4月11日・12日 ローマにて

 

このフィレンツエのホテルは今までの旅行の内で一番よかったが、翌日はあわただしくローマに旅立った。

イタリアの高速道路は日本のものとよく似ているので車中にいるかぎり異国にいるという感じはしない。

ところが一旦サービスエリアでトイレ・ストップに立ち寄ると俄然異国感が出てくる。

というのも、こちらではトイレもタダではないので、常に小銭の心配をしなければならないからである。

中にはお釣りを出すところでもあるので、完全にチップの域を出てしまって、押しも押されもせぬ有料トイレということだ。

外国ではトイレに小銭がいるということは聴いていたが、これほどだとは思ってもいなかったし、よく見てみると、その番をしているのは完全にビジネスライクに割り切っているようで、チップ目当てというようなものではない。

だから若い世代のものでも平然と頑張っているので、ある意味で驚きである。

ドイツのアウトバーンのところで、「日本の高速道路も無料にすべきだ」と先に書いたが、この考え方も改めなければならないのかもしれない。

トイレを綺麗に維持することも、立派な社会的基盤整備で、昔のようにボットンで済ませる時代ではなくなってきたことを自覚しなければならない。

我々も車社会に生きざるを得ないような状況になると、昔とは違った対応を迫られるわけで、昔ならば高速度路のゴミ箱に家庭ゴミを持ち込むなどということはあり得なかった。

だが、今の現実は、そういうことが起きているわけで、その先にはいよいよ日本のトイレも有料にせざるを得ない状況に行き着くのではなかろうか。

これもひとえにモラルの問題なわけで、時代に合わせて昔のモラルがそのままでは通用しなくなって、新しいモラルが必要になってきたわけだ。

時代の変革による新しい軋轢なのであろうが、どうせ高い高速料金を払うのであれば、家庭ゴミの一つも処分しておこう、という発想が車社会なるが故に起きてきたのであろう。

車がなければ、そういう発想そのものが起きないであろうが、人々の生活が車と共にあるとするならば、必然的な機運に違いない。

フィレンツエからローマまで、わずか270kmだから3時間程度のドライブで到着である。

ローマの町は人であふれていた。

如何にも観光都市といった感じで、観光客であふれかえっていた。

そしてバスの乗り入れが厳しく制限されており、バスは目的地までは行けず、駐車場に停めて後は徒歩である。

まず最初はサンピエトロ大聖堂に向かったが、ここはいわゆるバチカン市国である。

現地のガイドの説明によると、国民はわずか600人ということだ。

このサンピエトロ大聖堂も、今まで見えきたドウオモとそうたいした変わりはないが、その前の広場と、そこに集まっていた観光客には驚いた。

聖堂の正面に正対して、右側の回廊から入るものらしいが、そこはそれこそ黒山の人だかりである。

この聖堂に対して両側に回廊のようなものが張り出していたが、その屋根には立像が見事にならんでいた。

キリストの使者を表しているのかどうか定かには知らないが、たぶんそういう類のものであろう。

ここは世界のカトリック教会の総本山というべき場所である。

先に、宗教の悪口をさんざん書いておいたが、ここにきてみて新たにその感を強くした。

日本でも坊主丸儲けという言い方があるが、この大聖堂を見ていると、まさしくその思いが強くなる。

私はヨーロッパを旅行するについて、キリスト教には当然のこと大いに触れあうと思っていたが、ユダヤ教にももっともっと触れあう機会があるのではないかと思っていた。

ところが現実にはユダヤ教にはさっぱり出会わないでわけで、右も左もキリスト教一辺倒である。

今まで見てきたところがおおかた旧教の領域で、その意味でも、このヴァチカン市国というのは、それらの総本山である。

旧教といえば、これはユダヤ教と紙一重の違いしかないわけで、考え方が似かよっているとするならば、その二つは仲良くしなければならないのに、それがそうなっていないのは不思議でならない。

その意味でも私の宗教に対する不信というのは深まるばかりである。

それについても旅行に出る前に認めたものがあるのでそれを記しておく。

 

ヨーロッパ旅行に際して少しでも予備知識をと思って、図書館から「キリスト教とユダヤ教」という本を借りてきて読んだ。

正直言って難解でよく理解できなかった。

無理もない話で、人類が過去2千年も思い悩んできたことをたった一冊の本で解ろうとする方が間違っている。

その上書いた人が悪い。

ドイツの紳学者の連中が書いたものの翻訳で、哲学的用語が多くて実に難解である。

解ったことといえば、イスラム教もキリスト教も、ユダヤ教が元になっている、ということぐらいだ。

私の認識では、ユダヤ教徒がイエス・キリストを処刑したので、その後キリスト教徒はユダヤ教徒を迫害するに至ったというものであったが、この本が指し示していることは、教典をさかのぼって紐解くと、イエス・キリストを処刑したのはユダヤ人ではなく、ローマ人であったということだ。

ただユダヤ人はそのローマ人の諸行、つまりキリストを処刑することに抵抗を示さず、なすがままにしていたので、共犯者だという概念でユダヤ人はキリスト教徒から追われるようになったということだ。

つまりユダヤ人の未必の故意が責められたわけである。

こんな神代(かみよ)の時代のことを、大の大人がああでもないこうでもないと口角泡を飛ばして議論しなければならないことであろうか。しかも神学者だとか哲学者が!!!

私には神学とか哲学などというのは、大学者と称せられている暇人が知識を弄んで、知識自慢をしている図にしか見えない。

そもそも宗教の元、いわゆる宗教の核の部分というのは「鰯(いわし)の頭も信心から」というわけで、極めて些細な事柄であったに違いない。

その些細なことに、樹木の枝葉が繁るように後から後から屁理屈を付け加えたにすぎないと思う。

21世紀という時代状況から、キリスト教なりユダヤ教を研究するということは、その枝の先の葉っぱの方から根本に向かって思考を巡らすということで、あくまでも人間の知的遊戯、むなしい自慰行為でしかないと思う。

人間というのは、確かに何かにすがりたいという気持ちを持って生きているには違いない。

原始人が荒野で、自らの安寧の地を探し求めてさまよっているとき、進むべき道を東にするか西にするか、北に向かうべきか南に向かうべきか、自分の判断に自信の持てないことも多々あったに違いない。

その時に、誰しもが、何かにすがりたいという心の有り様は万人共通のことだと思う。

こういう選択は、人間が生まれ落ちたときからそれぞれ個々の人間に内在しているわけで、人間一人一人そのまよいの内容は違っていようとも、まよいを持って生きているという事実には変わりはないはずである。

だからこそ、人々はそのまよいに答えてくれそうな宗教によりどころを見いだそうとするのである。

荒野でさまよっている人間は、たった一人とか一家族ではあり得ないわけで、それはマスという人間の群れとして存在している。

その群れの中で、現実に人々を安住の地に導こうとする世俗のリーダーと、そういう世俗のことは人に任せて、自分達の仲間の心の安住を提供すべき特別の人が選任されるようになる。

その選任されることの基準は、過去におけるその人の予言の実績で、的中率が大きく左右するわけであり、その人の的中率が高ければ、世俗のリーダーもその祭祀のリーダーの助言を求めたくなるものと推察する。

宗教の起源などと言うものは、この程度のことだと思う。

この本を読んで何となく解ったような気になったことは、はじめにユダヤ教ありきで、イエス・キリストは、この時点のユダヤ教において宗教改革をしたということではないかと推察する。

少なくともユダヤ教の教典はイエス・キリストの誕生前から存在していたようで、イエス・キリストは完璧なユダヤ人として生育し、敬虔なユダヤ教徒であったにもかかわらず、ユダヤ教の教典の新解釈をしたので、旧来のユダヤ教徒から反発をされたと、私なりに解釈している。

ならばキリスト教徒が何故に2千年にもわたってユダヤ教徒を排除し続けたのかという点に疑問が行き着く。

この本の著者がいうようにイエス・キリストを処刑したのがユダヤ人でなかったとすれば、キリスト教徒のユダヤ迫害は懺悔してしかるべきはずであるが、そうならないのは明らかに偏見そのものである。

原始的なマスとしての人間は、自分達の現実の安住を求めるリーダーと、心の世界の安住の地を司るリーダーを分離していた。

ところが世俗のリーダーも、心のまよいというのは万人と同じようにあるわけで、ここで心のリーダーに相談を持ちかける。

するとここには両者の間に連帯感が生まれるわけで、その連帯がより強まると、どちらが真のリーダーか解らなくなってしまう。

一言でいえば政教一致ということになってしまう。

ヨーロッパの歴史というのはこういうものではなかろうか。

原始の人間である内は、心のリーダーというものも素朴であったに違いないが、そこにユダヤ教とかキリスト教という厳然たる宗教団体というものができてくると、心のまよいを専門に司る組織が出来上がり、人が集まってマスというものを形成すると、個々の人々の心は、マス、つまり組織の意識に収斂されてしまう。

個人個人の心というのは、組織の意志の中に集合されてしまって、その中に埋没してしまう。

そういう中で、個人の意見を強烈に表明すると、それは異端者という烙印を押されてしまい、組織の外に排除されてしまう。

ユダヤ教からキリスト教が出てきたということは、こういうことではなかろうか。

ならばキリスト教徒から見れば、イエス・キリストはユダヤ人であるにもかかわらず、自分達の信心の真骨頂を生み出したユダヤ人を排斥し続けたのは何故なのであろう。

これこそ人間の業としての偏見だと思う。

理屈では割り切れない人間の業そのものであろう。

キリスト教徒は万人に愛を説き、慈悲を説き、平等を説きながら、片一方では偏見に満ちていたわけである。

彼らの説く愛、慈悲、平等は、彼らが人間と認めた相手だけがそれを受認できるわけで、彼らが相手を人間として認知しない、する気がない化外の民であるとするならば、それらは人間の内に入っていない。そういうものは犬、猫、豚と同じ動物と見なして構わなかったのである。

キリスト教徒が「万人」に愛を説き、慈悲を説き、平等を説くなかで、その「万人」の中には、この世の全ての人間が内包されていたわけではなく、彼らの目から見て相手も人間だと認めた人しかその中には入っていなかったわけである。

だからユダヤ人、異端者、異邦人、黄色人種、黒人等々という人は彼らの目から見て人間の内には入っていなかった。

これは明らかに偏見そのもので、こういう偏見は人間が生来持っている基本的な煩悩である。

煩悩という言葉は、仏教界の言葉であろうが、キリスト教的には人間の潜在的欲望とでもいうのだろうか。

とにかく人間というものは生まれ落ちたときから何らかの欲望を持っているわけで、この偏見という思考も、その中の一つなのであろう。

我々は他とは違うのだ。俺とあいつは同じではない。我々はあれらよりも優れている。あいつらは人間ではない。自分達と同じ仲間でない以上抑圧しても構わない。差別しても一向に良心の呵責を感じない、と思いこむこと自体が人としての本性ではないかと思う。

原始社会の中で、心のまよいを専門に司る人たちが集まると、当然そこにも組織ができ、それぞれの持ち場立場に応じて階層ができる。

組織としてグループをまとめる人と、その組織を形作っている人の世話をする下働きの人々とが階層的に分離するようになる。

世俗の社会、つまり人々を直接統治する集団も、必然的に組織化されるわけで、すると人々の集合体の中に政治として直接統治に関わる人々と、人々の心のよりどころを司る祭祀系の組織と、双頭のシステムが出来上がってしまう。

問題は、心の平安を司る組織の人々が、神に仕える身でありながら、中身の人間は煩悩を捨てきれずに、世俗のシステムのコピーに過ぎないので、理想は高いものを掲げているが、していることは世俗と同じなわけである。

そして神学とか哲学を極めると、どうしても自己批判に向かうようになるので、批判が内側に向かって降りかからないように、他にスケープ・ゴートを作り出さなければならず、それがユダヤ教排斥であったものと想像する。

これがヨーロッパの歴史なのではなかろうか。

ヨーロッパの歴史は、この行政と宗教があざなえる縄のようにお互いに絡み合っている。

しかし、我々の国の歴史では、これほどひどくはないが、そういう部分も多少はあるが、基本的に政治の筋の方が終始太かったように見える。

 

この黒山の人だかりの中に約1時間ほど並んで、いよいよ聖堂の中に入ってみると、今まで見てきた聖堂と構造的には何らかわるものはないが、その中にある像の数々にはいささか驚いた。

キリスト教が偶像崇拝をしないというのは嘘八百だ。

中には、キリストの使者だかなんだか知らないが一杯偶像があるではないか。

こんなバカな話があるものかと言いたい。

確かに、内部は敬虔で厳かな場所ではあるが、その薄暗い中の絢爛豪華というのは一体これは何だという感じがした。

これは突き詰めれば世界からかき集められた富ではないかとさえ思える。

中にある座像や立像は、それこそローマ人が作ったものであろうが、それを作るだけの財力というのは、世界から略奪してきた宝物ではないかと思える。

それは今まで見てきたすべての聖堂、ドウオモについても言えることであるが、信心だとか信仰だとか、綺麗事を言っている裏では富の収奪を繰り返してきたのではないかと思う。

昨日訪れたピサという都市は、大昔には貿易で隆盛を極めたと言われているが、そのことの裏の意味は、世界から富の略奪で栄えたということだ。

此処に人々が集まって来るということは、キリスト教徒にとってはある種の巡礼ではなかろうか。

日本の四国のお遍路の旅も、あるいはお伊勢参りの旅も、娯楽をかねた巡礼でもあるわけで、それと同じことなのではなかろうか。

ヨーロッパ各地から人々が此処に集まるということは、半分は巡礼という意味を持ち、半分は物見遊山として日常から離れた息抜きの時間なのではないかと思った。

その意味でも、すべての道がローマに通じているわけで、我々のような異教徒も、このローマに来るということである。

此処では入るのにはかなり時間がかかったが、入ってしまえば何処の聖堂も似たりよったりで、座像、立像が非常に多いというぐらいで、特別に注目を惹くものはなかったのが、外に出てみたら広場に数限りないイスがセットしてあった。

あれはきっと法王の説教を聴くためのものであろう。

そこからぞろぞろと「トレビの泉」に移動したが、この泉もそうそう目を回すほどのものではなかった。

町中にある泉で、後ろにある大理石に刻まれた塑像のいわれを知りたかったが、それは誰も説明してくれず、案内書にも殆ど記述がない。

ところが、その案内書でこのトレビの泉のことを調べてみると、原型は古代ローマ時代の紀元前1世紀に完成となっている。

現在の噴水はローマ皇帝が引いた水道の末端を華やかな芸術品で飾ることがはやった18世紀に、若き建築家二コラ・サルヴィによってデザインされたものとなっていた。

だが後ろの像についての説明は一切ない。

しかし、古代ローマというのは実にたいしたものだと改めて思う。

今から2千年以上も前に水道を引くということは我々の想像を絶する思考だとつくづく思う。

その後、ローマの町を歩き回ると、この町はそういう遺跡に埋まっているわけで、トレビの泉だけに驚いているわけにはいかない。

私も低俗だとは思いつつ、此処でコインを投げておいた。

投げたコインが一枚であれば再びローマに来れるそうで、2枚ならば叶わぬ恋が実るそうだが、3枚ならばその叶った恋と決別できるそうだ。

この泉の周辺も人々でごった返していたが、その人混みの中で躄(いざり)が物乞いをしている姿を見たので驚いた。

日本でも昔はこういう人を見かけたものだが、昨今ではほとんど見かけない。

足の不自由な人、肢体不自由な人というのは昔も今も変わりなくいるに違いないのに、我々はこういう光景を全く目にしなくなった。

日本の福祉が充実してきたので、そういう姿を晒して物乞いをしなくてもよくなった、ということだろうか。

それに関連して、我々はそういう身体的な欠陥を持った人に対する言葉、表現、漢字までも、差別を助長するという考え方に基づいて抹殺しようとしているが、これは逆に日本語の表現力を相殺する方向に作用すると思う。

言葉とか漢字というのは、ものの実態を素直に表しているわけで、それと差別とは次元の異なる問題のはずである。

ひところ癲癇という言葉を自分の作品に使い、その作品が教科書に採用されたことで批判を受け、絶筆宣言をした作家がいたが、こんなバカな話はない。

癲癇という言葉を文中で使ったからといって、それは差別とは全く関係のないことで、これは完全に言葉狩りに属することである。

言葉狩りをすれば差別がなくなるという思いこみは、明らかに常軌を逸しているわけで、それは中国で文化大革命が起きたとき、相手を貶めるために使われた手法と全く同じである。

普通の論理がでたらめな思い込みによって踏みにじられる図と同じで、言葉とか言語に対する冒涜であり、独善そのものであり、常識、倫理ということを知らない無知に等しいものである。

無知というよりも、「自分は正しいことをしている」と自分勝手に思い込んだ傲慢さだと思う。

「自分が正しいことをしている」と思い込むところに無知というか人間の至らなさがあるわけで、

そのことに自分で気がつかない教養人というのも、まことに困った存在であるが、メデイァにとってはそういう存在こそニュースバリューがあるわけで世間でもてはやされるということになる。

しかし、イタリアにまできてこういうものに直面するとは思っても見なかった。

それらを横目で見ながら、あらかじめ決められた集合場所に行くと、そこにはアイスクリーム屋があった。

それで一番小さなものを頼んでアイスクリームをなめた。

しかし、このアイスクリームをイタリアでは何故ジラードと言うのであろう。

映画「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンになりきって、ジラードをなめてみたが特別に美味しいとも思わなかった。何処にでもあるアイスクリームだ。

 

此処を見終わったら再びバスでコロッセオに移動したが、これはまさしく様々な雑誌や映画で見るとおりのものであった。

手元にある観光案内書には、皇帝ヴェスパシアヌスが西暦72年に着工、約4万人の奴隷を使ってたった8年で完成させたという闘技場跡だ。

政治から市民の関心をそらすための娯楽施設として日夜猛獣対人間の血なまぐさい死闘にローマ市民が熱狂した場所となっていた。

約2千年も昔に、こういうものが作られたという点には大いに驚異を感じるが、その使用目的というのは今日的な思考からすれば決して褒め称えるべきことではない。

前にも書いたことであるが、今日的に普通に使われている市民とか国民という言葉は、この時代、つまり2千年も遡った時代には決して今日の意味と同じではなかった。

ローマ市民といった場合、そこには奴隷の存在が抜け落ちているわけで、このコロシアムに集って格闘技を見ることの出来た人々というのは、今日的な意味の市民ではなかったはずである。

この時代には一人のローマ市民に対して、それに何倍もの奴隷がいたものと想像すべきだ。

我々は、奴隷というと、アメリカの南北戦争で解放された奴隷というイメージが抜けきれないが、ローマ帝国時代の奴隷というのは、戦争で敗北した側はすべて奴隷になったものと考えてしかるべきだと思う。

だから黒人だけではないはずで、肌の色の同じ人でさえ、奴隷としてかしづかされたものと考える。

ローマ市民にとって市民というのは、ある意味で選良であったわけで、人の形をしているからといって、すべてが同じ市民ではあり得なかったはずである。

そういう状況の中で、このコロシアムというのは、戦争で負けた側の勇猛な人間と猛獣を闘わせ、その死闘を眺めて楽しんでいたわけである。

今でいえばデス・マッチのプロレスを眺めている図であろう。

そういうことが2千年も前からこの地で行われていたわけで、その伝統の上に、このヨーロッパの人々は、暴力の肯定という深層心理を抱いているのではないかと思う。

暴力の肯定ということは、先に述べた母親が危機に際して子を守るポーズにも歴然と現われているわけで、それは映画「風とライオン」の中にも見事に描かれている。

この映画の中でショーン・コネリー扮する盗賊にキャサリー・ヘップバーン扮する母親が襲われたとき、この母親は子を守りながら敢然と闘うシーンがあり、やられてもやられっぱなしでじっと耐えているわけではない。

やられたら敢然と闘う、という精神は明らかに暴力を深層心理の中で肯定しているものと思う。

暴力の肯定ということは彼らの宗教、キリスト教にも厳然と生き付いていると思う。

例えばイエス・キリストの磔の像を臆面もなく人前にさらすということは、暴力を象徴していると思う。

あの像を見て、反面教師として、あるいはああいう状況も許されるのだという許容として、彼らにとってはああいう状況も許され、される場合も、する場合もあり得る、ということを認め合っていると考えざるを得ない。

そしてそれは我々大和民族にはないものだと思う。

我々、大和民族には八百万の神々がいるが、ああいう形をした神というのはいないわけで、やられても隠忍自重するのが我々の民族に生き様となっている。

それと同時に、石の文化にも改めて驚かされる。

石の文化は確かに悠久不滅である。

2千年も前に作られた水道が未だに生きていたり、コロシアムが一部壊れているとはいえ未だに残っているということはまさしく驚異だ。

それに比べると我々の木の文化というのはスクラップ・アンド・ビルドの文化で、形あるものはいずれ形がなくなる、という輪廻転生にもとづく刹那主義になるのも致し方ない。

この文化の違いには根底に風土の違いがあるわけで、風土が文化の形成に大きな役割を果たしているれっきとした証拠ではなかろうか。

ローマ皇帝が、庶民の政治への関心をそらすための娯楽としてコロシアムを作った、という説は、非常に意味深なことを言っているのではなかろうか。

今の日本でも一般大衆のスポーツへの関心は非常に強いわけで、それも深刻な政治から目をそらすためにあるのだろうか。

このコロッセオのすぐ隣にはフォロ・ロマーノという古代の遺跡があったが、この時はスーパー・ツアー・コンダクターも、現地のガイドも、一言もそのことをいわなかった。

で、この日は、その前の凱旋門のところで集合写真を撮ったりしてそうそうにホテルに引き上げ、それから事前に予約しておいた、もう一つのオプショナル・ツアーとしてカンツオーネ・ナイトなる食事に出掛けた。

これも他の団体との相乗りであったが、そうたいして感動するほどのものではなかった。

カンツオーネを舞台で演ずるのかと思ったら、日本でいえば流しである。客席にきて5、6曲歌ってそれでおしまいであった。

もともと私は遊びなれていないので、こういうときに如何に対応するか不得意だが、日本人の観光ツアーには既にチップが組み込まれているということで、その場でチップは出さなくともいいとあるが、基本的にはああいう流しの芸人にはなにがしかの金を投げ与えるのものではなかろうか。

以前、アメリカ旅行をしたとき、メキシコに足を延ばしたことがあるが、その時町を歩いていたら、歩道のテラスで食事をしていたアメリカ人のところに流しのギター弾きが寄っていったが、その時どういうやりとりがあったのかきちんと見ておけばよかった。

アメリカ人は、このチップの渡し方が如何にも上手で、実にスマートに渡している。

チップ一つ渡すにも、上品なやり方と如何にも無骨で締まりのない仕方があるものだ。

けれどもチップの不要な我々の国は実に素晴らしい。

 

 

翌日はいよいよ帰国する日であったが、飛行機の出発は夜の9時近くで、まるまる一日自由行動がとれる日であった。

それで、何処に行こうかさんざん迷ったが、結局のところローマは狭いところなので歩いてみようということになり、前日見損なったフォロ・ロマーノという遺跡を見に行くことにした。

地図を見てみると、前日見たコロッセオの隣なので徒歩で向かったが、ものの30分も歩かない内にそこにたどりついた。

このフォロ・ロマーノも映画「ローマの休日」ではうまく利用されている。

オードリー・ヘップバーン扮するアン王女が、眠り薬を飲んだ後で宿泊ホテルを抜け出したところ、この辺りで薬が効きだして眠りこけてしまい、新聞記者のグレゴリー・ペックに拾われるという場面だ。

このフォロ・ロマーノ、実に奇っ怪な場所だ。

古代の遺跡だからかもしれないが何とも形容のしようのない場所で、石の柱が林立していたり、ドームのような空洞があったり、横穴があったり、訳のわからない造形に満ちあふれていた。

観光客めあての写真のモデルであろう、古代の装束を着た人間がカモを待ちかまえていた。

日本では、高松塚古墳の石棺に描かれた絵がカビに犯されて、その修復に大騒ぎしているが、此処では紀元前のものが太陽の下で大ぴらにまったく無造作に転がっている。

風土が乾燥しているということは、歴史にも大きく関わっているわけで、日本のように湿潤な場所では、歴史さえも消滅してしまうということだ。

このフォロ・ロマーノもコロッセオと同様、大勢の人の手で築きあげられたもので、それは人智の結晶というべきものであるが、大勢の人が力を合わせて巨大な建築物を造るということは、突き詰めれば如何にうまく人、ないしは大衆、あるいは奴隷を管理したか、ということに突き当たる。

ということは、古代ローマは如何に管理社会であったかということではなかろうか。

古代ローマの、市民の民主化ということは、ほんの一部のローマ市民にとっての民主主義であったわけで、20世紀の状況に照らし合わせれば、共産党員のみが人間らしい生活の出来る社会主義国のようなものだ。

古代ローマ市民というのは、同じ市民という言葉を使っていても、実質は極限られた自由市民だけであって、その実体はその下にいくつもの階層があって、そういう人々の労力を集合させることによってこれらの遺跡が出来上がったものと推察する。

これらの遺跡は出来た当初はそれなりに機能していたと思う。

ところが、それが現在遺跡となってしまったということは、中身の人間が大きく入れ替わったということだと思う。

それこそが民族ないしは国家の栄華盛衰というものであろう。

地球上の自然界の生き物は、個体数が多くなれば結局食糧不足に陥り自然淘汰される。

ある種が淘汰されれば、それに変わるものが再び跋扈するが、それも結局は同じ運命をたどるわけで、古代の人間の遺跡というのも、それが人間にも当てはまるということを具体的に我々の目に晒しているのではなかろうか。

ヨーロッパというのは基本的にキリスト教文化圏なわけで、そのキリスト教というのも、この時代に出現してきた人々の考え方の現われだと思う。

遺跡と宗教とは一見何の関わりもないが、太古の時代を経たものという意味では共通項でくくられるわけで、ここで古代のヨーロッパの人々の思考の根底にあるものを紐解いてみたいと思う。

 

例によってヨーロッパ旅行に際しての予備知識にと思って、図書館から借りてきた本で「だれが聖書を書いたか」という本を読んだ。

結論として、聖書は一人の著者が心血を注いで書き上げたものではないということである。

何人のもの人が、部分部分を書いて、それを寄せ集めた作品だということである。

私は元々宗教になどに興味がなかったので、いまだかって開いたこともなかった。

ただ言葉としては、旧約聖書と新約聖書というものは知ってはいたが、当然、新約というからには後で出た改訂版ぐらいのものであろう、といった極めて粗雑な認識しか持っていなかった。

時代的には確かに後でできたのであろうが、旧約聖書というのはキリストが生まれる前にもう既にあったもののようで、キリストの誕生以降に書かれたのが新約聖書というものらしい。

そのために旧約聖書というのはユダヤ教の教典に近いものであったに違いなく、キリスト教が広範に広がる過程で、新約聖書というものが編まれたようだ。

しかし、両方とも教義を書き記したものではなく、人間の様々な悩みを、具体例を示しながら、示唆的に倫理を説いたもののようだ。

こういう本を読んでいると、西洋の古代史を知らないとまさしく意味不明に陥る。

西洋のというよりも、エジプト、アッシリア、ペルシャ、オリエント、ローマ、ギリシャ等々の古代文明にまでさかのぼらないと意味不明である。

そこまでさかのぼると、もう何処までが事実で、どこからが神話なのか定かに解らないことになる。

ただ驚くべきことは、紀元前の時代にもう紙というものがあり、それに文字を記すという行為が人間によって成されていた、ということは実に驚くべきことだと思う。

人が文字を持った、ということが人類の生存に大きく関わりあっていたに違いない。

今でも文字を持たない民族がいるにはいるが、そういう民族は極めて影響力が乏しく、地球規模で見た場合、何ら人類に貢献するものを持っていない。

現在、地球上で繁栄を誇っている人々は、全て文字を持った人々の後裔で、文字を持つということはこういうことだと思う。

しかしながら、天孫降臨という話は大なり小なりどの民族にも似たような話があるもので、そういう嘘か誠か解らない曖昧な話にでもすがりたいというのが人間の原始の心の有りようであることは間違いない。

西洋の人々がキリスト教を信心し、聖書の教えを座右の銘としながら、偏見に満ちた思考に陥るというのも宗教の大きな矛盾ではなかろうか。

宗教の矛盾というよりも人間の心の側の矛盾なのかもしれない。

聖書は人間の犯してはならない「べからず」集というわけでもなかろうが、生きた人間の倫理を説くものであるとするならば、キリスト教信者はもっともっと謙虚に生きなければならない筈である。

それは聖書の話よりも相当年代を経た近世の話に飛躍してしまうが、この時代の彼ら西洋人の地球規模の活躍は、とうてい宗教からは賛美し得ない諸行ではなかろうか。

その前の中世における異端者狩りというような行為も、とうていキリスト教信者の行為としては受け容れがたいものではないのか。

宗教を司る人々、いわゆる心の救済者も、所詮は俗世間の人間と同じ人間なるが故に、人間の煩悩、いわゆる人としての潜在的な欲望からは逃れられなかったということであろう。

だとしたら、宗教というものの意味が最初から無いのと同じなのではなかろうか。

心の救済者、いわゆる司祭とか、修道院とか、教会という宗教の象徴としての関わりを持つ人には、人々は畏敬の念を拭いきれない。

人々の目からすると、そういう立場の人は有り難い存在に映るわけで、競って供え物を献上したくなる気持ちを押さえがたい。

それは日本の仏教界でも同じなわけで、自分の信ずる宗教の説話を聞く場合、非常に有り難い気持ちになって、ものを寄進しても惜しくないと思うようになる。

だから宗教を司る施設には自然と財がたまる。

俗世間風にいえば金持ちになるし、為政者も民衆と同じように、そういう団体には様々な特典を与えるので、ますます栄華を極めるようになる。

それは結局のところ、俗世間の人間のしていることと同じことを宗教の名を借りて行っているわけだ。

聖書の説く倫理も、道徳も、彼らは自分に都合の良いように解釈するわけで、ある意味で無知な民衆を騙していることになる。

世俗の為政者は直裁に統治権を振りかざして、臣民を統治するが、宗教家は宗教の名を借りて同じように無知な民衆から寄進という形で富を吸い上げるわけである。

宗教家が真に人間愛にあふれているとすれば、ヨーロッパに見られる立派な教会などあり得ないではないか。

キリスト教徒は偶像崇拝をしないといわれているが、あのキリストの磔の像をあちらこちらに建てるというのは偶像ではないのか。

立派な教会の建物は一種の偶像と化しているのではなかろうか。

つまり、いくら敬虔なクリスチャンであろうとも、人間の本質は隠しきれないわけで、その隠しきれずに表に現れている部分は、世俗のものと同じである。

心の癒しを司るというのは、彼らの職業なわけで、その職業に就いているからといって、その人の煩悩が消滅しているわけではない。

人としての根源的な欲望を超越したかのように振る舞ってはいるが、真から解脱しているわけではない。

世俗のものが露骨に出てしまっているということだ。

神に仕える身というのはある種の欺瞞で、そういう振りをして世俗の無知蒙昧な人々の目をごまかしているに過ぎないと思う。

それを端的に示す行為が布教というもので、キリスト教徒でないものが如何なる宗教を信じようと彼らには関係のないことの筈であるが、それでは彼らのお節介心が許さないわけで、キリスト教に変わればもっと良いことがあると諭すわけである。

その良い例がアメリカのブッシュ大統領のイラク戦争で、イラクの民が何を信じようとアメリカには関係がないが、それではキリスト教徒としての正義が許さないという論理で、正義の押し売りをしているわけである。

もっとも9・11事件に見られるように、テロの温床と叩くという理由も、石油にまつわる利権も絡んでいるであろうが、キリスト教徒の偽善とイスラム教徒の原理主義が衝突しているのが今のイラクの現状だろうと考える。

私のような凡人は、宗教は、心の平安を希求し、人々の精神の癒しに貢献すべきものと思いこんでいたが、それを司っている人々も、所詮は普通の人間の普通の基本的欲望から解脱できていないということなのであろう。

 

イタリアの古都は何処に行っても教会に突き当たる。

その意味では日本の京都や奈良と同じであろうが、違うのはそれが石の建造物だということだ。

そのことによって2千年も前の人間の作ったものが現実のものとして我々の目の前に横たわっているということである。

人間が作った石の建造物は遺跡として2千年以上時の経過に耐えて今日に及んでいるが、人間は残り得ないわけで、わずか50年、よく生きても80年、この時代の人ならばそれぐらいではなかろうかと思う。

ということは人の命などまことに儚いということで、そうであるとするならば、そうそうくよくよして生きることはない。

私は10年ほど前にガンを患ったが、その時切実に思った。

「俺もガンになったか!ということは俺の肉体はガンにとりつかれやすい体質だということだ。

だとすれば後に残された余命は大事にしなければならないが、自分の好きなものを体に悪いからといって我慢することはない。

どうせ短い命ならば、好きなことを好きなようにすればいい」と悟りのようなものを感じた。

どうせ残り少ない命ならば、そうがむしゃらに頑張る必要はない、と考えるといっぺんに肩の荷が下りて気分が楽になった。

宗教に関わる人というのは基本的にこういう思考になっていなければならないのではなかろうか。

俗界から超越して信仰の道にはいるということは、こういうことでなければならないと思う。

だとしたら、日本でも西洋でも、あらゆる宗教施設がそうそう立派なものには成り得ないのではなかろうか。

フォロ・ロマーノを散策していて、あまりに立派な遺跡に圧倒されて、そんな思いに駆られた。

で、家内とこのフォロ・ロマーノの外周を道なりに歩いていくと、「真実の口」に突き当たった。

これのレプリカが名古屋港のイタリア村にもあるので、既にそれを見ている私にとって、実物はそう珍しくもないが、日本人に人気のある観光スポットという意味と、何といっても映画「ローマの休日」でオードリー・ペップバーンとグレゴリー・ペックのシーンに思いをはせれば、私としては是非とも見てみたいと思っていたスポットである。

嘘を持っている人は口の中に入れた手が抜けなくなる、という話を真に受けたヘップバーン扮するアン王女は、その口に手を入れることに躊躇する場面、グレゴリー・ペックは口の中に入れた手を、上着の袖の中に隠してアン王女を狼狽させるシーン。

その口の回りには各国からきた観光客が群がっていたが、彼らが皆あの映画の影響でここに集まったものだろうか。

あの映画はもう50年も前の映画で、そうそう若い人にまで知れ渡っているとは思わないが、世界各国にはどういう形で宣伝されているのであろう。

ちなみに日本の観光案内にはどれもこの映画のことが記されているようだ。

 

ところがこれも教会の入り口になっていた。

その教会の名はサンタ・マリア・イン・コスメデイアン教会。

この像の前も、それこそ黒山の人だかりで、皆が皆、口の中に手を突っ込んでは写真を撮っていた。

私達もお互いに手を口の中に入れて記念写真を撮ったが、それが済むと自然と教会の中に誘導されるという案配になっていた。

教会など今までさんざん見てきたので、あまり関心もなかったが、一通りは見てきた。

これといった特別な印象はなかった。

ここからは他の観光客の後にくっついて、人の流れに沿って歩いていたら、小高い丘に出て、そこには白くて綺麗な宮殿のような建築物があった。

また数多の銅像もあちらこちらにあったが、その時点ではさっぱり要領がつかめなかった。

後で、手元の観光案内書を丹念に見てみると、カピトリーの丘。コンセルヴァトーリ美術館などとなっていた。

それに続いてエマヌエーレ2世記念堂などと立派な建物が現われてきたが、私にとってはただの白くて綺麗な建物というぐらいの感想しかない。

大体、これらの建造物について何の予備知識もないのだから、まさしく「猫に小判」の状態である。

ここでも写真をパチパチ撮ったが、意味もわからず写真を撮っても本当は無意味だろうと思う。

しかし、あまりにも被写体が多いのでついついそういう気になってしまう。

それで、ここからも観光客の後にくっついてゾロゾロと歩いたが、今これを書くにあたり、よくよく地図を調べてみると、それはコルソ通りを北に向かって歩いたことになる。

ところが、ここを歩いていてまたまた奇っ怪な光景に出会った。

それは正真正銘の乞食が、大勢の人が行き交っている往来で寝そべりながら放尿している光景を目撃した。

病人がベットの上で溲瓶で用を足すポーズで、右手で逸物をささえながら、道路を濡らしていた。西洋は福祉が行き渡っていると聞いてきたが、これは一体どういうことなのであろう。

先回の躄(いざり)にしても、今回の乞食にしても、全く理解に苦しむ光景だ。

日本から来る観光客はイタリアの古都を見に来るわけで、古都なるが故に障害者には不都合な面が多いのは致し方ないが、こういう場面に直面するとはいささか驚いた。

そんなこんなで、このコルソ通りをそぞろ歩きしていたら、左側に広場があって、そこには巨大な鉛筆のような塔が建っていた。

これも後で地図で調べてみると、コロンナ広場ということまではわかったが、その鉛筆のようなものが如何なるものかについてはさっぱり要領を得ない。

ところがこの反対側は駅のコンコースのような商店街で、おそらく有名ブランド品の店なのであろう、大勢の人が出入りしていた。

これも後でわかったことであるが、それはガレリア・コロンナ・アルベルト・ソルデイというものであった。

ここは通路が三つ又になっていて、その二つの通路に軽食がとれるようにスタンドが出来ていた。日本流にいえば立ち食いというところであろうか。

よって、我々もここで軽い昼食とした。

ここでしばらく休憩をかねた昼食をとって、再びそぞろ歩きをして適当なところで右に曲がったら、突き当たりがスペイン広場であった。

ところがこのスペイン広場にでるまでの通路が、まさしく有名ブランド品の店舗の並びで、家内はショーウインドーに顔をくっつけるようにしていた。

それでとうとうプラダの店に入って色々品定めしていたが、その間私は辛抱強くおとなしくつきあった。

結局は買わずに出てきたので、私はやれやれと胸をなで下ろした次第である。

そこからスペイン広場は丸見えであったが、階段にはツツジらしき花が満開に咲いていた。

この階段も映画「ローマの休日」の重要なポイントであった。

オードリー・ヘップバーン扮するアン王女が、グレゴリー・ペックの下宿を出て、そのまま帰ろうかどうしようかとアイスクリームをなめながら思案していると、後ろからグレゴリー・ペックがさも偶然かのように装いながら現われるシーンである。

私の外国に関する知識は、本によるものも多いが、映画の影響も計り知れないものがある。

映画で見た光景を自分でも見てみたい、というまことに浅薄な願望がある。

そういう意味で、アメリカのモニュメントバレーもよかったし、香港に行ったときも映画「慕情」が頭から離れなかった。

ところがこれだけ古い映画ともなると、もうガイドの方が知らないわけで、イタリアのローマに関しても、日本のガイドブックには映画「ローマの休日」との関連が述べられているが、現地の人はもうそんな古い映画など知らないかもしれない。

これで今回のローマに関する観光は一通り終わったことになったが、ホテルに帰るにはタクシーを拾わなければならない。

ところがこの界隈にはタクシーなど走っていないわけで、どうしてもタクシー乗り場を探さなければならなかった。

ホテルから乗るときは電話で呼べるが、出先ではそうも行かないわけで、またまたうろうろと歩かねばならなかった。

結局のところ再びガレリア・コロンナ・アルベルト・ソルデイまで戻ったが、ここに来ると目の前に広場があるものだから一寸そちらに行って見た。

するとそこに例のアイスクリーム屋があった。

だもんだから、もう一度アイスクリーム、いやジラードを買ってみることにした。

イタリアのアイスクリーム屋は15、6種ぐらいのクリームを用意している。

それを20リットル入りの塗料缶のようなものに入れ、ウインドーの下に並べ、客が指させばわかるようにしている。

適当に注文したら、ヘラでそれこそ山盛りを通りこして、こぼれ落ちそうにコーンに盛ってくれた。

店先でそれをなめていたら、通りがかりの紳士が、その店のショーウインドーをのぞき込んで、「こんなところにシシリーの菓子がある!!」といって驚いていた。

ということはこの店のオーナーはシシリー島出身なのかもしれない。

まあこんな調子でローマの観光は終わった。

で、ガレリア・コロンナ・アルベルト・ソルデイの裏からタクシーでホテルに帰ったらものの15分もかからなかった。

ホテル戻った時間は14:00頃で、まだまだ時間が有り余っていた。

だからここで1時間ぐらい休憩してから再びテルミニ駅に行ってみることにした。

というのも孫が鉄道が好きなものだから、孫に鉄道の映像でも見せてやれればいいと思って出掛けた。

地図で道順を完全に頭の中にインプットして再び徒歩で出掛けた。

テルミニ駅はイタリアでは古くて大きな駅として通っているかもしれないが、名古屋駅に比べれば古さだけが目について、我々からすれ決して近代的な総合駅ではなかった。

日本でいえば昭和30年頃の風情だ。

それはそれなりに異境ということはいえるが、新しさとか近代的とか合理性というものとはかけ離れた存在であった。

 

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