070706001

「提言・日本の新戦略」その8

 

人間の級数的な増加

 

例によって、5月3日、憲法記念日の朝日新聞、社説21「提言・日本の新戦略」の論説から文章を書き起こしているが、興味にある順に書いてきたので、順序が逆転してしまった。

この論説集の第2項目が「気候の安全保障」となっていた。

その言わんとするところは、今話題になっている地球の温暖化に関わる問題を俎上に載せているが、朝日新聞というのは「安全保障」という言葉がよほど好きらしい。

先にも述べた「人間の安全保障」といってみたり、今回のように「気候の安全保障」といってみたり、「食料の安全保障」というように、何でもやたらと「安全保障」という言葉で片付けようとしている。

これは言い方を変えればボキャブラリーが不足しているという端的な例だと思う。

「気候の安全保障」などとは完全に意味不明の言葉ではないか。

何故もっと素直に「地球の温暖化防止」とストレートに言わないのであろう。

言葉の揚げ足取りはともかくとして、地球全体から見ればますます温暖化の方向に向かっていることは恐らく真実であろう。

テレビで放映されている映像を垣間見ると、極地の氷河は減少し、南洋の海面水位が上がっていることも事実であろう。

東京を始めとする都市のヒートアイランドも、現実の問題として我々の身の周りに転がっているありふれた光景なわけで、地球が人類の歴史上かってないほど温暖化していることは事実であろうと思う。

ところが、これを人間の英知で止めようという発想はあまりにも人間の奢った考え方だと思う。

地球の歴史が46億年前、人類の歴史が400万年前に始まったと言われている。

この間の比率というのは125:1というわけで、全宇宙規模で見れば、人間の過去の歴史というのは一瞬の瞬き程度のものでしかない。

地球上に人類というものが出現して今日に至る時間の125倍の時間を地球は経験しているわけで、それを今生きている人間が何とかコントロールしようと言うことは、神をも冒涜する行為だと思う。

地球に大きな隕石が落ちれば、それだけで地球は寒冷化するわけで、全地球上の生き物は絶滅の危機に瀕するのである。

地球の過去の歴史はそれを如実に物語っているではないか。

我々の生きてきた時代というのも、日本民族の神話から勘定しても2667年あまり、西洋歴でいっても2007年でしかない(厳密にいえばその倍ぐらいは遡る)わけで、我々は人類誕生以前の資産、いわゆる化石燃料によって今生活をエンジョイしているわけである。

この化石燃料というのは過去においてこの地球上に跋扈していた生物が地球の変動によって死滅したその遺産であって、地球の歴史は過去の生物を何度も死滅させて来たはずである。

人間というものがこの地球上に誕生する以前から、地球はなんどもなんも転変地変を繰り返してきたわけで、そのたび事に新しい生命体が生まれ、そして死滅していったものと想像する。

今、我々が享受している生活の安逸さというものは、我々、人類が誕生するずっと以前に、この地球上に生息していた生物によってなされているわけで、その結果として地球上に炭酸ガスが放出されて我々の生命が危うくなりかけているので大騒ぎをしているということである。

人間というのはまことに身勝手なもので、過去に絶滅した生物の遺骸を自分の都合によって欲しいままに利用しておきながら、自分が死滅する段階になると、何とかそれから免れようと考えているわけである。

これは自然に対してあまりにも奢った考え方であって、この地球上に生息する全てのものは、何時かは消滅するという自然の原理を冒涜するものだと思う。

そうは言いながらも、今、生きている人間は何とか少しでも長く生き延びたい、というのも人間の持つ本来的な願望であることも確かである。

その根元的な人間の欲求に対して、この論説はある種の提案をしているわけである。

しかし、所詮は、人間が考えることであって、「良い格好シイ!」の部分が見え隠れしている。

我々、人類というのは群れを作って、その群れが社会というものを構成し、それぞれの民族でそれぞれの社会を作り上げて、この狭い地球上でひしめきあって生きている。

それぞれの社会は、それぞれに団結している関係上、その中では当然のこと、その社会にとって有利か不利かという計算が作用する。

この有利か不利かという価値基準は、「正」か「悪」か、「正義」か「邪悪」という人間のモラルを超越しており、「生」か「死」の選択でしかないはずである。

その群れないしはその社会、ひいては国家の存続、あるいはそれに属する人々の普遍的な願望に対しての損得勘定であって、これがあるが故に人間同士の諍いが絶えないのである。

これは人間というものが生きていく上で当然の自然な行為であって、自然の摂理といわれるものである。

例えば、個人レベルで考えれば、普通の人間ならば家族愛が最も優先するわけで、家族のために仕事をし、家族のために戦い、家族を一番安全なところに避難させようと考える。

これは人として当然のことで、その家族の次に自分の属する社会になり、ひいてはそれが国家という枠組みに収斂されてくるわけである。

人類は誕生以来、こういうシステムの中で、生きるという自然の生業の中で数多くの戦争、つまり殺し合いを行ってきたわけで、その間、我々、人類の数というのは、あまり急激な増加というのはなかった。

ところが近世以降になると人々は戦うことのむなしさを悟り、平和思考になり、人間同志の殺し合い遺棄するようになった。

その上、科学技術の進化により、本来病気で死ぬべき人が死なずに長生きするようになった。

そうなると今度は人間の数が級数的に増加してしまったわけで、それが化石燃料の消費にもそのまま直結していたので、この世に輩出される炭酸ガスというのが無視できないようになってきた。

この地球の温暖化を何とかしなければならないという思考は人間の奢りだと思うし、自然に刃向かう行為だとも思う。

自然に刃向かって、それが克服できれば、それこそ目出度い話で終わるが、自然の力を侮ってはならないと思う。

この問題は、地球上の資源が一部の地域に偏在していることからくる各国のエゴイズムの具現化でもある。

石油を産出する国では、日本のような消費国では考えられないような社会が出来上がっているわけで、石油の偏在、富の偏在、人材の偏在というのは、この地球上で人類の抱え込んだ神からの啓示だと思う。

近世以前の人類は、それを解決するのに単純に力による抑圧でそれを解決していたが、21世紀の人類は、そういう単純な力の行使ということが出来なくなったので、どうしても言葉による相互理解という手段でなければそれが達成しきれない。

この相互理解ということはお互いに善意というものの存在をアテにしての交渉なわけで、双方に全く善意というものが存在していないことには解決には至らないのである。

交渉しなければならない状況自体が、すでに我の張り合いなわけで、そこで合意を探るということは、妥協点を見つけ出すということである。

妥協点というからには、自分の我を少し引っ込めることで、相手にも、先方の我も少し引っ込めてもらうということであり、そのためには双方に多少とも善意というものがないことにはそれが成立しない。

今日本人が直面している北朝鮮の日本人拉致の問題を見ても、我々の側は妥協に妥協を重ねているが、先方は一向に善意を示していないではないか。

これでは合意が成り立たないのも当然であるが、それを無理にでも解決しようとすれば実力行使しか解決の道はない。

ところが我々はそれを回避しているので問題の解決は先延ばしされたままになっているわけである。

このように、人間の諍いというのはこの世に人間がいる限り無限に続くわけだが、21世紀の人間は、そういうことはむなしい行為で、悲しい結果を招くし、悲惨な状況を呈するから、もう止めましょうという気持ちになっている。

その結果として、人間の数は級数的な勢いで増加している。

 

表層に流れる愚

 

その延長線上に炭酸ガスの放出量も級数的に増えている。

それぞれに、石油の埋蔵量の豊かな国、経済力の強い国、外交に秀でた国等々が一堂に会して話し合うとなれば、それは当然のこと、それぞれに国益の衝突の場となるわけで、そこでは手練手管が飛び交うのも自然の成り行きである。

問題は、こういう状況下で日本人としての立ち居振る舞いである。

我々は、日本列島に誕生以来、太平洋の彼方の小さな島国の住人として、大陸に住む人々との接触の経験が乏しい。

その結果として、その経験の乏しさが身に染みついてしまって、島国、いわゆる閉鎖的な思考、周囲の地理的条件からくる独特の価値観から脱しきれていない。

つまり、周囲の人々の顔色を伺って、それに同調してしまいがちなのである。

我の張り合いの場で、率先して妥協に妥協を重ね、先方のご機嫌を伺う卑屈な態度でしか生きれないということである。

我々の歴史の中で唯一自主的発言をしたのが国際連盟脱退をした松岡洋右だと思うが、それが結局のところの日本を奈落の底に転がり落としたわけで、我々は国際会議の場では自分の身の振り方が如何にも稚拙である。

このぎこちなさというのは、我々の民族の真面目さから来ていると思う。

この真面目さの上に人道的な慈愛の心が根付いて、今日のグローバル化した情報の中で、地球規模の普遍的な行為が自分達の価値観とずれているにもかかわらず、自分達の価値観で物事を見るので、日本の常識が世界の非常識になってしまっている。

何時もいつも、相手のことをおもんばかって、「相手は自分のことをどう思っているのであろう」ということが気掛かりになるものだから、自分の本音を控えてしまうわけである。

そして、「これは良いことだ!」と思い込むと、真っ正直にそれに突き進むので、周囲の景色が眼中に入らなく、猪突猛進になってしまうのである。

これも我々の真面目さのなせる技であって、複眼的な思考にならないので、相手から見ると独善に見えるのである。

そのことは相手のことを知らなすぎるという面もあろうかと思う。

要するに、情報を自分の価値観で忖度するということであるが、それは相手の表層面のみを見て、その深層に注意を払わない、ということだろうと考える。

例えば、あの第2次世界大戦、日本流でいえば大東亜戦争、アメリカ式にいえば太平洋戦争の時でも、アメリカは日米開戦のずっと前から対日戦を研究していたのに対し、我々はあくまでも戦争回避の方策を開戦間際まで探っており、結果的に泥縄式に戦争に引き込まれた事実からも歴然とわかるではないか。

北朝鮮の日本人拉致の問題でも、最初7人を返したらその後続々と返してもらえると思い込んでいたわけで、それがある種の見せ金であって、向こうは得るものを得たら最後、あとはテコでも動かないわけで、そこまで深読みしきれないところが我々の浅はかな点ではなかろうか。

そして、その結果として我々は敗北をきしたが、その後60年経っても我々はそういう政治外交の傾向と対策を研究すること自体を封印してしまって、自分達の体験した歴史からなにも学ぼうとしていないではないか。

「戦争は悲惨な結果を招くから絶対にしてはならない」というのは人類が歴史から学んだ公理であって、だからこそ感情論の根底を成していることは今更言うまでもない。

それでも、それをお題目のように唱えていれば、平和でおれる、平和が維持できるという思考は、明らかに馬鹿の一つ覚えの範疇で、平和を維持したいのならば、その対局にある戦争に対して、深く広く考察して、人が諍う深層心理までを掘り下げて考えなければならない。

イラク戦争で、アメリカが国連決議を無視してまでイラクに攻め込んだのは何故か、というその奥深く隠されている深層の部分まで掘り下げて考えなければならない。

アメリカが国連決議を無視してまで攻め込んだのはケシカラン、というのは誰でも言えることで、そんな表層的なことを日本の知識人と称される人々がいくら声高に叫んでも何の意味もないではないか。

この何の意味もないことが、さも大事そうな論調で語られる陳腐さというのを誰も指摘しないところに、我々の思考の浅さがある。

「アメリカはケシカランことをしている」と言うことは誰でも何処でも安易に出来る。

これは分かり切った事実であるが、ならば誰がアメリカのそのケシカラン行動を止めさせうるのか?誰がテロの温床を根絶やしできるのか?という問いに答えがあり得るのであろうか。

アメリカにケシカラン行動を止めさせるには、新たにアメリカと戦争しなければならないではないか。

こんな表層的な解りきったことを日本のメデイアや、知識人や、大学教授や、評論家と称する人々が大声で叫ぶ陳腐さに誰一人気がついていない点こそ問題である。

あの戦争中に、B−29が日本の都市を焼け野原にしているときに、本土決戦を唱え、竹槍でアメリカに対峙しようとした陳腐さと全くおなじ構図ではないか。

ケシカランことをするアメリカを、誰がどう説得するのかという段になると、日本のメデイアも、日本の知識人、評論家も、誰一人答えを出し切れないではないか。

「アメリカはケシカラン」、と言うだけならば誰でも出来るわけで、ならばどうすればいいのか、ということには誰一人答えられない。

だとすれば、知識人とか評論家というのは、自分の発言を封印して、その方策を考えるべきではないのか。

誰でもが解りきっていることを、さも大事そうに声高に叫ぶという行為は、ものの本質を知らずに、またそれを解ろうともせず、ただただ表層的な風潮に便乗しているだけの無責任な行為に他ならない。

我々レベルの、下衆なアマチュアレベルの評論家ならばともかくとして、少なくとも高等教育を受けた人の知的な行為とはとても言えない。

こういう我々の民族性というのは国際会議では非常に不利に作用するわけで、我々は、こういう場面で国益を延ばし、自分の国を有利な立場に導くことがまことに不慣れだと思う。

 

食物連鎖と自然淘汰

 

我々は、戦後、2度の石油危機を乗り越えることで、省エネ技術では世界に冠たるものを持っているに違いなかろうが、この論説では地球全体のために、そういうものを低開発国にも分け与えよ、と言うような独りよがりな発想を展開している。

こういう綺麗事の思考が湧き出てくる根底には、自分が、そういう石油危機の時においても傍観者であり、省エネ技術の開発にも傍観者であったことへの、極めて無責任な態度が根底にあるからだと推察せざるを得ない。

それと同時に、先に述べた独善が垣間見れているのであって、相手に善を施せば相手はきっとこちらの思いに答えてくれるだろう、という思い込みがその深層心理の中にある。

既にここに相手を知らない、相手について無知に等しい思考が横たわっているわけで、それこそ我々日本民族の思い上がりそのものである。

省エネ技術というのは、石油危機の中で、日本の産業界が生き残りを賭けて、死に物狂いに模索した結果であって、それを地球温暖化の方策として無償で世界中にばらまくことは、理念としては立派であろうが、それこそ第3者的な傍観者としての綺麗事の羅列であって、そう安易に実行させてはならないはずのものだ。

省エネ技術というのは、石油資源のない我が国が、輸入される石油を徹底的に有効利用、つまり最低の量で最高のエネルギー確保をねらった技術なわけで、今のような世の中、つまり産油国が石油を戦略物質と捉える中で、日本がそれに対抗する立派な武器になるわけで、それを気前よく解放するなどということはあってはならないことである。

産油国が石油を戦略物資と考えているのならば、我々消費国は、省エネ技術を戦略的に有効に使ってこそ、我々の苦労が実るというものである。

石油の高騰というのはある程度は産油国の作戦であろうが、相手が石油の値段を上げるとなれば、石油消費国としては省エネ技術でしか対抗手段がないわけで、省エネ技術そのものが戦略的価値を持つということになる。

それをむやみやたらと地球温暖化防止のためと称して、慈悲でもって振りまくわけにはいかないのが当然である。

当然、そういう技術は、パテントで防衛して、後発のものからはパテント料を取るのが当然であり、それでこそ国益に貢献するということになる。

この論文では、「気候の安全保障」と称して、地球の温度が2度上がるだの下がるだのとミクロの議論に終始しているが、地球も何時かは消滅し、その前に人類も何時かは消滅するという価値観を持つべきだと思う。

過去の人々は、学術的な研究がそこまで至っていなかったから、地球は不滅のものだという思い込みも致し方ないが、地球も有限のものだと解ってしまえば、そうそう慌てることはない。

人間の文明というものも、サイン・コサイン・カーブのように興隆期があり、それが頂点を過ぎれば、あとは下降期になり、最後はゼロ以下になるのであるから、今の我々の存在もその軌跡を歩むと思えば、気温が2度上がった下がったと大騒ぎすることもない。

昔、我々と同じように、この地球上に住んでいた恐竜が絶滅したことを考えれば、我々も何時かは絶滅する運命にあると思わなければならない。

人類だけが、この先も未来永劫、子孫を増やし続けることはあり得ないと思うのが当然である。

人間以外の生き物は適正な繁殖限界というものを持っている。

それは自然界の食物連鎖で巧妙にバランスが取られているが、人間だけはそういう自然界の摂理に抵抗して、増殖し続けている。

だとするならば、当然、そのバランスが崩れるときが来るのも神の思し召しで、何時の日かこの地球は人で溢れかえってしまうに違いない。

人間以外の生き物にとって、死は自然そのものであるが、人間だけがそれを忌み嫌って、少しでもその自然の死に抵抗して、それを先延ばししようとつとめてきた。

それが戦争の忌避であり、医療の発達であり、生命科学の進歩であるが、そんなものは大宇宙の超自然には太刀打ちできないのではないかと思う。

いくら京都議定書で世界の国々が炭酸ガスの排出量を押さえ込もうとしても、その程度のことで大自然の動きをコントロールしきれるものではないと思う。

炭酸ガスの排出量をコントロールするということは、人間の従来の営みを根底から問い直すということで、言い換えれば「他の生き方を考えよ」というに等しいことで、あまりにもおこがましい発想だと思う。

太古の人間は、森の中の木ぎれを集めてそれでたき火をし、その火で調理していたが、今の我々は電子レンジでチンして調理をするので、その間に炭酸ガスの存在など考えもしないが、我々の生活の中から「炭酸ガスを出すな」、ということになれば、我々は太古の生活に逆戻りしなければならない。

仮に逆戻りに成功しても、人間の絶対数というのは太古とは比べものにならないくらい増えていることから考えて、炭酸ガスの放出量も太古に戻るということはあり得ない。

先進国は、過去に好きなだけ石炭や石油を使い放題に使っておいて、21世紀になったならば、開発途上国に対してそういうことをするなでは筋が通らない話ではなかろうか。

人類全体のためというのは富める先進国の自分勝手な言い分であって、開発途上国からすれば、「先進国の方が開発途上国の生活レベルに合わせれば良いではないか」という言い草になるのも当然の成り行きであろう。

この立場の相違は、お互いに自分の立場に固執するからこういう言い争いになるのであるが、それは基本的には人間の欲望の在り方にその根源がある。

暖かい部屋で快適な生活をし、場所の移動には快適な交通機関の利用しようと思っている限り、生活レベルを下げるということはありえないわけで、我々日本人が省エネ技術に秀でたということは、生活レベルを下げることなく資源を有効に使おうという工夫の結果であって、生活レベルをアフリカの原住民や南洋のポリネシア人並に下げるという目的ではなかったはずである。

京都議定書にアメリカが賛同しないというのも、そういうことなわけで、これから炭酸ガスの排出が級数的に上昇するインドや中国が京都議定書から拘束されていない以上、それは何の意味もないということになる。

炭酸ガスなどというものは、人間が生きていけば必然的に出るもので、太古の人間が竈で調理するだけでも出るし、未開人が山奥で焼き畑農業をするだけでも出るわけだし、アメリカの大金持ちが高級車を乗り回しても出るわけで、世界の賢者はこの地球を救おうというときにアメリカの大金持ちに高級車を乗り回すことを止めさせて、焼き畑農業の方は大目に見ましょうという主旨なものだから、アメリカがついてこなかったわけである。

炭酸ガスの排出量の抑制ということは、人間の生きる権利を真っ向から否定するに等しいわけで、アメリカ人に「車に乗ることを止めよ」ということは、アメリカ人に対して「生きるな」というに等しいことである。

炭酸ガスが地球の温暖化の原因だということはきちんと究明されたわけではなく、ただ統計上そう見えるだけのことで、人類が誕生以来、進化し続けてきたと同時に、炭酸ガスの放出量もそれに付随して増えて来たので、人間が炭酸ガスを放出した結果が地球の温暖化と直結しているのではないかと思われているに過ぎない。

しかし、地球というのは温暖化と寒冷化をサイン・コサイン・カーブのように繰り返しているわけで、地球が温暖化に向かっている、というのは自然の循環機能が正常に機能していることかも知れない。

それに対して、人間がそれを阻止しようなどということは、人間の奢り以外の何ものでもないと思う。

本来、人間の数の増加というのは、自然から見れば想定外のことであって、人間も他の生き物と同じように、ある一定の数字のところで数がバランスするのが自然の姿ではないかと思う。

この地球上の普通の生き物は、食物連鎖の中で、その数が自然にバランスしており、あるいはその個体がもっている寿命というもので自然淘汰を繰り返しているが、人間だけはそういう自然に対して真っ向から挑戦しているわけで、それが人間の級数的な増加というアンバランスを生じせしめている。

地球の温暖化を阻止しようということは、その人間の級数的な増加を阻止しないことには、成り立たないと思う。

我々、この世に生まれ出てきた人間の究極の生きる目的というのは、あくまでも我欲の追求だと思う。

自分がしたいと思っていることの実現であって、他人のことなど思い煩う生き方などというものはあり得ないと思う。

今の我々の状況に照らして考えれば、誰でもが、楽して金を儲け、良い家に住み、良い車に乗って、快適な生活をして、人から崇め奉られたいというのが潜在意識なわけで、その目的の為に汗水垂らして働いているわけで、この論評を書いている人も、そのことによって自分の願望を少しでも実現できればと思って、綺麗事を並べ立てているのである。

オオカミがくる、オオカミがくる、炭酸ガスが充満して地球が温暖化し、人間は死滅する、と大衆に警鐘を鳴らすことによって、究極の願望の実現に邁進しているわけである。

これがいわゆる売文業というもので、彼らが売文で生業をしている以上、彼らの書く文章というのは売れなければならない。

売るためには受け手のニーズを掴み、その核心をつく文章を書かなければならないわけで、ありもしないことをさも大事そうに粉飾して売れる文章にしなければならない。

今、地球は炭酸ガスの放出で温暖化の方向に向かっているという論旨は、科学的には正しいことであろうが、それが大宇宙、大自然の基底の法則なので、人の英知でそれをコントロールすることは出来ないのではないかと思う。

昨今の日本では、少子高齢化ということが話題になっているが、これも日本という地球上のほんの一部分の住民が文明の頂点を極め、その後にくる下降期に入った証明ではないかと想像する。

地球上に生き続けた民族、あるいは集団、あるいは部族というのは数々あるわけで、その一つ一つが、それぞれに独自の文明を持っていたに違いない。

そういう人間の集団というのは、近世以降、国家という疑似集団に集約されて、それぞれに利益追求に走ったが、そうした過程の中で、人々は自分の都合に合わせて、つまり人間にとって便利な方向に科学技術の進化ということを成してきた。

 

環境の再生・地球の緑化

 

そういう一連の流れの中で、人々は教育ということを知り、もの事の本質を考えることに価値を見いだしたわけで、その結果として人がもの事を考えると、その延長線上に死の向こう側には何があるのだろうと思い悩むようになった。

そのことに人間が思い至ると、そこに宗教というものが出てきて、死後の世界を説くようになった。

地球上の人間以外の生き物は、考えるということをしないので、死に対して思い煩うことがない。

死を自然に受け容れ、素直に自然に帰っていくが、人間は考える動物なので、「死後どうなるのだろう?」ということを考えると、死ぬに死ねなくなってしまった。

そこで死を忌み嫌う風潮が普遍化して、死にたくない、そのためにはどうすればいいか、死んだあとの魂の居場所まで心配するようになったわけで、これが人間の進歩の原動力、いわゆる科学技術の発想の原点に存在している。

つまり必要は発明の母の原点である。

人である限り全ての人が死を忌み嫌うので、地球上の人間の数というのは級数的に増加したわけであるが、21世紀になってみると、それに輪を掛けて、人間は「人の命は最も大事なものだ」という価値観が敷衍化したので、ますます人の自然淘汰が阻害されるようになってきた。

「人の命が尊いものだ」という価値観は、今や全世界に共通した価値観となっているが、この大命題に固執している限り、人間の数の級数的な増加に歯止めを掛ける手法はないわけで、それは同時に人間の出す炭酸ガスの削減にも何の効果も為し得ないということである。

メデイアも、知識人も、評論家も、世界の賢者も、「人の命が尊いものだ」という大命題に対して、誰一人それに反論を為し得ない以上、我々は級数的な人口の増加にただ黙って押し流される他ない。

今日の普遍的な価値観、「人の命は尊いもので、何ものにも代え難いものだ」、という大命題を否定するような発言は、それこそ誰も言い得ないわけであるが、今日日本で起きている、少子高齢化の波というのは、誰もが口で言うことを憚るようなことが、現実に起きているわけで、これこそ人類の生存に不可欠なことだと思う。

今の時点で、先進国といわれている国々では、おしなべてこういう傾向にあるが、低開発国の人々では、まだまだ我々の100年前の状態と同じなわけで、産めよ増やせよのままである。

人間の歴史の中では、人が何万人単位で死んだ歴史は数々あるが、そういう試練を経てもなお今日人間の増加は続いているわけで、止まるところを知らない。

これに対して世の知識人、評論家、世界の賢者と言われる人々は、どういう答えを用意しているのであろう。

人間という生き物、この地球上に生息しているある種の生物の一種に過ぎない人間の、数の級数的な増加をそのままにしておいて、その生き物が生きるために放出している、炭酸ガスの放出をコントロールしようというのは、問題の捉え方が逆なのではなかろうか。

つまり人間という種の級数的な増加をなんとかコントロールすれば、地球の温暖化の防止に一番効果的なのではなかろうか、と言う仮説が立つのではなかろうか。

植物は炭酸同化作用で空気中の炭酸ガスを葉から吸収して、それと地中から吸い上げた水分によって炭水化物を生成するといわれて、地球の緑化ということが炭酸ガスの削減に有効とされているが、これもイザ我々の生活圏の中で実践しようとすると様々な苦情が出てくる。

この様々な苦情というのは、極端な言い方をすれば、個人の我が儘でしかないわけであるが、現在に生きる人間というのは、個人の我が儘も生きる権利として認めているわけで、頭から否定することは出来ない。

都会のヒートアイランド現象の緩和に、町中に街路樹を植えようとすると、その落ち葉が汚いという、木に害虫が寄ってくるという、葉が茂って信号が見えないという。

こういう苦情は実に些細なことであるが、それを言い立てる人が往々にして世の知識人、評論家、世界の賢者と言われる人で、これが生きる人間としての大いなる矛盾なわけである。

片一方で地球の温暖化を憂いながら、その一方で温暖化防止の実践を自らの我が儘のために拒んでいるわけで、それが世の知識人、評論家、賢者と言われる人々なわけである。

地球温暖化防止の一番手っ取り早い簡単な防止策は地球の木を増やすことだと思う。

私の個人的な疑問の一つが、地球上の砂漠の存在であるが、何故地球上に砂漠が出来たかということの一つに、人間の恣意的な行為があったのでないかと思う。

つまり、人間が何代も焼き畑農業をした結果、地球上に砂漠が広がったのではないかと思う。

当然、その地域に気候風土が大きく影響していることは必然であろうが、最初のきっかっけは人間の行為でなかったかと思う。

太古の人々が良かれと思って、あるいは自らの生存のため、草原を焼き払って、焼き畑農業を始めたまではいいが、焼き畑農業というのは同じ場所で何年も続けるということは出来ないわけで、少しずつ移動しなければならない。

その移動したあとはそのまま放置されるわけで、そこに風の作用で、地表の乾燥化がおき、一旦乾燥化した土地が再び緑の大地に戻れなくなってしまったのが砂漠ではないかと思う。

しかし、人間は英知を持っているわけで、この砂漠化した土地を再び緑の大地に戻すアイデアも当然我々には解っていると思う。

砂漠に適した植物の研究も進んでいると思う。

ただ不幸なことに、そういう研究は明日にでも人類が絶滅するという危機が目の前に現われない限り、メデイアの関心を惹かないわけで、メデイアの関心は人が何人も殺されたという殺伐とした事件の方に向いているわけで、真面目な研究者がこつこつと地味な研究をしていても、それにはニュースバリューを見出せないでいる。

砂漠の緑地化も大事だが、海水と淡水の混じり合うところの水辺の植物も大事だと思う。

現代においては、化学工場の飛躍的な発展が我々の生活を支えている部分も多々あるわけで、それと同時に、人類というのは川を清浄作用の場と考えている節が昔から存在している。

汚いものは川に投げ入れる、工場排水を川に流すということは、昔の人間ほど罪悪感をもっていないはずである。

廃棄物を川に流すのは、昔の人間ならば当然にことで、誰もそれが悪いことなどと思ってもいなかったに違いない。

そのことの集積が、今日、水質汚染と言われるもので、その浄化にはやはり樹木の自然浄化作用を利用する方法が人間の知恵として見直されてきた。

川の汚染は、人間が内陸部の土地でいきていくためには必然的なことで、人間が生活をする限り避けてとおれない道であったものと思う。

最終的に、人間の生活に不要なものは、川を通って海に辿りつくわけで、それらはマングローブの生い茂る海岸に沈下し、それは同時のその辺りの魚をえさにもなり、豊かな海を創造するということになる。

川の汚染の浄化には、やはりマングローブの拡大ということが大きな役割を果たすと思う。

海岸にマングローブを植えるということは、津波や台風の被害防止にも役立つわけで、我々はそういうものを大いに研究し、環境の再生を考えなければならない。

ところがこういう地味なニュースは、地味なるが故にニュースバリューが低くメデイアも関心を示さない。

京都議定書とか、その他様々な国際的な環境会議には、様々な国の首脳が集合して、メデイアも大いに関心を示すが、こういう地味な研究や行動には、まことに冷淡なわけで、ここを真剣に考えなければならない点だと思う。

メデイアに代表される世の賢人たちは、結局のところ、メデイアに踊らされて、華やかな時流に沿ったことだけを強調しているが、こういう地味な研究にこそ、そういう人たちにスポットライトを当てるべきではなかろうか。

仮に、21世紀において、人間が地球上の砂漠を全部緑にしてしまったとしたら、ここで再び自然との拮抗が生じて、その地域の気候風土が変化するのではないかと思う。

素人考えであるが、地球上の物質というのは質量不変の法則があって、地球上に存在する物質の量というのは変わらないのではないかと思う。

地球上の水の量も、炭酸ガスの量も、その形態がいくら変化しても、その量そのものは地球規模で見れば何時も一定ではなかろうか。

だからこそ、地球が温暖化すれば、今まで氷として存在していた水が解けて海面上昇ということになるのではなかろうか。

「気候の安全保障」という言葉が、地球温暖化の防止ということを指し示しているとするならば、その延長線上に、炭酸ガスの排出の抑制ということに結びつくわけで、この論説の著者は、京都議定書に参加していないアメリカを暗に非難し、同じようにこれに参入していない中国とインドを発展途上国という表現で擁護している。

明らかに、ものの本質を語る前にイデオロギーに毒されている。

アメリカは悪者で、中国は正義の味方という偏向した視点で貫かれている。

地球の温暖化防止ということであれば、日本が苦労して克服した省エネ技術を、そういう国々に大判振る舞いをして、先方の機嫌を取るよりも、地域の緑化運動に精を出すように相手に説得することも地球全体の温暖化の防止に直結することだと思う。

地球の温暖化について相手を説得するとなると、ここでも国家という概念が邪魔をするわけで、主権と主権のぶつかり合いになり、国益と国益の衝突になり、人間が本来もっている善意が通用しなくなるのである。

ここを克服することこそ、世の知識人や、大学教授や、評論家や、賢者の出番であるが、彼らをしても相手を説得して、こちらの意向を納得させることは多分不可能であろう。

中国に国土の緑化を提案したとしても、まず最初に「内政干渉」と言われ、その次に「それよりも前にしなければならないことがある」といわれ、最終的には公害の垂れ流しで終わる。

中国にとって公害で人が死ぬということはごく自然なことなわけで、国民がいくら死のうが、それよりも前に国防力の強化が最優先課題なわけだから、環境問題など後回しになるのが当然である。

アメリカのケシカラン行動を何人も修正できないのと同様、中国の規定の方針、つまり環境問題よりも軍備強化を優先させる方針を改めさせることは何人といえどもし得ないことである。

この不合理に日本の知識人や、大学教授や、評論家や、賢者はどう対処しようというのか。

オオカミがくる、オオカミがくると、日本の識者が大合唱したとしても、合唱しているだけでは物事は一歩も前進もせず、何の解決にもならず、ただただ狭い井戸の中で御神輿を担いで大騒ぎしているだけで、不毛の議論でしかない。

地球の温暖化の防止に、炭酸ガスの排出の抑制に期待するあまり、日本の省エネ技術の活用もその一環として大いに賛同すべきであるが、その前に、地球の緑化ということも大いに温暖化防止の技術の一つだと認識してそれを促すべきだ思う。

砂漠に強い植物の開発、風に強い植物の開発というのも、地球の温暖化防止の大事な研究だと思う。

そういう研究を地道にしている人たちもきっといるに違いないが、メデイアも売らんかなの商売で成り立っている以上、売れる話題でなければならないわけで、この論説ではまず最初にアメリカを貶めるという点に主題があったわけである。

 

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