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「日本の新戦略」その11

 

戦後の農業政策

 

私の朝日新聞に対する挑戦も折り返し地点を通過したところであるが、今回は第6項、「食料の安全保障」という項目に挑戦である。

「食料の安全保障」などと大上段に振りかぶることはさておいて、もっと身近な話題から入りたいと思う。

というのは、私は周囲を田んぼで囲まれた田舎に住んでいるが、今の農業は私の子供の頃の農業と雲泥の差で変質してしまっている。

私の子供の頃の田植え、稲刈りといえば、それこそ一家総出の作業であった。

それこそ子供からお年寄りまで、五体満足なものは一斉に田んぼに出て作業に従事したものである。

子供は子供に応じた作業があり、年寄りには年寄りに応じた作業があったわけで、皆それぞれに応じた作用をしたものである。

ところが今はそれと同じ作業量をたった一人でこなしている。

まさしく農業の近代化そのものであるが、こういう現況になさしめた根本のところには、戦後の農地改革があったことは間違いない。

小作人が自分の農地を持てたということで耕作意欲が出たということだと思う。

それにも増して、昔も今も、日本の政府が国民の食料の確保に尽力したという実績も考慮に入れなければならないが、それはある意味で当然といえば当然のことである。

国民の安寧秩序を維持する根幹は、言うまでもなく食料の安定供給だから、まず何をさておいても食料を確保しないことには、国家の存亡そのものが問われるわけで、その意味で農業政策というのは政治の根幹を成していると思う。

しかし、そうは言うものの、我々はあまりにも米作りにこだわりすぎたと思う。

日本人と米というのは、切っても切れない仲というわけでもなかろうが、農業政策となると、真っ先に米の問題に突き当たってしまう。

農家が一家総出で田植えや稲刈りをしていた50年前、60年前には日本で米が余るなどということは考えられなかった。

私が小学生の頃、日本は国土が狭く耕地面積が少ないので、土地の高度利用で段々畑まで作らざるを得ない、と教えられたものだ。

その日本で米が余るということは、耕作のノウハウや作業の合理化の成果であろうが、それにもまして、我々があまり米に依存しなくなったという面もあると思う。

米の代替物、つまりパンや麺類、その他のスナック的な食物が豊富になって、昔のように朝昼晩と三食とも米を食べるということがなくなった。

我が家でも、朝はパンで、昼はご飯であったり麺類であったりで、確実に米を食べるというのは夕食でしかない。

昔は三食とも米のご飯に依存していたものが、一日一回しか食べないとなれば、後の二食分は余ってくるのも当然であろう。

いかなる産業でも、50年も60年も同じ形態ではありえないわけで、その意味で米作りも時代とともに変わって当然である。

その結果として、昔は一家総出で農作業をしていたものが、今はたった一人でそれと同じ効率を上げているのである。

問題は、こういう農業の技術革新が目の前に存在しているにもかかわらず、農業に対する政府の意識、米作りに対する農業団体の意識が少しも進化していない点にある。

そもそも、今日の農家が自前の農地を持てたということ自体が、敗戦による占領軍の進駐という外圧で、無理やり押し付けられたわけで、農家が自意識に目覚めて、下からのボトムアップでなされたわけではない。

いわば棚ボタ式に、上から転がり落ちてきた改革で、自営農家になりえたのであるから、農家自身が革新的なアイデアを持っていたわけではなく、営農に積極果敢に挑戦する意欲に駆られて米作りに専念しているわけではない。

何処の国でも、食糧を生産する農家、農民というのは、言葉の上ではおだてられているが実質は最下層をなしているわけで、それゆえに百姓根性が抜け切れない。

常に虐げられてきたわけで、長年虐げられてきているので、自己保存の知恵を身につけてしまって、公益よりも私益を優先するという思考になっている。

日本の米作りは戦後大きく変化して、今は米が余る時代になってしまったが、農民は今までの既得権益を手放すことに大きく抵抗を示している。

戦後の米作農家は、棚ボタ式の農地改革で、自ら労することなく自営耕作地を得、その上政府の食管法の保護もと、米さえ作っておれば生涯安泰だ、という既得権益の上に胡坐をかいて、自ら産業構造の変化に追従する努力を放棄してしまった。

この社会の変革に目をつぶり、既得権益に安住する姿勢そのものが百姓根性というもので、それは自ら脱皮する努力もしなければ、それを受け入れようとする自覚も持たないということである。つまり変革を恐れているわけである。

江戸時代の農民は、それこそ生かさぬよう殺さぬように温存されてきたが、戦後、外圧によって農地解放が行われたとは言うものの、巷では空前絶後の食糧難で、政府としてはなんとしても食糧の増産、特に米の増産を図らねばならなかった。

戦争に勝利したアメリカは、日本人の戦時中のあの敢闘精神は、江戸時代から連綿と続いた封建主義思想の中にその根本があると思い違いをして、それを粉砕しようとここで極めて民主的な思考を植えつけた。

ところがそれは日本全国津々浦々に至るまでは急速に浸透しなかったので、ここで旧来の思考と民主主義の葛藤生じたが、今まで虐げられて来たものの知恵で、農民たちはその両方の良いとこ取りをして、自分の都合に合わせて自分に都合のいい部分のみを身につけたのである。

それは政府の言うことを聞く代わりに、保護を求め、それで非常に大きな優遇措置を農家は得たわけである。

それは農家の側からすれば、米さえ作っておれば食いはぐれることがない、という施策であった。

戦後の未曾有の食糧難の時代ならば、これも致し方ない措置であったが、時代が大きく変わったにもかかわらず、農家はその既得権を手放さそうとしないところに問題がある。

政府と農家の間をとりもつのが本当ならば農協、農業協同組合であるとするならば、ことはきっとスムースに運んだに違いないが、この農協というのが実にいかがわしい存在で、農家の味方をしている振りをして、実質は農地解放前の不在地主のようなものに成り変っている。

確かに以前は農協もまじめに農家に対して技術指導やその他もろもろのアドバイスをして、農家のフォローに勤めていたであろうが、それがしだいしだに営利本位になってしまって、今では完全に商社と化してしまっているではないか。

農協、農業協同組合というのも、農地解放以降、農家とともに同じ時間、つまり戦後50年、60年という時間をともに歩んできたのだから、日本の農業の先行きにもっともっと開明的な思考を指し示すべきだと思う。

たとえば、米余りの問題、後継者の問題、耕地整理の問題、農村の都市化の問題、等々農協が率先して取り組まねばならない問題は山ほどあると思う。

最近のニュースでは、日本の米を中国に輸出するという話があったが、まことに結構なことだと思う。

政治というのは、国民の希求に応えることだと思うが、その意味で食糧管理法というのは有効に機能していたと思う。

米の買占めを防ぐために、米を国家統制し、生産者から高く買って消費者に安く売るという施策は、あの食糧難の時代にはきわめて有効な施策であったと思う。

それが時代とともに米が余るようになったら自由販売になり、今ではスーパーマーケットで買えるわけで、まことに結構なことだと思う。

しかし、あの減反政策というのは実に愚策だと思う。

金を出してまで米を作らせない思考というのは、誰がどう考えても納得のいくものではないが、どうしてああいう事態になったのであろう。

 

産業構造の変革

 

政治にも善政と失政があることは理屈では理解できるが、これは失政などというものではないではないか。

昔では考えられないような、米余りという現象は、一種の産業構造の変革であって、石炭が採算割れで消滅したように、DP屋がデジカメの浸透で消滅したように、新聞社の鉛印刷が消滅したように、産業構造が変革したわけで、産業構造の変革を農業に当てはめた場合、それの対応を考えるのが本来ならば農協、農業協同組合の使命のはずであるが、農協はそれにきちんと答えていない。

時代とともに社会のあらゆることが変わるわけで、米作りも本来ならばそれに順応し続けなければならないと思うが、米作農家はそのあたりの研究を怠っていると思う。

現実には、米作りの現場も大きく変化して、今では農協委託という手法で、農家は土地を持っているだけで、本来の作業はすべて農協に委託することも可能のようだが、そうなればなったで、社会の対応もそれなりに変化して当然である。

日本の農業のおかしなところは、農家が本来の米作りだけでは食っていけないところにある。

どんな職業、どんな仕事でも、本来の仕事をまじめにしさえすれば一応食うだけはできる筈なのに、米作農家ではそれが成り立たない。

こんな産業が存在すること自体がおかしなことだと思う。

本来の仕事をまじめにしても食っていけれない産業は、明らかに産業構造の変革の波に飲み込まれたわけで、基本的には淘汰されてしかるべきだと思う。

ところが、食を提供する農業をそう残酷に扱えないというのは、ある種の人情論であり、浪花節の世界だと思うが、これも国家的見地に立てばむげに批判するわけにもいかないところが難しい。

その産業に従事する人を殺すわけにもいかず国家がせっせと金を投入している図ではないか。

これは農家だけの問題、農業だけの問題ではないと思う。

日本の社会全体のひずみだと思う。

米作農家が米の生産だけでは食っていけないから、米を作らない田んぼにまで金を出して、米あまりの防止に躍起になったわけで、米をあまるほどつくっても農家がそれで食っていけないというのは明らかに政治と経済のひずみだと思う。

産業構造自体の行き詰まりで、事がここまで来る間に米作農家としては何らかの工作を講じなければならなかったわけであるが、彼らがそれを怠ってきた付けだと思う。

政府の保護政策にどっぷりと漬かって、ぬるま湯から出ようとしなかったわけで、他の産業ならばとうの昔に淘汰されて姿かたちもないはずである。

それは端的に言えば、政府の買い上げ価格が低いということであろうが、ならば米をまったくの自由取引にすればどうかといえば、きっと生産者の側に落伍者がたくさん出、それと同時に金に飽かせて買い占めるものも当然出てくると思う。

つまり、米作りにも弱肉強食の世界が実現して、人気のある米は高根で取引されるが、反対に人気のない米、あるいは産地は淘汰されてしまうが、それが怖くて自らが構造改革をなす勇気を持たなかったということだと思う。

しかし、我々の社会が資本主義の自由主義経済の下であるとするならば、企業ないしは産業の自然淘汰も受け入れなければならないということになる。

普通の産業は、そういう条件下で生き馬の目を抜く社会で生きるか死ぬかの競走をしているわけで、米作農家だけがそういう世界と別の土俵に置かれるということも腑に落ちない部分である。

「食料の安全保障」という場合、この部分が大きな争点になるわけだが、今、我々が食べている米以外のものは、ほとんど輸入品ではなかろうか。

世界の趨勢としても、貿易の自由化が大きな目標で、どの国でも食料の安全保障という見地から、自国の農業を保護したいのはやまやまだと思う。

旧ソビエット連邦が崩壊して、この地球上の社会主義国は実質、中国のみになったが、その他の国が、資本主義体制の中で自由主義経済を建前として生きていこうとすると、農産物の移動も縦横無尽に行き来できるようするのが本来の姿であろう。

ところが、それは価格の安いところから流れ出るわけで、日本の米作農家が成り立たないのは安い食料が入ってくれば、単価の高い日本産の米は採算割れで立ち行かなく自然淘汰されてしまうということだ。

農産物の価格の安い国はどんどん日本に買って貰いたいが、それを我が方がいいわいいわで買い続けると、日本の生産者を圧迫するわけで、それこそ安全保障の問題として浮き上がってしまう。

基本的に、食料を自給自足できない国家は、きわめて軟弱というか、砂上の楼閣のような危なっかしい国だと思う。

特に、日本のように四周を海で困れて、その上、自国内では食糧を何一つ生産できないような国は、正真正銘の砂上の楼閣だと思う。

戦後60年余り、曲がりなりにも生きてこれたのは、きわめて幸運なことだと思う。

これは明らかに資本主義体制の中の自由主義経済の賜物で、相手の国も日本にものを売りつけて金を得たかったからであって、先方がそうしなければならない理由は、外貨獲得が第一の目的である。

たとえば今のロシアは北方での蟹漁に非常に関心を寄せて、蟹の密漁を厳重に監視しているが、それはロシアがロシアの手で蟹を取って日本に持ってくれば高価に売れるが、日本の漁船がその蟹を取ってしまえば、ロシア側として何も得るものはなにもないわけで、血眼になって密漁船を取り締まるということになる。

我々の住む日本という国、国土というのは、基本的に農業には不向きなのではなかろうか。農産物の大量生産には不向きなるがゆえに、狭い耕作地の中で、手間隙かけていつくしむように作物を作っているので、高品質のものはできるが、大量にというわけには行かない。当然、出来上がったものは高価格になるわけで、外国産とは価格の面でどうしても負けてしまうという結果を招く。

これが工業製品ならば、手間かけた製品は高価格で取引されるが、農産物ではそれが逆に作用してしまう。

ならば農業も産業構造の変革に沿って全部淘汰してしまうとしたら、これも大きな問題で、それこそ砂上の楼閣に屋上屋を積むようなことになってしまう。

まずさしあたりの応急的な措置としては、今の減反政策を完全に止めて、米のできる田んぼでは徹底的に米の生産を行って、余った分の米は海外に輸出することだと思う。

今、海外に住む日本人も多くなり、その上海外では日本食文化が普及し始めて、米の需要も右肩上がりだと思うので、売れるものは売れるときにドンドン売ってしかるべきだと思う。

日本の米作りはそのうちに後継者がいなくなって自然消滅するものと思う。

あるいは、全部農協委託で、田んぼは農協に貸し出すだけという状況になるかもしれない。自分で耕作しない田んぼが果たして農地といえるかどうかは非常微妙な点であろうと思う。耕作を全部農協に委託して、果たして本当に農家、農民といえるかどうかも微妙な問題だと思う。

ならば60年前の農業改革、農地改革は一体なんであったかといわなければならない。

 

農業の形態

 

こういう農業を取り巻くさまざまな問題には、農協、農業協同組合がもっと積極果敢に関わっていかなければならないと思う。

平成19年9月4日現在で、安部晋三内閣がせっかく内閣改造を行っても、またまた農林水産大臣の遠藤武彦氏が農協組合員の数を水増しで、補助金を不正に受け取った、という醜聞が出て更迭される事態を招いているが、この農協体質が日本の農業を駄目にしていると思う。

農協、農業協同組合というのも、できた最初は農家を指導し、それには耕作に対する指導も、農業経営に関する指導も合わせて行っていたと思う。

ある意味で、農家のシンク・タンクの役目を果たしていたと思うが、昨今では完全に商社と成り変ってしまって、歴然と利益追求のみになってしまっている。

遠藤氏の醜聞は、組合員の数を水増して、補助金を余分に取ろうとしていたわけで、農協に補助金が下りること自体が時代にマッチしていないはずだ。

補助金の出ている業界は、農業ばかりではなくあらゆる業界に補助金が出ているが、補助金に頼っている間は、その業界の自立はありえない。

さらに言えば、農協、農業協同組合というのは農業のシンク・タンクに徹しなければだめだと思う。

それが金儲け、利益の追求のみに奔走していたとしたら、農協そのものを解体しなければならない。

大体、農協が金融業や保険業や土地売買、デベロッパー、ガソリンスタンドを営業する必要などさらさらないではないか。

これは、高度経済成長期に、さまざまな企業が本来の仕事、本業の手を抜いて、ゴルフ場やマンション経営、その他さまざまな異業種に手を伸ばした構図と全く同じなわけで、非常に危なっかしい経営をしているということである。

だから本来の農家の指導ということが手薄になって、後継者も育たず、行き着く先が減反となってしまったわけである。

米が余るということは、我々、日本人にとってはこれほどありがたいこともないわけで、60年前の我々ならば、夢想だにできないことであった。

あの当時に生きていた人間にすれば、そんな世の中が来るなどは、考えも及ばなかったことである。

日本で米が余れば、当然、それは外に向かって売ればいいわけで、減反などということは天に唾を吐きかけるようなものである。

そんなことをしておいて、今更「食料の安全保障」などといってみても、現実味が失せてしまっているではないか。

「食料の安全保障」といった場合、米の問題だけではないことは十分承知しているが、減反などという行為は、まさしく日本人の奢りそのものだと思う。

それと、紛れもなくアイデアの枯渇状態を呈している図で、日本の官僚が如何に情けないのかということを物語っていると思う。

我々は衣食足りるとすぐに奢り高ぶる、という悪い癖を民族の潜在意識として持ち合わせているようだ。

高度経済成長のとき、少しばかり儲けたからといって、中小企業のオッサンが掃除のオバサンや小使いさんまで引き連れて、海外旅行する図など日本人の奢り以外の何者でもない。そんな会社はバブルがはじければ真っ先に淘汰されるのも無理ない話だと思う。

それと同じで、今は米が余っているので、すぐさま減反をして、米の収支を前年度に合わせる、などという施策は愚策の最たるもので、普通に常識のある人間の考えることではないと思う。

しかし、それを農協と農林省(当時)は行ったわけで、これは我々が如何に自分の脳みそでものを考えることなく、その場その場の対処療法で、物事を処しているかということである。

農業というのは実に過酷な仕事である。

私の経験でも、ほんのささやかな家庭菜園でさえ、まともに耕作できない。

すぐに雑草に負けてしまって作物はまともにできない。

だからこそ農民は有史以来食物を生産する貴重な存在であるにもかかわらず、なり手がないまま、社会の最下層を形成している。

それがため近代国家では食物を生産するという意味と、最下層の人々の救済という意味で、さまざまな補助が与えられている。

この補助があるが故に、農家、農民の側からの自助努力というものがスポイルされて、彼らはその補助の上に安住する選択をするわけで、この部分に百姓根性が露呈している。

率直にいえば、生かさぬよう殺さぬようバランスがとられていたが、社会がこれだけ進化してくると、農業のみをそう手厚く支えることに不具合が出てくるわけで、世界的にものの自由化が促進されると、それが通用しなくなる。

必然的に日本の農業は先行き成り立たなくなるということだ。

話し変わるが定年になって、多少のゆとりができたのと同時に、自分への褒美として、さまざま地方を旅する機会を得たが、日本の内外を問わず、まだまだ未使用の土地、おそらく農業をすれば可能に見える土地が日本のみなら外国にもいっぱいあるように見えた。

日本の中だけでもかなり在るのではないかと思う。

非農家の人間として、農業政策について詳しく知るわけではないが、農業というのは、新たな土地があるからといって、何処でも此処でも勝手に水田にしたり畑にして良いのかどうか判らない。

しかし、日本の国内だけでも開拓すれば立派な農地になる可能性を秘めた土地が、ずいぶんと余っているように見える。

開拓といっても昔のように鍬と鎌だけが武器というわけではなく、今ならばブルドーザーで難なくできるわけで、水田の一枚や二枚作るのはわけない作業だと思う。

アメリカは言わずと知れた大農業国で、広大な農地を大きな機械で耕作しているので、人件費もきわめて低く抑えられてきわめて高い競争力を誇っている。

その代わり、耕作地が不毛の土地に変わるのも早く、かつ広大な面積が耕作地としては死滅しているようであるが、それでもなお大きなゆとりがあるように見える。

そこにいくと、日本は確かに狭い土地をいかにも有効利用している風に見えるが、それでも遊休地があちらこちらに散在しているのではなかろうか。

減反地をそのままにしておけば、数年ならずしてそこは原野に戻ってしまうわけで、そういう意味の利用可能な土地は、ずいぶんあちらこちらにあるような気がする。

問題は、こういう土地を誰でも彼でも耕作地にできるのかという点である。

もちろん所有権というものは法的にきちんと整えた上でということであるが、私はずぶの素人で、土地があるからといって誰でも彼でも自由に農家にはなれないような気がする。

仮に、そうだとすると稲作の場合、水の問題があるわけで、水稲栽培するのに水道の水を使っていては採算割れをするのではないかと思う。

現存の農家の場合、いくら農協に委託していようとも、水利権というのは各戸の農家が持っており、あくまでも耕作だけの委託であって、そういう意味で、他から入ってきた人がいくら田や畑だけを持ったとしても、それだけではすぐに農業経営者にはなりえないのではなかろうか。

同じ農業といっても、以前あったように、貝割れ大根のような作物は、企業経営的な手法で生産がなされているが、米作りに関してはまだそこまでなりえないのではなかろうか。日本の国内で、農業が立ち行かないということは、つまり日本では人件費が高いので、採算割れしてしまうからであって、あらゆる農産物で採算を取るのが極めて難しいということだと思う。

我々はものつくりには長けているわけで、農業もある意味でもの作りの一環であるからには、日本でもあらゆる物が生産可能である。

ところがそれらは採算が合わないわけで、その意味で日本では生産しきれないということなのであろう。

「食料の安全保障」という場合、米の問題ばかりではなく、あらゆる農産物にかかわるが、日本でゆとりのある農産物は米しかないということになる。

それはあらゆる農産物の中でも米だけが手厚い保護を受けているということで、米作農家が米作りだけで生きていけれないという矛盾した現実がある中でも、米だけは暖かく保護されているということである。

他のあらゆるものが輸入に依存する、となるとまことに由々しき問題なわけで、その意味で、まさしく「食の安全保障」となるわけであるが、食の問題というのは、有史以来人類に付きまとってきた課題だと思う。

それが故に、あらゆる国で農民は生かさぬよう殺さぬよう最低限の生活を余儀なくされていたのである。

農民が最低限の生活から脱しえたのは、アメリカと旧ソビエットのソホーズ、コルホーズの人々ではなかったかと思う。

これらは農業をビジネスと置き換えたから、零細な農業から脱却できたのではないかと考える。

ところが、それ以外の国あるいは地域では、農業というものをビジネスという感覚では捉えきれなかったので、何時までも零細のままで今日にまで来たものと考えざるを得ない。アメリカでの農業が大規模化したのは、いうまでもなく国土の広さと就業する人々の数の少なさが、広大な農地を機械で耕作するという手法を編み出したに違いない。

旧ソビエットのソホーズ、コルホーズ、および新生中国の人民公社というのは、共産主義の指導による食糧生産の合理化を目指した施策であったが、それは生産の合理化は可能になったが、その分配で行き詰まったわけで、内部の組織崩壊によって雲散霧消してしまった。

これら共産主義国の農業生産方式は、基本的には優れた手法であったに違いないと思うが、如何せん、人々の上に覆いかぶさっていた主義主張が「働かざるもの食うべからず」であるべきものが、「働かなくても働いても均等に生かされる」に変わってしまったから、システム崩壊したものと推察する。

その点、アメリカは資本主義体制であったので、働いた成果はストレートに働いた人に還元されたので、大規模農業として成立しえたのではないかと考える。

しかし、世界を見渡すと、それ以外の諸国では、基本的に農業は零細で、自家消費+αという感覚から脱しきれず、今日に至っているものと思う。

特に、日本の場合、典型的な零細農業で、大規模農業とは縁遠い存在だ。

我々、大和民族、日本民族というのは確かにもの作りには長けている。

もの作りに長けているというのは、何も工業製品のみならず農業製品にも同じことが言えているわけで、日本の農業産品は世界的に優れていると思う。

しかし、それは世界中の人々が日本の農産品を血眼になってまで追い求めるかという問題とは別のことで、我々がよい作物と思ったところで、世界中の人々が我々と同じ価値観に立つとは限らない。

個々の品質は優れているが、その生産過程で、それらを作る人々が完全な資本主義体制の中でそれをしているかとなると答えは否である。

第二次世界大戦後というもの、農家は、それ以前の大地主制度の封建思想から完全に解放されて、純粋な資本主義体制の下で生かされてきたかというと、答えは否である。

農家は農地解放で開放され、それ以来というもの食糧生産する貴重な存在ということで手厚い保護の下で生かされてきたわけで、それはある意味で、共産主義社会よりもなお完備した制度の中で生かされていたのではないと思う。

その代表的な例が、政府が農家より高く米を買って安く消費者に売るというシステムである。

これは実に慈悲に富んだシステムだったと思う。

農家と消費者の両方を喜ばせることができたと思う。

このように戦後の農家は政府のあつい保護の下に生かされてきたので、ここで卑しき百姓根性が浸透し、「米さえ作れば安泰だ」という怠惰な思考に陥ったものと推察する。

これを見ても判るように、戦後の日本の農家というのは、自らの内側からふつふつと湧き出た情熱で、農業の改革、変革、旧弊の脱却を計る意思も思考もまったく持っていなかったというわけである。

ただただ国の進める保護政策の中で安逸をむさぼっていたことになる。

もの作りという意味では、日本の工業製品と同じ土俵に並んでいると考えなければならないが、工業製品のもの作りの場合、巷の中小企業からトヨタ自動車のような大企業まで、それこそ生き馬の目を抜く競争を展開している。

農業の中でこういう競争がありうるであろうか。

米以外の作物の中では、産地間競争ということもきくが、米に関してはまったくきかない。日本の米作農家はそのすべてが零細企業そのものである。

むしろ、国策で米作りの競争を押さえつけていた部分があるかもしれない。

なぜ米作りの競争を抑えるかといえば、合理化が進めば当然そこには失業者が現れるわけで、その失業者の受け入れ先がないからだと考えざるを得ない。

日本全土の米つくりの現場を零細のままにしておけば、ある意味でそういうリスクの拡散ということも可能なわけで、たとえば気候変動のような不確定要素の危機が生じたとしても。九州は豊作だが北海道は不作、あるいはその逆もありうるわけで、そういう場合にリスクを分散させることが可能になる。

ところが耕地を大きくすると、そのリスクのキャパシテイーは狭くなってしまうわけで、耕地を細分化しておくということは、そういうリスク回避の一種の手法ではある。

日本はもともとが物価の高い国なわけで、こういうところで作られた物は、基本的に価格が高くなるのは当然である。

これは何をどうしようと変わらないわけで、その中でいくらかでも利潤をひねり出そうとすればコスト削減、いわゆる合理化を進めなければならない。

工業製品の現場では、そのために過酷なコスト削減競争が行われ、そのためには簡単な工程を海外に移したりしてコスト削減に血のにじむ努力をしている。

もの作りとしての農業も、当然そういう努力はしなければならないわけであるが、それが農業の保護という形で、その努力を怠っているのが今の日本の米作りの現状ではないかと思う。

米以外の農産物に関していえば、ある程度はそういう努力も行われているが、米に関してはまったくそれが見られない。

米以外の農産物に関しては、ある程度、工業製品と同じ感覚になりつつあり、日本から生産のノウハウを海外に持ち出して、海外で作ったものを輸入するという作物もあるが、こうなるともう農業の枠では括れない。

だから、そういうことをしている主体は商社になり、完全に企業としての戦略の中に組み込まれてしまっている。

日本の中でも、米以外の作物では、商社やスーパー・マーケットが、直接農家と交渉して、契約で商品を作るというシステムまで出来上がっている。

それでこそ本当の資本主義の自由経済であるが、米だけは未だにそのシステムの中に組み込まれていない。

「食料の安全保障」の一環として、日本人の主食である米に関しては、自由競争の荒波から隔離しておこう、という発想は過去のものだと思う。

終戦直後の飢餓の状態を知らない世代が社会の大部分を占めるようになれば、そういう意識も薄れてくるのが当然であるが、生産農家の側には、米作農家が保護されていたときの甘い汁の味を忘れられない人がまだ生き残っているので、意識改悪は遅々として進まない。今の米作農家の現状は、50代60代の人でも基本的に農業を忌避していると思う。

農業が嫌で嫌でたまらないが、彼らの父親あるいはお祖父さんの代で、ムシロ一枚か二枚の値段で耕作地を得たものだから、それをなんとしても維持しなければならない、と思っている。

ところが、その心の奥底には、戦後復興期の高度経済成長による地価の高騰があって、その耕作地は限りない含み資産を持っているので、自分で農業をするのは嫌だからこそ、農協委託で米作りをしつつ、その含み資産を維持しようとしているのである。

今、百姓という言葉は、差別用語として常識的には使ってならないことになっているらしいが、この農家の深層心理に流れている思考は、紛れもなく百姓根性であると思う。

現代の知識人は、戦後の恵まれた環境の中で恵まれた生活をしているので、人の悪意を否定し、人を性善説で捉えようとしているが、自然の人間というのは、そんなに綺麗な心の持ち主は少ないわけで、潜在意識としては自分さえ得すればいいと思うのが普通のありきたりの人間だと思う。

食の安全保障、米の生産者、米作農家、農民、農家、という言葉は、戦後の社会主義に傾倒した人々からは善人、善意の人、常に虐げられた可哀想な人々というイメージで捉えられているが、ドッコイ彼らも相当にしたたかで、そういう振りをして、自らそう演出して、我欲の追及には執拗な根強さを持っているのである。

 

海の中の食物連鎖

 

「食糧の安全保障」という場合、ともすると米にばかり視点が向いてしまうが、漁業も立派にそのテーマに沿った課題である。

無知な私は正確な情報を持ち合わせていないが、地球規模で見て、世界中の漁業資源も減少傾向にあるようだ。

無理もない話で、世界の人口は間断なく右肩上がりで昇り続けているのだから、あらゆるものをその増大する人間が消費するばかりである以上、天然資源が枯渇の方向に向かうのも当然の話であろう。

第二次世界大戦後、いわゆる先進国は少子化の方向に向かっているが、後進国、低開発国では人口爆発が起きているわけで、トータルとして世界の人口は増えつつある。

トータルとしての人口が増えれば、それに追従して自然から採取する食糧も枯渇の方向に向かうのも自然の成り行きである。

漁業資源も私どもの考えられないような情況を呈してきている。

古い話であるが、大正から昭和の初期の北海道では、鰊(にしん)御殿ができるほどニシンが取れたといわれている。

ニシンなどという魚は、ごみのように海の中に在ったと言われているが、今ではさっぱり見かけない。

無学な私が知るだけでも、そういう運命をたどった魚に、シシャモ、イワシなどがあり、クジラをその範疇に入れるかどうかは微妙なところであるが、少なくとも、50年前、60年前はこれらの魚が日本人の食卓を賑わしたことは事実である。

昨今はこういう魚が食卓に上らなくなった、ということは明らかに漁業資源の枯渇を指し示しているわけで、海の中の魚の食物連鎖に変化がおきていることではないかと思う。

人間の生存ということは、年月を経ることによって大自然にも何らかの変化を生じせしめるわけで、人類というのは常に何がしかの進化を求め、魚を取るという原始以来続いた伝統の中にも効率という思考は入り込むに違いない。

「今していることよりも少しでも多く採るにはどうしたらいいのだろう」という発想は、人類誕生の時から我々に付きまとっていたものと思う。

その延長線を現代にまで延ばすと、当然のこと、その時代の技術の上に新しい技術が接木されるわけで、漁業に関して言えば、漁船も進化し、魚網も進化し、テクニックも、システムも進化するわけで、結果として魚のある種のものを絶滅に瀕するまで根こそぎ捕獲してしまったということだと思う。

自然界の生き物は食物連鎖でつながっており、その連鎖の輪がどこかで断ち切られてしまうと、全体として大きな歪をもたらすはずだ。

北海道の海でニシンが絶滅したということは、ニシンが食べていた餌、ニシンを餌として食べていた魚、その双方に大きな影響を及ぼしたに違いない。

そういうある種の魚種の絶滅を何とか食い止めようというわけで、各国で魚の増殖や養殖が盛んになっているが、これこそ国際協力がないことには意味がない。

今、日本ではサケの増殖が盛んで、各地で孵化した稚魚を海に放流しているが、それを公海上でとってしまう国が現れれば、サケの増殖の意味が損なわれてしまう。

同じことを各国が歩調を合わせて実施すれば、それこそサケの増殖としてすばらしい実績を示すことになるが、この歩調がそろわない限り徒労に終わってしまう。

サケは生まれた川に上ってくるといわれているが、仮にそうだとしても、その途中で捕獲されてしまえば意味がない。

魚の増殖というのも、ある意味でもの作りと言って言えないことはないわけで、その意味でも、我々の民族はすばらしい能力を発揮している。

しかし、我々は、もの作りにおいては世界でも一流であるが、政治は三流といわれており、その意味で各国強調して魚の増殖の足並みを揃えさせるという外交、つまり政治には極めて拙いわけでわけである。

ニシンに関しては全く獲れないし、イワシなども漁獲量が減って以前ならば大衆魚であったが昨今では高級魚になってしまった。

そのうちに秋刀魚も漁獲量が減少して高級魚になりかねないようだ。

シシャモやシャコなども、以前ならば川が海に注ぐあたりではゴミのように無尽蔵に捕獲できたといわれているが、今では高級魚になってしまった。

こういう現象は、人間があまりにも獲りすぎた結果だと思う。

漁船の発達、魚網の進化、魚群探知機の進化等々の理由で、人間が根こそぎ特定の魚種を根こそぎ捕獲してしまったので、漁業資源の枯渇という現象を招いたものと推察する。

逆に、増えたものとしてはクジラがあると思う。

クジラは魚ではないが、世界的な捕鯨禁止の措置で、個体数が大きく増えていると思う。人間は、太古からクジラを捕獲して食用に供していたが、それを近年になって動物愛護の風潮から、世界的に捕獲が禁止されてしまったので、その間に個体数はかなり回復してきたように思える。

ところが地球規模で眺めた場合、クジラを食用に供する民族とそうでない民族がいるわけで、クジラを食べない民族からすれば、「捕ることは罷りならぬ」となり、そこの調整が難しい。

ところが「クジラを獲ってはならない」、という国でも牛や豚や鳥は食用に供しているわけで、「クジラだけが駄目だ!」ということは説得力にはかけると思う。

「クジラを獲ってはならない」という人達の論拠は、クジラが哺乳動物だから、動物愛護の観点から駄目だというわけだが、これはずいぶんと身勝手な言い分で、豚や牛は哺乳動物であるにもかかわらず大いに食しながら、クジラだけはならないという論拠は筋が通らない。

動物愛護という奇麗事を羅列することによって、自分たちの理念の宣伝にはなるかもしれないが、そのことによって他の人の利害を侵していることに気が回っていない。

クジラを絶滅するまで獲っていいと、極端なことを言うつもりはないが、個体数が回復すれば少しはそれを欲する人に譲ってもいいではないかという趣旨である。

自然界では食物連鎖で大きなスパンでさまざまな生き物の個体数が増減していると思う。クジラが増えれば、それらが捕食する小魚が減り、小魚が減ればクジラの個体数が減り、クジラの個体数が減ればまた小魚の量が増え、という循環を繰り返していると思う。

人間がクジラを獲るということが、こういう自然界の食物連鎖の循環の輪をある部分で断ち切ってしまう危険は充分にある。

人類が捕鯨禁止するということは、この自然の食物連鎖を回復することではあるが、厳密に言えば、この回復も不十分で、クジラらを取らない代わりにクジラの餌の小魚を人間がとってしまうので、クジラの個体数の回復という目的は不首尾に終わっている。

人間の介在が自然界の食物連鎖の輪に大きな影響を与えていることは論を待たないが、それを否定するとなれば人類は生存し得ない。

 

人間の欲望と自然破壊

 

そもそも人間がこの世に生存する限り、何をやっても自然破壊につながっているわけで、農業ならば自然破壊ではないであろう、という安易の思考は、現代人の思い上がり以外の何物でもない。

人が大地に鍬を入れることすら自然破壊の第一歩である。

より多く作物を収穫する、より多く魚を獲るという行為は、人間の欲望がそうさせているわけで、それは言い換えれば人間の欲望が自然破壊につながっているということでもある。ところが、自然というのは不思議なことに、破壊からの回復力も備えているわけで、クジラと小魚の食物連鎖に見るように、耕地の荒廃は紛れもなく自然への回復力である。

自然界の循環作用に人間が人為的にその循環の輪を断ち切ったとしても、少々時間をかければ自然は回復してくるが、回復可能なうちはまだいい、ところが回復もできないほど大きなダメージを自然に与えてしまうと、それは傷口がますます大きくなるようなものだ。

漁業に関しても、各国でそれぞれに工夫を凝らして、ある特定の魚種が絶滅することのないように努力はしているが、国家がいくらそういう努力を重ねても、それを犯す人間も必ずいるわけで、傾向としては撃滅の方向に向かっているのが現実だと思う。

魚も養殖や増殖のできるものはそういうことをどんどん進めればいいと思うが、中にはそういうことのできない種類のものも在るわけで、そういうものに関しては、獲る量に制限を加えなければならない。

この制限を遵守するかどうかは、獲る側のモラルに掛かっているわけで、資本主義体制の中では、量が富の集積を伴うわけで、その誘惑に打ち勝つ人は極めて希にしかいないのが現状だと思う。

それと、地球規模で人口が増え、人口が増えればそれに比例して魚を食する人数も増えるので、消費動向も上向き加減になる。

つまり、ますます魚の商品価値も上がるということだ。

そして、昨今のメデイアの報ずるところによると、先進国では健康食品として日本食が普及するに連れて魚が見直され、その消費が加速されたとも言われているし、中国人はもともと魚をあまり食べなかったが、これも日本食の影響で此処でも魚の消費が増えているといわれている。

これらの状況は日本にとって極めて憂慮すべき状況なわけで、そういう背景があるかどうか知らないが、日本人が海外で魚の養殖のノウハウを教えて、それを逆輸入しているとも聞く。

農業でも漁業でも、我々は海外に物作りとしてのノウハウを先方に教えることに極めて安易に考えて、そういうことは皆良き事としての認識しか持っていないが、これは一考を要する重大な問題のはずである。

もの作りのノウハウを先方に教えることが果たして本当に良き事であろうか。

農業のノウハウ、漁業のノウハウ、これらはすべて日本人の知的財産なわけで、そういうもの安易に先方に売り渡して本当にいいことだろうか。

農業にしろ、漁業にしろ、資源の枯渇が目の前にちらついているからといって、日本人の開発した知的財産を先方に与え、全体として底上げをすれば良いではないか、という発想は、あまりにも奇麗事で、善意の塊で、相手の人間としての本質を知らないということになる。

いくらこちらが善意で以ってノウハウを教えても、一旦先方が習得してしまえば、それは先方の武器となるわけで、カボチャでもクルマエビでも、日本よりももっと金を出す第三国が現れれば、何の躊躇もなく鞍替えされる危険はある。

現時点では日本よりも高い金でそれを購入する競争相手がいないから、技術を提供した我々の側に、その生産品は回ってくるが、そういうリスクは常について回ると考えなければならない。

国際間の取引あるいは契約関係で、義理人情の介在する余地は全くないわけで、そういう場面に遭遇すると、我々は自分中心のものの考え方から脱却できないまま先方に引き釣り込まれてしまう可能性がある。

こちらが善意や好意で先方と接すれば、相手もこちらを理解してくれるであろう、という思い込みは、これもひとつの独善的な思い上りに過ぎないので、我々は心して戒めなければならない。

農業でも漁業でも、直接人間の食にかかわるきわめて基本的な生存条件であるが、それがあまりにも資本主義経済体系によりかかり過ぎると、自然界のバランスを破壊してしまう。農業はまだ農地という陸地の状況によって、人為的な手法でコントロールが可能であるが、漁業ともなれば、相手は海の中を行き来する魚なので、人為的なコントロールはきわめて困難である。

公海上での漁業を誰もコントールしえないわけで、近年それを少しでもコントロールしようというわけで、経済的排他水域というものができたが、これとても完全なものではなく、とても魚種の保護にはいたらないと思う。

現在の資本主義経済体系のなかで、魚を獲って生業としている人は、多く獲れば獲るほど富の蓄積につながるわけで、ある種の魚種の絶滅などに注意を払う心のゆとりさえ持っていないものと考える。

欲望の赴くままに際限なく獲り尽くすわけで、そういう人達にとっては、魚種の絶滅などまったく意に介していないが、行き着くところまでいくと、自分たちで自分の首を絞めることになり、そこであわてて気がつくのである。

この同じ地球上に住む人々は、その住む場所、あるいは自分の属する国によって、文明や文化の度合いが大きく異なっている。

未開の民族は、自分の食する量だけとって、それで満足するが、極めて進化した資本主義国、あるいは大きな消費地を控えたところでは、人々の欲望というのは際限がないわけで、魚種が絶滅するまで獲りつづけてしまう。

先に述べたように、ニシンの絶滅などいう例は、我々の祖先があまりにも奢り高ぶった思考のなさしめた行為だと思う。

獲った魚を食べるのではなく、畑の肥料として使ったわけで、こういうことはまさしく天に唾する行為で、あまりにも人間本位、自分本位、儲かれば何をやってもいい、という刹那主義、自己中心主義の典型的な例だと思う。

北海道にあるニシン御殿を見て、こういう発想に至る人が、同胞の中にどれだけいるのであろう。

ニシンは居なくなったのでもなければ、来なくなったのでもなく、自分たちが根こそぎとってしまった結果ではないか。

何故、そういう結果を招いたかといえば、突き詰めて言えば、人間の欲望がそうさせたわけで、人が富の集積を願うあまり、ニシンの枯渇まで気が回らなかった結果である。

自然界のものを採取するということは、その行き着く先は資源の枯渇ということだと思う。地下資源であろうが、野生動物の捕獲であろうが、人間が自然のものを採取、捕獲すれば、結局は無に帰すに違いない。

自然界の再生能力を超える採取、捕獲をすれば、誰が考えてもそういう結果に行き着くわけで、それを如何にコントロールするかが21世紀に生きる人類の課題だろうと思う。

 

飢餓と飽食のバランス

 

もうひとつ考えなければならないことは、目下、先進国では少子化が問題となっているが、地球全体で考えれば人口爆発が目の前に迫ってきている。

世の中の識者というのは、この問題に正面からかかわっていない。

誰でもが逃げている。当然の話だと思う。

21世紀以降の人口爆発に対しては答えがありえない。

人類の過去の歴史では、今ほど人口は多くなかった。

第二次世界大戦の前あたりでは、中国の人口は大雑把に言って4億といわれ、日本では1億を切っていた、それが今日では13億対1億3千万である。

この人口増加に対して、その食糧の増産は追いついていけないと思う。

よって、この地球上のあちらこちらで飢餓が蔓延しているにもかかわらず、ある地方では飽食になっているわけで、まことにちぐはぐな状態である。

そういう状況であるにもかかわらず、世界の有識者、世界の良心といわれるような文化人は「戦争をやめて、飢餓を救え」と、まことに綺麗で人道的に非の打ち所のない言辞を弄しているが、こういう発言はいささか無責任ではなかろうか。

この世に生きとし生ける人ならば、誰でもそうありたいと願っているに違いない。

何も、有識者や文化人ばかりではなく、うら若い清純な女学生から、棺おけに片足を突っ込んだ老人まで、等しくそうありたいと願っていると思う。

ならば、「そういう人に対する食料はどうするのか?」と言ったとき、答えがありうるであろうか。

有識者や文化人は、口では「戦争を止めて、飢餓を救え」と唱えているが、「ならば食糧生産はどうするんだ!」と問い返すと、それは政府の責任だと逃げるわけで、ただただ理念を大声で叫んでいるだけで問題解決の具体策を持っているわけではない。

本当は、有識者や文化人、あるいは賢者といわれる人々は、人口爆発の根源を解き明かし、その原因を突き止め、人口増加を抑止する方法を真剣に考えなければならないと思う。

世界的規模で見て、この地球の一部では飽食の状態が現出し、もう一方では飢餓の状態が現出しているわけで、これは一体どういうことなのであろう。

日本やアメリカの飽食の状態というのは本当は根本的に見直さなければならないと思う。アメリカの食べ物の状態は、まさに末期的状況だと思う。

日本もアメリカに劣らずまことに困った状況だと思う。

外食産業の資源の浪費をどう考えたらいいのであろう。

外食産業の繁栄は、消費者の責任でもある。

消費者がそういうものを望むから外食産業がそれに答えているのである。

この例は、まさしく文明や文化を冒涜するものだと思う。

誰が文明や文化を冒涜しているかと言えば、それは消費者という名の国民である。

世界の識者や文化人は、「地球上の飢餓を救え」という前に、アメリカや日本に対して「食物をもっと大事にせよ」「食い物を粗末にするな」と、啓蒙運動をしなければならない。

昨今の日本のテレビはグルメの番組が多く、何処何処の店がおいしいとか、この料理のレシピがどうだこうだとか、愚にもつかないことに姦しいが、世の知識人や賢者といわれている人は、もっとこういう傾向に謙虚な意見を述べ、そういう奢りに満ちた風潮をいさめるような発言をしなければだめだ。

世の知識人、賢者、文化人といわれる人々は、人の命は貴重なものだからそれを少しでも長生きさせる方向に世論を導こうとし、そのことが善で、人々はそういう方向に進まねばならないと説いているが、これはあまりにも奇麗事の羅列で、真の解決を述べているわけではない。

自らの立場と、自らの金のために、そういう奇麗事を並べているだけで、何の解決法、手段、ノウハウを述べているわけではない。

赤ん坊でも判ることを、さも立派そうに言っているだけのことで、実にむなしい繰言である。

人口爆発を如何にコントロールするか、人類はその答えを持っていない。

地球上の、富めるものと貧者との格差の是正は、人類には不可能である。

「食料の安全保障」というテーマそのものが既に、この生き馬の目を抜く地球規模の国際関係の中で、我々だけが如何に巧妙に生き抜くか、ということを言外にあらわしているではないか。

我々、日本人だけが生き延びれれば後はどうでもいい、という思考が垣間見れるが、この思考そのものが、我々の驕りであり、博愛精神の欠如そのものである。

ところがそれは同時に、あるがままの人間の生き様で、基本的な生存権であり、生の人間ということでもある。

自己愛そのものであるが、世の識者や賢者は、こういうことをストレートには言わず、巧妙に奇麗事の言辞に包んで言っているのである。

これをストレートに言えば、その人は教養知性の欠けた人間ということになるわけで、文化とは真実を如何にきれいなオブラートに包んで、本音を如何にうまく覆い隠し、実質をあらわにせず、人々を欺瞞の渦の中の放り込むかと言うことである。

人口爆発をいかなる手法で抑制しようとしても、それは人権と正面から衝突することは必定で、いかなる人間にも人権があるとするならば、人口の増加を食い止める手段手法というのは存在しない。

人類誕生以来、我々は死を忌み嫌ってきたが、それは人間の持つ極めて根源的な思考で、民族や人種を問わず、人は長生きを切望してきたのである。

カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスは、約160年前に共産主義思想という哲学を打ちたてた。

それは、斯く斯くしかじかすれば人間は幸福に生きられるであろう、という青写真を展開したわけだが、その青写真に沿った施策をして、成功したところもあれば失敗したところもある。

しかし、この二人が作った青写真には、世界中の人が魅惑されたのも事実である。

ということは、それが極めて実現可能な案のように見え、人々の共感を得るにふさわしい思考に富んでいたからこそ、人々が魅了されたわけで、そのことは同時に、社会の変革を説くのにきわめて説得力を持っていたということでもある。

産業革命後のきわめて混沌としたヨーロッパ社会の中で、未来の青写真を描いたものがこの二人の著作だったと思う。

21世紀以降の世界は、先進国の少子化と後進国の人口爆発が同時進行で具現化するものと考える。

それは同時に飢餓と飽食が隣り合わせに存在する、というまことに困った状況だと思う。

その状況を鑑みて、飽食のものたちが食い物を少し切り詰めて、飢餓の状態の人々に食い物を分け与えたとすると、ますます人口爆発を助長するものと考える。

食べ物に少でもし余裕が出れば、子供がますます増えてくることが予想される。

我々は自分のおかれた状況、つまりある程度進化した文化圏の中で生きているので、人間は誰もが基本的人権を持っていると思い込んでいるが、本当はこの認識は幻にすぎないのではなかろうか。

人口爆発している地域では、人間の姿をしているから人間だ、などと考えている状況ではなく、人間の姿をしていても家畜並みの認識しかないところもあるのではなかろうか。

ところが、それを我々のように進化した文化圏の人間は、自分と同じ姿かたちをしているから彼らも我々と同じ人間だ、と思い込んでいるが、この認識が根底から間違っているのではなかろうか。

この認識は、ある意味で、進んだ文化圏に住む人達の驕りであり、一人よがりの思考ではなかろうか。

典型的な差別、究極の差別であるが、だからこそ、それを受け入れることが知識人にはできないわけで、彼ら、つまり知識人にしてみれば、それを受け入れることは彼らの人間としての良心が許さないことは論を待たない。

そういう人々の間に良心が存在する限り、飽食と飢餓の隣り合わせの問題は決して解決することはない。

それを是正する有効な手段は、旧ソビエット連邦が失敗したような、共産主義による社会体制でもって国家の強力なパワーで人々をがんじがらめにして、ある意味で強力な抑圧体制でなければ、それは実現不可能である。

並みの知識人が言うような奇麗事の羅列では、この人口爆発は制御しきれない。

当然、旧ソ連のような体制を今の知識人が受け入れるはずもなく、問題は先延ばしされるだけで解決はできないということだと考える。

この問題に答えを出し、飽食と飢餓のバランスの取れた青写真を描きえる識者、賢者というものが今の我々、いや世界の中にいるであろうか。

その意味で、我々は今世紀末、ハルマゲドンの前に立っているわけで、そのことを認識している識者あるいは賢者が果たしているであろうか。

 

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