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「日本の新戦略」その10

 

ノー天気な思考

 

朝日新聞2007年5月3日の社説21、提言・日本の新戦略に対して、その一つ一つに反論をしようと思って取り掛かったもののなかなか進まない。

無理もない話で、自分の得意でもないものにまで尤もらしく体裁を取り繕うとするのだから、無理が生じるのは当然のことである。

で、今回は第5項、化石燃料に関する反論であるが、この論調を読む限り、その中身には何も確たる信念は見当たらない。

ただただ我々レベルの知識で論文を取り繕っているという感じしか受けない。

その底流に流れている思考は、この世の人々は皆は善人だという性善説に限りなく寄り添っている。

それは戦後の豊かな中で育った人々は、気持ちも鷹揚で、人を疑うことを知らないわけで、自分が善意の塊なのだから、他の人も全部そうだという思い込みに浸っているからだと思う。

石油産油国に人と技術を提供すれば、向こうもきっと我々の願望に答えてくれるに違いない、という考え方は、あまりにも人の良い思考で、世の中、こんなことで済めば、戦争など起きないはずだ。

あの第二次世界大戦が終わってもこの地球上には戦争が一刻足りとも絶えなかったということをどう考えているのであろう。

確かに、我々の日本という国は、第二次世界大戦後、直接的に戦争にかかわったことはなかったが、地球上のあらゆる地域ではそれこそ戦争が継続していたわけで、それは人間の不信感がなさしめる行為ではないのか。

石油の備蓄ということは、すなわち紛れもない危機管理の一環なわけで、平和ボケの日本人はそのことにまったく気がついていない。

日本が石油の高騰を受けて省エネ技術を開発し、それによって石油の消費量が節約できたとすれば、節約できた分だけ石油を掘り当てたと同じ効果があるという指摘はもっともなことではある。

だとすれば石油の省エネ技術というのは明らかに戦略的な技術となるわけで、それは同時に日本の危機管理意識とリンクした考え方に立たなければならないと思う。

戦争というのは何も鉄砲を撃ち合うだけが戦争ではないわけで、戦後の我々はこういう認識に極めて疎いと思う。

石油というのは、不幸なことに、この地球上に偏在しているわけで、出る地域と出ない地域とが歴然と分かれている。

我々の周囲ではまったく出ないわけで、どうしても有る地域、出る地域、算出する国から金で買ってこなければならない。

商取引として金で買うとなれば、売る側はどうしても一銭でも高く売ろうとするし、買う側は逆に一銭でも安く買いたいわけで、この間にはビジネスが介在するのも無理からぬことである。そのビジネスをコントロールするのは当然生きた人間なわけで、人間が石油ビジネスをコントロールしているのであれば、そこには人間としての本質が具現化するのも当然の成り行きである。

戦後の豊かな日本の知識人、この論説を執筆しているような人たちは、自分のおかれた立場からものを見ているわけで、これもある意味で人間の陥りやすい本質であるが、自分の置かれた立場から他を見る場合、自分の既成概念でものを見てはならないと思う。

相手の視線に立って、相手の立場に立って、ものを見なければならないと思う。

アラブ諸国のように、恵まれた石油資源を持った国々の人間の本質と、我々の日本のように、石油資源はないけれども経済大国として成り立っている国の人間の本質は、同じ人間の本質といってもおのずと違っているわけで、ここをわきまえないとまたまた禍根を残すことになる。

石油資源の豊かな国の人々は、石油を武器として戦略的にそれを出したり絞り込んだりするわけで、それは完全に戦略的な見地で行われている。

それに対して、我々の側は多少高騰しても金で買える間は金で買い続けるしかないが、金を出しても買えない状況のことを少しも考えていない。

朝日新聞が提言・日本の新戦略として化石燃料のことを提言するからには、そのときのことを念頭において考えなければならないと思う。

私が朝日の論説に抵抗して自説を開陳しようとするのは、朝日を始めとする日本のマス・メデイアはあまりにも善人ぶって、性善説で物事を語ろうとするからそれに反発しているのである。マス・メデイアというのは狼少年と同じで、「狼が来る、狼が来る」と、大声で警鐘は鳴らすが、自分はまったく無責任なわけで、狼が来れば来たでその対抗策を講ずることもなく、来なければ来ないで何の弁解もせず、ただただ騒いで世間を混乱させるだけでしかない。

朝日新聞に代表される日本の知識階層というのは、中近東の国々が石油を武器として、金を出しても売らない、となった場合のことを真剣に考えなければならないと思うのに、よりによって日本が技術援助すれば相手がそれに応えてくれる、などと絵空言を並べていては困るわけである。

そういうときのために原子力発電所を作ろうとすれば、それも罷り成らぬというし、水力発電も環境破壊をするからだめだというし、風力発電はまだまだ遠い先のことだし、その時にはどうすればいいのかという答えは回避しているではないか。

日本には石油資源がないことは日本人ならば誰でも判っていることである。

日本人ばかりではなく世界中が知っているわけで、日本を締め上げるには石油を断てばいい、ということは世界中の常識となっており、現に日米開戦はそれで起きたではないか。

それを解決するのに、相手は善人だから、こちらが誠意を示せば相手はきっと理解してくれるという言い分はあまりにもノー天気な思考だと思う。

日本には高等教育機関としての大学が掃いて捨てるほどあるのに、日本の知識階層のこういうノー天気な思考に対する反論が一向に出てこないのはどういうわけなのであろう。

日本の大学というものは自分の国の先行きというものをまったく研究していないのだろうか。

こういう発想がまかり通っているということは、突き詰めれば、人間の本質を知らないということだと考えざるを得ない。

自分の思い込み、相手が善人だと言うのは、ただ単に自分の思い込みに過ぎないわけで、さまざまな外交交渉で交渉相手が善人であったためしがないではないか。

これも当然のことで、国と国が話し合う場では、相手も国の利益、つまり国益を掛けて話し合いに望んでいるわけで、石油を売ろうかどうかというときに、できうるならば一銭でも高く売りつけたいと思うのが当然のことである。

そういう生き馬の目を抜きかねない交渉の場に望む我が方が、相手に善意を持って対応するなどということは、まさしく泥棒に追い銭を与えるようなものではないか。

この場合でも交渉する人間は自分の身銭を切るわけではないので、少々高くても石油が手に入らないことには話にならないわけで、それを相手に見透かされて、尚いっそう高い買い物をするという羽目になるのである。

化石燃料というのは、いわゆる地球の遺産を食い潰しているわけで、いつかは枯渇するはずである。

天然ガスも同じ軌跡をたどるものと考えていいと思う。

ただ枯渇する時期が何時だか誰にもわからないので、中近東の産油国も今はオイルマネーをふんだんに掻き集めているが、石油を産しない国は、そのときのことも考えておかなければならない。

そのときに武器になるのが日本の省エネ技術であるわけで、それを相手の言い値で手放すということは、日本の危機管理そのものに直結していることを知らなければならない。

そう考えると、我々のあまりにもノー天気な思考を心底考え直さねばならない。

 

東シナ海の石油

 

この論評のように、あまりにも八方美人的なお人よしの思考では成り立たなくなると思う。

出るか出ないかわからない油井の掘削を今からはじめるということは、この論説の言うとおりリスクが大きすぎるが、日本の技術もってすれば正確な埋蔵地、埋蔵量の把握ということは可能だと思う。

しかし、可能だからといってそれを行ったとしてもその結果は企業秘密であり、又同時に国家機密でもあるわけで、そうおいそれと公表される筋合いのものではないはずである。

そんなことが公表されれば、当然、砂糖に群がる蟻のように世界各国から利権屋がはびこるわけで、又新たな紛争の種をまくようなものである。

仮に公表されたとしても、ここにあるから誰でも勝手に掘っていいというわけではないわけで、そこには所有権に当たる掘削権というものがついて回り、これはある種の権利の保障であり、きわめて政治的なものである。

個人レベルで考えれば、土地の所有権のようなもので、実態のあるものではないが、所有権のようなものは国際的に認められており、それがないことにはいくら埋蔵量が測れても、又埋蔵量が確定しても手が出ないわけである。

我々はこういうビジネスには極めて不慣れだと思う。

我々は産油国から遠くはなれた民族だし、アラブ人ないしはイスラム教徒とは接触するチャンスも少なかったし、中近東とのかかわりが極めて少ないわけで、砂漠の利権獲得についてはまことに不慣れなことは致し方ない。

相手がそうであればこそ、相手を善人と見立てて、八方美人的に何でもかんでも好意的にふるまうことは国益を損なう元だと思う。

このあたりの事情は、既にヨーロッパ人が完全に把握してしまっているわけで、今更、我々がのこのこ入り込める隙間はありえないと思う。

だとすればそれ以外の場所で新しい場所を開拓しなければならないことになるが、今の地球上で人跡未踏の地などというものはありえず、何処を掘ろうとしても必ずどこかの国の支配地になってしまっている。

海の中は公海の部分と、国家の領域としての領海の部分があるが、ここでも公海だから何をやってもいいというわけにはいかない。

この領海の外側には排他的経済水域というものがあり、それは領海から200海里となっているが、東シナ海の日本と中国の排他的経済水域の中間点に、化石燃料が埋蔵されていると言われている。

だからというわけで、此処に、それこそ宝の山が眠っているのではないかと、中国はさっさと開発に向けて手はずを整え既に着手している。

ところが日本側は、相手が中国なものだからいまいち腰が引けてしまって、乗り気でないようだ。

化石燃料とは何の関係もないが、日本は何故中国にこうも気を使うのであろう。

過去のいきさつがあったとはいえ、それは歴史の過程であって、日本が中国を侵略したことが我々の贖罪となっているとしたら、これもまた別の意味で歴史を冒涜するものだと思う。

人類の歴史というのは、戦争の歴史であって、地球上の民族はそのすべてが犯し犯されて今日に至っているわけで、中国が未だに日本に対して被害者意識を振りかざすのは、これもある意味で戦争である。

それは宣伝戦、あるいは言論の戦いというものであって、先方にとっては国益伸張の手段であり、一種の戦略である。

その基底の部分には、彼らの華夷秩序が潜んでいることはいうまでもない。

だからといって、我々の側がそれに同調して、何時までも贖罪意識に浸ることはないわけで、先の戦争の清算は既に済んでいるではないか。

東京国際軍事法廷でも日本の戦争指導者は刑に服しているし、現地においてもBC級の戦犯と称して我が同胞は相手国の杜撰な裁判にも不服を言わず、刑に服し、断頭台の露と消えた同胞も大勢いたではないか。

戦争には必然的に勝ち負けがあり、買った側は負けた側を思うように裁き、それまでの遺恨、怨恨、うらみ、怨嗟というものはその時点で充分にかなえられているではないか。

それ以上の言い分は、あくまでもただの言いがかりに過ぎず、戦後半世紀もたってまだそれに固執する中国やアジアの人々は如何に人倫に劣るかということを指し示している。

自分たちのしたこと(報復的処置つまり杜撰な裁判)はきれいさっぱり忘れて、その前のことをいつまでも繰り返すというのは実に大人気ない行為である。

我々はこういう過去のいきさつを充分に踏まえた上で、相手に対しては言うべきことを毅然と言うべきであって、きちんと筋道を立て理論整然と反論すべきである。

我々は相手から一言いわれると、「日本人は悪いことをした」という贖罪意識が前面に出て、相手に返す言葉を失ってしまうようだが、これは自分たちの歴史の真実を知らないから自信がもてないからである。

相手は4千年の歴史を持つ民族なのだから、口喧嘩では我々は歯が立たない。

ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うというわけで、論理的な議論はなり立たないわけで、これも彼らは国益を背中に背負っているのだから、「ハイ判りました」とは口が裂けてもいえないのである。

ところが、ここで日本の進歩的と称する人々が、特に、この朝日新聞に代表されるような人たちが、日本の利益よりも中国の利益を大事にするわけで、田中真紀子の言い草ではないが、前に行こうとするとスカートを踏む同胞が現れるのである。

中国の言い分を擁護すれば、先方は日本の将来に何か良いことを授けてくれるのではないか、と淡い期待をしているが、これこそ相手を知らない一語に尽きる。

この化石燃料に関する論調でも、日本と中国の排他的経済水域をはさんで化石燃料の配分に関して大きな問題が潜在化しているにもかかわらず一言も言及していないではないか。

「省エネ技術で世界全体のエネルギー節約に貢献する」だとか、「低開発国に省エネ技術を提供して全体のエネルギー節約に資する」だとか、あまりにも八方美人的な美辞麗句で飾り立てているだけではないか。

この東シナ海の油田開発は、日本のような資源を持たない国にとっては本来ならば喉から手が出そうなプロジェクトでなければならないが、我々の政府はどうも腰が引けている感じがする。相手が海千山千の中国だから、まともに話し合えないという気持ちは判らないでもないが、ならばこそ、日本国として一丸となって取り掛からねばならないと思う。

当然、マス・メデイアとしても日本の国益をフォローする方向に論陣を張って貰わなければならないところである。

ところが今の日本というのは資源がないと言いながらも、あるいは石油が高騰したと言いながらも、何とか日常生活が回っているので、誰も危機感を案じていない。

「政府が怠慢だからこういう風になるのだ」と責任を政府に転嫁しているが、本当は国民の側が危機感を持って東シナ海の油田開発などには感心を示さなければならないはずである。

国民の側にも、先の戦争がトラウマとなって、「もう諍いは御免だ」という心境もわからないではないが、今はそれでも良いが、先のことを考えると、我々の子孫が困ることになると思う。

何処の国、あらゆる主権国家でも、国益の追求ということは、今生きている人のためばかりではなく、将来を見越して国益の確保に血眼になっているわけで、今、のほほんと生きておれるので先のことは知らないでは済まされないと思う。

 

繁栄の結果としての斜陽

 

今現在、2007年、平成19年9月の時点で我々の国は非常に恵まれて平和な中に生きておれるが、こういうときにこそ100年先のことを考えておかなければならないと思う。

アメリカは日本がロシアに勝った日露戦争のときから、次にアメリカに矛先を向けるであろうと想定して、そのときことを綿密に計画していた事例を見ても、我々は100年先のことまで戦略的に考察しておかなければならないと思う。

ところがこういうことは我々が一番苦手とする分野で、我々は対処療法には長けているが、計画性のある戦略思考には極めて疎い民族である。

我々は戦後アメリカに次ぐ経済大国と自他共に認めているが、経済大国などといわれたところで、それはあくまでも砂上の楼閣に過ぎない。

それをあの大東亜戦争、太平洋戦争が見事に表しているではないか。

資源のない国が経済大国であり続けることなどありえないではないか。

それをあの戦争が示し、その後の高度経済成長、いわゆるバブリーな繁栄が物語っているではないか。

あの時点、つまり昭和の初期の日本の立場も、西洋先進国と肩を並べる強国であったが、それは所詮「張子の虎」に過ぎなかったではないか。

われわれは資源小国で、資源小国である以上、いくら逆立ちをしたところで、真の強国にはなりえない。

ただただ見かけ上、大国風に見えているだけで、それは何処までいっても「張子の虎」の域を出るものではない。

自分のところに何ひとつ資源がない以上、見せかけ上のブローカー国家に過ぎない。

原料も材料も他から持ってきて、それに付加価値をつけて又他に売るというブローカーとしか生きていけれない宿命を背負っていると思う。

この我々の姿は、小商人がもみ手で客に見え見えのゴマをすり、相手のご機嫌を下から上目使いに伺いながら、卑屈に卑屈にへりくだって、商売をする図ではないか。

今の日本の知識人の中国に対する態度というのは、まさしくこの図と同じではないか。

中国では毛沢東や周恩来という革命第一世代がいなくなってから改革開放ということで、経済が徐々に伸びてきたわけで、あの中国の13億の民が日本と同じような生活をするとなれば地球上の資源の枯渇するスピードは一気に早まることは必然的なことである。

だからこそ、中国は必死になって東シナ海の石油開発を進めようとしているのである。

我々の隣の国がこういう状態であるにもかかわらず、われわれはあまりにものんびりしすぎているのではなかろうか。

この論説の末尾には、(東アジアの)地域の連携を強め、安定と発展の土台を固める。そうした協議の場つくりを日本がリードしたいとなっているが、この認識は如何にも相手を知らなすぎると思う。

戦後62年を経過した時点で、日本と韓国と中国が同じテーブルに付けるわけがないではないか。

個々の問題においては、それぞれに利害得失が合致すれば、その件に関しては一応の妥協が成り立つことも可能かもしれないが、基本的にこのトライアングルは不動のもので、決して芯から判り合えることはありえない。

これを実現可能と考えるから、我々は相手に腰の引けた外交になってしまうのである。

我々は、この3国で仲良くしたいと思っており、そのためには相手を刺激してはならない、と考えるから最終的にはこちらの一方的な妥協に追い込まれてしまうのである。

それは相手を知らないと同時に、自分自身も判っていないといっているようなものである。

東アジアの歴史を見てみれば、彼らが日本と仲良くする気など毛頭ないことが一目瞭然ではないか。

我々、日本の明治維新は1868年であるが、韓国で日本の明治維新に当たるものは1945年の日本の敗戦である。

それも日本と朝鮮が正面から戦って、朝鮮民族が勝って独立を確保したわけではない。

日本がアメリカに負けたから棚ボタ式に民族自立が転がり込んできたわけで、朝鮮民族が民族独立の自意識に覚醒して、彼らの民族の力で日本からの頸木を断ち切ったわけではない。

棚ボタ式に開放を得たにもかかわらず、それでも北と南で分裂していまだに統一できていないではないか。

中国にいたっては1949年の革命が樹立したときが日本の明治維新に当たるようなもので、それまで近代国家の体をなしていなかったではないか。

日本、韓国、中国の間にこれだけ主権国家としての経歴が違っているがために、この三つの国の民主主義の度合いというものは、いまだに均一化されていないわけで、こういう国がどうして協力し合えるのか。

それを日本がリードするなということは夢物語にも当たらないではないか。

こういう愚にもつかない理想論を並べ立てるということは、児戯に等しい。

ただ気をつけなければならないことは、これら2国の国力の進展である。

我々も明治維新で意識改革が進み、結果として富国強兵を目指して、その行き着いた結果が、第二次世界大戦の敗北ということで、そこで軍事力を放棄したことによって世界で2番目の経済大国になったことから鑑みて、これらの国が日本と同じ軌跡を歩んでくるとしたら、我々は限りなく斜陽に向かうということである。

人類の歴史を見れば、どこまでも右肩上がりの国あるいは民族というのはありえないわけで、どんな国あるいは民族でも、最盛期を過ぎれば必ず斜陽化するということである。

日本の知性を代表する朝日新聞の論説で、日本、韓国、中国が地域の連携を深め、安定と発展の土台を固めるなどということ自体が、既に日本が斜陽に向かって転がり落ち始めた兆候であろう。

国家が崩壊する場合、外圧で滅びるということはありえず、そのすべてが内部の堕落によるわけで、今まできちんと機能していた国家が崩壊するという場合、それは内部の組織の崩壊でそうなるわけで、いわばメルトダウンの状況に陥るということだと思う。

 

ネット上の知見

 

ここで日本の化石燃料の将来を考える場合、私自身は知識が乏しいので、インターネット上の知見を添付しておく。

中国・沿岸海洋資源(ガス・石油)の開発状況


 【東シナ海周辺地域】
 
東海天然ガス田の調査・開発事業、中外4社が契約
 中国海洋石油総公司、中国石油化工集団公司、英ロイヤル・ダッチ・シェル社と米ユノカル社は、東海(東中国海)大陸棚にある窪地・西湖海域での天然ガス5事業に関する契約書の調印式を行った(2003年8月19日)。総面積25万km2に及ぶ東海大陸棚のうち、契約が取り交わされた5事業の対象海域は計2万2,000km。同海域が位置するのは上海市の南東沖約500kmにある大陸棚の窪地・西湖海域で、東海大陸棚の中でも天然ガス資源が最も豊富とされる。20年余りにわたる調査で、「平湖」「春暁」など7カ所の天然ガス田が見つかるなど、豊富な天然ガス層が発見されており、確認埋蔵量と推定埋蔵量の合計は2,000億m3に達する。そのうち「平湖」天然ガス田は1998年から生産を開始し、上海市に年4億5,000m3の天然ガスを供給している。


 ▲ 「平湖油田」(鉱区地図)       ▲ 「平湖ガス田」(写真)

  (参照サイト):「中国海洋石油」(CNOOC)、Home Page=English Version

 【東シナ海「春暁油田」プロジェクト、2005年10月竣工へ】
 
中国が東シナ海で開発を進めている「春暁ガス田」プロジェクトが2005年10月に竣工すると、一部の報道が伝えた。同油田の1日当たりの天然ガス処理能力は910万m3に達する見込み。「春暁ガス田」は、「春暁」「残雪」「断橋」「天外天」の4つのガス田から構成される総面積2万m2に及ぶ区域。なお、海底パイプラインの敷設とパイプラインのテスト運転は、韓国の現代工業が手がける。

 


 今回契約された5事業のうち、3事業が調査事業、2事業が開発事業。出資比率は中国海洋石油と中国石油化工集団がそれぞれ30%、シェルとユノカルが20%ずつ。中国海洋石油が5事業の運営を担当する。契約によると、最初に着手する事業は浙江省寧波市三山沖約350kmにある「春暁」天然ガス田群の開発(投資額90億元)。2005年上半期の生産開始を目指し、生産から2年後には年間24億9,600万m3の天然ガスを生産する予定。主に浙江省の銭塘江以南地域に工業用・民用として供給され、一部は上海市の予備天然ガス源とする。価格は「西気東輸」プロジェクト(中国西部地方の天然ガスを沿海地域に輸送するパイプライン建設事業)で供給される天然ガスより安くなる見込み。
 契約を行った4社は共同調査・開発の目標について「5〜10年の調査・開発で、同海域の確認埋蔵量と推定埋蔵量の合計をさらに倍増させ、年生産量40〜50億m3を目指す」と発表している。このほか、中国海洋石油の責任者は、上海市の天然ガスへの急激な需要の伸びに対応するために中国海洋石油、中国石油化工と上海市が共同開発を進めている「平湖」天然ガス田の2期プロジェクトが9月に完工し、上海市への天然ガス供給量が年間7億5,000m3に引き上げられることを明らかにした。
ーー(「人民網」、2003年8月20日)

 上海:東シナ海の天然ガス田からの供給拡大  
 東シナ海天然ガスプロジェクトの「平湖天然ガス田」第一期工事が竣工し、10月16日より正式に供給が開始した。同ガス田からの1日当たりの供給量は、これまでの135万m3から180万m3に拡大する。17億元を投資して行われる同プロジェクトの拡張工事は、2期に分けられている。今回の第1期工事は、平湖石油ガス田における総合プラットフォームの拡張工事となった。第2期工事では、産出ポイントの拡大を計画している。「平湖」プラットフォームから7km離れた地点に新たなプラットフォームを建設、完成後は1日当たりの生産量80万m3、160万世帯への供給を可能にする。この第2期工事の竣工は2006年1月を予定。「平湖」石油・ガス田は浦東国際空港、GM社など4,500の企業と一般住宅75万世帯に天然ガスを供給している。
ーー(「中国情報局」、2003年10月17日)

 
東シナ海ガス田開発、欧米2社が撤退を発表
 英蘭系石油大手のロイヤル・ダッチ・シェルと米石油大手ユノカルは9月29日、中国海洋石油総公司などと共同で進めていた東シナ海の天然ガス田開発プロジェクトから「商業上の理由」で撤退すると発表した。このプロジェクトには日本と中国の中間線付近に位置し、日中が鋭く対立している「春暁」ガス田が含まれている。中国海洋石油総公司は、両社が撤退しても「計画に大きな影響はなく、予定通り2005年半ばに生産を開始できる見通しだ」との声明を発表した。ユノカルのハンセン副社長は同社のウェブサイトに掲載した声明で、「過去一年にわたり調査と分析を進めたが、商業上の理由でこれ以上プロジェクトを進めないことになった」としたが、判断の根拠は示していない。
ーー(北京=共同、2004年9月30日、「日本経済新聞」)

 中国、海洋石油の原油生産2,843万トン、天然ガス生産量58億m3(約400万トン)
 
国家海洋局がこのほど発表した2004年の「中国海洋経済統計公報」によると、中国の2004年の海洋原油産出量は2,843万トン(前年比16.6%増)であった。一方、海洋天然ガスの生産量は58億m3(前年比32.5%増)、石油と天然ガスの総生産額は595億元であった。

この部分はその概要であるが、次に日本の対応を述べたインターネット上の知見を帰す。

2004/06/30 (産経新聞朝刊

【正論】杏林大学教授・平松茂雄 乗ってはならぬ中国の共同開発提案狙い明白な東シナ海の資源独占 ( 6/30)


 ≪責任擦り合う通産と外務≫

 去る五月下旬から中国が、東シナ海の「日中中間線」の日本側海域にごく近い大陸棚で、石油ガス田の開発に着手したとのニュースは、わが国政府にようやく東シナ海の石油開発に関心を向けさせたようである。「ようやく」と書いた意味は、筆者は八〇年代初頭から中国が東シナ海の真ん中で石油資源の開発を行っており、九〇年代に入ると、いくつかの地点で具体化し始めていることに注意を喚起し、本欄でも機会あるたびに紹介してきたにもかかわらず、日本政府は何の有効な措置を講じてこなかったからである。

 五月二十八日の自民党「海洋権益に関するワーキングチーム」の会合で、ある議員から「十年前から中国が調査しているのに、日本政府はなぜやらなかったのか」と外務、防衛、資源エネルギーなどの各省庁の担当官に厳しい叱責(しつせき)があった。これに対して各省庁の説明は、「(外務省が)中間線を画定させないと試掘できない」(資源エネルギー庁)、「中国側に抗議しようにも根拠となる(資源エネルギー庁の)資料がない」(外務省)と責任の擦り合いであったという。

 こうした責任の擦り合いは実は三十年以上前からあった。六〇年代末に東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されているとの国連ECAFE(アジア極東経済委員会、ESCAP=アジア太平洋経済社会委員会の前身)の報告が公表されたとき、わが国の企業四社が日本側海域に鉱区を設定して先願権を獲得し、資源探査を通産省(当時)に申請したが、同省は微妙な政治問題があるとの理由で外務省にゲタを預けると、外務省中国課はこれは通産省の管轄事項であると送り返す。結局たらい回しにされて、うやむやになってしまう。以来こうした状態が続いてきたのである。

 ≪中間線に採掘井集中の訳≫

 中国の開発は春暁、天外天のガス油田に採掘井の土台が据え付けられたのに続いて、天外天の採掘井に接近して、最近六〇メートル×三〇メートルのプラットホームの土台が据え付けられた。これは春暁と天外天の採掘井、さらにこれから設置される残雪と断橋の二カ所のガス油田の採掘井などを含めて、春暁ガス油田群で採掘された原油とガスの水処理、原油とガスの分離などを行い、さらにそれらを海底パイプラインで大陸沿岸地区(多分浙江省寧波とみられる)に輸送する作業などを行う施設であり、居住施設やヘリポートも設けられる。こうした施設が数年のうちに、日中中間線の日本側海域の間近に林立することになる。

 これらの施設が日本側の大陸棚に近い海域に設置されているところから、同じ地質構造に属している日本側の鉱区の原油・ガスがストローのように吸い上げられる恐れがある。鉱区が複数の企業あるいは国家に跨がっている場合には、構造の大きさと埋蔵量に基づいて比例案分することになっている。

 そこで先日、中国の青島で開催された「アジア協力対話」外相会議の際行われた李肇星外交部長(外相)との会談で、川口外務大臣が中国側の鉱区に関するデータの早期提出を求めたのに対して、李外交部長は共同開発を提案した。それがどのようなものであるか明確でないが、中間線の日本側海域での共同開発である可能性が高い。

 もしそうであるならば、日本としては自国の主権的権利を有する大陸棚での中国との共同開発を受け入れることはできない。だがもし日本側がこれを拒否したならば、中間線を認めない中国は日本側海域での独自の開発を進めることになろう。

 中国側はこれまでにわが国政府の停止要求を無視して、大陸棚の調査を実施し、さらにわが国が提案した事前に通報して日本政府の許可を得る制度により、堂々と日本側の海域で調査活動を行い、大陸棚の資源に関して日本よりはるかに多くの情報を得ている。そうなると日本が権利をもっている大陸棚はすべて中国のものになってしまう。

 ≪経済摩擦で済まぬ覚悟も≫

 日本は中間線の立場に立って開発を進めるのが正しい。現実に経済産業省は、わが国も日本側海域で資源探査を実施することを明らかにしている。だがその場合、中国は自国の海域であるとして、調査の停止を求めてくるであろうし、実力で調査を妨害することもありうる。その場合、海上保安庁の巡視船では十分でなく、海上自衛隊の艦艇が出動することもありうる。日本政府にはそれだけの決断がなければならない。日本政府は東シナ海で進行している中国との摩擦を単なる石油ガス開発の問題と見てはならない。(ひらまつ しげお)

 


2004/06/30 (産経新聞朝刊

中国の東シナ海ガス田開発 日本、地質調査へ 来月7日から( 6/30)


 政府は二十九日、東シナ海上の排他的経済水域(EEZ)の境界として日本が主張する「日中中間線」近くの日本側海域で、七月七日から約三カ月間かけて海底の地質調査を実施する方針を明らかにした。

 地下の地質構造を立体的に把握できる三次元地震探査を行い、天然ガスや石油層の存在を本格的に調べる。

 調査対象は中間線沿いに幅三十キロ、北緯二八度から三〇度まで二百キロ余りの範囲。中間線から中国側海域に約四キロの「春暁ガス田」近辺など、日本側海域にも資源が広がっている可能性が高い海域で行う。調査は約三十億円をかけ、独立法人の石油天然ガス・金属鉱物資源機構に委託する。

 中川昭一経済産業相は同日の記者会見で「データ要請から一カ月近くたっても中国側から満足な回答がない」と調査開始の理由を説明。調査結果や中国側の対応次第で試掘に進む可能性も示した。

 一方、二十一日の日中外相会談で中国側が提案したガス田の共同開発については「中国側(の施設工事)は着々と進んでおり、まったく考えていない」と強く否定した。

 日本政府内には、採掘を黙認し、日本側海域の資源が侵食されることになれば「中間線を超える中国の活動が既成事実化する」との懸念がある。今回の地質調査は、権益確保に関する日本の姿勢を明確にすることも狙いの一つだ。調査の実施は二十九日までに中国側に伝えた。

 


sankei

中国、東シナ海の海洋調査けん制 日本に厳重申し入れ

 中国外務省の章啓月副報道局長は30日、日本が中国に対抗し近く東シナ海の日中中間線付近の日本側海域へ調査船を派遣する方針を表明したことについて「外交ルートを通じ厳重な申し入れをした」との談話を発表、日本側をけん制した。

 談話は「事態を複雑化させるいかなる行動もとるべきでない」と指摘、同問題での日中間の摩擦がさらに拡大する可能性が強まってきた。

 副報道局長は日中間の話し合いによる解決を主張する一方、「中国の利益」を損なわないよう強く要求。北京の日本大使館によると、中国の沈国放外務次官補が同日、阿南惟茂大使に「強い関心」を表明したという。

 同大使館によると、阿南大使は「日中政府間の信頼関係が重要」とした上で、川口順子外相や中川昭一経済産業相らが要請している中国側の試掘データなどの情報を速やかに日本側に提供するようあらためて求めた。

 日中中間線付近の中国側海域では、中国の企業連合が天然ガスの採掘施設の建設を始めたことが分かり、日本政府が抗議。中川経産相が29日、試掘を視野に調査船を7月早々にも出す考えを明らかにしていた。(共同)

(06/30 21:47)

 

国家のメルトダウン

 

これを見ても判るように、中国は着々と地歩を固めているが、日本側は後手後手に回っている。

さらに中国側は日本のいかなる行動にもクレームをつけてくるが、これもある意味で二国間の問題ともなれば当然の行動なわけで、我々の側もそれに対して冷静に対応をしなければならないことは言うまでもない。

二国間の関係というのは、善人と善人の関係ではないわけで、普通の人と普通の人の関係だと思えば、相手の言うことにそうそう卑屈になる必要もない。

言うべきことは正面から堂々というべきである。

それでこそ、お互いに信頼し尊敬しあえるというものであって、卑屈な対応をすれば、その分あらゆる交渉ごとに信用を欠き、まとまる話も座礁しかねない。

問題は、こういう正常な交渉をいくら重ねても、妥協点が見出せないときの対応である。

昔ならばそれを武力で解決することができたが、今ではそれもならないわけで、ではどうすればいいのかというと答えはない。

結局は、相手の言うことを無視したほうが勝ちである。

言う事をきかないものが勝ちであるが、それをするには武力の背景がいるわけで、その武力のさらに後ろに「武力行使もいとわない」という強い精神力が存在しなければ、ごり押しそのものが成り立たない。

日本が抱えている懸案事項は、いうまでもなくその最大のものが北方四島の問題であり、北朝鮮による拉致の問題であるが、これらはこちらがいくら相手を説得しようとも相手はまったく聞く耳を持たないわけで、一向に解決の糸口さえつかめていないではないか。

仮に、東シナ海の石油掘削の問題で、中国側は日本の言うことを無視しているが、日本側がそれと同じことをした場合、中国が果たして何もせずにいるだろうか。

この点を、日本の知性を代表する朝日新聞はどう考えているのであろう。

日本の知識階層というのは、こういった場合どういう反応を示すのであろうか。

事はそんなに悠長なことではないと思う。

想像できることは、仮に日本が中国の言うことを無視した場合は、中国は即刻実力行使に訴えてでも自らの意思を推し進めてくると思う。

その時、朝日新聞及び日本の知識階層はどういう対応をするのであろう。

予想されることは、「日本は中国の言い分を通して、妥協をせよ」というものであろうと思うが、これでは日本の国益を自ら放棄することになるわけで、それでも戦争になるよりはましだというものであろう。

日米開戦の様相もまったくこれと同じ構図であったわけで、言い方を変えれば「妥協するも地獄、妥協せざるも地獄」という二者択一を迫られたわけで、こういう場合、今の日本の識者はどういう選択をするのであろう。

たぶん前に記したように自らの国益を放棄する選択を迫るであろうと想像される。

何のことはない、日本人でありながら、日本の国益に唾を吐いているようなものではないか。今の日本では、朝日新聞の論調および知識人の論調は、大方の日本の大衆に支持されているわけで、それだからこそ北方四島の問題も、北朝鮮の邦人拉致の問題も、棚上げされたままで放置されているのである。

無理もない話で、マス・メデイアあるいは朝日新聞の論説委員の人、あるいは日本の知識階層の人々にとって、北方四島の問題も、邦人拉致の問題も、東シナ海の石油の問題も、いわゆる他人事なわけで、自分とは何ら係わりがあるわけではないので、そんなことで戦争をおっぱじめて貰っては叶わない、という心理が大きく作用していると思う。

だからこそ奇麗事を言っておれるわけで、自分はあくまでも傍観者の立場で、耳障りのいいことばかりを言っておれるのである。

これを日本という国家の枠組みから考えると、内部崩壊の端的な例で、自分さえ良ければ後はどうなっても知らない、という典型的な事例だと思う。

どんなことでも結果が悪ければそれは全部政府の所為にすれば済むわけで、こういう思考の持ち主が、日本の知識階層を占めているという現実が、日本の斜陽化の真の姿だと思う。

マス・メデイアの人々も知識階層の人々も、今現在はなんとなく平穏無事で平和な世の中を謳歌しえているが、将来の日本のエネルギーについては真剣に考えなければならないときにきていると思う。

 

異民族の研究

 

この私の論旨の冒頭に、中近東、いわゆる産油国のことを少し書いたが、我々はどうしても視線が身の回り、あるいは西洋に向いてしまって、中近東には向かない。

これだけ中近東の石油に依存しながら、中近東の事情にはまったく疎い。

これも大いに問題にしなければならないことだと考える。

今、中近東、いわゆる産油国はオイル・マネーがだぶついていると思う。

ならばそのだぶついている金を自分たちのほうに吸い寄せる工夫も講じなければならないし、その前に、我々は中近東についてもっともっと勉強しなければならないと思う。

中近東の人々は、石油によって潤ってはいるが、基本的に西洋系の白人にはコンプレックスを持っていると思う。

それはあの映画「アラビアのローレンス」によく描かれているが、彼らは人類の文化の発祥地の民でありながら、近代文明には何一つ貢献しきれていないわけで、アラビア文字を作ったと言われていても、それを自由に使いこなしたのは西洋人であったわけで、中近東の人々は何処までいってもべドウインの域を出ることはなかった。

問題は、このべドウインが石油を握ったという点にある。

彼らは潤沢なオイル・マネーで自分たちの新しい価値観を作るなどということはなしえず、新しい生き方を模索することもなく、自分たちの新しい文化を創るということもできなかったわけで、あくまでも西洋文化を追従することしかできなかった。

彼らはイスラム教他であるがゆえに、その範囲内で西洋文化を享受しているが、それを超える発想というのは未だにありえないわけで、金に飽かせて西洋を真似ているだけである。

とはいうものの、相手が金を持っておれば、ブローカー国家としての我々は、それににじり寄っても良心の呵責に恥じることはないわけで、そういう意味で、我々は中近東に対する研究をより深めてしかるべきだと思う。

これこそ戦略的な思考であるが、悲しいかな、我々はブームが沸き起こらないことには誰も腰を上げようとはしないわけで、最終的には国家が音頭をとらなければ踊り出さないのではないかと思う。

我々の明治維新も、突き詰めれば西洋への憧れであって、それに追いつき追い越せで、手っ取り早い手段として西洋列強のまねをしたことが結果として失敗であったが、べドウインにとっての西洋文化というのは、真似るべき対象ではないわけで、便利なものは躊躇なく使うというきわめて冷静な合理主義で貫かれていると思う。

彼らにすれば、便利なものは大いに導入するが、西洋あるいはヨーロッパに追いつき追い越すという意識は毛頭ないわけで、そこが我々とは大いに違う点である。

自分たちが「これは都合が良いな」と思ったものは金で買えば済むことなわけで、そこで我々ならば「これと同じもの自分たちの手で作ろう」という発想になるが、彼らはそういう発想にいたらない。

だから近代文明の利便性は大いに享受するが、生活習慣からものの考え方までヨーロッパに迎合するということはないのである。

この違いは、多分、宗教に根ざした民族性の違いであうが、我々はこういう部分から相手を掘り下げて考察しなければだめだと思う。

我々は他民族を研究するということの重要性をいまだに認めていないのではなかろうか。

あの戦争中に、日本軍が相手の国の人々を虐待したということは、そのことを端的に示しているのではなかろうか。

相手の民族性に無知なまま、自分たちの価値観を押し付けたので、相手からすれば虐待されたということになったのではなかろうか。

あの戦争中に、アメリカは日本人の研究を軍主導で行い、後に「菊と刀(ルース・ベネジェクト女史)」という立派な著作が世に出たが、我々の側は、敵性語の禁止ということで英語さえも使うことを禁止してまったではないか。

我々は、文学的に極めて繊細な感覚を持った民族であるにもかかわらず、異民族の研究ということにはきわめて冷淡で、この唯我独尊的な思い上がりが、ある意味で島国根性の集大成であったのかもしれない。

だとすると、我々がべドウインを理解することは並大抵のことではない。

異民族との理解を深めるということを率先して行うべきは、本来ならばマス・メデイアの使命のはずであるが、日本のメデイアは中国とアメリカにしか視線が向いていない。

何故そうなのかといえば、我々の誰もがそれ以外の民族あるいは国に関心を示さないからである。

メデイアも人の子、食っていかなければならず、食うためには売れるものを書かなければならないわけで、そのためにはアメリカと中国のことを書かなければ売れない、よって日本のマス・メデイアはこの両国に偏ってしまったのである。

そのアメリカの戦略的な思考というのは実に老獪で、アメリカは自国で石油を産出できるにもかかわらず、石油価格がこれだけ高騰してもなお中近東から石油を輸入している。

つまり、自国の石油は掘り出さないまま戦略物資としてそのままの形で温存しているわけで、平和なときは少々高くても輸入品でまかなうという魂胆である。

万が一、国交が断たれたときに始めて自国の石油を掘り出して使うという魂胆である。

これこそが戦略的思考そのものである。

昔、「鉄は国家なり」といわれたが、今は「石油は国家の命綱」といわなければならない。

日本では石油の備蓄は半年分が確保されているといわれているが、対米戦を始めるときもこれと同じ状況であったわけで、戦争が長引くに連れて我々はジリ貧状態になり、結局は敗北したではないか。

その教訓から何も学び取っていないのが今の我々ではなかろうか。

それと対極にあるのが中国で、中国は相手が日本となると、ついつい華夷秩序が頭をもたげて、日本は野蛮人とみなす中国4千年の歴史がぶりかえって何事も頭ごなしで一方的にことを進めようとする。

改革開放路線になってからの中国の経済発展は目覚しく、経済成長とともに中国でも石油の需要が逼迫するようになってきたわけで、そこに東シナ海の大陸棚で石油があるとわかれば血眼になるのも当然のことである。

中国という国は有史以来徹底的な個人主義の民族であって、人と協調するという伝統を持たない民族である。

「水に落ちた犬をなおも叩く」ということをなんとも思わない民族なのだから、こういう国と話し合いでことを解決しようとしてもそれは叶わぬ。

この現実を我々はもっともっと知らなければならないが、日本の知識階層はあまりにも人が好いものだから、話し合えば分かり合えると思っているところが極めて甘い。

俗に言う、「人のものは自分のもの、自分のものも自分のもの」というのが中国の民族性である。

我々の国では石油を産出しないということは自明にことなわけで、それに対して将来どういう方策を講じなければならないのか、というのは国家的プロジェクトだと思う。

目下、年金の問題とか、少子化の問題とか、教育の問題等々、早急に解決しなければならない問題が山積みであることは承知しているが、石油の問題も避けて通れない道だと思う。

この問題と環境対策の問題は相互に関連しあっている。

つまり、省エネ技術の問題は明らかに双方に関連しているわけで、そのことは中近東の石油に今までと同じように依存する、という思考をこのあたりで見直さなければならないと思う。

この二つが見事にリンクしているにもかかわらず、今の我々の置かれた状況は環境問題に軸足が向いており、東シナ海の石油の問題は棚上げされたままになっている。

まさしく火中の栗を拾う勇気を持たないわけで、問題の先延ばし以外の何者でもない。

そのことを考えると、東シナ海の石油掘削の問題には今まで以上に積極的に関わり合わなければならないと思うが、それは同時に中国との摩擦を引き起こすことも必定で、こういう難問にきちんと回答を出すのが本来ならば日本の知識階層でなければならない。

それでなければ日本の高等教育の意味がないわけであって、少なくとも学者と称せられる人々は、財界人や政治家よりも、そういう個々の案件に関しては時間も労力もふんだんに投じているはずで、そのことは同時に答えも持っていなければならないということになる。

そうでなければ学者としての存在価値そのものがないということである。

それと比べ、世界的にいわゆる為政者といわれる人々は、どこの国の為政者も、そういう学者の言をまったく信用しないというのも政治の不思議さの一つである。

世界のあらゆる為政者は、学者の意見を参考にはするが参考にしたからといってその通りには決してしないわけで、そこが政治家の判断力というものであろう。

それと同じことは企業経営者も同じで、コンサルタントの意見は傾聴するが、だからといって言われたとおりにするわけではないと思う。

ということは、政治は政治家が、企業経営は経営者がするわけで、ならば学者というのは一体何処に価値があるのであろう。

政治経済学者が政治家になれないというのならば、その政治経済学というのは一体何なのであろう。

経営コンサルタントが企業経営できないというのであるならば、その経営コンサルタンというのは一体何なんだということになるではないか。

ということは、学者やコンサルタントいわれる人々は、既存の政治家や経営者に対して、外野席からわいわい騒ぐだけで、それ以外に何の価値も持ち合わせていないということであろうか。これを一言で言えば、政治の形態の問題だと思う。

たとえば、政治家たるものは自分のブレーン、いわゆる自分のシンク・タンクを個人として持つべきで、基本的には政府の中の閣僚は総理大臣のブレーンの一部ではあるが、閣僚というものはそれぞれに所管の業務を持っているわけで、閣僚もその各々が個人的に自分の所管する業務に精通したブレーンあるいはシンク・タンクを持つことが本当は理想だと思う。

そのブレーンに未来予測を託して、その線に沿って政治家自身の判断力と決断力を発揮できるようにすれば今よりもましな政治になるのではないかと思う。

そのブレーンの中に学者とか知識人を取り込んで、未来予測を指し示せば、今よりは多少ましな政治が実現するのではなかろうか。

ところが学者という人たちは、何処まで行っても役立たずで、彼らの未来予測が当たったためしがないわけで、それでは彼らの修めた学問は一体なんのかということになるが、学者には目に見る形の勤務評定もないわけで、所詮は大衆を煽る存在でしかない。

学者の書いた論文には、何処何処大学の教授という肩書きがなければ一文の値打ちもないわけで、その程度の実力では政治家も自分のブレーンなどにしたくはないだろうし、企業経営者もコンサルタントして採用したくないに違いない。

ただその肩書きという餌に素直に飛びついてくるのはマス・メデイアだけである。

メデイアにとっては、何処何処大学の教授という肩書きは非常に大事であって、これがあるとないでは記事の重みが大きく違ってくると思う。

日本の100年後、200年後の未来予測というのは本来ならば学者の仕事であろうが、学者が当てにならないとするならば、政治家の双肩にかかってくる。

それをフォロー・アップするのが経済界となるわけだが、こういう構図があるかぎり、政界と財界のつながりは切れないことになる。

従来も、これからも、政界と財界のつながりは車の両輪のようなもので、別々に切り離しては存在しきれないと思う。

当然、そこには表向きにできない金のやり取りもうまれるわけで、結果的に政財界の癒着というものは必然的に生まれてくると思う。

しかし、そういう問題よりも真の問題は、如何に東シナ海で石油を掘るかということであって、普通に考えれば、政府が中国側と話しをつけて、実際の掘削は民間企業にさせるということにならなければならないが、この中国との話し合いが解決しないことには先に進めない。

この話し合いに今の日本政府は腰が引けていると思う。

日本の媚中派の国会議員があちらに行けば話し合いが成立するかといえば、そうは問屋が卸さないわけで、日本の媚中派の国会議員など、先方からすればなんら信用されていないわけで、むしろ対中強硬派のほうが先方の信用は厚いと思う。

それは人間の心理として当然のはずだ。

自分に媚を売ってくる人間が信用ならないというのは世界万国共通だと思う。

むしろ正面から堂々と歯に衣を着せず批判する人間のほうが信用が置けるではないか。

ただし人間の心理として「尻尾を振ってくる奴は可愛い」という心理も普遍的なことで、先方がそのどちらかということはまさに天与のもので、こちら側に選択権のあることではない。

ただし、政治家が相手国とまことに困難な駆け引きをしようとするときに、こちら側の意見や気持ちがばらばらでは交渉の真剣さが疑問視されてしまう。

いくら交渉当事者が真剣に駆け引きしようとしても、内地のメデイアが相手の肩を持つような報道をすれば、交渉はきわめて困難になると思う。

国と国の付き合い方というのは、交渉の当事者のみではないわけで、相手の動向は、双方がお互いのメデイアを探り合って収集しているわけで、そんな中で相手を利するような論調があれば、相手は意を強くすることは当然のことであり、こちら側の交渉はますます難しくなる。

日本はまことにありがたい国で、自分の国にどれだけ唾を引っ掛けても、それだけで身柄を拘束されることはない。

自分の国がいくら外国から貶められても、それは政府の責任として責任転嫁してのうのうとしておれるきわめて珍しい国である。

自分の祖国の国歌や国旗に敬意を表しないでもなんら咎められないきわめて稀有な国である。石油がいくら枯渇しようとも、外国に親切にしておれば誰か救済してくれる、と思い込んでいるノー天気な国である。

 

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