071214003
地球上から人間の争いを無くすこと
地球上に存在する国がそれぞれ主権というものを持っているとすると、これは各個人としての集合と同じ事になってしまう。
各個人が集まって話を一つに纏めようと思ってもなかなか話が纏らないのと同じである。
仮に各個人がそうありたいと思う方向に認識が一致していても、その認識の違いが意見の違いとなって、話が平行線となってしまう。
個人の場合でも、主権国家の場合でも、自己を主張すれば決して話は纏らない。
意見を主張するということでは話し合いは成立しない。
話し合いを纏めたいという気持ちがあれば、自己の主張をどこで妥協させるかという考え方に立たないことには、話し合いというものは成立しない。
それと同じ事が主権国家の間でもあり、自国の利益のみを主張するだけでは円滑な話し合いは望めない。
そうした背景を踏まえて国連というものを眺めた場合、資本主義国に対して共産主義国という構成で、話し合いが成り立つであろうか?これは望む方が無理である。
又、この安全保障理事会の構成は、この常任理事国の他に非常任理事国というのが10ヵ国あって、こちらは拒否権もない。
常任理事国にあって、非常任理事国にそれが無いとなれば、一体安全保障理事会というのは何なのかという問題がある。
非常任理事国は発言しても何ら存在価値が無い、まるで刺身のツマのようなものである。
国際連合には色々な機関、機能があって、人類全体の生存には寄与していることは認めるが、この安全保障に関しては無能である。
裏を返せば、戦争を地球上から排除することはそれだけ困難であるということだ。
それを裏付けるように国連に安全保障理事会があるので軍隊は不要だ、という主権国家はどこにもない。
ただ一つの例外は日本で、それ以外には無い。
現在、国連加盟国は地球上に159ヵ国有ると記憶しているが、日本のような国は日本以外に存在しない。
軍隊を持ちたくても持ち得ない国というのは存在し得る。
又、強力な軍隊を持ちながら国連に加盟していない国というのもある。それはスイスである。スイスという国は、集団安全保障にも加わらない。見上げた国である。
しかし、その裏には国民皆兵で、兵役は国民の義務となっている。
日本人は、この裏側の事情を故意に見ないようにしている。
そして、表面的なもののみを見て「スイスは素晴らしい!!」といっているが、その隠れた部分の国防という認識はとても今日の日本の比ではない。
日本が戦争放棄の憲法を抱えながらスイスと同じ道を行くことは多分不可能であろうと想像する。
何となれば、日本には自分の国を守るという気持ち、概念が無いからである。
過去の日本がそうであったし、これからに日本もそうであり続けるであろう。
国連が地球上から戦争を排除出来ないでいる理由は、安全保障理事会の存在もさることながら、それに変わるものとして決定的な妙案が無いからではないかと思う。
この地球上に160か国の主権国家が存在し、それぞれ考え方の違った人間が、それを構成している以上、地球上から戦争を排除することは半ば不可能というべきではないかと思う。卑近な例を取っても、人間は親子、兄弟、夫婦同志でも喧嘩し、隣人同志でも同じ事が言える。
個々の人間が慈愛に満ち、博愛主義に満ち、平和を愛する気持ちがあれば、こんなことは起こり得ない筈であるが、現実にはそれが起きている。
これは日本人ばかりでなく、アメリカ、ソ連でも、中国でも、世界各地で日常的なことである。
こういう個々の人間が集まって主権国家というものを形成している。
数多くの人間の集合体が集まって独立国家をなし、それが各自に主権を主張すれば、当然軋轢というものが生まれるのは必然である。
ということは戦争の要因ということは人類が地球上に生存し続ける以上、存在しつづけるということである。
人間は万物の霊長と言われている。
しかし、これも人間に都合の良い解釈で、野性動物では同じ種同志の無意味な殺し合いというのが無いといわれているが、人間の世界では、無意味な殺し合いというのは繰り返し行なわれ、掃いて捨てるほどある。
これでは万物の霊長などとは言っていられない。
なお困ったことに、人間は無意味な殺し合いに意味を持たせることをする。
この無意味な殺し合いに意味を待たせることが出来るということが万物の霊長と自認できる所以かもしれない。
軍縮の問題点
国連の安全保障理事会をどのように改革したところで、やはり地球上から戦争を排除することは出来ないであろう。
確かに東西冷戦は終焉した、米ソによる核兵器、ICBMが飛びかう戦争は今後も起きないであろう、しかしソ連はすでに崩壊している、ソ連国内においては各共和国が独立している。この事実は手放しで喜んでいられる状況ではない。
東西の冷戦中はソ連の15の共和国は一枚岩であった。
ソ連共産党ががっちりと各共和国を支配していた。
核兵器のボタンはソ連の共産党がしっかり握っており、他のものはそれに触れるチャンスを与えられなかった。
ソ連が解体した今、ソ連側ではこのボタンに触れることが出来る人間が一挙に15人近くに増えたということである。
現にロシヤ共和国のエリツインはロシヤ共和国の大統領としてアメリカのブッシュ大統領と会談している。(1991年、平成3年5月21日)
ブッシュ大統領はエリツインに会っても、ゴルバチョフ大統領に義理立てをしていたが、事ほど左様にソ連の共和国の力は強くなってきているのである。
核兵器、ICBMのボタンに触れることが出来るチャンスはそれだけ増加したと思って間違いない。
なお悪いことにソ連内の各共和国の足並みは全部揃っているとは思われない。
各共和国それぞれの思惑の違いというものがある。
こうした状況を踏まえて、国連の安全保障理事会の在り方そのものも改革せざるをえない時期ではあろうが、それを成し得たとしても、この地球上から戦争を排除できるとは思われない。
この地球上から戦争を排除しようとしたら、やはり日本のように戦争を放棄する以外に道はない。
しかし、そんなことが果たして出来るであろうか?仮に出来たとした場合、現に存在している軍隊というものがどう変化するのであろうか?
ソ連がアフガニスタンから撤退しただけで、ソ連国内で帰還兵に関する色々な問題が提起された。
余った兵隊をどう処遇するかという問題である。
アメリカがベトナムから撤退したときも、ソ連の場合ほど顕著でなかったが多少社会問題化した。
このように軍隊、乃至は兵力削減ということは口で言うほどイ−ジ−な事ではない。
膨れ上がったものを小さくするということは、口で言うほど簡単ではない。
それに軍隊というものは兵隊という人間だけの問題ではない。
軍隊を支えている経済や工業、学術、技術まで一国の全てのシステムに影響を及ぼす。
軍縮の影響
日本のみは軍と産業の結びつきがそれほど顕著ではないが、その他の西側の陣営ばかりでなく、東側の陣営においても、軍と経済なり産業との結びつきは日本以上に緊密で、兵力を削減するだけでも、その国の経済や社会システム全体に大きく影響するのである。
ソ連がアフガニスタンから兵隊を引き上げさせただけで、兵士の住む所から仕事のことまで考えなければならないように、アメリカ、イギリス等が兵力削減しようとすると、その兵器産業に直接的に大きな影響が出てくることは明らかである。
まず兵器産業に影響が出、それが直接社会全体のシステムに影響を及ぼすことは必致である。
軍事産業を民間に転換することは簡単な様に見えるがそうではない。
どこの国の産業、資本主義国であろうと共産主義国であろうと、戦争は不可避であるという前提に立って社会が成り立っている。
これは無理もないことで人類は有史以来戦争をしつづけてきたのである。
文化文明の発展といっても、それは戦をすることによって延び続けてきたのである。
この時期になって「戦争を放棄するので、産業構造を平和産業に転換せよ」といわれても、各国とも大いに困惑するに違いない。
世界の中でも日本だけが軍と産業の依存度の小さい国である。
考えてみれば日本の防衛費はGNPの1%である。
自衛隊が一人も居なくなっててもGNPの1%の影響しかない。
しかし、かってのソ連を始めとして共産主義国のように、国防費がGNPの30%にもなるような国が、一気に軍隊というものをゼロにしたとしたら、GNPの30%の影響が出るはずである。
ただ単純にこの30%が浮く、と言うとばかりは言いきれない。
浮くと同時に使い方も同時に考えなければならない。
これは経済面で大混乱をきたすということである。
西側陣営では30%なんて国はないにしても、仮に10%でも、その効果というか結果は同じようなものである。
それだけ人類は戦争に依存して発達してきたというわけである。
だから戦争を肯定するつもりはないが、嫌いだ、嫌だといいながらも、今迄縁が切れずに引きづってきたわけである。
国際連盟、不戦条約、国際連合、いづれも戦争を除く乃至は戦争をしないという目的のために考えられてきたことではあるが、その実現は今になっても出来ていない。
国連の機能、機構の中でも他のものはそれなりに有効に人類に貢献しているけれども、国連の究極の理想である戦争の排除、平和の維持ということのみは達成し得ていない。
安全保障理事会の機構をどのように変更しても、その理想を達成することは無理ではないかと思うが、それだからと言ってだまって手をこまねいて眺めているわけには行かない。
何らかの方法を見付ける、考える、努力をしなければならない。
人類が単刀直入に問題解決を図るために戦争に訴えるのを防止するために、それを防ぐ努力は地道な努力を重ねなければならない。
拒否権について
湾岸戦争の時、国連総長のデクエアルがイラクに飛んでサダム・フセインに直接会って話し合った事は全世界がTVで見ていたではないか。
それでもサダム・フセインは戦争という手段を行使したではないか。
日本人というのは話し合えば解決できると単純に考えているが、何ら解決できないという現実を目のあたりに見せ付けられてもまだ半信半疑である。
あのサダム・フセインの態度というのは国連というものが全く戦争抑止の力になり得ないという現実である。
国連の安全保障理事会というものが全く戦争抑止に対して無能である、ということは戦後の世界史が物語っている。
そうすると日本の国防というものも、その前提に立って考えなければならない。
国連致上主義というのも、その現実に則して考えなければならない。
理念理想は立派であるが現実とは掛け離れているということをよくよく肝に命じておかなければならない。
国連の決議には拒否権の行使という事がよく使われる。
この拒否権というのも不思議なものだ。
この拒否権というのは、国連の安全保障理事会においてアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国しか持っていない。
この5大国が他の10ヵ国の意見よりも優位に立つことが始めから認められているということである。
又、アメリカでもフイリッピンでも大統領が国内政治においてこの拒否権を行使することがあるが、これと民主主義との関係はどうなっているのであろう。
そもそもが国内政治的なもので、アメリカやフイリッピンの大統領が行使するのが本当のものらしいが、アメリカやフイリッピンで、議会が可決した法案に対して、大統領がOKを出すことを拒否することである。
これが本来の拒否権である。
ということは、どうも民主主義とはあい入れないような気がしてならない。
民主主義的な手段、方法で議員が選出され、その選出された議員が作った法律を大統領が拒否するということは一体どういうことであろうか。
国民から選出された議員が可決承認した法案を、大統領が拒否するということは、国民が望む方向と、大統領が望んでいる方向に食違いがあるということだろうか?
議員と大統領の立場が違うとはいえ、国家全体としてはベクトルは一つなはずなのに、大統領が拒否権を行使して議会が決めた法律を承認しないということが、どうも私には理解できない。
そうしたら議会は何んなのか?という素朴な疑問が起きる。
立法、行政、司法の3権分立の中において、アメリカ大統領というのは、この3権の上にのっかているのか、それとも立法府に属するのか、行政府に属するのか、私にはよく解らない。
我々凡人がマス・メデイアから受ける印象では、その両方に携わっているようにも見える。外交問題、軍縮等の問題における係わり方を見ると、行政府に関係しているようにも見えるし、国内法に拒否権を発動するときには立法府に属しているようにも見える。
共和制を広辞苑で引くと、主権が国民にあり、国民の選んだ代表者が合議で政治を行ない、国民が選挙で国の元首を選ぶことを原則とするとなっている。
大統領が何処に属するかということは判然としない。
この字句から読み取れることは、この3権分立とは独立しているという感じである。
別の意味で大統領というのは独裁者の要素も持ち合わせているということである。
議会の決定に対してノ−という事は、一見民主主義に逆行するような感じを受ける、というのは多数決が拒否されるわけであるから、違和感が伴う。
多数決ならばそれは全て善であるとする我々の認識からすると、逆行する感じがするのは否めない。
けれども多数決ならば全て善であると思い込むことも本当は危険なことである。
多数決ならば全て善であると思い込みがちであるが、この多数決というのは案外感情が入り込んで当てにならないことが多い。
一時の感情で多数決になることもあるが、感情で政治を行なっては良い結果が生まれないことも事実である。
多数決による決定ということは民主主義の根本のように思っている。
特に「人民による、人民のための、人民の政治」という場合、最大多数の最大幸福という場合、多数決が一番民主主義的な措置のような気がしてならない。
その決定に竿さす様な大統領の拒否権というのは、少数意見の尊重ということであろうか?しかし、それでは最大多数の最大幸福につながらない。その辺が今一理解できない。