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「日本の新戦略」・その9

失敗体験の考察

 

平成19年5月3日の朝日新聞、社説21、提言「日本の新戦略」の第4項目は「原子力と核」というテーマになっている。

折しもこれを書いている8月(平成19年)は、広島、長崎と原爆投下の時期でもあり、この両市では恒例の慰霊祭が厳かに執り行われた。

先月29日に投票が行われた参議院選挙は、自民党が屈辱的な敗北を帰したが、その背景には久間防衛大臣の原爆投下は「しょうがない!!」という発言が大きく影響していることは否めない。

人類の最初の被爆国として、我々が核というものに非常に神経質に反応することは、ある程度致し方ないことではある。

その経緯から我々は非核3原則というものを国是としているが、これはその意味から致し方ない面は認めざるを得ない。

しかし、被爆国として核廃絶を悲願として戦後62年間訴え続けてきた我々であるが、この間に世界の核保有国は、増える一方で、「核保有をしない」とか「原子力には一切かかわりを持ちません」と宣言した国が一つもないということは一体どういうことなのであろう。世界の人々も、広島や長崎のことを知らないはずはないと思う。

その知識に濃淡、濃い薄い、深い浅い、広く浅く、さまざまな温度差があることは当然であろうが、まったく広島、長崎のことを知らないはずはないと思う。

にもかかわらず、どこの国でも核兵器を持ちたがり、原子力発電に触手を伸ばそうとしている。

これを我々はどう考えたらいいのであろう。

我々日本人の、核廃絶の悲願は、世界的には何のインパクトも与えていないということではなかろうか。

原子爆弾を最初に開発したアメリカは、先駆者の地位を今まで以上に持ちたいと願い、それに追従する旧ソビエット連邦は、アメリカが持つならば俺もというわけで、日本人の悲願などに目もくれない。

イギリス、フランスとなれば、アメリカが持つならば俺たちも開発できないはずはないというわけで、これも日本の悲願など全く意に介していない。

その他、中国や、インド、パキスタンとなると完全に兵器として仮想敵国を想定しての核保有である。

ところが視点を我々の国の内側に向けて見ると、核廃絶が民族の悲願となっているわけで、これは人類最初に被爆国としては当然の感情でもある。

そして、我々は非核3原則を堅持して、核兵器というものを保持してもおらず、これからも保持する気はさらさらないはずであるが、この現象は地球規模で見れば、被爆国としての特異な現象ではないかと思う。

例えば、我々は第2次世界大戦中にヒットラーが引き起こしたユダヤ人の大量殺戮ということを知識としては知っている。

知識として知っていたとしても、だからといって遠く離れたドイツの出来事に対して、ああいうことを2度と繰り返してはならないと、具体的な行動には出ない。

そうするにはあまりにもかけ離れた土地での出来事で、自分のこととして考えれないと同じではないかと思う。

地球規模の視点に立ってみれば、日本に最初に原子爆弾が使われて広島で14万人以上、長崎で8万人以上に非戦闘員が殺されたとしても、フランスの人、イギリスの人、旧ソビエットの労働者、中国の農民、インドのヒンズー教徒、パキスタンの貧乏人にとって、それがどれだけのインパクトを与えたのであろう。

我々がアウシュビッツの惨劇を写真で見たとしても、「ヒットラーはひどいことをしたなあ」という感想は持つが、だからといって、それ以上具体的な行動に出れるわけがない。これと同じことが、日本以外の土地から日本を見た場合にもありうるわけで、日本がいくら人類最初の被爆国として核廃絶を悲願としていようとも、先方にしてみれば、そんなことは痛くも痒くもないわけで、まったくあづかり知らないことである。

まさしく烏の勝手で、他人事なわけである。

広島、長崎で原爆の被害にあった人々の戦争に対する憎しみは、心情的には大いに理解し、同情に値するが、そういう人々の言い分が、直接的な被害を及ぼしたアメリカに向けるのではなく、そういう状況に至らしめた同胞に向けられることは、私には理解しがたいところである。

日本が対米戦に負けたということは、我々の軍隊、軍部の責任のはずである。

政府と軍部が一体となって戦争指導したわけで、それが敗北であったということは、作戦が稚拙であったということである。

そういう稚拙な作戦を推し進めて、同胞を奈落の底に落としいれたという意味で、あの戦いに生き残った人々、広島、長崎の被爆者も含めて、その後生き残った人々が、当時の政府と軍部に怒りをぶつけたくなる気持ちは察して余りある。

しかし、原爆の被害の直接的な原因は、アメリカの原爆投下にあるわけで、憤怒の矛先は当然アメリカに向かわなければおかしいではないか。

アメリカにこういう対応をさせた、つまり原爆投下をなさしめたという意味では、我々同胞の作戦の稚拙さを責めたくなる気持ちも分からないではない。

そうはいうものの、自分たちに直接的に被害をもたらしたのはアメリカにあるわけで、そこを追求せずに同胞を責めるというのもおかしな話だと思う。

ただし、戦争に負けた結果として、我々はアメリカの占領下におかれ、占領政策の批判を封じられていたということはあるが、だとしたら強いアメリカには沈黙し、そのコントロール下の弱い同胞の政府には、正面から楯突くという構図が成り立っているということだ。我々の戦後62年間にも及ぶ非核、原水爆反対の運動も、被爆国としては当然の成り行きではあるが、被爆国でない人々からすれば何の意味もないわけで、我々はそのことを忘れているような気がしてならない。

地球上で、我々日本民族だけが原子爆弾の投下という洗礼を受けたわけで、こういう試練に直面したことにない人々にとっては、我々の悲願も理解しきれない部分があるものと推察する。

我々日本人にとって、ドイツのアウシュビッツの惨状を写真展で見たとしても、あくまでも遠い異国の出来事でしかないわけで、それと同じことが広島、長崎の惨状にも言えていると思う。

日本以外の諸外国から、広島、長崎の惨状をいくら見ても、彼らからすれば、遠い異国の出来事で、それも戦争中のことであるとするならば、憎むべき敵側のことで、彼らの良心の呵責に責められるなどということはありえないのも当然だと思う。

戦後62年間の我々の悲願というのは世界には全く理解されていないわけで、だからこそ次から次へと核保有国が増えてきているのである。

この現実を直視して我々が考えなければならないことは、原子爆弾の惨状を如何に世界にアピールするかということである。

戦後の約60年間の中でも、そういうことは現実には行われていると思う。

しかし、現実にこう次から次へと核保有国が増えてくるということは、その努力が実っていないということで、今、我々が考えるべきことは、何故過去の我々の努力が実らなかったかを考察することだと思う。

こういうこと、つまり我々の民族としての失敗体験を、深く広く考察するということは、我々日本民族にとって極めて不得意な面ではないかと思う。

あの戦争、日中戦争から対米戦への反省も、いまだに我々は内側の発案では行っていない。

ただただ当時の政府批判、軍部批判、体制批判というのは戦後ある種のブームとして普遍化したが、その行き着く先は、「当時は治安維持法があったからそれができなかった」ということに収斂してしまって、日本全国津々浦々に至るまで見事に軍国主義に立ち至ったのは何故か、という解明には至っておらず、それは歴史への反省とはなっていない。

戦後は治安維持法が無くなったので、誰でも何処でも言いたいことが言える雰囲気にはなった。

だからといって、我々の同胞が戦争中にした行為を、我々自身が糾弾するということは未だにしていないわけで、たまたま占領軍が極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判なるもので彼らの視点から見て、彼らの憎むべき敵としての日本人の戦争指導者を裁いたが、我々の側から我々を奈落の底に落としこんだ同胞を裁くということはしていない。

職業軍人として、作戦に失敗した司令官は、当然それにふさわしい処罰を受けてしかるべきだと思う。

論功褒賞という言葉があるが、功績を挙げたものが報われるのが当然ならば、その反対もあってしかるべきで、我々の戦後処理にはその部分が欠けていると思う。

ここで問題となってくることは、戦時中は日本の全国民がこぞって軍国主義者であったわけで、戦後になって世の中が一気に民主主義に変わったからといって、戦時中の軍国主義者を炙り出すということが事実上不可能であったということだ。

戦時中の軍国主義者を戦後になったからといって糾弾しようとすると、国民全部を裁かねばならないことになってしまうので、否が応でも、うにゃむにゃにせざるを得なかったという事情は理解しなければならない。

あの戦争中の我々の在り方というのは、親兄弟も、学校の先生も、近所のおじさんおばさんも、悪童仲間も、右を見ても左を見ても全部が軍国主義者であったわけで、その中で「私だけは戦争に反対」ということは、思っていても言えなかった時代である。

戦後の進歩的学識経験者といえども戦前・戦中は軍国少年少女であったわけで、戦争中の軍国主義を焙り出すということになれば、親兄弟はもとより、学校の先生から近所の悪童仲間まで全員を告発しなければならなくなってしまうではないか。

問題は、我々の国の国民全部が軍国主義になってしまったということをどういう風に考えるかということだと思う。

 

観念論の空転

 

戦前、戦中の我々の国の大儀は、言うまでもなく「富国強兵」であり、「撃ちてし止まむ」であり、「欲しがりません勝までは」であったわけで、これが当時の国民の理念であった。この理念も20世紀後半、つまり第2次世界大戦が終わるまではある意味で世界的に認知された国家、主権国家の普遍的な理念として立派に通用していた。

何も、我々日本だけが、あたかもギャングのように世界制覇を追い求めていたわけではなく、当時の先進諸国ならば普遍的な国家の理念として通用していたはずである。

我々は対米戦に負けたことによって、それを全否定しているが、ここに民族の本質が如実に顔を出している。

20世紀前半までは、主権国家が自分の国の富国強兵、国益優先、帝国主義的植民地統治というのは普遍的な価値観であって、どの先進国もそういう目的に向かって国家運営をしていたはずある。

ところが我々は対米戦に負けたことによって、それまでは地球規模で見て普遍的であったことが、我々だけ否定されて、「それは悪いことだ!!」という価値観に慣らされてしまった。

戦前の我々の大儀は戦後全否定されてしまったが、いくら大儀が否定されようとも、大儀に盲従するという我々の民族の特質はいくら対米戦の敗北という外圧があろうともびくともしなかった。

戦後の我々の大儀は、いわゆる核に対する極端なアレルギーというもので、核廃絶の悲願というものであるが、これも我々の民族の内側でいくら熱っぽく議論しても、地球規模で見ればなかなか他所の国の人には理解されない。

大儀というものは理念を具現化しているはずで、理念である以上、理想に極めて近いわけだが、理想を追うということは極めてあいまいで、かつ不確定的な行為である。

実現の可能性が少なければ少ないほど立派な理想、理念になるわけで、その実現に向かって突き進む行為というのは、気高さを増すことになる。

そういう立派な理念に向かって具体的な行動をしているグループの中に身を置いてみると、自分の行為がさも立派なことに見え、自分で自分の気高さに陶酔、埋没してしまって、周囲の人間が俗悪なものに映る。

だから自分は正しいことをしているのに、周りの人間はそれに理解を示さないという不満となって、周囲に対してきわめて攻撃的になるのである。

これは戦時中に我々の民族がとった行動、つまり全員が軍国主義者として振舞った行動とまったく軌を一にしているわけで、目前の大儀が正しいと感じると、わき目も振らずに猪突猛進するという場面に如実に現れている。

問題は、目前の大儀が「正しい」と感じ、そう思い込んでしまうところにある。

ある目前の概念を「正しい」と感じるということは、きわめて感情的な行為で、情緒的な思考であって、それは感じてはならず、考察してその善し悪しを自分で判断しなければならなかったはずである。

ところが当時の我々の同胞は、それを「感じ」て「正しい」と思い込んでしまったということだ。

この思い込んでしまうところが極めて情緒的で、思い込む前に科学的思考、合理的思考で自分の頭で考え、情報を分析し、相手の出方を冷静に見極める、という思考作用を省略してしまうから、我々の政治や外交はいつまでたっても3流のままで低迷しているのである。

戦前戦中は、戦争遂行が「正しい」と思い込んでいたわけで、戦後は核廃絶が「正しい」と思い込んで、それに向かってしゃにむに駆け出している図である。

世界的な視野で見て、今、地球上の諸国は核兵器を持ちたいという方向に向かっているが、ここに核不拡大条約(NTP)というものが横たわっている。

広島、長崎の人々がいくら核廃絶を願っていても、世の趨勢としてはそれを持つ方向に進んでいるわけで、それを阻止する狙いが核不拡大条約というものである。

これも実にいい加減なもので、こんな条約の存在そのものが人間の不条理、不合理の典型的な見本である。

アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有はそのまま認めて、その他の国には核保有を認めないというのは、あまりにも得て勝手な条約ではないか。

この5カ国そのものが国連の常任安保理事国そのもので、第2次世界大戦の連合国というのもおかしなことで、こんなものは条約足り得ない代物だと思う。

広島、長崎の悲願は、こういう諸国に如何にして核廃絶の意義を説くかということに尽きると思うが、8月が来るたびに広島でも長崎でも平和宣言がなされる。

戦後約60年間もこれらの行動は継続されているにもかかわらず、一向にその意義が世界的規模で認知されていないように見える。

核兵器の廃絶を世界的に認知させるということは、ある意味で一種の戦争でなければならないと思う。

戦争という言葉は不穏当と思われるかもしれないが、不可能を可能にするにはそれに応じて戦略的手法を考え出さなければならないはずだ。

世界的規模で日本の核廃絶の思いを知らしめるためには、その方法論として戦略的手法を使わなければそれができないという意味で戦争に例えたが、市長が平和宣言を読み上げるだけでは一向にその真意が世界的に認知されない。

広島でも長崎でも平和宣言をするということはある意味で、観念論を展開するということで、広島の悲願、長崎の悲願というのは、その地域の人々にとっては悲願であり、そうなってほしいという理想、理念であろうが、それはあくまでも観念論なわけで、お念仏を唱えている図でしかない。

ところが現実の政治、特にこの地球上の外交、核兵器を持つか持たないかという選択、核不拡散条約に入るかはいらないかという選択、こういったことは観念論で論ずべきことではないわけで、冷徹な現実を比較検討して選択すべき問題である。

戦争の抑止力として自分の国ならばどこまで核の保有が可能か、持てるものか、あるいは持てないのか、という選択は冷徹な現実を直視した政治的判断なわけで、ただただ念仏を唱えていればこの地上から核兵器が消えるというようなものではないはずである。

広島でも長崎でも、その平和宣言というのは、「自分たちは被爆者だから、人類全体の幸福のためには我々の言うこと、被爆者の言う事に耳を傾けよ」というアピールであるが、世界の人たちからすれば、そんなことはどうでもいいことなわけである。

地球的規模で考えれば、日本が戦争を仕掛けたからには、原爆が投下されても致し方ない、それは当然の報いだという認識が普遍的だと思う。

(久間防衛大臣の「しょうがない」発言は、このことを指し示していると思う)

この認識は日本の被爆者の中にも潜在意識としてあるわけで、だからこそそういう人たちは戦後、同胞の政府に対してその意趣返しをしようとしているのである。

自分たちが世界で最初に原子爆弾の洗礼を受けたという事実を逆手にとって、「お前たちは我々の言うことを聞け」と、傲慢な発想に陥っているようにも見える。

(久間防衛大臣に辞任を迫った勢力は、被爆者の大儀を振りかざして傲慢な思考に陥っていると思う。)

被爆者の写真を見せられたり、話を聞かされれば、そのときは同情心から気の毒だなあという気にもなろうが、だからといって自分たちの国力が許せば核兵器を持ちたい、というのも彼らにしてみれば当然の希求だと思う。

被爆者の写真を見せられたり、話を聞かされて、「ならばそんな残酷は兵器は持つことをやめましょう」と簡単にはならないはずで、だからこそ次から次へと核保有国が増えてきているではないか。

核廃絶が広島、長崎の人たちの悲願であったとしても、そのことは日本以外の人々にとっては何の関係もないことで、国力が許せば誰でも彼でも核武装をしたい、というのがそういう人々の本音だろうと思う。

国連の安全保障常任理事国がみな同じように核を保有しているということは、先進国として、広島や長崎の悲劇など核廃絶にとっては何の効果もなく、いくら広島や長崎の人々が大声で叫んだとしても、こういう国々の指導者に核拡散防止の方向に仕向けることは決して出来なかったということに他ならない。

8月6日の広島でも、8月9日の長崎でも、それぞれの市長が平和宣言を述べると、それを国内のメデイアは報ずる。

おそらく海外のメデイアも取材はするであろう。

取材をいくらしても、それをニュースとして配信するかどうかは、その国の人たちの価値観の軽重に左右されるわけで、日本国内であれば国中がそういうニュースに期待をし、今後どう変わるであろうかと注視しているが、海外のメディアからすれば、そんなものに何の価値も見出していないのかもしれない。

昔の古傷をなめあっている図でしかない。

だとすれば、核不拡大条約の矛盾を突く急先鋒は日本が勤めなければならない。

平和宣言を空念仏で終わらせないためには、世界に向けて、戦略的に原爆の悲惨さをPRしなければならないということである。

しかし、我々が原爆の悲惨さ、非人道的な部分を世界に向けて発信したとすると、相手の国の視点に立ってみれば、原爆の被害が大きければ大きいほど兵器としてきわめて有効な武器と映る可能性もあり、逆のとり方を生むことも考えなければならない。

しかし、我々の立場や価値観、理念を世界に向けて発信し、PRすることは我々日本民族の一番苦手なことで、荷が重過ぎると思う。

自分の国の理念や、理想、あるいは指針を世界に向けてPRすることは、外交的には立派な戦略なわけで、これは武器を取っての戦いではないので、我々はこういうことを非常に軽視する傾向がある。

戦前の満州国建国で世界から非難を浴びたときでも、国際連盟の席をけって脱退するなどということは、そのことを如実にあらわしているわけで、自分たちの立場を世界に理解させるという手練手管には我々は実に疎い。

その点、中国は実に狡猾でしたたかである。この部分に歴史の長さを感じざるを得ない。あの戦争の勝敗は、既にこのときに見えていたわけで、それが分かる人が我が方の政治指導者の中にいなかったから、とことん奈落の底まで転がり落ちたということであろう。

今、世界の宗教はキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、等々数え切れないほどあるが、世界を制覇した宗教はないわけで、世界に向けて核拡散防止、核廃絶の機運を発信するとなると、それ以上の努力を重ねなければならないことになる。

とはいうものの、一遍に国際世論をコントロールする必要はないわけで、徐々に核拡散防止に協力してくれる国を仲間に入れればいいわけであるが、そのためには柔軟な外交政策というのも強力な戦略的思考としてありうると思う。

例えば、具体的な外交手腕で日本の平和宣言に同調してくれる国を仲間に引き入れるということも考えられるが、この外交ということが我々は一番苦手であり下手なわけで、その意味からしても、日本の平和宣言というのは、日本という井戸の中の蛙の大合唱の域を出るものではない。

この地球上にある日本という深い井戸の中で、蛙が大合唱しているようなもので、蛙同士は自分たちは崇高なことを言い、考え、唱えて、世界も我々のしていることに大いに共鳴してくれているはずだ、我々のしていることは良い事だから誰でも賛同してくれるはずだ、と勝手に思い込んでいるが、井戸の外ではそんなことは一向に問題にもなっていないわけで、ただただ我々の空回りに終わっている、というのが現状ではないかと思う。

日本の被爆者が悲惨な目にあったということは、それらの国々も分かっているであろうが、それと自らの国の国益、つまり国防、兵器の合理化、技術の開発、あるいは温存に関しては、被爆者とは何のかかわりもないわけで、そんなところに同情論が出る余地もないはずである。

広島、長崎の平和宣言が観念論で、現実の改革、つまり地球規模で原爆の悲惨を認知させることには何の効果ももたらさず、核保有国が次々と出現するという現実の改革にはなんら効果も見られず、自分たちが自分たちの崇高な理念に酔っ払っている感がする。

この観念論に自らが酔うということは、戦前の我々の軍国主義にも通じているわけで、観念論に酔ってしまって周りが見えなくなってしまっている、ということだ。

原爆の話題からは少々外れるが、今回の7月の参議院選挙では自民党が大きく後退して民主党が大きく前進した。

すると民主党の小沢一郎氏は早速「テロ特別措置法の延長を止める」といきまいている。このテロ特別措置法によって海上自衛隊はインド洋上でアメリカの艦艇に燃料の補給をして、アメリカのアフガニスタン戦略を支援しているが、これを小沢一郎が止めてしまうと、当然、アメリカは日本に対して何らかのリバウンドをしてくると思う。

日本が同盟国としてアメリカを支援してきたのであれば、その支援をやめれば、当然、同盟関係にもひびが入るわけで、そのリアクションというのはあって当たり前、むしろないほうが不思議なわけで、この点を小沢一郎氏はどう考えているかということだ。

これはひとえに外交交渉の問題であるが、我々はこういう交渉が実に下手だ。

小沢氏のいう「アメリカは国連決議のない戦争をしているのだから協力する必要はない」というのはまさしく正論であるが、正論が正論として通らない世界が外交交渉の場であるわけで、今までならば野党の犬の遠吠えで済ませて折れるが、民主党が議席を増やしたねじれ現象の中では、この野党的発想がどこまで通じるかが大きな関心ごとだと思う。

ことほど左様に、我々が狭い井戸の中でいくら良い事だと力んだところで、世界的にそれが通用するかどうかはまったく別で、良し悪しの話ではなく、公益にかなっているかどうかが価値基準になっている。

その意味で広島、長崎の平和宣言も、理念という点では、これほど立派な話もないわけで、にもかかわらず、それに同調する諸外国が一つも現れないというのは一体どういうことなのであろう。

つまりそのことをより俗っぽく言えば、理念と現実は明らかに乖離しているということで、世界的規模で広島、長崎の平和宣言を見れば、何の値打ちもないということに他ならない。ただただ日本の唱える空念仏に過ぎないということである。

現実を直視することなく、理念だけが空回りしているわけで、それは日本という井戸の中での事でしかないということである。

 

怨念はどこに行った!

 

それとは別に、私は広島、長崎の平和宣言の前に、被爆者の「怨念」というものが一体どこに行ってしまったのか不思議でならない。

大雑把な数字であるが、広島で14万人、長崎で約8万人の人が殺されたといわれており、この罪もない非戦闘員が一瞬のうちに殺されたというのに、それに対する「恨み」というものが一向に聞こえてこない。

あの惨劇の中でかろうじて生き残った人々の「恨み」、「怨念」、「悔しさ」、「憤り」、「憤怒」そういったものは一体どこに行ってしまったのであろう。

平和宣言の矛先が自分たちの政府に向いているということは一体どういうことなのであろう。

負けるような戦争を始めた我々の政府を恨むというのは、一見合理的で、整合性があるように見えるが、我々は対米戦に負けたわけで、原爆の被害というのはアメリカからこうむったことは歴然たる事実であるにもかかわらず、「恨み」や「怨念」が自分たちの政府に向いているということは一体どう考えたらいいのであろう。

人間の基本的な在り方、自然界のなかの自然人であるとするならば、叩かれたら叩き返す、足を踏まれたら踏み返す、取られたものは取り返す、殴られたら殴り返すというのが自然の生き様ではないかと思う。

ところが戦後の我々にはそういう発想は根本から無いわけで、叩かれても叩かれっぱなし、殴られても殴られっぱなし、取られても取られっぱなし、で戦後62年間も生きてきたわけだが、これは一体どういうことなのであろう。

自然人の自然の生き方であるとするならば、報復は再び報復を招致し、尽きることのない繰り返しになり、その連鎖反応は止まるところを知らないことになり、これでは永遠に殺し合い続けなければならないので、どこかでその糸を断ち切らねばならないことになる。がしかし、そういう思考は非常に物分りの良い、奇麗事の発想で、我々は原始人ではないのだから人間の理性で生き様を考えるべきだ、という思考も非常に説得力を持っているが、別の表現をするとすれば、それは「金玉を抜かれた男」という表現にも通じるわけで、戦後の我々の生き様というのは明らかにこの例示の通りだと思う。

被爆者の語る言葉も、自分がいかに悲惨な目にあったか、ということは大いに語るが、だから若い人たちに「自分たちの受けた恨みを晴らしてくれ、相手にも同じ苦痛を味合わせてくれ、我々の仇きをとってくれ」という言葉はないわけで、これは一体どういうことなのであろう。

あまりにも奇麗事過ぎるではないか。

「自分たちの受けた恨みを晴らしてくれ、相手にも同じ苦痛を味合わせてくれ」という苦渋の言葉の持って行き先がないものだから、それが現行の我々の政府に向かうわけで、防衛大臣の失言の揚げ足取りに終わるわけである。

世界の人たちから原水爆というものを見れば究極の兵器の一語に尽きると思う。

地球上の日本以外の主権国家では、戦争放棄を憲法で定めているわけでもなく、国益が犯されれば、その国の国民たるもの武器を取って祖国防衛にあたるのが常識になっているわけで、そのためには核兵器だろうが有効だと思えば躊躇なく保持するつもりでいる。

そういう人から見れば、日本がいくら人類最初の被爆国だと胸を張ったところで、そんなことに何の価値も見出せず、遠い遠い外国のことで、しかも60年も前のことで、なお当時は連合国に対峙していた敵国のことだから、彼らの視点から見れば、そういう惨状も当然の報いだという認識だと思う。

核兵器というのは、高度な技術を要するわけで、その国の工業レベルがある程度のところでなければ、それを維持管理できないわけで、そうそうめったやたらと誰でも持てるというわけではない。

核兵器を持つということは、核兵器を作る工業水準に達していますよ、ということを暗に示しているわけで、その意味でも大きなメリットがあるわけである。

核兵器の廃絶、核軍縮ということは、現実の問題として、その分を民生に回せば大きなメリットが生まれることはどこの国でも十分に承知しているはずである。

インドやパキスタンなどという国が、乏しいであろう財政支出を裂いてでもそれに固執するというのは、お互いの不信感のなせる業であるが、地球上のあらゆる国が相互に不信感を払拭すれば、それこそ核兵器の拡散などということはありえないのだが、そうならないところに人間の業が潜んでいるのであろう。

あらゆる国が、相互の不信感をきれいさっぱり払拭すれば、核兵器などといわずにあらゆる軍縮が成り立つわけで、その分の金を民生に回せば、人々は枕を高くして眠れるのだが、人類の誕生以来それは実現されていない。

 

我々の核アレルギー

 

核兵器の対極にあるのが原子力発電、いわゆる原発であるが、これも日本では人気がない。ある種の原子アレルギー反応であって、大の大人が100%の完全なる安全を希求して、子供のような議論を展開している。

事故が起きれば大変なことは言うまでもないが、日本の立派な学者が「100%完全なる安全が保証されなければ作ってはならない」などと子供の口げんかのようなことを声高に言い合っている。

原発が安全でなければならないことは言うまでもないことであるが、100%の完全なる安全ということを言い出す大人の感覚というのは、一体どういうことなのであろう。

人間の作るものでこういうものはありえないと思う。

原発の事故はあってはならないことではあるが、こういう子供じみた発想で100%の安全を持ち出すと言うことは、その発想自体が子供のレベルだと思う。

誰も事故をする気で発生させているわけではない。

事故のないように細心の注意を払っていても、起きるときには起きてしまうもので、人間がこういうモンスターを管理している以上、どこかに人為的なミスが入り込んでしまうものである。

しかし我々の周りで起きたさまざまな事故の場合、細心の注意を払っているつもりでいながら、そのことがマンネリになって、細心であるべき注意力が散漫になっていたということはありうる。

相手はある意味で巨大なモンスターである。

いつパンドラの蓋が開いて、その中に閉じ込められていた化け物が飛び出してくるか分からない代物である。

ある意味で危険と隣り合わせの存在ということは言えているが、資源の乏しい我々の祖国は、大なり小なり原子力発電に頼らざるを得ないと思う。

原発を批判する人はきわめて無責任だと思う。

「原発は危険だから作るな」という言い分は分からないでもないが、ならば代替のエネルギー源はどう工面したらいいのだ、ということには無関心で、それは政府の責任だということになる。

反対のための反対、あるいは補償金を吊り上げるための反対でしかないわけで、こういう反対運動というのはきわめて無責任だと思う。

しかし、平成19年の中越沖地震における東京電力柏崎原発の破損事故というのは肝を冷やしたものだ。

日本は地震王国だから「原発を作るな」と言うことは、いうまでもなくきわめて無責任な発言であるが、柏崎原発でもある程度の地震対策は講じてあったに違いなかろうが、それでもあれだけのダメージを受けたというべきか、あれだけのダメージで助かったというべきか、結論はまだ出ていない。

その事故に関連してIAEAが調査に入り、その結論が近々の内に出るであろうが、原発が直接地震の被害にあうというのも日本ならではのことであろう。

原子力発電というのは、その発想の原点には資源を節約できるというものであったはずである。

資源の節約の部分が石炭であったり石油であったりするわけで、そういう地下資源をほとんど産出しないわが国にとっては、もっとも有効なエネルギーとして認知されてしかるべきものであったはずである。

ところが日本では進歩的と称する知識人の階層が、こういう大企業や政府の推し進めようとするビッグ・プロジェクトにはことごとく反対するわけで、原子力発電というのもその渦中に巻き込まれている。

その反対の理由というのが、「危険だから」とか、「安全性が不備だから」とかいう理由であるが、新しいものに挑戦しようというときには当然何らかのリスクは生じるわけで、それを恐れていては前に進めない。

挑戦の目標が、危険性の除去であり、安全性の確保であるわけで、その研究をしてはならない、という学識経験者と称する人たちの発想というのは一体どうなっているのであろう。

それにはマスメデイアが無責任に誇張して報道する部分もある。

たとえば放射能漏れがあったとすると、人体に何の影響のないレベルでも、放射能が漏れたという事実を執拗に煽り立てるわけで、そのことが原発に対する嫌悪感を国民に植え付けている。

以前、政府が原子力船「むつ」を作って、さまざまな実験をしたが、この原子力船は軍用でもなんでもないが、原子力の実験というだけで日本各地で寄航反対の運動が持ち上がった。

こんな馬鹿な話もないと思う。

原子力船「むつ」の建造は、原子力が船の動力としていかなる可能性があるかという研究目的であったにもかかわらず、そういう研究すらもしてはならないという世論の雰囲気であった。

そのときすでにアメリカでは原子力潜水艦も原子力空母も現存していたが、日本の左翼系の進歩的と称せられる人々は、原子力をそういう形で利用することを危惧しての行動であったのかもしれない。

ところが、化石燃料がこれだけ高騰し、資源そのものが枯渇してくるという段階でも、原子力の平和利用ということにかたくなに抵抗し続けている。

これも我々の民族の偏狭な思考だと思う。

将来の展望に全く希望の持てない、近眼視的な思考そのものだと思う。

なぜ戦後の日本人が、原子力船「むつ」の寄航さえ拒否するという極端な行動に出たのであろう。

原子力船「むつ」そのものが放射能に汚染されて、人間にとって危険なものであるとするならば、まず最初にその乗組員が被災しなければならないわけで、そういう理屈が分かっていながら、それでもなお危険だと騒ぎまくるのである。

確かに、人間の作ったものを人間が管理運営している以上、100%完全に安全などということはありえない話であるが、そういう屁理屈でもって原子力船「むつ」の開発および研究に反対し続けたのが日本の進歩的と称する学者グループである。

新しい技術を開発するには、勇気ある挑戦が必要なことはいうまでもないことで、戦後の日本も、そういうテクノロジーの分野に果敢に挑戦しようとしたけれども、原子力に関してはそれが原子力ということだけで、そのことごとくが芽を抓まれてしまっている。

確かに、新しい技術には危険がいっぱいで、こと原子力に関すれば、放射能漏れという事故のおきる可能性も皆無とはいえないのも理の当然である。

しかし、それを恐れていては前に進めないわけで、人の命の尊さというのは言われなくとも分かっているが、そういう事故の無いように皆が細心の注意を払いながら力をあわせて前に進むことが新しい技術革新のためには必要だと思う。

ところがことが原子力のこととなると、日本の進歩的学者といわれる人たちが、100%の完全なる安全を盾に、新しい技術に対する挑戦ということに反対を唱える。

人の意見は、当然、人の数だけあるであろうが、そういう意見を全部聞いていてはことは決して前に進まないわけで、そこで民主的な政治手法として多数決という採決の手法があるのでそれに則ろうとすると、少数意見を踏みにじるという言い分になってしまう。

こういう場で発言する進歩的と称する学識経験者の言い分によると、少数意見をも尊重せよという言い草になる。

ところが、この言い草は民主主義というものを頭から否定していることに彼らは気がついていない。

開発するしないと意見が分かれたときに、多数決では開発賛成となった場合、少数意見を尊重したら一体どういうことになるのであろう。

ことは決して採決されないことになり、その案件は宙に浮いたままで、一向に前に進まないではないか。

原子力にかかわることだと何でもかんでも反対しておきながら、化石燃料の高騰の問題が提起されると、それは政府が解決すべきことで我々はあづかり知らない、政府が悪いから石油が高騰するのだ、というきわめて無責任な回答しか戻ってこない。

 

新しい挑戦に尻込みをする人

 

新しい技術に挑戦するということは、必ずリスクを伴うわけで、そのリスクが人命にかかわることも往々にしてありうるであろうが、今日、人が不慮の死を遂げる数が年間3万にも達していることから考えれば、それがたまたま新技術開発中におきたとしても、それは名誉の戦死と受け止めるべきだと思う。

人の命を軽んずるつもりはないが、不慮の死、あるいは想定外の事故で犠牲者が出るからといって、開発そのものを全否定してはならないと思う。

我々が人類最初の被爆国であったとしても、それと原子力平和利用の犠牲者と混同してはならないはずである。

基本的には日本には石油も石炭も出ない国だから、資源の確保、あるいはエネルギーの温存という意味からも、原子力エネルギーの開発は進めなければならないはずである。

原発の建設に反対する勢力というのは、放射能漏れというような具体的な事故を想定して反対運動を展開しているが、その根っ子のところには、そういう具体的なことよりも、反政府、反体制という政治色、イデオロギーによって反対している節が見受けられる。

原発が日本で普及し、絶対数が多くなって、それぞれに稼動する数が増えてくると、当然毎日の仕事がルーチン化する。

つまり、毎日、毎日、同じ作業、同じ手順の繰り返しということが重なると人間はどうしても慣れということに陥ってしまう。

この作業の次はこの手順だということが、体が認知してしまって、そこに慣れが生じ、その都度その都度マニュアルと見比べるということを省略しがちである。

慣れないうちは作業のたびごとにいちいちマニュアルと照らし合わせて確認しながら進めるが、これが慣れてくると、もう判ったものとして体のほうが先に順応してしまいがちである。

するとそこにミスが生じ、そのミスが次から次へとミスを誘発し、最終的には大事故となってしまう。

これは普通の社会、普通の一般の工場でも常にあることで、普通の一般工場でも安全衛生という観点から、安全管理には細心の注意を喚起している。

これは、人間の行う行為である以上、如何なる業界、業種にも普遍的に存在する危機である。

企業経営者は、そういうミスを如何に撲滅するか日夜苦慮しているが、人間の行う行為である以上、それを皆無にすることははなはだ難しい。

原子力関係の施設の中でも、当然、そういう措置はとられているが、ここでも人間が関与して運営がなされている以上、人為的ミスを絶無にすることははなはだ難しいと思う。

旧ソビエットのチェルノブイリ原発事故も、アメリカのスリーマイル原発の事故も、その原因の根本のところには、人間の行う人為的なミスであったと思う。

これらの事故で、世界的に原子力発電に対する批判が高まり、それとあわせて環境問題とも絡んで、原発批判が高まったが、批判する側はきわめて無責任だと思う。

事故後の当局側の対応も決して良いとは言えず、そういった問題が重なって、原発そのものが批判にさらされたが、化石燃料を今までと同じように消費し続けるということは、なお更大きな問題だと思う。

21世紀の地球では、それこそ世界的規模でエネルギーの節約に奔走しなければならないと思う。

化石燃料が枯渇してくれば、今度はそれそのものが戦略物資となり、金さえ出せば手に入るという段階では済まないようになると思う。

原子力の利用ということは、人類が20世紀後半に入って初めて手をつけた科学分野であるが、その少し前に人類が手がけたものに飛行機がある。

飛行機の歴史はわずか100年足らずであるが、飛行機が今日の状態にまで発展する間にも、大勢の犠牲者が出ており、新しい物に果敢に挑戦して命を落とした先駆者たちが数知れずいたわけで、そういう先駆者の犠牲を踏み越えて、我々は今航空機の発達というものを享受できているのである。

飛行機の歴史に比べれば、原子力利用の歴史は、その出発点が約半世紀遅れていると思う。今、世界の空を飛び回っている旅客機の大きさを半世紀前の人々が想像できたであろうか。飛行機がこういう状況にいたるまでには、大勢のテスト・パイロットたちの犠牲があり、その犠牲を乗り越えることで、技術革新が達成されて、不可能が可能になったわけである。それが新しいテクノロジーの発展ということになるわけで、その意味で原子力の利用というのもまだまだ緒についたばかりの状態だと思う。

にもかかわらず、戦後の日本の進歩的と称する学識経験者たちは、こういう新しい挑戦に反対する傾向が強いのは一体どういうわけなのであろう。

我々、日本民族というのは上からの強制がないと自らの力で新しい物に挑戦することができないのであろうか。

対米戦を始める前の我々の先輩諸氏は、兵器としての戦艦、空母、戦闘機というものを開発したが、これは当時の世界では欧米先進国を優に凌駕する代物であった。

それを成しえた背景には、軍部の大きな指導力というか、強制力というか、締め付けというか、それは同時に国民の犠牲を伴うものであったことは論を待たないが、それでも結果として世界に伍するものを作った実績は認めざるを得ない。

戦後は、そういう社会体制が根本的に変化してしまったので、国民の犠牲を伴う国家プロジェクトというのは全否定されるようになってしまった。

戦後の民主化の中では、上から強権力でもって事をなすということが極力遺棄されるようになったし、誰でも彼でも意見を言うことが許されるようになると、反対のための反対、整合性のない議論、詭弁、諫言と称する言い回し、揚げ足取りにいたるまであらゆる言葉が飛び交って、ことの本質を覆い隠してしまった。

原発のようなプロジェクトを推し進めようとすると、まず政府や大企業のすることに対する拒否反応として、建設反対運動を扇動し、その反対運動の口実として100%の安全を要求したり、補償金の積み増しを要求したりするわけだが、反対運動をしている学識経験者にしてみれば、それが出来ようが出来まいが一向に構わないわけで、結果的にはどちらでもいいわけである。

どうせ自分たちは原発が出来るような僻地に住むわけではなく、反対運動の期間だけの住民で、それがおさまればまた都会に戻って新たな闘争に出けるのだから、結果的には出来ようが出来まいが関係ないわけである。

ただただ反政府、反体制ということが国民レベルで宣伝になればそれで彼らは満足するわけである。

しかし、地球規模でみて21世紀以降の地球というものを考えた場合、エネルギーに関しては、従来のように化石燃料に頼るということは、当然、成り立たないようになることは火を見るより明らかだと思う。

 

見境なく善を施す愚

 

環境問題も大事なことではあるが、地球の環境に変化をもたらさない人間の生き方というのは基本的にはありえないと思う。

地球の環境をこのままの状態にしておきたいということであれば、人類というのがこの地球上から消滅しないことにはありえないと思う。

原始地球が誕生して、そこに原始人類というのが誕生し、その原始人は火の効用ということに着目して火を利用することを習得した。

地球上の環境破壊はもうこのときから始まっていると思う。

地球上で人間が生きるということは、地球環境を壊しながら生きているわけで、今、環境問題を論ずるということは、その破壊のスピードをコントロールするということであり、破壊を止めるというわけではない。

化石燃料を今まで通り使い続けるということは、破壊のスピードを下げることなく今までどおりのスピードで走り続けるということに他ならない。

20世紀においては、この地球上に群れを成して生き続けた人々の間に、先進的な人々と、そうでない人々とに大雑把に別れていた。

21世紀になったら、いままで先進的でなかった人々も、大挙して先進的な生活を目指すようになって来た。

昔は文化生活という言葉があって、先進的な生き方をしていた人々を総称していたが、今は、すべての人がこの文化生活をするようになって来た。

先進的な文化生活というのは、いわゆるエネルギー多消費生活というわけで、エネルギーの消費は今後ますます増えるようになるはずである。

だとすると、今までどおり化石燃料に頼るわけには行かなくなるのは当然で、代替エネルギーを探し出さなければならない。

その最有力候補が原子力発電であるが、それを進歩的と称する学識経験者たちが拒否する状態では、我々の先行きは真っ暗だといわなければならない。

地球的規模で見て、従来、低開発国といわれていた地域の人々が、新たな文化生活にあこがれ、エネルギー多消費生活を望むようになるのを拒むわけにはいかないので、そういう人たちにこそ、原子力発電を奨励して、従来型の化石燃料からの脱皮を説くことが地球全体にとっては極めて有効ではないかと思う。

しかし、それをすると発電だけで終わっていればいいが、その技術を軍事的に流用されることが今の先進諸国にとっては極めて恐ろしいわけで、そこに北朝鮮の問題も絡んできている。

北朝鮮の問題は、我々の立場からすれば明らかに内政干渉に当たるが、北朝鮮が日本の国内から同胞を拉致したという実績がある以上、個別の問題は決して先に進むことはないであろう。

これはまことに不幸なことで、隣国同士でありながら不信感の固まりとなっているわけで、北朝鮮の意図というものが全く理解不可能である。

6カ国協議における北朝鮮の対応の仕方を見ても、我々には理解しかねることばかりをしている。

北朝鮮の国内で食料が枯渇し、燃料が枯渇し、人々は飢えに苦しんでいれば、さっさと6者協議の場で条件を飲めば、ことは解決するにもかかわらず、ただいたずらに解決を先延ばししているわけで、その真意はまったく探りきれない。

基本的にこういう国ほど原子力発電は有効に機能すると思う。

ところが安易に原子力発電を提供すれば、それを悪用することは目に見えているわけで、こういう国家首脳の発想はいったいどこから来るのであろう。

他人を一切信用しない。平気で約束を反故にする、約束を自分にとって都合のいい風にしか理解しない、のらりくらりと生返事をする、等々の行為はまったく国際常識、国際感覚に欠けているわけだが、だからといって我々の側に有効な手立てがあるわけではない。

原子力発電というのは、こういう北朝鮮のような国にとってこそきわめて有効なエネルギー確保の方策になるはずであるが、安易にそれをすると、それが悪用されることも危惧しなければならないわけで、こういう不信感の内在した国家が我々の隣にあるというのもまことに困ったことだ。

東西冷戦が終結して、旧ソビエット、つまり現在のロシアでは原子力潜水艦の解体について日本の協力を要請してきたことがあった。

私のかすかな記憶では日本政府はそれに応じたと思うが、この件も日本はずいぶんと相手に馬鹿にされた話だと思う。

そのときの政府の言い分は、「原子力潜水艦の放射能が日本海上に流出するといけないから」というものであったが、このとき日本の進歩的知識人や学者グループは何一つ抗議行動を起こさなかったが、相手がこういう左翼系の文化人らが桃源郷と思い込んでいた共産主義国であったからであろうか。

また2,3日前、ロシア領のカムチャッカ半島でかなり大きな地震があって、現地では多少被害が出たようで、これにも被災者を支援する船が日本から出ているが、こういうことでは日本はまったく見事に外交下手を呈していると思う。

人が良いというか、馬鹿に近いお人よしとでも言わなければならないほど阿呆だと思う。自分たちが相手からされたことを見事に忘れているわけで、それでいて人道的だとか、倫理的にだとか、奇麗事をいいながら自分の阿呆さを誤魔化している。

人に善を施せば相手も喜び、自分も良い事をした気分になり、相手は感謝してくれるであろうが、自分たちのされたことをきれいさっぱり忘れて善を施すというのは、馬鹿としか言いようがない。

それに我々の国税が使われたともなれば、善を施す当人は気分がいいであろうが、私は黙ってはおれない。

広島の平和祈念堂に刻まれている言葉も、「過ちは二度と繰り返しません」となっているが、これでは自分たちが被害者であることを否定しているような文言ではないか。

「過ちは二度と繰り返させません」ならば、被爆者の意思が強烈に加害者の側に伝わるが、被害者の側が「繰り返しません」とは一体どういうことなのであろう。

戦後62年間も、我々の同胞の中で、広島のこの碑文に疑問を抱いた人がいなかったのであろうか。

原爆の被災者、沖縄戦の被災者、その他内地で空襲に会った被災者の語る言葉を聴いてみると、相手を恨むという感情がまったくないというのは一体どういうことなのであろう。原爆にしろ、沖縄戦にしろ、空襲にしろ、我々はアメリカからされたわけで、ソ連での抑留ということは、加害者がソ連であったわけで、我々が恨むべき敵はアメリカであり、ソビエットでなければならないのに、何故そうなっていないのであろう。

 

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