071214004
話し合いで戦争が無くせるか?
多数の人々が意見を一つの方向に結集させると言う事は、その前の段階に問題があるということである。
多数の人が同じ意見を持つに至った過去に問題がある。
確かに一般大衆は感情に流されやすい。
マスコミ、マス・メデイアというのは一般大衆の感情に訴えるようなアプロ−チをする。
マスコミ、マス・メデイアというのは大衆受けのする情報を提供することにより利潤を得、利益を得ているのであって、大衆がそっぽを向くような情報を流していては営業が成り立たなくなってしまう。
そうした情報、大衆受けのする情報により、知識を得、思考方法を固められた大衆、一般庶民の声というのは当然議員を通じて議会に持ち込まれる。
そして議会は選挙民向けに、乃至は一般大衆向けにフイ−ド・バックする必要がある。
だから多数決というものが必ずしも善であるという論理は成り立たない。
けれどもそれを一般大衆が望んでいるということも事実である。
すると大統領の拒否権というのはそれに矢を向けることになる。
アメリカ合衆国の選挙制度というものは我々にはよく分からないが、大統領を選ぶ選挙民と、議員を選ぶ選挙民が、お互いにオ−バ−・ラップしているとは言え、かなり選挙民が違っているような気がする。
とはいえ基本的にはアメリカ合衆国の国民が選挙をするわけであり、何処の国でもそうであるが議員というのは、大きな目で見ればその国の政治全体に責任を追うべきである。
それでも地域の代弁者、各種団体の代弁者、という面が拭いきれないところがある。
その点、大統領というのは国益のみである。
議員が過去に決定した法案でも国益と照らし合わせて、長い将来的な展望に立った場合、不具合があるという判断がある場合も事実であろう。
そうした場合大統領の拒否権発動となる。
こうしたケ−スが果たして民主主義的かという点で少し疑問がある。
国連の安全保障理事会ではアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国のみがこの拒否権を行使でき、後の10ヵ国は任期も回り持ちで、拒否権もない。
このような状態で話し合っても意味が無いのではないかと思う。
何一つ決定できず、意志の統一がなされない。これでは話し合う必要がない。
体制の違う、相反する国同志がお互いにテ−ブルについても、およそナンセンスである。
それでも第2次世界大戦後45年間ちかくも存在し続けた。
しかし、この安全保障理事会がナンセンスであった証拠に、その間に戦争を一つとして抑止し得なかったではないか。
国連の機構、機能、組織は沢山あるので他の所ではそれなりの効果なり、存在の意義が有ったと思うが、こと安全保障理事会のみは十分機能し得なかった。
仮に5大国に拒否権が無かったとしても同じだろうと思う。
裏を返せば、戦争を無くすということはそれほど困難な事であったということだと思う。
日本が金科玉条のように国連中心主義ということを言う場合、このように国連でも万能ではない、ということを知っておかなければならない。
日米再衝突
1991年、平成3年6月24日の中日新聞に「日米再衝突論、その真意を聞く」という囲み記事が掲載された。
その翌日6月25日には第3次行革審「世界の中の日本部会」が「対外政策の理念と具体的改革事項」という中間報告を提出した。
たまたまこの二つが連続して紙面に掲載されたが、この二つは日本の将来にとって、深いねっこの所で繋がっているような気がしてならない。
前者の「日米再衝突論」というのはこの2、3ヵ月前から浮上してきたことで、アメリカのデイッキンソン大学教授のフリ−ドマン氏と他の一人が共著で
「The comeing war with Japan」と言う本が発行され、その翻訳が出回ったことにより、日本でも急に浮上してきたテ−マである。
私自身はまだこの本を読んでいないので、その内容について論ずることは出来ないが、概念としては私個人として、この本と同じ事を、即ちフリ−ドマン教授が感じていることと同じ事、つまり日米はもう一度衝突するのではないかと思っている。
私がそう思う根拠は、昨年の日米構造協議である。
あの日米構造協議というのは、いわばお互いが相手の内政にまで口を挟んでいる協議である。アメリカ側が日本に要求してきていることなど全く日本の内政に干渉しているものばかりである。
貿易の不均衡を是正するためとはいえ、その貿易不均衡の根本の所まで踏み込んで議論がなされている。
お互いに踏み込んでくる事はいい。
けれども完全に踏み込めれないというところに一抹の危惧がある。
それは文化の違い、または伝統の違い、考え方の違いで完全には理解しあえない。
日米構造協議における日本側の改善項目の主たるものを上げると
1 公共投資の増額、10年間で430兆円
2 土地の有効利用
3 大店法の改正
4 排他的取引慣行の是正
5 独禁法強化で系列取引の監視
6 価格メカニズム
等、全て日本国内の事ばかりである。
当然これと同様なアメリカ側に対する要求というものもあるわけであるが、こうしたお互いの国の内部事情にまで踏み込んだことを外国と論議しなければならないということは、既に外交というものの従来の枠からはみ出したことである。
従来ならば元首同志、乃至は外交官同志で取り決めて、それをお互いの国に持ち帰って、国内政治にフイ−ド・バックしていたものを、交渉相手国の国内事情にまで踏み込んで議論するということは、一面では外交政策の合理化のようにも見えるが、逆にこれはお互いの裏の裏まで見通してしまうので、クッションが一つ省略される事でもあり、そこに長年の慣習なり、利害の調整が出来なかった場合、国民感情に直接影響を及ぼす。
例えば、米の自由化の問題でも、日本の農業団体は「米は一粒足りとも入れない」というプロパガンダを飛ばしている。
これなどもアメリカ・サイドから見ると、「日本は自動車はどんどん輸出してくるのに、アメリカの米を一粒も入れないということはどういうことか?」という捉え方をされる。
これではお互いの国民レベルでは対日戦、対米戦の深層心理が醸成されているのと同じである。
これだけで戦争になるとは言えないが、こうした諸々のことが重なり会えば、その危惧は一層大きくなる。
又、関西空港の建設にアメリカ企業を参加させよという問題もある。
これは4項に関係してくる問題であるが、これなども日本には日本の仕方、入札の仕方、乃至は古くからの商業上の習慣がある。
アメリカ企業がそういう点も研究し尽くして参加してくるのなら問題はないが、そこまでの突っ込みもなく、中途半端な調査で日本に乗り込んでくる。
そして応札出来ないとなると、日本を非難する。自分達の研究不足、調査不足を日本サイドの問題にすり替える。
これと同じ事が自動車の輸出に対しても言える。
日本企業とアメリカ企業の競争力の差は、事前の研究、調査の段階で大きく左右される。
日本の企業は相手の国情に合わせて左ハンドルでも右ハンドルでも提供できるが、アメリカの企業はアメリカ仕様のまま日本に持ってきて、「売れない売れない」と言っている。
アメリカ企業はアメリカ国内の方法が世界に通用すると思い込んでいる。
これは相互理解でなく、相互の不信感である。
アメリカ側は自分の研究不足、調査不足を感情論にすり替えている。
もちろん日本側にも問題はある。
アメリカの対日不信
戦争直後の国内産業育成の為の関税障壁、保護貿易の古い体制が残っている部分も多々あろう、しかし、問題がこじれて感情論になった時が日米決戦の時だろうと思う。
アメリカも自分達が地球上でビッグな存在だった時は日本に対しても鷹揚な態度で居られたが、今のアメリカはビッグでもなければ、世界の警察官でもなくなった。
冷戦中はライバルのソ連が大きく立ちはだかっていたが、そのソ連も冷戦が解消したら、又昔のように同胞になっている。
ソ連の崩壊ということは、アメリカからライバルが居なくなってしまったのと同様だ。
今迄はソ連が、ロシヤが、と言っていれば面目が立つが、これからは今迄ソ連に向けていた矛先を向ける相手を捜さなければならない。
こういう状況で感情論に政治が左右されると、それは日本に向けられる要因となりうる。
日本とアメリカは相互理解は深いなどと思い込んでいると大間違いである。
50年前にも日米の相互理解は一部では深かったはずである。
日本人はアメリカは友達だと勝手に思い込んでいるが、それはソ連という強力なライバルがいる間だけの事である。
アメリカにとってソ連という相手が居る間は日本を同胞として、自己の陣営に引き止めておかなければならないが、ソ連がアメリカの同胞となった現在においては、日本を自己の陣営に引き止めておく必要はなくなった。
アメリカというのは多民族国家である。
白人、黒人、黄色人と雑多な人種の国である。
だから表面上は民主主義で人権は確立されており、あからさまには日本人に対する差別は行なわれていないが、又アメリカと係わりあう日本人というのは、日本人の中でも知的レベルが高い方に属する人が多く、たとえ英語がしゃべれなくても、知的にアメリカと係わりあっている。
ベトナム難民のように、アルフアベットも分からない人などいない。
ビジネスマンにしろ、観光客にしろ、アメリカに係わる人は、それなりに知的レベルが高く、アメリカ内のトラブルを上手に回避している。
しかし、アメリカ人というのは他の国に出ても英語で押し通そうとする。
このこと自体は知的レベルとは関係ないが、アメリカ人は他の国に出掛けるのに、その国の言語を習おうとしない。
けれども日本人は大なり小なりアメリカの事を研究、調査、知ってから取り掛かろうとする。自動車の輸出の件と同じである。
これは日本の国民性とも言えるし、日本人の勤勉実直さとも言える。
日本人なら誰でも極自然にやっていることである。
けれどもアメリカ側から見るとこれが脅威と取られる可能性は十分ある。
日本人がアメリカを席巻していると見なされる可能性がある。
現にソニ−がコロンビヤ映画を買収したとき、ニュ−ヨ−クの建築物を買収したとき、アメリカ側の反応はそれであった。
あれがイギリス人や、ドイツ人が同じ事をやってもアメリカのマスコミはあのような見出しは付けなかったであろう。
日本人だからこそ、あのようなセンセ−ショナルな大見出しを付けたのである。
その根本、アメリカ人の深層心理の中には「ジャップ」という感情が静かに、深く、息づいているのである。
アメリカの底力
こうした些細な事を日本人は肝に命じておくべきである。
アメリカに「日本憎し」という感情が台頭し、日本との貿易を完全に完全にシャット・アウトしてしまったら日本はどうなるのだろう。
このシナリオを日本人は常に考えておくべきである。
数字の羅列は省略するとして、アメリカは日本から色々なものを買っているとはいえ、無ければ困るというものは一つもない。
自動車だってまだまだ作れる、半導体だって作れる、これは販売上のシェヤ−の獲得競争でアメリカが敗退したというだけで、安く作ること、販売戦略でアメリカが遅れを取っただけのことで、生産できないわけではない。
アメリカ国民が少し高いもので我慢する気なら、アメリカ企業は大喜びで復活するし、失業率は下がるし、アメリカは日本と手を切った方が、アメリカ国民にとってがプラスになる。日本人の私がそう思うのであるから、アメリカがそのことに気が付いたら日本との貿易は断ち切られるかもしれない。
このシナリオを日本に当てはめてみると、日本はどうなるか?
まず第一に、アメリカが日本と縁を切った場合、アメリカに追従する国が出てくる。
その時点でECが設立されているとすると、ECは完全にアメリカと同一歩調を取る。
アメリカとヨ−ロッパは一心同体と見做さなければならない。
日本と縁を切ったところでアメリカとECは十分やっていける。
ECもアメリカと同じ条件下にある。
日本と縁を切ったところで困るものは何もなく、全てがECとアメリカ、大西洋貿易圏内で生活が維持できる。
アジアはどうか?アジアの大部分はアメリカに追従しなくてもやっていけるところはある。けれどもアメリカに対する遠慮というものがあって、日本に対して以前程の友好的態度は示さなくなるであろう。
そうすると残った道は日本は中国やソ連、南北朝鮮と一緒にやっていかなければならない。
これらの国は過去の歴史から見て日本と仲良くやっていける国だろうか?
こうした国と日本を眺めると、全く50年前の構図と同じになってしまう。
あの国々が50年前と同じ轍を踏むだろうか?
この時点ではまだ日米開戦とはなっていない。
アメリカは日本に貿易を禁止するだけである。宣戦布告をしたわけではない。50年前と同じ状況である。
50年前もアメリカは日本に石油の輸出を禁止したのみで、日本側に宣戦布告をさせたわけである。
石油の輸出を禁止することによって日本側に銃の引き金を先に引かせたわけである。
これによりアメリカ国民を奮起させたのである。
この辺りがル−ズベルト大統領のしたたかな所である。
「OK牧場の決闘」である。ワイワット・ア−プとドク・ホリデイ−の論理である。
相手が先に銃を抜けば正当防衛であるという西部劇の論理である。
相手に先に銃を抜かせるというのがアメリカ大統領の手腕である。
ル−ズベルト大統領は、これに満々と成功したわけである。
湾岸戦争のサダム・フセインは、居会い抜きならぬ、銃を抜いて構えていたので、アメリカもそれなりに周到に準備し、圧勝をしたのである。
日米開戦はドク・ホリデイ−の「OK牧場の決闘」よろしく居合い抜きである。
アメリカにはこうした日本に対する深層心理が根底に流れているということを我々日本人はもっと真剣に論じなければいけないと思う。
アメリカが日本との貿易を一切禁止し、在米資産の凍結、在米邦人の強制送還という事態になったとき、日本は再び戦えるか?これは一目瞭然、戦えない。
アメリカの兵隊は70〜80%武器を持って戦うことを辞さない。
日本の若者は同じ比率で武器を持って戦うことを辞するであろう。これでは戦争にならない。
するとどうなるか?おそらく46年前のような沖縄戦もなければ、東京空襲もなく、長崎広島の原爆もないであろう。
当然、本土決戦も無いわけだ。けれどもU・S・ARMY、NAVY、AIR FORCE、は再び日本に進駐してくるであろう。
そして天皇陛下はどういう形で残るのだろう。
まさか命を失うこともなかろうが、たとえそうなっても日本人は誰一人悲しまないであろう。そして、総理大臣は当然り免させられて、日本はアメリカ合衆国の51番目の州になることは確かである。
国会議事堂には星条旗が翻ることになり、そうすると合衆国の法律が適用され、日本の商習慣とか、日本の産業間の固有のしきたりというのは完全に是正され、適用しなくなる。
けれども日本人というのは順応性に富んでいるので、新しい習慣、新しい規制のなかでもまたまた成長率を上げてしまって、アメリカ51州のなかでも突出してしまう。
これは極端な例であるが、アメリカが貿易をストップさせる可能性ということを日本人としては常に考えておかなければならないことだと思う。
外交の役割
ここに二番目のテ−マである。
外交政策というものが関連してくる。
日本ばかりでなく世界にとっても外交ということが本当の意味で難しくなってきている。
これは日本だけの問題ではない。
というのも、我々庶民においても情報はあふれ出るような状態で、その情報が専門化、高度化している。
昔のように社交界のみで外交が出来ないほど、社会全体のシステムが複雑化してきている。今ではとてもそんな悠長なことはしておられない。
全ての事柄に外国の事情が絡んできている。
環境問題、公害問題、人出不足の問題、軍事、科学技術の問題、昨今のトラブルは何一つ対外的な認識なしでは語れない。
これの全部に外務省、乃至は外交官がタッチすることなど誰が見ても不可能なことである。
ましてや党の要人というだけで外交官まがいのことをしてくるに至っては、外務省もお手上げであろうと推察する。
又、サミット会談というのも外交を難しくしていると思う。
各国の元首同志が同じテ−ブルについて話し合えば問題は端的に解決するという点では合理的であるが、それならば外務省というのは不要なわけで、アメリカは外務省といわずに国務省といっていると思うが、この方が合理的である。
外務省といっても突き詰めれば国務省である。
その点、日本は内務省と外務省に別れているのは不合理である。
日本の内務省というのは主に治安に関する国内法的なものを所管し、外務省は対外的なことを所管するという理由もわからなくはない。
それにしても各省とも対外的な案件が多くなってきたということは否めない事実である。
そのバランスをどうするのかというのが今回の中間答申であろうと思うが、この外務省というのが日米再衝突論というものに極めて冷淡なところが気になる。
フリ−ドマン教授というのが無名だからというのでアメリカの世論一般がそう思い込んでいるわけではないと楽観的であるが、アメリカ人が皆そんなことを言いだしたら、それこそ大変である。
たった一人であっても、そういう意見の持ち主が本を出して、それが売れているという事実にもっと注目すべきである。
本が売れているということは世論の関心を引き付けているということであり、世論が関心を持っているということの証拠である。
本の内容そのものよりも、その本に世論が関心を持っているということに注意を払うべきである。
そう思っている人は此処にも居るわけだから既にアメリカに一人、日本側に一人、日米は再度衝突すると思って居るのである。
この波紋が段々大きくならないように外務省は対策を講じなければならないし、産業界ももっと自分の足元を見つめ直さなければならない。
ル−ルの相違
46年前の日本は焼け野原で、戦争に敗けて、日本全国がホ−ム・レスの状態であった。
けれども今では世界一の金持ちの国になったのである。
地球上に160近くの主権国家で、この現実を妬ましく思わない国などありえない。
中国、朝鮮、アメリカ、イギリス、フランスなど、この日本の成功を妬ましく思わないはずがない。
羨ましく、妬ましく、思っているに違いない。
なんとかして46年前の日本のままで置いておきたいというのが本音である。
けれども口ではあからさまにそんなことは言えない。
だからラジカセを叩き壊している図がニュ−スになるのである。
あれが諸外国の本音である。
そして日米構造協議である。
日米構造協議なんてものはマッカアサ−の占領政策のようなものだ。
民生局の仕事をヒルズ商務長官がやったようなものだ。
とうてい主権国家であんなことが許されてならない。
あれを受け入れざるをえない日本の立場というのは、あまりにも経済成長しすぎたという逆の意味の弱みである。
日本の経済成長がもう少し低ければ、あの協議はありえなかったし、内政干渉もされずに済んだに違いない。
さりとて日本が成長を止める訳にはいかない。
成長を止めれば自転車と同じで転んでしまう。まさに日本経済は自転車操業である。
一生懸命走らないことには転んでしまう。
けれどもこの一生懸命をどちらの方向に向かわせるかということが今後の日本に課せられたられたテ−マではないかと思う。
今迄と同じようにアメリカの方ばかりに向けているとアメリカでジャパン・パッシングが起きる。
アメリカで失業率がアップしているのも日本の影響があることは事実だろうと思う。
それかといってアメリカ人に日本と同じ条件で仕事をせよといっても無理なことだと思う。アメリカは懐が深く、奥行も深いところである。その点日本は軽薄短小、文字通りである。日本人は二言目には「話せば分かる」という思考方法であるが、話をしても理解してもらえない案件は山程ある。
又、「話せば分かる」という言葉で、これは自分の方の不利な面は棚上げして、相手ばかりに妥協を強いるという面が無きにしもあらずである。
「話せば」という点で自分の方の話ばかりして、相手の言うことを聞かないという点もあるかと思う。
例えば、アメリカ人は一応民主主義のル−ルに基づいて論議をしてくるが、我々は日本流の民主主義の論理で、結果の平等を重視するが、彼らはスタ−トの平等を重視する。
同じ民主主義でも結果を重視するのと、スタ−トを重視するという違いがある。
この点を無視して議論していても議論が空回りするのみである。
例えば、関西空港の工事入札の件などもアメリカ企業にもどんどん入札させればいいのである。
日本の特殊事情だとか、日本企業の保護などといわずに同じ条件で入札させればいいのである。
農業の問題でも、「日本の農業の保護」など言わずに、日本の国内法に照らし合わせて、「この条件に合うものならどんどん送れ」と言えばいいのである。
アメリカ人の深層心理にはフエヤ−・プレ−の精神が根付いている。
同じル−ルの元での競争ならば、敗けても文句を言わないが、ル−ルが不明確だとブ−イングが起きる。
それと同じでフエヤ−なル−ルを提示すれば後は当事者同志の競争ということで納得する。問題は、日米の貿易不均衡の是正ということが、日米双方で一生懸命努力しているにもかかわらず一向に好くならないということである。
経済の動向の難しいことはよく分からないが、我々が育った時代には1ドルが360円であった。
これが変動相場制になって、今は1ドル140円ぐらいである。
これがアメリカの対日赤字の原因ではないかと思う。
為替相場の功罪
変動相場制のもとでも1ドルが360円近で安定していればアメリカの対日赤字も自然に減ってくるのではないかと思う。
この変動相場制は1971年8月、アメリカのニクソン大統領が米ドルの金交換制を停止することにより、諸外国が変動相場制に移行したことによる。
一旦変動相場制になると、その後は各国の思惑で為替レ−トが変動するため、それを各国の通貨当局がコントロ−ルしている。よって日本もドル相場、円相場に対して日本銀行が介入することにより現在は1ドル140円程度で上下している。
これを自然の成り行きに放置しておいたらおそらく極端な事態になりかねない。
この変動相場制でアメリカの対日赤字が減らないのなら、減る方向に日銀が介入すれば良さそうなものであるが、そうなると1ドル400円、500円、600円となった場合、今度は日本の経済の方が破滅してしまう。
此処にアメリカの対日債務の問題の難しさがある。
経済というのは難しいというか、厄介というか、不可解というか、訳が分からない。
通貨というものに底、乃至は上限が有るかと思えば無いし、無ければ通貨などいくらでも発行すればいいと思うが、それをするとインフレになり物価は上昇するし、アメリカの対日債務など数字のマジックかと思うとそうでもなく、何が何だか全く不可解である。
ブラジルやアルゼンチンは対外債務の利子も払えないというが、この利子を払わないと、継続して融資が受けられないということで、利子を払うために融資を受けている。
こうなると元本の方は一体どうなるのか、利子を払うのに窮窮している国が元本まで払える状態になり得るのだろうか?
ちなみに日露戦争の時、日本がイギリスから借りた借款をつい先日、平成3年になって払い終えたという話を聞いたが、ブラジルやアルゼンチンの債務も100年近く経てば償還されるものだろうか?
もしそうだとしても気の長い話である。
アメリカの対日債務が減らない原因は、為替レ−トの問題もあると思う。
仮に1ドル140円だとして、これが1ドル280円になったらアメリカの対日債務は半分になる、1ドル420円になったとしたら1/3になる。
しかし1ドル420円になったとしたらガソリンは3倍になりリッタ−当たり360円近くになる。
これは日本にとって大打撃だろうと思う。
又、もう一つの方法として、その分アメリカ製品を日本が買えば言い訳であるが、これはいくらやても効果が薄いので頭が痛いわけである。
その一貫として防衛庁がC−130輸送機を完成品のまま購入したけれども、そんなことでは追い付かない。
もっともっと大々的にやれば、今度は日本の産業、企業を圧迫してしまう。
アメリカにあって、日本に無いもの、それはほとんど何もない。
石油、石炭というのがあったが、石油は中東から、石炭はそのものがあまり使われなくなった。
米、牛肉も駄目となれば、日本がアメリカから買わなければならないものはほとんど何もない。
自動車などは、アメリカ人が日本車なんか買わなくても済みそうであるが、これが案外そうでない。
日本の車にはアメリカ車に無い何か購買欲をそそるものがあるのである。
アメリカのメ−カ−はこの何か、プラス・アルフアの付加価値を付けることに失敗したのである。
これは車だけでなく日本製の全ての製品に言えることだろうと思う。
別の見方をすれば、日本のメ−カ−はアメリカの製品に欠けた何かプラス・アルフアの付加価値を探り当てたのである。
だからこそアメリカの競合メ−カ−を差し置いてシェア−を広げることが出来たのである。現状のままで放置しておけば、それこそ世界中が日本製品に席巻されてしまう。
この状態を憂いたのが日米再衝突論の根拠ではないかと思う。
外務省の使命
1940年頃までは日本は軍事力で世界を席巻しようと企てていたが、今は経済乃至は貿易で世界を席巻しようとしている。
日本人である私がそう思うのであるから、外国の方から見ればもっとそういう感じに恐怖感、圧迫観念に取りつかれているのではないかと思う。
フランスのクレッソン首相の的外れといわれた発言も笑って済まされないのではないかと思う。
日本がいくら貿易、経済で世界を支配するつもりはないと弁解したところで、相手がそう思い込むことを止めさせる事は出来ない。
フランスのクレッソン女子の発言は彼女の偽らざる本音の発言でなかったかと思う。
この世に生存する人々の中にはサダム・フセインのような人も居る。
けれども大部分は温厚な考え方をする人々が多い。
特に知的レベルが高い人程そうであるが、それであからさまには言う人は少ないが、案外本心はクレッソン女史の言っていることが的を得ているかも知れない。
日本への配慮から周囲が気を使って居ることは理解できるが、ああした不用意なというべきか、素直な言葉の方が本心を語っていると思う。
我々は外国人が、他の国の人々がああいう風に考えている人も居るということを肝に命じておくべきである。
我々が全く意図していないことでも、他の国の人々にとっては素直に受け取らず、歪曲して取られるケ−スもあり得ると言うことである。
こういう誤解を解くことは外務省の所管であろうと思うが、つらつら考えるに外務省の仕事も実に大変な時代になってきたものだ。
世界の人々の武器が小銃と大砲の時代なら、社交界でダンスでもしていれば外交が成り立っていたが、今の外交となると外務省だけの人材ではとても対応できないのではないかと思う。先の日米構造協議なども基本的には外務省の所管事項であろうが、内容的には完全に通産省の所管事項や建設省の所管事項まで含まれている。
こうなると外務省抜きで外交が行なわれるという形になってしまって、出る幕が無い。
政治としてはおかしな事になってしまう。
こういう状況を踏まえて行革審の世界部会が「外交政策の理念と具体的改革事項」というものを出さなければならない要因が存在したわけである。
私の率直な考えでは、今日ではもう外務省という外交を専門に所轄するセクションは不要だと思う。
社会のシステムがこれだけ複雑になり、外国との行き来が簡単になり、ボ−ダ−レスの時代に外交だけを所轄するセクションは意味が無い。
日本国民が何千万と外国に出掛ける時代に、外務省などパスポ−トを発行するだけの値打ちしかないように思う。
仮に日米構造協議を見ても外務省の出る幕はない。
サミット会談においても、外務省としてのアイデンテイテイはない。
それかといって湾岸戦争の際にも邦人の保護、情報の収拾ということも不十分ときては外務省の存在の意味が無い。
行革審、世界部会の答申における対外政策の基本理念を見ても、あれは外務省ばかりでなく、これからの日本人ならば誰にでも共通して言えることで、日本国民で諸外国と協調してやっていこうとすれば当然なことで、特に外務省、外交官だけに適用されるべきものではない。
ことほど左様に社会のシステムの方が変化してきているのである。
これは日本ばかりでなく世界各国が同じ条件である。
外務省の存在の意義が薄れてきているのは日本ばかりでない。
だから外務省の存在価値を何に求めるか?となれば、これは答申の具体的改革事項の中にも示されているが、情報専門家の育成と緊急事態への対処である。
外務省が外務省として生き残るためには、この二つの項目しか存在価値が無い。
情報収集が昔も今も外務省の重要な所管事項には違いないが、今迄の外務省は、この面で弱かったように思う。
イランのアメリカ大使館占拠事件をどこで外務省は知ったか、湾岸戦争でイラクがクエ−トに進攻するのをどの時点で知ったか、ということが外務省の重要な使命であったはずである。この二つの例でも、外国のマスコミから知るようでは外務省としての存在価値は全く無いに等しい。
少なくとも外務省というのは外交特権という特別の権利というものをもっている。そういう彼等がマスコミからのニュ−スで事態を知るようでは、存在価値を疑われても仕方が無い。しかし、中間答申を読んでみても、過去にそうであったから、それではいけないというので、情報専門家を育成しなければ、という答えになっているのではないかと想像する。
外務省、外交官たるものは、少なくともマスコミよりは早く情報をキャッチ、分析して政治、政策にフイ−ド・バックさせなければ全く意味が無い。
外交の多様化
確かに民間のマスコミ、又は商社のネット・ワ−クは進んでいる。
しかしだからといって外務省が情報収集に後手を取っても仕方がないという理由にはならない。
なんとなれば、それが彼等の使命だからである。
情報収集がマスコミより遅れていては使命を放棄しているに等しい。
又、本当は情報収集だけでは不十分である。
その情報を分析して政府なり、在留邦人に連絡して始めて外務省としての使命を全うしたことになる。
在留邦人に連絡するということは緊急事態への対処ということにもつながるが、今迄日本の外務省が緊急事態に十分機能したということはあまり聞かない。
イラクのクエ−ト進攻の際、日本人も捕虜にされたが、あの時でも捕虜の中には外務省の人は居なかったようだし、又外務省が何かしたという話も聞かなかった。
外務省の人間が捕虜になるということはないかもしれないが、イランはアメリカ大使館の全員を捕虜にしたことがあるし、外交官というものは本当は命懸けの仕事であるはずである。外交特権があるのはこの命懸けの仕事を裏付けるものである。
情報収集も緊急事態の対処も本当は軍と共同歩調を取るのが普通の主権国家の在り方であるが、その点も日本は特異な存在である。
駐在武官というのは名目上は存在しているが、本来は名目で済まされるものではない。
諜報活動というとダ−テイ−な仕事である。
だから日本以外の主権国家では軍が直接乃至は間接的に携わっている。
けれども日本はそれが出来ない。
国内ならともかく外国となると特に厄介である。
いきおい外務省にお鉢が回ってくる筈で、外務省でもその点は認識はある筈である。
しかし、日本の外務省がそんな汚い仕事をしているとは考えられない。
机上論でいくら議論していても生の情報は集まらない。
だから情報収集も出来ず、緊急事態の対処も出来ないので、この答申に出てくるのである。その点マスコミの人間やビジネス・マンは、なりふり構わず動き回れるので外交官よりは情報にも強く、緊急事態にも一致団結できるのである。
今回の湾岸戦争の際にも外務省としては何一つ日本国民に対しても貢献することが出来なかった。
我々と一緒にテレビを見ているようでは、その存在価値を疑われても致し方ない。
一般論として、外交ということは外務省だけの問題ではない。
国民、各階層、各レベルで外国と係わり会う人、組織、団体等全てが良き外交官であるよう心掛けなければならない。
そのためには自分だけの都合をまくしたてるのではなく、相手の言い分もよく聞いて、相互理解の上にたって、折れるべきところは折れ、双方で納得の出来る点で妥協することが肝心である。
民間ではこんなことは当然である、そうでなければ全ての契約というものが成り立たない。外務省というセクションは、民間のビジネスのような具体的な目標というものが無い。
そういう意味では他の官庁と同じである。
だからといって日米構造協議を外務省が取り纏められるかということになると、あの内容を見ればとても外務省では手に負えないと思う。
そうすると外務省としては条約の手続き、書類上の処理の問題のみである。
そうした状況を踏まえて考えると行革審、世界部会の中間報告が出たところで、外務省が急に生まれ変わるとも思われない。
この答申に外務省から色々クレ−ムが付いたということであるが、それは当然である。
各省庁の中で今迄に個別に問題にされた省庁は外務省だけである。
過去にあった軍部は終戦により消滅してしまった。
戦前から生き残った外務省が今俎上に乗っているのは時代の流れといえばそれまでであるが、裏を返せば時代にマッチしていないということである。
水面下の心理
「The coming war with Japan」 フリ−ド・マン教授とM・ルバ−ト女史の共著が全米で売れているということは、用意ならぬ事態だと思う。
その点については前にも述べたが、こういう状況を外務省がどう考えているかということが問題である。
現段階では外務省は無関心というか、無視しているというか、全く問題にしていない。
しかし、外務省というのはこういう動きが出たら早急に調査に乗り出すべきであると思う。もっとも民間の調査機関や、商社あたりは既に動いているかもしれないが、こうした事は外交問題でもあるが、その前にお互いの国民の隠れた部分、水面下の民衆の心理に関する事項であるので、そう簡単には表面化しないと思う。
けれどもそれだからこそ我々にとって恐ろしいのである。
先の対日戦、我々のサイドからは対米戦であるが、あの時にアメリカが日本人を研究した有名な書物「菊と刀」というのは実によく我々のことを、微に入り細に入り、日本人の心というものを研究されたものだ。
ル−ス・ベネジェクトという女性の民族学者が軍の依頼を受けて、我々日本人の深層心理まで深くえぐりだしている書物を書いている。
50年前の日本人と今の日本人とはその考え方、精神構造に大きな違いがあるので、それが現在も通用するとは思われないが、そうして戦争という極限の事態に対しても、その対し方、取り組み方、相手のことを知る、研究するという態度は我々も大いに参考にすべきである。日本が適性語だと言って英語の使用を禁止しているときに、相手は日本人の捕虜を使って、日本人の精神構造まで深くえぐりだす研究をしているのである。
今、第二次日米戦争を想定して、同じ事をすべきだと結論を飛躍させるつもりはないが、アメリカ側に再度対日戦があるかもしれない、という声が上がっているときに、日本サイドとして、のほほんとしている訳にはいかない。
どこかでそうしたシナリオを考え、想定し、対処のシナリオを考えておく必要があると思う。そうした事態を避けるためにも、その研究に、調査に、有り得るシナリオを想定して、そうならないようにカウンタ−・プランを作っておく必要があると思う。
そういう方向に流されないように処方箋を考えておかなければならない。
この著書では日米の戦争があると考えているが、そうなっては日本もアメリカも困るし、そうならないように両方で努力しなければならない。
そのためにはアメリカの国民の深層心理、精神構造にまで踏み込んで研究調査しなければならない。
そのことに真剣に取り組まなければならないのはやはり外務省ではないかと思う。
日本の研究機関、民間のシンク・タンクなども同時にその情報の収集と分析を行なうべきであるが、民間ではどうしてもそれぞれの企業の目的に合わせることにより純粋に政治的という訳にはいかないと思う。
政治という、外交という立場から言えば、当然外務省である。
外務省といえどもアメリカの政治家、乃至はアメリカ政府の当局者といくら接触しても、彼等の本音は探ることが出来ないと思う。
そういう表向きの接触では彼等も建前論で来るに違いない。
やはり本音を探ろうとすればダ−テイ−な仕事も辞さないという覚悟が無いことには探り出せないし、綺麗事だけでは不可能だと思う。
日本に対する差別
昨今では日本企業も沢山アメリカに進出しているけれども、やはり日本企業は真から歓迎されているわけではない。
本質的には差別されている。
この差別というのは黒人差別というのとは少し違っている。
日本企業もアメリカ市民もお互いに差別するつもりで行なっているわけではない。
けれども結果的に差別になっており、ジャパン・パッシングになっている。
アメリカに進出した企業は、アメリカ市民を大量に雇用している。
雇用することは結構であるが、その企業が経年変化をして来ると、その従業員の不満が噴出してくる。
昇進が遅いだの、マイノリテイ−を差別しているだの、女性を平等に扱っていないだの、こういう不満は日本の中の企業でもそれこそ掃いて捨てるほど有るわけである。
何もアメリカに進出した企業だけの問題ではない。
日本国内でもそうした諸々の問題は未解決のまま、日本全体として日本企業は世界を席巻しようとしているのである。
アメリカの従業員はそうした日本の事情も知らずに、日本企業に対する不満をモロに表面化している。
こうした日本企業に対する不満をモロに表面化することが、日本企業に対するアメリカ側の差別、ジャパン・パッシングになっていることに彼等は気が付いていない。
これは歴然たる事実である。アメリカ人の不満は本物なのである。
こういう隠れた情報を外務省は収集しなければならない。
企業は企業の努力によってそういう不満を一つ一つつぶしていこうとしている。
けれども、その解決は結果的に金で解決をするという形になっている。
というのは、アメリカ従業員は訴訟に持ち込むので、その結果は金でしか解決の方法がない。
日本の企業がアメリカに進出する。
最初の内はアメリカ従業員も大人しく仕事をしているが4、5年もすると不満が出てくる。この不満というのは日本式経営に対する不満である。
進出した企業が最初の内は日本流とアメリカ流の折半の経営方式で行こうとしても、どうも効率が良くない、だんだん日本式経営に傾く、アメリカ人従業員が不満を持ってくるという悪循環になってしまう。
アメリカ人は日本式経営に我慢できない。
日本式経営が日本をGNP No1 に押し上げているという事に気が付かない。
不満を顕にする。訴訟をする。金をだす。日本企業を訴えれば金を出すので、何でもかんでも訴訟にすれば金になるという悪循環が出来上がる。
労働感の違い
まあこれは必然的なものかもしれない。
アメリカ人にとって日本的経営は馴染めないものであったに違いない。
これは彼等の仕事に対する考え方、価値観の相違が根本的に違うので無理もないことかもしれない。
我々日本人は働くことが目的で、一生懸命働いた結果として金も入ってくるし、地位も上がるという考え方の立っているが、彼等というよりも日本人以外では、金儲けが先で、金を儲け、収入を大きくするためにそれに見合う労働を提供するという、目的と手段が日本人と日本人以外では逆になっている。
子供の頃アメリカ人は転職するたびに給料が上がるという話を聞いて実に不思議に思っていたものであるが、要は少しでも給料の高いほう移行していくだけのことで、自分の仕事に愛着もなければ、誇りも待っていないということである。
こういう労働感に対して価値感が全く逆になっている組織をうまく運用させることは極めて困難な事だと思う。
この価値観の違いは日本人だけが持っている特異性である。
イギリス人も、フランス人も、中国人も、他のマイノリテイ−も、全て日本とは逆の価値観である。
だから結果的にアメリカ内でジャパン・パッシングになってしまう。
アメリカ人から見て、日本人以外にその矛先を向けるところがない。
向くのは全て日本人乃至は日本という国に対してだけである。
アメリカ国民というのは多民族国家である事は今更言うこともないが、移民の国であるので、ソ連や中国のように各民族がブロック化して生存して居るわけではない。
ニュ−ヨ−クなどは我々の昔の概念で言う青い目をしたアメリカ人などほとんど居ないような状態である。
モザイク社会を通り超してランダム社会である。
そこにもってきて民主主義もオ−バ−してしまったような自由主義の国である。
日本のような均一的な金太郎飴のような社会ではない。
日本と同じ物差しが通用しないことはわかるが、そうした人々が日本のことをどう考えているかということが大事である。
アメリカの選択
日本の知的な人、評論家や官僚、商社マンはアメリカの底辺の人々とはあまり接触がない筈である。
ましてや外交官となれば相手もそれ相当に地位もあり、役職もある人達ばかりである。
こういう人達はあまり本音を洩らさない。
相手の感情を害するような露骨な発言はしないものである。
けれどもアメリカにおいてもこうした一般大衆がいきなり「日本を叩け」という発言はする訳がない。
アメリカにおいても政治家がこういう決定をするのは日本と同じであるが、政治家というのがこうした大衆の人気取りをせざるをえない時というのが一番日本にとって危険なタイミングである。
先の大戦でも、当時のル−ズベルトは実にうまく立ち回ったではないか。
日本の識者は日本が再び戦争をすることはないといっているが、日本が問題なのではない。アメリカにそうする気があるのか、そうせざるをえない立場になるのではないか、どいう事が問題なのである。その点が大事なのである。
アメリカの政治家が、アメリカの為に、日本に戦争を仕掛けることが起こり得るかどうかということが問題である。
前にも述べたが東西の冷戦は終焉している。
アメリカの敵はソ連でなく日本になったのではないか、という心配がある。
ECはブロック化を強め、ソ連は崩壊し、アジアはまだアメリカの市場としては小さすぎる。アメリカの当面の敵は日本ということになる。
この「The comeing war with Japan」では私が危惧していた日米構造協議とソ連崩壊のことが述べられているが、やはり私と同じ事を考えているなと意を強くしたものであるが、ECとアメリカというのはブロック化したとしても親戚同志のようなもので、ソ連邦というのは相手にならない。
そしてアメリカはカナダとメキシコを抱き込んで北アメリカ圏のようなものを作ろうとしている。
もしそうなるとこの北アメリカ圏から日本を締め出そうという動きが出かねない。
それが最初のピンチだと思う。
日本のマスコミはまだこの点に何一つ動きを示していない。外務省もそうである。
民間の研究機関、シンク・タンクもそういう予測を出していない。
これは戦争を肯定するためではなく、それを回避するために研究する値打ちがあると思う。