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今年(2007年、平成19年)の5月3日、朝日新聞は社説21・提言「日本の新戦略」という趣旨で、8面にも及ぶ特集を組んだ。
タイトルに社説21とあるように、21もの社説を載せていた。
社説というからには朝日新聞の主たる見識によって書かれたと見てよい。
ところが、その見解というのが私とずいぶん違っている。
私から見ると、そのどれもが奇麗事の羅列で、真の解決策を提案しているようには見えないし、そもそも真の解決策そのものがあるかどうかもきわめて曖昧である。
よっていかなるメデイアも、将来のことについて断定的なことは言いにくいことはよく理解できるが、それにしても奇麗事の羅列で問題解決に一歩でも近づけるか、という疑問は払拭されるものではない。
また、メデイアが大所高所から無知蒙昧な大衆に正義や善を説くという態度も気に食わないし、この世のことが奇麗事では回らないことも周知の事実のはずである。
数あるメデイアも、ある意味では狼少年と同じで、「危機が来る、危機が迫って来る、当局は最悪のことに対処せよ」と、警鐘を鳴らす使命を負っていることは理解できる。
しかし、戦後の日本のメデイアというのは、そのいずれもが政府の意向、当局の方針に異を唱えることのみが自分たちの使命と勘違いしている節がある。
確かに、我々は62年前、政府や当局を妄信したことによって奈落の底に突き落とされたという経験を持っている。
そのトラウマからいまだに脱出できないでいる、ということもわからないではないが、あの当時と今日では半世紀以上の時空間を経ているわけで、何時までもトラウマから脱出できないでいる、というのもまた同じことを繰り返す危惧を抱えることになる。
我々は「考える葦」なわけで、自分の脳と裁量で物事を考えて発言しなければならないと思う。
時の雰囲気や、ムードや、大勢の声に惑わされてはならないと思う。
大勢の声というのも、ある意味では民主的ではあるが、民主的であるからそれが一番ベターだということにはならないわけで、多数の人の意見が正しいとは言い切れない。
政治とか外交というのは、正しいとか正しくないという価値観で評してはならないと思う。正しくはないけれど今我々の選択はこれしかない、という場面も往々にしてあるわけで、それを正義、邪悪、善し悪しという価値観では計ってはならないと思う。
我々が生きるということは、100人の人が全部納得して生活しているわけではなく、
51%の人が賛成すれば、それは採択しなければならないわけである。
少数意見を尊重せよという言い分は確かに奇麗事で、何人も反対しかねるが、ならばことは前に進まないわけで、何の解決にもならない。
こういう奇麗事を声高に叫ぶ人は、その当面の問題に対する部外者に過ぎない。
それは同時に、民主主義を否定することでもあるわけで、朝日新聞というメデイアは、あえてそういう立場を取ろうとしている。
メデイアの立場からすれば、世の中のあらゆることが部外者なわけで、物事がどちらに転んでも自分の利害得失に影響がないものだから、あらゆることに奇麗事で済ませておれる。政府が如何に困ろうと、国益が如何に侵害されようと、税金が如何に高くなろうと、自殺者が如何に増えようと、メデイアの立場からすれば所詮、他山の石、隣の火事と同じなわけで、自分の利害得失とはなんら関係がない。
騒ぎが大きければ大きいほど、彼らとしてはニュースバリューが増すわけで、世の中の動きに対して、直接的な責任をなんら感じることなく、奇麗事の羅列で済ませておれるのである。
そういう点に私は我慢ならない。
私の文章は所詮遊びの域を出るものではないので、軽い気持ちで本音が語れる。
そういう意味で、ここに掲げた論旨はすべて私の本音である。
ところが無学ものの悲しさ、21全部について反駁するには私のキャパシテーが不足しており、いくら強がりを言ってみても、その半分でゲームオーバーになってしまった。
尚、インターネット上の朝日の社説を同時に掲載し、私の思考、および反論の資料とした。
2007年、平成19年9月26日
長谷川 峯生