4月10日 フィレンツエ泊

 

いよいよフィレンツェということになった。

フィレンツエは「花の都」といわれ、ヨーロッパの人々にとってはあこがれの町であったことはうすうす感じてはいたが、アルプス山脈を北から南へと越えてくると、その実感がよく理解できる。

で、此処に着いたときはイースターでもあり、夜でもあったので、ホテルの隣のスーパーが閉まっていた。

ヨーロッパにはコンビエンス・ストアーが全くないので旅行者といえどもまことに不便だ。

又、自販機というのも全く見あたらないので、これもまことに不便だ。

タバコ一つ買うにも、ミネラル・ウオーター一つ買うにも、まことに不自由である。

そんなわけで、隣にスーパー・マーケットがあるということは実に嬉しい。

ということで、翌朝、早速そこに飛び込んでビールの4本詰めのパックを買い込みホテルの冷蔵庫に保管しておいた。

イタリアの有名な都市フィレンツエのスーパー・マーケットの様子も一見の値打ちがある。

外観は日本の地方のスーパーとさほど変わらないが、問題はレジである。

まず彼ら彼女らは腰かけて仕事をしている。

それはそれで良いが、あまりにもつっけんどんな態度が気にかかる。

そして客に対して正対する彼や彼女らのカウンターが蓋付きになっていて、勘定の際はいちいち蓋を開け閉めしていた。

日本のスーパーではチェックするカウンターと90度の角度で、金庫というべきお金を保管する機械(レジスター)が設置してあるが、それがカウンターに正対している。

小学校の生徒の机という感じで、それはそれで問題はないが、チェッカーでチェックした品物をベルトコンベアーで流している点は日本とだいぶ違う。

そして客が混雑してくると、コンベアー上の品物の流れが鉄道の転轍機のように二つに分離される。

この点は確かに合理的であるが、ここにも労働というものに対する考え方の違いが現われていると思う。

つまりチェッカーという作業に対して少しでも労働の負荷を軽減しようという考え方があると思う。

我々の場合だと、如何にお客に対してサービスするかということは至上命令になっているので、働く側の労働の負荷軽減ということが二の次に考えられていると思う。

この根本のところにもキリスト教の労働罪悪感が横たわっているのではないかと想像した。

野菜や果物のバラ売りの仕方も面白かった。

客が自分の買いたいものを秤に掛けると、金額を記したラベルが出てきて、それをチェッカーがチェックするという風になっていた。

「日本にもああいうものがあるか?」と家内に聞いてみると、「以前はあったが今はない」ということであった。

この日は、このホテルに連泊することになっていたので、夜の準備をしておいたわけだ。

で、例によってバスで市内に出て、最初に行ったところが例のドウオモである。

ところがこの大聖堂も前のミラノの大聖堂と同じようなものだが、その規模の大きさには圧倒された。

広場の前には洗礼堂というのがあり、その後ろに観光案内によくある、あの大聖堂ドウオモがそびえ立っていた。

その脇には高い鐘楼がそびえ立つており観光案内によくある写真と同じだ。

本体は大きな丸屋根を備えた巨大な建物である。

この前の広場では大きな画用紙を抱えた得体の知れない若者がうろうろしていたが、彼らはいったい何でそんなところにいるのであろう。

確かに絵を持ち歩いているが、その絵を買う客というのがいるのであろうか。

若い男が、誰が買うともわからない絵を持ち歩いて、日がなたむろするというのは、如何にも文化の退廃以外の何ものでもない。

観光立国ということはこういうことだと思う。

2千年も昔の遺産を、今の人々が食い物にしているということなのであろう。

その前にある洗礼堂にしても、金の扉を備えた実に堂々たる建築物であるが、これらの宗教施設は信者の寄進で立てられたものと考えざるを得ない。

素人考えで言うと、神に仕える身のものが、こういう絢爛豪華な施設を入要とするのであれば、いささか神を冒涜するものではなかろうか。

ヨーロッパにも、かつてはそれぞれの地方にそれぞれの封建領主とか王侯貴族がいて、その痕跡を今回たどってきたわけだが、こういう王侯貴族以上に絢爛豪華な施設を入要とする宗教の存在というのはいささかおかしいと思う。

封建領主や王侯貴族というのは、宗教界からすれば世俗の汚らわしい存在ということになろうが、その宗教人のしている宗教活動としての行為そのものは、世俗の人々以上に俗悪ということではなかろうか。

世俗の王侯や貴族は、下々の者を抑圧して搾取することによって栄華を維持しているが、宗教人は、人々の寄進や寄付で財源をまかなっている、という論法はまやかしではないかと思う。

この大聖堂、正式名はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂というらしい。

広場の地面からいきなり建物がそそり立っているわけで、その壁面や柱には数え切れないほどの塑像が張り巡らされている。

その一つ一つに曰く因縁があるのだろうけれど、それについては知るよしもない。

この建物の前にある洗礼堂にも正式名はあるわけで、それはサン・ジョバンニ洗礼堂というものらしい。

洗礼の仕方も時代によって様々な推移があるらしいが、異教徒の我々にはたいした関心があるわけではない。

ドウオモ本体の脇には四角な柱のような建物があるが、これは鐘楼だそうだ。

この日の午後に訪れたピサの斜塔も鐘楼として建てられたものだそうだが、此処に東洋との文化の相違が見事に露呈している。

ヨーロッパの王侯貴族の城は、世俗的である部分、明らかに合理的に考えられているが、宗教施設としてのこれら大聖堂は、権力とか権威を世俗の人々に対して誇示しているに違いない。

そういう目的を秘めたコンセプトで、これら宗教施設が建てられているのではなかろうか。

ならば何故キリスト教の聖職者達は、彼らの権威や権力を世俗の人々に対して誇示しなければならなかったのであろう。

私の考えでは、それは宗教というものが虚業だからだと考える。

農業や牧畜は明らかに生業であって、それに携わる人間が如何に無学文盲であろうとも、人間の生を維持する基本的な生産者であるが、宗教家というのは自分では麦一粒、牛乳一ビンも生産していないわけで、口先のみで人の寄進を仰がねばならない。

いわゆる口先の詐術によって、自分の生を維持する糧を掠め取らねばならない。

そのためには虚勢を張る必要があるわけで、詐欺師が見せ金をちらつかせるのと同じではなかろうか。

私は今回の旅行にあたり、多少とも予備知識にと思って、二、三冊本を読んでみた。

その中で、こういう思いを抱かせるものがあったが、旅行が終わっても、この考えを変えることはないと考えている。

 

例によってヨーロッパ旅行の予備知識を得ようと思って図書館から借りてきた本で、「ヨーロッパの旅 キリスト教編Q&A」という本を読んだ。

この本は極めてわかりやすく解説してあった。

今まで読んだ本はあまりにも学術的な記述がなされているので、よく理解できなかったが、この本はこちらが知りたいと思っていることに的確に答えが出されていた。

しかし、宗教などと言うものは突き詰めていけば結局のところ、人間の原始の悩みに行き着くと思う。

そして人間の悩みを聞き、その悩みに答えるのも人間であり、その悩みに指針を示すのも人間であるとすれば、最終的には人間の業に行き着くのも無理無い話だと思う。

ユダヤ人の中からイエス・キリストが誕生し、それが同じユダヤ人から排斥されるというのも、人間の業に一つというべきで、それこそ人間の持って生まれた偏見そのものではないか。

偏見こそ人間が持って生まれた業の最悪のものではなかろうか。

「信ずるものは救われる」というが、それは救われたような気がするだけで、根本的な解決には至っていない筈だ。

ただ、その人が自分は神、ないしはキリストによって救われた、と思い込むだけの話で、何の解決にも至っていないと思う。

その場合、自分が救われたと思い込むことによって、その人の悩みが和らぐということは現実の問題として有るに違いない。

これこそが心の平安というものであろう。

一時的な逃避であったとしても、しばし心の平安が得られた、ということはある種の救いであることに間違いはない。

問題は、心の平安を探し求めてさまようか弱き人々にあるのではなく、心の平安を授けるべき立場にいる人々の人間性である。

これが実によく人間の本性を現しているわけで、こういう立場の人々は、普通我々のごとき凡人からすれば、現世を超越した聖人に見えてしかるべきである。

ところが、これが案に相違してそうではないところに私の関心が向く。

人間という生き物は、個人という単体、単独では生きられないわけで、集団としての群れでなければ生きていけれない。

群れで生きるということは、そこには当然組織というものが出来上がる。

群れをあるべき方向に導くリーダーと、そのリーダーをフォローする下々の者という階層を形作る組織は、人の群れには必然的に出来上がると思う。

リーダーは当然群れ全体のことを常に考えているわけで、普通の他の個体と同じことをしていてはそれができないのでそのことに専念する。

するとそのリーダーは下々のしている肉体労働から解放されるわけで、それを下々の立場から見れば如何にも楽をしているかのように見えるのも無理ない話だと思う。

リーダーにはリーダーとしての悩みがあるに違いないが、下々のものにはそのリーダーとしての悩みは見えないわけで、誰でも彼でもが「俺もリーダーとして楽がしたい」という気持ちになるのも当然の成り行きだと思う。

これこそが人間のもつ基本的な欲望、原始人の嘘偽りのない真の本性、本音だと思う。

仏教用語ではこれを煩悩と称しているが、宗教としてその根源までさかのぼって考えれば仏教もキリスト教もその行き着く先は同じだと思う。

ところが心の平安を授ける人々が大勢になり、それが組織というものを形作ると、そこに当然人間としての基本的欲求として、階層のトップになりたいという上昇志向に毒される。

こうなるともう心の救済、悩みの癒しなどという他人事に関わっておれなくなって、俗世間の人間の本性丸出しになり、欲望の赴くままの有り体になってしまう。

こんなことはイエス・キリストの誕生の時代、いやそれよりも前のユダヤ教の時代にも、解っている人には解っていたに違いない。

それでも人々が信心に頼るということは、これも又人間の業の一つなのであろう。

騙す方も騙される方も同じ人間ということだ。

組織というものが大きくなればそれは必ず分裂する。

これも人間の群れにとっては必然的なことで、10人や20人のグループならば意見の集約は比較的簡単であるが、これが200人、2000人となると必ず意見が分かれ、それを一つに集約することは極めて困難になる。

結果的に、それは考え方の似かよったもの同士が集まって、それぞれにグループを作って分裂する。

分裂すれば、次の段階として、お互いに正統派を主張しあって覇権争いに展開するのも人間の基本的な有り体である。

こういう人間の形態は如何なる民族にもあるわけで、これが他民族どうしの接点で行われているかぎり、我々はそれを人類の歴史という認識で眺めることができるが、それと同じことが人間の精神を司る職域の中で展開しているとなると、宗教というものに極めて懐疑的にならざるを得ない。

中世から近世にかけての教会の建物の絢爛豪華さ、これを我々はどう解釈したらいいのであろう。

同じことは我々の日本でも言えるわけで、日本の寺院の建築物についても同じことが言えている。

教会や寺院が立派ということは、言い換えれば人々がそれだけ抑圧され、搾取されたということではなかろうか。

抑圧とか搾取というと、悪代官が人々を苦しめる図を思い描きがちであるが、「これこれの寄進をしなければ悪魔が乗り移る」という言い方で祭祀を司るものが言ったとすれば、それは立派な抑圧と搾取だと思う。

ローマ法王が発行した免罪符などという馬鹿げた発想は、教会が如何に人々を騙したかということを如実に表しているではないか。

金で自分の犯した罪が償える、などという奇妙奇天烈な発想が何故まかり通ったのであろう。

ホリエモンまがいの錬金術、いや詐術そのものではないか。

人間の精神の有り様は、洋の東西を問わず、宗教界に身を置く人といえども、凡人とたいして変わらないと思うが、それに引き替え、目に見える形の具体的なものは我々の発想とはずいぶん違っているのは一体どういうことなのであろう。

文化は風土が醸成すると、私は考えているが、ヨーロッパの絵画、彫刻とか、建築物というのは我々の思考とは明らかに違っているわけで、この違いは一体どう説明したらいいのであろう。

絵画にしても我々の色使いとは全く違っているし、彫刻でも我々の発想とは全く違っている。

建物においては我々の考えも及ばない様相を呈しているわけで、この発想の違いは一体どこからきているのであろう。

人間が、心のよりどころを探し求めてさまようのは世界的に人類の基本的欲求として大同小異であるが、芸術の分野になると全く共通項が見あたらないような気がする。

これは私の勉強の足りなさの問題であろうか。

城の形態だけ見ても、日本のものとは全く違うし、まして絵画とか彫刻に至っては我々のものと共通する部分は全く存在していない。

ヨーロッパの聖堂とか教会が石で出来ているとするならば、その石は一体どこから持ってきたものであろう。

どこかに石切場というものがあるのだろうか。

石を四角に切り出すには相当に高い技術が伴わないことには出来ないと思うが、その辺りのことは一体どうなっているのであろう。

我が民族の学者と称せられる人々は、人間の精神の葛藤は高貴な学問と思い込んで、そういう方面の研究には労を惜しまないが、具体的な事物に関する考察には極めて関心が薄いような気がしてならない。

一枚の絵を見て、様々な蘊蓄を傾けることが学問であって、教会の建物の石が何処の産で、誰がどういう風に加工したのか、石をなめらかにするにはどういう技術があったのか、という実務についての関心は真に薄いように見受けられる。

それについては実際に見てから論考してみよう。

 

というわけで、今、目の前に石で出来た壮大な宗教施設としての教会、大聖堂を見てみると、同じ宗教施設として我が国の寺や神社との違いに不思議な気持ちにならざるを得ない。

この大聖堂は、悩める下々の人々に対して、威圧するようなポーズでそそり立っているわけで、我々の感覚でいうところの神々しさというものは微塵も感じられない。

「俺はお前達の上に君臨しているのだぞ!!」と、アピールしている図である。

これはキリスト教なるものが一神教なるが故に他の宗教に対して不寛容だから、それを如実に示すために虚勢を張らなければならなかったからであろうか。

この大聖堂を下からあおぎみていると、この聖堂、教会のトップにいる人間は一体どういう人間なのだろうかと不思議な気持ちになる。

大聖堂というのは、大司教がいる教会のことだとは前に記したが、この教会のテリトリーがそれぞれにヨーロッパ全土を分割統治しているということをどう考えたらいいのであろう。

これでは全く世俗の政治と同じではないか。

宗教への悪口はさておいて、それからシニョリーア広場なるところに出たが、これは一体どうしたことだろう。

美術館の彫刻の展示が町中の屋外で行われているようなもので、大理石の白い彫像があちらにもこちらにも置いてあった。

日本の町でも最近は町中に彫刻や塑像が設置されるケースが多くなったが、あれにはどういう意味があるのであろう。

忠魂碑や顕彰碑ならば、その内容はともかく、そういうものを置きたいという顕示欲はなんとなく理解できなくもないが、芸術作品を町中に置くということは、町中の人に見てもらいたいということではあろうが、何故そういう衝動が沸いてくるのであろう。

町中に置けば当然悪戯や損傷の機会もそれだけ多くなるが、そういうリスクを推してまで尚皆さんに見てもらいたい、接してもらいたいということなのであろうか。

この町中に置いてある像は本当に本物だろうか。

この状況下ではレプリカであったとしても決して非難される筋あいはない。

フィレンツエは「屋根のない美術館」といわれるだけあって、屋外に惜しげもなくこういう彫刻がおかれている。

それぞれの彫刻には、それぞれに作者の意図が秘められているのであろうが、ガイドの通り一遍の説明では、それを汲み取ることは出来なかった。

この土地は、我々以外の国々の人にも人気があるわけで、ヨーロッパ系かアメリカ系の若い人たちは、リュックを背負いながら、分厚い解説書を片手に、現物と照らしあわせながら丁寧に見ていたが、我々も本来ならばああいう旅行をすべきであろう。

ツアーで、ガイドの後にくっついて、遅れないように小走りで駆け抜ける旅行では本当の意味の旅ではないことは重々わかっている。

西洋の若い人たちが、ああいう風にじっくり自分の目で現物と参考書と見比べながら旅をするというのは、日本の若い人たちも見習うべきだと思う。

この広場の中の像で、有名なのがダビデ像であるが、この実物は高さ3mほどの大理石の白い像であった。

左手では手ぬぐいのようなものを肩に掛け、右手には石のようなものをもって、半身に構えているポーズである。

これは古代の武器を持っている図で、左手に持っているのは石を遠方に飛ばすための皮の紐で、この皮に石を挟んでぶんぶん振り回して敵に当てるという武器らしい。

 

 

ここでガイド嬢は面白い話を披露した。

というのは、「日本の銭湯にこれと同じ像があって、それは左手にタオルを持ち、右手には石けんを持った像があるという話だが、もしその像が本当にあったならば、その場所を教えて下さい」といっていた。

ここにあった像は、その大部分が大理石に刻まれた白い像であるが、ヨーロッパというのは、それほど大理石が豊富にあるところなのであろうか。

それにしても石を削ってあれほど表面をなめらかにするということが大昔から可能であったのだろうか。

そのことを考えると不思議でならない。

ここでしばらく写真を撮って、次は共和国広場なるところを通って、ヴェッキオ橋にいった。

これはまた変わったところで橋の両側に宝石店がところ狭しと並んでいた。

なんで橋の上に宝石店が店を構えているのであろう。

元々は宝石店などなかったらしく、普通の八百屋さんのような庶民的な店があったらしいが、そういう店が川の中にゴミを投げ散らかすので、川が汚濁され悪臭が漂うようになり、その結果としてそういう店が撤去させられ、その後にゴミなどを出さない宝石店に入れ替わったと説明を受けた。

その環境汚染の問題も現代の話ではなく、そうとうに大昔の話なのであろう。

この川の名をアルノ川といい、その光景は名古屋の中川運河の納屋橋辺りを少し南に行った光景とよく似ている。

川の汚染の話もなんだかよく似た話だ。

この橋を見終わって、いよいよウフィッツイ美術館となるわけであるが、正直言ってツアーのわずか1時間程度の鑑賞では十分に見るということは最初から不可能なことで、それは致し方ない。

実物を十分に見れないのだからと思って、ここでは公認の日本語版ガイドブックを購入して。

それによると、このウフィッツイという言葉はメデイチ家のオフイスという意味らしい。

その公認ガイドブックによると、ウフィッツイの起源は1560年に遡り、メデイチ家のコジモ1世(1519〜74)の要請でトスカーナ大公国の行政管理、司法オフイス(ウフィッツイ)のため、川沿い(アルノ川)の空中に建つかのような2つの翼廊をもつ宮殿をヴェザリー二が設計したことに始まる。と記されていた。

この美術館に入ると、すぐに3階に上がって、それから見ながら下に降りてくるという構造になっている。

最初、ガイド嬢は、絵画における遠近法の解説からはじめたが、それとは別に、私は絵を用いたキリスト教の布教に興味を抱いた。

大昔はどの民族でも無学文盲が多かったわけで、そういう人たちに宗教を説くには絵による視覚に訴える手法というのは非常に効果的であったものと思う。

絵はそのための道具として教会をはじめあらゆる機会に利用されたに違いない。

そういう意味を持った絵というのは、今流にいえば広告媒体としての看板絵なわけで、これはいわば職人絵であったに違いない。

そういう中で、レオナルド・ダ・ビンチが遠近法を取り入れたということは、その広告媒体の作風から芸術の側に一歩寄り添ったたわけで、絵画を絵画として単独に鑑賞する方向を指し示したのではなかろうか。

問題は、このフィレンツェという都市が、メデイチ家と共にあったということで、その統治は3世紀にも及んでいる。

その間の統治者が芸術に非常に寛大で、芸術、美術、工芸に助力を惜しまず、それらをフォローしたことによって、それらが現在世界遺産として残っているということである。

前に、ハプスブルグ家について愚考を記したが、メデイチ家についても私なりの考えを述べてみたいと思う。

これも今回の旅行に際して予備知識にと思って読んだ本の印象であるが、旅行後においてもさほどの違和感は持っていない。

 

今回予定している旅行に関連して、図書館から借りてきた本で「万能人とメデイチ家の世紀」という本を読んだ。

メデイチ家に関する蘊蓄にあふれているかと思って期待して読んだが、その意味では期待はずれであった。

しかしイタリアのルネッサンスについては大いに参考になった。

ヨーロッパの名家、いわゆるハプスブルグ家、メデイチ家、ロスチャイルド家等々の家系は要するに映画『ゴッド・ファーザー』と同じということではなかろうか。

我々の言語では『家』であるが、英語読みで表せば『ファミリー』なわけで、マーロン・ブランド扮するコルネオーレが家族を守りながら、勢力を拡張する図と同じということではなかろうか。

映画はフイックションであろうが、フイックションを構成するにもネタがなければ虚構そのものが成り立たないわけで、その意味で『ゴッド・ファーザー』という虚構は、ヨーロッパの貴族の成り上がりの過程をマフィアの抗争という形で描き出したものではなかろうか。

その意味では日本における織田信長や太閤秀吉の誕生と軌を一にするものではある。

映画『ゴッド・ファーザー』は興行として成り立つように、勢力拡張をマフィアの抗争という設定にしているが、実際のヨーロッパ人の勢力拡張の過程では、武力行使と結婚という姻戚関係の結びつきということでその版図が大きく左右されたに違いない。

そういう状況の中で、文化、いわゆるルネッサンスというものは、こういう「ゴッド・ファーザー」的な権力者がパトロンとして機能して、推し進められたわけで、その意味からして、政治というものが文化の上に位置したものではないか、と私なりに勝手に解釈している。

映画『ゴッド・ファーザー』を例に引けば、政治はマフィアが勢力拡大を図る手法としてあったわけで、マフィァを貴族とか王侯に置き換えればそれがそのまま政治に成り代わるものと考える。

この本は、レオナルド・ダ・ビンチをして劣等感にさいなまれて臍を噛ませた、というレオン・パチスタ・アルベルテイを描くことによってルネッサンスを浮き彫りにしようとした作品であった。

日本人にとってレオナルド・ダ・ビンチならば誰でもが知っているが、レオン・パチスタ・アルベルテイなどは普通の人は知らないと思う。

私もその中の一人としてこの本を読むまでは全く知らなかった。

ところがこの本の中では彼が万能人として描かれているわけで、その意味ではレオナルド・ダ・ビンチも明らかに万能人であったわけで、要するに今でいえば「何でも屋」のマルチ・タレントということだ。

ここでルネッサンスというものが建築と大きく関わり合って、建築を基準にして物事が決まっているような気がしてきた。

ヨーロッパの建築物は太古から石でできているが、家が石でできているということは、この地方には地震というものを考えなくても済んできたということに他ならない。

しかし、素人なりに考えてみると、イタリアのボンペイの都はベスビオス火山の噴火で埋没したはずなのに、何故人々は地震のことを考慮に入れずに生きていたのであろう。

火山があるということは地震がついて回るということではなかろうか。

「フニクラ・フ二クラ」というイタリア民謡にもあるように、イタリアは火山国なのに地震の恐怖については一向に描かれていないというのは一体どういうことなのであろう。

そういう私の下衆の勘ぐりとは別次元で、ヨーロッパの家は石でできている。

日本の家屋が木と紙でできており、ヨーロッパの家が石でできているということは、明らかに文化というものは風土に根ざすということではなかろうか。

我々の家が木と紙でできているということは、考えてみればスクラップ・アンド・ビルドを前提としてできており、ヨーロッパの家が石でできているということは永久不滅の願望がそこに現れているということではなかろうか。

そして、東海の小島の磯の白砂に住む我々は、海という堅牢な外壁に囲まれているわけで、他民族との葛藤を避けて生きてこれた。

ところがヨーロッパではそういうわけにはいかず、常に外敵との接触に脅かされていたわけで、その意味で、異民族との折衝にもすこぶる長けていたわけである。

そのことの延長線上に、ファミリーが自分のテリトリーを、つまりマフィアのいうシマを、如何に維持していくかという大命題に突き当たるわけである。

ここで話題が飛躍して、だいぶ以前のことであるが、テレビを見ていたら、政治献金問題で佐川急便が金丸信に金を送ったかどうかという放送で、佐川急便の幹部会の場面が放映されたことがあった。

あの状況を見ると、まさしく『ゴッド・ファアザー』のマーロン・ブランド扮するところのコルネオーネ家の家族の葛藤そのものである。

つまり佐川急便の幹部会の有り体は、マフィアの頭領の会合と同じレベルであるが、悲しいかな品の無さにおいてはとてもコルネオーネの足元にも及ばない。

詰まるところ、いくら飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長した企業でも、経営者や構成員の品格の向上は金の力でも何ともならないということである。

急成長した優良企業で、ないしは成り上がりものでは、その虚飾の皮を一皮剥けば、人間の品性そのものが見事に露呈するということである。

いくら立派な名門家系、いくら立派な企業のエグゼクテイブでも、人が見ていないときの行いというのは同じ人間として赤裸々なものがあり、表面がいくら立派に見えても、生身の人間は我々と大差ないということだが、これでは野蛮というほかない。

現実に生きている人間には、野蛮さの対局に品の良さというものが有るわけで、この品というのは一体どう解釈したらいいのであろう。

由緒正しき家系には、本人の頭脳の善し悪しとは別に、品格とか風格というものが備わっているが、これは成り上がりものにはなかなか身に付かない。

しかし、そういう上品な人でも生活に窮してくるとその品も次々とはげ落ちることもある。

札束で人のほっぺたを叩くような勢いのものでも、風格、品格とか上品さを金で買って、付け刃的に品よく振る舞うということはありえないが、裕福な生活をし続け、心の平安を得るようになれば、自ずと品が出てくることもある。

映画『ゴッド・ファアーザー』でマーロン・ブランド扮するコルネオーネ家の面々には、フイックションの世界とはいえ、この風格とか品が漂っているが、これは一体どういうことなのであろう。

で、そういうものがヨーロッパのそれぞれの名家にはついて回っているわけで、他人の品性の良さというのは、自分もそれと同じレベルに達していなければ他人の品性そのものが理解しきれないと思う。それがいわゆる教養とか知性というものではなかろうか。

風土に根ざしたヨーロッパの石の家に住む人々は、殺風景な石の建築物に彩りを添えるために絵画というものを飾り、その絵画に描かれている内容によって、字の読めない民衆に対してある種の教訓を示唆しようとしていたに違いない。

よってヨーロッパの絵画というものが最初は宗教絡みのものが多かったが、このルネッサンスにいたって初めて人間そのものの美に気がついたわけである。

この時代の芸術家や学者というのは、良いパトロンを得て、そのパトロンの元で徒食しながら作品を作ったわけで、良いパトロンを得るというのは、パトロンの側にもそれ相応の良い審美眼がなければならなかったわけである。

何の結果も生まない、海のものとも山のものとも解らない芸術家や学者に徒食させることは、いくら鷹揚な貴族でもあり得ないと思う。

それにしても貴族とか王侯が芸術家や学者を自分の邸宅に囲い込み、または金を与えるというのは明らかにノブレス・オブリージの現れではなかろうか。

これはキリスト教に根拠があるのだろう。

「貧しいものに施し与える」というのはキリスト教の慈愛の発想ではないかと思うが、そういう宗教が何故に「異教徒ならば殺しても構わない」という論理に行き着くのであろう。

宗派が違えば殺し合っても構わない、という論理に何故行き着くのであろう。

ここには明らかに偏見が内在しているように思う。

同じ人間の姿形をしていても、異教徒ならば人であらず、宗派が違えば人であらず、という思考が連綿と生き続けているのではなかろうか。これこそ偏見そのものである。

自分と同じ宗教、同じ宗派ならば人は皆平等で等しく愛を得られるが、宗教が違い、宗派が違えば同じ人間でもそれは人ではないという思考が行き渡っていたのではなかろうか。

片一方では慈愛を説きながら、もう一方では偏見に凝り固まっているというのでは宗教の意味がないではないか。

しかし、これがヨーロッパの現実であったわけで、ヨーロッパの現実というよりも宗教、キリスト教の現実であったわけで、この宗教の矛盾は未だに克服されていないがこれは一体どういうことなのであろう。

レオナルド・ダ・ビンチもレオン・パチスタ・アルベルテイなどという万能人、いわゆるマルチ・タレントも宗教の矛盾には一言も答えようとしていない。

 

この美術館にもレオナルド・ダ・ビンチの作品は3点しかない。

彼は生涯で二十数点しか作品を残していないそうで、ここにあるのも下書きとしての「東方3博士の礼拝」というものしかないが、メデイチ家の功績は、そういう芸術家に新境地を開かせたというところにあると思う。

こういう天才達が宗教の矛盾には答えていないと書きつづったが、当時の状況を考えるに、そういうことを口に出来なかったに違いない。

だからこそ、レオナルドは今までの平面的な絵画に遠近法を取り入れて、立体感を出すことによって、人間味を表そうとしたに違いない。

ルネッサンスということは人間復興と訳されているが、その根本のところには、宗教に対する矛盾の告発が秘められていたに違いない。

口から言葉として出していえば、抑圧を受けるので、無言の内に人間らしさを表現することで、宗教に対抗しようとしていたものと私は考える。

この美術館もゆっくり見ようとしたら丸一日はかかる。

1時間程度の鑑賞では中に入ったという程度のもので、ただ通り過ぎたというだけのことだ。

これもツアーである以上致し方ない。

この時点で、午後は自由時間となったが、私と家内は、ピサの斜塔へのオプショナル観光を予約してあったので、他のグループに同行してピサに向かうこととなった。

ピサへの行程は1時間程度のものであったが、沿線の光景は我が国の田舎の光景と大した違いはない。

景観という点に関していえば、イタリアは完全にドイツ、オーストリアに後れを取っている。

ラテン系の、ものにこだわらない性分がそういう違いを生み出しているのかもしれない。

それで、ピサという都市も元々は海岸近くの貿易の盛んな土地だったらしいが、今では大学の町となっているということだ。

バスは町はずれの大きな駐車場に入ったが、そこから斜塔のあるところまでは徒歩で15、6分の距離があった。

途中に踏切があり、渡ろうとしたら列車がやってくるサインが出、どんな列車が来るのか興味津々で待っていた。

踏切の鐘が鳴り出しても、すぐに列車が通り抜けるわけではない。

しばらく待たされてやってきた列車は、如何にもオンボロという感じのローカル列車であった。

孫が喜ぶのでビデオで撮影した。

そこを渡って、お土産屋の間を通り抜けるとやっとピサの斜塔といわれるところにでれた。

ところが不思議なことに、斜塔とそれに付随した聖堂、洗礼堂なるものが頑丈な城壁に囲まれているではないか。

今まで見てきたヨーロッパの町は、こうした城壁に囲まれたものが多かったが、ここにもヨーロッパに生きた人々の潜在意識としての異端者の存在ということがあるのであろう。

我々日本人は、身を守るということについて極めて淡泊で、戦の象徴としての城も、防御という思考が全くないわけではないが、何が何でも完璧に異端者を寄せ付けない、というほど徹底したものではない。

その点、ヨーロッパの城というのは、露骨にそれを前面に出しているわけで、これは今まで見てきた大聖堂の建物についても言えている。

話が飛躍するが、母親が我が子を守る態度にもそれは露骨に現われている、ということを聴いたことがある。

西洋人の母親は、危機が迫ったとき、我が子を自分の後ろに回して、自分で闘おうと構えるが、我々大和民族の母親は、我が子を我が身で包んで、我が身がどうなろうとも我が子だけは助けようと祈りのポーズをとる、という態度に出るそうだ。

確かに言われてみればその通りで、そのことは危機に際して、西洋の人々は自分で危機と闘うことを辞さないが、我々は他力本願にすがり、運を天に任すという発想の相違だと思う。

この発想の違いは一体どこからきているのであろう。

それが見事に建築物にも出ている。

この城壁に囲まれた宗教施設の中には、当然のこと大聖堂・ドウオモと鐘楼として作られた斜塔と、洗礼堂があったが、観光案内書によると、ここの大聖堂は1063年のパレルモ沖海戦を記念して建てられたもので、ロマネスク様式、イスラム様式、ビザンチン様式などをミックスした建物だということだ。

ここに一歩足を踏み入れた時、一緒にいた家内は、「これはトルコに似ている」と開口一番に言ったが、まさしくイスラムの影響が見事に出ていたのであろう。

家内は以前トルコに旅行したことがあるので、一目でそれを感じ取ったに違いない。

しかし、正真正銘の無紳論者の私にすれば、どの聖堂を見ても同じに見える。

中に入ってみると、敬虔な信者たちであろう、厳かに祈りを捧げていたが、私にすれば、そこに立ち並んでいる大きな石の柱とステンドグラスぐらいかし興味を引くものはない。

しかし、この堂の天井画というのは日本の寺院でもしばしば見かけるものとよく似ているが、面白いことに自分たちを支配した元敵の家紋も添えられているそうだ。

天井画の一つ一つの舛の中に、当時のヨーロッパの王家の紋章が描かれているということであったが、そういう状況を日本に例えれば、豊臣秀吉が天下統一する前の状況に似ていたのではなかろうか。

それらが宗教で離反したりくっついたり、姻戚関係でくっついたり同盟を結んだり、あるいは利害得失を巡って敵対したりしたのではなかろうか。

ところが、その前にある洗礼堂というのは今でも使われており、この天井には音響効果を高める工夫がなされているということであった。

そこでボランテイアーの女性が声を張り上げていたが、まさしく美声がホールの隅々にまでいきわたっている。

そしてホールの中央には説教台があり、そこでは今でも説教が行われているということである。

その説教台の下には、骸骨と骨をクロスした海賊船の旗のような印を記した石があり、その下は納骨堂になっているということであった。

斜塔は、これらに付随した鐘楼として建てられたもので、下から積み上げて作っていくうちに、3階部分にきたときから傾きだしたということである。

その理由は、海岸近くで埋め立てが甘く、地盤が緩かったからということらしいが、今流にいえば完全なる欠陥住宅なわけで、欠陥だからこそ世界的に有名になり、今では世界遺産にまでなっているというのだから妙な話ではある。

その傾き加減が心配で、何度も修復作業が行われたが、斜塔は斜塔なるが故に価値があるわけで、今では登ることも可能だそうだが、時間の制約もあるので、我々のグループでは誰も登らなかった。

 

 

 

ただ斜塔を押し返すポーズで写真に納めていた人は大勢いた。

ここの入り口には様々な土産物を売る店が出ていたが、ここを案内してくれたガイドはジプシーを見つけると、大きな声で皆に注意を喚起していた。

スーパー・ツアー・コンダクターも、現地のガイドも、ジプシーには極度に嫌悪感をあらわにしていたが、これは一体どういうことなのであろう。

ヨーロッパではユダヤ人とジプシーが差別されていることは物の本を読んで知っていたが、目の前であからさまに態度で示されると驚いてしまう。

日本では、差別ということに極度に神経を尖らせて、我々は人前では決して口にしないようにしていたが、ここではアッケラカンと声に出して言われている。

ということは、それなりの実績があるからこそ、こういうことが罷り通っているもの解釈しなければならない。

ヨーロッパのユダヤ人というのはもう完全にヨーロッパ社会の中に埋没しているようで、普通の市民生活の中でユダヤ人を見分けることさえ難しいのではないかと思う。

ところがジプシーというのは、露骨に自分たちのアイデンテイテイ−を誇示し、同化しようとしないので、未だに差別されているのであろう。

そしてその結果として社会の低層を形つくっているので、普通のヨーロッパ社会の構成員からは露骨な差別を受けるという境遇に追いやられているにちがいない。

ヨーロッパの各国というのは単一の民族で成り立っているわけではなく、ずっと大昔からその地に住んでいた人々と、そうでない人々、ずっと大昔から市民として認められている人々と、そうでない出自の人々、そういう人たちが混沌と混ざり合っている中にもう一つジプシーとかユダヤ人というように常に放浪をし、定住しない人々というのが渾然と入り交じっているわけで、そこにはどうしても偏見が生まれると思う。

人間の持つ偏見というのは、イエス・キリストといえども何とも致し方ないことで、生きた人間に、「嫌いなものを好きになれ」といっても詮無いことである。

また反対に「好きなことを無理に嫌いになれ」といってもこれまた詮無い話で、他人では如何とも致し方ない。

ヨーロッパの人々がジプシーを嫌い、ユダヤ人を嫌うのは理屈では何とも説明の仕様のないことではなかろうか。

片一方がそれらを露骨に嫌うので、嫌われた方は頑なに自分達のアイデンテイテイーを誇示するようになり、これがいわゆる悪循環というものである。

こういう状況を目の当たりにすると、我々はすぐに「そういう偏見は取り除かなければならない」という発想に陥りがちであるが、これは我々が島国なるが故の甘い発想なのだろう。

その「甘さ」は、我々が比較的均一性のとれた民族なものだから、何となく以心伝心という作用を思い浮かべて綺麗事に流されがちだからだと思う。

理想に近い綺麗事を並べて、それに一歩でも近づくことが「善」で、事態をそのままにするということは「悪」だという認識に立つからだと思う。

彼らは有史以来そういう確執を積み重ねてきているわけで、それが是正できるものならば既に是正されているはずで、そうならなかったのは、そうならないだけの大きな理由があったに違いない。

 

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