得たものでなく、アメリカの占領軍のマッカアサ−が上から押し付けたデモクラシ−であった。

このデモクラシ−を直接肌で受けとめた世代が今の50代より上の世代である。

この人達のカルチャ−・ショックは相当なものであったと想像する。

新生日本にデモクラシ−が接木された形で、日本に根付いたので、旧い封建主義と新しいデモクラシ−が変に融合してしまって、中途半端なものに仕上がってしまった。

その世代が次の世代を育てる際にデモクラシ−の伝達に自信を持っていなかったので、この世代もいびつなデモクラシ−を身につけてしまった。

それで日本全国津々浦々までゆがんがデモクラシ−が蔓延してしまって、権利オンリ−義務なし、のデモクラシ−が確立されてしまった。

今回の湾岸戦争で人も出さなければ、金も出したくないという社会党、共産党の主張はその端的な例である。

人も金も出したくないという理由付けのために憲法を持ち出しているが、その本心はただただ政府に反対したいということだろうと想像する。

その背景には自分達は政府に反対することのみを政治的使命と考える、自分達のグル−プの利益のみを維持できればそれで事は足りるというムラ意識の存在である。

彼等に愛国心を望むことは最初から無理であろうが、政府と協力して日本全体のために貢献しなければという意識は全く欠けている。

愛国心という言葉も、国益という言葉も今は死語になっているが、口先では国民のためとか、社会のためとか、弱者の保護とか、美辞麗句を並べているが、あの言葉は全て外交辞令と同じで、本当に言葉どおりの意味はないのである。

社会党の利益のためといえばあまりにも露骨に聞こえるので、国民とか、社会とか、弱者とか、いかにも大衆受けのする言葉にすり替えているだけである。

本質は社会党というグル−プの利益を優先に考えていると見るべきである。

これは完全にムラ意識である。日本は本質的にムラ意識から抜けきれないでいる。

これは自民党にも同じようにあるはずであるが、自民党においては党の利益イコ−ル国の利益と、いわば党益と国益がオ−バ−ラップしている。

この認識が党にも国民にも存在している。

なんとなれば自民党は政権を維持している与党であり、国政の当事者であるからだ。

日本は本質的にこのムラ意識からは抜けきれないでいる。

というのは日本人はかっては農耕民族であったので、どうしても潜在的にこのムラ意識を身につけている。

農業の場合、水の管理が重要な役割を持っており、この水を上手に管理するためには村人が一致協力しなければならず、また農作業全般にも個人の力には限界があり、協力しあって作業をしなければならない場面が多い、そのためどうしても自分達の所属する集団のためには心血を注いで貢献しなければと思い込んでいる。

しかし、自分と利害の反する者、又は自分との関係が薄いものについては極端に冷淡である。自分の所属グル−プには全幅の忠誠を尽くすが、利害が反すれば敵対する。

自分も相手も個人と個人という発想ではない。

個人同志という意識では見なくてグル−プ対グル−プという関係で見る。

潜在的にそういう意識があるところにマッカアサ−からデモクラシ−を押し付けられたので、この世代の人は個人としてもさぞかし苦しみ、当惑した事と思う。

だから権利を主張することは善で、その反対側にある義務のことはすっかり忘れてしまって、多数決で決まったことでも少数意見を尊重せよということになる。

又、世間一般が少数意見は弱者だと勝手に思い込んでしまうきらいがある。

物事全会一致で決まることはこの世の中に殆どといっていいほどありえない。

そうすると合意を作ると言い換える、本来のデモクラシ−ならば多数意見がすなわち合意であるはずである。

多数の人が合意したから、その意見に反対する少数意見が存在するのであって、あとは多数意見を採用するか、採択するかどうかのことである。

多数意見と少数意見がぶつかりあったところで100%の合意なんてありえない。

ここの所の割り切り方の曖昧なところが日本の民主主義の特徴である。

民主主義が情緒に流れている。

 

見て見ぬ振りをする我が同胞

 

日本は湾岸戦争においては難民救済の輸送機も派遣する事無く終わってしまったが、国連中心外交を今後も取り続けるとするならば、このような事態が再度起きたときに如何に対応するかという、シナリオを早急に作っておかなければならない。

というのは世界各地に災害というのがいつ起こり得るかわからない。

2〜3年前フイリッピンで大地震が起きた時、世界各国が救援隊を派遣したが日本のみは小規模な医療チ−ムを派遣したにすぎない。

こうした世界各地で起きた天災地変にも、もっと積極的に、人道的観点より早急に、タイムリ−に援助を差し伸べる方法というものを考えておくべきである。

湾岸戦争が終わってから、こうした事態に際して自衛隊とは別の組織を作るというようなことを政府は言っているが、何も自衛隊と別の組織を作らなくても自衛隊そのものを派遣できるように法律の整備のみをしておけば済むことである。

自衛隊というものがありながらそれが海外で活動することを縛っている現在の国民の意識が問題である。

救援活動ということは、当然軍事活動とは違うもののであることは世界の常識である。

救援活動と称して、軍事活動をするような事があっては困るが、日本の今の社会情勢でそんなク−デタ−のようなことが起こる可能性はない。

世界の国々からフイリッピンに救援にきたものは全て軍隊である。

軍隊であるけれどもフイリッピンにきて軍事活動をしたわけではない。

あくまで救援活動をしただけである。

軍隊が外国に出ると、即戦争をすると思い込んでいる人が余りにも多い。

湾岸戦争のケ−スで見ても、社会党を始めとして共産党を含め、日本国民の半数近くは、避難民の輸送という限定された場合でも、自衛隊を海外に出すことに反対という意見を持っている。

これで国連を中心とした世界平和にどうして貢献しようとするのだろうか?

国外の災害派遣にしても、避難民の輸送にしても、一人や二人のボランテイヤではやりようがない。

やはり組織的な訓練を受けた集団で行動しないことには、その効果が期待できない。

日本の大半の国民は軍隊の行動というものをもっと本質的に知ることが必要である。

先の大戦で戦争というものの悲惨さが骨の髄まで沁み渡ったという状況は理解できるが、「熱さに懲りてなますを吹く」と同じように、軍隊というと過敏に反応する。

これは一種の盲信である。

平和、平和と叫んでおれば平和になると思っているのと同様、全くの間違った盲信である。

あの大戦が済んで既に半世紀が過ぎようとしている。

戦争を嫌悪する気持ちは世界共通である。

我々は世界の紛争の前面に立って戦闘行為をしようといっているのではない。

戦争で被害を被っている人々を援助しよう、災害で被害を被っている人々に愛の手を差し伸べようとしているのである。

その方法として組織だったシステムが必要だから自衛隊を派遣しようとしているのであって、それをも否定するということは、国際社会で自分一人傍観者のままでおるということである。こんなことは我々が住んでいる地域社会の中でも許されることではない。

ましてや世界の平和に貢献しようとしている国際社会で通用する筈もない。

避難民輸送にしても、災害派遣にしても、強制力を持って義務付けられたものではない。

あくまでその国の善意の行為である。

出さなくても済むといえば済む、しかし、経済力では世界で一番の国がこんなこと出来るだろうか。

国際社会も我々の住んでいる身近な地域社会と同じようなものであるとするなら、こんなケ−スが地域のなかであれば周囲の人はあざけり、哄笑、馬鹿にするに違いない。

それでも本人がいいといえばそれまでで、強制することは出来ない。国際社会でも同じ事だと思う。

それでもいいといえばそれまでのことである、しかしその跳ね返りは当然有ると思わなければならない。

地域社会でも国際社会でも人間の集団であることには間違いない。

人間の集団である以上、そこに流れる人間の感情というものは同じであるはずである。

特に日本は国連を中心に国際社会において貢献すると、世界に向けて公言しているのである。江戸時代と同じ鎖国政策をしているわけではない。

日本で出来た商品は世界に向けて輸出され、爪楊枝からコンピュ−タ−まで輸入しているのである。

日本の経済というものは世界がマ−ケットになっている。

そういう状況の中で地震があっても、戦争があっても、我一人算盤勘定のみしていていいものだろうか。

軍隊というもの、戦争というもの、人が武器を持って戦わなければならない状況というものをもう一度冷静に考える必要がある。

外国への援助ということも、金だけでは片手落ちのこともあるということを、冷静に検証する必要がある。

ただ感情的に外国に自衛隊を出すことは即侵略につながるなどという小児的な狭い考え方に縛られる事無く、国際社会に貢献するということはどういうことかということを深く考察する必要がある。

 

「付和雷同」

 

日本には古来、「不和雷同」という言葉がある。

自分のはっきりした意見を持たず、人の意見に簡単に賛同してしまうことを言う言葉である。こういう言葉が昔から存在していたところを見ると、日本人としての特質を的確に表現しているのかもしれない。

そういう見識に立って日本のデモクラシ−を眺めてみると案外、的を射ている様な気がする。

先にル−ス・ベネジェクト女史が「菊と刀」で、日本人の文化は、恥の文化だと述べたが、確かにそのように見える面もある。

あの時は作者が日本人の捕虜から日本人全体を考察したので「恥」ということが全面に出てきたように思う。

あの時の恥というのは当時の日本の風潮として、「生きて辱めを受けるな」という概念が社会全般というか、軍隊内部に浸透していたため、日本人を考察するにあたって、この戦争捕虜を参考にしたことにより、あの名著が生まれたことは認めざるを得ない。

が、必ずしも日本全般には当てはまらない。

しかし、恥ということは軍隊ばかりでなく、広く一般にも日本文化の大きな要因になっている事は否めない。

けれども、恥というのは一種の概念であって、一つの社会的風潮であるはずである。

恥の概念というのも時代の推移とともに変化している。

ル−ス・ベネジェクトが日本人を考察したときの軍人は「生きて捕虜の辱め」というのが死より恐ろしい恥であったに違いない。

しかし、日本人全体ではもっと色々な恥があったように思う。

特に顕著な例は、義理を欠くことを非常に恥と思う人は今日でも非常に多い。

これは冠婚葬祭の場合など特に強調される。

とにかく恥というものは日本人の生活を大きく規制していることは事実である。

例えば、子供を諫めるとき「中学生として恥ずかしくないか!」とか、「こんな成績で恥ずかしくないか!」とかいう風に使われる。

このような例は社会人になっても、日常の生活のなかでは極当たり前の使われ方をしている。やはり恥の文化かもしれない。

付和雷同も、付和雷同していれば恥をかかなくても済む。

大勢の人々の言っていることに、「そうだそうだ」と言っている間は安泰に身が処せる。

実にイ−ジ−な生き方である。又、それこそが世論を形成している。

これを国家レベルで考えたとき、世論の言う通りに政府が政策を実行したら、一見、民主国家の典型的なモデルになりうるように見える。

しかし、世論というものは何時も正しいとは限らない。

日本の近代の歴史を見ると世論の方が政府より好戦的であったり、侵略的であったりしたことが結構有るわけで、第二次世界大戦の直前の日本の国民の世論というのは、政府よりも一歩も二歩も好戦的、かつ侵略的であった事と思う。

ただ、世論というのは責任がないので、もし結果が悪いときは、これは政府の責任としてすり替えられて、それで事が済んでしまう。

そして悪いことは全て政府がやった、軍隊がやったという風になってしまう。

政府は当事者として世論をバックに動かなければならない。

結果のよいときは当たり前のように世論はその努力を無視しながら恩典だけには浴している。世論をバックに行動した施策の結果が悪いときは、世論の良い攻撃材料になり後世の歴史になって語りつがれる。

世の中の歴史家は、この当事者である側の歴史は克明に調べるが、世論の側の歴史を調べる人は余りいない。

 

マスコミの功罪

 

この世論を形成しているのはその殆どがマスコミである。

現代においてはこのマス・メデイアが非常に発達しているので、いろいろな意見が出てくるのは当然であるが、この様にマス・メデイアが発達していなかった、昭和15〜16年頃は世論の形成といってもそれは新聞と雑誌とNHKのラジオぐらいしかなかったと思う。

当時はマス、一般大衆を対象としたものはこの三つしかなかったといってもいいと思う。

マス・メデイアの発達は民主主義の発達と同一歩調であったといってもいいのではないかと思う。

しかし、この昭和15〜16年のマス・メデイアでも世論の形成として立派に通用するものと想像する。

マス・メデイアとしては今から較べれば貧弱であったかもしれないが、しかし、大衆の方でも情報に接しても理解できない人、つまり字の読めない人が相当いたと想像出来るので、世論形成にはそれなりに充分であったと思う。

昨今のようにマス・メデイアがこれだけ発達しても、メデイアというのはある程度操作することが出来るものである、ということを我々はよくよく肝に命じて、メデイアに接しなければならない。

メデイアというのは情報の全部を大衆に届けることは出来ない。

この点は恐らく21世紀になっても変わらないと思う。

又、真実を全部報道するわけでもない。この点も恐らく同様である。

メデイアにとって都合のいい情報、ないしは真実の一部を報道しているにすぎない。

これはこれから先も変わらないことと思う。

又、一般大衆にとっても情報の全部は必要でなく、事実の全部を知る必要もない。

大衆もメデイアから送られてくるものを全部受け取っているわけではない。

自分の好きなもの、自分の都合にいいものだけを選択して受け取っているわけである。

メデイアの側も自分の都合のいいものだけを送り、受け取る側も自分の都合のいいものだけを選択して受けとめているとなると、人間は何を基準に判断しているのであろうか。

個人的には各個人の価値観に基づいていると想像するが、基本的には量の多い情報を信用するというか、自分の考えをオ−バ−ラップさせるというか、量の多い情報なら納得するというか、情報の量が世論を形成するということになってしまう。

そうすると世論というのは国民の意志ではなくてマス・メデイアの考えになってしまっている。

湾岸戦争に90億ドル出す出さないということでも、マス・メデイアはこぞって報道しているが、その中でもテレビの映像というのは、その写っている場面、シ−ンのみは紛れもない真実である。

しかし、この真実も実像と虚像のバランスというのは報道をする側の裁量でどのようにでも加減できる。

又、真実と思わせるようなヤラセということもあり得る。

要するに報道する側はいくらでも操作できるということである。

まして、活字を媒体とするマス・メデイアにおいてはテレビ以上に情報操作は容易である。最近のようにマス・メデイアにはどうしても一般大衆よりも知識の豊富な人間が多数集まるので、賛否両論を載せて、ちゃんと反対意見の配慮も怠りなくやっている点が如才無いというか賢いというか、それでいて世論を上手にコントロ−ルしていこうという衣の下の甲冑が見え隠れするところが心憎い。

マスコミは自らを「無冠の帝王」と称してはばからないが、帝王と思い上がっているところに民主主義の危機が潜んでいる。

一方では世論といいながら、その実マスコミの主張に他ならない。

世論、世論、国民の声といいながら、マスコミ自体の声を国民の声のようにすり替えているきらいがある。

一般大衆は本当の意味で、やはり声なき声であって、声を出したとたん、その時点からマスコミに迎合するか、マスコミに上手に利用されるかのどちらかである。

一国の政治というのは本来は、政治家、少なくとも現在の日本においては国民から選挙で選出された代議士が行なうべきで、この代議士というのはマスコミ受けのする主張をしなければ代議士にもなり得ない。

代議士にならないことには、日本の国政に参画することすら出来ない。

だからマスコミ受けを良くするためには自民党も、社会党も、共産党も、公明党も、民社党も全て同一のスロ−ガンにならざるをえない。

民主的、平和的、福祉と、同じ題目を並べざるをえない。

最近の日本においては、憲法を改正せよとか、国防にもっと力を入れよとか、湾岸戦争に派兵せよなどという極端に個性の強い政策を掲げる事は政治として成り立たない。

そのことの善し悪しは別として、平和を掲げ、福祉を掲げ、話し合いの精神というものを旗印にしないことには政党をも結成できない。

ましてや、こんな項目の政治指針を掲げたら政治家としてさえ存在し得ない。

つまり代議士として選挙民の支持も得られないということである。

だから自民党から共産党まで同じような選挙スロ−ガンになってしまう。

これは世論を形成する国民の側にも大いに責任がある。

選挙が政策によって争われるのではなく、その政党の支持母体、支持団体の争いにすり変わっているからである。

国政に直接参加し得る代議士、国会議員の選挙が支持団体の利益代表の勢力拡張にすり変わっていることに原因がある。

 

政治の貧困

 

国政レベルに目を向けてみても、自民党は与党である手前というよりも、一応は日本国民の過半数の意見を代表しているという認識があるかどうかはさて於いて、日本全体として物を見、将来を見ているようであるが、野党の方は日本全体のことなどまるで眼中にない。

とにかく自民党が政権を取っていること自体に腹を立てているみたいで、まるで感情論でしかない。

言葉のうえでは日本国民とか、有権者の利益のことを考えて発言しているようなポ−ズを取ってはいるものの、所詮は自分たちの党のPRをしているにすぎない。

自分達の存在感をアピ−ルしているにすぎない。

審議拒否を武器に一生懸命政治に参加しているのだというポ−ズを取っているだけである。

この審議拒否というのは完全に民主主義を否定するものである。

第二次世界大戦前、軍部が大臣を出すことを拒否して組閣が出来ないようにしたのと同じ発想、同じ思考である。

それを民主主義を旗印にしながら自分達で昔の轍を踏んでいる。

国政の場で国民から選挙された国会議員が審議を拒否するなんてことは許されるべきことではない。

与党の政策が気に入らないといっては審議を拒否したり、自民党の発言が適切ではなかったといっては審議を拒否したりするなんてことはもっての他である。

こういうことは民主主義を冒涜する行為である。

民主主義は話し合いが基本になっている。これは与野党が同じように言っていることであるにもかかわらず、野党がこのテを使うということに国民はもっと怒りを表明しなければいけないと思う。

一つの法案を作ろうとする、これには当然与党の中でも賛否両論が有るのがあたりまえだけれど、やはり民主主義のル−ルに則って数が多ければ、最大多数の最大幸福のために法案を作った方がいいと考える人が多ければそうするのが民主主義の道理である。

この賛否両論は野党の中でも当然有るはずである。

全ての野党、社会党、共産党、公明党、民社党の中にも賛成、反対有るのが当然である。

各党の全部が日本の将来、又は現実に直面していることに誠心誠意解決しようとしたら、野党の中からもその法案に賛成する人がいて当然である。

それが自民党のやることは何でも、何時でも、どんな理由でも反対では、それはもう政治を愚弄しているとしかいいようがない。

今日(1991年)の湾岸戦争における90億ドル供出の件や、自衛隊機の派遣の問題では政府のやることに、条件付ではあるが賛意を表明した公明党、民社党は立派とは言えないまでも、ああいった態度でまともな野党の姿だと思う。

それに較べ社会党の態度はいつまでも経っても幼稚じみた我儘というか、ゴネ屋の態度である。

道路を作るのに周囲が協力して立退を承諾したのに、何時まで経っても訳の分からぬ理由を申し立ててゴネている人間と同じである。

口では民主主義を唱え、有権者の声を声高に叫びながら、自分では市民の足を引っ張り、有権者に迷惑を掛けているのに気が付かない。

ここには国益という認識に欠けている。

国益という言葉は今の日本では死語になっているが、言い換えれば日本の一般的な社会全般を示す言葉である筈である。

かっては帝国主義華やかな時代に盛んに使われた言葉であるので、民主主義の世の中になるといかにも侵略主義的な印象がしないでもないが、日本の社会全体の利益という意味では、国益という言葉がやはりベタ−ではないかと思う。

日本社会党には国益という認識は全く存在せず、ただ党益有るのみである。

党益は即ちその支持母体である労働団体、労働組織へのジェスチャ−にすぎない。

労働組合の組織というのがこれ又代議士の選挙と同じで、選挙で選出される関係上、本音と裏腹に綺麗事を並べないと成り立たない仕組みになっている。

文字どおり美辞麗句の陳列をしないことには選出されない。

そういう事をしない以上組合活動にも参加しえない構造になっている。

党益を尊重するということはやはり一つのムラ意識の発露であろうと思う。

全体のことよりも自分達さえ良ければいいという発想である。

日本人の本質的な深層心理の中にはやはり恥の文化とムラ意識というものは綿々と存在し続けている。

民主主義を標榜しながら結局は自分達のグル−プの利益や、地域への利益になってしまっている。

この感覚が薄れてくると、あの大戦前夜の沈黙した大衆となってしまう。

ムラ意識で以て、世間に大きな声で不満をぶつけられる間は民主主義としては安泰であるが、その声が小さくなってくるとこれはファッショになってしまう。

世界大戦前に日本人がファッショ化していった過程は色々な要因があり、それぞれ難しい因果関係が有ると思うが、一言で言えばまだまだ民主主義が幼稚だったということだろうと思う。

封建主義から民主主義へ移行する途中であって、一般大衆というものが権力に対抗する手段を持ち得なかった過程であったためと思う。

大雑把な見方をすればこういえるのではないかと思うが、この戦争責任を天皇や軍のせいにすり替えてマスコミが自分達の責任を転嫁しようとしている点が我慢ならない。

国政の当事者としては確かに責任の一端は有ることは解る。

しかし、この国政そのものが世論をバックに動いており、世論を形成しているのがマスコミである。

「無冠の帝王」が世論形成しているのである。

その事実を忘れてしまって、いかにも為政者ばかりに責任を転嫁しているところが納得できない。

あの当時は今よりもマスコミが発達していなく、未熟であったことは理解できる。

しかし、それは今から較べれば未熟であったというだけで、あの当時においてもそれなりに最新の情報を一般大衆に報道し、当時の最高の知識人が執筆していたことに違いないと思う。新聞、雑誌を始めとする活字の媒体は、その当時の時点で最高のオピニオン・リ−ダ−であったことは疑う余地がない。

こうしたオピニオン・リ−ダ−が2・26事件をあおり、満州国建国を祝し、真珠湾攻撃を誉めたたえておいて、戦争責任を回避しようとしても私個人としては許せない気持ちである。代議士を始めとする政治家が全て善良な政治家であるというつもりはない。

ロッキ−ド事件の田中角栄、リクル−トの藤波代議士など、その外にも新聞紙上で批判されてしかるべき人物もいる事は確かである。

しかし、こうした事件において手を下した政治家が悪いことは論を待たないが、この人たちを選出した選挙民は本当に気の毒だと思う。

「俺達の先生が・・・何と・・・」という気持ちだろうと思う。

しかし、こうした人達がああいった事件の後で政治生命が断たれるかというと、案外そうでもない。

事件が発覚しても再び地域代表として在り続ける。

こうした事実は、政治家が悪いのは当然としても、選出した選挙民もそれと同様に悪いとしなければならない。

しかし、地域の代表として変わる人がいないとなると再度選出せざるをえない。

ここに現代の日本の民主主義の限界があるような気がする。

これはとりもなおさず選挙民のムラ意識そのものである。

自分達の地域さえしっかりすれば日本全体のこと、日本の政治のこと、政治の倫理のことなど一切関係がないという端的な例である。

マスコミは、こういう政治家個人は大々的に攻撃するけれども、そのバックにいる地域民のことはあまり攻撃しない。

ここでもマスコミはよい子面をしている。

政治家にも政治家としての倫理が必要なのは当然であるが、国民にも、有権者にも、政治に対する倫理というものは当然あって然るべきである。

45年前、日本が戦争に敗れ、進駐軍がジ−プに乗って日本を席巻した。

進駐軍はジ−プのシ−トにあのスマ−トな足を窮屈そうに折り曲げて、ピカピカに磨き上げた編み上げ靴をステップに掛けてチュウインガムを噛みながらにこにこ笑いながらやってきた。

敗戦当時、我々子供だったものは、つぎはぎだらけの服を着て彼らによってたかって手を出して、チュウインガムやチョコレ−トに有り付こうと、彼らGIに群がったものである。

まるで乞食と同じである。

まああの当時は日本全国が乞食のような生活であったので恥ずかしいとも、何とも思っていなかったが、最近ふとテレビを見ていると、あれと同じ光景だなあと思うシ−ンが在るのに気が付いた。

乞食の大群である。

45年前の光景とオ−バ−ラップして映っている。

今の若い世代は45年前の光景を知らないので違和感はないかもしれないが、我々のような世代の者にとっては瞼から消し去ることは出来ない屈辱のシ−ンである。

その再現のシ−ンというのは、閣僚に群がる新聞社の取材記者の群れが、45年前進駐軍に群がった子供の群れと同じである。

彼らは情報乞食である。

この情報乞食は何も閣僚ばかりでなく、その時その時のニュ−スのキ−パ−ソンに対しては乞食の物もらいと同じ光景を呈している。

衣服こそ乞食の姿ではないにしてもやっている行為、その動機は45年前の光景と全く同一である。

 

新生日本

 

昭和20年、1945年、日本は世界大戦に敗れ新生日本として生まれ変わった。

この時アメリカは、民主主義、デモクラシ−というものを日本に押しつけたと言うべきか、もたらしたと言うべきか、とにかくアメリカの影響でそれ以降というもの日本にデモクラシ−と言うものが定着した。

それ以前にも日本には大正デモクラシ−として自由民権運動というものが存在したけれど、再度、デモクラシ−という大波が押し寄せた。

この時対応した人は大変な困難を味わったに違いない。

この時教育制度も大幅に変更させられた。

大学制にしても、教科書選定問題にしてもそうであるが、同じ時ドイツも敗戦により日本と同じような処遇であったにもかかわらず、ドイツでは日本と同じように何もかも変わったわけではないときいている。

やはりドイツと日本では同じ敗戦でもその対処の仕方が違っていたようである。

ドイツ人というのは戦勝国にとっても同じ仲間という意識があったのかどうか知らないが、日本とは対応が違っていたようだ。

戦勝国側から見てもドイツ人というのはイギリス、フランスにとっても身近な国であるということに変わりはない。

戦争で敵味方に別れたというものの、アメリカ人の中にはドイツ系の人間も多数いることであり、イギリス、フランスにしても昔から行ったり来たりし、征服したりされたりしたりで、主義主張は違ていたというものの日本に対するほどの違和感は無かったはずである。

そこにいくと日本は戦勝国にとっては全く異質な民族、異質な国民に写ったに違いない。

そこにもってきてベネジェクト女史の言うところの「恥の文化」である。

昨日までの徹底坑戦が、天皇陛下の玉音放送一つで全く従順な僕になってしまったのでマッカアサ−もさぞかしびっくりしたことだろうと思う。

それにしてもマッカアサ−という男も肝っ玉の座った、見上げた男だ。

あの厚木基地に降り立ったとき、丸腰で飛行機から降りたということは、やはり並みの軍人では出来ないことだと思う。

しかし、日本の昭和天皇もマッカアサ−に引けを取らないほど肝っ玉が座っていたといってもいいと思う。

マッカアサ−と天皇が二人並んだ写真があまりにも有名であるが、戦後も世界各地で数えきれないほどの戦争が起こっているが、大半の為政者は逃亡、亡命、国民や腹心の部下を打ち捨てて、自分一人助かろうとしている。

元のフイリッピン大統領マルコス、イランのパ−レビ国王、ル−マニヤのチャウシエスク等、又、今日の湾岸戦争でもイラクのサダム・フセインは亡命を画策している。

このように戦争に際して世界の為政者は自分一人だけでも生き延びようと画策するが、昭和天皇は逃げも隠れもしなかった。

あからさまな助命もしなかった。

ただ当時は進駐軍としては、戦後の日本の安定のために天皇を利用した方がスム−スに行なえるという認識はあったに違いない。

つまり天皇の戦争責任を追求すれば日本人の中で再度内乱状態になるという可能性のことを示唆している。

天皇さえ存在しておれば日本人は従順であると進駐軍は考えていたということである。

天皇自身もそれは承知しており、そうした意味でも助命ということはあったかもしれない。命乞いというような単純なものではなかっただろうと想像する。

しかし、日本民族として見るとき、あの終戦ショックは文字通り新生日本の誕生であった。それまでの鬼畜米英が一夜にして救世主になってしまったのである。

「恥の文化」どころではない、「恥も外聞もない文化」であった。

そういえば戦後の日本は「恥も外聞もない文化」と言い換えなければならない。

戦後の日本は厳密に言えば文化とは言えないかもしれないが、政治、経済などの組織のトップが犯す悪業というのは「恥の文化」が有れば起こり得ないことである。

ロッキ−ド事件、リクル−ト事件、各企業の放蕩経営など、儒教思想に基づく倫理感があれば起こり得ない事である。

恥も外聞もかなぐり捨てて金に走ったとしかいいようがない。

この新生日本が生まれ変わったとき、その時、時代を担っていた世代、当時の20代から30代ぐらいの人々、今存命しておれば65才より上の世代、丁度年金受給対象者達であるがこの人達がこのデモクラシ−のカルチャ−ショックに上手に対応仕切れなかったところに、今日の世相を形づくる要因が潜んでいるような気がする。

民主主義の権利と義務のはき違えなどがそうである。

自分の権利は主張しなければ損だということで、権利の主張は声高にしているが、その裏側にある義務の方はすっかり忘れてしまっている。乃至は故意に無視する。

 

日本人の戦争感

 

戦後の日本で特におかしいと思われることは戦争というものに対する認識と、人権というものに対する認識である。

この二つは特に大衆受けするテ−マであるせいか、全ての人が綺麗事のみを強調している。綺麗事の裏側にというよりも、その隣り合わせに本音のどろどろした人間の本質をえぐらざるをえない汚い部分があり、それから目をそらそうとする。

最近、未来学者のアルビン・トフラ−が近未来を予測するキ−ワ−ドに、暴力と知識と金をあげているが、この暴力というのは戦争のことを言っているのである。

最近の日本人は戦争ということになると徳川時代の鎖国状態のような政策をよしとしている。たまたま日本は周囲を海で囲まれているので、日本だけ平和憲法を掲げて井戸の中の蛙を決め込んでいられるが、これがお互いに国境というもので仕切られた国同志ならば、とてもではないが、日本憲法のような独り善がりな憲法では済まされない事と思う。

終戦の前までは鬼畜米英といって竹槍で訓練していたものが、マッカアサ−が第一生命ビルに入ってGHQを設置した時点から、ころりと引っ繰り返って、GHQに追従というより、完全服従して、この変わり身の早さと、完璧さといったら、日本人の順応性というべきか、節操の無さというべきか、その反面日本国憲法のように、こうした状況下で制定されたものを、時代に合わせて手直ししようということには頑迷に抵抗し続ける、という国民性はどのように解釈したらいいのだろうか? 

現在の日本の憲法が平和を願う平和憲法であることには間違いないが、あの憲法が世界で通用すると考えることは少々幼稚じみた発想である。

日本人が平和を願う事は日本人の自由であるが、世界の人々も日本人と同じように考え、同じような発想をすると思い込むことは、極めて危険なことである。

こうした視野の狭い発想にいつまでも束縛されていると、かえって世界の誤解を招く。

今回の湾岸戦争においても、世界中が日本の動きを注目していたに違いない。

日本では非常識かなと思われるようなことが世界では常識になっているということを我々は忘れてはいけない。

終戦直後のことを云えば、日本全国津津裏裏まで、まず第一に食べることが大事であった事は事実であった。

イデオロギ−も倫理も有ったものではない。恥も外聞もあったものではない。

しかし、現在はそれから半世紀過ぎている。今の日本は世界一豊かな国である。

民主主義は国民の間に完全に浸透し、人権もそれなりに保障されており、福祉も、年金もそれなりに充実している。

この日本が世界一豊かになった時点で、日本はもう一度半世紀前の日本国憲法をじっくりと見直すべきであると思う。

国連中心主義の外交政策は誠に結構である。

国連の決議というものは世界150ヵ国の参加のもと、一応民主的なル−ルにより決められていることである。

しかし、この国連参加国が150以上ある中でもアメリカ、ソ連、その他2〜3のヨ−ロッパの諸国と日本を始めとするアジアの2〜3の国は突出している。

国連を中心に平和維持活動しようとしても、どうしてもアメリカ、ソ連を中心にせざるをえない。

又、国連という寄り合い所帯であるが故のジレンマも同時に合わせ持っている。

その穴埋めにはどうしてもアメリカを中心にしなければならない面がある。

その第一が国連軍という組織である。

国連それ自体では軍備を持っていないので、それに代替するものとなるとどうしてもアメリカということになってしまう。

そういう限られた国連というものであっても、日本が国連加盟国の一員としてやっていこうとする場合、やはり国連から要請があれば金も人も出す腹構えが必要である。

この時、日本国憲法を盾に人の派遣だけを断るようでは、これは日本の我儘としか映らない。国連加盟の他の国から見れば、あれだけの経済大国になったのにどうして兵隊の一人も出すことを拒むのか理解に苦しむのが当然だと思う。

日本国内においては自衛隊といっているが、これなども外国人から見れば完全に軍隊である。陸上自衛隊はイコ−ル陸軍である。海上自衛隊は海軍そのものである。陸軍も海軍もありながらどうして中東に1兵も出せないのか不思議に思っているに違いない。

他の国連加盟国にとっては日本国憲法の第9条なんてものは何ら問題ではない。

第一主権国家が戦争を放棄するという認識すら理解されないことと思う。

日本は地理的に海に囲まれているので今までこれで済まされてきたが、イラク、クエ−ト、イラン、イスラエル等中東に存在する主権国家で戦争放棄などという概念そのものが存在し得ない。

中東ばかりでなく地球上に存在する日本を除くすべての地域において主権国家が戦争を放棄するという概念は理解されないと思う。

 

憲法第9条について

 

この9条の条文も憲法を制定する際にはアメリカ軍、乃至は進駐軍はそこまでしなくてもいいというものを、日本の官僚が無理に頼み込んで制定したと、私の雑学では記憶しているが、正確なことは定かでない。

終戦という敗北を味わった日本の官僚は、軍の横暴に懲りて、そこまで過剰に反応したという、当時の状況は理解できるが、その後朝鮮戦争が始まると駐留米軍の穴埋めに保安隊が結成された。

これはGHQという上からの命令であったのでウンもスンもなかった。

所詮占領下の出来事であったので抵抗の仕様もなかった。

その際憲法の方をそのままにしておいたので今日憲法解釈が妙ちくりんになっているのである。

日本の国防を考えるときにはどうしても憲法9条との関係が問題にされるが、その9条をなんとかしない限り何時まで経っても無理な解釈をし続けなければならない。

終戦という我々国民が食うや食わずの時代に制定された憲法である。

朝鮮半島ではアメリカ軍と中国共産党が38度線を挟んで戦争をし、中国共産党は帝国主義打倒を叫び、ベトナムはフランスから独立をしようかしまいかという、民族主義が芽生えた頃に出来た憲法である。

日本が世界一豊かになるとはこの憲法が制定された当時は想像も出来なかった。

戦後の半世紀の推移は徳川時代の300年間の推移よりももっと劇的で、大きな振幅の変化である。

そういうことを考慮すれば、その当時食うや食わずの時代のものを今も後生大事にしていること自体が時代にマッチしていない。

そういう意味で我々は日本国憲法を今一度見直すべきである。

軍隊というとすぐ連想ゲ−ム的に、侵略、戦争と結びつけて日本人は考えるが、軍隊というのは政治の道具の一つである。

警察というのは国の治安維持に対する道具であると同様対外的な政治的道具である。

陸上自衛隊も災害対策では活躍しているが、これが外国で起きた災害の救援、援助となると海外派兵反対となる。

これは外国における日本政府の政治的道具の使用を自ら拒絶するということになる。

こんな小児的な発想で国政を語ってもらっては、それこそ国際関係の中では日本の我儘としかいいようがない。

今回の湾岸戦争においても避難民の輸送という事でさえ、海外派兵だから反対といっている。全くばかげた発想である。

鉄砲を持っていくかどうかで議論が沸き立っていた。

こうした発想は全くものを知らない証左で平和ぼけといわれてもし方がない。

戦後半世紀というもの我々は戦争というものを身近に体験せず、ただただ経済的な栄華の中で言いたい放題ものだけは言いつづけてきたが、今回のように石油の産地でサダム・フセインのような政治的指導者が存在したということを考えると、戦争というものをもっともっと研究しなければならない。

戦争は政治の手段である、ということを考え直す時期にきている。

これは戦争を肯定するものではないが、日本一国が平和を唱えていても、戦争の影響からは免れないという意味で世界の情勢を冷静に見つめ直すという意味である。

我々は国防というと自衛隊の予算とか、装備の面に目が行ってしまいがちであるが、災害援助を始め、シ−レ−ンの防衛とか、民族紛争の動向とか、原材料の輸入先、輸出先の政治的動向というものを戦争というフイルタ−を通して眺めてみる必要があると思う。

日本人は戦争というとすぐ侵略と結びつけてしまうが、ソ連では軍隊が自国の国民に向けて銃を射ち、イラクにおいてもサダム・フセインが敗北してからというもの大統領警護隊はイラクの国民に向けて殺戮を行なっている。

軍隊がその国の国民に向けて発砲することは世界中で起きている。

これは政治が悪いことの証拠で、軍隊というものが政治的道具であることの証拠であるが、その使われ方が間違った例である。

アメリカはサダム・フセインに対して50万人の軍隊を動員している。

戦争というのは嫌だとか、早く終わればいいと、言っているだけでは平和はやってこない。時には戦争を早く終わらせるための武力行使というのも存在する。

過去においては全ての戦争が正義のための戦争である。

侵略のための戦争というのはこの世に存在しない。

過去の戦争は全て正義の戦争であった。

ただこの正義が問題であって、正義のための戦争が終わってみると侵略であったにすぎない。又、片一方では正義のつもりでも相手にとっては侵略であったに過ぎない。

戦争なんて無いに越したことはない、誰でもやりたくはない、金は掛かるし、人は死ぬし、しかし戦争を止めるには一国では出来ない。

つまり相手が止めてくれないことには戦争をやめることは出来ない。

又、日本人は物事を解決するのに話し合いですればいいとよく言うが、尤もな事である。

しかし、話し合いでは解決出来なかったのがサダム・フセインではなかったか。

今回の湾岸戦争も日本より遠く離れた地域で、アメリカがメインとなって戦われたので我々はただテレビで傍観しているだけであった。

文字どおり観戦である。

人も出さず金も色々注文をつけて渋々といった感じだし、後はテレビで観戦という、全く結構な平和な日本国家である。

この湾岸戦争の復興に通産省は民間企業にあまりがつがつ復興計画に参画するなと諫めているのにたいし、金も人も出すことに反対していた日本共産党は、いよいよ日本の出番だと、復興計画に大いに貢献せよとハッパを掛けている。

私の個人的な良心は通産省の言っていることが倫理感もあり、妥当な措置だと思う。

共産党の言っていることはあまりにも身勝手すぎる気がする。

まるで自分さえ良ければ後は野となれ山となれというのと同じで、政府公認の公の政党が臆面もなく言うことではないと思う

 

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