070529001
5月3日の朝日新聞「提言・日本の新戦略」という特集は、憲法改正をにらんで予防線を張るという意味が紛々と匂う。
よって、全編が憲法第9条に関わっている。
問題提起として、憲法改正反対という方向付けをねらっている以上、ある程度は致し方ない。
その中で、先に第17項の「9条の歴史的意義」というものについて述べたが、次の第18項の「9条改正の是非」という論説も実に手前かってな言い分に過ぎない。
「自衛隊が普通の軍隊と違うのは集団自衛権を行使せず、海外で武力行使をしないといった原則を持つからだ」と述べている。
冗談ではない、戦後60年間、日本の自衛隊をそういう風に仕向けてきたのは、戦後の革新的と称する政治家とそれに同調したメデイアではなかったか。
日本国憲法を素直に読めば、自衛権といえどもあり得ないはずのものである。
あの憲法そのものが人間の人間としての基本的生存権を否定しているわけで、自らの交戦権をも否定する憲法そのもの存在こそ、日本人、日本民族が、この地球上で生存することを否定しているではないか。
戦争に敗北して、戦勝国側に占領されている間は、民族の生存は勝った側の殺傷与奪権に左右されることは致し方ない。
負けた以上、奴隷の境遇も甘受しなければならず、これは免れようがない。
ところがサンフランシスコ講和条約で、自主独立を国際社会から再度認めらたからには、当然、その時点で、自らの生きる権利を内外にアピールして当然である。
にもかかわらず、占領中に自分達の手足を縛った憲法第9条をそのまま温存し、アメリカという巨大軍事力の傘の下に逃げ込んで、金儲けにばかり専念していては、国際社会からバカにされても致し方ないではないか。
自衛隊の創建は我々が望んで作ったわけではない。
これも日本国憲法と同様に、我々、日本国民、日本民族の意志で出来たものではない。
日本がまだ独立を確保する前、1950年、昭和25年6月25日、北朝鮮軍が大挙して韓国に攻め入って朝鮮戦争が勃発し、それに対応する目的で、占領軍の意向で急遽出来上がったわけで、自衛隊の創建には日本国民の意思は微塵も入っていなかったはずである。
ただ、まだ復興も緒に就いていない状況下で、職にあふれていた旧軍歴の人々が集合したことは言うまでもないが、日本の独立はその翌年の1951年、昭和26年の9月8日のことである。
朝鮮戦争の勃発で、日本の独立の時期が早くなったことはある意味で幸運であった。
この戦争で、日本の産業界が復活のきっかけをつかんだことも歴史的な事実ではある。
戦争に負けた以上、勝った側に占領されるのは人間の過去の歴史から見て必然的なことであって、これは致し方ない。
しかし、問題は、その負け方と、負けたからと言って民族の誇りまで投げ捨てて良いものかどかという点に尽きる。
あの戦いの惨禍を再び繰り返したくない、という我々の民族の思いというものは十分に理解できる。
「あの戦いの惨禍」と言ったとき、日本の各都市の空襲とか、広島、長崎の原爆投下という惨禍は確かに敵から、つまりアメリカから被った惨禍であるが、日本将兵の被った惨禍、つまり日本側の作戦の稚拙さで被ったおびただしい同胞の若者の無意味な死について、後に生き残った我々はどう考えたらいいのであろう。
「あの戦いの惨禍を再び繰り返したくない」という我々の民族の思いの中には、同胞の作戦の稚拙さを糾弾する民族の怒り、民族としての憤怒、民族としての反省が抜け落ちているではないか。
ただただ感情論で過去を否定しているに過ぎないではないか。
アメリカによる空襲も、我々の同胞の作戦の稚拙さによる死への行軍も、ただただ天から降ってきたどうにもならない運命、極めて不可抗力的なもの、他力本願的な避けようのない天命として、それから逃げ出したい、二度と再びそういうことを経験したくはない、という観念論でしかない。
我々の同胞が犯した失敗を、その根本から究明して、それを将来の宝と置き換えるという発想は微塵も感じられない。
自分達の犯した失敗から何かを学び取るという発想が欠けている。
その欠けた部分を感情論で埋め合わせ、観念論を繰り返しているのが戦後の平和主義運動であって、そのことは戦争の本質をいささかも学び取っていないと言うことでもある。
戦後の反戦の機運も、ただ単なる感情論で、理性と知性で同胞の過去の失敗を分析研究した結果からきているわけではなく、二度と再びそういうことを経験したくはない、という願望を声高に叫んでいるだけで、ただ単に念仏を唱えている図でしかない。
戦争の惨禍を再び繰り返したくないという願望は、我々だけでなく人間として普遍的な感情論に過ぎないという点に気が回っていない。
問題は、この思い、つまり「あの戦いの惨禍を再び繰り返したくない」という思い、願い、願望が強烈なあまり、その感情が理性を封殺して、人間としての誇りも、名誉も、生存権も、何もかもを捨て去っても良いかどうかに尽きる。
民族の誇りと自分の命を秤に掛けて、民族の誇りを選ぶ人の存在は、何も我々日本人のみならず、世界のあらゆる民族に普遍的にいるわけで、そう言う人たちは民族の壁をこえて称賛されるのも世界的に普遍的なことである。
日本国憲法第9条というものを素直に読めば、我々は自らの手足を縛って、「平和を愛する諸国民(諸外国)の慈悲にすがって生きます」と言っているようなものではないか。
我々に慈悲を施してくれた国は我々と死闘を重ねた旧敵国のアメリカではなかったか。
戦後の文化人、知識人たちが崇め奉った旧ソビエット連邦、中華人民共和国、といった国が我々に慈悲を与えてくれたか。
ポツダム宣言を受諾した結果として、我々はその勝った国のアメリカに占領されたわけである。
アメリカ軍のトップであるところのマッカアサー元帥は、連合軍を代表して日本を占領し、彼の対日占領政策というのはアメリカの国益をも代弁していたわけである。
それで朝鮮戦争が勃発したとき、当然、マッカアサーとしてはアメリカの国益上から物事を考えたわけで、共産主義勢力が北から朝鮮半島を南下してくるならば、日本を早急に独立させて、共産主義の南下に対する防波堤にしなければならないと考えたわけである。
彼の立場からすれば当然の思考である。
アメリカの国益以外の何ものでもない。
その時、障害となったのが、彼らが日本に押しつけた日本国憲法第9条の存在で、これに交戦権すら放棄すると明記してしまったので、軍隊というものは一切建設不可能になってしまった。
だから言葉の解釈で切り抜けようとしてわけで、最初は警察力として運用しようと、警察予備隊という名称で出来上がった。
そもそも日本国憲法を創案したGHQ内のケージス以下の面々は、この日本国憲法そのものが、占領中だけの暫定的なもの、という安易な発想であった筈である。
独立したならば、当然、日本側の自主憲法が出来上がると考えていたわけで、占領中にかぎり自分達で御しやすいものにしておきたかっただけで、それが未来永劫生き続けるなどとは思ってもいなかった筈である。
世界的な視点から見て、普通に常識のある普通の人間ならば、そう考えるのがごく普通の思考であるはずだ。
この地球上に生きる人間が普通に考えれば、自分達の国の規範であるべき憲法などというものは、その国の人々が自分達で作る自主憲法が普遍的なものであって、勝った国が押しつけたものを後生大事に持ち続けるなどと言うことは考えられないことである。
日本国憲法の第9条の趣旨を如何なる形で温存するか、という問題と、自主憲法の制定とは全く別の問題であって、それを混同して考えているのが戦後の我々の同胞である。
又、当然のこと、自分の国は自分で守るというのも自然界の自然の摂理なわけで、それを放棄したままでのうのうとしている国などというものは考えられないことであろう。
今の日本の自衛隊も、その創建の時には、こういう国際状況の中で、我々の意志の外で、アメリカの国益上の観点から出来上がったわけで、時の総理大臣吉田茂は、自衛隊(警察予備隊)創建を迫るアメリカに対して強硬に抵抗したのである。
しかし、占領下という状況で、一般国民には食うものとて十分にない当時の我々にとっては、吉田茂といえどもアメリカの圧力を跳ね返すだけのエネルギーはなかった。
だから形ばかりの警察予備隊を作って、アメリカの言うことを聞いた振りをして、日本の独立を勝ち取ったわけである。
彼にしても、日本が独立をしたからには、丸裸で国際社会に立ち向かうことの不合理さは解っていたので、日米安保条約でアメリカの軍事力を日本の盾にしたわけである。
このあたりの手腕は、流石に外交官だけあって、非常に駆け引きが巧妙で、最小の努力で最大の効果をひきだしたわけである。
最初、警察予備隊と称されるもの案が出来たのが1950年、昭和25年7月8日で、この日マッカアサーが創建指令を出している。
朝鮮戦争の勃発が6月25日であったのでマッカサーもよほど慌てたのであろう。
これを見ても解るように、自衛隊(警察予備隊)の発足というのは、日本側の意志は微塵も入っていないわけで、その後も国民総生産の1%の枠内で細々と成長してきたが、日本の経済力のパイそのものが大きくなると、相対的に自衛隊の予算も巨大化したが、比率的には大して変わっていない。
それで21世紀にはいると、アジアでは周辺諸国を凌駕する程の軍事力になってしまったが、憲法が変わらない限り、手足を縛られた存在であることに変わりはない。
この論説の中に「歯止めや盾の役割は政治が果たす。民主的に選ばれた国会、内閣がその時々の民意に基づいた判断をしていけばいい、という考え方もある」とある。
これもサット読み通す限り極めて説得力のある言辞で、誰しもそう思うに違いない。
ところが「歯止めや盾の役割」そのものが政治的議論を沸騰させるわけで、国民的な合意もなければ、定義もないわけで、各人各様が好き勝手に自分の都合に合わせて自分に都合の良いように解釈するわけで、混沌以外の何ものでもないではないか。
又、「民意に基づいて判断していけばいい」というフレーズも、極めて美辞麗句であって、一点の非の打ち所もないが、これこそくせ者である。
民意というくせ者ほど他にない。
民意に従うと言うことは、そのものズバリ衆愚政治だということだ。
この世の中で民意ほど無責任な存在も無いわけで、その民意を代表しているのが言うまでもなくメデイアであるが、民意=メデイア を信じて行った施策が良かった試しがないではないか。
民意という言葉ほどつかみ所のない曖昧な言葉もない。
民意ばかりではなく政治家の言葉、政治用語というのは実に曖昧なものが多い。
国民という言葉も、民意と同じ程度につかみ所のない曖昧な言葉である。
日露戦争に勝ったとき、我々はもうこれ以上戦えないというぎりぎりの線で和平交渉に望んだが、その国家財政の実態を知らない民意は、その講和にひどく憤慨して焼き討ち事件まで起こしたではないか。
南京陥落の時、1937年、昭和12年12月、日本の大衆、すなわち国民、いわゆる民意としては、提灯行列までして大日本帝国陸軍の行為・行動を称賛したではないか。
安保改訂の時は女学生の死まで出したデモは、当時の日本の民意ではなかったのか。
そういう民意に反対し、そういう民意に組せず、自己の信念を通したのが時の政治家であったではないか。
民意を汲んだ政治などというものは、衆愚政治以外の何ものでもない。
だから国家の言うこと、為政者の言うことに盲従せよというつもりはない。
国家、政府、政治家、為政者というのも国民と同じ生きた人間である。
生きた人間である以上過ちも犯すし、失敗もする。
だったら我々はどうすれば安逸な生活が補償されるのだ、と言うことになると、答えはないわけで、自らこの世知辛い世の中を自らの才覚で泳ぎ切らねばならないと言うことだ。
国家や政府が我々に安逸な生活を上から授けてくれるものだ、という思い込みを払拭することだ。
国家や政府の言うことは、自らの知性、理性、経験をフルに働かせて、自分で判断して、この世知辛い世の中を渡りきる覚悟をすべきだ。
国家や政府の言うこと、メデイアとしての民意の言うことも、そのまま鵜呑みにしてはならないわけで、そういうものを自分の頭脳で斟酌して、自分の頭脳で考えて、自らの進む道を選択しなければならないということである。
人任せにして自分の頭脳で物事を考えないから、屋根の上の風見鶏のように、風向きが変わるたびに振り回され、結局は自らが国家に騙されたということになる。
しかし、そのことと愛国心は又別の話で、自分の国が国難に直面している特に、自己の利益ばかりを追い求めても、これは人間として下劣と見なされても仕方がない。
自衛隊は当初から我々日本国民の願望や期待を担って創建されたわけではない。
あくまでもアメリカの国益追求の手段であって、アメリカのために出来上がった武力集団なわけで、日本が1951年、昭和26年9月8日に独立したときに、国軍に昇格すべきであった。
当然、それには憲法改正を経なければならなかったわけで、それをしなかったものだから今でもその存在が不合理なまま今日に至っている。
朝日新聞がいくら自衛隊は専守防衛のみで「軍隊ではない」と言ったところで、世界にはそれでは通用しないわけで、あれだけのものが「軍隊でない」という言う方がよほど馬鹿げた話である。
自衛隊の存在が現実から乖離している最大の原因は、日本国憲法が現実離れした条文を内包しているが故の矛盾なわけで、その矛盾を解消しない限り、自衛隊の整合性はあり得ない。
そこで憲法改正の論旨に立ち返るわけであるが、9条の趣旨を残したまま祖国防衛を主とし、尚かつ国際貢献にも力を発揮しうる文言というのは十分にあり得ると思う。
9条を改正すればすぐにでも日本は海外への侵略をしかねない、という思考はあまりにも同胞をバカにした思考だと思う。
このバカさ加減は、戦前・戦中に、日本は神の国だから戦争に負けるはずがない、と言ったバカさと完全に軌を一にしているわけで、こんなことが声高に叫ばれる世の中は、まさしく戦前回帰ではなかろうか。
今の日本の現状から見て、誰がそんなことを考え得るのであろう。
ただ現在の世界の動向を見るにつき、アメリカに楯突いては生きていけれないわけで、アメリカとはつかず離れずの関係を維持しなければならないことは言うまでもない。
アメリカとの同盟を解消して、文字通り100%自分の国は自分で守るということも、理想ではあるが現実的ではないわけで、そこは現実を直視してギブ・アンド・テイクに徹しなければならない。
そこで問題の集団自衛権のことに言及するわけであるが、アメリカが攻撃されたときに、日本も自動的にそれに連動して作戦開始をしなければならないかどかという点に尽きると思う。
この点については、条約の条文にてらして行動することが要求されるであろうが、日米同盟、いわば隣人同士、お互いに他国の脅威には協力して闘いましょうという約束をしておいて、相手が叩かれているのに黙って見ている手はない、と思うのが普通の人間の普通の常識だろうと思う。
残念ながら、戦後の日本では、こういう義侠心は廃れてしまった。
自分さえよければ人のことに構うことはない、という心理が蔓延して、とにかく我が身大事に、人の災難には関わりたくない、という心理が広範に浸透してしまった。
北朝鮮からアメリカの軍事施設にミサイルが飛んでいくのを撃ち落とすべきかどうかで議論が沸騰するということは、手助けをすべきかどうかを口角泡を飛ばして言い合っている図でしかないわけで、「約束がある以上道義的にも手を打つべきだ」と言うことが如何にあやふやな状況におかれているかということである。
ここで民意を問えば、国民の大意としては「アメリカなどに荷担する必要はない」という論議になるわけで、後で事がこじれれば、それは政府の責任で民意、つまり国民の責任ではない、ということになる。
人の諍いには手を出さない、というのも戦後の民主化の大きな成果なわけで、ここで義侠心を発揮することは、義侠心という大儀に問題があり、その義侠心そのものが封建時代の遺物と思い込んでいるわけである。
困っている人を助けるのは国家の仕事で、国民はあずかり知らぬことだというわけだ。
困った状況が生じるのは国家の責任で、国家や政府が悪いからそういう事態が起きるのであって、善良な市民はそんなことに関わってはならないというわけだ。
目前の逼迫した危機でさえも、国家や政府の責任と称して、人間が人間として普通に持っている義侠心、あるいは正義を否定するのである。
だから電車の中で女性が暴漢に襲われても、誰もそれを助けようとしないのである。
暴漢の存在は、政府が悪いからそういう人が巷に氾濫するわけで、それは政府の責任だから市民はただ眺めていればいいという論法である。
これと同じ論法で、北朝鮮が何処に向かってミサイルを撃ち込もうと、北朝鮮をそういう風にし向けたのは日本やアメリカが悪いのであって、北朝鮮の暴挙を阻止することはまかりならぬ、という論法である。
こうして我々の国は「平和を愛する諸国民」の慈悲の中で生かされている、ということになる筈であるが、そうならないのは日本の政府が悪いからだと言うことだ。
これが朝日新聞のいう民意というものの正体である。
国家は、国民の安全、安心、安寧を維持するのが使命の筈であるが、それをするには強力な国家権力のバックボーンがないことにはそのことは実らない。
国家の使命や国家権力を問う前に、その国の国民の愛国心を問うべきで、自らが自分達の国の安全、安心、安寧を作り上げよう、築き上げようという意志をもっていることが前提であり、それをうまく方向付けをするのが権力でなければならない。
戦後の我々は、国民の安寧秩序の維持は国家の使命であって、国が上から国民に授けてしかるべきだ、と言いながら、権力の行使には不満を呈するのである。
国内的には警察力として、対外的な脅威に対しては国防力として、こういう強力な権力を国民の側が認めないことには、国家として国民の安寧秩序は維持できないのである。
戦後の日本国憲法では、占領下という条件下で、その国家権力というものが占領中のアメリカによって行使されていたが、アメリカの占領統治の狡猾なところは、それを間接統治という形で、表向きは日本政府に代行させたところにある。
いわば影武者に徹して、裏で日本政府をコントロールしていたわけだが、当時の日本の国民というのは、その事実には目をつぶって、日本政府のみを攻撃していたわけである。
ところが朝鮮戦争が勃発してくると、アメリカとしても日本を丸腰のままにしておくことがアメリカの国益に沿わなくなってきた。
だから、かっては丸腰にした日本に対して、再び軍事力を持つように命令したのである。
戦後の日本、占領下の日本にとっての国民の安全、安心、安寧は、ひとえにアメリカに掛かっていたわけで、当時の日本の国民の側には、憲法を受け容れたと同じように、警察予備隊の受け入れにも何ら抵抗はなかったのである。
何となれば、それはアメリカからの要求であったからである。
ただ一人反対したのが当時の首相吉田茂であったが、彼が警察予備隊の創建に抵抗した理由は、彼自身、日本人、日本民族というものを信用していなかったからだと思う。
彼が日本人を信用していなかった最大の理由は、先の大戦の間の日本人の在り方を見続けてきたからだと思う。
彼は、外交官として海外にいて、その地で日本軍人の行状をみるにつけ、軍というものの本質を見抜き、そういう組織を嫌悪するに至ったものと推察する。
そういう気持ちがあったものだから、アメリカの要求する再軍備にも抵抗を示したが、そこは外交巧者で、日本の現状を見るにつけ、妥協しなければならない要点をつかんでいたので、ミニマムの妥協で、最大の効果を引き出そうと努力したわけである。
だから、彼の、自衛隊に対する認識は軍隊ではなく、警察力の延長というとらえ方をしていたが、その後の日本の国力というものが相対的に肥大化したので、当時の警察予備隊と今の自衛隊では雲泥の差となっているのである。
国家が安定した状態で生存し続けるには、ある程度の国家権力というものは必要不可欠で、それが存在しない国というのは、今のイラクと同じで、有象無象の人間の集合体に過ぎず、国家の体をなさないのである。
まさしく原始社会と同じであるが、悪いことに、そういう原始人の集合でも、武器だけは20世紀のものを使いこなすという点にある。
近代文明を自分達にとって都合の良い部分だけを良いとこ取りして、殺人マシーンを使いこなしているが、その影響力が周辺諸国にも及ぶという点に21世紀の危機が孕んでいる。
国家が国民の安寧秩序を維持するには、国家権力が必要なわけであるが、権力という場合、往々にして上からの押しつけという要素が多分にあることも否めない。
あれをしてはイカン、これもしてはイカン、これはこうせよ、あれはこうせよと言うように、上からの押しつけがましいことが多々あることは否めないが、それも国民が平穏な生活を維持するための方策を示しているわけで、それに黙って従っているかぎり、国民の安寧秩序は維持される。
ところが戦後の民主化というのは、こういう風潮に真っ向から挑戦することであったわけで、なかでも戦前・戦中は牢獄に繋がれていた共産主義者たちが戦後解放されたということは、権力を真っ向から否定することが世のため人のためとして認知されることとなってしまった。
権力に対抗するのに理由などどうでもいいわけで、とにかく国家権力に対して、なにかかにかの文句をつければ、彼ら、共産主義者としても大義名文が立つわけで、それをメデイアは尾ひれをつけて報道して社会の木鐸と自負していたのである。
国家権力というのは、国内向けには行政のシステムに沿って降りてくるが、国外については、そういうシステムは存在しないわけで、唯一のよりどころは第2次世界大戦後1945年、昭和20年、日本が敗戦した約2ヶ月後に設立された国際連合が国家間の調整役をする場ではあった。
ところが、この国際連合も、その理念は素晴らしいが実際の活躍はその理念通りのものではない。
それも当然のことで、国際間の調整をいくら一生懸命図ろうと努力しても、いかんせん諸国家を上から押さえつける強制力、いわゆる権力を持っていないものだから、言うことを聞かない我が儘な国に制裁を加えることが出来ず、結果として全く機能しないと言うことだ。
日本国憲法の前文に掲げられている「平和を愛する諸国民」という文言は、この国際連合を示唆していることは十分に考えられる。
第2次世界大戦が終わった時点で、戦勝国も我々敗戦国も、この国際連合が地球規模の国家間の諍いを調整してくれるものと信じて疑わなかった。
ところがふたを開ければ、国益の衝突の場であったわけで、戦勝国の仲良しクラブであるはずのものが、旧連合国が自国の利益、つまり国益の維持のみを競い合う争点の場になってしまったわけで、本来の理念からはほど遠いものになってしまった。
戦後の日本の知識人の中には、我々の祖国が外国からの攻撃があったときには、国連に依頼してことを解決すればいい、と発言する人が大勢いたが、国連がそれほど信頼に足る存在であろうか。
理念が立派だからそれを真っ正直に信じる、ということも物事を知らない典型的な例ではなかろうか。
そういう知識人は、国連というものを地球規模の警察官だと思い違いをして、何でも困りごとを持ち込めばきちんと解決してくれると思っているようであるが、世界はそんなに甘いものではない。
国連を純粋に地球規模の警察官にするとすれば、国連自身、自前の軍隊、いわゆる警察力を持たなければそれは実現不可能なことである。
朝日新聞が今ここで提言している「9条改正の是非」という問題は、この部分に絡んでくるわけで、設立以来60年以上経過した国連も、国家間の紛争の解決には非力であったが、難民救済とか、人権問題では多少とも効果を発揮しているわけで、日本が国際社会で一人前の活躍をするには、この国連に要員を提供しなければならない。
日本がアメリカに次ぐ経済大国であれば、当然、どの国もそれを日本に期待してくるわけで、今までの日本政府は、泥縄式にその都度法改正をしながら国際社会、つまり国連の要請に応えてきたわけでる。
今後、こういう国連の要請に俊足に対応しようとすると、日本国憲法で縛られている手足を解かなければならないわけで、それが「9条改正の是非」ということにつながっているのである。
吉田茂がしぶしぶながら警察予備隊を作らなければならなかった状況と今日の状況は、当時では考えられないほどの隔世の感があり、その意味からすれば、憲法そのものを時代の状況に合わせるということは当然の帰結である。
ここで、9条を改正すると軍国主義が復活し、平和維持を目的として海外に出た自衛隊員が、現地で強盗、略奪、婦女暴行、意味のない無益な殺傷などという破廉恥な行動をする可能性があるであろうか。
9条の改正に反対している知識人の反対理由を要約すると、彼らはこういう状況が起きることを心配しているわけで、だから反対というわけである。
こういう知識人や大学教授たちのいう未来予測というのは当たった試しがない。
オオカミ少年の「オオカミが来る」という虚言と同じで、彼らのいうことは虚言以外の何ものでもないが、メデイアに取っては虚言ならばこそ報道する価値があるわけで、それが当たり前の論旨であれば何らニュース・バリューがない。
ところが、虚言は虚言なるがゆえに報道する価値を生み、オオカミ少年を最大限フォローしておきながら、真偽の責任はオオカミ少年に転嫁できるのである。
戦後の日本の知識人は、国連の存在を非常に高く買っているが、国連というものは、それほどありがたいものではない。
日本が戦後60年回抱き続けてきた国難を、何一つ解決していないではないか。
例えば、北方4島の問題、例えば北朝鮮の邦人拉致の問題、例えば東シナ海の海底油田掘削の問題、どれ一つとってもそれは2国間の問題として、解決を回避しているではないか。
国連は、日本からすれば旧敵国の連合であって、相手側から見れば未だに敵国条項が生きているわけで、そういうものにドンドン金をつぎ込んでも、親身に日本のことを考えてくれないのも当然の話ではないか。
向こう側からすれば、日本は打ち出の小槌のようなもので、一言脅せば金はいくらでも出てくるまことに都合の良い財布なわけである。
日本の懸案の事柄を解決してしまったら、金を引き出させる理由を失ってしまうわけで、全ての問題は2国間の問題で、当事者同士で解決すべきであって、国連はタッチしないというわけだ。
こういうものを崇め奉っている日本の知識人の思考というのは一体どうなっているのであろう。
21世紀の世界は、主権国家同士の帝国主義的な領土獲得戦争というのはあり得ないと思うが、国家の枠に縛られない利益の獲得、ないしは利益の誘導にまつわる抗争、あるいは主義主張に関わる意見の相違の衝突というものは、テロという形で漁り火のように地球規模で各地に広がると思う。
イラクでもアフガニスタンでも、既にそれは起きているわけで、彼の地では、国家の体をなしていない。
彼の地の人たちは、繰り返し繰り返しテロをし、反テロを繰り返しているが、私の個人的な考えとしては、そんなものは放置しておくほかないと思う。
彼らは好きでテロをし、反テロをしているわけで、部外者が分けに入っても意味がない筈だ。
ましてや彼の地の治安を回復するなどということは、彼ら自身の問題で、彼らの好きなように、彼らが納得するまで、好きなだけやらせておけばいいわけで、部外者が関与すべきことではないと思う。
ところがアメリカにしてみれば、そういうところから何時なんどきテロ集団がアメリカ本土に攻撃を仕掛けてくるか解らないわけで、テロ撲滅に関わりつづけなければならないのである。
そういうアメリカに、我々日本がどこまで関わり続ければいいのか、という問題は非常に難しい問題で、日米同盟がある以上、全く関与しないというわけにも行かないと思う。
その意味で、今の海上自衛隊の行っている後方支援として燃料の補給というのは妥当な選択ではないかと評価せざるを得ない。
その前に、サマーワで後方支援としてインフラ整備にあたった陸上自衛隊の行為も、日本のおかれた国際環境の中では妥当な選択だったと考えざるを得ない。
これらの例を見ても、戦後の日本の自衛隊には立派にシビリアン・コントロールが生きているわけで、そういう実態を知らないものが、9条を改正すると軍国主義が復活すると、陳腐な議論を言い出すのである。
政党のみならず、自分の政府に不満を持つものは、政府のすること成すことに難癖をつけるわけだが、政府とても万能ではないわけで、時には間違った判断をし、良かれと思ってしたことが裏目に出ることも往々にある。
ところが、政策決定には、その政策の真意なり本質を理解しなければならないのは当然であって、ただただ政府のすることが面白くない、ということで支離滅裂な論議を吹っかけたり、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、荒唐無稽の議論をすべきではない。
日本国憲法第9条を改訂すると軍国主義が復活するという論議は、あまりにも今の日本の現状、今の日本の潜在意識に無知、という以外に言いようがないわけで、これこそ荒唐無稽の論理と言わねばならないが、これも背後に党利党略が潜んでいると真顔でこういうことを言わねばならないことになる。
戦後の民主化された日本社会では人は何を言っても、そのことで身柄を拘束されることはない。
赤を黒と言ってもいいし、黒を白と言っても何ら法律に触れるわけではないので、政府が行おうとすることに対して、いくら荒唐無稽の論議で迫っても、そのことによって罰せられることはない。
その論議が荒唐無稽であればあるほどマス・メデイアは喜ぶわけで、大々的に話題にする。
いくら論理の整合性が合わないと言ったところで、そんなことは個人が自由に判断すればいいわけで、マス・メデイアとしては何ら責任もないわけである。
世の中が大騒ぎすれば、それで彼らとしては糧を得ることが出来るわけである。
9条を改正すると言ったところで、何処をどういう風に改正するか、ということが話題にもなっていないうちから反対では、全く整合性を欠くではないか。
改正すればたぶん軍国主義が復活してくるのではないか、という危惧があるという理由だけで、改正そのものを反対している。
それでいて、日本の国際貢献には反対しないわけで、国連への関与も、ODAの支出にも反対ではない。
その反対しない理由の一つは、こういう事例ならば日本人の生命の危機に合う機会が極めて少なく安全だからというものだろうと思う。
それと、こういう事例ならば綺麗事で通るし、人道的にも見えるし、善を施しているようにも見えるし、慈悲深い行為にも見えるし、先進的な思考の実践という風にも見えるし、困った人への救済という風にも見えるし、難民救済という風にも見えるし、自分の金ではないし、実際に汗をかかなくても口先で済むから知識人に取ってはまことに都合の良いミッションということになる。
戦後の日本人、特に教養知性豊かな知識人というのは、人間の命に対して非常に敏感になっている。
それは人権意識に裏打ちされているが、それの度合いがあまりにも極端なるが故に、妙なことになってしまっている。
その具体的な例が死刑廃止論で、死刑になるような極悪非道な犯人であっても、国家が人の命を絶つべきではない、どんな極悪非道な人間でも死刑にするべきではない、という論法であるが、これは第3者としての綺麗事を言っているにすぎないと思う。
自分がその犯人と何ら関係のない第3者なるが故に、無責任に綺麗事を並べているに過ぎないと思う。
死刑を宣告されるような犯罪の被害者でもなければ、その身内でもなく、加害者の身内でもなければそれを逮捕した警察官でもなく、それを裁いた裁判官でもなければ検察でもない立場から、死刑になる人間が可哀想という感情論から、ないしは同情からの論旨だろうと思う。
こういうことを言っている人は、極めて心が優しく純真で、物わかりの良い、教養知性の豊かなインテリーで、弱い人の見方というポーズで決めているつもりかもしれないが、社会的な視点から見れば、極めて無責任な思考だと思う。
死刑になるような極悪人にも「生きる権利」があるなどという言いぐさからは、被害者に対する同情が綺麗さっぱり抜け落ちており、加害者への同情を振りかざして、自分を良い子に見せかけようとする欺瞞以外の何ものでもない。
これこそ偽善者というものである。
憲法改正に反対する勢力というのは、こういう綺麗事で世の中を生き抜けると信じて疑わない連中であるが、国際社会というのは、そんな綺麗事の通用する場ではなく、騙し騙され、生き馬の目を抜く過酷な修羅場である。
それが国際連合というもので、これは日本の知識人が思っているような善意の人々のサロンなどでは決してないわけで、出来るだけ少ない妥協で最大の効果を引きだそうと、各国がシノギを削り、鵜の目鷹の目でチャンスをねらっているのである。
日本人が、日本国内で死刑廃止論をぶてば、国内ではあの人は進んだ思考の持ち主で、極めて開明的、革新的、物わかりが良い博愛主義者であり、革新的な人士という評価が確立し、完全に知識人として認知される。
つまり、同胞の間では善人として認められるということで、根が真面目な人ほど、他人からのそういう評価に一種の優越感というか、人としての誇りというか、世間に対して良いことをしたような満足感に浸るのである。
それで、それと同じことは憲法改正についても言えるわけで、憲法を、特に9条を弄くるということは、良かれ悪しかれ、戦争についての判断を迫られるわけで、憲法改正に反対し続ければ、自分は戦争に対して否定的なポーズでおれる。
戦争という悪に対する対極の位置に身を置いている、ということになり、自分の正義感が誇示できていることになる。
ことほど左様に、物事を正義・不正義、善し悪し、善悪という単純な価値観に陥っていると、この地球上に渦巻いている矛盾に対して極めて軟弱な思考、極めて稚拙な対応、幼児的価値観から逃れきれずに現実の動きに対応しきれないようになる。
それが一国平和主義というもので、これも日本が終戦直後のように食うや食わずの状態ならば、世界も日本の一国平和主義を容認するであろうが、戦後60年を経た日本は、世界でもアメリカに次ぐ経済大国なわけで、そういう日本に対して世界は経済力に見合う貢献を要求するのである。
その時、日本国憲法が我々の手足を縛り続けていては、十分な世界的貢献が出来ないのは火を見るより明らかにもかかわらず、日本の知識人というのは、偽善者ぶって独りよがりな一国平和主義という独善に逃げ込もうとしているのである。
日本の知識人が独善の壺の中に逃げ込んだとしても、世間、いや世界から非難を受けるのは日本の為政者であって、日本の知識人たちではない。
日本が自分の手足を縛っている足枷手枷を取り除いて世界で経済力にふさわしい貢献をしようとすると、それが軍国主義の復活やら、侵略戦争の片棒担ぎやらという、一時代前の発想でもって自分達の為政者の足を引っ張ろうとするのが日本の知識人という人々である。
自衛隊をイラクに派遣するとき、「危険なところに自衛隊を派遣してはならない。安全なところならば致し方ない」という論議があったが、これほど馬鹿げた議論もない。
陸上自衛隊のサマーワ派遣は、一人の怪我人も出さずに無事帰還することが出来て何よりであるが、それは結果論であって、これら日本の知識人の思考では、危険なところにはNGOの人々を派遣して、危険でないところに自衛隊を出しなさい、という論議になるわけでこんなバカバカしいことがあり得るであろうか。
これが日本の知識人と称する学識経験、理性と、知性と、教養を兼ね備えた日本の知識人の思考である。
国際社会から「日本もイラクに人員を派遣してくれ」と言われることは、ある意味で、日本という平和な国に振りかかってきた国難である。
イラクで、フセイン大統領という独裁者が国連やアメリカの言うことを素直に聞いておれば、日本もこういう国難を背負い込むこともなかったはずである。
アメリカのフセイン大統領打倒の仕方が、不合理だろうが、手順に不手際があろうが、そんな屁理屈には関係なく事態は回転しているわけで、その時その場で、正しいだとか正しくないとか口角泡を飛ばして議論していても意味がない。
好むと好まざると、国連ないしはアメリカから要請を受ければ日本は対応を迫られるわけである。
結果として、サマーワに陸上自衛隊を派遣し、サウジアラビアから航空自衛隊が空輸を担当し、海上自衛隊は公海上での燃料補給を担当したのである。
当時の小泉純一郎氏は、この程度が日本の国際貢献の限度ぎりぎりの線であろうと判断したに違いない。
彼の頭の中では、ここまでが日本国憲法の第9条の枠内で行えるぎりぎりの線ではないか、と判断したに違いないが、これを日本の進歩的知識人がどういう風に受け取るかという点が、憲法改正にもモロに出るものと想像する。
マス・メデイアの論調は、アメリカは国連の決議を無視してフセイン攻撃をしたのだから、アメリカに同調する必要はない、というものであったが、ならば日本は傍観者として眺めていればいいかというと、自衛隊の組織と別の組織で、つまりNGOやNPOの様な組織で人道支援に徹すべきだと言うことである。
まるで理想論を絵に描いたような夢物語のようなことを言っているわけで、まさしく政権を担っていないものの無責任極まる論議である。
部外者として、口ではいくらでも綺麗事が並べられるわけで、アメリカが国連の決議を無視しようがしまいが、フセインが大量破壊兵器を持っていようがいないが、開戦の火蓋は切られてしまったわけで、事態がここまできてしまえば、現実に追従するほかないではないか。
周辺有事の際に現実に追従するだけでは危機管理としては極めて稚拙であり、おぼつかなく、国民の安心、安全、安寧が何時混乱の縁に立たされるかも解らないので、そういうことのないように予め憲法を見直し、9条を再検討しましょう、というのが憲法改正の本旨でなければならない筈だ。
ところが、改正すると軍国主義になったり、他国を侵略したりということにつながるから、改正そのものが駄目だというわけだ。
アメリカが国連決議を無視してフセイン打倒に踏み切ったのは、手続きに不備があるから許せない、だから日本もアメリカの言うことを聞く必要はないという言い分は、極めて子供っぽい論議で、あまりにも世界の現実、国際政治の現実というものに無知な思考だと思う。
今、地球上の各国の置かれた状況は、アメリカ映画の西部劇の世界と同じなわけで、拳銃こそ正義なわけである。
無法者は西部の町にはうようよいるわけで、その無法者から自分を守り、家族を守り、愛する人々を守るには拳銃しかない。
そういう世界でも少し知恵のあるものは、徒党を組んで悪漢と対決する方法を選択する。
ここで我々は、徒党を組んだ者同士は極めて親密に信頼しあえる者だ、と単純に思い込んでしまうが、それはあまりにも世間知らずで初な少女趣味というものだ。
西部の町で生き残るには、時と場合によって、徒党を組む相手も違えば、対決する相手も違うわけで、それを日本の知識人という人種は、極めて単純に、しかも純粋に正義を信じているので、他からは阻害され、陰でバカにされているのである。
地球規模で見た世界というのは、まさしくアメリカの西部劇で描かれている西部の町と同じで、拳銃こそが正義の象徴である。
この感覚は日本人、特に日本のインテリーにはこれから以降も決して理解することの出来ないモノの考え方の一つであろう。
日本人にとって、拳銃が正義の象徴ということは決して理解しえる事柄ではないと思う。
拳銃などというものは、悪の象徴であり得ても、正義の象徴ということは日本人の思考の枠を越えた事柄だと思う。
ところが地球規模で見た場合、今日の国際的な政治的ないしは外交的な関係は、まさしく西部劇の西部の町と同じ状況を呈しているわけで、日本人の想像する理知的で、良識に富んだ善良な人々で成り立っているわけではなく、西部の町にうようよいる悪漢が大手を振って徘徊している図でしかない。
アメリカが西部の町の保安官を自認しても、それを快く思わない悪漢がうようよいるわけで、そういう連中は、保安官のアメリカに一泡吹かせる策を常に考えているのである。
その中で日本の立場というのは、保安官事務所の使い走りの子供のようなもので、アメリカ保安官が悪漢と対決しようと、机の上にライフルを並べて悪漢退治の策を練っている間に、ちょこまかちょこまかと使い走りを命じられているボーイに過ぎない。
まともに銃にも触らせてもらえない幼児のようなものだ。
普通の国になるということは、こういう状況下で、アメリカ保安官と同じように一人前の大人として悪漢に対決できる器量と、度胸と、勇気を持つことであって、そのことは時には手痛い危険を伴うことがあるかもしれないが、あえてその危険に挑戦する覇気を持つことである。
保安官と悪漢の対決に、正義とか、善悪とか、善し悪しという価値観は介在していないわけで、あるのは自分にとって、いわば国益にとって得か損かという計算でしかない。
アメリカに立ち向かう悪漢は、アメリカと対決しても何も失うものがない。
完全に駄目モト。死んで元々。消滅して元々なわけである。
こういう国の為政者は、その国の国民のことなど最初から眼中にないわけで、国民などと言うものは自分の奴隷に過ぎず、死のうが生きようが問題外なわけである。
もしそうでないとするならば、それまでの過程で様々な勧告を誠意を持って受け容れ、自国民の救済のため妥協の道を探っているはずである。
ところがアメリカの側は失うものがあまりにも多すぎて、下手なことをしておれないので、完璧を目指さなければならない。
この完璧さが不十分だと、為政者の資質が問われるが、アメリカに立ち向かう悪漢の方は何一つ失うものがないのでまことに気楽なものだ。
イラク、イラン、アフガニスタン、北朝鮮等々の国を見るにつけ、これらの国の指導者は、自国の国民のことなど爪の垢ほども思っていないように見受けられるではないか。
日本の識者は、国際連合というものが、世界各国の良識の集まる場所と思い違いをしているが、現実は、アメリカ映画の西部劇の西部の町と同じなわけで、この町は拳銃に支配されている。
よって、この町で生きながらえるには、人と同じように拳銃で自分の身を守り、自分の家族を守り、自分の愛する人たちを守らねばならないのである。
ところが我々の国の憲法は、「平和を愛す諸国民」という言い方で、西部の町をあたかも善意の人々の集合する理想の園のように描いている。
この憲法の出来た頃は、確かに、我々の国は敗戦ということもあって、国民は意気消沈し、食うもものも着るものもない文字通り裸の帝国で、それこそ平和を愛する諸国民の慈悲がなければ生きることさえ出来なかった。
しかし、その後は正義の象徴である拳銃に金を掛けることもせずに、殊更、金儲けに専念したおかげで西部でもアメリカ保安官の次に金持ちになりえた。
そうするとアメリカ保安官をはじめ彼を取り巻く連中の間から、「日本よ、そんなところに隠れてばかりいないで、少しは俺たちと一緒にリスクを背負う気概を示したらどうだ」ということになったわけだ。
こう言われると、日本はオタオタ扱いたわけで、ならばというわけで、自衛隊の派遣という仕儀に至ったわけであるが、こうなると今度は国内がテンヤワンヤの大騒ぎになったわけで、中でも結果を問われることのない野党をはじめ識者は、よってたかって時の為政者を糾弾したわけである。
こういう状況を見るにつけ、人間の習得する学識経験、いわゆる学問というものは、人間の生存にいかほどの効果というか、利益というか、便宜を提供するものなのであろう。
つまり、政治を論ずるとき、政治家と学者を並べた場合、誰しも学者の方が頭脳明晰で理知的で、知能指数も高いように思うものと推察する。
学者と比較された政治家というのは、何処か胡散臭く、ずるがしこく狡猾で、人を騙しかねない油断ならない存在に映るものと思う。
しかしながら、現実の国のリーダー足るべき人は、政治家であって、学者ではない。
政治家と学者の評価が、国民的な普遍性を持った正しいものであるとするならば、国の先行きを担うべきは学者に任せた方が無難ではなかろうか。
ところがそうはならないわけで、学者よりも評価の低い政治家でなければ政治というものはまわらないわけで、学者に国の将来が託せないというのは、学者というのは真面目一方で、この真面目さというのが無法地帯の西部の町を生き抜くのに非常に困るわけである。
矛盾を矛盾として容認できず、矛盾を正そうとするから行き詰まってしまうのである。
矛盾を矛盾のまま飲み込むという芸当が出来ない。
矛盾を正直に、極めて真面目に正そうとするから行き場がなくなってしまうのである。
よって、あらゆる場面で、日本の知識人といわれる人たちが自分の政府を糾弾し、政府の言うことなす事に反対をするというのは、彼らの真面目さがそうさせているわけで、その真面目さがあるが故に、自分達の為政者を尊敬できず、抵抗することによって自らの真面目さに酔っているのである。
こういう人たちが言うように、憲法改正、9条を改正すれば、確かにその後になって軍国主義が出てくることが全くないとは誰も言い切れないわけで、そういう極めて不確実な要因まで完全に排除しなければ安心できない、許さない、許せないという学者の論法、知識人の論法は、極めて子供っぽい議論の仕方だと思う。
子供の口げんかで「完全」に正しいかどうか、その「完全さ」に100%の正確さを言い合っている図に過ぎず、こういう意味のない議論を、学識経験を積んだ知識人が言い合うことの無意味さに彼らは気がつかないものであろうか。
その論議の整合性を高めるために、国民とか、市民とか、庶民という言葉をダシに使うわけである。
矛盾を徹底的に排除しようというところが学者諸氏の極めて子供っぽい思考であり、それがまた真面目さの現われでもあるが、この真面目さというのがなかなかのくせ者であることは言うまでもない。
戦前・戦中においては、我々の国には治安維持法があって、人々は自由にものが言えなかったとよくいわれるが、この法律の運用のされ方を見ても、我々の同胞の真面目さが実に見事に映し出されている。
大正デモクラシーの中で、人々の発言が自由闊達に行われると、それに付随して共産主義の煽動や宣伝も大幅に蔓延したが、その状況を鑑み、当時の真面目な人々は、これではいけない、現状を放置してはいけないと考え、それこそ当時の民意を集約して治安維持法の制定となったものと考える。
すると、その状況下で、我々の同胞は、その治安維持法を拡大解釈して、まさしく虎の威を借りた狐のように、人々の上に君臨したがるゲスな人間が現われて、大衆、庶民、その他諸々の組織のトップ、ただの威張りたがリ屋どもが、その治安維持法に便乗して権威を振りかざしたわけである。
こういう状況の下、当時の知識人は、目だった言動を取れば、そういう輩に痛くもない腹を探りかねないというわけで、沈黙を通さざるを得なかった。
それでも勇気ある共産党の面々は、そういう恐怖を乗り越えてものを言い、結果的に牢獄に繋がれてしまった。
当時、普通に良識のある教養人は、腹の中で如何様に考えていようとも、表向きは従順に、すなわち真面目に法に従っていたわけである。
で、日本が戦争に負け、マッカアサーの指令で、先に治安維持法に抵触して牢に繋がれていた人たちが解放された。
すると彼らはパンドラの箱を開けたように傍若無人に振る舞ったので、再びレッド・パージで締め付けられたが、彼ら共産主義者どもは、戦前・戦後を通じて日本の法律に真面目に従うということを拒否し続けた存在である。
それも無理からぬ話で、彼らの目標とする革命というのは、まず最初に秩序の破壊ということが前提条件なわけで、それがためには現行の法体制を真正面から否定しなければならないからである。
戦前、戦後を通じて日本の知識階層というのは共産主義者のような勇気は持っておらず、軍人のサーベルの音がする間は、従順に真面目に振る舞っていたが、帝国軍人たちのサーベルの音が止むと、その従順さ、その真面目さをかなぐり捨てて、さも不良っぽく振る舞うことが格好良い姿に映ったわけである。
根が真面目にもかかわらず、不良っぽく振る舞うことで、国民の前に進取的で革新的なポーズであり続けなければならなかったのである。
そのポーズを維持するためには、為政者の側の言うことなすことに抵抗の姿勢を示さねばならず、そのためには政治なり、外交なり、安全保障条約の矛盾というものを100%完全に払拭しなければ、我々の将来に夢がないということを、言い続けなければならなかったわけである。
矛盾を内包したままでおれないというのは、彼らが真面目なるが故の潔癖性であるが、人の世というのは、そういう綺麗事では回っていないわけで、清濁併せ飲むという器量の大きさも問われるのである。
こういう真面目さは実に不思議で、あの戦時中の不可解な我が方の対応というのは、我々の民族の真面目さが如実に現われた証拠だと思う。
例えば本土決戦、例えばB29の落とす焼夷弾に対してハタキでの対応、例えば沖縄戦での民間人の犠牲、これらは我々が如何に真面目に上からの指示に従ったかということだと思う。
本土決戦が生真面目に論じられている時に、誰一人その非現実性を問いたださなかったのであろうか。
こういう状況下で、まともな議論、まともな思考、現実的な考え方を誰も発言しなかったということは一体どういうことなのであろう。
沖縄戦で、民間人を戦いに巻き込んではならない、と誰一人発言しなかったのであろうか。
こういう状況下で、その当時の知識人、有識者、賢者というのは、何故その非合理性をその場で言わなかったのであろうか。
そのことは、こういう状況下でも、その場にいた知識人、有識者、賢者といわれる人々は、頑なに当時の法律、治安維持法に抵触することを避け、こういう状況下でもそれを素直に受け容れていたということで、実に真面目に順法精神を発揮していたということになる。
このことは明らかに自分の頭脳でものごとを考えることを停止していたわけで、こういう危急の時に思考停止に陥ったとするならば、彼らの修めた学問、学術経験、知識、理性、知性、ホスピタリテイー、ノブレスオブリージ等々は一体何処に消し飛んでしまったのだ。
本土決戦、B29に対してハタキや竹槍での対応、沖縄戦における民間人の投入ということは、ただ一人の独裁者や気の狂った軍人の決断で行われたわけではないはずだ。
そういう結論に至るには、その場に居合わせた同胞、組織的に機能していた我が同胞が鳩首会談を重ねた上での結論であったに違いない。
断じて、一人の独裁者や気の狂った軍人の思いつきの結論などではなかったはずだ。
私が推察するに、当時の日本人、我が同胞は、その時の戦いを勝ちぬくということが暗黙の了解事項となっていたので、その大儀を遵守するためには、表向き、あらゆる計画の非現実性を吐露できなかったに違いない。
「裸の王様」の話と同じで、表向きのあらゆる計画が非現実的であったにもかかわらず、誰一人「王様は裸だ」と言う勇気を持っていなかったものと思う。
当時の知識人に本当のことを言う勇気がなかったとしても、それはそれでお互いに生き延びなければならないので致し方ないと言えるが、その非現実的な計画を立案したのは一体どういう人たちなのであろう。
いくら大儀のためとはいえ、あまりにも馬鹿げた計画で、こんな計画が真面目に実施されれば、我々はそれこそ文字通り民族消滅の危機に直面していたことになり、敵であるアメリカにやられるよりも同胞から殺されることになるではないか。
戦後の日本の知識人は、あまりにも真面目すぎるが故に、キセルの雁首が曲がっているのも気に入らないわけで、物事、何でもかんでもまっすぐに正そうとするが、世の中というのは常に矛盾を内包しているわけで、それこそ拳銃の支配する西部劇の世界である。
アメリカのイラク攻撃が国連の決議がないまま行われたからといって、誰がアメリカに制裁を加え得るのか。
ロシアが日本の北方4島を不法占拠しているからといって、誰がロシアにその非を改めさせることが出来るのか。
北朝鮮が罪もない日本人を拉致したからといって国連がそれを解決してくれるのか。
これらの問題を本当の意味で解決するためには、非現実的ではあるが、基本的には武力行使、つまり戦争しかないわけだが、日本も世界もそれだけの理由では戦争の動機としては認めたがらないのも当然である。
まさしく拳銃の支配する西部劇の場面ではないか。
その中におかれた我々は拳銃も持たず、その使い方も真摯に知ろうとしないので、金をいくらむしり取られようとも、命がある限り恥を晒しつつ、何となくバカにされながらも生永らえている図でしかないではないか。
それに反し、北朝鮮はそれこそ貧乏なぼろを着たよれよれの流れ者のようなものであるが、立派に拳銃を見せびらかしているので、超大国といえどもうかつには手を出せないわけで、その対応に苦慮しているではないか。
当の日本では、そう言う対応をする気が最初から無いので、ことの解決はずるずると先延ばしされているだけだが、それでも血を見ることではないので、一向に気に掛けていないわけである。
今の日本の知識人の立場からすれば、北方4島の問題も、日本人の拉致の問題も、東シナ海の石油掘削の問題も、自分達の生活圏から遠く離れた問題なわけで、解決しようがしまいが、いくら先延ばしされようが、痛くも痒くもないわけで、傍観者として遠くから同胞の為政者を非難していれば事足りるわけである。