人類学上から
日本人が世界に存在する他の民族に較べて異質かどうかといえば、これは異質であるというべきである。
地球が誕生して、日本列島がアジア大陸から分離した時点において、その上で生活していた人類もそのままとり残されて、この時から日本人は異質になるべく運命付けられていたと考える。
南米沖合にあるガラパゴス島の生物が大陸から分離した時点から進化が止まったように、オ−ストラリア大陸の生物が他の大陸の生物と違った進化をしたのと同様、長いタイム・スパンで物を見れば日本人が他の民族と違ったとしても、何ら不思議ではない。
やはり四周を海に囲まれているということは好むと好まざるに関わらず異質の文化を発達させても何ら不思議ではない。
民族的というべきか、人種的というべきか、人間を生物の種目という観点から分類をすれば我々日本人はモンゴリアンの一種として、我々の同族はアジア大陸から、北米大陸、南米大陸、又は太平洋に点在するポリネシヤまで、世界の人種のうちでは一番数が多いのではないかと思う。
中国大陸においては現在我々が一般的に中国人と大雑把に呼び慣わしている人々がモンゴリアンかどうかは定かではないが、現在地球上でモンゴリアンが存在した地域を調べてみるとどうも近代科学にとり残された感じの地域が多い。
世界の四大文明発祥の地というのを見ても、エジプトのナイル川、チグリス・ユ−フラテス川、黄河流域、インドのガンジス河流域と見ても、モンゴリアンの住んでいた地域とは一致しない。
これは歴史的に見てモンゴリアンが文化、文明にあまり顕著な優秀性がなかったということを歴史が証明しているのではないかと想像する。
しかし、これは過去の歴史であって、これから未来のことを言っているのではなく、将来の事は分からない。
その中で日本人というのは紛れもないモンゴリアンである。
そのモンゴリアンが世界一の経済成長をしている。
あらゆる工業製品を世界各地にばらまいて、アメ−バ−的に世界発展をしようとしている。この現実を見て日本人は異質であると言わずしてどう言えばいいのだろうか?
普遍的に変わらない、どこにでも存在する他の民族と同一の民族と言えるであろうか?
しかし、人間を民族という単位でとらえるならばおそらく世界に存在する各民族はそれぞれに全て異質であるはずである。
それを地球規模で見ればこれらの民族の異質の度合いというものは、それぞれの民族の差というものは小さいはずである。
ここに日本民族を並べるとその差というものは突出してしまっている。
明らかに異質であるということが顕著に現われてしまっている。
日本民族が異質であり続けることが出来たのは、やはり地理的に四周を海に囲まれていたことによるものと想像する。
日本人が地球上の他の民族より異質であるということを意識されるようになったのは近代になって、近代文明になってからの発展ぶりによって、自他共に認識されるようになったのであって、それまで人類発祥の時代から20世紀に至までの、人類の過去の歴史の大部分のところでは異質でも何でもなく、ただ大陸から隔離されていたという事実以外の何物でもなかった。
しかし、我々日本人の特異性が花開いたのは、20世紀になってからということも日本人論をする場合重要なファクタ−だと思います。
人類発祥の時代から大陸から隔絶されていたにも関わらず、20世紀になって花開く要因というものを持ち続けながら、その素養を潜在的に、持ち続けたから今日にいたっていると想像する。
地球上には人類学的に数多くの民族、人種が存在し、又、その民族一つ一つにそれぞれの文化があった。
しかし、この文化というものは太古の昔から直線的に延び続けてきたものではない。
各民族の文化はそれぞれ栄華盛衰を繰り返し、各民族の中で文化の誕生があり、成長期があり、衰退期があったことは歴史が示している。
日本の文化も20世紀になって成長期に入ってきたように見えるが、この成長が何時まで続くかは定かでない。
いづれは衰退期入るものと思う。
そういう意味では日本のみが特殊ということは言いきれない。
しかし、この近代における日本は世界の他の民族から見れば少なからず特異性があることは認めざるを得ない。
異文化の融合
日本民族が何ゆえに他の民族と比較して特異かといえば、それは文化的には他の文化を同化吸収してしまう能力ではないかと思う。
そしてそれを従来持っていたものと融合させてしまう能力ではないかと思う。
従来、自分達が持っていた物の中に、外から新しい文化を導入した際、他の民族では新と旧が融合せずブロックとして、新しいブロックと旧いブロックとしてブロック同志が混在する。しかし、日本人の場合ブロックとして形づくらず、新しいものと古いものが融合してしまって全く別の物として生き続ける。
そこが日本人の特異性の一つの特徴である。
例えば日本に漢字が入ってきた時の状況を見てもそれが如実に現われている。
漢字が入ってくる。漢字を見本としてカタカナ、平仮名が考案される。それを今我々は平仮名と漢字を両方均等に使っている。ここでは漢字もブロック化せず、平仮名もブロック化していない。
我々の今の文化は、その両方を同じウエイトで自分の物として、漢字は外来文化であるなどとは誰一人意識せずに自分達の物としている。
宗教についても同じ事が言えると思う。
従来は神道というものの中に仏教が入ってきたが、宗教としての宗派の争い、又は宗派と為政者との間のトラブルは有ったものの、文化としてはブロック化しているとは思われない。ただ、宗派としての団結という意味ではトラブルがあったことは日本の歴史が示しているとおりである。
昨今の日本人にとって宗教というものの存在感は薄れ、自分の都合のいいように宗教を利用している。
例えば、正月には家内安全を願って神社におまいりしをし、結婚式には格好がいいからとキリスト教で挙げ、葬式は自分の宗派の仏教でとり行なうなどというのがそれである。
宗教を人間の側で利用してしまうという民族というのは世界的に見て極限られた存在だと思う。
他の民族では宗教に縛られている民族が大部分である。
縛られたというべきか、こだわっているというべきか、宗教が民族の存続を規定しているのが普遍的である。
我々の場合は、宗教を日常生活の節目節目に上手に利用して、生活にアクセントを付けている。
他の民族では宗教上のアクセントに生活のアクセントを合わせているが、我々のは生活のアクセントに宗教を利用している。
だから日常生活にアクセントを付けるための宗教であるので、ケ−ス・バイ・ケ−スでその場の都合のいいように宗教を選択して利用している。
こんな例は他民族には類がないのではないかと想像する。
最近特に日本人から見ても異質だなあと思われることが起こった。
平成3年2月 日皇太子の即位の礼の式典がそうである。
そのシ−ンをテレビで見ていたが、あの即位の礼で式典は日本古来の古式に則り、日本古来の衣装でとり行なわれた。
しかし、その後その衣装のままでイギリスの古典的と思われる馬車に乗られたシ−ンが有った。
その馬車の装備は完全なイギリス風で、馬車そのものもイギリス風なら、御者の装束まで完全なるイギリス・スタイルである。
この和洋折衷の精神というものは、まさに日本人の精神構造そのものだと思った。
このように頭脳的に柔軟な考え方、思考が通用するところが日本人の日本人たる所以を如実に示している。
あのシ−ンを見た私個人としては、日本の古式に則って式典を行なうにあたって、衣装が日本古来の物なら、乗り物もそれに合わせて然るべきものをと、考えたくなるところである。それをあのような和洋折衷の見本のような形でとり行なうという精神構造は、日本人の思考の原点だと考えるべきかもしれない。
こうした柔軟な思考が外来の文化をブロック化するのではなく融合してきたものと思う。
アジア大陸とか、ヨ−ロッパ大陸とか、南北のアメリカ大陸とか、大陸に存在する民族間においては、民族間の紛争、抗争の度に、征服した側の民族が征服された側の民族の文化というものを破壊した例が多い事は歴史が示しているが、日本の国内においては海でとり囲まれていたせいもあるが、こうした民族間の紛争、抗争というものはほとんど存在しなかった。正確には全く無かったとは言い切れない点があることは歴史が証明しているが、あの程度では民族間の存亡を掛けた紛争、闘争とは言えない。
とすれば民族間紛争はなかったというべきである。
こうした民族間紛争がなかったので、日本人というのは他の民族にから較べると、大変おおらかな民族だったといえるのではないかと想像する。
日本人がおおらかな民族であったということは宗教の導入を見てみるとよく理解できる。
宗教というものは本質的にアメ−バ−のように自己発展的要因を含んでいる。
他の宗教に対しては戦闘的、かつ排他的でありながら、自分のテリトリ−はアメ−バ−のように拡大しようという願望を持っているものである。
日本に入ってきた仏教も例外ではない。
又、後年入ってきたキリスト教にしても同様である。
それに較べ日本古来の神道はこうした戦闘的な要素も持たず、テリトリ−拡大の願望も始めから持ち合わせていない。又、特別な教典があるわけでもない。
礼拝にしても強要するものではない。
来るものは拒まず、さるものは追わずである。
神社の柏手も強要されるものではない。
ただ第二次世界大戦において軍部に利用された時期を除けば、全く有るのか無いのか分からないような存在である。
第二次世界大戦の一時期も宗教側が為政者に利用されたのであって、宗教側が為政者を利用したわけではない。
このように他の民族では宗教に束縛されているのに対し、日本人は宗教を利用する民族である。
これは日本人の精神構造が柔軟性に富んでいる証拠であろうと思う。
ここで日本の古来の文化は何であったかと再考してみると、縄文式文化というものが教科書に現われてくるが、それ以外の物となるといきなり神話の世界に入ってしまう。
ということは縄文式文化から大化の改新まで日本には文化らしい文化は何もなかったと見るべきである。
神道が文化と宗教の融合したものとして有ったとしても、これも現実の世界と空想の世界の融合であって、その境界線というものは判然と存在するものではない。
そこにいきなり中国の影響を受けた大化の改新ということが浮かび上がってくる。
ということは7世紀中頃でも既に大陸とは個人レベルでの往来は有ったのである。
そして日本の文化というものは常に大陸の影響を受けてはいても、それは物真似ではなく、日本流に修正されたものであったわけである。
戦後一時期、日本は物真似文化と、我々自身、自嘲的に語り合ったものであるが、我々のしていたことは100%の物真似ではなかったのである。
モデルは外国にあっても100%の物真似ではなく、どこかに日本流のアイデアが折り込まれていたわけである。
これが今日の日本を築いた精神的バック・ボ−ンであったに違いない。
外来の文化というものは100%物真似しようとしても、真似をする側にオリジナルと同じような基盤が無いことには100%のコピ−も不可能なことである。
ましてやそこに少しでもアイデアを折り込むとなればオリジナルと同等以上の基盤が存在していたと考えなければならない。
その点でも日本人は異質であったと言えるのではないかと思う。
7世紀頃から外国、特に大陸から細々と文化が流入してきたと見ると、大陸の文化は日本から東にはもう流れて行く先が無い。
いわば日本は大陸文化の吹き溜まりだったといってもいい。
文化をもたらした人間は、この地で日本に同化してしまう以外に無かったと思う。
日本は単一民族という概念があるが、正確には単一民族ではありえなかったと思う。
ここでも漢字や宗教と同じで人間そのものも外来のものを飲み込んでしまって、融合してしまったと見ていいのではないかと考える。
こうして、文化面のみならず、外来のものを飲み込んで融合してしまうという、こうした寛大な精神構造があるのも日本人が他の民族と比較した場合、異質であることの証左だと考える。
しかし、日本人の特質として外にも他民族に無い違いというものが有る。
モンゴリアンとしての日本人
先の第二次世界大戦において、日本はドイツ、イタリヤと連盟を組んで、アメリカ、イギリス等ABCD諸国と互角の戦いを行なった。
戦争の是非は歴史が示しており答えは非であるが、あの戦争というものを感情を抜きにして冷静に分析してみると、ドイツとイタリヤというのは人種的にはアメリカ、イギリスと極近い民族同志である。
正確な民族的な検証は専門家に任せるとして、一般論で述べればドイツ系アメリカ人、イタリヤ系アメリカ人というのが存在して、それが母国に銃を取り合って戦争するということは、我々日本人の感情からすれば気の毒とも思えるが、アメリカの独立そのものが自国民同志で戦った上で設立されたという背景を思えば、日本人が感情論で心配する程のことはないかもしれない。
しかし、黄色人種のモンゴリアンが白人を相手にアメリカと互角に戦争をしたということは、白人サイドから見れば大いなる驚異だったに違いない。
ヨ−ロッパ系の白人から見れば、モンゴリアンがあれほどの戦争をしたということは非常な驚きであったに違いない。
過去にモンゴ−ルのジンギスカンがヨ−ロッパを席巻した時以来の驚異であったに違いない。ヨ−ロッパ人から見れば、インドにしろ、中国にしろ、東南アジア諸国にしろ、かっては植民地支配をして、アジア人はヨ−ロッパ人の下に位置するものという認識が有ったところに、いきなり真珠湾はやられる、プリンス・オブ・ウエ−ルスは撃沈される、恐らく目の玉のとびでるほどの驚異だったと思う。
我々の後を追う黄色人種から見ても、白人とあれだけ戦ったということはもっと評価しても良いのではないかとおもう。
結果が敗戦ではこの評価も砂上の楼閣のなってしまったが、その後半世紀近くの間に地球上の各地で戦争が起きているが、モンゴリアンが白人とあれほど熾烈な戦いをした例はない。
ベトナム戦争ではアメリカが負けたというとらえ方が一般的であるが、アメリカが後押しをしていた南ベトナムが負けたのであって、アメリカそのものは後押しをするのを止めただけで、その割りにはアメリカは大きな犠牲を強いられたことは事実であるが、ベトナム戦争、その前の朝鮮戦争などは、大国どうしの代理戦争で日本が行なった主体性の有る戦争ではない。
戦争を美化するつもりはないが、あの第二次世界大戦は日本人の特異性を如実に示している。その要点を列挙してみると
1 開戦に至までの民族的付和雷同性 開戦前夜の雰囲気
沖縄の集団自決
2 困難に直面してお互いに足を引っ張る 兵隊同志のいじめ
陸、海軍の不仲
3 恥の文化
4 知的水準の高さ、創造性の高さ ゼロ戦の開発
5 団体戦の不味さ チ−ムワ−クの本質を理解せず
戦うことを忘れた日本人
昨今の日本人は湾岸戦争の時の対応を見ていても平和、平和と念仏のように言っている。
マスコミの論調もそれと同じである。特に若い女性というのは平和という声が高い。
悲惨な戦争、不合理な戦争、無意味な戦争と言い、平和、平和と言っている。
このマスコミの論調を見ていると、いかにも井戸の中の蛙という感じがする。
世界各国の万人が平和を願っていることが理解できていない。
誰一人戦争を好んでいる人はいない。
世界中の老若男女が平和を願っていることが分かっていない。
平和を願っているのは自分達だけだと、自分勝手に思い込んでいる。
マスコミの論調も同様である。
イラクのサダム・フセインでも戦争は望んでいない。
戦争せずに領土の拡大が出来ればこれに越したことはない。
戦争も平和も一人、または一国のみでは達成できないのである。
又、世界中の老若男女が戦争を嫌悪し、平和を望んでいることに変わりはない。
人間はこの世のなかに一人で生きているのではない。
この宇宙船地球号には159の国に区分けされ、何十億という人間が生きているのである。我々個人レベルで、周囲の人を眺めても意地の悪い人、根性の悪い人、喧嘩する人、盗人をする人、人様々な個性がある。
ましてや159もの国があれば当然その中には個人レベルと同様の人模様というべきか、国模様というものがある。
世界の国が話し合いで物事を解決することが理想であることには変わりがないが、誰でも暴力を振るわず話し合いで事が納まればそれに越したことはない。
国際社会といえども個人レベルの大きくしたものと同じである。
個人レベルでも無断で人の家に土足で入り込まれれば怒るであろう。
ここで世界の常識と日本の常識の別れ道になる。
世界の常識では当然「出ていけ!出ていかなければ殴るぞ!」となるが、日本の常識だと「まあまあ座って話し合いましょう、欲しいものがあれば持っていってください!」と、盗人に追銭を渡すようなものである。
日本のマスコミの論調はこうである。
日本人のこうした発想は一体どこから出てくるのであろうか?
悪に対して戦うことに感覚が麻痺している。誠に腑甲斐ない精神である。
こうした問題が生じた場合に、日本人の取る態度というのは、日本の世論、言い換えればマスコミの態度で分かると思うが、第三者に責任を転嫁する考え方である。
個人レベルで考えた場合、盗人が入って来たら家人が棒を持って戦うことを否定、乃至は拒否する。
又は戦うことを始めから放棄しておいて、警察が悪い、政治が悪いと、責任を第三者に転嫁する傾向がある。
世界の他の国では自分の家は自分で守るのが常識である。
ところが日本人は、自分の家を守るのは世間だと思い込んでいる。
この日本人が此れ程迄戦うことを嫌悪する気持ちにさせたものは一体何であったのかということは、今のところ明確な答えは持ち合わせていないが、多分農耕民族であったことにその原因が在るのではないかと想像する。
日本人が農耕民族であったということは戦うということに対して大きな影響を与えている。戦い方が綺麗で、蛋白である。
農耕民族なるが故に、農業というのは長いサイクルで結果が現われてくる。
稲というのは一年に一回しか収穫できない。
今日の農業技術が確立される以前のことであることは当然である。
稲以外のあらゆる作物が一年に一回しか収穫できない。
なおかつ天候に左右され、この天候というのは人間の力ではいかんともコントロ−ルできない。
植え付けを終わったら後は待つ以外に方法がない。
旱魃、台風が来てもただ祈る以外の方法がない。
知恵を出そうと思っても被害を少々防ぐ程度のことは出来ても、積極的に追い払う手段というものはない。
こうしたことが国民に知らず知らずに戦うことを嫌悪する習い性にしたのではないかと想像する。
近世になってから日本人も組織的に戦うことを覚えた。
世界的な戦争でも結構戦って来ているように思う。
しかし、この時の戦法というのは西洋から学んだもので、徳川時代の各地に豪族が群雄割拠していた時代においては、その戦法は幼稚なものであった。
戦いの下手な証拠は日本人の武器に対する感覚に現われている。
秀吉が天下を取ったとき、刀狩りということを行なった。
農民の反乱を恐れて、農民から刀を全部取り上げてしまった。
この時の後遺症が今でも残っている。法律として残っている。
銃刀法というもので、庶民はピストル一丁も持てない。
アメリカのように国民が銃を自由に持てる様にせよというつもりはない。
銃刀法は大いに結構である。
ただ武器に対する国民のアレルギ−を指摘しておきたいだけである。
アメリカのように息子や娘が成人した記念に親が銃をプレゼントするなんてことは想像も出来ない。
アメリカを賛美するつもりはないが、アメリカでは銃が自分を守るものであり、銃があって始めて自由が確立されている、という感覚は日本人には永遠に持ち得ないであろう。
しかし、これが世界的には普遍的な感情である。
銃は自由のシンボルであることが日本人には一番理解されない事実であろう。
民主主義は市民の銃で確立されているということを、日本人は理解しようとしない。
日本の民主主義はマッカアサ−がむしろ強引に押しつけたものであり、日本人が自ら銃を取って勝ちとったものではないので、その辺の感覚は解らずじまいである。
日本人の憧れの国スイスは、国民皆兵、銃は鍋釜と同じ感覚で各家庭に保管されているという事実も、日本人は敢えて理解しようとしない。
こうした問題になると避けて通ろうとする。
国民皆兵という事実も知ろうとしない。
日本人の平和ぼけは逃げの処世術である。
何か有ればそれは国家なり政府の責任として、自分達とは別物の組織が自分達に災いをもたらしたと、自分達が自分達で選抜した政府なり、国会が国を運営しているということを忘れてしまって、さも第三者がいるような錯覚に陥っている。
日本人は昔から単一民族であると言われているので、たとえ知らない人に出会っても相手も日本人だと思い込み、話せば解る状況であった。
ところがアメリカではそうでなく身を守る必要があり、身を守るには銃以外に方法が無かったという背景の違いはあるが、暴力団が短銃でガラスを割ったと言って新聞の大ニュ−スになっている。
被害の大小よりも、短銃を使ったということがニュ−スの種になっている。
銃というとそれ程アレルギ−症状を呈すること自体が幼稚じみている。
農耕民族が集団になるとどういう行動を起こすか、昔の百姓一揆、戦後のデモを見れば分かる。
要するに群集心理というもので、コントロ−ルが出来なくなる。
昔の百姓一揆は完全な群集心理である。又、60年代の安保闘争の時のデモも同様である。2、3の首脳者に踊らされて何百、何千という人間が右往左往する。
その大部分は烏合の衆である。
烏合の衆ではなく、組織が確立された集団となると、これは遅かれ早かれ内部分裂を呈する。一つの集団に、二つ目、三つ目の渦が出来、段々分裂していく。
これは世界各地で起こり得る現象で、集団というものはいずれは分裂していくものである。この分裂の課程で仲間同士の足の引っ張りあいが起こる。
先の第2次世界大戦の時、日本の陸軍と海軍の仲間割れなどがそれである。
作戦のための意見の相違というものではなく、日本が挙国一致して戦わねばならないときに仲間割れしている状況である。
戦後の日本の政治もあれと同じ様相を呈している。
政治家ならば政策論争での意見の不一致というのなら納得できるが、ただ単に反対のための反対である。
そういうことは国民の前では政策論争のようなポ−ズを取っているが、反対のための反対以外の何物でもない。
今度の湾岸戦争の際にも主権国家として、国連中心主義で行くという本質が問われている時にこの有様である。
国益と党益乃至は自分の所属する組織の利益というものの軽重を計るということをしない。ただ自分達さえ良ければそれでいいという態度である。
国会の予算審議の時でもそうである。自分の所さえ良ければそれで後は知らない。
こんな大きな問題を引っ張りださなくても我々の身近な所にこんな例はいくらでも存在しているはずである。
職場で、自治会で、村の寄り合いで、こんな例はいくつも転がっている。
要するに民主主義というものの本質を理解していないということである。
最大多数の最大幸福ということは、少数意見を全く考慮しないということの裏返しで、少数意見を無視することにより、より多くの人に幸福を分かち合えるということである。
それが理解できていない。
ところが新聞の論調というのは、この少数意見にスポットをあてようとしている。
そして多数意見は悪玉としてとらえる傾向がある。
マスコミの立場としては多数意見より少数意見の方がニュ−ス・バリュ−が有ることは事実である。
日本のデモクラシ−が歪になった原因は、この少数意見をきっぱりと切り捨てる事無く、割り切れないところにある。
すべてを多数決で割り切らず、少数意見のことをいろいろ考慮してしまうので、ここに我儘が生まれてきて、それが少数意見の横暴を招く結果となる。
日本人異質論
先日テレビを見ていたら日本刀の刀鍛冶のことを放送していた。
刀鍛冶は頭領と弟子の間柄でありながら、弟子に口では物を教えない。
師匠のやることを見て、技術を盗むということであった。
これは刀鍛冶ばかりでなく、日本の技術の伝承にはよくある話で、刀鍛冶のような極端な例は少ないが、日本の古典芸能の伝承にはこういった手法がよく有るときいている。
言葉で教えるのではなく、師匠のやっているのを見て、その技術を盗むということがよく言われる。
この現象は日本の世界に冠たる特異性の最たるものではないかと思う。
人に物を教えるのに口で教えず、黙って俺のやっている事を見て憶えよと言うのは、いささか不親切な教え方であると思う。100%の徒弟制度である。
この徒弟制度というのは日本的であると同時に非合理的である。
徒弟制度というものは弟子に早く憶えられて、独立でもされたら親方としては困るという打算が有ったのかもしれない。
植木職人なども同じような傾向がある。又、庭師などもそのようである。
弟子が独立すれば自分とのライバルになるので、客の取合になる、それを事前に防ぐ魂胆であったかもしれない。
物を教える事を遅らせてその間安い賃金で働かせようという魂胆だったかも知れない。
それにしてもやり方が陰湿である。
技術を次の世代に伝承しようとすれば、これは会話なくしてありえない。
これが日本以外では当然ではないかと思う。
親から子へ、母から娘に、親父から息子へ、文化を伝承するのに会話なくして出来る訳がない。
それを「黙って見ておれ」では馬鹿らしくなってくる。
しかし、それでも弟子になって、それに甘んじている人がいる。
これが日本的と言わずして何であろう。
日本文化の伝承にはこうした陰湿な面があまりにも多すぎる。
以心伝心とか、悟りを開くとか、極めて抽象的な言葉でしか表現できない、曖昧模糊としたものが多い。
アメリカ人ならばマニュアルを作って、誰がやっても同じ結果が出る方法というものを考えだすが、日本ではノウハウを公表することを嫌がる気風がある。
アメリカの外食産業は挨拶の仕方から、皿の持ち方までマニュアルを作って、何処のチエ−ン店でも同じサ−ビスが提供できるような方法を考えだすが、日本なら皿洗いを何年もさせて、段階を踏まなければ上には上がれない、封建的なシステムを売り物にしている。
封建制を売り物にして、それをPRして、老舗などと特別扱いにして、権威付けを行なっている。
ここにアメリカ流の合理主義と、日本の文化の伝承の違いがある。
アメリカの合理主義は文化とはなりにくい。
生活そのもの、又は社会そのものが合理主義に押し流されているので、日本と同じような文化の、又は伝統というものが成り立たない。
日本の伝統というのは裏返せば封建制の遺物である。
又、物を作る工程上、合理化出来ない面があるが、日本の場合伝統イコ−ル封建的と置き換えてもいいと思う。
刀鍛冶にしろ、漆の工芸にしろ、オ−トメイションには向かない面がある。
とはいうものの何百年と同じ事の繰り返しである。
何百年と続いているからマニュアルもなく、ただ弟子が先輩の見よう見真似で文化を伝えていくということは、日本以外の人々にとっては驚くべき事ではないかと思う。
こうした伝統文化の中には先に述べた刀鍛冶、漆の工芸、ある種の織物、染色、植木職人、歌舞伎など近代化を阻んでいる。
作品は現代化されているかもしれないが、その業界内部が封建的な雰囲気に満ちている。
特に人間関係において。
日本の古典芸能の中に琴、三味線というものがある。
又、笛、太鼓というものも有る。
今、ロックは日本の若者の心を捉えているが、こうした古典的なものは後継者がいないようだ。
それでもその業界の中に若い人が飛び込んでいこうとする人がいるかもしれない。
しかし我々の目の前には表れてこない。
言い換えればマスコミが取り上げてくれない。レコ−ド会社が積極的に売り込もうとしない。つまり一言でいえば人気がないということである。
何故人気がないかといえば面白くないからである。魅力がないからである。
その旋律、リズム、音色が若者に受けないからである。
つまり社会全体のテンポが、江戸時代のテンポとは違っているのである。
世は歌につれ、歌は世につれの言葉どおり、琴、三味線、ショウ、笛は現代の若者にとっては別の世界の音楽という訳である。
インドか中国の音楽ぐらい感覚である。
逆説的にいうと、だから日本の伝統文化として希少価値が出てきていると言える。
先に刀鍛冶の徒弟制度のことを述べたが、近代音楽の業界でもこの徒弟制度が極度にはびこっている。
こちらは刀鍛冶とは違って、弟子には口で喧しく指導するが、その分弟子の方が金を持っていかなければ技術の伝承が受けられない。
段階を踏む毎に上納金がアップしてくる。これも妙な文化システムである。
能力が皆無では最初から芽は出ないが、能力少々と後は金の力があれば、グレ−ド・アップできる。
こうして金をむしり取る文化人が世の中で幅をきかせている。
文化人となれば文化を無償で後世に残さなければならないと思うが、私利私欲を肥やしている。これでは非文化人である。
日本の文化といえば人々にはあまり知られていない興味深い文化が日本には有る。
それは紐の文化である。
紐の文化といっても「女の紐」の文化ではない。正真証明の紐の文化である。
その紐というのは組み紐であり、水引であり、和服の帯である。
組み紐というのは実に面白いものである。
木製の糸巻きのようなものをあっちにやったりこっちにやったりで組み紐を作るわけであるが、これもテレビの放送で知ったことであるが、この組み紐の技術を外国で紹介している人が居るという事である。
これは外国に誇ってもいい日本の古典的な技術である。
出来上がりが面白いばかりでなく、これを自閉症のこどもにやらせると、精神的に安定して来るということで、そうした病気のリハビリテイションにも応用されているということである。
組み紐というのは日本独特の文化に一つであろうと思う。
又、水引というのも実に珍しい芸術である。
これは諏訪地方で、家内工業的な規模で細々と行なわれているが、最近は観光資源として見学できるような店で実演を売り物にすると同時に製品の販売にも意欲を示している。
細い糸で全く芸術品としか言いようのないほど素晴らしいものが出来上がっている。
水引というのはあの祝儀袋に付いてくる紐のことであるが、その細い紐で実に様々な造形が出来上がる。
手先の器用な日本人だからこそ出来ることであろうが、出来上がった作品は本当に素晴らしい。
その反対に和服の帯というのは紐とは言えないかもしれないが、これもあの幅の広い帯の結び方というものは何百とあると聞く。
私のような凡人が見てもどんな結び方をされてもみな同じにしか見えないが、和服の帯というのは帯自体でも一つの芸術品であるが、あの結び方を組み合わせると実に素晴らしい芸術になると思う。
ただ惜しむらくは日本女性の体形がその芸術品ほど洗練されていないのが惜しい。
その体形を嘆くよりも日本女性の心の退廃を嘆くほうが日本文化の精神的な回復には健全かもしれない。
「ぼろを着てても心は錦」和服というのは日本女性の体形だからこそ映えるのかもしれない。あれを170cm近い女性が着こなしていたら可愛さを通り超してグロテスクになるかもしれない。
日本女性だからこそ和服が映えるのかもしれない。
それにしても和服の帯というのは素晴らしい日本人の知恵である。
あの帯の結び方も誰がどういう風に考えたのか知らないが、実によく考えたものである。
帯の柄が丁度目の合う所に持ってくるところなど実に立派なアイデアである。
日本の常識・世界の非常識
1990年、夏にイラクのサダム・フセインのクエ−ト侵攻から始まった湾岸戦争はアメリカが本格的に軍事行動を起こして1カ月半で終わった。
今時になってアメリカと戦争して本当に勝てると思っていたサダム・フセインはどう考えていたのか知らないが、非常識すぎると同時に狂気である。
何故一国の元首がそんなことを理解できなかったのかということの方が我々の本音である。しかし、このサダム・フセインの投じた一石は世界に様々な波紋をもたらした。
その中でも日本の国際的な孤立というか、日和見主義、英米の結束の固さ、フランスの独自の外交姿勢、ドイツの国論の統一、このフセインの投じた一石により、我々の目の前に如実に表れてきた。
我々の関心の向くところは、当然、日本がこの湾岸戦争にどうのような影響を及ぼしたのかということである。
それを世界の人々はどのように見ているのか、ということが非常に気になるところである。あのフセインの行動に対して国連は明らかにフセインの悪であると、常任理事国全部が決め付けた。
ということはフセインの行動は国連において何ら弁解の出来る余地が無いということである。アメリカはこの国連決議の元で軍事行動を起こし、イギリスはこの決議に基づきアメリカと同一歩調をとり、フランスはこの決議を踏まえたうえで、まだ解決の道があるのではないかと模索したのであり、ドイツはこの決議を踏まえて国論が一致してNATO諸国域外には軍隊を出さないと、国論が統一されたのである。
日本はこの決議の基づき金を出し、避難民の輸送にあたると決議が出されたが、結果的には避難民の輸送は出来なかった。
この避難民の輸送が出来なかったということが世界中から顰蹙を買っているところである。避難民の輸送ということは戦争とは直接的には関係が無いことである。
なおかつ人道的な行為でもある。出来る能力も十分ある。
それなのにやろうとしなかった。
やろうとした政府に対して野党が反対してやらさせなかった。
ここが世界の顰蹙を買う所である。
能力がなければ世界の国々の人はとやかく言わないであろう。
日本は国連中心主義を取っているにかかわらず避難民の輸送を積極的に行なおうとしなかった。
この事は世界の避難を受けても仕方の無いところである。
ここに世界の常識と日本の常識の間に大きなギャップがある。
世界の常識は日本の非常識、日本の常識は世界の非常識ということがよく言われているが、そのことがここで完全に実証されているわけである。
このギャップがどうして生まれてきたのか、ということが文化の根源に迫る問題である。
世界の常識が日本では非常識である、ということが日本文化の特質である。
これはひょっとしたら、日本人が日本人である以上、これから先もずっと続く普遍的な、本質的な特質かもしれない。
日本が世界の常識に迎合するようになってしまえば、最早日本人であり続けることは出来ないのかもしれない。
古来、日本人が美徳だと思ってきたことはことごとく世界的な視野から眺めると、世界の人々から非常識なことばかりでなかったか?
その例の一つが、従来、戦争に負けた国の元首は、自分一人でも逃げ延びようと画策すると書いたが、あれも世界では常識であって、日本の昭和天皇の様に逃げも隠れもしないのが我々の目からすれば美徳だと思っていたが、世界の人々から見れば非常識の部類に入るのかも知れない。
日本人が勝手に美徳だと思い込んでいることでも、世界という大きな視野から眺めれば、美徳でも何でもなく、ただに独り善がりに過ぎないのかもしれない。
先の第二次世界大戦で日本がアメリカと互角に戦ったことも、世界の人々の目から見れば信じられない程の非常識であったのかもしれない。
世界的視野に立って見れば、今回のサダム・フセインと全く同一の事と思われていたのかもしれない。
我々の住む日本の国土というのは、四周を海で囲まれた孤島である。
外との交流はどうしても制限される。
人の交流が制限されれば文化の交流、物の考え方の交流も、それに付随して制限されて来るのは致し方ない。
どうしても独善的になりやすい。
その点、大陸に住んでいる人々は文化交流の面では恵まれているというか、地続きという面で我々とは別の認識が存在する。
有史以来ヨ−ロッパ大陸の人間がアジア大陸にいったり、又その反対も数限りなく存在している。
文字通り民族の大移動である。民族が動けば、それにまつわる文化も流動的になる。
地球上に人類が誕生して以来、大陸の各所に人間は住んでいたわけであるが、その住みかが点になっており、その点と点の間は隔絶されていたとは言うものの、21世紀になろうかという昨今においては、結果的に地続きで、人は相互に移動してきたわけである。
日本人も神話の時代には大陸から流れ着いたのかもしれない。
それ以降も単発的には大陸から流れ着き、日本に埋没した人間又は文化もあったに違いない。
けれども日本の常識が世界の非常識になった理由は、民主主義の捉え方の相違だと考える。民主主義をどう捉えるかという点で、世界の人々と日本の人々の認識の違いがこの差になって表れてきていると理解する。
日本には本質的に神話の時代からその根本に民主主義が存在していたのではないかと思う。封建制度、武家社会といっても、それは古代の人々の社会制度上の分類であって、日本の歴史を大雑把に見れば、封建制度の真っ最中でも豊臣秀吉のように農民から征夷大将軍にまで登る機会というものは存在していたし、明治時代、貴族院といって皇室の近親者が特別な称号を使用していた時期があったけれど、その皇室も時代をさかのぼれば、それぞれの地方の豪族に養ってもらっていた時代もあった。
又、日本においては奴隷というものがほとんど存在しなかった。
存在しなかったというよりも、奴隷を使うという発想が始めから存在しなかった。
人間を金で買うということの罪悪感を身にしみて万人が持っていた。
というよりも人間を金で買って使役に使うという発想がもともと無かったと考えた方がいいと思う。
ましてや戦争をして負けた方の人間を使役に使う、はたまた奴隷を得るための戦争ということなど思いもよらなかった。
ただし政敵の抹殺ということは政治の手段の中ではあったけれども、それは政治政策の一環として、自分の政治権力の温存を図るという目的では存在し得たということは否めない。
しかし、これは今でいう所の政争、政権維持の手段であって、戦争で負けた国の一般大衆を奴隷にするというのとは発想の段階から違っている。
その点、ヨ−ロッパの発想というのはギリシャ、ロ−マ時代から人間を物として扱う習慣が存在していた。
ロ−マの古代遺蹟の競技場というのはもともと人間を戦わせて、ロ−マ市民がそれを見物する場であった。
人と人を殺しあいさせて、それをスポ−ツと称して眺めていたわけである。
人間を闘牛場の牛に見立てていたわけである。
ロ−マ時代には民主主義があったといわれているが、あれはロ−マ市民だけの民主主義で、それ自体が人間の姿形はしているが、人間以下に扱われていた奴隷制度の上に成り立っていた砂上の楼閣である。
日本人とヨ−ロッパ人を比較すれば、本質的には日本人の方がよほど民主主義的な発想の根が深いと考えて良いと思う。
日本にも確かに封建制度の時代というのはあったが、しかし封建制度の中での各階層間の移動ということも皆無という訳ではなかった。
明治維新という革命も無血革命である。
あれで封建制度が崩壊したという認識が一般的であるけれども、あれは社会制度の変革であって、国民一人一人に流れている思想、乃至は深層心理の面では日本人というのは古来から民主主義の理念で貫かれているのではないかと思う。
古代ロ−マ人の考え方というものは、ロ−マ人のみが人間で他の人類は同じような人間としては扱っていない。
よってその後封建時代になっても貴族は貴族のみのハイソサイテ−を形成して、他の者を同格として扱わない。
これがその後植民地時代になると植民地経営をビジネスとして捉え、植民地の地元の人間に対する奉仕とか、貢献ということは最初から眼中にない。
取るものを取れば後は切り捨てればいいという、遊牧民と同じ考え方になっている。
その点、日本の植民地政策はこんなドライな発想は入っていない。
植民地として日本の利益は当然追求するが、それでも現地の人々に教育を与えたり、日本人と同じ生活レベルまで引き上げなければならない、という使命感も同時に合わせ持っていた。ただ結果としては失敗に終わったけれど、戦中の大東亜共栄圏という発想が根底に存在していたと考える。
日本が台湾や朝鮮や満州で行なおうとしてきたことはまさにそのことでなかったかと想像する。
同じ帝国主義でもその根本の所では、西洋と日本ではこれだけの違いがあったのではないかと考える。
日本の帝国主義が具現化しようとしたところは朝鮮、台湾、満州であったが、日本がこの地域で当時の国益を追求したのは紛れもない事実である。
しかし、それと同時に、この地域の人々に日本と同じ教育をしようとしたのも事実である。この地域の人々の利便を図ろうとしたことも事実である。
戦後の日本の歴史は、この部分を闇のなかに葬ることばかり言っているが、この点を再検討する必要があるのではないかと思う。
日本がめざしたことは現地の人々の自決権、民族独立をめざす人々を刺激したことも事実であろう。
現地のインテリゲンチャの反発を買ったことも事実であろう。
それにしても当時の帝国主義を軍部がリ−ドしていたことが、現地の人々、及び日本にとっても最大の不幸であった。
軍の力で無理矢理遂行しようとしたところに無理があった。
けれども軍部がリ−ドしたとは言うものの、当時の軍部というのは日本の無産階級から成り立っていた筈だから、彼らは人間の底辺の生活というものは心情的には理解していたと思われる。
よって現地の人々の生活のアップを図るとか、教育を施すという発想が出てきたと思う。
日本の帝国主義というものは軍部がリ−ドしてきたことは紛れもない事実と思うが、この軍部が政治まがいのことをするということ自体が禍根をのこす原因である。
軍人と政治家ではその発想が違う。
又、軍人はよき指揮者であっても、よい指導者ではない。
そこに日本の帝国主義のアキレス腱があった。
けれども西洋の民主主義よりも勝とも劣らないものがそのなかにも脈脈と流れていたと考えられる。
西洋の民主主義というものは血の革命を経て、人間として扱われてなかった人間が人間として認められたときから始まったわけで、まさに民主主義を血で勝ち取った訳である。
だから銃が民主主義の象徴であったり、銃が平和のシンボルであったりする。
人間の姿形をしていても人間でないものが周囲に居るかもしれない、という不安感に苛まれている。
そういうものから自分を守るためには銃が最良の武器だと考えている。
人に干渉しない代わりに自分も干渉されたくないという発想になる。
日本人ならば友達の友達は友達であるが、西洋人は最初から人間を信用していない。
私も今まで日本人というのは地理的な条件で、以心伝心が出来ると思い込んでいたが、考えてみればこれは民主主義をどう捉えるかということで、我々の場合人間の形をしているものは全て友達であるが、ヨ−ロッパ人というのは人間の形だけでは相手を信用しないという違いである。
これは良い悪いの問題とは次元が違う。
日本人の欠点の一つとして、自分の意志をはっきり言わないという点が上げられるが、これも民主主義というスライドを通して考えてみると、はっきり言わないということは、結論を先に延ばしているわけである。
結論をすぐ出さず、先に廻すことによって、その間に事態の方が変化してしまって、結論など必要でなくなってしまう場合がある。
黒白をはっきりさせないで、灰色もあると言うことで、民主主義の考え方からすると結果の責任が全員に及んでしまう。
全員でリスクを背負う結果になり、一番民主的な結論になる。
黒白をその場ではっきり結論付けてしまえば、その責任を背負い込む人間が出来てしまう。それが成功に傾けば名誉につながるが、反対になれば死に至ることもある。
ヨ−ロッパ人のリ−ダ−は意見をはっきり発言するが、日本のリ−ダ−は集団合議制を取る。しかし、決断は一人の人間がしなければならないのは洋の東西を問わず同じである。
けれどもどちらが民主的かといえば集団合議制の方が民主的であることに間違いはない。
今回の湾岸戦争に日本が積極的になれなかった点について、日本の国民にとっては民主主義は日本だけの特別なもので、日本の外には通用しないという一般的な国民の深層心理があったのではないかと思う。
日本政府にとっても積極的参戦は当然二の足を踏むところであるが、せめて避難民の輸送ぐらいはしたいというのが本音であり、良識ある日本人ならそう思ったに違いない。
けれども「泥棒にも3分の理」という日本の古い諺にもある通り、サダム・フセインにも何か理由があるのであろうと言う、日本の古来の民主主義発想で以て、この日本政府のとろうとした政策にブレ−キがかかった。
まさに日本の国論が二分されたわけである。
いままで述べたように、現在の日本人には古典的な日本古来の民主主義を持ったものもおれば、西洋の考え方に近い近代的な民主主義の人々も混在しているわけである。
しかし、我々を取り巻く環境というものは、もうすぐ21世紀に入ろうとしている時に、古典的なものでは通用しない。
近代国家にふさわしい近代の民主主義に根差したものの考え方をしないことには国連中心主義ではやっていけない。
国連至上主義でいく以上は、国連決議ならば日本国民が一致協力してそれに従い、なおかつ貢献するのが本筋であろうと思う。
それを我々サイドで自分の都合のいい時だけ、国連中心主義を振りかざし、自分の考え方に合致しなければ国連の決議であろうと、人道主義であろうと、その他何であろうと踏み躙るようでは、サダム・フセインと同じ事をしているに等しい。
そのことに多くの日本人は気が付いていない。
日本は国連を中心に国際的な活動をするといっているから、この二枚舌では近代的な諸外国から疎まれても仕方がない。
自分達さえ良ければそれでいい、という民主主義では三文の値打ちもない。
民主主義とは人間の生き方、生かし方の問題である。
古代ロ−マ市民は自分達のみは良い生活を選び、奴隷には苛酷な生かし方をしたのである。最近の日本人は、自分達だけ良い生活が出来れば、サダム・フセインの犠牲になった人々はどうなろうと知ったことではないと、古代ロ−マ市民の生き方と同じ事が当てはまる。
血で革命をあがなったヨ−ロッパ人は、サダム・フセインの犠牲になった人々の苦労を自分のものとして迅速果敢に対処したのである。
民主主義の中に埋もれて来た日本人は、この他人の痛みを感じない。
対岸の火事は大きいほど面白いという、独善的な面がある。
この間違った民主主義が我々の日常生活のなか迄入り込んでいる。
他人の痛みを理解しないということは現代の日本人の最大の弱点である。
このことが世界中で顰蹙を買っているということに日本人自身が気が付いていない。
裸の王様である。
日本で一番よく民主主義を口にするのは革新系の人々である。
金科玉条のように唱えているが、彼等は民主主義の本質を知らない。
その根底にあるのは利己主義である。
日本は主権在民−−近代国家では当然なことであるが−−で言論の自由が保障されている。又、政治的な示威行為も自由である。あらゆることに自由である。
文字通り100%,いや150%ぐらい自由な自由主義国家である。
この100%を越えた分の、50%は自由を履き違えた利己主義の分である。
合わせて150%の自由である。
この50%の利己主義の分も現在の日本では押さえ付ける乃至は取り締まる方法がない。
この部分は「言い過ぎ」の部分だと言っても、やめさせる方法がない。
勢い自然消滅するまで傍観している以外に方法がない。
まさに革新を自負している人々は、この100%の自由をはみ出した部分を強調している。
そのよい例が生存権だとか、環境健だとか、日照権だとか嫌煙権といったものが認知されてきている。
これらは利己主義の延長線上に存在するものである。
例えば、人殺しの犯人が捕まる、この犯人が捕まらなければ警察は何をやっていると言うし、犯人が一旦自白すれば極悪非道の殺人鬼というし、この犯人がその後で「警察に脅かされて自白しました」と言えば、冤罪事件とすり変わってしまう。
これは一つの事件に対して各人各様に利己主義を主張する結果がこのようなことになる。
この世の中に冤罪事件ほど不可思議なことはない。
「警察に脅かされて自白しました」と言えばどんな犯罪人も無罪になってしまう。
こんな馬鹿な話はない。
そうした犯罪者には弁護士が付くが、殺された被害者の方は丸々殺され損である。
こんな不合理なことはない。それでも世の中が廻っている。
この不合理を一生懸命バックアップしているのが主に革新と称する人々である。
この革新系の弁護士は人を殺したかもしれない犯人はかばうが、それならば「真犯人を探しだすか」というと、「それは警察の怠慢」といって問題をすり替えてしまう。
「これが真犯人だから今捕まっているのは違う」というのなら、我々凡人も納得できるけれども、その人が犯人かもしれないが、そうと決め付ける証拠がないと言うだけで冤罪事件になっている。
これなどは本当から言えば自由の履き違いと言っていいのではないか。
犯人の人権は尊重するが、殺された側の人権には全く無頓着である。
日本人の利己主義を象徴する一番いい例が路上駐車である。
自分さえ良ければ他人にどれだけ迷惑をかけても意に介さない。
又、路上駐車によく似た例で、路上を商売に使う習慣である。
歩道の上まで商品を並べて全く意に介さない。
だいたい日本でこれだけこれだけ車が増えたら一戸建ちの家を持つ程の人なら車庫の確保ぐらいは義務付けなければいけない。
自家用車の車庫は義務付けられたとは言うもののいくらでも抜け道のあるざる法である。
夜間車を入れておく車庫でさえざる法である。
まして商店の商業用の駐車場のことまでは法律が出来ていない。
よって商店の店先の道路は、その店の駐車場代わりになっている。
道路を特定の個人なり企業が独占的に使用することが法治国家で許されることではない。
利己主義を通り超してこれは犯罪の域に達している。
路上駐車を現行法で取り締まるためには駐車違反の罰金を50万円ぐらいにしなければ実効は上がらない。
そして、もっと積極的に取り締まらなければ効果が上がらない。
これぐらいにすれば公共の道路の私物化を防ぐことが出来る。
商店もこれぐらいの措置をとれば店を移転するなり、客用の駐車場を確保するであろう。
現行のままでは心臓の強いものの勝である。
これなども自分さえ良ければという態度の端的な表現である。
駐車違反の科料をアップすることも商店に客用の駐車場を義務付けることも行政指導するなり、法改正が伴うと必ず業界団体から苦情が入るが、これも利己主義の一種である。
利己主義というのは何も日本人だけの専売特許ではない。
世界の人々に万遍なく持ち合わせている普遍的な心理要因であることは疑いないが、これが日本人ほど露骨に表現する人々というものもあまり居ないのではないかと思う。
これは文化の違いというより、民主主義の履き違いと言うべきであろう。
民主主義と利己主義の境界が明確になっていないということで、人に迷惑をかけなければいいと思い込んでいるが、結果的には人々に大いに迷惑を掛けていることに気が付いていない証左である。
又、直接的な迷惑と間接的な迷惑の違いが曖昧なのかもしれない。
直接的な迷惑はいけないという認識はあるが、不特定多数に漠然と掛かる迷惑に関しては鈍感なのかもしれない。
「赤信号 皆で渡れば 恐くない」という心理と同じである。
要するに自分に甘く他人に厳しいわけである。
自分の過失というかペナルテイには寛大で、他人のミスには厳しいというわけである。
ここに深層心理的には民主主義が埋没しているにもかかわらず利己主義が表面に表れてくる次第である。
これは責任という面でも西洋人と日本人との違いの差となって表れてくる。
責任のとり方に民主主義が根本的に係わってくる。
日本人は潜在的民主主義で集団合議制であるが、決定権はリ−ダ−が持っているので、責任はリ−ダ−が潔くとるが、ヨ−ロッパ人は意見ははっきり言うが結果が悪い場合は一旦逃げて態勢を建てなおそうとする。
この一旦逃げるというところが日本人の目から見ると卑怯と写る。
全てヨ−ロッパのリ−ダ−は結果が悪いと一端は逃げ様とする。
その次にカムバックするつもりであろうが、結果的には逃げっぱなしで終わる。
自分の決定した判断が間違った場合、敗北を認めたがらない。
その点、日本人はあっさりと敗北を認めてしまい、集団合議制でありながら決定を下した人のみがその責任を負うことが美徳とされている。
これは民主主義と直接的な接点はないかもしれないが、戦争の仕方というか、戦いの仕方の違いである。
戦いをゲ−ム化したものにスポ−ツがあるが、ヨ−ロッパ人の好むスポ−ツにはこの戦いの違いというものが如実に表れている。
ある一定の条件下においてシンボルとしてのボ−ルを相手のガ−ドするトリデ、乃至はゲ−トに何回入れるかという集団スポ−ツである。
広いフイ−ルドを二分して、複数の人間がシンボルとしてのボ−ルを相手のガ−ドするポジションに入れるということは取りもなおさず野戦そのままの競技である。
その点日本の武道というのは究極の個人プレ−である。
スポ−ツの中の闘争
西洋にも騎士道というものは存在するが、西洋のスポ−ツにも騎士道から発達してきたものもあるが、こういう種目はマイナ−である。
大衆受けするポピュラ−なスポ−ツとなると野戦方式の集団競技である。
牧畜民族と農耕民族という、民族の起源に由来する思考の違いだろうと、勝手に推測している。
一旦負けても最終的に勝利を収めれば、以前負けたことはペエナルテイ−にならないという不文律が、彼等の深層心理には生き続けて居るのではないかと思う。
ここに責任の取り方の違いが表れて来ていると思う。
責任の取り方というよりも戦いの仕方と言ったほうが善いかもしれない。
今述べたスポ−ツでも西洋人に人気のあるのはラグビ−、サッカ−、フオッケ−、ポロ、などのスポ−ツは全てこのことが当てはまる。
日本人の好きな野球はスポ−ツの中では異質なスポ−ツである。
野球に関して言えば、守るときの責任はそれぞれ守備範囲が固定されているが、攻撃の時は一切制限がなく、チヤンスは選手に均一に与えられている。
守備に廻ると大雑把であるが、責任分野が限定され、お互いにカバ−し合うことが出来るとはいえ一応の責任分担が決められている。
又、プレ−の進行を見ても攻撃の時のチャンスは均一であるが、守備の時はピッチャ−次第で勝負が大きく左右されてしまう。
ピッチャ−のみがヒ−ロ−である。
これは民主主義の論理でいくと不合理である。ル−ルが不合理である。
ピッチャ−の役を1イニングづつ平等に廻るようにすればそれはそれで納得できるが、その点他の西洋のスポ−ツはラグビ−でもサッカ−でも守備も攻撃もチャンスはプレイヤ−に均一にある。
ゴ−ルキ−パ−のみは特殊なポジションであるが、ゴ−ルキ−パ−のない種目もある。
民主主義の論理でいえば合理的である。
シンボルとしてのボ−ルは宗教であったり、香料であったり、金銀財宝であったりして、それを相手チ−ムの堅牢な守備態勢の隙をついてゴ−ルに入れ込むというル−ルは古代の野戦そのものである。
同じプレ−のなかに騙し合いのジェスチャ−が入ったりしてゲ−ムを面白く盛り立てているが、これはヨ−ロッパ大陸とアジア大陸が陸続きであって、ジンギスカンが侵入したり、十字軍が遠征したりした歴史をゲ−ム化したものと見るのは少し飛躍のしすぎであろうか。
元来、スポ−ツというのは貴族の遊びであったはずである。
古代ロ−マでは奴隷を死ぬまで戦わせて貴族はそれを見ながら酒を飲んでいたのである。
するスポ−ツにしても遊びから発達してきたのである。
そこに模擬野戦のバックグランドが有っても何ら不思議ではない。
又、オリンピックの起源を見ても、全て戦争に直結した競技ばかりである。
スポ−ツというものの根源は人間が如何に戦うかを抽象化したものにすぎない。
その証拠にオリンピックでも高校野球でも宣誓の時はいつも「正正堂堂と戦うことを誓います」と言っている。
このことはスポ−ツの根源には戦争を抽象化した心的要因が存在するという証拠である。
民族のアイデンテイテイ
日本人は元来民主的な民族である。
外から入ってくるものは全て受け入れて融合、包含してしまう。
日本人が元来おおらかで居れたという事は、四周を海で囲まれていて、ジンギスカンの襲撃とか、十字軍の遠征という大規模な民族大移動に巻き込まれなかった、巻き込まれた経験がなかったから「おおらか」であり続けたと思う。
文字通り「井戸の中の蛙」であり続けたのである。
地球上には我々日本人のような境遇の民族は他にも沢山いた筈である。
アメリカインデアンを始め、インデイオ、フイリッピンの各島の人々、ポリネシアの人々など、日本と同じような島国、乃至は他民族、他文化から隔絶された地域に井戸の中の蛙よろしく、外部と何の接触もなく20世紀近くまで存在し得た民族は他にもいくらでもある。
しかし、彼等は異文化に接触したとたん自分達のアイデンテイテ−を喪失してしまった。
この地球上で日本人のみが異文化と接触しても、自らのアイデンテイテ−を保持しながら異文化と迎合、乃至は融合した例は無いといっていいでしょう。
この点を考えると日本人は異質であると認めざるを得ない。
異文化に接触して自分達の文化を喪失した民族は何が原因でそうなったのであろうか?
私の浅はかな知識から推測すると、本来そうした民族は自分達の文化、文明というものを持ち合わせていなかったに違いない。
インデイオなんか立派なピラッミットを作る技術を持っていたにもかかわらず、西洋文化にひとたまりもなく降伏している。
西部劇に出てくるインデイアンは銃に負けてしまった。
フイリッピンの原住民はキリスト教に負けてしまった。
何故、日本人のみはそういう事態にならなかったのであろう。
人類発祥の時までさかのぼれば、お互いに同じような長い歴史を持っていた筈である。
日本人は文字を持っていたと言われるが、この文字だって最初から持っていたわけではない。インデイオでもアメリカインデイアンでもフイリッピンの原住民でも西洋人が入ってくるまではそれぞれ平和な生活をしていた筈である。
自分達で自分達の文化を子々孫々受け継いで何百年と生きてきたに違いない。
西洋人が異文化を、異宗教を持ってやってきた時にどう対応したのであろう。
この時の対応の仕方で今日の南北の差が生じていることは間違いない。
やってきた相手が悪かったということはない。日本だって条件は同じであった筈である。
これはやはり我々の古来から生息していた人々の対応の違いであると思う。
我々は珍しいものを見るとまず最初興味を示す、それからそれを真似しようとする。
その次には、それ以上の物を作ってしまう。
これは日本人の特性だろうと思う。
古くは文字、中世においては鉄砲、最近においてはあらゆるものが物真似から始まって、本物をしのぐ物を世界中に輸出している。
日本以外の民族とはこの点が違っているようだ。
アメリカインデイアンは鉄砲に驚異したけれども自分達でそれ以上の物を作ることはなかったようだし、インデイオはわずか600人のスペインの軍隊の前に戦わずして降伏している。フイリピンの原住民は宗教に侵されてしまったし、そうした点をながめて見ると、日本人は好奇心が旺盛で、順応性が高いとも言えるし、又創造性にも富んでいたと言える。
しかし、それだけではない、それ以外に精神的な要因が何か有ったはずである。
例えば宗教を取り上げても、日本にはキリスト教の入って来る前に、中国から仏教が入って来たことは小学校の歴史で習うが、仏教が入ってきたといっても日本全国津々浦々仏教徒になったわけではない。
同じ事がキリスト教についても言える。
キリスト教に帰依したのは極一部の人々で、日本人は受け入れることもするが無制限に受け入れるわけではない。
キリスト教などは迫害まで受けている。
外来の文化も受け入れるが、日本古来のものも同時に混在する。
この混在させるところが日本人の「おおらか」な所であり、又民主的とも言えるところである。
政治制度の面から見ても、一つの民族が何百年も存在しつづけた背景には、それなりの政治的土壌が出来上がっていたことは間違いない。
その時の政治的リ−ダ−が悪かったということも、しかとした根拠がない。
政治的リ−ダ−が悪ければそれなりに民族内で政権交替を行なえば、民族の存続は維持出来た筈である。
よって異文化に埋没するしないということは政治的リーダーのせいとは言い切れない。
そうするとはっきりした理由は見つからないことになる。
けれども西洋文化に抵抗しきれなかった民族には何か共通した要因があった筈である。
日本が西洋文化に埋没しなかった要因も何か存在していたに違いない。
今のままであれば日本人は異質だからという一般論のみではあまりにも漠然とした解答である。
日本人が地球上の他の民族と比べて何処がどういう風に異質なのかということが分からない。
ある新聞のコラムを読んで
ある新聞のコラムに、テレビ朝日の看板番組「ニュ−ス・ステ−ション」が、湾岸戦争に出征したアメリカ軍の女性兵士の事を極めて感情的に取り上げ、報道していたと皮肉っていた。テレビが感情論で報道することもさることながら、その中に日本人の戦争及び軍というものに対する、物の見方に誤りがあるということを指摘していた。
私自身はこのテレビの番組を直接見たわけではないが、おおよそ想像がつく。
だいたい大方の日本人の戦争及び軍というものに対する物の見方、考え方、特にマスコミのテ−マの取り上げ方というものは想像出来る。
そこに「感情的に」と書き添えてあればもう簡単に想像が付く。
その中の問題点は次の4点に絞られる。
1 「戦争が終わったのに帰国出来ない」と言う認識不足
2 「戦争が続いている限り、命令が無いかぎり帰国できない」という常識が通用しない こと。
3 「この女性は自ら志願して軍隊に入った」という事実が紹介されていない。
4 「軍隊に入った以上、男も女もなく同等に扱われている」という日本人の甘えが通じ ないということ。
この4点について問題提起されている。
つまり、ニュ−ス・ステ−ションの報道は、この4点について認識が不足しており、その認識不足により、報道そのものが感情論に傾いているということである。
これらの状況を考えてみると、日本の報道関係者は戦争というものの認識が如何に不足しているか、戦争というものの本質を如何に知らないか、ということの一語に尽きると思う。
戦後45年間も日本人は軍隊というものを知ろうともしなかったし、自分達の体験も、経験もないのである。
45年間といえば一世紀の半分近い間、それを知らずに、又知ろうともせずに過ごしてきたわけである。
戦後、最初に生まれた人間でも45才になっている。
それ以下の世代は全く、軍というものの認識が無いのも当然である。
多少とも認識を持っている人達を探すとなれば、終戦当時15、6才の人々となると、今生きている世代で60才以上の人達ということになる。
悪いことに、この60才以上の人々の中には結構反戦思想の持ち主が多い。
反戦ということは悪いことではない。
基本的には地球上の人類が全てが反戦であるべきである。
そうすれば戦争など起こり得ない。
しかし、現実の世の中では反戦という理想が実現出来ないでいるところに、人類そのものの大きな矛盾が有るわけで、日本人はこの矛盾を現実のものと捉えようとしているところに、空論に陥りやすい要因が有るわけである。
この地球上の矛盾を、現実の矛盾としてしっかり認識すれば、日本人のような平和ボケという事態は起こり得ない。
この認識の甘さが日本のマスコミの大勢を占めている。
それが冒頭で述べた問題提起へとつながるわけである。
「戦争が終わったのに帰れない」と言うのは、あまりにも馬鹿げた発想である。
戦闘行為が終わることと、戦争が終わったことと、その違いを混同している。
詳細な日付の列挙は省略するとして、まあ普通の常識で考えても、戦闘状態が終わった事と、戦争終決とでは当然違っているし、例え、終戦になったからといってすぐ帰国出来るものでもない。
こういう発想は戦争をテレビでしか見たことのない人間の発想である。
今回の戦争は我々日本人にとってみると、まるでテレビ・ゲ−ム以上にイ−ジ−な戦争に見える。
アメリカはピン・ポイント攻撃をも解説付で公開していた。
こんな戦争は異例の戦争である。
おそらく今の日本のマスコミの関係者はその異例さに気が付いていないであろう。
あれが普通の戦争だと思っているに違いない。
どこが異例かというと、ピン・ポイント攻撃をテレビで公開するということは、敵側もこのテレビを見ているということである。
そのことを考慮に入れて放送されているということに気が付いていない。
この領域まで踏み込んで考えると、もう既に軍事的というより、政治的な領域に入っているということに気が付いていない。
多国籍軍はイラクを最後の1兵までも殺し得る自身があるので、手の内を公開していたのである。
手の内を公開するというより、サダム・フセインに早く降伏することを促す政策であった。こんな戦争は今までに無いものである。
時代がそうさせたとも言えるが、その前に多国籍軍の方に国連決議というお墨付があって、ソ連もアメリカ側についていたという政治的背景があるのである。
だからアメリカ・サイドは手の内を見せて平気であり、そのことにより政治的、軍事的優位性ををサダム・フセインに絶えずPRしつづけた訳である。
PRすることによって、サダム・フセイン側に革命が起きるか、反乱が起きるかして、サダム・フセインが失脚することを狙ったわけである。
軍事と政治は常に一枚の硬貨の表裏一体をなしている、という認識が日本のマスコミには存在しない。
政治と軍事を切り離して考えるところが、日本のマスコミの特殊なところである。
戦争は政治の一部であるという認識が無い。
戦前の日本は政治よりも軍事が優先していた歴史的事実は認めるが、それ以降の日本はこの時の痛い経験から、政治と軍事を切り離して物を考える、これが今日国際政治では通用しなくなってきたことに日本人自身が気が付いていない。
45年前のように、終戦直後で、日本が世界の中でもほんの小さな弱小国家の時なら、政治と軍事を切り離したものの考え方をしていても、国際社会はそれを容認していたであろう。けれども、その後45年間の間に日本は世界第二のGNPの巨大な経済国家になってしまった訳である。
その日本が45年前と同じ発想、同じ物の考え方をしていては、国際社会では不思議がられても仕方がない。
45年前の痛い経験によって、日本はおおよそ古代の日本国家の領域に押し戻されてしまった。
幸いにして古代からの日本の領域というものは海という自然環境によって、国境というものが確定されていたので、自分の国というものの認識は空気や、水と同じで、何もしなくても自然に、太古からそこに存在しつづけるものと思い込んでいる。
国の安全というものは水や空気と同じだと思い込んでいる。
平和はただであると思い込んでいる。
自分が攻めなければ当然相手も攻めてこないと思い込んでいる。
こうした立地条件からも、我々日本人は国を守るということに認識の甘さが生まれる要因になっている。
ソ連のペレストロイカでバルト3国に独立運動が盛り上がっている。
しかし、日本人には民族独立の気持ちというものは理解出来ないのではないだろうか。
バルト3国はレ−ニンに騙されてソ連に併合されてしまい、その民族の屈辱から今立ち上がろうとしている。
あの感情、心情は日本人では理解し得ないと思う。
思うと日本人は自分の力で勝ちとった物というのは何一つない。
民主主義、資本主義、民族独立運動、等何一つ自らの力で勝ちとったものはない。
全て先方から与えられた物ばかりである。
これがため相手と戦うという、戦いの本質を知らずに過ごしている。
目下、アメリカとの経済摩擦、貿易摩擦、農業摩擦なども摩擦と呼び変えて逃げようとしている。
その場だけクリヤ−すればそれで由とする、逃げの姿勢であって、これらと積極的に戦おうということを避けようとする。
戦うということは戦争ばかりでなく、あらゆる戦いにおいて犠牲と労苦が伴うものである。避け得ればその方が労力も犠牲も少なく、イ−ジ−である。
その代わりすっきりと晴れた気分になれず、いつまでも尾を引くし、しこりが残る。
その良い例が、日本の憲法の第9条の存在である。
あれは自衛隊発足の時点で憲法を改正してから、自衛隊を作るべきであった。
あの時点で憲法改正を逃げ、避けて通ってきたので、いつまで経っても憲法第9条がおかしな事になっている。
だから今回の湾岸戦争でも避難民の輸送も出来ず、掃海艇の派遣でももたつくのである。
憲法改正が善いの悪いの問題ではなく、何時か見直さなければ成らない時機が来る。
これはだれしも深層心理の中ではそう思っている。
しかし、それを言えば世間が喧々諤々になる。
この喧々諤々を一番恐れているのが政治家である。特に自民党の政治家である。
日本の政治を眺めると、自民党の独裁というよりも、これは結果としてではあるが、自民党の政権が続いているが、自民党側からこの憲法改正を言いだせば、かならず政権は野党に引き継がなければ成らない。
この危ない橋を渡る覚悟が今の自民党の政治家には欠けている。
ここで戦いをする覚悟が必要になってくる。
軍事的ということは具体的な相手を想定できるが、政治というのはその要素もふまえて、なおかつ自国民に対して配慮しなければ成らないので、ある面では面白いし、難しいと思う。あの60年安保のときの大衆運動、日本がアメリカと日米安全保障条約を継続しようと言うことに対して、日本の国民の半分近くが反対の表明をしたわけであるが、その時の反対の理由というのが、日米安保が締結されれば日本は直ちに戦争に巻き込まれるというものであった。
しかし、60年安保の時も、70年安保の時も全くそんなことはなかった。
今、あの時反対した人達はどういう心境で日々過ごしているのであろう。
日本の半数の人々が反対したことも、過ぎてしまえば全く何事もなく通過してしまったわけである。
でも、あの時の反対運動は一体何であったのだろう。
あの反対運動が国民の世論というものである。その世論が間違っていた事になる。
政治家のリ−ダ−・シップという言葉がある。
これを裏から眺めれば、政治家は世論の言うことなど気にせずに、自分の思ったことをどんどん実行せよということになる。
売上税でも同じ事が言える、世論の半分は反対であったが、結果的には実施されている。
まあ端的に言えば世論というのは「烏合の衆」ということになってしまう。
民主主義というのは多数決が原則である。
しかし、この大多数があてにならないとなれば、この先民主主義は一体何処に向うのであろう。
多数決は無責任、少数意見を聞けとなれば、これはもう民主主義の崩壊である。
日本の政治の貧困は、政治が感情論に走ることである。
理性で話が進まず、感情に流れるところがウエットである。
今回の湾岸戦争を眺める日本の国民も感情論が先に出て、感情論で物を見る。
物事を理性の目を通して眺めるということが、日本人には不得意である。
だから冒頭に述べたような報道が生まれるわけである。
軍の行動、軍の組織と言うものは感情論の入り込む余地というものは全くない。
特にアメリカの軍隊というものは合理性で動く、合理性で行動しているのである。
ウエットな感情の入り込むところなどありえない。
そこのところを日本のマスコミは全く理解しようとせず、又マスコミ人自身知らな過ぎる。今の日本人の60才以下の人は全く軍隊、軍事組織、軍の行動というものから無縁の存在であるので、ある面では致し方ない面もあるが、これでは国際社会では通用しないということは、地球人として通用しないということである。
それはとりも直さず異質な人間ということである。
現代の軍隊
この地球上には現在約160ヵ国の独立国がある。
この中には日本よりもGNPの大きい国はアメリカ一国のみで、軍事力でも大雑把に見積もって、日本より大きいのは7、8ヵ国である。
しかし、この160ヵ国の中に全く軍事力を持っていない国は、幾つあるか知らないが、いやしくも独立国である以上、大なり小なり軍事力というものは持っている筈である。
その軍事力の在り方には3つの方法しかありえない。
一つは志願制、一つは徴兵制、他の一つはその両方の併用である。
この3つの方法しか有り得ない。
日本の国民が理想としているスイスは、国民皆兵の徴兵制をとっている。
永世中立国ではあるが、その実態は国民皆兵の徴兵制をしいている。
その反面、軍事大国であるはずのアメリカは志願兵制度である。
進歩的知識人の好む共産国家は当然のこと徴兵制である。
何故、こういう違いが生じるかといえば、これは国民が国を守るということをどう考えているかという根本の問題になってくる。
スイスでは「自分の国は自分で守らなければ」という国民的合意が出来上がっている。
アメリカは国を守るというよりも、世界の警察官として何らかの貢献をしなければと考えている。
だからそれに合意できる者のみが参加している。
共産国家は当然国民の合意など二の次で、自国を守ることは当然としても、機会があれば侵略も辞さないと考えている。
しかし、どんな制度を採用していても最低限、自国を守るということは国民のコンセンサスが出来ている。
アメリカ軍が女性兵士を採用しているということは、アメリカ流の合理性である。
近代の戦争においては女性でも出来ることは非常に多い、
兵器が近代化されることにより、大の男性でなければ出来ないという面は少なくなってきている。
又、軍の行動というのは戦闘行為のみが軍隊の仕事ではなく、軍隊イコ−ル戦闘行為と結びつけてしまうのが日本のマスコミの一番陥りやすい過ちである。
この誤った認識が国際社会で顰蹙を買う所以である。
諸外国から見れば自衛隊が何故災害派遣出来ないのか、何故避難民の輸送に参加できないのか、何故PKO停戦監視団に派遣できないのか、理解に苦しむ事と思う。
日本のマスコミ、日本の知識人は軍隊イコ−ル戦闘行為と短連して物を見たがる。
そこに思考の擦違いが生じている。
災害派遣に行くことが何故戦闘行為につながるのか、避難民の輸送に行った軍隊がそのまま居座るとでも思っているのだろうか、停戦監視団に派遣された軍人が現地で戦闘行為でもしてくるとでも思っているのだろうか。
そういうことを考え合わせるとマスコミや知識人というのは、同じ日本人同志でありながら、その同じ日本人を信用していないということである。
日本は戦後シビリアン・コントロ−ルで自衛隊といえどもトップは内閣総理大臣になっているが、マスコミ、及び知識人の認識は、このシビリアン・コントロ−ルを頭から信用していないということになる。
ということは政治そのものを信用していない。
国家そのものを信用しておらず、ましてや災害や戦禍に苦しんでいる人々をもどうなってもいいという、人類愛に欠けているということになる。
これでは自衛隊の海外派兵に反対する前に、国際社会から非難されても致し方ない。
軍隊イコ−ル戦闘行為と関連付ける発想は、如何に認識に欠けているかということ自体に気が付いていない。
確かに空爆にしろ、戦車の進攻にしろ、これは直接的な戦闘行為である。
しかし、あれは軍隊の中のほんの一部に過ぎず、子供の表現を借りれば、「かっこいい」部隊である。
実際の戦闘行為でテレビで映るようなものは戦争のほんの一部分で、本当の戦争は飛行機を設計し、戦車を作る鉄を作ることから、又兵員の食料を詰めるところから戦争は始まっているのである。
軍隊の一部は確かに前線で戦火を交えているが、その反対側には避難民を救助し、災害派遣に活躍している部隊もあるのである。
アメリカの女性兵士は個人レベルでは志願しているが、一旦志願した以上、前線の輸送部隊に配属されるのか、それとも避難民の医療チ−ムに配属されるのか、それは本人の意志とは無関係である。
個人の希望は考慮されるとは言うものの、命令で動かざるをえない以上個人の希望どおりということはあてには出来ない。それが軍隊というものである。
日本人は軍隊というものが非常に幅の広い領域を持っていることを、故意に無視して考えようとしている。
とにかく悪い方に、悪い方にイメ−ジを植え付けようとしている。
だから軍隊と言えばすぐ戦闘行為に結びつけたがる。
避難民の輸送も、災害派遣も軍隊がやることは全部悪いと決めて掛かっている。
これは無知から来る偏見というものである。
日本人の内で0才から60才までの世代で、戦争とか軍事ということにこれほど無知の人々で埋まると、これは由々しき問題であると思われてならない。
ということは日本人全体が国を守る事の意義、人類愛の意義を知らないという事になる。
その日本人が戦争を感情論で捉えていると、本当の意味で、理性で考えた場合の対応のズレが生じてきて、このズレを元に戻すということは今後ますます困難に成る。
ますます「自分だけ良ければ他はどうなてもかまわない」という発想が蔓延してくるような気がしてならない。
湾岸戦争に対する日本人の対応は国民の半分ぐらいが、こうした発想に表れている。
国防ということは自分達の民族の存亡に係わってくるということが分かっていない。
いかにも他人事のような捉え方をしている。
苦しんでいる人々を救けよううという気持ちの前に、自分達が犠牲を払うことは損だという発想になっている。
ベトナム戦争当時アメリカ人の中で兵役拒否の人達が多数出てきた。
あれと同じ発想で、国家に貢献すること、人類愛に貢献することを遺棄する風潮が高まってきている。
戦闘行為と戦争終決の違い、戦闘行為がなくなればすぐ帰れると信じる無知、兵士が国に帰りたがる感情をそのままストレ−トに報道する無神経さ。
アメリカ兵は軍人になることを職業としているという認識の無さ。
全てが今日の日本人の共通の認識である。
しかし、これらは認識不足そのもので、無知ということと同じである。
アメリカ兵は志願兵だから戦争が好きだと思い込む事の愚かしさに気が付いていない。
なお女性兵士を要しているのは何もアメリカのみのことではない。
大体の軍隊を持っている世界の大部分の独立国は、男性の兵士と同様、女性兵士も合わせ持っている。
ただ任務は性別により多少配慮することは、その独立国の事情により違いがある事は当然である。
アメリカでも女性兵士を前線に持ってくることはまだやっていないが、いづれそういう時代が来るかも知れない。
アメリカでもイスラエルでも女性兵士をかなり思い切って前線に近いところに持ってこようとしている。
けれども大方の国ではまだまだ傷病兵の看護程度の任務に付けているのが一般的である。
戦争というものが槍や、刀で行なわれている時代においては、戦闘員は屈強な男性でなければ勤まらず、その方が有利であったに違いないが、今日のようにハイテク戦争ではかなりの部分女性でもカバ−出来る領域が増えてきた。
輸送、通信、補給の部分では女性でも十分消化できる分野が多い。
そういう意味で、これからの世界の軍隊ではますます女性の比重が多くなることと思う。
日本のマスコミは軍事アレルギ−があるので、その辺りの変化を理解できていない。
戦闘行為が終わればすぐ本国に帰れると思う、幼児的な発想をしがちであるが、こうした物の見方の甘さが、世界から冷ややかに見られているということに気が付いていない。
アメリカからサウジアラビヤまで物見遊山に来ているわけではない。
軍隊というのは個人の集まりではあるが、個人の意志で動くものではない。
シビリアン・コントロ−ル
アメリカがイラクを叩くためにサウジアラビヤまで進駐して来るということは、軍事行動でもあるが、その前にブッシュ大統領の政治の発露である。
軍事行動と見る前に政治的な判断によりアメリカ軍はサウジアラビヤに進駐して来たのである。
ましてや個々の部隊の司令官の一存で行ったり、来たり出来るものではない。
軍隊というのは社会と切り離された別の組織である。
組織である以上、管理が必要である。管理がなければどんな組織でも烏散霧消してしまう。そうならないために階級制度により、組織的にがっちりと枠組みが出来ているのである。
この階級制度というのは軍隊の中だけにいる時の臨時的な階級であり、一般社会に戻れば、一社会人として軍隊の階級は消滅して、お互いに同等であるが、一旦軍隊の中に入れば、歴然と階級制度が存在する。
軍隊の中だけの階級とはいえ、社会的には認知を受けており、一般社会人もその階級に対しては敬意を表するのが、世界の常識である。
この組織というのは一般社会の中でも、企業とか各種団体でも階級制度を持っている。
これは組織を管理していくためには避けて通れない、組織を維持するためには必然的なものである。
だから民間の階級、例えば、会社の社長、部長、係長というのは、それなりに社会的な認知を受けている。それと同じ事が軍隊についても言える。
旧日本軍の軍人でもこの階級を傘にきて威張る人もいたようであるが、これは人間がだれしも陥りやすい間違いで、こんなことは日本人ばかりでなく何処の国の人にも大なり小なり、そうした錯覚をする人はいるものである。
これについては本人が無知であるとしか言いようがない。
災害派遣に軍隊が出ると言うことは、こうした突発的な災害には組織だった、統制の取れた力が必要であるから軍隊が出るのであって、軍隊が出たからといって戦争にいくとか、戦闘行為に出るとか、そのまま居座ってしまうということではない。
災害派遣では組織的な、統制の取れた団体であったほうが、効率よく救助活動が出来るからである。
それを日本人の半分以上の人々が認めようとしない。
距離のことなど問題ではない。
地球上何処で災害が発生しても、真っ先に駆け付けて救助活動して、始めて日本人は世界から、名実共に経済大国として認知されるのである。
海外派兵につながるとか、憲法9条だとか、戦争放棄だとか言っている暇に救助活動をすることの方が先決である。
災害派遣、避難民輸送に出掛けるのに、何故戦争放棄が出てくるのだろう。
100%人道主義に基づいて行動するのに、何故戦争放棄という言葉を出すのであろう。
これでは日本人を救けるのは良いが、外国人を救けるのはケシカランと、世界に向って言っているようなものである。
こんな状態では日本人が世界中から嫌われても、ジャパン・パッシングされても仕方がないではないか。
公海上の機雷除去に行くのにどうして憲法9条の戦争放棄が出てくるのか、公海上の機雷の除去というのは世界の人々に貢献する、人道上の問題ではないか。
政府は日本の船舶の安全ということを言っていたが、これを言うので一国主義と言われるのであって、世界の船舶の安全の為と言うべきである。
人道的な立場ということで正正堂堂とした理由一本で行くべきである。
ここで問題になってくるのがシビリアン・コントロ−ルと世論の関係である。
シビリアン・コントロ−ルと言えば今世界の独立国の大部分がほとんど軍隊と国家元首の関係においてはシビリアン・コントロ−ルになっている。
そうでない国はイラクのサダム・フセインやキュ−バのカストロ大統領とか、ごく限られた軍事政権の国のみで、一応近代国家ではその形態はシビリアン・コントロ−ルになっている。
しかしシビリアン・コントロ−ルといえども戦争を回避することは出来ない。
なんとなれば戦争というのは政治の一形態であるので、政治の流れとして、政策の決定として、戦争遂行となれば敢然と戦わなければならない。
かって、フオ−クランド戦争というのがあって、イギリスのサッチャ−首相は南極近くのアルゼンチンまでイギリス艦隊を出撃させた事があった。
あれでもシビリアン・コントロ−ルでありながら戦争を遂行した例である。
アメリカなどは未だかってシビリアン・コントロ−ルでなかった時がなかったけれども、戦争を繰り返してきたではないか。
戦後我々の受けた教育はシビリアン・コントロ−ルということがいかにも新鮮で、これならば戦争は起きないと単純に教え込まれたが、実情はそう生易しい夢物語ではない。
民主主義というのは多数決で政策決定が行なわれるシステムである。
国民の大部分が「戦争をやれ」という場合もある。
戦前の日本がそうであったし、フオ−クランド戦争がそうであったし、今回の湾岸戦争がそうである。
しかし、国家元首が世論の動向ばかりに気を使って、世論に迎合していれば平和であり続けるかといえば、必ずしもそうとばかりは言い切れない。
世論というのは無責任である。
結果が良ければ万歳であるが、その反対ならば口を拭っている
世論の実態
世論と言うといかにも一般大衆という感じを受けるが、その実質はマスコミである。
世論イコ−ルマスコミと言い換えてもいいぐらいである。
その世論というものは全く無責任である。
国家元首がこのマスコミに迎合して政策判断しておれば平和が維持できると思うのは間違いである。
世界の近代的な国家ではマスコミは大体が反政府、反体制である。
そうでなければマス・コミニケ−ションの意味が失われるというのも一面では真実である。政府の提灯持ちではニュ−ス・バリュ−というものがない。
政府の言うことをそのまま報道しておれば戦前のマスコミと同様になってしまう。
戦前においては軍のパワ−に押されて言論界も大政翼賛会に入らざるを得なかった点は理解できるが、そういう状況を顧みず反政府、反体制をあまりに声高に叫ぶと、皮肉の一つも言いたくなる。
これが素朴な国民の感情である。
政府の採用する道が正しいのか、世論の言っていることが正しいのかは誰にも分からない筈である。
それを無責任に一方的に政府のみを攻撃するマスコミも能がない。
政策決定について「どれが正しい選択か」ということは結果が出ないことには評価が出来ない。
それを選択の段階から反対では、国民をミス・リ−ドする。
このミス・リ−ドが前の大戦での痛い経験となっている筈であるが、マスコミ界、言論界、野党勢力も含めて、このミス・リ−ドを認めようとせず、一途に天皇陛下や軍部のせいに責任転嫁しようとしている。
戦後の政治でも、政府は一方的に政策決定を行なってきたわけではない。
民主主義のル−ルに則って、野党の言い分も組み入れて政策決定、施行してきたのである。今回の湾岸戦争の際にもそういった場合は多々有った。
避難民の輸送をしなかったのも結局は野党の言い分をきいたことによる。
世界の顰蹙は野党が受けるべきである。
けれども言論界というのは反対意見の言い放しで、無責任極まりない。
少なくとも政府というのは大多数の国民にとって良かれ思って、それを第一判断材料にしているのに比べ、言論界というのは反対の為の空理空論でしかない。
一つの案件に対してそれを実施しようとする側はゼロから考えなければならないが、反対する側はその案件の不備な所を攻撃するのみで、その不備な所を是正して協力しようという姿勢が見えてこない。
不備な点があるが故に全体を否定するという考え方である。
政府を攻撃することは簡単なことである。
「口に戸は立てられない」という諺の通りである。
反対するだけなら何とでも言う事が出来る。
しかし、日本人ばかりでないが、何処の国の国民でも同じであるが、近代的な国家として存在する以上、その国民は自国の政府は一生懸命やっていると思はなければ、その国民として浮かばれない。
個々の政策としては個人の考えと多少違うところがあるとしても、全般的な心情としては、その自国の政府に協力するという心構えが無いことには、人間としての拠り所を失ってしまう。
その拠り所を無くしている人々が言論界の人々である。
世論とは所詮「烏合の衆」の域を出ていない。
仮に世論の言っていることが正しいとしても、それを実現することが出来ない。
それを是正するために民主主義の国家では選挙という制度が確立されており、この選挙によって政策の大筋が決定されてくる訳でる。
マスコミ、言論界の人々にとっては、大多数の国民が支持しているという現実を無視しがちである。
政府の提灯持ちではニュ−ス・バリュ−に欠ける。
反政府で大キャンペ−ンを張れば、日本の政治を憂慮しているというポ−ズのみは大衆に印象付ける事が可能である。
日本以外の国では政府の肩を持つ言論界、マスコミも存在するけれど、日本のマスコミは中立とは言うものの、反政府、反体制のみをニュ−スとして取り上げる。
日本のマスコミが中立というのも一種の逃げである。
過去においても大政翼賛会に組した反省のうえに中立というポ−ズを取りながら、反体制、反政府のニュ−スは盛大に報道する。
中立といいながら紙面の比重では明らかに反体制、反政府である。
確かに戦後の日本は自民党が独占的に政権を取ってきたが、これは国民の選択であって、自民党の政策に反対する人間が多いといっても、多数決の原則に則っている。
この現実は歴然とした事実であるにもかかわらず、あたかも日本全国が反対であるかのような、誇大な表現を好む。
冷静に分析すること、冷静に判断すること、冷静に思考することを拒否して、感情に走り、感情に訴える報道をする。
だから新聞の見出しの活字の大きさで物を判断しがちな国民は、ついマスコミ、言論人の口車に乗りやすい。
マスコミ、言論界の言うことを斜めの角度から見ることに慣れていない大衆は、ついついその扇動に乗りやすく、ここで政治家なり、政府が一般大衆の声を代表しているような態度の、マスコミに迎合すると、結果的に失敗となる。
マスコミはこの失敗の責任は取ることはない。
自ら反省することもない。その責任は一重に時の政府の責任となる。
政治家のリ−ダ−・シップ 、政府のリ−ダ−・シップということは取りも直さず、マスコミには迎合せず、言論界の言う事には耳を貸さないということである。
自衛隊の海外派兵反対と言えば、これは海外派兵せよと言うことである。
昨今の日本ではネジレ現象があって、国会の場では過半数の賛成が得られない。
けれども野党やマスコミの言っていることが何時も正しいとは限らない。
消費税の問題でも、個人として増税賛成の人など日本中探しても居るわけない。
しかし、これを導入しないことには年金の問題や、福祉の問題が解決できないので、どこかで妥協しなければならないと思っている人は大勢いる。
止むを得ず至仕方ないという消極的な賛成の人がいるだけで、人間の本質として増税を好む人などいるわけがない。
それを野党、マスコミは日本全国、消費税反対の人ばかりのような言い方をする。
こういう極端な考え方は日本の国益にとっては良いことではない。
年金や福祉の充実を願うならば、増税というリスクとどこかで妥協しなければならない。
反対派、賛成派はどこかで接点を見付け、妥協点を見付けださなければ、真の日本のためにはとは言えない。
けれどもマスコミ、言論界の人々はこの接点の存在を認めようとする気がない。
あたかも口では民主的という言葉を連発しながら、その本質はフアッショ化を望んでいるみたいである。
外交の危機
今回の湾岸戦争後の掃海艇の派遣では、民社党が理解のあるところを示したが、ああいう態度で、政治政策に対しても賛成できる面、反対の面というものをはっきりさせて、賛成できる面では大いに協力し合うという態度は政党として大事なことだと思う。
同時に民社党にとってはこういうことは勇気のいることだと思う。
政党の行動としては当たり前のことかもしれない、この当たり前の事を当たり前として行なうことは勇気のいることであり、柔軟性のある考え方だと思う。
他の野党も見習うべきで、マスコミも大いに見習うべきである。
日本が国際社会で孤立するということは、もう一度太平洋戦争の前夜に戻るということである。
そうなった時、日本のマスコミはどう対処しようとするのか。
又、政府が悪い、政治が悪い、政治家が悪いと言って、逃げ廻ることは火を見るより明らかである。
以上述べた様に、日本人というのは戦争というものに全く認識が欠けている。
これでは外交としても外交交渉が成り立たないということである。
国連中心主義といいながら、国連という連帯的な組織の中で、我儘を通しているということである。
この我儘な部分が、日本人には見えていないということが問題である。
国連という地球規模の問題も、我々個人レベルの話に戻して考えると、よく理解できると思う。
国連町内会でドブ掃除することが決定されたとき、日本家のみ、「我が家の家訓でドブ掃除は出来ないことになっている」と言っても向こう三軒両隣が素直に納得するだろうか?
そんな我儘を言うなら金でも出せ!と言うことになる。
何処の町内会にも有りそうな事だと思う。
こういうケ−スに置き換えたときの町内会のメンバ−の心理を思い浮べれば、今回の湾岸戦争に対した日本の態度が分かりやすく理解できるのではないかと思う。
戦争は政治の一手段ということは前にも述べたが、日本はその政治的な手段を放棄しているわけである。
これはこれで結構である。
しかし、戦争が政治の手段であるかぎり、日本がその手段を使うか使わないかは日本の意志で決まるが、160ヵ国もある他の独立国が、日本と同じ考え方をしているという保障はない。
他の国は政治的手段として、戦争という方法を取ってくる可能性はゼロと言い切れない。
国連としても日本に対して戦争をしていけないという事を他の独立国に言うことはありえない。
戦争放棄は日本の独善的な条項である。
憲法9条の戦争放棄は日本人の独り善がりである。
その証拠に国連は日本に9条があるにもかかわらず、戦争協力を要請してきているではないか。
日本は9条を盾に断り続けているが、これが何処まで続くか?
戦争が政治の一手段であるといったが、この場合の戦争というのは戦闘行為のみを指すのではない。
日本人はこの点の認識がない。
自衛隊が少しでも動くと戦争と結びつけて考える。
掃海艇が機雷の除去にペルシャ湾に出掛けても戦争、海外派兵と捉える。
災害派遣に出ても軍事行動と見る。避難民の輸送に行くと言っても軍事行動として見たがる。ここに日本人独特の独断と偏見が入り込む。
そして、それを人道上の観点から実行、実施しようとする政府の足を引っ張っている。
その上世界の人々が日本人は独善的、手前勝手と、ジャパン・パッシングを行なえば、政府の外交が悪いといって、責任転嫁である。
今、日本が世界中から顰蹙を買っているが、これは全て野党と、マスコミの責任である。
それと今の60才以下の人々が全く戦争、軍事というものの認識が欠如した状態、つまり日本人の7割から8割の人間が戦争乃至は軍事というものに対して認識が欠けているとすると、今後日本の政治が本当に外国の直接脅威に直面した時、もうシビリアン・コントロ−ルが出来なくなる恐れがある。
シビリアン・コントロ−ルと言うのは文民の国家元首、大統領にしろ、首相にしろ、本質的には戦争というもの、軍事というもの、軍事を背景とした外交というものの認識に基づいて、文民が国家元首になっているのであって、そういうものに対して全くのズブの素人が国家元首になっているわけではない。
イギリスのサッチャ−首相だって、女性であるがそうした認識のうえに立ってフオ−クランド戦争を遂行したのである。
軍事的な基本的テクニックについては素人だとしても、軍備乃至は軍備を背景とした外交というものには、深い認識があったと想像する。
その反面日本の元首はどうであろう。
海部総理も戦争を金で解決しようとしている。
輸送機による避難民の輸送はあっさり諦めている。
掃海艇の派遣は戦争が終わっているという地域で、戦後処理だといって、苦し紛れの、自信のない態度であった。
このようにシビリアン・コントロ−ルであるにしても、国家元首にこうした認識が全くない場合、国際社会では通用しないばかりでなく、逆に悪用される機会が生じる。
又、本当の危機に陥った場合、軍事の専門家、防大出の元首が生まれる可能性が出てくると思う。
今時は並みの大学よりも防大の方がよほど偏見にとらわれない考え方が普及しているかも知れない。
現実の政府、政治家があまり無知だとその反動として、シビリアン・コントロ−ルが壊れる可能性も否定できない。
人道的立場
戦争が酷いこと、又無益なこと、ナンセンスなこと、こんなことは今更言われなくても世界の万人が認めることである。
日本人だけが特別に敏感な訳ではない。
世界中の人々が同じように感じている筈である。
しかし、そう言いながら有史以来、人類はそれをし続けて来たのである。
これは日本でも同じ事で、戦争が無かったのは僅か50年弱である。
徳川時代300年間、戦争が本当に無かったかどうかは、詳しくは知らないが、平和な時代が続いたと言われているが、その300年間が終わって、明治維新になると、この300年分の富国強兵に走らなければならなかった。
日本が300年間の眠りから覚めたとき、西洋列強は軍備強国になっていたことに改めて気が付き、狼狽した結果である。
今流に言えば「平和ボケから目が覚めたとき」富国強兵に走ったわけである。
今の日本はその1/6の50年の眠りについて、これが何時まで続くか我々日本人でも分からない。
しかし、富国に走る必要はない。
なんとなれば、すでに世界で一番富んだ国になっているからである。
明治維新で徳川時代の300年の眠りから覚めてみると、当時の世界は全てナショナリズムが席倦しており、日本もその渦に巻き込まれて、日本人の全部がナショナリズムに取りつかれた。
このナショナリズムの熱意が、周辺の国々まで巻き込み、結果として日本の侵略となってしまった。
今日の日本はこのナショナリズムというものが存在しない。
ナショナリズムということはある意味では愛国心であり、日本の国益ということである。
今の日本は国益などという事をわざわざ考えなくても、円の強さがそのまま国益となり、経済成長率でもGNPでも、全て富国の域に達しているが、愛国心だけは何処かに置き忘れてきてしまった。
愛国心というよりも、民族意識と言うべきかもしれない。
世界の独立国が無駄、無益と分かっていても軍隊を維持し続ける裏には愛国心と、民族意識があるからである。
多国籍、多民族、多言語の国、アメリカにおいては運命共同体としての愛国心が、民族意識が立派に存在する。
単一民族、単一言語の日本においては愛国心というものが失われてしまっている。
ましてや民族意識など何処にもない。これは一体どういうことであろう。
愛国心もないから自衛隊もいらない。
国際社会で何を言われても良いから、戦争はいけないと言っておられる。
民族意識がないから日本が国際社会から白い目で見られても平然としていられるのである。
日本以外の独立国が財政赤字でも、莫大な債務を抱えていても軍隊を維持し続けるのは、番犬としての要因も確かにあるが、国のアイデンテイテイを維持するためではないかと思う。何度でも言うが、戦争は虚しく、無駄で、無益なことは充分解っている。
つまり主義主張に関係なく軍備をもっている。
ということは独立国である以上、国家元首が居るのと同じ程度普遍的な存在である。
つまり、独立国である以上、国家元首がいるのと同時に軍隊も必要不可欠であるということである。
戦争をするしないに係わらず、侵略行為をするしないに係わらず、軍隊というものが独立国家には不可欠の物であるということである。
大は大なりに、小は小なりに、財政が赤字だろうが黒字であろうが、不可欠な要因である。戦争が無意味であることが充分解っていながら、この状態である、ということは軍隊の存在というものは戦争のためだけに存在しているわけではないということである。
日本よりもうんと小さな独立国も、地球上には沢山有る。
そうした国も財政赤字で苦しみながらでも軍隊を維持しているということは、戦争だけに使うということではない。
それこそ、内乱の鎮圧、災害派遣、避難民の輸送等、又国家元首の式典など戦争以外にも軍隊を使わなければならない場面が沢山有るということである。
この部分の理解が日本人には解っていない。
戦後の日本人の一番悪いところは、民主主義をはき違えてしまって、民主主義は自分の我儘を通すことだと勘違いしていることである。
裏を返せば自分さえ良ければ後はどうなってもかまわないという物の考え方である。
それがあるため、国連中心主義といいながら、国連の要請であるにもかかわらず、日本国憲法を盾にすることである。
国際社会では日本国憲法など通用しないということが解らず、人道的という立場を理解しようとしない。
真の人類愛ということを本当には理解していない。
その場その場をうわべの言葉のみで言い逃れて、人間の普遍的な愛情に基づき、困った人を救けなければという認識に欠けている。
こうした人類愛の伴う配慮に欠けているのは、何も野党やマスコミばかりではない。
日本の経済界でも自分さえ儲かればという態度が随所に見受けられる。
やはり島国根性は抜けきれない。
国連中心主義でいくと言明する以上、最低限、国連の要請には全て答えられるだけの国内法の整備ぐらいはしておかなければならない。
そのためには当然日本国憲法の見直しも含まれてくる。
それにしても今回の湾岸戦争で、直接戦闘に参加するというのならともかく、避難民の輸送や、戦費の負担、掃海艇の派遣ぐらいは野党もマスコミも、大々的にバック・アップする度量がなかたのだろうか?
輸送機の4、5機飛ばしたところで、これが他国への直接侵略と思う諸外国があるのだろうか?
中国や北朝鮮ならそうしたプロパガンダを流すかもしれないが、その他の国で心底そう思って抗議してくる国が存在するだろうか。
ペルシャ湾の機雷の除去に出掛けるのに、どうして国会でくだらない答弁をしなければならないのか?
野党もマスコミもどうして人道的立場から「頑張ってこいよ!」言って送り出すことが出来なかったのだろう。
避難民の輸送をすると言うのに、なぜ送り出すことが出来ないのだろう。
平和とか、福祉とか言う野党やマスコミは本質的には、人類愛、困っている人を救けなければという使命感がないのだろう。
ただ言えることは、彼らは日本政府のやることに反対しているだけであって、中国や北朝鮮が同じ事をすれば諸手を上げて賛美するであろう。
ただ残念なことに、彼らが同じ事をすれば、それこそ世界中が直接侵略に行くものと誤解しかねないし、又それが出来るバック・ボ−ンが存在しない。
日本の野党やマスコミの人々は、一体日本人なのか、日本人でないのか、掴み所がない。
こうした人間が日本のオピニオン・リ−ダ−を自負している。
我々平均的な日本人はよほど心して、彼ら偽日本人の言動を注意なければならない。
野党の中の社会党は労働組合がバック・ボ−ンである。
労働組合ならもっと人類愛に基づく行為には積極的でなければならない筈である。
それを政治的に反対の方向に利用している。
自衛隊がやることがいけないと言っているが、この部分が平和ボケの象徴である。
自衛隊以外ならいいが、自衛隊だからいけない、これは屁理屈というものである。
これを言っている以上、反対の為の反対、人を救けることが口先だけの詭弁で終わっている。
本来ならば人助けの為ならば自衛隊でも何でもいいから、まず人を救けることが先だというのが庶民の感覚である。
人類愛に基づく普通の感覚だと思う。
パングラデッシュをハリケ−ンが襲って、その救援に東京消防庁のレスキュ−が派遣されているが、あれこそ本末転倒である。
消防というのは自治体の組織である。
自治体の組織が海外の避難民の救援に行くという方が余程可笑しい。
こんなことを何時までも続けていると、日本はますます国際社会で物笑いになる。
それでも行かないよりは行ったほうがましであるが、どうして日本では世界の常識が通用しないのだろう。
日本人は順応性が強いので、常識が通用しなくてもそれなりに上手に順応している事は認めざるをえない。
そんなことを気にも止めず社会党の土井委員長はアメリカの大学の講義に招かれて、アメリカに飛んだと平成3年5月18日のTVは報道していた。
日本の恥の文化の輸出である。
土井委員長も裸の王様と同じで、アメリカ人が笑っていても、皮肉を言っても、それが通じるようなデリケ−トな神経ではない。
アメリカ人が笑えば自分が受け入れられたと思っているに違いない。
日本にいる我々の方が余程恥ずかしい思いをしている。
誠に無知ほど恐ろしくて、強いものはない。