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労使の協調が日本の基礎

 

経済学の学問としての経済はよく分からない、けれども毎日の新聞でも2、3割は経済に関する記事で埋まっている。

我々一般市民としては、学問としての経済を論ずることが出来なくても、生活の延長線上の経済については議論をしてもかまわないと思う。

1991年、平成3年6月30日、中日新聞に「レギュラシオン理論」というものについて、囲み記事が載っていた。

その言わんとするところは、労使間の強調により経済発展をめざすというもので、我々日本人にとってはさほど目新しいものではない。

日本ではずっとこの方式で発展しつづけてきたわけである。

私が20代の初期の頃、亡くなった市野君と口から泡を飛ばして議論し合った頃は、近代経済学が盛んであった。

市野君が「キンケイ」と言うので始めは何のことか分からなかった。

判ってしまえば近代経済学を省略したもので、他愛無いものであったが、そんな無意味と思われるようなことでも、粋がって口から泡を飛ばして話し合ったものである。

この近代経済学でケインズは市場原理を重視して、大量生産−大量消費という図式を構築したけれども、1970年以降のアメリカの動向は、この図式が図式通りにいかなくなったというのが大方の見方であろうと思う。

日本では以前から労使が非常に仲がいい。

一部の企業ではそうではなかったが、そうした企業は国家企業に近い組織で、既に解体再編成されている。

日本の民間企業においては大方の所が労組と会社側は比較的仲がいい。

そして労使協調のもとに企業全体として向上し、その集合体として日本株式会社の全体の経営がアップしたと考えていい。

この「レギュラシオン」というのは、その点に着目したものだと思う。

日本の企業においては労働組合と会社側が徹底的に戦うというケ−スは余り無い。

両方がある程度のところで妥協して、会社を潰す迄やるような労使間の闘争というのは余り無い。

というのも日本の労働組合というのは企業内組合である。

ところがアメリカなどは職域毎の横並びの労動組合である。

この点が日本とアメリカの労使間の関係で一番違っているところである。

この日本の企業内組合においては会社を潰してしまうような闘争をしていては、実も蓋もないので、どうしてもある程度のところで妥協せざるをえない。

それで闘争面におけるエネルギ−が業績のアップの方に振り向けられた、と言うのは飛躍のしすぎかもしれないが、企業内組合であるが故に、労働組合というのも会社の経営にも協力、協調せざるをえない。

それがプラス面に作用して日本全体としてGNPを世界第二位までに押し上げたことは否めない。

我々は常日頃そういう環境の中で生活しているので全く違和感が無いが、日本以外から見ると労使は仲がいいということ自体奇異に見えて、あえて「イグラシオン」などという言葉も生まれてくるのだと思う。

日本の労働組合というのは元来企業単位の組合である。

企業の中のあらゆる職種が一つの労働組合を形成している。

だから大企業では実態とマッチしていない面も有るが、企業単位という組織の中にマッチしていないという不満も吸収されてしまっている。

 

賃金アップと市場拡大

 

日本人の特異性の例として、日本人は個を強調するのではなく、所属団体、所属組織を強調するということが言われているが、全くそれと同じ事が会社と労働組合という関係でもみられる。

他の国では職能によって横並びで、職能組合となって同一の職種のものが横の連携を作るが、日本では企業の中で組合も縦の連携となっている。

例えば、アメリカ等では自動車の組み立て工はフオ−ドもGMもクライスラ−も、組み立て工なら同一の組合に所属するが、日本ではそれぞれトヨタなり日産なり企業単位になっている事は周知の事実である。

ただこの労働組合が連合を組織することはあっても、個々の単産の組合活動を束縛するものではない。

こういうことは経営者側でも同じような経営者の連合を作っている。

経営者の連合と労働組合の連合は当然相反する考え方や、対処の仕方というものでぶつかり合うが、ここに日本人の話し合いの精神で、大体のコンセンサスが出来たところで妥協が生まれるというのが日本の精神的な土壌である。

経営者側も組合側も、お互いに連合を作っているが、お互いの個々の企業なり、組合を束縛するものではない。

要するに緩い枠に囲まれているだけで、一種のサロンである。

おおまかなコンセンサスから突出した意見、行動というものは出ない。

「出る杭は打たれる」という古い諺があるが、こうした連合という枠は、正にそれがぴったりと合致する。

しかし、終戦以来46年間の実績というものは、この労使の協調というのが良い方向に作用してきている。

近代経済学で言うところの大量生産−労働者の賃金アップ−需要拡大−生産性の拡大−賃金のアップというプラスの循環になったのが、日本の近代経営である。

日本の繁栄は労働者の賃金がアップしてというところに第一の原因があったのではないかと思う。

労働賃金をアップするということはそのまま市場を拡大することになる。

市場の無いところでいくら大量生産しても需要が喚起できない。

ところが日本の高度経済成長というのは労働者の賃金がアップしたことにより、それが需要を拡大したと見るべきである。

自動車、テレビ、その他耐久電気製品の普及は、それを実証している。

自動車産業で、昼夜兼行で働いた労働者が、収入が増える事により、こうした耐久生活用品を購入することになり、日本全体の産業の収益を押し上げたと想像する。

ところが共産主義の国では賃金が上がらないので大衆は物が買えない。

買えないから一生懸命作ろうとしない。一生懸命作ろうとしないから何時まで経っても物不足で、物不足の中で働く労働者の賃金も上がらないという、マイナスの循環である。

 

労働に対する認識の違い

 

アメリカが近代経済学のセオリ−通りに行かず、行き詰まったのは何故か?

浅学の私には詳しくは分析できないが、およそ直観的な考えでは、労働に対する認識と教育の荒廃ではないかと思う。

大雑把に言えば社会のシステム、人間の考え方の問題であると思う。

労働に対する認識の違いという事については前にも書いたが、日本人は働くということ自体に価値観を見いだしているが、他の国では金を得る手段として仕方なく労働するというように、労働というものに対する考え方が我々と反対になっている。

我々は、「働かなければならない」という潜在意識に苛まれるが、彼らは出来れば働きたくない、働かずに生活したいという風に発想が逆転している。

ワ−カ・ホリックと言われる日本人も、最近は働きすぎの弊害を除去するために余暇ということを盛んに言うようになってきたが、西洋人は余暇を過ごす資金のために労働をするというパタ−ンである。

これはどちらが良いか悪いかという問題ではないが、最近の日本人の若い世代には、西洋人の発想に近い考え方が多くなってきている。

ということは、将来の日本は西洋型の労働感に徐々に移行していくということである。

戦後46年間、ざっと50年間として、これから先の50年を比較すれば歴然としてくると思う。

又、労働者とビジネスマンとでも同じであるが、仕事に対する考え方というのも、我々、日本人と他の国の人々は大いに違っている。

我々日本人の場合、下は下なりに、上は上なりに、人の意見を聞くということが通常当たり前である。

毎日の仕事の進み具合から、トップが考えている近未来の事についてまで、一般の労働者や事務職員の話を聞く、意見を聴くということが当たり前である。   

ところが外国人の場合、言われた事しかしない、ましてや上の人が下の人の意見を聴くということは殆ど無いという。

ボトム・アップとトップ・ダウンという大袈裟なものではないにしても、日本では下の人の意見を聴くということは当たり前のことである。

これは小さな事のようでも、こうした風潮があること自体素晴らしい経営方針だと思う。

この小さな意見が集約されて、大きく経営にも反映されていると思う。

日本の大企業では改善提案制度というものがあると思うが、これなども大きな経営戦略から見れば些細な事であろうが、それなりの効果は有ったと思う。

外国の企業では上位下達のみで、下の者は言われた事だけしかしない、というのでは効率という面で分が悪いし、働くものの勤労意欲を刺激することがない。

上の人から「何か意見がないか?」と言われて 一言でも二言でも意見を述べるチャンスが与えられたということは、それが採用されるかされないかは別として、勤労意欲を刺激することは確かである。

この仕事をする人達の勤労意欲というのが目に見えない存在であるだけに、非常に大事な要因だと思う。

勤労意欲と労働の価値観とは同意語であるが、少しニュアンスが違っている。

アメリカ映画などを見ていると、職場の中でも上司の命令は絶対であるという面があるが、職場の中でも命令で動いている。

軍隊の中の指揮命令と同じような命令で動いている。

ところが日本では、命令が有るとはいえ、改めて職務命令を振り回さなくても自然と動いている。

この辺の違いが実に微妙なところである。

こうした違いの積み重ねが、日本とアメリカのビジネスの違い、ひいては日本経済のGNP NO1の実績となっていているのではないかと思う。

又、教育との関連で言えば、教育のレベルが高いということは質の高い労働が確保されるということである。

アメリカの教育を我々が論ずる事は間違った認識を生み出すかもしれないが、アメリカのような多民族国家では良質の教育ということは望めないかもしれない。

その点、日本は均一的な国民であるので、今後とも教育については差程大きな問題は起きないかもしれないが、別のアプロ−チから教育が問題になる時期が来るかもしれない。

 

外国人労働者の問題

 

別のアプロ−チというのは外国人労働者のことである。

この外国人労働者の養育となると大きな問題になると思う。

この外国人労働者の存在が日本経済に影響を与えるようになるのも長い将来のことではなく、すぐ目の前に来ている大きな問題だろうと思う。

既に昨年辺りからテレビでは色々報じられている。

日本は均一な民族なるが故に、外国人労働者の問題が浮き上がっているが、アメリカという国は、その誕生の時からこの問題がついて回っていたので、今更問題でも何でもない。

そこにもってきて民主主義の手本のような国である。

朝鮮であろうが、ロシヤ人であろうが、ベトナム人であろうが、全てアメリカ市民である。英語がしゃべれないアメリカ人というのは我々は理解できないが現実に存在しているわけだ。

こうした国家だけに経済の問題にしろ、教育の問題にしろ、我々以上に努力もし、金も出しているだろうけれども、結果的には効果が上がっていない。

アメリカ自身がジレンマに陥っていることは理解できるが、これはアメリカ自身が解決しなければならない問題である。

黒人、ベトナム人、ロシヤ人も同じように雇用しなければならないアメリカの企業というのも大変だろうと想像する。

しかし、これは最近の世界の情勢を眺めてみるとアメリカだけの現象ではなくなってきている。

ECが今度統合すると、今までのような企業のナショナリズムというものは段々と薄れてくることは当然である。

ヨ−ロッパにはトルコからの難民、東ドイツからの人々等、世界各国から人が入り込んでくる。

今まではアメリカのみが特別であったが、今はヨ−ロッパでも同じ現象が現われてくることであろう。

又、日本においても先の外国人労働者がアメリカと同様の問題を提起しかけている。

日本においても終戦後の46年間というものは日本人の日本人のための企業であったが、これからその状態を維持しようとすれば、日本人の絶対数が減った分、ロボットに代行させなければならない。

ロボットに代行させることが出来る部分はロボットに代行させればいい。

又、ロボットに代行させ得る分野の開拓ということも大いに進むことと思う。

すると本来の日本人は何処にいくのか。

年金の問題でよく言われていることに、21世紀には、若者7人で、1人の老齢者を養わなければならないということが言われている。

又、21世紀には若者の数が減少してくる。そのあと、残った日本人は老齢者ばかりである。日本の若者が減った分だけロボットが活躍することになるが、ロボットがやってくれる分にはいいが、老齢者と外国人労働者の問題が社会問題として大きく我々の上にのしかかってくる。

今、3Kという言葉がマスコミに登場して久しい。

日本人の職業感の中で嫌われている職業を示す端的な言葉である。

危険、汚い、きついの3つの言葉のKを取ったものだそうだが、こういう要素を含む職業に若者が付きたがらないという事である。

こんな職業は若者ばかりでなく大人だって本当はやりたくないけれども、今まではやらざるをえなかったにすぎない。

けれども若者の数が相対的に減ってきたので特に顕著に目に付くだけの問題で、こんな職業は誰でも嫌なことは当たり前である。

だから日本人はやりたがらない。いきおい外国人労働者、フイリッピンやブラジルから来た人々がそういう職に就く事になる。

こんなことは経済の成長過程では何処の国でも経験していることである。

アメリカでも鉄道の布設では中国人労働者や、日本人労働者が従事したのだし、ヨ−ロッパでも清掃作業はアフリカや中東から来た人が担っている。

日本が経済的にこれだけ成長すれば、当然、外国から日本の賃金に引かれて入ってくる労働者というものが生まれる。

又、日本の内部においても、そうした職業につく人が居なくなってしまったのである。

だから必然的にそういう方向に流れていく事になると思う。

過去の太平洋戦争当時、日本は労働力不足を補う目的で朝鮮の人々を大勢受け入れた。乃至は強制的に徴用してきた。

その50年前の経験を貴重な経験として、あの時と同じ轍を踏まないように細心の注意を払うべきである。

あの時点では挙国一致、戦時体制下で、なおかつ日本帝国主義に席巻されており、ある面では致し方ないという面もあるが、これは日本人の論理で、先方に対して何の説得力も持ち得ない。

現在、在日朝鮮人というのが正確には何人居るのか定かでないが、現在の在日朝鮮人で本国に帰りたいと心から思っている人は皆無ではないかと思う。

彼らは、我々日本人以上に日本の繁栄と栄華をほしいままにしているので、韓国にしろ、北朝鮮にしろ、自ら帰りたいと思っている人は一人もいないのではないかと思う。

彼らとの戦後46年間の軋轢は、年月の経過と伴に風化したかに見えるが、時々、指紋押捺という問題で表面化していたが、これも最近の海部総理大臣が止めるということを発言したので、解消することと思うが、朝鮮人が46年間も日本に住み続けたということになると、これはちょっとした切っ掛けで民族問題にすり変わる可能性があると思う。

この問題は、今問題になっている外国人労働者の問題とは少し異質な面があるが、外国人労働者のことを考える場合、このことを念頭において議論する必要がある。

 

妥協と協調

 

日本人が3Kの職業を嫌う、ロボットにも限界がある、となれば大なり小なり外国人労働者に頼らざるをえない面があると思う。

その上、日本人は年寄りばかりで、年金生活者ばかりになったらなおさらのことである。

日本の経済を形成している中には種々雑多な職業、仕事というものがある。

その全ての面において教育は無いよりは有った方がいい。

有ればそれだけレベルの高い労働者ということになりうる。

しかし、これからはこうした底辺において従来のように質の高い労働者という事は望めなくなる。

今までは道路工夫も清掃員も新聞ぐらいは読めたものであるが、今度からはそれが期待できない、ということは作業の時も一つ一つ細かく指示をしなければならない。

それをしないことには品質の保障ということが出来ない。

この品質が維持できないということは経済にじわじわと、ボクシングのボデイ−・ブロ−のように時間を掛けて効いてくると思われる。

今のアメリカの現状と同じ状態になってくることと思う。

ロボットなら品質の保障ということは問題ない、セッテイングさえきちんとすれば、その点は安心である。

しかし相手が人間となるとそうはいかない。

日本の経済発展の根底には協調ということが脈々と流れている。

これは一種の日本式民主主義と言い換えてもいい。

会社と組合、上司と部下、親会社と下請け企業など、社会のあらゆる階層で協調ということが基本になっている。

徹底坑戦ということは日本人にはない、ある程度のところで妥協をする、妥協と協調が車の両輪となって日本を此処まで発展させてきたのである。

今、世界はこの妥協と協調の経済効果というものを認識しはじめた訳である。

 

証券不祥事の本質

 

けれどもこの妥協と強調の経済効果がマイナスに作用した大きな事件が1991年6月に入って暴露された。

野村証券と日興証券、その他2社という日本のビッグ・ビジネスが株の暴落によって大損をした企業に損失補填をしていたという事件である。

各社とも事件が発覚した直後に社長が引責辞職をしているが、社長が止めたぐらいで問題解決出来るものではない。

証券業界全体の体質にかかわる問題である。と同時に脱税という面の問題、大蔵省という国の方針に対して背任という責任の問題があると思う。

それよりもビッグ・ビジネスのトップが犯した不道徳行為が許せない。

社長の犯罪になるかどうか現段階では分からないが、少なくとも補填した金というのは本来ならば利益であり、課税対象になるはずである。

又、大口取引先のみに損失補填をするということは、小口の投資家、小口の客というものを馬鹿にした行為である。

株屋と大口投資家が妥協と協調をするのは前近代的な行為である。

この件については大口投資家の方にも問題がある。

大きな額の資金を株屋に預け放しにしておくということも法人としての行為とは思われない。株屋と投資家が成金同志ならこのような大らかな行為も許されるかも知れないが、こんなことは明治か大正時代までである。

近代的な日本を代表する法人のやることではない。

これは妥協と協調を通り越してグルになっている。結託しているということである。

株というものは利益も大きいがリスクも大きい。

そういう意味で、その運用を相手に任せ放しということは、我々素人には理解できない。

又、その資金というのは個人の金ではなく、法人という組織全体の金である。

そういう類のものを相手に預け放しということも不思議である。

相手に損をさせたから補填するというのも実に鷹揚な考え方である。

世の中に、このような仏様のような人ばかりならば、もっともっと明るい社会になること間違い無しである。

正に妥協と協調の賜である。

こういうのが大企業の癒着というものであろう。

けれども、これでは一般大衆、一般の投資家はたまったものではない。

一般大衆、一般投資家も大企業同様損失補填してもらえればこんな結構なことはない。

けれども一般大衆からは遠慮会釈なく絞り取っておいて、大企業には損失を補填しておくというのでは一般大衆、一般投資家が怒るのも当たり前である。

一般投資家はリスクを背負って投資しているのである。

大口投資家のみ損失、リスクが補填されて、一般大衆にはそれがないということは全く言語道断である。

大きいもの同志、もたれ合っていると言われても仕方がない。

大口投資家はお得意様という気持ちも分からないではないが、株の利益は税金という形で国民に還元するのなら万人が納得できるが、それを上得意にだけ還元するというのでは還元を受けた企業は大喜びであるが、一般大衆はたまったものではない。

本来は株屋の利益として税金という形で国民に還元すべき金である。

この件について犯罪になるのか、ならないのか知る由もないが、不道徳なことには違いない。社長のモラルが問われるのもむベなるかなである。

 

アンチ・モラル企業について

 

けれども丸紅の脱税、詐欺事件というのも全くひどいものである。

野村証券にしても、日興証券にしても、丸紅にしても、日本を代表するビッグ・ビジネスである。

そこの社長ともなれば学識、見識とも優れた人物であろうけれども、そうした人達がこうした犯罪まがいの、又、正真正銘の犯罪を犯すということは全く許せない。

優秀な学校を出て、エリ−ト・コ−スにも乗って、頂点をきわめて、こうした犯罪、乃至は脱税、詐欺事件等をしでかすということは、全く由々しき事態である。

社長を辞任する程度では庶民感覚としては納得できない。

脱税ということは交通違反と同じであまり罪の意識がない。

けれども我々の自動車税の滞納とは訳が違う。

国民は等しく納税の義務を負っている。企業も納税の義務を負っている。

しかし、企業を動かしているのは人間であり、この人間が脱税をしようというモラルに欠けた人間が社長になられては行く行く日本は崩壊する。

世間の人は、もっとこの脱税企業を攻撃、糾弾すべきである。

脱税程度では人殺しと違って刑罰もたかが知れている。

けれども脱税という反社会的なモラルの人間は厳しい厳罰で望むべきである。

人間的にモラルの向上を図ろうとすれば、叩くか厳罰に処する以外にモラルの向上は望めない。

脱税とは異質だが、同じ刑罰でも知識の高い人というのは当然モラル的にも高潔でなければならない、

小さな小売店が税金をごまかすのと、日本のビッグ・ビジネスが脱税するのとでは、その社会的影響は大きく違ってくる。

同じ脱税でも大企業の方は大きく罰せられても当然である。

野村証券や日興証券は企業として存続できないほどのダメ−ジを与えておくべきである。

当然、丸紅の会社ぐるみの詐欺事件など、企業として存続できないようにすべきである。

丸紅というのは先のロッキ−ド事件でもモラルの欠如を表面化させているではないか。

こんな企業が日本のビッグ・ビジネスでございますと世界を相手に商売をされては国辱ものである。

国家の責任において、こうしたアンチ・モラル企業は解体すべきである。

これは極論だとしても、一般大衆はもっと情熱を以て反モラルの企業をボイコットすべきである。

マスコミは当てに出来ない。

このような大企業はマスコミに宣伝費という媚薬をかかされているので、こうした企業を真から攻撃することが出来ない。

ここにも妥協と強調が存在する。

マスコミというのは相手が政府ならば攻撃できる。何となれば公告料をもらっていないからである。

妥協も協調もする必要がない。

けれども民間企業同志だと、大企業はマスコミの代表的なところに広告費というのを払っている。

これがマスコミの大きな収入源である。

いきおい野村証券に対しても、日興証券に対しても、丸紅に対しても、徹底的に叩くことは出来ない。

程々のところで妥協と強調をすることによって両方が生き延びなければならないからである。しかし、こういう系列もアメリカから指摘されていることで、そうではあっても収入源である以上手加減というものは必要になってくる。

妥協と協調の精神が発揮されるわけである。

成り行き上、企業の話が前面に出てきたが、これは選挙違反についても同様なことが言える。けれども民主主義である以上、違反しても当選した以上はどうしようもない。

いくら庶民が大騒ぎしても犬の遠吠えである。

 

バブル経済の功罪

 

それにしても企業犯罪というのはやるせない。

そういう企業に働いている人の気持ちというのはさぞかしつらいことだろうと思う。

すぐにでもイスを蹴って辞めれる人はいい、妻子のことを考えて辞められない人は哀れである。

又、今まで上司を信じて業務に励んできた若い人も気の毒である。

上司なり先輩なりを信じて仕事をしてきたのに、ある日突然脱税に加担していたと分かったときにはさぞかしショックであろう。

そういう意味でも企業犯罪の首謀者は厳罰に処すべきである。

丸紅の企業ぐるみの詐欺なんて事は言語道断である。

こうした風潮が蔓延したのはやはりバブル経済の功罪だと思う。

金儲けに身も心も振り舞わされている証拠であり、マネ−・ゲ−ムとして金儲けをゲ−ム感覚で行なってきた証拠であろうと思う。

日本の企業はあらゆる業界で過当競争である。

適性、公正な競争の業界というものはないに等しい。

そうした中でマネ−・ゲ−ムが展開され、各社ノルマの達成にしのぎを削っているという状況が、こうした事件の背景にあることは否めない。

善いことで競争するなら問題はないが、悪いことでもすぐに足並みが揃ってしまうという点が日本人の悪いところである。

人がやっているから自分もやる、ライバル社がやっているから我が社もやる、此処で善悪を見極める良心が麻痺してしまっている。

優秀な学校を出て、優秀な企業に入社して、自分でも努力して、エリ−ト・コ−スをひた走って、挙げ句の果てが、バブル経済の中でマネ−・ゲ−ムに一喜一憂して、脱税、警察、裁判所、留置所というコ−スを辿らなければならない人生というのも実に虚しい。

この人生航路の中で良心を失った時点で、モラルのない人間に変わってしまったわけだ。「終わり善ければ全て良し」という言葉があるが、こうした人の人生は、この時点までは、かなりそれが達成されてきている筈である。

すると、この人の人生は一体何であったのかという事になる。

たいした学校にも行かず、汗水垂らして働いて、たいした金も出来ずとも、警察の世話にならずに余生を送ることが出来る人の方が、本当の勝者と言わなければならない。

企業犯罪というのは並みの殺人事件よりも社会的な影響というのは大きい。

殺人を擁護するつもりはないが、それ以上に企業犯罪の罪の方を強調したいのである。

先日、住友不動産の社長というのがバブル経済の功罪についてのべていたが、資本主義社会の中で、需要と供給の中で、付加価値を追求することは悪くないことだといい、それをコントロ−ルするところが無いのがいけない、という意味のことを言っていたが、これは正しくバブル経済をあおる発想である。

コントロ−ルする機関がないので、何処まで行ってもいいというというのは、あまりにも身勝手な論理である。

あたかも大蔵省が「止めよ」と言わなかったからやった、「止めよ」と言えばやらなかったというニュアンスである。

この飽くなき付加価値の追求というのを、自らのモラルで、良心で、コントロ−ルするのが証券業界なり銀行のトップの考え方でなければならない。

それをあたかも大蔵省のせいにするのは男らしくないし、学識、見識の優れた日本のビッグ・ビジネスのトップの発言にふさわしくない。

こういう経営者が財界、実業界のトップに居るのでバブル経済の中でマネ−・ゲ−ムが横行するのである。

社会的なモラルとか、良心というものが存在していない。

自分さえ儲かればいい、大蔵省が規制しないのがいけない、という言い方は実に無責任な発言である。

自分達が困ったときは各省庁に業界として圧力をかけるのに、自分達が儲かっている時は儲けるだけ儲けておいて、責任を大蔵省や他の官庁に転嫁しようという態度は実に無責任である。

ビッグ・ビジネスのトップなら当然現状分析ということも出来ているはずである。

ある程度のところで、それこそ経営者の連合の中で、自主的な判断で自らをコントロ−ルすべきである。

あの住友不動産の発想では町のチンピラの発想と同じである。

モラル的に、又人間的に、精神の向上が認められない。

 

昔の倫理感で見ると!

 

バブル経済というのは所詮借金経済のことである。

金利が安いので、安い金利で借金をして、それで投機ををして利鞘を儲けようという自転車操業のことである。

だから、投機をして儲かると思っていたところが、思惑通りに値上がりしないと、そこでパンクということになる。

もともと自己資金で経営しているところは直接の被害は少ないが、それでも投機ということをすればリスクは同じである。

投機全体に大きなリスクがついて回ることは論を待たない。

投機にリスクがついて回ることは誰でも知っているが、このバブル経済のなかでは値上りが激しかったので、リスクも少なかったが、それは潜在的に存在するものであるので、何時かは露呈する。

又、金利も何時かは上がる。この時期は昨年の秋であった。

昨年の秋、NHKが土地改革という特別企画番組を一週間に渡って報道した。

あれが直接の原因かどうかは定かでないが、その後金利がアップした。

これによってバブル経済は一辺にパンクした。

それを直接的に受けたのが「日東アラレ」である。

又、先の話で4大証券会社の損金補填もこの時期の出来事である。

マネ−・ゲ−ム、土地転がしなど全く一般大衆を馬鹿にしたような言葉である。

元来、金というものは玩具にするものではなく、土地もころころ転がして転売するものではない。

それを金融や不動産の業界の論理でそのようにしてしまったところに、その言葉に踊らされた一般大衆は無邪気なものである。

一般投資家ばかりでなく、大企業も会社ぐるみで踊らされたわけである。

銀行も不動産会社もきちんとモラルを守っている間は銀行であり、不動産会社であるが、一旦モラルを失えば、ただの金貸し、土地ブロ−カ−にすぎない。

逆の言い方をすれば、証券会社、銀行、不動産会社といえば格好が良く、大学生に人気も一番高い憧れの企業ではあっても、一皮剥けばその本質は株屋であり、金貸しであり、土地ブロ−カ−である。

このバブル経済ではその本質がモロに出たわけである。

古い倫理感かも知れないが、古き良き日本社会では、この3つの業界はまともな人間は敬遠した職業である。

このビッグ・ビジネスの社長クラスの人が入社した当時の社会通念では、この業界には良心的な日本人は敬遠したものである。

その精神面の本質がモロに暴露されたのが今回のバブル経済である。

ちなみに、証券会社が株屋と言って蔑まされた頃の、堅気の職業といえば、やはり官庁や教師の道である。

製造業でもまだ株屋よりは社会的地位が上位であった。

時代の流れとともに倫理感も変化してくるのは当然である。

株屋、金貸し、土地ブロ−カ−が社会的地位を向上させても、その本質の精神が脈脈と流れている事が不思議である。

企業のトップに全く社会的な倫理感、モラルの向上がなく、欠落していることを今回の事件が暴露したわけである。

ということは昔の人が言っていた倫理感というのが現代に至ってもそのまま通用すると言うことである。

株屋と土地ブロ−カ−というのは別にして、金貸しというのは売春と同じで人類最古の職業であるというのも頷ける。

 

弁護士の汚職事件

 

バブル経済と企業犯罪を糾弾している最中に、今度は事もあろうに弁護士の汚職という不祥事が暴露された。

平成3年7月9日、並木俊守という弁護士が依頼主と交渉相手の両方から金を取って、依頼主よりも交渉相手の方に有利な交渉をしたというものである。

事実関係の羅列はマスコミにゆずるとして、弁護士としてのモラルが全くないといわざるをえない。

内容的にはバブル経済がらみの泡銭のやり取りで、我々庶民とは直接の関係はないかもしれない。

けれども弁護士という職業のモラルの低下ということを考えれば由々しき問題である。

先の証券会社の損金補填といい、銀行の節度を欠いた融資合戦といい、今回の弁護士の汚職といい、こうしたモラルの低下というのは実に嘆かわしい。

特に社会的にもモラルを一番重視しなければならない人々の犯罪である。

平成3年7月8日、証券会社の不祥事に対して、橋本大蔵大臣は掃き捨てるようにテレビで言っていたが、まさに法律以前の問題である。

なお後日大蔵省も監督不行き届きということで処分を実施した。

社会的にも高い地位にありながら、学識、見識共に優れた人々であるはずの、証券会社や銀行や弁護士がどうしてこう金に執着するのであろう。

自分達のしていることが、社会の倫理に反しているということが分からないわけではない。分かっていながらその倫理よりも金、金に対する欲望を優先させたとしか言い様がない。

証券会社や銀行は過当競争ということがあるけれども、弁護士となるとそれこそ過当競争と言うことも出来ない。ただただ欲の塊としか言い様がない。

世の中に犯罪人というのは浜のマサゴほど、それこそ掃いて捨てる程いる。

けれどもほとんどは小悪人である。

この世で殺人というのが一番悪い犯罪という風に我々庶民レベルで通念となっているが、こうした社会的にトップレベルの人の犯罪というのは、その影響力の大きさから言えば殺人以上に大きいと思う。

だからと言って殺人を擁護するものではないが、社会的な影響力の大きさから言えば殺人と同等以上の厳罰に処さなくてはいけないと思う。

倫理ということはあらゆる面で言われている。

政治家、医者、学校の先生、銀行、証券会社、全てに職業上のモラルというものがある。

モラルとは最低の常識という意味で、これを乗り越えると罰則というものに引っ掛かるということになっているが、人間に英知がある以上、自己の判断でセルフ・コントロ−ルすべき点がモラルである。

いわばミニマムの道徳である。

自分で職業上の道徳として、守らなければならない最低限の良心である。

これらの不祥事はこの良心が欠けたことによって引き起こされている。

証券会社だって損をするかも知れないということなど百も承知である。

客の方もそれは承知のうえに証券会社に資金の運用を任せているので、損をした客の大口の客だけ、その損を補填するなどということは他の客に対して不合理であるばかりでなく、社会的な影響力についても承知の上で、今後の取引を期待して損金を補填するということは、株式市況というものを私物化するものである。

こんなことが悪いか善いかということは論を待たない。

これを優秀な大学を出て、証券業界に何年も身を置いて、経験豊富な会社のトップが分からない訳がない。

文字通り学識、見識優れた人が理解できないはずはない。

そういう人達が欲に駆られてというか、営利至上主義に駆られてというか、過当競争があるからとか、とにかくどんな理由があろうとも、そこの倫理のコントロ−ルが出来なかったという点が非常に大きなポイントである。

ましてや弁護士が依頼主を裏切って、交渉相手から買収されて、両方から金を巻き上げるなどということは文字通り、極悪非道というべきである。

極悪非道という形容詞はマスコミが殺人者に対してよく使う言葉であるが、この弁護士に対してもこの言葉で形容するのが妥当である。

この弁護士はこの形容詞のごとく極めて悪い、道にあらざる事を行なった極悪非道の弁護士である。

弁護士というのは人々から信頼されて初めて成り立つ商売である。

人の信頼を裏切るような事をしていては我々は弁護士そのものを疑ってかからなければならない。

我々庶民感覚で弁護士といえば、法の番人、弱い者の味方というイメ−ジであるが、その一般的な概念はこれで完全に失墜したわけである。

 

持ち場、立場でのモラル

 

私個人としては始めから弁護士や公認会計士というものをあまり信用していない。

というのも弁護士の職業上の概念というのは、仮に殺人者を弁護する場合、明らかに犯人と思われる殺人者でも、いかにも犯人でなく、刑が軽くするように弁護、つまり裁判を誘導するような弁護士が良い弁護士であるという概念が拭い去れず、一見反社会的な論理を引きずっている点が嫌いであった。

しかし、依頼主の信頼を裏切らないという前提の上に成り立っていることであって、弁護士が依頼主を裏切って相手先に寝返ってしまっては、弁護士としての存在価値そのものが成り立たない。

公認会計士の職業的な、社会的な影響というものも実に大きい。

本年6月に倒産した「日東アラレ」という会社は粉飾決算をしていて、それを見抜けなかった会計士が処分を受けたという様に記憶しているが、こうした事は今回の証券会社の損金補填の場合にも、公認会計士は何をしていたのかということがもっと問題になってもいいと思う。

税務署の監査なんかもそれを見抜けなかったのか?いや、税務署の監査でそれが発覚したのかな?今回は後者の方であるようだ。

我々はテレビやマスコミからこのようなスキャンダルを知るので、その発端のところはどうも記憶が定かでない。

活字の大きさや、タイトルでその問題の大きさを直接肌で感じてしまう。

発端の細部の所までは注意が向かない。

いずれにしても社会を構成しているそれぞれの持ち場、立場できちんとモラルが確立されており、それが完全に機能しておればこういう不祥事は起こり得ない。

会社組織については社内にもこうしたチェック機能が何段階にもあるはずであるが、弁護士の場合はそういうものは存在しない。

悪いことをしようと思えばいくらでも出来る立場である。

今回の場合、並木俊守という弁護士は日本大学の教授も勤め、税務大学校の先生も勤めた、税務、経理の大ベテランである。

年令も66才という、まあ庶民感覚から言えば金欲にも悟りが出てくる年令であるにもかかわらず、欲望の趣くまま金欲に走ったというか、モラルを踏み外したというか、全くもって遣る瀬ない、虚しい事態である。 

これは人それぞれの生き方、生きざまの問題であろうと思う。

大体、弁護士になろうと思う人間は本当の意味で法の番人、弱い者の味方になろうと思うような人は少ないのではないかと思う。

若い時にはこういう律儀な気持ちがあったとしても、いずれは俗化して、金優先の生き方に成ってしまうに違いない。

人間の欲望というのは所詮、突き詰めれば金欲に尽きると思う。

まして証券会社に入社しようという人はこの一語であろうが、しかし、こちらの方がその気持ちをストレ−トに表現しているという意味では可愛らしい。

弱い者の味方という看板を出しながら、片方の手で口先三寸で金を儲けてやろうという、二重人格的な、作為的なところが汚い。

弱い者の味方という仮面を被って衣の下から欲の皮が手を出しているところが好きになれない。

 

教育はモラルの向上に無力か?

 

しかし、日本の教育がこうしたもの達に有るということは、教育界にも問題があるのではないか。

66才の弁護士が出た学校となれば、丁度終戦のどさくさの頃の学校に違いないが、卒業した学校の質よりも、その後、この弁護士を教授として迎えた日本大学や、税務大学校は採用の時点で、この並木俊守の学識、見識を見抜けなかったのだろうか?

この並木が大学教授を勤めた時期を私が知る由もないが、この極悪非道な、人非人に教えを受けた大学生も、今頃さぞかしびっくりしていることであろう。

個人的な見解だが、人間が私利私欲に走るということは、人の人生の中で本質的なこととは思うが、又欲望の追求という意味でも、普遍的な事とは思うが、これではその人が受けた教育というものを無に帰してしまうと思う。

教育というのは人間の精神をより高潔に高めてこそ、高等教育の意義が出て来るのではないかと思う。

その結果として金が入って来る事は喜ばしい事であるが、自分の受けた教育を武器として金欲に走るということでは、教育というものを再検討すべきではないか。

弁護士といえば日本でも最高に難しいテストを受け、そのためには本人の努力と教育が合いマッチして始めて弁護士という職業に成り得るのである。

言葉を変えれば最初から学識、見識の優れた人が成っているのである。

その裏には国民の税金に支えられた高等教育というものがあるわけである。

並みの成金とは最初のスタ−トから違っているのである。

その弁護士が並みの成金のような行為をして、私利私欲に走るということは実の嘆かわしい事と言わざるをえない。

これは証券会社のトップも、銀行のトップも同じ事が言える。

やはり人間というのは自分の職業を通じて社会に貢献しなければ、まともな社会人とは言えないと思う。

社会に貢献というとオ−バ−な表現に見えるが、何も特別な事をするわけではない。

その職業について当然すべき事を当たり前にすることがすなわち社会に貢献することである。それから外れて、踏み外して、目先の利益のみを重視して、低金利で融資すればバルブ経済になるし、損金を上得意だけに還元すれば一般投資家が怒るのは当然な事である。

これらはいづれも当然な職務から逸脱した行為であるが故に問題視されるのである。

こんなことは企業のトップが分からないはずはない、けれどもそれをしてしまったということは企業のセルフ・コントロ−ルの機能が崩壊しているという意味で、社会問題となっているわけである。

平成3年7月9日現在で各自治体が証券会社から手を引くということが発表されたが、ここしばらくは証券会社は冬の時代、暗黒の時期を迎えることになろう。

大蔵省の営業の停止の処分といい、自治体の取引辞退といい、ここしばらくは証券会社はお先真っ暗な時期がつづくと思う。

けれども、「人の噂も75日」という言葉どおり、庶民の金欲を追求する欲望が尽きたわけではないので、「喉元すぎれば熱さを忘れる」であろう。

が、今までのような黄金時代を迎えることは出来ないと予測する。

それにしても、弁護士の背任行為というのは腹の虫が収まらない。

被害者もバブル経済の中で泡銭のやり取りであるので、被害者に同情する気はないが、弁護士という職業の信頼を裏切ったというところに怒りを覚える。

私個人の見解はともかく世の中の通念としては弁護士といえば法の番人、弱い者の味方である。

それが私利私欲に走って、金欲の追求にうつつを抜かしていかたと思うと私ばかりでなく、世の中の人は怒って当然である。

こんな人間はただの死刑ではすましてはならない。昔の獄門磔の刑に処すべきである。

モラルの向上には極刑で処する以外望めない。

理性がある、教養がある、学識経験があるといっても目の前に金の成る木が有るとなればすぐに食べてしまう弱い動物である。

これを是正して、目の前に金の成る木があってもすぐに手を出さないようにするには、重い刑罰以外に無い。

それでないことにはモラルの向上はありえない。

刑罰の恐さ以外、人間の欲望をコントロ−ル出来るものはない。

だから背任弁護士なんて者は自宅前で磔の刑に処すか、のこ切り引きの刑に処すべきである。

本来、こういう刑を軽減するのが弁護士の使命であったが、その刑罰を自分が受けなければならないとなると気の毒な話である。

 

裁判について

 

しかし冗談はともかくとして、弁護士の弁護は一体誰がするのだろうか。

やはり弁護士にも弁護士がつくのだろうか?

裁判というのは弁護士というものがどうしても入用なのだろうか?

その辺の所は浅学のためよく分からないが、仮に殺人者が明らかに犯人と思われても、弁護士というのは入用なのだろうか。

多分、犯人と確定していても刑を軽くするという意味で弁護士というのは必要だろうと思うが、又、その確定した犯人を弁護士が、口先3寸で犯人でないとしてしまった場合は一体どうなるのであろう。

本来ならばそういう弁護士が腕がいいといわれるべきだと思う。

又、裁判官というのが偏向思想を持っていた場合、一体その裁判というのはどうなるのだろう。

その判決は真に公正なものだろうか?

いつも不思議に思うのは、地方裁判所で有罪、上級裁判所で無罪という逆の判決が出た場合、その地方裁判所で判決をした裁判官はミス・ジャッジしたことに対して処分とか、処罰ということが有るのか無いのかという点である。

ミス・ジャッジに対して何ら処罰がないということは全く無責任なことである。

裁判の過程でいくら努力をしてもミス・ジャッジすれば、結果的に無責任ということになる。一般の社会ではミス・ジャッジすれば何らかの処罰があるのが当然である。

例の証券会社のトップも引責辞職しているし、普通の組織なら退職なり、配置転換なり、左遷なり、何らかの処罰というものがある。

裁判官にも内部的な処罰というものがあるのではないかと思う、そうでなければ裁判なんてものはいい加減にやっておけばいいということになる。

日本の国民は等しく信教の自由ということが保障されている。

裁判官にも共産党員の一人や二人居ても不思議ではないが、裁判の中に共産主義を持ち込まれてはたまったものではない。

しかし、それはどうやってチェックするのであろうか。

地方裁判所から最高裁判所まで裁判にも段階があるのは分かっているが、思想的に偏った裁判が行なわれたら我々国民はたまったものでない。

テレビ等によって得た浅学によると、裁判というのは裁判官が検察側と弁護側の両方から意見を聴き、同時に裁判を進行させる司会者も兼ねながら、最後の結論として判決を出すように見えるが、最後の結論には誰も意義を唱えられない様に見える。

弁護士というのは結論の出る過程において、被告を弁護するのみで、結論に意義を差し挟むことは出来ないようである。

これでは裁判官がミス・ジャッジしても結論はそのまま生きてしまう。

仮に上級裁判所で逆の判決が出た場合、そのミス・ジャッジした裁判官はどうなるのかという問題である。

ミス・ジャッジしても何ら処罰が無いとなれば、それこそいい加減な判決を出しておいてもいいという事になる。

前にも述べたように人間は処罰が恐ろしくて良心に帰るのである。

それは裁判官であっても人の子である以上同じであるはずである。

けれども裁判官が処罰を受けたという話はあまり聞いたことが無い。

以前、鬼頭という裁判官が妙な行動をしたことがあったが、今は弁護士になっているというように記憶しているが定かではない。

 

訴訟の損得勘定

 

日本人は裁判ということを元来は嫌う民族であった筈である。

ところが公害問題が大きくクロ−ズ・アップされてくると、金目当ての裁判が多くなったような気がしてならない。

ただ当事者は決して金目当、保証金目当ての裁判であるとは言わず、日照権の侵害だとか、生存権の侵害だとか、全て新しく権利というものを作り出して、権利の侵害というアプロ−チをしてくる。

こうした問題の中には弁護をしなければならない面も皆無とは言わないが、応応にして裁判闘争において影になり日向になり糸を引いているのが弁護士という集団である。

公害訴訟なんかで多額の保証金を取ったとしても、その大部分が弁護士料として巻き上げられると聞くが、真偽のほどは知らない。

多分、本当だろうと思う。

弁護士報酬というのは成功報酬で、額が大きくなれば弁護士の取り分も大きくなるのが通例のようである。

原告側も欲の皮を張って多額の保証金を勝ち取ったとしても、弁護士に吸い取られるのも致し方ない。

自分の利益、自分の権益を守っているつもりで、弁護士を養っているようなものである。

やはり、一般大衆は、乃至は凡人は、口先3寸の商売屋にだまされる事の無いように堅気な仕事を黙々と続ける以外に心の平安はない。

銀行にしろ、証券会社にしろ、弁護士にしろ、すべて口先3寸の商売である。

我々凡人は口先3寸では彼らにはかなわない。

黙って土を耕すか、旋盤を回して、汗と埃にまみれて糧を得ておれば、モラルを問われることもなく、心は平静に生きられる。

優秀な学校を出て、大企業のトップなっても、最後に牢屋に入れられる様な人生では、親に対して申し訳ないではないか。      

 

社会に対する恩返し

 

先の証券会社の不祥事に関しては平成3年7月11日になって、大蔵省の処分が行なわれた。証券会社に対する監督が不十分だったという理由だったが、大蔵省が自主的に身内の処分をするのなら、部外者がとやかく言う筋合いではないが、この事態を違った視点から眺めると、証券会社は大蔵省から一々指導監督が無いかぎり、一般常識的なモラルというものを維持できないのかということになる。

証券会社の悪口は前に散々述べたが、監督官庁から言われない限りモラルの維持が出来ないという事は庶民感覚では幼稚園か小学生である。

幼稚園児や小学生ならば先生から、あれやってはいかん、これをやってはいかんと指示が与えられない限り、モラルというものは維持出来ず、そのこと自体が教育の一環となっている。しかし、証券会社のトップとなれば最高学府をマスタ−している筈の者が、他人の指示が無かったので、モラルを欠いてまで営利追求に走るという事は幼稚園児や小学生より劣るという事である。

幼児が本能の趣くまま行動するのと同じである。

本能のままの行動、欲望の趣くままの行動をコントロ−ルするのが人間の理性であり、教養であり、学識である。

こうした企業犯罪を私が忌み嫌い、普通の犯罪より激しく糾弾するのは、そのトップの人が高い学識があるという点である。

高い学識のある人の犯罪というのはただ単に社会的批判についてではなく、二重に罪を犯しているからである。

その一つは高い学識経験のある人は、その知性を社会に対する貢献に使わなければならないのに、その逆の事をしている点。

他の一つは今まで受けた高等教育は国の税金で高等教育が受けられたという恩義を忘れている点である。

第一の点については前にもくどく述べたが、教育については言及が足らない。

証券会社のトップの人の経歴を全部調べたわけではないが、そのほとんどの人は大学教育を受けている筈である。

この大学教育というのは義務教育と違って、かなり国の金が回っている筈である。

仮に私学であったとしても私学補助という形で税金が流れている筈である。

国立大学ならば当然税金で運用されている。

この税金で高い見識と学識が醸成されて、そして実社会でそれを基礎とした上に経験を積んだ人達が、反モラル的なことをしたということは、国全体の視野で眺めれば盗人に追い銭を与えたようなものである。

国立大学を卒業した人は、社会に出ていろいろな職業につき、その職業を全うすることにより国に対する賃貸関係はプラス・マイナス ゼロである。

国が個人に与えた経費というものは個人が社会人としてまっとうに社会に貢献することによりペイするのである。

その個人が犯罪に加担する様な行動をすれば、国としては学費という経費はペイしない。

このペイしない部分を損害保障として取り上げなければ損得勘定が合わない。

この学費、大学教育に掛かっている経費というものを日本の全部の人が誰一人として問題にしない。

無理もない話である。

この経費というのは現金として学生の手に渡されるものではなく、目に見えない帳面上の数字であるので、本人も社会もその数字というものを過小評価している。

大学に支払われる経費を学生の数で割れば容易にその数字は出るが、だれもそのことを強調する人はいない。

こうした大学教育を受けた人が犯罪に手を貸していたとなれば、その経費は死に銭になってしまう。

弁護士についても同じ事が言える。

明治大学の不正入学事件についても私学とはいえ、私学補助金というのは受けているはずであるので、同じ事が言えると思うが、それにしても私学であるという点で多少ニュアンスが違うということも言える。

けれども国立大学の卒業生に至っては安い授業料で高度な教育、崇高な学問を受けられたという点からして、当然、その卒業生は何らかの恩返し、乃至は社会的貢献をして、社会に恩を返すべきである。

大学教育の経費というのは授業料だけで賄われているわけではない。

納税者の金が流れているということを忘れてもらっては困る。

社会に対する恩返しというと、いかにも古めかしい言い方であるが、自分の与えられた職業を真っとうに勤めれば、それがそのまま社会に対する貢献となる。

何も特別に難しいことはないけれど、モラルに反する様な事をすれば、これは社会に対して恩返しをしたことには成らず、貢献したことにもならない。

損金補填、土地転がし、過剰融資、これらの行為が反社会的な行為だということは当事者は十分承知しているはずである。

もし分からないような人なら企業のトップには成り得ない。

そういう人達がモラルというものを欠落させてしまった原因は色々な理由があろうけれど、それは理由にならない。

ただ言えることは欲望の趣くまま行動し、セルフ・コントロ−ルが出来なかったという事実が残っているのみである。

法というのはその存在を知っていようと、又、知らなかったとしても違反をすれば当然適用されるものである。

そういう意味では当然厳しい処罰を受けるべきで、証券業界が再び立直れない程のダメ−ジを与えておくべきである。

それに付けても監督官庁から一々指図が無ければモラルが維持できないということは実に情けない点である。

しかし、これは証券業界ばかりでなくあらゆる業界に存在する企業の精神である。

あらゆる業界が法の網を潜り抜けようと、法律の穴探しに血眼となっている。

法に触れるか触れないかのぎりぎりの所に何か金儲けのネタが無いかと、虎視眈眈と穴を狙っている。

証券業界もこの手で上得意を繋ぎ止めていたかったということは理解できる。

法律の穴を潜っても営利を追求したいというのは合法かもしれないが、実にアコギな発想である。

発想が汚い。ル−ルの盲点をついてでも金儲けがしたいという浅ましい根性である。

競争をするのにお互いのル−ルの中での競争なら大いに結構であるが、ル−ルの外で競争して金儲けレ−スをしている。まさにマネ−・ゲ−ムである。

それと監督官庁に言われないとモラルが維持できないという点も社会人として、ビッグ・ビジネスのトップとして情けない。

セルフ・コントロ−ルが効かないという点はまさに幼児的としか言いようが無い。

こんな企業が海外にまで出掛けていってビジネスをすれば、当然摩擦も起きてくるわけである。

そういえば日本の海外でもビジネスは全部相手国の法の目を潜り抜けることにより成り立っている。

相手国が新しい網を被せれば又その網の目を探してそこを掻い繰ぐって進んでいくという体質である。

貿易摩擦が起きるのもむべ成るかなである。

 

病院における福祉公害

 

最近では老人福祉とか医療補助だとかいう社会保障がかなり充実してきた。

今の老人は実に恵まれている。

名古屋市の場合、65才以上の老人は地下鉄、バスは無料である。

医療も無料、年金は入ってくる。今の老人はまさにこの世の春である。

けれどもそろそろ福祉公害という新しい問題が起こりつつあるような気がする。

例えば、今、病院に治療にいってみると病院は老人に占領されてしまっている。

老人より若く、社会の一線で働き、納税も健康保険料も、少ない給料からまともに収めている社会人がノ−マルな状態で治療が受けられない。

ノ−マルな状態で治療が受けられないという意味は、むやみに待たされるということである。何故待たされるかというと、老人が大勢で病院を占領しており、順番が回ってこないからである。

我々が病院で3時間待たされるということは社会的に非常にロスをするということである。3時間ということは新幹線なら東京まで行ってしまうし、飛行機なら札幌から福岡まで行ってしまう時間である。

年金生活者は暇だから3時間だろうが、4時間だろうが病院の涼しいところで暇をつぶせるが、勤労者にとっては非常に大切な時間なのである。

これは一個人の我儘かもしれないが、医療が無料になるとたいした病気でもないのに病院にやってくる。

厳密には無料ではないかもしれないが、それにしても前に老人が並んでいて勤労者が治療が受けられないというのは新しい社会問題である。

年金を受け取る程の高齢者なら、その人の身体はどこかに不具合があっても不思議ではない。しかし、病院に来たところで30代40代の身体に戻るわけではない。

今、年金をもらっている世代というのは、戦後の苦しい時期を潜り抜けてきた世代であるので、無料となると何でも貰わなければ損だという認識に取りつかれている。

だから医療が無料だとなると、たいした治療も必要でないのに病院にくる。

地下鉄が無料だとなると用もないのに外出する。ある意味では実に浅ましい。

聞くところによるとデパ−トでバ−ゲン・セ−ルの折り込み公告を出すと、老人ばかりが押し寄せてくるという話である。

福祉も年金も大事なことだとは思う。

けれども人間の欲望というものがこうも浅ましいという現実を見せ付けられると、全く嫌な気分になる。

福祉の充実ということは政党を超えた、ばら色のテ−マである。

自民党、社会党、共産党、どの党にとっても目玉のテ−マである。

国会議員、県会議員、市会議員の何党においても福祉を看板にしている。

「福祉の充実は人間を堕落させる」と言おうものなら、その候補者は落選間違なしである。選挙のテ−マには格好のテ−マである。

看板として掲げる分には誰も自分の腹が痛むわけではないので、テ−マとしては候補者にとって全く都合のいいテ−マである。

しかし、現実の問題となると様々な問題を抱え込んでいる。

病院にとっては健康な勤労者を診るのも、老人を診るのも皆、同じお客さまである。

どちらにしても金は入ってくることには間違いない。

仕事のことを気にしてイライラ待っている勤め人も、老人の暇つぶしにくる患者も、同じお客さまである。

数さえこなせば収入はアップする。

ところが勤め人の方は税金は取られる、健康保険料は取られる、その上何時間でも待たされては、実に遣る瀬ない気持ちになる。

心の中では「この年寄メ、早く死ね!」と叫びたい気持ちである。

人間何時かは老人に成ると分かっていても、その場では真実、そういう気持ちになる。

無料だと何でもかんでも恩典にあずかろうという老人の気持ちは「業」としか言いようが無い。

欲望というものを通り越したものではないかと思う。

若い時に苦労した分そういうものに執着するのかもしれない。

老人を労わらなければという気持ちも片一方では残っているが、現実に実害が出て来るとそんな同情は吹き飛んでしまう。  

 

老人の我儘

 

家の近くに老人のゲ−ト・ボ−ル場が有るが、老人のゲ−ト・ボ−ルというのも微笑えましい風景とは言えない。

今時の老人は車で移動するので、路上駐車はするし、日曜日などはその数が異常に多く、周辺の住民にさえ迷惑を掛けている。

車の事は大目に見るにしても、子供の遊び場を取り上げてしまうという点はどうかと思う。ゲ−ト・ボ−ル場くらいの空地は子供にとっても格好の遊び場である。

使っていない時ぐらい子供にも開放してやればいいものを子供には使わせない。

確かにゲ−ト・ボ−ル場を自分達で整備しているとはいえ、子供と共同で使うという度量がほしい。

自分達は年金をもらって暇をもてあましてゲ−ト・ボ−ルをしてるのである。

少々のことは暇に任せてメンテナンスすれば済むものを、子供に使わせないということは老人の奢りではないか。

老人が家に居ては何かと家族の方は気を使うだろうから、家族にとってはゲ−ト・ボ−ルであろうが、何であろうが出掛けてもらった方が有り難いだろう。

年金をもらって、暇があって、身体が丈夫で、健康ならば何か他にやることが見付けれないのであろうか。

ゲ−ト・ボ−ルが出来るということは年は取っても、5体満足で健康であるということである。

身体が自由に動かせれば他に何かやれそうな事があるように思えるのだが、あの世代の人々なら、神の恩、仏の恩、世間様への恩返し、という発想に立てば何か他に社会に直接的に役立つことが出来そうに思う。

タダの恩典に浴したいと思うのと同様、タダの事には身体を使いたくないと思っているのだろうか。

もしそうだとすると罰当たりな年寄たちだと思う。

私が思うにゲ−ト・ボ−ルをやろうとする年寄は発想の乏しい老人だと思う。

他に自分の趣味というものを持たず、又自分の能力を開発しようという発想も沸かず、自主性に欠けた人々だと思う。

同じ世代の年寄がゲ−ト・ボ−ル場の横で農業をしているが、その年寄は農業に情熱を傾けているのでゲ−ト・ボ−ルには目もくれない。

ゲ−ト・ボ−ル場で老人たちが、わあわあ言ってプレ−しているのに目もくれず農作業をしている。

やはり自分の信念を持っている人はゲ−ムなどに目もくれない。所詮、遊びである。

我々勤労者もストレス解消のため遊びが必要なことは理解できるが、他に遊ぶ事を知らない老人がゲ−ト・ボ−ルをしているのだろうか?

ゲ−ト・ボ−ル場の運営も福祉の一環だろうが、福祉の充実というのもばら色ばかりではない。

ゲ−ト・ボ−ルが出来るほどの老人は幸せなほうである。

この幸せな老人は、その健康をもっと社会奉仕、社会的な貢献の方向に、その5体満足なエネルギ−を向けるべきだと思う。

少なくともゲ−ト・ボ−ル場を子供たちに開放し、子供たちの遊園地を作り上げるぐらいの肝っ玉の大きいことをすべきである。

使い方によってはもっと有効に利用できる空き地をゲ−ト・ボ−ルに限定せずにもっと大きな視野に立って、幼児にも開放するぐらいの度量を持ってもらいた。

それでこそ人生に闊達した老人と呼べるのではないかと思う。

 

安楽死について。

 

ゲ−ト・ボ−ルに現つを抜かす老人の悪口をつらつら述べたが、これから先も老人の数が益々多くなると安楽死ということを真剣に論議しなければならないと思う。

目下、脳死の問題がクロ−ズ・アップしてきているが、脳死の問題よりも安楽死の方の問題を解決するほうが先決だと思う。

現在の医療は科学的に延命させることは可能である。

ここに脳死の問題との関連が出て来るわけであるが、脳死となれば既に人間の尊厳はその時点で喪失されている。

仮に意識不明のまま懇々と眠り続けている人間というのは魂を喪失している。

私が問題提起しようとしているのは脳死の前、まだ意識がはっきりしている時点に安楽死を認めるということである。

世の中に自殺をする人間というのが沢山いる。

あの自殺というのは非常に勇気のいる行為ではないかと想像する。

私なら自殺をする勇気があれば、今まで何度も挫折の度に自殺していたかも知れない。

しかももっと若い時期に。

ただ自殺をする勇気が無かったばかりに死ぬ気になって生き続けてたという面もある。

自殺する気になれば何でも出来るのではないかと思って挑戦してきたこともある。

弱気になった時、死ぬ気なら何とか成るだろうと思って立ち向かってきたこともある。

自殺というのも色々な手段があるが、私はそのどれもが恐ろしいような気がしてならなかった。

自殺できる人は勇気のある人に違いない。

死ぬ勇気は有っても、生きる勇気が無かったに違いない。

私の言う安楽死というのは、自分の人生を振り返って、もうこれでし残した事は何もない、何時死んでも悔いはないと解ったときに、安楽死を認めるというものである。

当然、意識がはっきりして、事の善悪を充分判断できる時点においてである。

意識不明のままの植物人間になってからのことではない。

自分で自分の人生を終了させるための安楽死である。いわば納得死である。

自殺というのは言葉が悪い、言葉のイメ−ジが実に暗い、自分を殺すという字ヅラが良くない。

その点安楽死というのは字ヅラもいいし、安らかに、楽に召されるというイメ−ジも悪くない。

人間、自分で自分の人生に納得する時期というのがあると思う。

子供が成長して、自分もリタイヤして、自分の人生に自分で納得する時期というものがあると思う。

何時でも安楽死が出来るというバック・ボ−ンが有れば、逆に生きている間というものが充実してくるのではないかと思う。

よぼよぼの老人になって、下の世話も他人に依存しなければならないようになったら、それこそ人間の尊厳も何も有ったものではない。

それこそ人間の醜態をさらすことになる。

それよりも意識がしっかりしており、過去を振り返って、し残した事は何もないと解ったときに、何時でも自分の人生を終了させる覚悟を持っていた方が、残りの人生を有効に使い、無駄の無い人生が送れるのではないかと思う。

現時点では薬局で「安楽死の薬をください」と言っても簡単には売ってくれない。

安楽死は自殺とは違う。あくまで納得死でなければならない。

他人に悪用されるといけないので購入の際には申込書と印鑑を持参するぐらいの措置は必要であろう。

けれど本人が本人の意志で自分の人生の幕を閉じるのだから何らかの儀式は有ってもいいかもしれない。

誕生日が有って、入学式、卒業式、結婚式、最後の葬式、最後の儀式を自分で演出するというアイデアはそう悪くはないと思う。

日本人は死イコ−ル悪という認識であるが、必ずしも死が悪とは限らないと思う。

死イコ−ル善というケ−スも存在すると思う。

生命有るものは他動的死ならば容認されるが、自動的というか、自滅的というか、積極的な死というものを嫌悪する。

けれども現実には死んだ方が、本人も周囲の者も救われる死というものがある。

これは現実に存在する事であるが、誰一人としてそれを認めようとしない。

人は宗教感だとか、倫理感だとか理屈を言っているが、本心を隠しているだけで、本当はそういう死の存在を認めたいところであろうが、周囲の目や、人の口が恐ろしくて、認めていないようなポ−ズを取っている。

目下、問題になっている脳死の問題等はまさにそれである。

脳死の人から臓器を取り出すということは少し抵抗があるが、脳死のままで何ヵ月も何年間も生かしておくということが、果たして本当に人道的かどうかということは疑問である。

病院にいくと、いかにも「生ける屍」の様な人がベッドに寝ていたり、うろうろ徘徊していたりするが、いかにも惨めである。

本人も惨めであろうが、見るほうも惨めである。

何年か後には自分もああした姿になるのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。

あんな姿で永らえたくない、あんな状態になる前に安楽死をしておきたい。

現実の問題としてそう思って生きている人は大勢いると思う。

今の日本では安楽死が認められていないので、仕方なく惨めな姿で生き恥をかいている人も大勢いると思う。

ああいう状態になってしまったらもう自分で自分の命を絶つことも出来ない。

植物人間、寝たきり老人に成ってしまったら、自殺することもできない。

自殺する権利が奪われてしまっていると言ってもいい。

人が食物を口に運んでくれるのをそのまま食べて、下の世話も自分では出来ないとなれば人間としての尊厳は既にその時点で喪失しており、まさに生き恥をさらしているようなものである。

それでも生きなければならないとなれば、これは文字通り「生ける地獄」である。

「生ける地獄」というのは本人も苦痛だろうと思う。

苦痛と思っているかどうかも解らないような人を生かしておくことは、一種の残酷である。けれども世間の人はそれでも当人の命を断つことを拒み続けなければと思い込んでいる。

その先入観から抜け出そうとすることを拒む。

何故拒むかといえば、やはり前にも述べたように倫理感、乃至は世間の口だと思う。

 

「老い」の精神構造

 

「老いる」ということは五体満足に動くまでのことで、五体が満足に動くことなく、人の世話にならなければならないようになったら「老い」の次の段階に進んだと考えなければならない。

これは肉体的なものもあるが、もう一つは精神的なものがあり、生きようという気持ちがなくなった時点、希望を喪失した時点以降は「老い」のもう一つ先の段階と考えるべきである。並みの人間ならば、五体が満足に動かなくなると、精神的にもぐっと老け込んで、生きようという希望も急速に萎縮すると思う。

生物的な年令というのはあまり関係ないと思う。

若々しくても老け込んでいる人もいるし、老齢でも若々しい人は何才まで生きようと問題ではない。

けれども若くても精神的に老人になってしまっている人はこれから先、何年生きようと「生ける屍」の様な生き方であろうと思う。

私の個人的な見解では、こんな人は早く死んだ方が世の為、人の為に成ると思うが、そういう人に限ってそのような自覚はないと思う。

そういう自覚があれば若くして老け込むような事はないはずである。

私は老人無用論であるが、こういうことは世間の良識の有る人は大きな声で言いたがらない。その人の倫理感が成せるのか、人の噂が恐ろしくてそういうポ−ズを取るのか知らないが、病院で老人を見るたびに、こういう衝動に駆られる。

人は命有るかぎり全力を尽くさなければならないが、力を出し切ったときには素直に安楽死を認めるべきである。

老人問題を経済問題としてとらえると、おそらく世間の顰蹙を買うであろうが、老人医療の無料化ということは生きよう、何が何でも生きようと思っている老人にとっては有り難い制度であるが、植物人間や寝たきり老人を無理矢理存命させることは、社会的に非常にロスになっている。

人間も自然界の中のある種の一つという立場に立てば、こういうことは自然の摂理に反している。

自然界に中で、ある種の一つとして、自然の法則のままの存在だとすれば、当然、淘汰ということがあって然るべきである。

人間は万物の霊長ということで、この自然淘汰ということをコントロ−ルしようとしたところに福祉のゆき過ぎの根源がある。

目下、アルツハイマ−病という病気がある。

これは老人痴呆症の事であるが、昔は人間が痴呆になる前に自然淘汰されていた、だからこんな病気もさほど問題化しなかったけれども、今は老人が多くなったのでこうした新しい病気が目に付くようになったのだと思う。

社会が複雑になり、ストレスが多くなったとか何とかもっともらしい理由付けがなされているが、要するに人間が自然淘汰という、自然の流れに逆らっているので、新しい問題が顕著に表面化してきたのである。

医学の発達というのは素晴らしいものがある。

昔なら当然死亡していたものが、医学の進歩で素直に死ななくなった。

この医学の進歩というものが自然淘汰に棹差しているのである。

医学の進歩ということは人類の生存にとっては素晴らしく貢献していることは認めるが、医学の進歩に比べて精神の進歩は遅々として進んでいない。

医学はこの人間、いや人類の生誕の時から日進月歩の勢いで進化してきたが、人間の精神構造の方は人類生誕の時より一歩も進んでいない。

太古の人間と同様、現代人も死を恐れている。

死に対する恐怖感は少しも変化していない。

死イコ−ル悪という認識は少しも変わっていない。

太古の時代、人類は殉死という風習が流行った時期がある。

これは洋の東西を問わず存在していたようであるが、何時の間にか人形に身代わりさせてしまった。

逆説的に言うと死の恐怖に取りつかれて人形に身代わりさせたということだろうが、この殉死ということは並みの常識では君主の逝去に伴って、その家臣も君主と一緒に埋葬されるというものであるが、家臣の立場に立って見ると、自分の敬愛していた君主が死ねば、自分も生きる夢も希望もその時点で喪失したという面があったかもしれない。

君主が死んだ時点で自分の生きがいも消滅したと思って死んでいった人もいるのではないかと思う。

 

福祉制度の見直し

 

先の第二次世界大戦で日本が負けたときも、日本人の成人の中ではかなり大部分の人が相当のカルチャ−・ショクを受けて、生きる希望をなくした人が大勢いると思うが、日本人は案外しぶとく、あの程度のカルチャ−・ショックでは、びくともしなかったようだ。

けれどもあの時代にも老人は居たはずである。

が、今のように老人は大事にされず、又社会のシステムも、老人をシステムの中に取り入れていたに違いない。

という事は、あの時代には日本古来の家族主義の考え方がまだ残っており、老人は老人の仕事を与えられ、動けなくなるまで働き、それがすぎると淘汰されたに違いない。

今の世の中に、老人の仕事が無くなったところに問題があり、それが為「生ける屍」の様な老人が目に付く様になったと思う。

昭和30年代ごろ迄は人口の都市への集中が今程ではなく、田舎で大家族で生活していた、そうした環境では老人には老人の役目と仕事が存在していた。

今はそれが無くなってので「生ける屍」が目に付くようになったのである。

又、当時は福祉も充実しておらず、年寄が金を持っていなかった。

だから家族の中でも小さくなっていたけれども、今時の老人は金を持っているのでシルバ−産業などというものまで誕生している。

最近においても日本人の中には老人、年寄は労わらなければという健気な倫理が生きているけれども、これを裏切るような老人、年寄が結構居るのも事実である。

電車の中で席を譲られて怒る人、又席を譲れと横柄な人、ゲ−ト・ボ−ル場に子供が入ると怒る人、こんなことは昔もあったかもしれないが、老人の我儘というのも困ったものである。若い者同志なら喧嘩ということもあるが、相手が老人では喧嘩するわけにもいかず、困ったものだ。

ということは老人を労わって、大事にしなければという倫理が最初から間違っていたのかもしれない。

この倫理を敷衍して得をするのは大人、乃至は老人のサイドである。

老人にとって都合にいい倫理を。さも大事そうに若い世代に押しつけた大人、老人の策謀だったのかもしれない。

今頃の50代前後の世代なら、極自然に老人を労わって、大事にしなければという倫理感に潜在的に慕っている。

その反面、老人の方にはそれに値する行為が見当らず、我儘を通り越して人生に闊達している風情が見当らない。

そういう人が結構多い。

こうした老人に我々の収めた健康保険料や、年金や、税金が流れていくのかと思うと、遣り切れない気持ちになる。

何とか自分が年金を貰えるまで、今の制度がそのまま残ってもらいたいと祈るのみである。

我々がそれを貰うには後15年かかる、なんとか15年、今の制度のまま残ってほしいと思っている。

しかし、この制度もどうも風前の灯の様である。

この福祉と年金の制度をいじくることは、消費税の時と一緒で、どの政党にとってもプラスにならず、マイナスにしかならないので、どこの政党の口火を切ろうとしない。

福祉や年金をいじくることはどこの政党にとっても点数を下げること間違いなしである。

口火を切った政党が負けである。

負けてもともとの所ならかまわないが、そうなると民社党か公明党しかない。

消費税も始め3%で始まったものが5%の話がちらちらしている。

福祉を充実しようとすれば当然3%が5%になっても不思議ではない。

そうならないためにはやはり安楽死を認めることである。

しかし、これも政治問題となればどこの政党が取り上げてもマイナス要因であろう。

日本人はまだしばらくの間は死イコ−ル悪の倫理を変えることはないであろう。

いくら「生ける屍」でも他動的に生命の灯を消すことには消極的であり続けることと思う。植物人間と「生ける屍」は現代の医学に支えられて、何時までも生き続けられるであろう。その高額な医療費は湯水のごとく国庫から病院に流れ、消費税は3%から5%にアップされ、それを払い続ける納税者は、病院で3時間も4時間も待たされるに違いない。

まさに悪循環である。

なぜこんな論理が罷り通るかというと、日本のオピニオン・リ−ダ−というのは直接自分でこの悪循環のリングのどこにもタッチしていないからである。

丁度、盲が象を撫ぜるように、イメ−ジで判断するからである。

論理、倫理というものは人間の脳の中だけで考えたことであって、ただのイメ−ジにすぎない、実際の現実とは掛け離れている、けれどもそれが脳裏から離れず、それに基づいて発言するので、現実離れしている。

その上、本人はそれが素晴らしいことだと思い込み、マスコミが又煽てるので益々論理、倫理がはびこるのである。

病院の待合室で3時間も座っていれば、なんでこんな人間を生かしておかなければならないのかという疑問に直面するに違いない。

人間の姿をしているだけで価値があるという倫理感に疑問を持つに違いない。

私は人間は人間の姿をしているから価値があるという認識は間違っていると思う。

人間は人間としての生き方に、生きざまに価値があると思う。

過去に素晴らしい生き方、生きざまがあったとしても、それが終焉したときは、自分の人生に自分で幕を引くことが許されてもいいと思う。

病人でも治療後は又一生懸命、生続けると言う見込みのある人には臓器移植であろうが、人工臓器であろうが、ベストの治療が入用であろうが、生きるに値しないような人間にも同じような治療をするということは無駄だと思う。

そういう人には自然淘汰に任せるべきである。

自然界で生き延びるのは強い者だけで、ハンデイ−の有る個体は淘汰されることによって、その種全体が維持されているのである。

淘汰されるべきものが全部生き延びてしまえば当然ひずみが出てくる。

地球上の動物は相対的には減少傾向にあるのに、人類のみは地球上からはみ出しそうに増殖している。

地球規模で見た場合、人種的には減少しているところもあるのに、全体的に見ると増加傾向にある。

日本もある時点から急激に減少することがはっきりしているが、その時点まで生き残るものが問題である。

それと、もはや日本人とか、アメリカ人とか、イギリス人という区分けは出来ない時期にきている様な気がする。

人類対ロボットという区分けをしなければならないのではないかと思う。

 

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