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「提言・日本の新戦略」その7

 

内政干渉?

 

朝日新聞、社説21、提言「日本の新戦略」の16項目は「人間の安全保障」となっていた。

「人間の安全保障」とは一体どういうことを指し示しているのであろう。

この言葉はその意味が極めて不明確な表現だと思う。

その言わんとするところは恐らく人間の基本的人権の遵守ということではないかと想像するが、もしそうだとすれば、そういう風に素直に表現すればいいわけで、何も安全保障などと持って回った言い方などしなくてもいいはずである。

この文中で言わんとするところは、地球規模で庶民の生活を眺めた場合、一人一人の生活や生命を守るのは本来国家の仕事であるが、現実には様々な要因で、それがそうなっていないところがある、故に、そういう国々には外から支援しましょうと言うことである。

この思考も、人間の在り方として究極の理想主義の具現化を説くものであるが、この地球上には自分の祖国から虐待を受けている民族も確かに存在すると思う。

そういう国の人々を救い上げよう、という考え方は極めて人類愛に充ちた行為に見えることは確かである。

ところがある国の国内が内乱状態で,混沌とした状態であったとしても、それを解決すべきはその国の人々でなければならないはずで、それを外側から見て、あの国の人々が可哀想だから何とか支援しましょうという発想は、人類愛としては大いに賛同できるが、愛があれば何をしても良いかと言うことはまた別の問題を提起すると思う。

いわゆる内政干渉である。

20世紀前半までの帝国主義的領土拡大というのは、ある意味でそういう内政干渉を拡大解釈して行われてきたわけで、如何なる国も「我々はお前たちを隷属するためにきた」とはいわないわけで、表向きはその国の政治的混乱の平穏化を旗印にしてきたのが近代の人類の歴史ではなかったのか。

内乱で混迷している国の人々を外から支援するということは、誰が見ても非の打ち所のない綺麗な理想であり、人類愛に充ちた行為であり、博愛精神の具現化そのものであるが、この考え方の最大の欠陥は、救う側と救われる側に共通の価値観が存在していないということである。

価値観の相違がその間に介在するということは、いわば伝統の存在がそうなさしめているのである。

いわゆる今日の先進諸国の人々は、従来の民族の伝統というものをある意味で棚上げしてしまって、国家というシステムの中で、民族の伝統よりも社会全体の近代化ということに目を奪われているが、先進国でない人々は、近代化よりもなお彼らの伝統にウエイトを置いているのである。

ところが、文明の利器というのは誰が使っても便利なわけで、刀よりも銃の方が人を殺傷するのに効率がいいことは、先進国であろうと後進国であろうと変わらないわけである。

暗黒の夜には皆で何代も続いてきた同じ踊りを踊るよりもテレビを見た方が楽しいことも、先進国であろうと後進国であろうと変わらないわけである。

裸足で移動するよりも車で移動した方が誰にとっても快適なわけである。

こういうものが未開の地に入り込まなければ、彼らは彼らのリトルワールドの中で平和に暮らしておれるが、そういうものを見聞きすれば当然のこと、そういうものが欲しくなり、ふと気がつくと「あいつらはそういうものを持っているが我々はどうして持てないのだろう」という疑問につながることも当然の成り行きだと思う。

また、先進諸国の人々が自由気ままにそういう地域に入っていくと、「我々は実に豊かな生活をしているが、彼らは何と惨めな生活をしているのであろう、これは何とかしなければならない」と人間の持つ根源の愛情というものが沸々と湧き出るのも自然の成り行きである。

人間が本来根元的に持っている善意というものが刺激されて、こういう可哀想な人々を何とかしなければならない、という発想に至るのも自然の摂理である。

近代主権国家というのは、国家のシステムが堅牢に出来上がっていないことには主権国家たり得ていないわけで、それは言い換えればきちんとしたピラミット型の社会が構築できていない国は近代国家と言えないということでもある。

独裁政治であろうが民主主義体制であろうが、国家の枠組みというものがきちんと出来上がっていて、国境の縁まできちんと国家権力が機能して始めて近代国家という概念が現実のものとなるのである。

一方、ある地域に住む人間の側からすれば、国境などというものは自分達の生活とは何ら関係がないわけで、好きなところを耕し、好きなところに牛や羊を放牧してもいいはずであるが、それを規制するのが自分の国の国家である。

ある地域に生きている個人が、今までなにも問題がなく、今までもそうであったからこれからも良かれと思ったとしても、祖国が「ここから向こうは余所の国だから出るな」、あるいは「お前は余所の国の人間だから出よ」と、権力でもって規制するのが国家というものである。

当然、そう言うことは、その地域に住む人々にとっては厄介な事はいうまでもなく、だから素直に従うとは限らないのも当然の成り行きだ。

こういう諍いは、当然、国家の中心地から離れた辺境、いわゆる国境近くでおきるわけで、そのことは必然的に他国との諍いに直結してくることになる。

この繰り返しが民族紛争となるわけであるが、この根底には民族の伝統が大きく関与していると思う。

民族の伝統が大きく関与しているということは、言葉を換えれば、価値観の相違が横たわっているということであって、この相違の幅を縮めないことには、和解が成立しないのも当然である。

「人間の安全保障」という文言は、人間の基本的人権のことを言っているのではないかと思うが、こういう解ったような解らないような言葉を弄するということは、メデイアを始めとする知識人の傲慢な奢りだと思う。

知識人ならばこそ、解りやすい言葉で人々に説かなければならないはずであるが、それをわざわざ解らない言葉で人々を煙に巻くという発想は、人々を愚弄するものだと思う。

この冒頭の書き出しはこうなっている。

「一人一人の生命や生活を守る本来の責務は本来国家にある。しかし、紛争や経済危機に見舞われた国々の政府は国民を守る力を失う。そこで、外からの支援を通じて暴力や人権弾圧などの恐怖を絶ち、貧困に由来する食料や水、教育、医療の欠乏をなくしていく。」となっているが、見事に我々日本人の奢りを展開している。

この文言の裏にある執筆者の脳裏には、彼が属する祖国、我が日本という国が、尊大な金持ちで、貧しい人に銭を投げ与える高慢ちきな偽善者としての成金趣味が見え見えではないか。

人間の理想を絵に描いたようなもので、自分が何をしようとしているのか、目に見えていないではないか。

「外からの支援を通じて暴力や人権弾圧などの恐怖を絶ち、貧困に由来する食料や水、教育、医療の欠乏をなくしていく」という文言は、戦争に負けた我々が終戦直後に受けたアメリカの占領政策と瓜二つではないか。

如何に善意であろうとも、我々が敗戦によって蒙った占領政策と同じことを他国にしようという発想は、自分達が蒙った占領政策というものに対して全く無知であるということに他ならない。

完全に内政干渉に当たることではないのか。

人道の名のもとに内政干渉していいものかどうか、胸に手を当てて考えてみる必要が有るのではなかろうか。

武力を使って内政干渉するわけではないので、自分達の発想が内政干渉に当たっているということに感覚が麻痺しているのではないかと思う。

 

醜悪な成金趣味

 

この発想の根源にある思考というのは、自分が良いと思っていることは、世の中の人全部がきっと良いことだと思う、という思い込み以外の何ものでもない。

これと同じパターンを我々は過去に経験しているわけで、戦前、戦中を通じて、我々が中国に進出したときの動機も、中国にとっても良いことをしたつもりでいたが、相手はこちらの意図の裏を感じ取っており、世界も中国に同情し、我々は国際社会、当時の国際連盟から孤立したではないか。

2003年アメリカ・ブッシュ大統領が始めたイラク戦争は、サダム・フセインを大統領の座から引きずり下ろすことが目的であり、その後はイラク人の民主的な政権が出来ることを想定した戦争であったが、その後の部分は未だに実現していない。

ブッシュ大統領がサダム・フセインに戦争を吹っかけた理由は、大量破壊兵器を隠匿しているのではないか、という疑惑であったが、アメリカ・ブッシュ大統領にしてみれば、理由などどうでもいいわけである。

国連の安保理決議が有ろうが無かろうが、アメリカは戦争をしたいときにするわけで、本当はアメリカの行動はケシカランことである。

ならばアメリカがケシカランからといって、誰がアメリカに制裁を加え得るのか。

アメリカに戦争を思い止めさせることが出来る国が他にあろうか。

朝日新聞の論説委員が社説でアメリカの非をつらつら書き立てたらアメリカは戦争を止めるであろうか。

日本の首相が懇願したらアメリカはイラク戦争から手を引くであろうか。

中国やイギリスの首相が懇願したらアメリカはイラク戦争から手を引くであろうか。

アメリカは明らかにイラクの内政に干渉している。

武力でもってイラクの内政に干渉している。

とはいえ、アメリカが武力でもってしているイラクの内政干渉を止めたら、イラクは平和国家として国際貢献に尽力する気配があるであろうか。

今のイラクの宗教対立は、それこそイラク人の基本的人権を脅かしているが、それはイラク人によってなされているわけで、あくまでもイラク人の選択の結果であり、アメリカ軍の所為ではないはずである。

サダム・フセインを倒すまではアメリカのイラク政治への直接介入であったが、その後のことはイラク人自身の問題の筈で、この辺りのことをきちんと整理しなければならないはずであるが、日本のメデイアは、表層的な論評しかせず、何でもかんでもアメリカさえ悪者に仕立てていれば当面の糊口は凌げるということになっている。

この論文も、イラクの現状を頭の隅に入れながら執筆されているであろうが、イラクの現状こそイラク人の基本的人権、あるいは人間の安全保障が揺らいでいる典型的な例であるが、これは他者では如何ともしがたい問題だと思う。

食料や水、教育、医療を他者が分け与えることは当座の問題としては可能であるが、基本的にはその国の社会的基盤整備の一環なわけで、その国の人が努力しなければなんとも答えようのない問題だと思う。

他者として綺麗事を言うことは簡単である。

それを実施しない政府を責めることも簡単である。

しかし、こういう善意の思い込みも、それが人の善意から出ている言葉であるが故に、反論もしにくいわけで、結局は理想論を並べるだけで終わってしまいがちである。

この論説には3つのキーワードが掲示されていた。

1    国連・平和構築委員会の中軸国となる。

2   「法の支配」定着への支援をお家芸とする

3    ODAを大幅に増やす。

というものであるが、この第1項の「国連・平和構築委員会の中軸国となる」という文言もずいぶんと思い上がった発想だと思う。

地球規模で見て、日本という国が世界から嫌われているということを全く無視した思考に陥っていると思う。

我々は日本という国は、地勢的な条件からどうしても井戸の中の蛙という状況を脱しきれない。

その井戸から飛び出して、世界を股に掛けて活躍している人も大勢いるが、我々が接している外国人というのは、我々が直接的に接しているというだけで、我々に対して本音を言っていないと思う。

誰でも親しい友人や近隣の人たちの中で、本人の目の前で、面と向かって悪口は言わないものである。

それが人と人の接するときのマナーといわれるもので、マナーを欠けば、その人は価値を薄めることになり、普通の人々はマナーの上に外交手腕を発揮するわけだが、それと本音は全く別のもので、我々、日本人、日本民族は、世界中から嫌われているということを肝に銘じておかなければならないと思う。

それは、我々が世界でも優秀な民族であるからこそ嫌われてわけでそこを見誤ってはならない。我々が怠惰な民族で、戦後60年間も終戦直後のように、食うに食い物無く、働こうにも職なく、住む家もない状態ならば世界の人々はそれこそ心を開いて我々に接してくれるに違いない。

ところが現実には、我々の国はアメリカに次ぐ経済大国なわけで、アメリカ以上に豊かさを謳歌しており、その上徴兵制もなく、他国に戦争を吹っかけることもしないわけで、その意味ではまさしく極楽そのものである。

こういう国を間近に見て、羨望のまなざしを向けるな、羨むな、あこがれるな、見本とするな、と言うほうが無理な話で、それが国家という立場に立てば、当然、現実の思考として跳ね返るも無理からぬ成り行きである。

「国連・平和構築委員会の中軸国となる」と言うことは、国際社会の中でそれ相応の地位を保持しなさいと言うことであって、それは経済大国として世界的な認知を得ようということでもある。

それは同時に、日本という国の誇りにもつながっているわけで、朝日新聞という左翼系の新聞でありながら、祖国の誇りをうんぬんするという発想自体が極めて日和見な思考のように思われる。

地球規模で日本民族の誇りを誇示しようとすれば、当然、挙国一致でなければならないはずであるが、そういう風な雲行きになると知識人たちは腰が引けてしまう。

上からの力でそういうことが強制されると、一遍に気持ちを委縮させてしまうが、外側からおまつりさわぎのように騒ぎ立てることは痛快なことに映るわけで、自分達が世界から嫌われているということを忘れてしまっている。

日本の知識人は、自分達の祖国をけなし、陥れ、余所の国に貢献しながら、それでも心の隅に民族の誇りのかけらのようなものを引きづっているのであろう。

「国連・平和構築委員会の中軸国になりたい」ということはそういうことを言い表しているのであろう。自分の祖国をさんざん悪し様に言いながらも、その一方で国際社会の中ではきちんとした立派な国家として認めてもらいたい、というひそかな願望を持っているということであろう。

今の国際状況の中で、「国連・平和構築委員会の中軸国になりたい」ということは、いわゆる成金趣味、いわゆる成り上がり者の思考なわけで、日本は世界でもアメリカに次ぐ経済大国になったのだから、金で解決できることは大いに金を振り撒きましょう、ということに他ならない。

国連・平和構築委員会の中軸国というものを金で買いたい、という成金趣味の延長線上の発想でしかない。

ところが世界の人々は、共に血と汗を流すことこそ人の道として普遍的な行為だという、伝統的な思考から抜けきってわけで、そこにこの朝日新聞の論説を執筆する人と、地球上の普遍的な思考とのギャップがある。

第2項の「法の支配」定着への支援をお家芸とする、という文言も知識を糊口の糧としている人にとっては実に意味不明の文言ではなかろうか。

「法の支配」を定着させる手伝いをするというのならば、まだ理解できるが、定着への支援をお家芸とするという言い回しは一体どういうことなのであろう。

人としての基本的人権が不確定なところというのは、法の支配が曖昧な地域ということに他ならない。

ところが法が確立するということは、その地域に住む人々の伝統との決別なわけで、ある意味で伝統を破壊しないことには法の確立ということはあり得ず、それは法を作るだけでは駄目で、法を運用する権力をも同時に作らねばならないわけである。

この時に権力の乱用ということが往々にして起きるわけで、権力の乱用を如何にコントロールするかが近代化、とりもなおさず民主化を計るバロメーターでもある。

近代化の遅れた地域、近代文明から隔離された人々、一部の独裁者に蹂躙されている人々に対して、法の支配を説くということは非常に重要なことであるが、法の支配という場合、独裁者の支配というのもある種の法の支配なわけで、我々の認識ではそれでは困るわけで、言うとすれば、「民主的な法の支配」という言い方でなければならないと思う。

独裁者の法の支配ということであれば、サダム・フセインの独裁も容認される筈であるが、そうならないのは、民主的な法の支配でなかったからサダム・フセインは糾弾されたというわけだ。

法の支配ということは価値観の共有ということでなければならず、法だけを作っても、それを施行する強力な機関がないことにはなんの意味もない。

その部分に価値観の共有ということが大きく作用する。

法を施行するのに強力なパワーが必要ということは、その影響を受ける人々にとっては今までの従来の風俗習慣を大きく否定することにもなるわけで、それだからこそ、その否定する部分に共通の価値観がなければそれはただ単に混沌を生み出すだけということになる。

これが今のイラクの状況だろうと思う。

サダム・フセインを、ことの善悪はともかくとしてアメリカが追放したからには、後はイラクの人々が法の支配を確立して、その法の順守をイラクの人々に説かなければならない筈のものが、お互いに宗派間の争いに終始しているので、価値観の共有がなされていないということである。

この論文の執筆者は、そういう中に日本が入っていって法の支配の定着を支援せよといっているわけだが、これこそ井戸の中の蛙の世界観だと思う。

こんなことが我々に出来るわけ無いではないか。

自衛隊にしろ、民間のNGにしろ、こんな紛争地域に入り込んで「法の支配の定着に努力せよ」ということは、戦中の特攻隊に志願せよというに等しい言い草であって、とても知識人の口から出る言葉ではないはずのものである。

紛争地帯に丸腰で入っていって、抗争し合っている双方に、和解を説こうとすれば、当然のこと命の保証はないわけで、そんな行為を他者にさせる権限を日本人の誰が一体持っているというのであろう。

こういう能天気な発想というのも、物事を知らないということからくる絵に描いた餅のようなもので。こういう人がさもインテリーぶって理想論と説くから混迷が続くのである。

日本のインテリーが物事を知らないという中に、日本人が如何に世界から嫌われているかということも入っている。

我々は世界から如何に憎まれているかということが全く解っていない人がこういうことを喧伝するから、国民は間違った情報を信じてしまうのである。

我々が何故世界から憎まれているかというのは、我々があまりにも勤勉で、戦後わずか60年でアメリカに次ぐ経済大国になったという実績から来ているわけで、我々が食うや食わずの生活を余儀なく強いられていれば、世界の日本人を見る目から憎しみは消えるであろう。

ところが、我々は世界中の成金趣味を振りまいているではないか。

年端もいかない若者が、世界の繁華街で、臍だしルックでちゃらちゃら目の前で傍若無人に振る舞っていれば、現地の人がどう考えるか想像するだけでも解るではないか。

こういう世界の庶民の声というのは我々には届かないはずである。

世界各国の首脳の話はニュースになるが、外国の庶民が日本人観光客を見たときの印象などというものは我々に届かないのも無理無いない話で、海外の庶民は心の奥底ではそう思いつつも、目の前の観光収入ということを考えれば面と向かって反日感情というのは押さえなければならないはずである。

日本で映されている海外事情というのも、日本向けに編集されているわけで、取材の段階から金で相手を黙らせている筈で、彼らも本音というのは決して言わないものと考えるべきだと思う。

何しろ、我々にはアメリカに次ぐ金を持っているわけで、日本人をボイコットすれば、それだけで彼らの観光収入は激減するわけだから、少々のことは笑って済ませる魂胆であろう。

 

彼らの選択

 

そういうことに無頓着なのか、それとも最初から眼中にないのか知らないが、相も変わらずODAの拡大を説いているわけで、これこそ成金趣味の最たるものではないか。

日本の戦後復興には世界銀行からの借款に負うところが大きくあったことは否めないが、それは我々の努力の結果であって、金をばらまけば今の低開発国が我々同様の効果を出すかどうかは全く疑問視されてしかるべきだと思う。

「低開発国に対するODAを増やせ」ということは、国内向けならば福祉を充実せよと言うことと同じなわけであるが、福祉を充実させた結果、イギリスや北欧の国々がどういう経過を辿ったかということを考えるべきである。

福祉の充実ということは、負の投資をするということで、その見返りは決してあり得ないわけで、それと同時に極めて共産主義社会に近づくということであるが、旧ソビエット連邦の崩壊というのは究極の福祉の充実の結果であったことを心に銘じてから言うことである。

我々は戦後の復興を世界銀行からの借款を受け、そのことが契機となって死に物狂いで働いた結果、アメリカに次ぐ経済大国になれたが、今の低開発国で日本と同じことが考えられるであろうか。

そんなことは金輪際あり得ないと思う。

何故か。それは文化が違うからである。伝統が違うからである。思考方法が違うからである。

その意味で、我々は世界の民族の中でも特に異質な民族だといわなければならない。

この異質さは他民族から見るとまさしく脅威であり、恐れであり、妬みの根源であり、まねの出来ない本質的なものに映っているに違いない。

こういうものが裏がえしになって、日本人は世界から嫌われているのであるが、日本の知識人はその点について全く無頓着である。

無理もない話で、彼らの接する外国人というのは先方も一般の庶民ではないわけで、彼らと同等以上に先方も知識人であり、露骨に嫌悪感を顔に出すようなことはしない。

それに、お互いに会話を交わす間柄なれば、考え方の相違を埋める手法も簡単に探し出せるが、問題は双方にそれが出来ないレベルの感情が重大なわけで、そこを見誤ってはならない。

低開発国の支援を語るとき、日本からの支援はひも付きだからケシカラン、という話が以前あったが、ひも付きが嫌ならば支援を中止するぐらいの強い姿勢を相手に見せるべきで、そういう駆け引きそのものがいわゆる外交手腕の一つであるからして、堂々と反論すべきである。

日本がODAで金を出すということは、外交官のポケットマネーを出すわけではなく、国民の税金をそういう人々の与えることから考えれば、当然のこと納税者の為にもその使途にまで注文を付けてしかるべきである。

日本は憲法で戦争放棄をしているので、武力行使で外交をコントロールすることは禁じられている。ならば武器の代わりに金を使って日本の国益を保護し、なしは有利に導くぐらいの駆け引きは当然許されてしかるべきである。

ここでも外交の部外者としてのメデイアは、綺麗事の言葉の羅列で責任を他に転嫁しようとしているが、戦争放棄を憲法で規制されている我々としては、外交の後ろ盾は金しかないわけだから、その金の使い方には当然あれこれ注文を付けてしかるべきである。

ひも付きで結構である。ただで相手にくれてやる必要などさらさら無いはずである。

これこそ国際政治、つまり外交の真髄でなければならない。

金を出すからにはその金の使い道、使い方にも当然あれこれ注文を付けて、それが日本に還元されるように仕向けてこそ有効な金の使い方と言うものであって、ただただ理想論で青臭い偽善ぶった言辞を弄すべきではない。

ここでも当局者とメデイアでは立場が違うので、その言辞には相反するものがあって当然であるが、普通の市井の人間にしてみれば、メデイアの言っていることしか目に入らないわけで、それが物事の本質だと知らず知らずのうちに刷り込まれてしまう危険がある。

「低開発国の貧しい哀れな人々を支援するのに、ひも付きの資金援助とは何事か」という、極めて単純な正義感に惑わされてしまいがちであるが、これこそメデイアの責任だと思う。

これは私の持論であるが、今の低開発国の人々の支援という問題は、彼ら自身が目覚めないことにはなんの薬にもならないわけで、彼ら自身が我々と同じ価値観の生活を望んでいるかどうかははなはだ疑問である。

弱った体にいくら投薬としての資金援助をしたとしても、元々の体に潜在的な回復力がない、自立する気がないことには健康は回復できないわけで、ただただ慈悲で行うべきではないと思う。

アラスカに住んでいるエスキモーの人、今はイヌイットと言わなければいけないそうであるが、こういう人たちが本当にニューヨークや東京に住みたいと思っているかどうかははなはだ疑問である。アフリカの奥地に住んでいる人々が、本当にニューヨークや東京に住みたいと思っているかどうかははなはだ疑問である。

彼らは従来の生活様式を変えたくないと思っているのかも知れない。

しかし、彼らとても自分達の生活に取って便利なものは誰から強制されなくともさっさと利用しているわけで、それは自然に生きる人たちの自然の法則に違いない。

彼らがそういう生活を望んでいるということは、彼らの従来の伝統の中で、それをこれからも維持しながら生きようとしているわけで、そこに法の支配や慈悲による資金援助を施しても、これは衝突有るのみである。

彼らが従来の生活をそのまま継続したい、ということは、法の支配を脱した状態でいたい、ということで、明らかに我々の価値観とは正面衝突するということである。

そもそも我々先進国の人間が、イヌイットやアフリカの奥地に住む人々を野蛮だ、気の毒だ、可哀想だ、文明から取り残されていると、考えること自体が我々の側の奢りだと思う。

アフリカの奥地には確かに旧態依然とした野蛮な風習のままの生活をしている部族がいたとしても、それは彼らの選択なわけで、それをはたから、こちら側の思い込みによる慈悲という偽善でもって支援しなければ、と考えることに無理があるわけで、それはそのままそっとしておくことこそ人類の英知だと思う。

仮に、彼らの中で部族抗争が高じて、沢山の人々が無意味に殺されたとしても、それと同じことは我々文明人、先進国の人も過去の歴史の中では幾度となく繰り返してきたことなわけで、今更、彼らを咎めることはおこがましいと思う。

先進諸国が過去に行ってきたと同じことが、発展途上国では今起きているわけで、それを我々の立場から見て、野蛮だ、惨い、ひどい惨状だ、可哀想、無慈悲などと批判めいたことが言えるわけがないではないか。

まさしく理念のための理想の綺麗事で、口にすることすら偽善者ぶった態度といわなければならない。

発展途上国というのは、いわば後進国の言い換えの言葉であるが、こういう言い換えをしなければならないところに既に問題が内在されているわけで、遅れた国の人々からすれば、今の先進国の抑圧があったから延びきれなかったという言い分であろうが、冗談ではない。

ならば我々は1945年に文字通り何もかも失ってそれこそ無一文から戦後の復興をなしたではではないか。

1945年昭和20年8月の日本各地の写真を見るがいい。文字通り見事に無一文ではないか。

日本の国会議事堂の前では畑が耕されて、それこそ草の根まで囓って我々は生き抜いてきたではないか。

確かにアメリカ占領軍の放出物資で飢えを凌いだこともあったし、戦後復興には世界銀行からの融資もあったことは確かであろう。

そういう意味からすれば、今の世界の低開発国、発展途上国というのも我々と同じ条件下にあるわけだから、我々と同じような発展があっても良いではないか。

しかし、現実にはそうなっていないわけで、その理由は彼らの側にあると思う。

彼ら自身が我々と同じ欲望を追い求めていない、ということも大きな理由に違いない。

彼ら自身も、彼らの伝統を重んじ、新しい変革を望んでいないのかも知れない。

彼らの今ある姿は、彼らの選択であったわけで、先進国が抑圧したという言いがかりは返上しなければならず、その延長線上で、我々が彼らを我々と同じ土俵に上げよう、上げなければと考えること自体を考え直さなければならない。

我々と同じ価値観に相手を引き上げよう、と考えること自体が間違っているのかも知れない。

この論文の後半の部分に書かれている「集団殺害や捕虜虐待など、紛争地で起きる非人道的な犯罪に目を光らせ、犯罪人を裁く」などということは、我々、先進国側の奢りかも知れないではないか。

我々だとて、集団殺害や捕虜虐待などは繰り返し繰り返し、したりされたりしてきたわけで、そのことを考えれば、今、彼らが我々と同じことをしていても、今更、立派なことが言える義理ではないはずである。

それもこれも彼らの選択なわけで、「紛争地で起きる非人道的な犯罪に目を光らせ」、などということは、先進国側の単なる思い込みに過ぎないのかも知れない。

彼らにとって見れば、集団殺害も捕虜虐待も犯罪のうちに入っていないわけで、その意味で我々も過去の歴史の中では同じであったはずで、彼らの生きんがための単なる手法なのかも知れない。

 

思い上がりとしての感情

 

彼らにしてみれば、人間の安全保障を確たるものにするには、まず最初に武器の調達しかあり得ないのではないかと想像する。

なんとなれば、自分の身を守る、つまり我が身の安全保障は、武器の携行しかないわけで、なんのことはないアメリカ映画の西部劇の場面と同じだということになる。

しかし、これこそが現実の未開地域における人間の安全保障の図だと思う。

アメリカの西部劇で描かれている状況は、ヨーロッパから来た白人から見て、西部の大地というのは、蛮族の横行する未開地なわけで、そういう環境の中で我が身を守る一番の方法は武器の携行であったわけだ。

我々、日本人は有史以来こういう場面に遭遇したことがないので、我々の思考からは思い至らない面があることは致し方ない。

我々は、農耕民族として生まれ落ちたときから同胞に囲まれて生きてきたわけで、異民族とか他者の存在ということを考えたことがないから、どうしようもなく井戸の中の蛙状態になるわけで、外に向かっては綺麗事のみを述べ立てるが、それは我々の民族としてのDNAなのかも知れない。我々の民族の言葉というのは実に不思議で、言葉に重みがない。

西洋人は、自ら発した言葉には、自己の責任を重く受け止めているように見えるが、我々の言葉というのはあくまでもゲームで、言葉に責任が伴っていない。

目は口ほどにものを言うとか、沈黙は金だとか、腹芸だとか、以心伝心だとか、嘘も方便だとか、言葉に対する揶揄の表現が実に多いが、これは言葉に責任を持たせていないことの証拠でもあろう。

無理もない話で、我々は農耕民族として生まれ落ちたときから同胞に囲まれ、同胞の庇護の元で生育するわけで、異民族の恐怖や、異民族からの抑圧ということを経験せずに今日まで来ており、その中では言葉の意味ということを深く考えることなく済ませてこれたからである。

だから「人間の安全保障」などという妙な言い回しが通用するのであるが、この言葉の意味するところは一体どういうことなのであろう。

「自分の身は自分で守れ」ということなのであろうか、どうもそうではなさそうで、人間は国家の庇護の元で生きているのだから、国家が個人の命を守れといっている風に受け取れる。

「自分の身は自分で守れ」ということであるとするならば、それこそ西部劇の場面と同じになってしまうわけだが、「個人の生命・財産は国家が守れ」ということであるならば、国民一人一人はそれこそ国家に奉仕しなければならないことになる。

国民が国家に何一つ奉仕しないのに、一方的に国家が個人を守るというのもおかしな話だと思う。国家に奉仕という場合、それは何も戦前・戦中のように戦争協力ばかりではないはずである。

普通の市民が普通に市民生活をし、その中で納税の義務を果たし、選挙権をつつがなく行使し、普通の社会秩序をきちんと守っていれば、そのことが回りまわって国家に奉仕することになると思う。

ところが戦後の我々、日本人の知識人は、政府が悪いから、そういうことはしなくても良い、という宣伝をするものだから、普通の社会秩序が普通に機能しないようになってしまったわけで、そのことから今日の社会にひずみが出てきてしまったのである。

国家はどんな悪人でも平等に保護すべき立場だ、と妙な平等主義を振り回すから、正直者が馬鹿を見るはめに至ったのである。

今日の日本がいくらモラル・ハザードに犯されていようとも、地球規模で世界各地にある紛争地域よりはまだまだましなわけで、だからこそ日本の知識人は、自分の国の心配をするよりも、低開発国の人々の生活に心を痛めているわけである。

これこそ奢り、傲慢、思い上がりそのものである。

人間が感情に支配される生き物であることは有史以来変わらない人間の本質であるが、21世紀の人間が感情のままに動くともなれば、それは原始の人間と同じということになり、人類は精神的にいささかも進歩していないということになる。

21世紀に生きる人間にとっては、原始の部分と人間の理性と知性でコントロールされる部分を合わせ持ってはじめて現代に生きる人間ということになるものと考える。

人間の理性と知性だけが前面に出て、感情の部分が全くない生き様というのも、明らかに不自然であるが、知識人と称する教養を積んだ人々は、その教養があるが故に、感情よりも知性と理性を優先させるので理想論に走りがちである。

こういう人から見れば、人間が感情に押し流されて、感情の赴くままに行動することは極めて野蛮な行為と映るのも致し方ない。

しかし、理想論が全て善であるわけでもなく、理想論が普遍化するには、それこそ共通の価値観がその前に普遍化しないことには、理想の実現は幻のように遠のいてしまう。

今の地球上にも抑圧された人々が大勢いることは承知している。

同じ人間として、そういう人を抑圧という非人間的な状態から救い出さなければ、という思考は先進国の知識人の視点からみれば 明らかに人間的な善の普遍化であり、博愛精神に満ち、人道主義にも合致し、今に生きる人間として価値ある行いではあろう。

戦後の復興を成功させ、不景気不景気といいながらもアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国の人間として、そういうところに救済の手を差し伸べるということは、極めて有意義な行為と思い込むことも致し方ない。

文字通りこれは歴然とした成金趣味であるが、成金趣味であろうがなかろうが、虐げられた人々に善を成すのに、何を憚ることがあろうかという信条だと思う。

まさしく理想におぼれ、理想の実現に向かっていくドンキホーテのようなもので、自分の独りよがりな偽善に気がついていない。

我々の今の生活を、今、地球上で虐げられている人々に全員に行き渡らせることが善だという思い込みは、我々の極善的な思い上がった思考だと思う。

知識人の思い上がりだと思う。

自分はなに一つ不自由のない高いところにいて、社会の底辺でうごめいている人々を睥睨しながら、「あの下々の人々を救ってあげなさい」と他者を説いている図式でしかない。

奢り、傲慢、思い上がり、独りよがり、独善以外の何ものでもないではないか。

こういう論説を書く人たち、いわゆる戦後の日本の進歩的知識人と称せられる人々は、知識人なるが故に、人間の感情よりも、理性と知性を優先させるところまでは、我々も納得せざるを得ないが、彼らは自分の同胞を信じないという点に一番のアンチテーゼが潜んでいる。

日本の知識人が同胞を信じないという点においては、戦前、戦中、戦後を問わず、我々日本人が日本民族である限り疑いようにない事実だと思う。

戦後、占領軍のマッカアサーのもとで行われた極東国際軍事法廷・東京裁判というのは、あの戦争が当時の日本の為政者の共同謀議で行われた、という結論を導き出したが、あれは占領軍が作り上げた虚構に過ぎず、あの戦争は日本の政治家、軍人たちの共同謀議などではなく、全くその逆で、彼らが相互の不信感に固まっていたが故の結果であって、あの当時、我々の政府首脳、高級軍人たちは、挙国一致で一枚岩として団結していたわけではない。

戦前、戦中を通じて、政府と軍部、政治家と軍人、陸軍と海軍の確執を見ても、極東裁判でいう共同謀議などあり得る筈がないではないか。

極東裁判そのものは、勝った側の勝ち名乗りと同じことで、連合軍が彼らの自国民に対して、戦争の意義あるいは成果報告を知らしめた行為と割り切る他ない。

問題は、そういう国家的危機に際しても、我々は挙国一致になりきれなかったという点にある。

「そんな馬鹿な話はない、我々は天皇陛下のために銃後の民を含めて挙国一致で戦ったではないか」、という反論は当然出てくる。

無理もない話で、庶民は、そういう当時のかけ声のもと、学徒動員や学徒兵として全身全霊を傾けて戦ったが、国家のトップのところに理性や知性が働いていなかったので、本来ならばしなくてもいい無駄な努力をして、結果としてそれがポツダム宣言受諾という形で露呈したのである。

下々の庶民は、言われるままに実に真面目に従い、言われたことを信じ切って殉死していったが、国家のトップにおいては、明らかに意見の相違があり、その相違があるが故に、政局、あるいは作戦が混迷を極め、結果的に国民を奈落の底に突き落としたということになった。

そもそも、日本が海外雄飛にのめり込むということ自体が、身の程知らずという奢りそのものであったわけだが、その点については今もそれに気がついてない知識人が大勢いるのではなかろうか。明治維新を経て我々が近代化するところまではいい。

アジアで最初に近代化してみたら、我々の周りは野蛮国ばかりなことに気がついたわけで、ならば西洋列強と同じことをしてもよかろう、という発想に至ったものと推察する。

それで西洋列強に追いつき追い越せというわけで、帝国主義的経済発展に血道をあけてみると、その西洋列強はもう一歩先にいってしまっていたので、彼らは連合軍を結成し、後発の日本を叩くという行動に出たわけである。

我々が勤勉な民族ではなく、怠惰で向上心も、好奇心もない国民であったとするならば、世界は日本叩きなどするはずがない。

我々は、世にも珍しい勤勉な民族で、好奇心も知的関心も高い民族なものだから、世界は日本を嫌うわけである。

戦後、日本が経済大国になったとたん、我々は再び身の程知らずの無為な行動に出たわけで、それがODAと称する途上国援助というものである。

それは、高度経済成長のあと、我々が海外に出掛けブランド品を買いさった現象と軌を一にしているわけで、庶民の買い物ツアーと同じ感覚で、政府がその成金趣味を国家レベルで行ったのと同じことである。

高度経済成長で外貨がたまりすぎたので、それを還元するという意味では、こういう成金趣味も悪いことではなかろうが、成金趣味はどこまでいっても成金趣味で、知性や理性でそれをコントロールするのが普通の大人のすることではなかろうか。

今、この地球上で抑圧され、虐げられている可哀想な人々を救い上げるというのは、人間の感情として極めて美しい行為に映るが、そういう発想はそもそも人間の善意、生来持っている優しさに由来しているわけで、感情の赴くままそれを容認するということは、原始の人間に限りなく近づくということでもある。

我々が経済大国になり得たのも、地球規模で日本の経済発展に寄与してくれた諸国家の存在があったからだ、という説明も十分に説得力があるが、酷な言い方をすれば、今、ODAを必要とするような諸国家からの恩恵は、我々は受けていないといってもいいと思う。

「いやそんなことはない、我々は世界中から原料を輸入しているのだから、その意味でそういう諸国家の恩恵も十分に存在する」という反論も当然あろう。

日本がそういう諸国から原材料を購入するということは、当然、商取引として日本から金が渡っているはずで、にもかかわらずそういう諸国家が近代化しきれないというのは、そこに中間搾取があるからだと想像できる。

この場合、その中間搾取の問題は、日本の左翼系の知識人の思考からすれば、先進国の大企業が搾取するからだ、という言い分になろうが、この道は先進国の全てが経過してきた道で、全ての先進国も同じ道を過去に歩んできたのである。

先進国が今あるのは、この道を自らの力で克服し、そういう点に民族の力を結集し、努力をして今日を築いてきたわけで、最初から先進国であったわけではない。

アメリカの繁栄はアメリカ人自身が築いたわけで、日本の繁栄もしかりである。

イギリスも、フランスも、ドイツも、皆、似たり寄ったりの経過を経てきているわけで、その間には如何ほど血と汗が流されたかわからないわけで、安穏としていたら向こうから繁栄が転がり込んで来たわけではない。

その繁栄の結果、我々は施される側から施す側に立場が変わったわけであるが、人にものを施すという行為は、何となく心地よい優越感を感じるもので、何かしら人間性が豊かになったように思われるものである。

それは人間の基本的な善意を快く刺激し、暖かい気持ちにさせるものである。

だから施しの額が大きければ大きいほど、より善人になったような気になるものであるが、それは人間の基本的な感情を刺激するからであろう。

ところが、そこで冷静に知性に立ち返らなければならない。

人間の感情というのは、その大部分は単なる思い込みに過ぎないと思う。

「うれしいなあ!」と感じるのは、そういう感情に浸っているだけのことで、「憎らしいなあ!」と感じるのも、それと同じでそういう思い込みに浸っているだけのことである。

その思い込みを反芻し、反省するのが、冷静な思考としての醒めた知性と理性というわけである。ところが世に賢者といわれるような人たちは、こういう感情の赴くままに行動を起こすことを野蛮と認識して、それを理性と知性で塗り固めて、感情をストレートの表さないように工夫する。

その顕著な例が、この論文の中程に書かれている。

「この面で日本が取るべき第一の戦略は、国連改革で新設された平和構築委員会の主軸となることである。紛争から脱したばかりの国が再び内戦に逆戻りするのを防ぐために、必要な措置を国連安全保障理事会に助言するのが主な仕事だ。」

となっているが、この文言はまさしく国連の仕事の良いとこ取りを言っているわけで、「平和構築委員会の主軸になりたい」ということは、日本民族として国連の中で格好の良い、見栄えの良い、どこからも大国として信任される、価値あるポジシュンを得たい、という極めて感情論に立脚した良いとこ取りに過ぎないではないか。

「国連安保理に助言する」という言い分も、ずいぶん思い上がった発想で、これも金を見せびらかして、日本の言うことを聞かせましょうと言う思い上がった思考だと思う。

いずれも貧乏人が成金として成り上がったものの考え方であって、こういう浅薄な思考をしていれば、先方から足をすくわれて、貶められるのが関の山であろう。

この発想の原点にあるのは、とにかく武力というものを使わないで、血を見ることを避け、口先で先方に自分の良い格好を見せつけ、日本民族の誇りを少しでも維持しよう、という涙ぐましい考え方である。

 

常識の大切さ

 

日本が国連に供出している金は、外務省の金でもなく、朝日新聞の金でもなく、それは全て日本国民の血税なわけで、自分の金でないからといって、そう無尽蔵に振りまいてもらっては困るわけで、国連の場でそうそう良い格好する必要はない。

国連で、世界で、我々の常識は世界の非常識として、堂々と胸を張って一国平和主義を貫く勇気を持つべきで、朝日新聞がこんなところで愛国心を鼓舞する必要はさらさら無い。

従来通りの一国平和主義で押し通せばいいわけで、平和構築委員会などに首を突っ込む必要はなにもないはずである。

国連安保理に、集団自衛権も否定している我が国があれこれ言うこと自体がいらぬお節介で、我々はアメリカの腰巾着として自分の立場、持ち場を自覚すればいいわけである。

我々は、自分の住む地域に貢献するというとき、なにも汗水垂らして特別のボランテイァ活動をこれ見よがしにする必要はないわけで、普通の常識の中で普通に生活していれば、それがそのまま地域への貢献となるわけで、国際社会での貢献もそれと同じことである。

国際貢献だからといって、何か特別なことをしなければ、ということないはずである。

ただ、地球的規模で普通のことが、我々の国では普通ではないわけで、それがあるものだから、普通の国が普通に行動していても、我々の場合はそれが普通でない非常識な行為として映ることが往々にしてある。

特に、銃器の使用という場合、我々の認識では正当防衛さえも認めないわけで、銃で殺されるのは殺された方が不運であって、そういう状況を作った政府の責任だ、という論法になる。

それでいて自己責任を明確に認識しているわけでもない。

自己責任を明確に認識していないから、人が殺されればそれを全て政府の責任に転嫁するわけで、個人は自分の生命の維持を他人任せにしているのである。

「人間の安全保障」は全て政府に責任を負わせるわけで、その根拠がこの論文の冒頭に書かれている「一人一人の生命や生活を守る責務は本来国家にある」という文言に現われている。

自分の身を自分で守ることなどしなくてもよく、それは国家がしてくれるので、個人は国家がしてくれるまでじっと待っておればいいということに尽きる。

イラク戦争の時、紛争地域にのこのこ入っていって人質になった馬鹿がいたが、あの時も日本全体では本人の自己責任という認識は沸き上がらなかった。

人質の人命尊重は声高に叫ばれたが、「そんな危ないところに入っていく方が悪い」という認識はついに盛り上がらなかった。

そういう中にまで入っていってアメリカを告発する勇気を称える論調はあったが、自己責任だから放置しておけという論調は皆無であった。

人命を大事にするあまり、自己責任の問題は雲散霧消してしまった。

こういうことは国際社会では非常識の部類にはいるが、こういう認識のものが国際社会で口を開いても、相手に取ってみれば「何を馬鹿なことを言っている」という風にしか映らないと思う。

そういうことを言えば言うほど日本の評価は下がるに違いない。

そのことは、我々と国際連盟を形成している他の諸々の諸国家の間には価値観の大きなずれがあるわけで、「平和構築委員会の主軸になる」と一方的に言ったとしても、相手がそれを素直に受け取ってくれないはずだ。

価値観のずれというのは、こちら側が意識すれば先方もそれを意識するわけで、そういう状況下で、ことがすんなりと行くかどうかは極めて難しいところだろうと思う。

安保理に対する助言というのは、我々の側がいくら助言しようとも相手が聞くかどうかは、それこそカラスの勝手で、トータルとしてなんの意味もない。

但し、こういう文言が出てくるということは、この論説を書いた当人が、つまり朝日新聞の執筆者も、心の奥底に日本の名誉ということをかすかに意識しているということだと思う。

国連安全保障理事国が日本の平和構築委員会の意見を聞き入れて、その施策の方向転換を図ったということになれば、この朝日新聞の執筆者からすれば、極めて愛国心を刺激したことになるわけで、そうありたいと心の隅で思っているということである。

日本の示唆で安保理が態度を変えてくれた、という実績があがれば非常に自尊心が刺激されるわけで、これでこそ普通の日本国民に復帰できたということになる。

自分が手を汚すことなく、口先の弁舌でそういうことが可能になったとすれば、それはそれで真に目出度いといわなければならないが、これもあくまでも絵に描いた餅に過ぎず、究極の理想に過ぎない。

しかし、普通の国の普通の国民ならば、自分の祖国に愛国心を持つのは至極当然のことであるが、ここでも世界の常識は日本の非常識という公理があるわけで、朝日新聞の中に、こういう愛国心を持った人間がいるということは、我々日本人の常識からすれば、驚天動地のことである。

それはともかくとして、悲しいかな、この執筆者も、我々日本民族が世界で如何に嫌われているかということに全く無頓着のようだ。

こういう風に、自分の置かれた状況が解らない、相手の深層心理を読み切れていない、ということはまことに由々しきことで、その無知に立脚して物事を推し量ると、我々はまた大きな過誤を蒙るものと思う。

我々は戦後60年間アメリカとは同盟関係を結んで、お互いに尊重し合っていると思い込んでいるが、ここに大きな落とし穴があるわけで、外交関係で相手を信じ切ってしまう、ということはもっとも危険なことだと思う。

日米関係だけでもお互いの不信感というのは綺麗さっぱり払拭し切れていないわけで、これが国際連盟のような国際会議の場であれば、それこそ複雑怪奇の状態なのが当然のことであって、いくら会議の場が複雑怪奇であろうとも、なにも失うものがない国は極めて気楽なものだが、我々の国はそうではないわけで、それだけに相手の潜在意識から慎重に見極めてかからねばならない。

 

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