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「日本の新戦略」その12

 

新中国の誕生

 

朝日新聞、平成19年5月3日付け、社説21、提言「日本の新戦略」には21もの論説が記述されていたので、その一つ一つ反論を試みてきたが、21もの論説に私ごときが逆らうのはいささか荷が重い。

予備知識がまったくないこともあるので、その全部に私の思考をぶつけることは到底できない仕事である。

ところが、この12項「隣の巨人」は言うまでもなく中国に関する事項なので、ない知恵を絞って挑戦してみることにした。

今更言うまでもなく、朝日新聞は中国に対して非常に好意的なメデイアで、媚中派の雄とも言われているが、このメデイアとしての組織が中国に非常に好意を示すということは、その組織の中枢に共産主義に傾倒した人々を内包しているからだと思う。

共産主義というのはソ連の崩壊後極端に吸引力を弱めたが、中国に関してはいまだに共産主義の体制を維持し続けているので、その意味で往年のマルクス・ボーイらにとってはまだ魅力を失っていないということであろう。

それと合わせて、旧日本軍の犯した行為が贖罪となって、彼らの脳裏に残っているわけで、その二つの要因から、彼らは中国を賛美してやまない。

それと、メデイアにとって人口が多いということは潜在的な購買力があるということで、その市場の中に身をおくということは、ビジネスにとって非常に有利という考え方も成り立つ。しかし、我々が有史以来中国の隣に位置するという地勢的な条件は、人為ではなんとも動かすことのできない条件なわけで、海の向こうの状況に合わせて対応をせざるを得ない。

その対応の一環として、太古の我々の先祖は、中国を師と仰ぎつつ、あらゆるものを中国から学んだように見れるが、案外取捨選択をして賢明な道を歩んできた。

その意味で、中国の地は我々の師であり先輩であったわけであるが、これを相手の立場から見ると、日本は野蛮国のひとつという認識しかなかったわけである。

広大な領土を持つ中国から日本を見れば、東海の海の中の小さな4つの島以外の何物でもなかったわけで、吹けば飛ぶような、有っても無くても一向に構わない存在でしかなかったはずである。

大きな兵力で平定するまでもない、化外の地でしかなかったわけである。

ところが、その野蛮国だと思っていた日本が、明治維新を経験すると、俄然、国力を増してきたわけで、その取るに足らない化外の地として蔑んで来た民が、日清戦争で勝利を収めると、彼らにしてみればその心中は実に複雑に揺れ動いたわけで、認識を新たにしなければならなくなったに違いない。

彼ら中国は19世紀には西洋列強に散々蚕食されたが、いくら西洋列強に蚕食されようとも、それは海の周囲の沿岸地域に過ぎない。

後ろには広大な大地が残っているわけで、少々海の周辺を植民地にされたところで、痛くも痒くもないわけである。

その意味で尊大に構え、意識改革を怠っていた。

彼らは大地に根ざした大陸の民族なので、彼らの認識する国家というものは、何度も何度も滅亡と復興を繰り返し、自らの国家が人々の安寧秩序を維持してくれるなどということは頭か信用していないのである。

だから彼の地に住む人々は、自分のことは自分で工夫しなければならなかったわけで、いわば究極の個人主義に徹しきっていたわけである。

つまり、今生きている自分自身しか信用できなかったわけで、生ある瞬間、今の時点、自分のおかれた現時点を最大限利用する術に長けて、瞬間、瞬間に自分にとって一番有利な思考をめぐらすわけで、人のことにかまっている暇はないわけである。

その時、その場、その状況で、得られるものは何でもかんでもかき集めようと思考を巡らすように順応したのである。

これはすなわち究極の個人主義なわけで、自分さえ良ければ後は野となれ山となれ、と後ろ脚で砂を引っ掛けて遁走する生き方に徹しているのである。

水に落ちた犬をなお叩いてもなんとも思っていないのである。

これは中国のおかれた地勢的な条件がそうなさしめているわけで、これを我々の価値観から眺めると、倫理観の欠乏という言い方になるが、彼の地に生きる人々は、そうしなければ自己保存そのものが成り立たなかったのである。

それは人口の数を比べれば当然自明なことで、あの日中戦争の頃、中国の4億の民といっていた頃、我々の側は1億にも満たなかったわけで、今ではそれは13億対1億3千という数字になっている。

朝日新聞が中国に非常に理解を示すということは、中国にとってこれほどありがたいこともないわけで、朝日とすれば日本の現政権を批判する意図で以って中国をフォローしているが、これは日本の国益を真っ向から否定することになっている。

13億の民を生きさせるためには、恥も外聞もないわけで、当然、そこには日本の倫理観など何の値打ちもなく、あるのは彼らの国益のみである。

明治維新以降、日本は国際道義というものを尊重しようと努めてきた。

昭和の初期には、我が同胞の軍部が、その国際動議というものを無視した時期も少なからずあったことは素直に認めなければならないが、日本の指導者たちは、一応、国際道義というものを尊重する意向を持っていたことは間違いない。

不幸なことに、昭和初期の日本の指導者には2種類の日本人がいて、一つは国際感覚や国際的な道義を遵守しようとするグループと、もう一つは究極の軍国主義者で、時の情勢は後者のほうが優勢であり、当時の朝日は後者の尻馬に乗っていたことを忘れてはならない。

ところが中国人には国際道義を遵守するという意識は根底から存在しないわけで、他と強調するという認識そのものが最初から存在していない。

他と協調するには、相手の存在を認識しなければならないが、彼らからすれば「人のものは自分のもの、自分のものも自分のもの」というわけで、自分中心の価値観しかないのである。そして、彼らの歴史は征服したりされたりの歴史であったわけで、自分の祖国という認識は今日に至るまで確立されていない。

その具体的な例が、世界各地に散らばっている華僑の存在である。

考えてみれば、中国大陸というのは日本の国土の何十倍もあるわけで、我々なら日本という土地を離れても自分の生まれ育った土地への愛着というのは世界の何処に居ても失われることはない。

ところが、彼らにすれば、自分の生まれ育った場所への愛着などというものは微塵も存在していないわけで、あるのは今居る場所で如何に儲けるかという思考でしかないはずだ。

華僑、中国の大地を捨てた、あるいは脱出した人々が、世界各地に散らばって、その地で社会に溶け込んで生活しているかというと、案外そうでもなく、彼らはゲットーを作って、彼らだけの小宇宙を形成している。

彼らは、自分の住んでいる地域で儲けた金で地域に貢献するわけでもなく、その金を本国に送るでもなく、ただただその地域で産を成すことのみを願っているわけで、いわば究極の個人主義を貫いているのである。

それに反し、我々の先輩は、先進国で得た知識を何とかして自分の祖国で役立てようと考えるわけで、この発想の違いがこの両国の発展の相違となったものと推測できる。

我々のように、中国の何分の1という小さな国であればこそ、自分の祖国というものに愛着を覚えるが、中国のような広大な土地に生きた人からすれば、国内だけでも外国に居るようなもので、その延長線上に、世界の何処に居ても国内に居るような錯覚に陥るのも無理ない話かもしれない。

我々は、国を少しでも離れれば、それはもう外国で、だとすれば自分の国の誇りを失ってはならないという心理が働くが、彼らにはそういう意識はないわけで、自分以外のものがすべからく夷狄だという認識である。

中華思想の根源は、自分が世界の中心であって、その他のものは全部自分を取り巻く卑しいものたちだ、という尊大な思考なわけで、これが根底に横たわっている限り、彼らの覇権主義は消滅し得ない。

彼らの潜在意識には、この思想が連綿と生き続けているが、現実の世の中というのは、そんなことにはお構いなしにどんどん進化するわけで、その結果として、西洋列強に沿岸部をほしいままに蚕食されてしまったのである。

我々のような小さな国では、海岸線を取られたらもう後がないわけで、それは民族の破滅を意味するが、中国に関しては、いくら海岸線を取られてもいくらでも奥があるわけで、その意味では極めてねばり強かったわけである。

だがそれは逆に、この広大な大地を近代的な意味で統治することもきわめて困難であったということで、その意味で統一国家の建設ということは有史以来の難題でもあった。

それを勘案しても、19世紀から20世紀初頭の中国大陸には、近代的な意味での統一国家というのは存在していなかったというべきである。

大清帝国というのを近代的な統一国家とみなすことは極めて甘い国際認識だと思う。

それと同時に、この清帝国を革命で倒した中華民国というのも、近代的な統一国家としては認めがたい存在だ。

戦後の日本の知識人は、清帝国から中華民国への中国の変貌を、近代国家として確立された主権国家とみなしているから、主権国家が主権国家を侵略したという構図に陥るのである。清王朝にしろ、中華民国にしろ、あれは近代的な主家国家ではなかったわけで、得体の知れないアメ−バー的なつかみ所のない人間の集団であったと見なすべきである。

人間が複数集まればそこには自然発生的に組織ができ、組織内では一定の秩序ができるのも、ある意味で自然の成り行きである。

だからといって、その人間の集団は必ずしも近代的な統一国家とはならないと思う。

あの中国の広大な土地には、そういう人間の集団は50以上もあるわけで、端的な表現で言えば少数民族という言葉で言い表されているが、清王朝はその中の一つの女真族であり、中華民国はその女真族から再び漢民族に政権を奪還したとはいえ、50以上の少数民族を完全に掌握したわけではない。

国家の形態にはさまざま形があり、アメリカのようにいろいろな人が完全に混ざり合って国家を作っているのもあれば、あるまとまりを持った民族が複数集まって統一国家を作っているものもある。

国家の形態はさまざまであるが、それでも主権国家として一定の条件を備えているのが普通の国であって、中国に限っていえば、それは1949年の新生中華人民共和国になって始めて統一国家といえると思う。

 

近代化の波

 

それまでの中国の地というのは、判りやすくいえば西部劇に出てくるインデアンの世界と同じなわけで、文明人に征服されても仕方のない地域であったと想像する。

中国の民の中にも、当然、目ざとい人間もたくさんいたわけで、そういう人達は、あの状況の中でも巨大な財を築くことができたが、その典型的な例が清王朝であり、清王朝が廃れかかってくると、その間隙を縫ってのし上がってきたのが張作霖であったり、袁世凱であったり、蒋介石であったわけである。

中国の政治体制は、日本のそれとは根本的に違っているにもかかわらず、それを同一視して、同じ価値観、同じ規範、同じ認識で語ろうとするから双方の歩み寄りができないのである。彼らの視点で日本を見れば、我々はどこまでいっても夷狄にすぎないわけで、いくら我々が近代化しようとも、彼らの潜在意識が変わることはない。

ところが我々の側は、日本の過去を清算して、謝罪し続ければきっと先方はこちらのことを理解してくれるに違いないと思っているが、そこが我々の甘さである。

しかし、それにつけても大正4年、1915年の対華21ヶ条条約を相手に突きつけたということは返す返すも我々の側の軽挙であった。

あの時点で、日本がああいう態度に出たということは、我々の側の完全なる驕りそのものであった。

あれは彼らの自尊心を真っ向から踏みつけたことに等しいわけで、彼らにしてみれば、今まで夷狄として蔑んでいたものからいきなり往復ビンタを食らったようなもので、西洋列強が中国沿岸を蚕食したことよりも、よりいっそう自尊心を傷つけられたに違いない。

こういう過去があるから、戦後の日本の知識人は、中国に対して贖罪意識にさいなまれているのである。

これは我々の側の奢りそのものであったことは否めない。

明治27年1894年の日清戦争、明治38年1904年の日露戦争、この二つの戦争に勝った日本は、明らかにアジアにおいて奢り高ぶっていたことは否めない。

この二つの戦争に勝ったので、日本国中が浮かれに浮かれるということは、我々の民族が極めて軽佻浮薄な烏合の衆ということを如実にあらわしている。

これは当時の日本の政府の所為ばかりではなく、その遠因は当時のメデイア、つまり新聞、雑誌が煽りに煽った所為である。

新聞や雑誌というメデイアに煽られて舞い上がるところが軽佻浮薄なわけで、自分の頭で考えることなく、きわめて無責任な論者の言におだてられて舞い上がるという点が極めて付和雷同的である。

ここで考えなければならないことはメデイアに煽られて踊り狂った民衆、大衆の側が悪いのか、煽ったメデイアの方が悪いのかという考察である。鶏と卵の論争に行き着く。

常識的に考えれば、煽りに煽るメデイアの側はいわゆるインテリーと称される部類の人間のはずで、乗せられて踊る側は無学文盲の大衆のはずである。

どちらに罪があるかといえば、当然、煽る側のインテリーの方に奥深い罪があると思う。

この対華21ヶ条を中国に突きつけたということは、完全に相手の潜在意識を刺激したわけで、このことによって先方は今までばらばらであったものが一気に固まった、ということも言えると思う。

一寸戦争に勝ったからといって、相手に対して尊大な態度に出るということは、我々の側の倫理観に照らしても褒められたことではなかったはずであるが、何処でこういう思考が我々の指導者の中に生まれたのであろう。

当時の日本政府の中にこういう思考が出たということは、当時の日本政府の面々は皆が皆、「中国は取るにたらない弱い国だ」という共通認識があったということを指し示していると思う。

我々は、シナを我々の文化の師と仰ぎながら、どうしてこういう高飛車な態度をとりえたのであろう。

いくらメデイアに煽らされたとしても、我々が本来持っている潜在意識としての倫理観は一体どうなっていたのであろう。

それに気付かないほど浮かれていたということだと思う。

まさしく字義通り軽佻浮薄ではないか。

中国の民、特に現代の中国の知識人の思考からすれば、日中戦争で日本軍がシナで行った蛮行よりも、この対華21ヶ条条約のほうが屈辱感が大きかったのではないかと思う。

中国は面子の国でもあるわけで、この対華21ヶ条条約では、中国の面子は丸つぶれなわけで、この恨みは相当根の深いものだと思う。

そういうところに又10年後、我々は中国で蛮行を繰り返したので、先方の恨みはより深く沈降してしまったものと考える。

彼らにとって、自国民が少々殺されることはなんともないだろうが、面子をつぶされては、彼らは生きていけないわけで、それが日中戦争のとき相手側の地下水脈となって流れていたのではないかと思う。

中国の指導者には、自分の国の国民という認識は、今日に至っても持っていないのではないかと思う。

当然、歴代の王朝では、自分の臣下の民を国民などという意識で扱ったことはないはずである。

この地では、人間などというものは、ゴミにたかるハエのような存在で、殺しても殺しても次々と地面から湧き出てくるウジのような存在であったに違いない。

この国の帝王、つまり統治するものにとって、人間というのは自分の親族と、それを取り巻く臣下と称する若干の人々と、後は献上に登ってくる若干の異民族の行列ぐらいのもので、後のものは人間の数のうちにも入っていなかったに違いない。

当然、近代国家としての国民などという意識は毛頭ないわけで、最初から人間などと思ってもいないのだから、それらに人間としての権利があるなどということは、想像だに出来ないことであったと思う。

昭和の初期、日本には大陸ゴロと呼ばれた人達が居た。

シナ大陸をあちこち歩き回っては、情報を提供するという名目で、金をせびる輩を総称して言っていたようであるが、そういうヤクザまがいの人達の情報は信用ならないとしても、当時の日本人の中にシナの本質を見抜いた識者というのは一人もいなかったのであろうか。

北一輝などという人は、シナで革命を体験したと巷間では言われていたようだが、当時の日本人でシナの本質を見抜いた人が一人もいなかったのであろうか。

私が本で得た知識から推察するに、昭和の初期の中国、いわゆるシナ大陸は、映画の西部劇に出てくるフロンテイアーそのものだったと思う。

裸のインデイアンが着物を着ているだけのことで、彼の地の大地は、それこそ化外の地で、まさしくフロンテイアーそのものだと思う。

南北アメリカ大陸の原住民としてのインデイアンは、ヨーロッパのアングロサクソン系の人々に統治されてしまって、今では自らの国も失ってしまっているが、中国の地に住む民も、結局はあれと同じ運命をたどっているわけだ。

ヨーロッパ人から見た新大陸は、原住民、先住民、インデアンからすれば悠久の大地であったに違いない。

アジア大陸に連綿と生き続けてきた諸民族にとってもアジアの地は悠久の大地であったことには変わりはないが、アジアの民は結束して強固な組織体を作り、その統一された組織体は外圧を押し返す方策を持っていた。

そのことが組織内では文化を育み、組織と組織の辺境、いわば民族と民族の接点では力のバランスによって伸びたり縮んだりしていた。

そして18世紀になって、この地に触手を伸ばしたヨーロッパ人たちが海岸線から入ろうとしたが、その内側に居た人々はヨーロッパ文化に圧倒されながらも、そこで大きな抵抗をしめした。

この部分が、アメリカ新大陸の先住民の対応と大きく違っていたわけで、アジアは旧大陸なるがゆえに、ヨーロッパ人の文化侵略に対して、旧来の文化で持って抵抗したわけである。よって、ヨーロッパ人の中国での地盤は、点と線のみで、面の広がりを持っては全土に広がらなかった。

そのことは同時に、その大陸に生き続けた人々が、西洋風の近代文化、および近代的な文化思想にも立ち遅れたわけである。

なぜそうなったかといえば、この地に生き続けた人々には、西洋文化と互角に対応できる文化があったから、外来のものに傾倒する必要がなかったからである。

ところがその固有の文明というものが、彼らの統治、つまり仲間としての組織の結束を固めるのには都合が良かったが、その後の近代化に順応するにはきわめて不都合であった。

つまり、組織を統治する側が、その結束を維持するのにはきわめて都合のいい論理で固められていたが、そのことは若者の意識改革を封殺する作用を果たし、それが近代化を阻止する方向に動いたということだ。

それが儒教思想というもので、親を敬えとか、長老を尊敬せよという教えは、既存の勢力にとってはきわめて都合がいいわけで、こういう思想が人々の間に広がっていたとするならば、その中から若者もの意識改革は湧き出てこない。

いかなる人間の集団でも、既存の殻を破るのは常に若者であり、若者が既存の殻を打ち破って、その組織は一歩一歩前進するわけで、彼の地に生き続けてきた人々の潜在意識が儒教思想である限り、あの大地に住む人々の意識改革は成り立たない。

若者が年寄りの言に従順に従っていたならば、世の中は変わりようがないではないか。

伝統に固執するということは、こういうことなわけで、その伝統を打ち破るのは常に若者の新たな挑戦である。

ヨーロッパ文明というのは「人間は18歳になったら親から独立して、自分自身の判断と決断で生きなさい」と説くが、これが儒教思想だと「年長者を敬い、親を大事にして、親の言うことは真摯に受け止め、親に逆らってはならない」と説いているわけで、これでは次世代を担う若者の自立がありえないではないか。

この不合理はサルでもわかるわけで、サルでも食べ物を洗う習慣を最初に身につけるのは若いサルだと言うし、焚き火で暖を取る習慣も、若いサルからはじまるという。

にもかかわらず、何時までも年取った古老の言に逆らわないような従順で軟弱な若者の集団は、遅かれ早かれ淘汰されかねない。

古老や長老、年長者に逆らうことを禁ずる思考というのは、突き詰めれば現政権、現体制、既存勢力に対抗する思考を禁じているわけで、そういうグループ、つまり現体制にはきわめて有利な思考である。

アジアの人々には、多かれ少なかれこの儒教思想というのは蔓延しているわけで、それがために西洋文化圏に遅れを取ったに違いない。

そして、アジアでは、人が地面から湧き出るように出てくるので、合理化という思考も育たなかった。

アメリカ新大陸に渡ったヨーロッパ人は、自分たちの数、つまり新大陸にいるヨーロッパ人の数が少ないので、その少ない人間で何とか大地の開拓を推し進めなければならなかった。そこで、少ない人間で如何に目的を果たすか、という問題に直面して、合理化という思考を考え出した。

少ない人間で如何に合理的に目的を果たすかと考えて、行き着いた答えが機械化である。

機械を使うことによって、少ない人間をカバーしようと考えると、そのための機械はどう作ればいいかということになり、次から次へと合理的な思考が花開いたのである。

一方、アジア大陸の民は、人間はいくらでも居るわけで、目的達成のために人手不足を悩む必要はないので、有り余る人間に昔ながら手法と昔ながらの方策で事に当たればよかったわけである。

当然、合理的という発想は生まれる余地もなかった。

ところが地球そのものが20世紀から21世紀と時空を重ねて来ると、好むと好まざると、人海戦術では成り立たなくなってきたのである。

それは中国の民に人権意識が芽生えたということとは時限の違った場面で、この時代にはテクノロジーが外側から中国というものを締め付けるようになってきた。

シナ人、中国人が有史以来4千年とも5千年とも持ち続けてきた華夷秩序も、儒教思想も、中華思想も、このテクノロジーの前には意味を成さなくなってきたわけで、国内の民主化は必然的な流れとなってしまったのである。

今現在は、まだ共産主義で一応の国家の形を維持しているが、アジア大陸を統御するのに、もう共産主義という手法は使えなくなってきていると思う。

共産主義というのは、まさしく旧ロシアや、中国に代表されるアジアの人々の文化レベルの向上には大いに役立ったが、草の根の民が文明や文化に目覚めたら最後、共産主義というのは逆にそういう人々の締め付けの方向に作用するわけで、すると人々のほうがそれに反発するようになる。

旧ソビエット連邦の過程を見れば一目瞭然であり、今の中国の改革開放路線というのも、共産主義体制の中では意味不明の言辞で、一言でいえば、共産主義体制というのは既に破綻しているが、それをカモフラージュするための方便に過ぎないということである。

中国、昔はシナと呼称していたが、この国はアジア大陸の大部分を包含している。

かっては旧ソビエット連邦がアジア大陸の大部分を席巻していたが、その旧ソビエット連邦も連邦制をとっていて、それぞれの地方の集合体がソビエット連邦共和国というものを形作っていた。

ところが中国はそういう連邦制ではないわけで、それこそ漢王朝や清王朝のように、どこまでも中国共産党の威光で金縛りにしようとしている。

当然、沿岸部と内陸部ではさまざまな軋轢が生まれるわけで、それを一律に馴らすことは誰の目にも至難の技である。

彼の地の大地では、人間の存在そのものが矛盾を内包しているわけで、内陸部と沿岸部では完全に異質の文化になっている。

無理もない話で、日本の何十倍もある国土では、海に依拠する生活と、内陸部での生活が一致するはずもなく、それぞれに長い伝統に依拠した生活をしてきたわけで、そこには当然のこと格差が生じている。

ところがいくら格差があろうとも、相手の文化・文明を羨ましいと思わなければ、最初から格差などありえないわけで、我々は他者を見て「あいつはいい生活をしている、自分もああいう生活がしたい」と願望するから、格差を認識するのであって、お互いに「あいつはあいつ、俺は俺」という思考に立てばうらやましいという感情も生まれず、追いつき追い越すという発想は生まれない。

 

農業の問題

 

そういう物欲に支配されない生活というのは、本当はすばらしいことであるが、凡俗なものは、なかなかそういう境地には至らない。

ところが情報が頻繁に行きかうようになると、当然、誰もが今の自分よりもいい生活がしたくなるわけで、それでよりよき生活を求めて、あっちに行ったりこっちに行ったりするわけである。

しかし、新生中華人民共和国は共産党の指導の下、都市の人間と農村の人間を戸籍によって固定してしまった。

中国共産党は、人々を封建支配から開放するといいながら、新たな統治手法でもって弱き人々、以前から虐げられてきた人々を。さらに縛りつけようとしたわけである。

都市に住む人の戸籍と、農村に住む人の戸籍を完全に分離して、農村に住む人は都市に入り込めないようにしてしまった。

農村出身者が都市に行って金を稼ごうと思っても、都市住民としての戸籍がないものだから不法滞在ということになり、あらゆる面で差別を受けざるを得ず、行き着くところ流民とならざるを得ない。

我々の周りにいる不法滞在の中国人、オーバーステイの外国人と同じ境遇に置かれるということである。

これほどの人為的な差別も他にありえない。

これが大衆、農民、農奴の解放という名目でシナ大陸全域で行われたわけである。

その基本理念は、穀物を生産する農民たちを農地に縛り付けておこうという魂胆だと思う。農業というのは、何時でも何処でも過酷な作業に変わりはないわけで、農民たちがその作業を放棄して都会に流れ込んで来ることのないように、農民の戸籍のものは都会では住めないという措置をとった。

この事例を見ても、中国共産党の幹部たちは、自分の同胞、つまり同じ中国人でも、農業をしているような人々を人間とみなしていない証拠ではないか。

文化大革命のときはその逆の流れがあって、都会のインテリーたちを、懲罰の意味で農村に送り込んで「下放」と称していたが、都会のインテリーに取ってはそれがつらくてつらくて、一日でも早くその環境から逃れたくて、完全に懲罰の意味を成していた。

ならばもともとその地に住み続けて農業を営んでいた人々は、監獄の中の生活を生涯強いられていたということになるではないか。

我々の感覚からすれば「そんな馬鹿な!!」という感覚であるが、現に文化大革命のときはそういうことが現実に行われていたわけで、都会のインテリーを農村に送ることが懲罰としての効果を持っていたのである。

それは都会の爛熟した繁栄と,農村の過酷な生活の間に、大きな較差があったから、それが懲罰として効果があったわけである。

いかなる国でも食料の確保、食料の生産、農業の維持管理というのは国家存亡の基本的な問題である。

だからこそ、「食料の安全保障」などといわれるが、農業というのは自然条件に支配されるという現実も太古から変わらない原理なわけで、農業を如何に管理するかが国家としての進化のバロメーターになるのであろう。

アメリカ新大陸では、ヨーロッパから移入してきた人々が、農業を機械化することに成功したが、もともとその地に住んでいた人々は、そこの部分で意識改革に失敗して、古来のままの農業に固執したので、目下、存亡の危機に立たされているのである。

中国の地では、ヨーロッパからの移入者というのがおらず、隅から隅まで先住民族としての中国人が農耕をしていたので、そこでは農業の意識改悪がとうとう実現しなかった。

中国共産党は新生国家を立ち上げて、ソビエットのモデルを参考にして人民公社を作って農業の近代化を図ろうとしたが、中国共産党員と現実の農民との間には大きな知識上の格差があって、インテリーとしての共産党員は無学文盲の農民をうまくリードすることができなかったに違いない。

インテリーとして、農民に立派な理念を説いても、農民からすれば、明日の米が大問題なわけで、立派な理念をいくら聞かされても、空腹が満たされるわけがない、ということだろうと考える。

それと、食料といえども、合理的に生産するということ、つまり少ない人間で効率よく農産物を生産することは、彼ら中国の民からすれば、食いはぐれるということになるわけで、中国においては合理化ということは身を滅ぼす行為でしかない。

ただでさえ人は余っているわけで、そういう中で合理化すれば、なお人が余るわけで、あくまでも中国が生きのこるには人海戦術でなければならない。

一種のワークシアリングで、ひとつの仕事を皆で分け合って、その分賃金も低下するが、皆が一様に貧乏しながらでも生き残るには、そういう方法しかないということである。

 

儒教としての蓋

 

人間の数が問題となれば、数が多ければそれだけ出てくるアイデアも多い筈である。

しかし、彼の地ではそのアイデアが実らないという点に大きな問題がある。

百人に一人の割合で天才がいるとすれば、千人になれば十人の天才がいることになるが、中国では一人もそういう人が出てこない。

それには中国の人々の潜在意識の中に、過去から連綿と続いた歴史が大きく作用していると思う。

つまり、体を使う仕事を軽蔑し、政治を至上と考える思考である。

統治する側に身を置いて、何時果てるかわからない会議を延々と開き、出た結果も朝礼暮改で、ころころ変わるような政治をすることが聖人君子の道と思い違いしているところがある。だから体を動かして物を作るという行為を軽蔑する。

又、武人としての軍人も能吏ではないという意味で軽蔑されているが、中国人の価値観としては、政治をするもの、統治をするものに一番の価値を認めるわけである。

今日、中国製品というのは安かろう悪かろうの代名詞になっているが、その根底には、ものつくりというものが価値のない仕事だという認識が横たわっているからだと思う。

ただ何でもかんでも量さえこなせば賃金がもらえる、という安易な思考が不良品の山を築くものと思う。

同じ状況下でも、我々の思考ならば「もっと上手くこなすにはどうしたらいいか、もっと能率を上げるのはどうしたらいいか」という思考をめぐらすと思う。

世界が近代化に目覚めた世紀は19世紀から20世紀で、21世紀はまだ足を掛けた程度で先行きは不透明であるが、この200年の間に人類の進歩というのは級数的な進化を遂げたことになる。

日本がこの間に人類に貢献したものは、戦前ならば人力車のみであったが、今はその延長線上に自動車産業の興隆がある。

今、日本の技術というのは世界を席巻しているが、天然資源を持たない我々は、人的資源で世界に貢献している図である。

ところが中国は国内に天然資源を持ち、かつ人口も有り余るほど持ちながら、世界に貢献している部分が余りにも少ない。

中国は今世界の工場となって世界中の企業が中国に製造部門をおいて、そこで作ったものを逆輸入することによって、ブランド力を維持しているが、問題は中国の独自のブランドが世界的規模で存在しないという点である。

ハンドバッグや、靴、かばん、等々のブランドが中国から出てこないという点が問題である。その偽物しか作れないという点を考えなければならない。

偽物を作る能力があれば最初から本物を作ればよさそうに思うが、中国製の本物のブランドというのは、この世に存在していない。

新生共産中国となってからは一応はさまざまなものが国産化しているが、その国産化したものは、中国国内の購買力が貧弱なので、国内での消費につながらないからではなかろうか。

文化とか文明の進化というのは、若者が従来の規範や規律、あるいは秩序というものを破壊し、新しい世界観、新しい価値観というものを作り上げることによって進化してきたと思う。

この事はサルを観察することで究明されたわけで、野生のサルが冬に温泉に入って暖を取る行為、あるいは食物を洗って食べる行為というのは、いづれも若いサルが最初に実行するのを見て、その他のものがそれを追従するという形で、それが野生のサル文化として定着した。この例でもわかるように、文化や文明の進化というのは、いかなるものでも若い世代がリードするのが常態である。

ところが中国の地の伝統文化であるところの、儒教思想というのは、その若者の発想を頭から否定しているわけで、若者は年老いたもの敬えと言い、年功序列を遵守せよと言い、年長者には従順たれと説くわけで、これでは若者を頭から締め付けているようなもので、そこでは文化、文明の進化が止まるのも致し方ない。

従来の規範を乗り越えることを頭から否定し、連綿と伝統の中に生きることをよしとするならば、旧来からの脱皮ということはありえない。

その上、新生共産中国になってからは、農村の戸籍と都市の戸籍を分離し、固定してしまって、その間の移動を禁止してしまったならば、若者の活躍の場はまったくないに等しいわけで、これでは彼の地から新しい文化、新しい価値観、新しい世界観が生まれてこないのも致し方ない。

よって、今ある物の模倣ならば、新しい文化も価値観も世界観も必要がないわけで、それで今の中国が模倣文化ということになったのではなかろうか。

終戦直後のわが国も模倣の国といわれていたが、我々の場合は、もの作りの過程としての模倣であって、模倣が目的ではなく物を作るのに模倣からはじめただけのことで、いづれその過程を卒業し、知恵とアイデアを盛り込んだ独創的なもの作りに発展した。

物を作るのに、最終的な製品が独創的である以上に、その過程に知恵とアイデアが盛り込まれていたのである。

彼の地に住む人々というのは、ミツバチの世界かアリの世界ではないかと思う。

ミツバチの世界もアリの世界も、ミツバチやアリが自らの意思でああいう社会を形作ったわけではない。

大自然の造物主の思し召しで、女王ハチなり兵隊アリが形作られるわけで、そこにはハチなりアリの意思で社会が形作られたわけではない。

もう既に卵のときから、孵化した後の使命が個体の中にインプットされており、孵化した固体は、そのインプットされた遺伝子の命令によって、自らの生涯を全うするのではなかろうか。

ところが人間というのは万物の霊長といわれているように、自らの脳で考えるという思考回路を持っている。

ミツバチやアリはこういう思考回路を持たず、生まれる前からインプットされたDNAで自らの生を全うするが、人類は生まれた後の学習によって自らの生をコントロールすることが可能である。

ところがこの学習の過程で、儒教思想が若い世代の発想に蓋をしてしまうのが彼の地の民族の生き方であった。

それは、今、統治している人間にとっては、まことに都合のいい発想で、だから統治する側は、それを何時までも維持し続けたいと願うのも当然のことである。

 

考える人

 

しかし、若者の思考の跳躍も、その若者に広範な知識とか経験とかが備わって、現状に対する危機感がないことには発想の転換はありえないわけで、今のままでなんとなくぬるま湯につかった状態で満足し、大過なくすごせている状況では、そういう意識改革はありえない。

人は安逸な生活に満足するというのが大自然の法則だと思う。

ところが安逸な生活の中でも思いがけない不慮の災難というのはありうるわけで、そういう場面に遭遇すると、自分の不運を嘆くのも人間の自然の姿である。

とはいうものの、人間は考える動物なるがゆえに、この不慮の災難を人為的なものではないかと思い違いをしかねない。

すると、単なる思い違いというボタンの掛け違いが、次から次へと連鎖反応を起こして、面の広がりを持ち、他との抗争に発展してしまう。

だから極端なことを言うと、戦争も人間の形をした生き物としての基本的な生存権だと思う。逆説的ではあるが、それこそ戦争も人類が大自然から得た基本的人権ではないかと思う。

こう言うと、学問を積んだ文化人は、「自然を超越することこそが、考える人間の大きな特徴である」と、反論せざるを得ないだろうが、大自然の前には人間の存在などというものは小さなものに過ぎない。

大自然を前にすれば、人間の英知などというものは実に些細な存在でしかない。

人間の形をしたものにはいかなる者にも基本的人権がある、などということはきわめて近代の思考、ある意味で人間の奢りだと思う。

人間は万物の霊長というのも明らかに人間の奢りであって、人間といえども、大自然の法則からは逃れられないわけで、この自然の法則に支配されていることを認めようとしないから、自らが不幸な目にあう。

たとえば不慮の災害にあったりすると、それを他者の所為にするのである。

これは戦後の我々、日本人のものの考え方の中には歴然とあるわけで、それは同時に、自然を冒涜するものであるが、誰もそれに言及するものがいない。

不慮の災害に出会うと、その災害が自然のなせるものにもかかわらず、国家の所為にするわけで、その根底には「金よこせ!」という願望が潜んでいる。

戦後の日本でこういう傾向が強くなったのは、日本の政府が軟弱で、そういう事例に対して気前よく金を出すから後に続くものが表れたのである。

しかし、中国ではそんなことは通用するはずもなく、頭から一刀両断に拒否されてしまうので、最初からこういう思考はありえない。

その意味で、中国の地に生を受けた人間は、自然の法則に素直に従って生きてきたわけで、彼の地で辛亥革命が起きるまでの人々のありようは、まさしくこの大自然の法則のままの状態であった。

唐だとか、明だとか、清だとか言ったところで、それはミツバチの分封のようなもので、その当時の人間の形作る社会などというのは、いくら統治者が変わろうとも、そうたいした相違はない。

こう言い切ると、「いやそれぞれの時代にはそれぞれの文化が醸成されたではないか」という反論が聞こえそうであるが、人間が10年20年50年100年という単位で生き続ければ、その人達の生き様というのは定着し固定化するわけで、いわばマンネリ化する。

そのマンネリ化した部分が、その時代その時代の固有の文化ではなかろうか。

その間には、当然、世代交代もあるわけで、この世代交代がつつがなく行われている間は、文化・文明の進化は停滞するわけである。

先代から引き継いだDNAを後生大事に維持し続けている間は変革はないわけで、そのDNAないしは遺伝子の殻を破ってこそ、跳躍があるものと私は考える。

これこそ大自然の有り様であったのではなかろうか。

ところが、ヨーロッパ系の人々はアジア系の人々よりも繁殖力が弱く、いつの時代も人間の全体数が不足気味であった。

それを補うために、さまざまな技術、技能、テクノロジーを開発しなければならなかった。そこで「必要は発明の母」というわけで、近代化が勃興したが、アジア、特に中国では、人の絶対数は限りなく無限にあったものだから、人々は自然の法則に何時までも慣れ親しんで来たがゆえに、近代化に覚醒することが遅れたのではなかろうか。

人間は「考える葦」といわれているが、この「考える」という行為は、人間にだけあるわけではないが、考えるから迷うということにもなる。

考えることなく条件反射的に行動すれば、我々の社会はもっとアッヶラカンとしたものに成っているであろう。

我々人間というのは、いかなる人間も「考える」という行為を行う。

「考える」ということは、常に二者択一を迫られているわけで、どちらを選択するかという岐路で我々はない知恵を絞って考える。

考えた結果を引き出す大きな要因は、自分の経験した過去、あるいは自分の知覚した知識が根底にあって、それに基づいて選択をするのである。

よって、若いときにさまざまなことを経験し、広く見聞を広めた人こそ、選択肢が多くなるわけで、そのためには若いときにあちらこちら見聞し、広く書物を読み、自分の頭脳の中に知識の小箱をたくさん持たなければならない。

だから近世のように人間の移動が簡単にできるようになれば、文化・文明は級数的に飛躍したが、それ以前の時代には、人の移動が不如意だったものだから、文化の発達は遅々としていたのである。

人の移動ということは、言い換えれば情報ということで、情報が多くなれば、選択肢が広がるのも当然で、その現実が今日の我々の姿である。

ところが中国の識者、共産主義の党首脳にとっては、人々が利口になることは非常に困るわけで、彼らにしてみれば、国民はできるだけ愚民であってもらいたいわけである。

なんとなれば、国民が知識を得、見識を持ち、自分の意見を持つようになれば、遅かれ早かれ矛先が自分たちのほうに向いてくるからである。

統治者にとって、ここでも自然の法則が作用するわけで、いったん政権を握ったら何時までもそれを持ち続けたい、というのは紛れもなく自然界の法則なわけで、それは統治者としてのありままの素直な思考である。

しかし、人間は考える葦として、「果たして人間がこれからも自然のままの真理に従っていて生きていていいものかどうか」考えたわけである。

個人の不慮の災難を「自然のなしたことだから清くあきらめよ」と言っていていいものかどうか考えたわけである。

そしてよくよく考えてみると、その災難は「人間が努力すれば避けられるのではないか」という結論に達し、ならばどうするのが一番ベターかという話になり、統治者に話しかけるようになったものと推察する。

 

媚中派ということ

 

中国において、辛亥革命の前までの統治者は、自然の法則としての統治と、領民の福祉のバランスの上に成り立っていたと推察する。

領民の福祉というと、あまりにもきれいに聞こえるが、如何なる統治者でも、自分たちの食糧を生産するものを根絶やしにするわけにはいかず、その意味で、そういう生産者をある程度管理し、増産を図らねばならず、そのためには社会全体を緩やかにシステム化しなければならないはずである。

自然のままにといって、夜盗や盗賊や無頼のものが、食糧生産者を苦しめるような状態を放置しておくことはできないわけで、必然的に社会のシステム化ができてくる。

社会がシステム化すれば、それは管理社会となるわけで、その管理社会の中で、個の存在が何処まで容認されるかどうかで、開けた社会か閉ざされた社会という選択になる。

この過程は、地球上のいかなる地域でも大体同じなはずであるが、地域のよっては多少のばらつきがあり、そこでヨーロッパ系の進展の仕方と、アジアの国や、中国の進展の仕方の違いが生まれてきたと推察する。

ヨーロッパでは人間の絶対数が不足気味であったので、人々の個としての認識が強く、なおかつ早く目覚めた。

ところがアジアでは人間の数は無限に近くあったので、人間の個としての認識が何時までたっても覚醒されなかった。

この違いがヨーロッパ文明がアジアを席巻した遠因ではないかと私は推察する。

アジアの民が西洋文化と接触したとき、我々のような小さな国、玄関から入ればすぐ裏口に出てしまうような小さな国では、その接点そのものが、そこに住む人々の殺傷与奪の条件であったが、中国のように奥行きの深い地域では沿岸部がいくら蚕食されようとも、奥のほうではなんともなかったわけで、危機感は一向に深刻にならなかった。

清の西太后や、蒋介石という立場のものからすれば、海岸部をいくらか外国に取られたとしても後背地はいくらでも残っているわけで、少々のことでは痛くも痒くもなかったわけである。

ところが攻め入る側は、奥に進めば進むほど補給線が延びきり、そこに無益な殺傷が必然的に生まれるということになってしまった。

補給線が延びきったところで、食料調達のために無益な殺傷が起きると、これは相手側、つまり中国側にとって極めて有効な宣伝材料となり、実際にその通りの軌跡を踏襲してしまったではないか。

あの日中戦争においては蒋介石も張学良も見事にこの作戦で功をなしているわけで、我々の側の作戦指導者はそれを読み切れなかった。

先方の作戦に嵌まり込んでいたにもかかわらず、我々はそれを「勝った勝った」と有頂天になっていたのである。

政治的には先方はまことに巧者で、その意味では、彼らは悠久の歴史を充分に生かしきっている。

我々の側は何処までいっても「井戸の中の蛙」の発想から抜け切れず、「葦の髄から天を覗いている」ようなものだ。

我々はもの作りには長けているが、どうして政治や外交の場となると馬脚を現すのであろう。

もの作りと政治・外交では、それらを司る脳が最初から違っているのであろうか。

ここで俎上に載せた第12項、「隣の巨人」の見出しの概要を見ると、

1、「法の支配」の浸透を側面支援し、民主性が広がる機会とする。

2、さまざまな国際ルールへの参加を求め、情報公開を促していく。

3、公害病の対策で協力し、大勢の生命を救うことで信頼を深める、

と実にきれいな言葉が並んでいる。

しかし、この文面から感じられることは、日本が上から下のものに諭すかのような雰囲気が感じられる。

日本の首相が靖国神社に参詣するだけでイチャモンをつけて来る中国が、こんな文言を聞かされれば逆上するのではないかと思う。

この文言は、中国を諭す雰囲気で書かれているわけで、あくまでも我がほうが上の立場ということを暗に示しているが、書いた本人はそんなことは毛頭考えていないと思う。

あくまでも中国のためを思って、親切心、いわゆる媚中派の深層心理の一環としてこういう文言になったものと思うが、この認識のずれが、我々が政治・外交で何時まで経っても大人になりきれないという部分である。

この部分に対華21ヶ条条約を突きつけたときの日本の識者と同じ対中認識が潜んでいると思うが、本人たちはそれにまったく気がついていないであろう。

この認識のずれが政治・外交で何時まで経っても三流の域を出られない大きな理由だと思う。

そのことはあくまでも相手の本質を知らない、相手に関して無知ということで、知らない、無知なものが、自分で良かれと思っていることを言うから、こういう認識のずれが起きるのである。

この3項目は、相手からすればイランお節介なわけで、別の表現をすれば、内政干渉に値するようなものである。

だから、それをあまり強調するとそれに抵触するので、そうならないように、こちら側の希望的願望という形に摩り替えてあるが、こういう変化自在なところが活字メデイアの曖昧模糊としたところである。

大体、中国がこちら側の言ったことを素直に聞いたことがあるかと、問い直してみるがいい。彼らにとって、日本側の言うことを聞くということは、いかなる内容であろうとも屈辱なわけで、そういうことはありえないと考えるのが普通である。

この場合も、日本の政府が言うのではなく、一民間企業の活字メデイアが好き勝手に言っていることだから、相手もなんら問題視せず、傍観を決め込んでいるわけである。

しかも、そのメデイアは極めて親中的なメデイアであるので、相手は不問に付しているが、発信している側も、こんなことが実現可能とも思っていないのであろう。

我々にとって中国というのは、有史以来隣の巨人であったわけで、その地勢的な条件は如何ともし難い。

我々にとって、相手は、昔も今も巨人であったわけで、それに少しおとなしくしていただくには、言論によるアプローチしかありえない。

それも単純な作戦では効果が期待できず、戦略的な思考で、世界を巻き込んだ言論戦でなければ勝ち目はない。

しかし、我々にはその言論戦に対する認識が極めて乏しく、有効な手建てが見つけれない。日中戦争の時代には、我々の武力の威力というのは点と線の状態では何とか堅持できたが、それでも宣伝戦ではこのときから敗北を帰していたことを知らなければならない。

中国、特に蒋介石が連合軍側に身を置いたということは、日本が如何に外交下手かということである。

日本が満州だけに留まっておれば、蒋介石は連合軍側に身を置くことはなかったろうと思う。中国の沿岸部を蚕食したのは連合軍側のイギリス、フランス、ドイツであったわけで、蒋介石からすれば、これらの西洋列強は日本と同じ程度に憎むべき相手であった筈なのに、にもかかわらず、そういう国々と手を組んだということは、憎き西洋列強よりもなおいっそう日本が憎かったということであう。

この相手の恨みを我々は歴史の教訓としなければならない。

それで、朝日というメデイアは、媚中派の旗を掲げて胸を張っているわけであるが、ここに人間研究の至らない部分があると思う。

中国が日本を批判するのは、中国の国策であり国益である。

朝日が中国の肩を持つのは、資本主義国の民間企業のメデイアの一つが言っているわけで、政府の見解でもなく、当方の国策でもなく、ましてや国益でもない。

日本にはメデイアとしては他にいくらでも民間企業があるわけで、普通に常識のあるメデイアならば、朝日のように中国べったりということはありえない。

日本の民間企業としてのメデイアの朝日が、あることないこと中国に御注進におよんで、日本政府の足を引っ張るようなことをするから、我々としては困るわけで、そのことが中国国内で行われたとするならば、完全に反逆罪が成り立つような行為であることに朝日の人間が気がついていないというところが問題なのである。

中国ならば反逆罪になるようなことを平気でさせている点においても、我々の政治は三流といわなければならない。

我々の政治や外交が、何時までたっても三流の域を出れないというのも、我々の民族の特質だと思う。

中国の人達から中華思想が抜けないと同様、我々の民族も、政治的巧者にはこれから先もなりえないのであろう。

日本の知識人が、自分の祖国の政府に弓を引いて、相手国の国益に貢献して恥じとも思わないということは、もう完全に亡国の一歩手前に来ているということである。

落語の演目に「三方一両損」という話があるが、政治。外交の巧者というのは、ああいう風に話をまとめなければならないわけで、それが成立するには、価値観を同じにして、同じ土俵で話し合はなければそれがなり立たない。

我々と中国の間には同じ価値観というものが無いように思う。

戦争で死ねば、我々ならば靖国神社の祭られると思うが、彼らにはそういう規範というものはないわけで、主権国家、祖国、自国という概念そのものがないのではないかと思う。

戦争で死ねば、それは「運が悪かった」の一言で終わってしまうのではないかと思う。

だから今の中国の指導者にとって、日本の政府首脳が靖国神社におまいりする、という意味そのものが理解不能だと思う。

彼らにして見れば、日本の首脳が靖国神社に参詣することは、右翼の復活を祈願するぐらいにしか認識していないのではないかと思う。

国民が国に殉ずるなどということが理解不可能なことだと思う。

軍とか兵隊というものの認識においても、彼らの認識からすれば、軍というのは政府首脳の私兵に過ぎないわけで、軍を抑えるということは、軍をどちらの私兵にするかという問題である。

蒋介石の私兵にするか、毛沢東の私兵にするか、ということで為政者が誰であったとしてもその為政者の私兵に過ぎない。

断じて国民のための軍隊ではないわけで、どこまで行っても為政者の私兵の域を出るものではない。

中国の軍というのは、国内向けのもので、当然、そこに集まる兵隊というのは、ならず者の集団で、戦地を転戦する際には戦利品の収奪ということが許されており、それがあるため兵士は命を賭して戦うのである。

こういう連中が日本の組織立った軍隊と対峙すれば、先方は一目散に逃げるわけで、それを見て我々は「勝った勝った」と浮かれたわけである。

この12項、「隣の巨人」の要約の第3項、「公害病の対策で協力し、大勢の生命を救うことで信頼を深める」という言い分はきわめて日本人的な発想だと思う。

公害病で協力するという点では如何にも我々のお人よしの部分が丸出しで、公害病の先進国としての我々ならば、その対策、ノウハウというのは、ある種の取引材料になるわけで、使い方によっては大きなカードを握るということにもなる。

我々の持っているものを最大限、外交の切り札として利用するという発想が、我々には欠けているので、外交が後手に回るのである。

又、後段の「大勢の生命を救うことで相手の信頼を得る」と言うのも、戦後のわれわれの如何にも奇麗事につつまれたばら色の理念であって、人口爆発の渦中にある中国で、なおかつ大勢の命を救うことなど罪悪でしかないと思う。

ところが人の死ぬことを奨励したり、鼓舞したりすることは過去の倫理観では遺棄されてきたわけで、そういうことは口にすべきことでないとされてきた。

よって人口爆発には、誰もその有効な策を掲示し得ないが、事がここに至れば、もう奇麗事では成り立たないと思う。

 

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