070620001

「提言・日本の新戦略」その6

 

言葉を整理

 

朝日新聞、平成19年5月3日付け「提言・日本の新戦略」その15は、その前の「日米安保」に続き「自衛隊の海外派遣」となっている。

その内容は大まかに言って、自衛隊の海外派遣を容認するものであるが、朝日の論説としてこの言い分は筋が通らないように思う。

この論文の主旨は、国連の求める事案には積極的に協力していくべきだ、と諭しているが、その一方で武力行使には今まで通り硬直した思考のままで、銃器の使用は何が何でもまかりならぬという論調で貫かれている。

自衛隊員が海外で活動する場合の武器の使用というと、何が何でもむやみやたらと人を殺しまくる、という西部劇を始めとするアメリカ映画を連想させるようなニュアンスが抜けきれていないが、これは軍隊というものは常そうするものだ、という間違った思い込みによる偏狭な考え方で、常識的な思考とはかけ離れている。

この社説の言わんとするところは、あまりにも綺麗事の羅列で、良いとこ取りの最たるもので、まさしく理想、理念を絵に描いたようなものである。

その前提条件として国連、国際連合というものを神様か仏様のように「善」の固まりという認識で語られているからである。

国連こそ、この世の正義の象徴であり、絶対的な正義、善、人のあるべき理想の姿、善人の集合、賢者の集合というニュアンスで捉えている。

この思い込みがモトとなって、それに協力することは良いことだ、その為には自衛隊の海外派遣も容認されるべきであるが、決して人を殺すようなことはしてくるなという論調である。

国連の理想主義を100%盲信し、日本国憲法9条を必要以上に厳密に遵守しようとしている。

それはそれで立派なことで、誰も非を唱えることは出来ないが、だからこそ子供じみた思考でもある。

泥棒をしてはいけない、人のものを取ってはいけない、ということは世界中共通に誰でも知っている、民族を越え国家の枠を越えて万人共通の認識なわけで、それと同じことで、そんなことは言われなくとも判っていることである。

弱者をいたわりなさいということも世界共通のことであって、これも人種を越え、民族を越え、国家の枠を越えて万人共通の認識であるにもかかわらず、現実の社会はそうなってはいないわけで、その葛藤そのものが人類の歴史であったわけである。

現実を知るということは実に大変なことで、この現実というのは常に流動的に動いているわけで、その時その場で現実というのは把握出来ない。

把握しづらいからこそタイミングを逸したり、早とちりになったりするわけである。

朝日新聞に代表される現在のメデイアというのは、オピニオン・リーダーとして世間というものに対して彼らの思い描いている理想を描き示そうとするから、現実との乖離が生じるのである。

オオカミ少年と同じで、「オオカミが来る、オオカミが来る」と世に警鐘を鳴らそうとするから理想論の羅列となるのである。

ところが現実というのは、オオカミが言われたとおりには現われずに、虎が出てきたり、ウサギだったりするわけで、そこで現実との乖離になってしまうのである。

メデイアが「オオカミが来る」と言い続けるのは、ある意味でメデイアの持っている宿命でもあるわけで、彼らはそう言い続けないことには飯が食えない。

だとすれば、我々、世の中の人間というのはメデイアの言っていることを信じないように自己防衛するしか方法がないわけで、そのことは自分で考えて自分で判断を下すしかないということである。ところで、自衛隊の海外派遣ということは、非常に困難な問題だと思う。

今の自衛隊を我々は「自衛隊」といっているが、余所の国からすれば押しも押されもせぬ立派な軍隊なわけで、これは言葉の問題に帰結することで、「自衛隊」という言葉を厳密に定義するならば、海外派遣ということは非常に難しくなってしまう。

「自衛隊」という言葉のままならば、海外派遣ということはあってはならないはずである。

「自衛隊」を国際的な表現で言うとすれば「セルフ・デイフェンス・フォース」となり、これを国際感覚にてらし合わせるとするならば「コースト・ガード」いわゆる沿岸警備隊となってしまう。

国連として、紛争地域に平和構築のために介入しようと各国から兵力をかき集める場合には、軍隊であろうが沿岸警備隊であろうが、頭数さえそろえばいちおうの体裁はつくわけで、国内的な呼称はどうでもよいものに違いない。

どちらにしても世界的視野で自衛隊を眺めれば軍隊には違いないわけで、日本国内でどう呼ばれていようとも関係ない話だと思う。

国際社会で貢献しようとするならば、まず国内問題として言葉の問題を解決してからでないとおかしいと思う。

同じ一つの組織が、国内向けには自衛隊であり、国際社会ではれっきとした軍隊として通用しているわけで、こういう点に我々同胞の曖昧さがあると思う。

いかにも歴然とした矛盾を言葉の解釈で言い逃れるということは我々、日本民族独特の処世術であろうが、これはグローバル・スタンダードには成り得ない。

こういう言葉の矛盾を解釈論で切り抜けてきたからこそ、その矛盾がつもりにつもって今のところ何とも抜き差しならない状況に陥っているのではなかろうか。

そもそもその根源は日本国憲法にあるわけで、その前文では国際社会の善意を盲信して、その盲信、妄信を基準にして、それ以降の条文が出来ているのであるから、矛盾が次なる矛盾を生んで今日に及んでいるのである。

日本国憲法第9条を素直に読めば、自衛隊の存在も否定されてしかるべきであるが、それを自衛権は民族の基本的生存権として本来如何なる民族にも潜在的に内在する人権の一つだ、などと苦しい憲法解釈をし続けているから、それ以降の自衛隊というものが現実と乖離してしまったのである。

こういう憲法上の字句の解釈で日本が道を踏み外したことは戦前にもあったわけで、我々はそれについてあまりにも同胞の歴史から学んでいないように見える。

戦前において憲法上の文言で我々が道を踏み外したのは、いうまでもなく統帥権という言葉であって、この言葉を水戸黄門の印籠のように掲げると、世人はもう言葉を発することが出来なくなってしまったではないか。

「統帥権干犯」といわれると、もう誰もそれについて反論できなくなってしまったではないか。

戦後は「自衛隊は憲法違反」といっても、誰もそのことによって口を封じられることはないが、逆にそのことが自衛隊の手足を縛る方向に向いてしまって、危ないところに出してはならず、危ないところは民間のNPOで処置し、危なくない安全な場所で国際貢献しなさい、という馬鹿な話になっているではないか。

これは憲法上の文言の矛盾が集約された結果として、こういう馬鹿な話に落ち着いたわけである。これは戦後の日本人の発想の中から、命を賭しても仕事を為す、という使命感の喪失からこういう馬鹿な話が蔓延していると思う。

特に、戦後の日本の知識人、インテリーと称せられる人々、大学の先生方に蔓延した思考であるが、人が命を賭して任務を遂行したり、目的を達成したり、人のため自己の命を犠牲にすることを「善」と認識し、それは尊い行為だと認めることに極めて臆病で、そういう状況に落ちいったこと自体が、政府の責任だという第3者的な傍観者のような発想である。

人の織りなす社会では、人命を賭しでも為さねばならないことも多々あるが、戦後の民主教育はそのことを全否定してしまって、人命を賭してまでしなければならないことはしなくても良い、ということを強調した結果である。

それは、戦前に、あまりにもそのことを国民に強要し、そのことが結果的に政府、国家が国民を騙したという認識に陥り、その反作用として、戦後はそういうことを全部否定するようになり、そういう状況を作った、ないしは是正してこなかった政府が悪いということになった。

戦後の平和な日本では、命を賭してまで職務を遂行する場面が少なくなったことは事実であるが、それでも警察官や消防士の仕事には危険がつきまとうわけで、彼らは国内の治安に直結した仕事であるので世論の批判もあまり顕著ではないが、これが自衛隊となるとそれこそハチの巣を突いたような大騒ぎとなる。

身の危険を顧みず任務を遂行する、という意味では警察官も消防士も同じであるが、それが自衛隊となると俄然論壇が華やかになる。

戦後の日本の知識人、インテリーと称せられる人々、大学の先生方は、戦前・戦中に当時の政府や軍部があまりにも安易に、身の危険を顧みず任務を遂行することを若者に強要した過去の事実を知っているが故のリアクションということは判らないでもない。

だが、やはり現実を直視すれば、そういう場面が平和の中にもあるわけで、自らの命を賭してまで社会のために殉じる行為というのは称賛すべきことだと思うし、知識人、インテリーと称せられる人々、大学の先生方はそういうことを世間の人々に啓蒙する義務があると思う。

人の命が大事だということは今更言われなくとも判っているが、世の中には命を賭してでも成し遂げなければならない仕事、任務というのもある筈だ。

命を賭してといっても、何も安全対策をこうじずにただ徒手空拳で事に当たれと言うことはあり得ないわけで、必要不可決な処置を講じてもなお危険というのはあるし、自衛隊が海外で国際貢献する場合にも、そういう場面に遭遇してもなお「武器を使うな!!」と言うことは、極めて無責任は発言だと思う。

その無責任さを回避するために、そういう場所への派遣は最初から駄目だと言うわけである。

自分達の責任回避を、人道上の命の重さに転嫁した議論で、これこそ知識人の思い上がりであり、無責任さであり、詭弁であり、議論のための不毛の議論である。

 

現実との乖離

 

この提言の15項「自衛隊の海外派遣」の項の見出しには「国連PKOに積極参加していく」となっているが、これも今まで述べてきたような全く綺麗事であって、国連のPKO活動というものがまさしく正義の騎士の行為とでも思っているような節が感じられるが、これも思い違いである。

今の地球というものを眺めてみると、国連加盟国というのは約190カ国もあるが、実質はアメリカが牛耳っているわけで、アメリカの独断専横にいくらかでもブレーキを掛ける役割を担っているのが安全保障常任理事国のアメリカを除く4カ国でしかない。

結論的に言えば、この地球上のあらゆる地域の紛争の解決は、アメリカの利益に直結しているのである。

しかし、アメリカの利益は回りまわって世界各国の利益に還元されてはいるが、第1義的にはアメリカは如何なる紛争の解決でも一旦は利益を得るわけで、アメリカが世界中に民主主義を普及させようとするその目的はそこにあると思う。

考えてもみよ!この地球上の全ての民族が一様に民主主義を目指さなければならない理由などというものが果たしてあるであろうか。

旧ソビエット連邦だとて、何も民主主義でなければならないことはないはずで、共産主義でその国の人が平穏に暮らせていければそれで良いではないか。

ただアメリカとしては、その共産主義が世界的に広がって、民主主義国のテリトリーを犯すような事態があっては困るが、ソ連がソ連のうちだけで共産主義である限りにおいては一向に構わないはずである。

中国についても同じことが言えるが、中国も共産主義で過去約半世紀やってこれたが、その結果として国民の底辺のレベルアップに成功したわけで、ものの成り行き上、今後、国民の欲求はますます高まって、国家首脳としては進化した国民に答えなければならなくなり、必然的に今まで通り上からの押さえつけは効かなくなり、民主主義により傾くようになるものと推察される。

その過程でアメリカとの利害得失が衝突するということも将来ありえあるわけで、アメリカとしては将来にわたって警戒しなければならないことはいうまでもない。

イラン、イラク、アフガニスタン、アラブとイスラエルの関係も、この紛争の解決はアメリカを利するわけだが、基本的にはイラクはイラク人が、イランはイラン人が、アラブはアラブ人、イスラエルはイスラエル人が自分達で良いと思った政治体制を確立すればそれで良い筈であるが、問題は、この紛争がアメリカの利益を損なっている点である。

アメリカは何もイラン、イラク、アフガニスタン、アラブ、イスラエルにアメリカ流の民主主義を植え付けなくとも、彼らの選択に任せればいいわけであるが、ただその選択の結果、アメリカの利益が損なわれる手法や政策がとられるとまことに困るわけで、そうならないように今介入しているのである。

アメリカの利益の中にはテロの防止ということも当然含まれているわけで、イラン、イラク、アフガニスタン、アラブ、イスラエルが自分達にあった政治体制を確率したとしても、その結果として、再び9・11事件のようなことを引き起こされてはかなわないわけで、ああいう事件を防止することも、ある種のアメリカの利益の一つである。

アメリカは、アメリカ流の民主主義を地球規模で普及させようとしているが、それはアメリカの理想であって、理想は実現が曖昧だからこそ理想たり得ているわけで、冷静に考えれば地球上の民族は自分達にあった政治体制を取ればいいと思う。

それぞれの国は、自分達にあった政治体制をとればいいが、仮にそれをしたとしてもアメリカとの格差は是正できないわけで、この格差の存在がテロの温床になっているとするならば、アメリカにとってはそれが困るわけである。

それぞれの国が自分達にあった政治体制を取ったとして、その結果がアメリカを敵に回すようなものならばアメリカも座視していないだろうが、国連というのは、その理念の中にテロの温床のようなものを排除する方向に機能しなければならないが、現実にはそうなっていない。

実際問題として、国連はアメリカに振り回されているのが現実の姿だと思う。

先のイラク戦争では、アメリカは国連の安保理の決議がなくても単独で戦争を仕掛けた事実を見ても、アメリカは国連など屁とも思っていないではないか。

安保理の決議など、あろうがあるまいがアメリカはしたいことをしているではないか。

国連も、アメリカの独善的な行動を止めさせることも出来ず、安保理の決議なしで行動したからと言って、アメリカに制裁を加えることも出来なかったではないか。

また国連は、小さな国が小さいが故に我が儘を押し通すことに対しても、何ら制裁を仕切れず、何のための存在か判らないではないか。

現実に、今の地球はパワー・ポリテックが機能しているわけで、平和を構築するためには強力なパワーが必要であって、アメリカはそのパワーを持っているが、国連にはそのパワーがないので、アメリカを押さえ付けることが出来ない、という極めて単純な論理ではないか。

冷戦時代にはまだソビエットの軍事力にアメリカを牽制する力があったが、今はそれもないわけで、アメリカの独断場になっている。

日本の知識人は、そういう国連を神様のように崇め奉っているが、これもそのまま無知に通じる行為だと思う。

戦前の我々が、アメリカなど軟弱な国民で一撃を加えればすぐに決着がつく、と勘違い、思い違い、無知、相手を知らなかった事実と軌を一にしているではないか。

戦前の我々の中にもアメリカ事情に詳しい人物はいたに違いないと思う。

しかし、そういう人の声がどうして為政者、つまり軍人や軍部に届かなかったのであろう。

ごく普通に言われることは、治安維持法があって自由にものが言えなかったということであるが、そんな馬鹿な話はないと思う。

戦後は売春防止法が出来たから、売春行為が日本から一掃されたかといえば、そんなことはないわけで、治安維持法があったからものが言えなかった、という言い訳は当時黙していた知識階層のただたんなる言い逃れに過ぎない。

ただ当時の知識人も、時の権勢に迎合していたわけで、長いものに巻かれる式に処していたそのこと自体を責めることは出来ない。

お互いに生きることに精一杯であったわけだから、時の権勢にすり寄るのを責めるわけにもいかないが、戦後、そういう人たちが掌を返したように、為政者に楯突く姿に我慢ならないものを感じる。国民の合意というのは一体どういうことなのであろう。

昔、日清戦争に勝利して一旦は遼東半島を勝ち取ったが、その後の3国干渉で再び手放さざるをえなかった。

その時、我々国民は、臥薪嘗胆して耐えたと言われているが、その時の一般国民というのは一体どういう気持ちで、どういう状態でいたのであろう。

そのことが国民の生活にどういう影響を与えていたのであろう。

恐らく、市井の人々の間は全く無関心ではなかったかと思う。

メデイアがそれほど発達していたわけでもなく、恐らく、口伝による噂話の延長ぐらいの不確かな情報として人々の間に広がっていたのではないかと思う。

ところが、それを国民の合意として受け取っていたのは為政者の側ではなかったかと思う。

あの第2次世界大戦の前、戦前の段階で、「西洋人なというものは軟弱な民族で一撃を食わせれば尻尾を巻いて逃げて行く」という風説も、メデイアが未発達な中での風説の類で、それを国民は何の疑いもせずに鵜呑みにしたのではなかろうか。

国民の中の一般大衆はそれでも仕方がない。

しかし、少なくとも知識人といわれる人々、新聞社や、評論家や、大学の先生方が一般大衆と同じレベルであって貰ってははなはだ困るわけで、それではオピニオン・リーダーとしての意味がないではないか。

「治安維持法があったから何もものが言えなかった」という言い分は一般大衆、市井の人々が言うのならば致し方ないが、知識人、新聞社や評論家や大学の先生方がそのレベルの言い訳をするのであれば、教養知性が泣くというものだ。

それ以上に一般市民として、当時の知識人、新聞社や評論家や大学の先生方がそのレベルであったとすれば、はなはだ困ったことになる。

それに反し、今日の状況というのは、この世に知識人は溢れているわけで、それと同時に情報も溢れかえっているわけで、その中から真に価値ある情報を探すことも真に骨の折れる仕事となってしまった。

世の中に知識人が溢れ、情報が溢れかえっていると、今度は逆に、その価値は全く無に等しいわけで、知識人としても、情報としても意味をなさなくなってしまっている。

100年前には人口の10%がいわゆる知識人といわれていたものが、今では90%以上の人が昔の知識人以上の知識を有しているわけで、こうなるともう民意というものの意味もなさなくなって、一人一人がそれぞれの意見を持つに至ったので、政治や外交の合意形成ということははなはだ難しいこととなる。

しかし、政治や外交において、国民の民意というものに意味があるのであろうか。

国民を統治する側にも民意を忖度する必要というものがあるのだろうか。

民主主義の社会においては、国民の民意というものも全体の51%あれば、それが本来の意味でいう民主主義の多数決原理というものであるが、51%対49%の意見の相違を多数決で括ってよいものだろうか。

だとすれば、もうそれは民主主義そのものが機能していないということで、極めつけの衆愚政治であり、政治の体をなしていないということではなかろうか。

政治でも外交でも、表向きの顔と裏の顔があるわけで、どちらが良くてどちらが悪いということは言い切れないので、如何なる問題でも賛否両論が成り立つ。

どちらの面に比重を置いても、それは他方からみれば、「民意を汲み取っていない」という理屈になるわけで、反対側から見ればそれを推し進めようとする勢力は悪玉になる。

このことが我々日本の政治がいつまで経っても12歳の枠から離れられない理由ではなかろうか。一つの問題を議論するときに、それを様々な角度から見て、賛否両論が出るところまでは、極めて民主的な様相を呈しているが、問題はその賛否両論の中身である。

与党と野党が口角泡を飛ばして議論することの内容である。

ここに日本語の曖昧さが潜んでいるので、その議論が言葉の曖昧さに振り回されて、議論の矛先が問題の本質からはずれ、言葉の揚げ足とりに終始してしまうのである。

言葉の意味を拡大解釈して、赤を黒といい、黒を白というようなもので、言葉を勝手に自分の都合に合わせて解釈してしまうということである。

これは与党だけにあることではなく、野党の側にも言葉の拡大解釈というのは数え切れないほどあるわけで、これだからわれわれの国会審議というのは12歳以上にはなれないのである。

日本国憲法の憲法第9条を素直に読めば自衛隊の存在は違憲に決まっているではないか。

ところが、主権国家の自衛権というのも、本来、地球上のあらゆる民族が共通に所有する生存権であるとするならば、明らかに憲法の方に不具合があるわけで、その不具合を内包した憲法は、早急に改めなければならないというのが、自然の流れ、普通の常識、本来のコモンセンスというものではなかろうか。

日本国憲法がそもそも矛盾を内包しているにもかかわらず、その矛盾を解消することなく、その上に屋上屋を築こうとするので、その矛盾はますます現実との乖離を大きくしてしまったのである。

こういう事って、高等教育を受けた人には判らないことであろうか。

大学の先生方や、新聞社の論説委員とか、評論家と称する人々には、こういう事は理解できないことなのであろうか。

私は恥ずかしながら大学にも行っていないので臆面もなく言いたい放題のことがいえるが、教養知性豊かな知識人というのは、こういうことが素直に言えないのであろうか。

普通に常識的な人ならば、憲法に矛盾があればそれは正さなければならないと考えるが、教養知性豊かな知識人というのは、「もしそれをすると日本は再び戦渦に巻き込まれる可能性が出来てくるからそうすべきでない」と、一般大衆に説くわけである。

これにも一理はある。

確かに戦渦に巻き込まれる可能性は出てくるかもしれないが、矛盾を抱え込んだままでも、そのリスクは同じなわけで、矛盾をただしたからそれが理由で戦渦に巻き込まれる、ということは成り立たないと思う。

学者先生方は、自民党の先生方が推し進めようとする施策が実施された暁の近未来の予測をして、その予測の結果から自民党の先生方が推し進めようとする施策は駄目だ、と断罪しているのである。

ところが、この学者先生方の未来予測も案外アテにならない予測で、それも無理はない話で、自分の都合のいいデータだけを集めて未来診断しているのであって、何のことはない昔の日本の軍隊がしてきたことと同じ轍をそのまま踏襲しているだけである。

彼ら、学者先生にしてみれば未来予測などはどうでもいいわけで、憲法改正に反対する本当の狙いは、ただただ政府を困らせればそれでよいわけで、そのための口実として基本的には何でもいいわけである。

ただただ「憲法改正反対」ということは、政府与党に対する大きな切り札になっているわけで、大きな切り札である限り、そう安易にどこでもここでも使うわけにはいかず、その熱情を維持したまま切り札としての価値を温存し、持ち続けなければならない。

 

論拠の矛盾

 

朝日新聞のいう国連PKO活動に積極的に参加していくということは、現行憲法内ではありえないことであるが、それを今になって何故にこともあろうに朝日新聞がこういうことを言い出すのであろう。

朝日新聞は自衛隊のPKO活動にもっとも反対する論陣を張った陣営ではなかったのか。

朝日新聞の論調が時代と共に変わることは不思議でもなんでもない。

メデイアは常に時代に迎合して糊口をしのぐ組織なわけで、それが時として正義の騎士のように振る舞おうとするから一般庶民はメデイアを信用し切れないが、メデイアはそういうものだと悟ってしまえば、そうそうあわてふためくこともない。

そんなわけで、この提言では安易に自衛隊に国連PKO活動に参加するように説いているが、PKO活動というのは、そう簡単なものではないわけで、ピース・キーピング・オペレーションというからには、その前提条件として紛争地域に割り込んでいくということになる。

それがわかっているとするならば、この論説の後半でいう「イラク戦争のようなものには決して加担しない。そうした戦争の後の平和構築にも基本的に参加しない」という文言は、見出しの論旨と整合性が全くあわないではないか。

この文言の言っていることは、頭からPKOを否定しているわけで、それでいて見出しではPKO活動を奨める、ということは論理的に矛盾しているではないか。

ここでも言葉の魅力に引かれているわけで、PKO、つまりピース・キーピング・オペレーションは「良いこと」だ、という思い込みから論陣を張ったまではいいが、それが紛争地帯にまで足を踏み込まなければ出来ない仕事だ、ということを忘れていたのであろう。

この論説においては、見出しで「国連PKO活動に積極的に参加していく」といっておいて、その要点を三つ上げている。

1、 自衛隊の参加できる国連PKO任務の幅を広げる。

2、平和構築のための国際的舞台にも限定的に参加する。

3、多国籍軍については、安保理決議があっても戦闘中は不参加が原則

と並べているが、全く良いとこ取りの見本のようなもので、こんなご都合主義もないと思う。

自分達の嫌なことはすべからく拒否しておいて、良いところだけとる、という思考は戦後民主主義の見事な実践に他ならない。

第1項の「自衛隊の参加できる国連PKO任務の幅を広げる」ということは、自衛隊の出動を要求する側に対して言うことであって、我々の側に選択の余地はないではないか。

そもそも国連PKO活動の目的自体が平和構築以外にあり得ないわけで、論者の思考の中には、人道支援とか、人権の保護とか、選挙の監視というものまでが国連PKO活動の範疇に入っているかもしれないが、それは我が民族の拡大解釈の再現であって、PKOを字句通り解すれば、そんなことはあり得ない。

この第1項の言わんとする趣旨はPKOの字句を拡大解釈して、難民を救済したり、弱者救済というような綺麗事の仕事、耳さわりのいい仕事には、日本の自衛隊も大いに参加させて、国際貢献をしている風に見せようという魂胆だと思う。

そこにも安直な平和思考が顔を覗かせているわけで、道義的に誰からも非難されないように八方美人的に道義的に非のうちようのない理想主義に犯されており、PKOの字句をかってに拡大解釈して、綺麗なことだけを実施しようとするご都合主義が現われている。

誰をも傷つけないような予防線を張った思考になっているわけである。

誰をも傷つけないような八方美人的な当たり障りのない発言というのは、その場はそれで治まるかもしれないが、基本的に誰からも信用されないわけで、突き詰めて言えば何もしないということに通じかねない。

我々の戦後60年というのは全てこういう思考が羽振りを効かせてきたわけで、誰をもまんべんなく救い取ろう、救い上げようとするから結果的に正論が割を食って、横車が通る事態を招いているではないか。

第2項の平和構築のための国際的部隊にも限定的に参加する、という文言も結局のところ何を言いたいのはよくわからない。

表題で「国連PKOに積極的に参加」といいながら、「限定的に参加」とは一体どういうことなのであろう。

次の多国籍軍については、「戦闘中は不参加」という文言と、この2項でいうところの国際的部隊というのは、どういう風に違うのであろう。

この見出しを見るだけでも論理的に整合性が全くないではないか。

ただただ言葉の遊びに過ぎないではないか。

見出しで「国連PKO活動に積極的に参加せよ」といいながら、本文の中では「平和構築のための国際的部隊にも限定的に参加する」と言ってみたり「多国籍軍については、安保理決議があっても戦闘中は不参加」と言っているわけで、これでは一体どうせよというのであろう。

ただただ言葉を弄んでいるだけではなかろうか。

これは私の推測であるが、この論説を執筆した人は、恐らく戦後の民主教育を十分に受けた方ではないかと想像する。

戦後の民主教育と、戦前ないしは戦後の直近の教育では決定的な違いがある。

それは何かというと、上からの強制があるかないかという点である。

戦前ないしは戦後の直近の教育では、まだまだ民主教育も行き渡っておらず、先生の言うことは絶対で、先生の言うとおりに生徒達は行動していた。

例えば運動会、遠足、修学旅行等々の学校行事は、先生方の企画したものに有無をいわせず従ったものである。

ところが戦後は、学校行事の大部分を生徒側に主導権を与えるようになって、生徒がその運営に当たるようになった。

そのことは若い者の自主性を引き出すという意味では大いに効果があっただろうと思うが、問題は、そのことによって若者が強制に耐えられなくなった、つまり上からの指示に耐えることが出来なくなったということだ。

世の中を生き抜くためには、強権力に耐えなければならない場面というのも多々ある筈だが、そこで戦後の若者は、そういう場面になると安易に挫折してしまう。

要するに、自分の思うとおりに物事が運ばないと切れてしまうということである。

切れるとまでは行かないにしても、世の中というのは自分の都合の良いようにどういう風にもなると思い、そうならないと他者に責任を転嫁することを平然とする。

これは戦後の民主教育の明らかなる弊害であるが、そういう教育を受けた世代は、他との比較をしたことがないので、自分のポジションが本人に判らないわけで、自分の我が儘が他と合わないという現実に疎いわけである。

日本の国内だけならば、そういう人は周りに一杯いるので、その差異が目立たないが、これが国外と比較すると、俄然、自分達の思い違いの特異さが目につくことになる。

目について、その特異さに気がつけば、それはそれで結構なことであるが、気がつかない人が問題なわけである。

この論説を執筆した人は、この文中にある国連PKO、平和構築、国際的部隊、多国籍軍、という言葉の本質を知って、この論説を書いているのであろうか。

「平和構築」などという言葉は、見事に綺麗事の表現である。平和を構築する。実に耳障りのいい言葉ではないか。

イラクの混沌とした状態の中で平和を構築する。アラブとイスラエルの間に分け入って平和を構築する。こんな綺麗な言葉も他にありえなぐらいの美辞麗句そのものである。

それが出来るならば、そもそもそんな紛争はもう既に解決できているわけで、有史以来、平和構築が思うように出来ていないから今日も紛争が絶えていないわけで、戦後、「もう戦争は止めましょう」という理念で出来た国際連合でさえ手をこまねいているではないか。

安全保障常任理事国でさえ打つ手をもっていないではないか。

 

自衛隊に対する縛り

 

元々、アカイアカイ朝日が、自衛隊の海外派遣を容認するようになったのは、アメリカに次ぎ経済大国になった日本が、何一つ国際貢献していない現実に注視して、考え方を軟化させたものと思う。

ただそういう論説を掲げても、基本的に平和思考という綺麗事の看板を汚したくないので、その論説に無理がでるわけで、片一方で「積極的に参加せよ」といいながら、もう一方では「安保理決議があっても戦闘中は不参加」という支離滅裂は論理になるのである。

国際社会で、もし仮にこの論説で言うことが通るとすれば、それはあまりにも唯我独尊的な我が儘でしかない。

国際貢献として日本が海外に自衛隊を派遣するかどうかは純粋に日本の国内問題であるが、そのための要請というのは、明らかに外交の問題となるわけで、国内問題と外交は常に表裏一体をなしているはずである。

国連、ないしはアメリカから自衛隊の派遣を要請されたとき、どういう判断をするかは政治家、時の為政者の判断によることになるが、その時、このアカイアカイ朝日は、総論としては国際貢献に協力するポーズを取りながら、自衛隊の手足を縛るということを忘れていないわけで、手足を縛られた自衛隊が窮地に陥ると、その責任は政府に転嫁する魂胆であろうと思う。

先に述べたように、戦後の民主教育を受けた世代は、上からの強制、強権力による縛り、自我の抑圧、ということに極めて不慣れである。

ところが自衛隊、いわゆる軍の組織というのは、常にこういう縛りの中での行動であるわけで、個々の人間が好き勝手に動くということは極めて厳格に規制されている。

そのことの象徴がすなわちシビリアン・コントロールなわけで、自衛隊の行動に縛りをかけるということは重要なことはいうまでもないが、それには外交的にも、軍事的にも、なおかつ戦略的、戦術的に相当に知識のある人がそれをしないことには意味をなさないのである。

ただ観念論で、武力行使さえしなければそれが平和だ、と思い込んでいるような単純な思考の者が、安易に理念や理想を述べるだけでは自衛隊のためにも、日本のためにもならない。

戦後の憲法改正を巡る議論でも、我々は、先の大戦の惨禍がトラウマとなって、軍事的なことを論ずることさえ反平和主義というレッテルを貼って遺棄してきたが、これはそのまま無知に通じることなわけで、平和を愛するならば、戦争についてもその本質にまで掘り下げて考えなければならないはずである。

戦前の我々は、アメリカについて全く無知なまま、あの戦争に填り込んでいった経験からしても、自らを反省し、平和の裏側の戦争についても掘り下げて考えるべき時ではなかろうか。

平和主義というのは、どんな主権国家でも、どんな民族でも、基本的に平和を愛する気持ちをもっていると思う。

にもかかわらず戦争が、紛争が絶えないのは、戦争が目的ではなく、国益の拡張、言い換えれば自分達の願望の成就が目的なわけで、戦争はそのために手段に過ぎない。

今のイラクの混迷は宗教対立に起因しているわけで、アメリカがフセイン大統領を政権の座から引きずりおろした空白の時期に、宗教対立が激化したのであって、あの中に入っていって平和構築するなどということは誰にも出来ないことである。

にもかかわらず、アメリカはその宗教対立を治めて、あの地にアメリカ流民主主義を根付かせようとしているが、それはある意味で善意の押し売りに過ぎない。

そのアメリカを日本は支援しているが、それを直ちに止めて良いものかどうか、は非常に困難な決断を迫られているわけで、野党やメデイアは「アメリカ追従など直ちに止めよ」と言っているが、そのリアクションは目に見えている。

そのリスクを犯してまでそれが出来るかどうかは極めて難しい判断だと思う。

野党やメデイアは、国民に対して何一つ責任を負っていないので、安易に言いたいことを言い、理想論のみを感情に訴えて声高に叫び、国民に苦難を強いるのは現行政府が悪いからだ、と自分を良い子に見せれるが、果たしてそういう無責任な発言の言い放しで良いものであろうか。

戦前、戦後を通じて、戦争というのは、ただただ武力行使の有無だけの問題では収まりきれないわけで、外交問題と密接に関連している。

外交交渉の場で、武力行使をせずにことが治まればこれほど目出度いこともないわけで、誰も好きこのんで戦争をするわけではない。

戦争の本質まで掘り下げるということは、そこまで思考を巡らせということであって、ただ口先で平和、平和といっているだけでは無知に等しいということである。

朝日新聞もそこに気がついてきたので総論では国連PKOに積極参加といいながら、各論としての実際の自衛隊の行動には様々な縛りを掛けようとしているわけで、それはそれである程度は許されることである。

問題は、その縛りの部分に専門家の意見を反映させずに、見かけの平和主義者が理想論で現実を無視したような論陣を張ってもらっては困るということだ。

この文中には「平和構築には行政官やNGOの人たちを含む文民の活動がふさわしい仕事が多い、だが中には武器を持った実力部隊でないと危険な時期や場所がある。そこに自衛隊の出番がある」、と述べられているが、これは明らかに武器使用を想定した文言だと思う。

だとしたら朝日が常々主張してきたことと全く違うではないか。

朝日の従来の論調ならば、武器使用が想定されるような危険な場所には最初から出してはならない、ということであったではないか。

従来からの論調が時代と共に変化することは、そうたいして目くじら立てることではないが、もしこれが本音だとするならば、自衛隊に対する縛りも相当緩やかになってと考えなければならない。

 

格差の是正という欺瞞

 

とはいうものの、平和構築などということは、紛争当事者がそういう気持ちにならないことには、第3者では如何ともしがたいことではある。

当事者がその気にさえなればそれこそ文民でもいいわけで、こういう論理が成り立つのも我々と価値観が共通している場合のみのことで、いま紛争の渦中にある地域では、この価値観の共有ということが成り立っていない状態だと思う。

イラクの現状を見ても宗派間で価値観の共有がないから、自爆テロの応酬が繰り返されているわけで、彼らに平和への希求が出てくれば、もっとおだやかになるのではないかと思う。

国際連合の理念は本来そういうところにあったはずであるが、いくら国際連合が理念に燃え、理想に燃えていても、当事者がその気にならないことには何ともならないわけで、世界の賢者はそこに神経を集中させるべきだと思う。

国際連合がいくら立派な理念を掲げていても、それを運用するのは生きた人間なわけで、生きた人間であるからには、自己愛というものをもっているので、他者よりもまず先に我が身という思考は当然のことである。

この現実の中で如何に平和を構築するか、ということは極めて困難な設問で、ただ日本国憲法で定められている戦争放棄の条項を拡大解釈して、国際貢献に寄与しようと思って見たところで、相手があることで、その相手の対応如何では、それが裏目に出ることも当然予想される。

実質的な対応としては、我々はアメリカの属国に徹しきって、アメリカの要求されたことだけに対応していけば、民族の誇りは失っても生物的な生の維持だけは保証されるであろう。

この論文の文中にも「アメリカとのおつきあいだけは止めよ」と述べているが、「アメリカとのおつきあいを止める」ということがどういうことか判っているのであろうか。

民族の誇りを失いたくないがための綺麗事の文言ではなかろうか。

我々はアメリカとのおつきあいを断って唯我独尊的に生きていけるのであろうか。

我々は、かって、満州国建国に伴うリットン調査団の報告を拒絶して、国際連盟を脱退して、大いに誇りを誇示したが、その結果は後年どういう風になったのであろう。

アメリカとのおつきあいを断つ、ということはこういうことではなかろうか。

こんなことをそう安易に言うべきことではないと思う。

自主独立ということも、言葉は綺麗だがそうそう安易に出来ることではないわけで、日本のように全てが貿易に立脚している浮き草のような国では、そう安易に「つきあいを止める」などということが出来るものではない。

極端なことをいえば、つきあいも戦争のうちなわけで、通常のつきあいの中で如何にこちら持ち出しを押さえ、相手から得るものを多くするかは戦争そのものである。

外交ということは、そのまま戦争ということである。

我々、戦後の平和主義の人たちは、これを分けて考えるから、常に相手にしてやられているのである。

その意味からすれば、戦後の日本は、常に相手の言いなりになっているが、その間銃弾が飛び交わないので、それを戦争という認識で見ることがない。

外交も戦争のうちと捉えれば、戦後の我々は連戦連敗であることに気がついていない。

東西の冷戦が終結して以来というもの、地球規模で、小さな国が独自の主張を押し通すようになってきた。

2度にわたるイラクの戦争もその類であり、アフガニスタンでもその類であるが、これは一体どういうことなのであろう。

東西冷戦が終ってしまったので、超巨大な軍事力による締め付けがなくなり、弱小国家が我が儘を言うようになったのであろうか。

冷戦時代ならば、そういう我が儘を言えば他からの干渉を受けやすいが、冷戦がなくなってしまえば、露骨な干渉が出来なくなってので、逆にそういう国々の突出が顕著になったということであろうか。

冷戦の崩壊ということは、旧ソビエット連邦の崩壊なわけで、そのことによって旧ソビエット連邦は新たな地域への取り込みという覇権主義が頭打ちになり、それだから小さな国々はその恐怖がなくなった分、自分達の我を出すことが可能になったということであろうか。

イラク、イラン、アフガニスタン、北朝鮮、その他アフリカの国々のごたごたなど、アメリカが本気で戦争すれば2、3日で決着がつくはずであるが、現実はそうなっていない。

これらの国々は一言でいえば低開発国である。

先進国との間には抜き差しならない大きな格差が横たわっている。

この格差が紛争の原因だとよく言われるが、この格差というのは、それぞれに先進国の努力の結果であって、低開発国の人々は、その努力を怠っているということを素直に認めなければならないと思う。

日本ばかりではなく、世界の賢者も、先進国の繁栄は後進国の搾取の上に成り立っていると主張している。

先進国が先に後進国の人々から搾取し続けてしまったから、後進国はいつまで経っても先進国に追いつけず格差は縮まらないという。

しかし、人類の祖先というのは、今の先進国の祖先でも皆同じような生活をしていたわけで、スタートラインは皆同じであったに違いない。

しかるに21世紀にいたって巨大な格差が出来たということは、ひとえに先進国の人々の努力の結果であったわけで、人類の誕生以来の人々の努力の結果を、格差の是正という一言で、ご破算にすることはあまりにも暴論だと思うし、それを言う賢者の奢りだと思う。

それと、こういう地域に住んでいる人は、先進国に追いつき追い越せなどという思考は最初からもっていないのかもしれない。

現代に生きる我々も、時として野性に帰りたいという願望をもっているが、こういう地域に住んでいる人たちは、現代人の願望そのものの中で生きているわけで、彼らは不幸などとは思っていないのかもしれない。

ひどい格差で気の毒だと思うのは、我々先進国側の思い上がった奢りであるのかもしれない。

ところが先進国の文化が、こういう人々の生活を徐々に蝕んでいることは確かだろうと思う。

テレビの映像を見ていると、未開の地でも近代文明としてのゴミの存在が写し出されるわけで、未開の地で裸同然の人々がレジ袋に食物を入れている映像などを見ると、文化文明の恥部を見せられたような妙な気になる。

彼らとても便利なものは率先して使うわけで、そう言いながらも、そういう素朴な人々を騙した先進国の人々の罪は咎められて当然である。

我々の場合でも、アイヌ民族に対する接し方においては、確かに大和民族の老獪さは咎められても仕方がない。

ああいう状況で、未開人の努力を求めても、それは無い物ねだりに匹敵するようなことであるが、だからと言って、先進国の側が格差の是正といって未開人を甘やかすこともあってはならないことではなかろうか。

 

メデイアの宿命

 

例えば、今のイラクの内情というのは、正に宗教対立が激化した様相を呈しているが、あれと同じことはヨーロッパの人々は何世紀にもわたり何度でも経験しているわけで、彼らとても自分達で納得するまで続くに違いない。

我々はあくまでも傍観者として眺めているほかない。

アメリカも、あの地からは手を引いて、彼らの納得するまでテロの応酬を眺めていればいい。

紛争地における国際貢献などに手を貸すことなく、ただ傍観していて、治まったころを見計らって平和構築をすればいいが、困ったことに、そういう地域から平穏な先進国にテロの応酬が広まることである。

20世紀前までの地球ならば、民族間のテロの応酬が地球規模で移動するということはなかった。ところが、今日では航空機の発達で、人はどこにでも飛んでいけるわけで、後進国内だけに止まっていないので、それへの対応がはなはだ厄介である。

そして容疑者を収監すれば、先進国の中から人権問題が噴出して、そういうテロ集団に好意的な輩が出てくるから先進国では内にも外にも敵がいるようなものである。

私は無教養な単細胞の思考なので、今日のイラクの状況など機が熟すまで放置しておけばいいと思っているが、日本の教養知性豊かな知識人は、ああいう状況にも日本人がシャシャリ出て、国際貢献と称するなにがしかの実績を上げなければと思っているに違いない。

ところが、それをしようにも日本国憲法が大きくのしかかっているわけで、ストレートにそういうことがいえない。

ストレートに言えないものだから、持って回ったような訳のわからない論理の積み重ねで、それを言うとするものだから、言うことの整合性が合わなくなってしまうのである。

世界でアメリカに次ぐ経済大国であるからには、それにふさわしい国際貢献に応じるべきだ、という発想は、その言葉の裏に民族の誇りが潜んでいるわけで、その誇りを失いたくないが故の本音が見え隠れしていると考えるべきである。

本当に民族の誇りなどどうでもいいと考えているとするならば、自衛隊の海外派遣など頭から否定すればいいわけで、一国平和主義をとことん主張すればそれで済むわけである。

世界からどのように思われ、どのように見られようとも、日本人が戦火で命を失うことを徹底的に回避すればいいが、そこまでは徹しきれないので、曖昧な表現のまま、是認するのか否認するのか訳のわからない論説となるのである。

国力に応じた国際貢献ということを言うならば、それは同時に、国力に応じた軍事力の保持のということにもつながるわけで、彼ら進歩的知識人としての諸説と相容れないことになるのではなかろうか。

国力に応じた国際貢献を切望するということは、日本民族としての誇りを失っていない証拠なわけで、国際社会に日本の存在を知らしめるために、そういう発想に至るのであれば、それはそれで結構なことと言わなければならない。

ただ海外で自衛隊が活躍する場というのは、どうしても危険な場所ということにならざるを得ない。平和で、何のトラブルもない地に行くのであれば、文民でもいいし、民間人でもいいわけで、自衛隊が行くとなれば、それ相応の危険地帯であることは論を待たないわけで、これは地球規模での常識であるが、こういうことを今までの朝日の主張は許していなかったではないか。

自衛隊の海外派遣というのは、戦前の日本軍が国外に進出していったのとは完全に異なるもので、その認識は朝日にも浸透しているように見受けられる。

当然といえば当然のことで、朝日の中の人間も、62年間というタイムスパンの中では新陳代謝を繰り返しているわけで、昔のままの認識ということはありえない。

とはいうものの、平和思考が一段と強い集団であることには変わりはないが、この平和思考というものが、知識集団としての朝日の独断鳩と彼らが思っているとするならば、それはインテリーの思い上がりというものである。

今どき平和思考でない人がこの日本に居るであろうか。

戦後の日本人ならば、生まれたての赤ん坊から棺桶に片足を突っ込んだ老人まで、平和思考でない人など、見つけることさえ出来ないはずである。

日本国中が全部平和思考であるとするならば、その中で朝日としての知識集団が、それに輪を掛けて平和を説くということは一体どういうことなのであろう。

ほかに論ずべき争点をもっていないということではなかろうか。

大学の先生からまちのホームレスまで、日本人のことごとくが平和思考であるなかで、尚一層それを声高に叫ぶということは、ある意味で日本の国民を馬鹿にしているということではなかろうか。ところがこれはメデイアというものが抱え込んでいるある種の宿命なわけで、メデイアというものは釘一本、米一粒自ら生産するものではない。

オオカミ少年と同じで「オオカミが来る、オオカミが来る」と世間に警鐘を鳴らすという宿命を背負っているが、その警鐘が真実かどうかはメデイアの側の責任ではないのである。

それは警鐘を受けとる側の責任なわけで、メデイアの側としては、「オオカミが来る」ということが嘘であろうが真実であろうが、そんなことを忖度する必要はなく、警鐘さえ鳴らし続ければメデイアとしての使命を果たしたことになるのである。

この「提言・日本の新戦略」という論説集も、朝日がこれを世間に公表することによって、それがきっかけとなり世論が沸騰すればそれでいいわけである。

メデイアはそれで良いかもしれないが、評論家とか大学教授はそうであってはならない。

特に大学教授というのは何時の時代でも若者に大きな影響力を持っているわけで、そういう人が安易にメデイアに踊らされて浅薄な思考を展開してはならないと思う。

21世紀という時代状況の中では、どこの国でも政治をリードしようとすると、どうしても国民の合意というものを考えなくてはならない。

それは「メデイアのいう通りにする」という意味ではないが、民主主義国家なればなるほど、国民の意思、意識というものを忖度しなければならないことは当然である。

民意というものは、選挙の結果で大ざっぱな動向は探れるが、もっとも頼りになるのはメデイアの論調であることに変わりはない。

メデイアというものが、国民の声の集大成という部分は大いにあるわけで、その意味からすれば、立派な社会の木鐸である点は今も昔も変わらないと思う。

その証拠は、今でこそアカイアカイ朝日といわれているが、戦前・戦中は極めて愛国的な主張をしていたのが朝日新聞であったわけで、その意味で当時の朝日は国民の国威掲揚には積極的に貢献していたメデイアの一つであった。

その事実をもってすれば、当時のメデイアは、その時代の時流に見事に乗っており、その意味で国民の声なき声を代弁していたわけで、その当時の国民の民意を大いに汲み取っていたことになる。

当時の新聞社が検閲や、紙の支給という脇からの締め付けで当局の言うことに従わざるを得なかった、という状況は考慮するにしても、国民の声を代弁し、国威掲揚に協力していた事実は変えることが出来ない。

ということは時流に翻弄されていたわけで、その中で個人の良心は封殺され、卓越した論議は閉ざされ、ただただ生物学的に生を維持しなければならなかった、ということは察してあまりある。

ならばそういうことが一切払拭された戦後においては、その時代には出来なかった国民の合意形勢に参画しているかと言うと、片一方からの視点しか表明していないようにしか見えない。

その片一方というのは左翼陣営からの始点しか示していないということである。

この「提言・日本の新戦略」で言っていることは、戦後の左翼陣営の論壇華やかりし頃に比べれば非常にトーンダウンしているが、メデイアの主張する論説というのは、その性質上どうしても八方美人的に、誰も「否」と言えないようなオブラートに包んだ万人向けの論調になりがちである。

国民の忍耐や苦を伴う真実は言えないわけで、そういうことは全て「政府が悪いからだ!」と、責任を他に転嫁せざるを得ないわけである。

それもある意味で民主主義の資本主義体制のモトでは、メデイアもその中で生を全うしなければならないので、広告主というクライアントの意向に逆らう勇気がないのである。

第一、「政府が悪い」と言うことは誰でも何処でも何時でも安易に言えるわけで、それを言ったところで誰も困らないし、反発してこないし、傷つかないわけで一番無難な攻撃対象である。

メデイアが自分の論説の中で具体的な固有名詞を上げて敵を作り上げるとすれば、それこそ広告主というクライアントを失いかねないし、社会の木鐸と称しながら弱いものイジメをしている風にも見えるので、具体的な敵というのは極めて慎重に作らねばならない筈である。

ところが、政府や、官僚や、行政を叩く分には、そういう気配りをする必要がないわけで、何時でも何処でも誰でも安易に出来るわけである。

ということは、ものを深く考えなくても済むということでもある。

自衛隊が政府の命令で海外派遣されて、その隊員が死のうと生きようとメデイアにとっては何の責任もないわけで、悪いのは派遣した政府なのだから、政権を交代せよといっていれば済むことである。

 

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