4月9日 フィレンツェ へ

 

ミラノという言葉もよく聞く単語であるが、私には何もその実質がわかっていたわけではない。

ただイタリアの都市ということぐらいは常識的に知ってはいたが、その内実については全く何も知らなかった。

ただ、ミラノ・コレクションというファッション・ショウのあることは知っていたが、ファッションなどに興味のあるはずもなく、ただニュースの映像として見流していたに過ぎない。

しかし、この都市は明らかに工業都市で、工業が盛んであるということは必然的に日本の都市と類似してくるということである。

それはいうまでもなく雑然さにおいて工業というものが乱立すれば町の風景としては雑然さが出てしまうわけで、ある限られた空間に様々な工場が林立すれば致し方ないところであろう。

バスでホテルの前に横付けされてしまうと、どうにも印象が薄いが、部屋に落ち着いて窓を開けると外には路面電車が行き交っていた。

この路面電車も我々の世代にとっては非常に懐かしいものであるが、こちらのローカルのバスも路面電車も乗客は閑散としている。

我々はすぐに効率ということが頭をよぎるが、公共交通機関の乗車率、つまり乗客を如何に効率よく運ぶかという発想は貧しいときの発想ではないかとふと思った。

我々の世代は、鉄道とかバスという公共交通機関は、いつもいつも混んだ状態が正常だと思いがちであるが、真に人間味にあふれた生活ということであればスキスキの公共交通機関の存在こそがそれではないかとふと思った。

我々は約20年前に日本国有鉄道を効率が悪いということで解体してJRとして分割してしまったが、その時の発想は、効率の悪い路線を切り捨てて、採算性の向上を図るという思考であったと思う。

そういう大義の下で、誰も乗らない路線、乗る人の少ない列車は淘汰すべきだ、という発想であったが、これこそ我が民族の効率主義の見事な具現であった。

確かに、今の東京の状況を見れば、どの列車も、どの車両も人であふれ、効率という面では見事な有様を呈している。

しかし、これでは本当に人間に優しい措置となっているのであろうか。

本当に人間に優しい公共交通機関であるとするならば、わずかな人にもサービスを提供することこそ真の公共性というものではなかろうか。

その意味で、がら空きの交通機関こそ真に人間に優しい、弱者に優しい公共のサービスということになる。

そのコストは社会全体が負うべきで、採算性が悪いから弱者がサービスを受ける権利を取り上げる、という措置は非人間的な対応ではなかろうか。

私の住む地域でも以前は電車が走っていたところが、高度経済成長の時、それらを全部撤廃してしまってバスに切り替えたことがあったが、この先見の明の無さをどう考えたらいいのであろう。

時代の先読みに失敗するということは、如何なる民族にも多少のことはあるであろうが、そういう積み重ねが民族の伝統となるのであろう。

次の日も例によってバスでの市内見物であったが、最初に連れて行かれたところがスフォルツエスコ城という城郭であった。

この城郭は平らなところに出来た平城であるが、茶色の大きな城であった。

ところが平城としては日本の大阪城や名古屋城に比べると規模としては小さい。

しかし、小さいながらも日本のものとは明らかに違っているわけで、その意味では非常に興味あるものであるが、日本に限らずヨーロッパでも大昔には人々はあちらにもこちらにも分割して集落を作っていたに違いない。

当然、その集落には人々を統括する、いわば統治する有力者がいたに違いなく、そういうものがヨーロッパ全域に分散していたと考えられる。

そういうものを自分の勢力圏に囲い込むことに成功したのがヨーロッパの王侯達であったと想像する。

イタリアにもそういうことが当然考えられるわけで、その痕跡としてこの城郭が残っているのではないかと思う。

このスフォルツエスコというのも、その時の土着の王様の一人ではなかったかと思うが、ガイドの説明を聞き漏らした。

ところがインターネットを調べて見ると次のような記述に出会えた。

 

4世紀にはこの地に西ローマ帝国の皇帝が居住し、313年にはミラノの勅令によってキリスト教が公認され、ミラノは宗教都市として興隆を極めた。

その後、他民族の侵略が相次いだが13世紀にはヴァスコンテイ家が支配したが、15世紀にはスフォルツエスコ家の保護の元、芸術や文学が栄えた。

この地はアルプス越えの要衝の地にあたり、商業取引や毛織物工業、精密機械工業が発達し、

14世紀にはヨーロッパ最大の武器製造地になった。

 

通り一遍の観光案内と同じレベルの説明であるが、この城郭そのものに対する知見もその程度のものなのであろう。

この城、一辺200mの城郭で囲まれたほぼ真四角の城で、正面の城門をくぐって中にはいると中側に堀がある。

城郭そのものが回廊になっていて、ほぼ田の字に部屋が出来ているようだ。

そして城であるからには様々な仕掛けがあるようで、その中には大砲の弾と称する丸い石の固まりが積み上げられたものがあった。

大砲の弾といっても火薬で飛ばすのではなく、おそらく木の反発力による反動で飛ばすものであろう。

今から思うと滑稽でさえあるが、当時としては真剣に考えられていたのであろう。

この城を突き抜けると前方に立派な公園があって、遙か向こうに凱旋門があり、その上には群像が乗っていた。

この群像は戦いの場面をあらわしているが、こういう発想も我々日本人にはないところだと思う。

ということは、彼らにしてみたら、人と人が争う、闘うということは極めて日常的なことで、それを悪いことだという認識が最初から無いのではないかと思う。

その点、我々は「和を以て尊しとす」という精神では計り知れないものがあるように思う。

この認識の相違は、有史以来の人類の生息に大きな関わりを持っているのではなかろうか。

例えば、ピューリアタン。清教徒達がはじめてアメリカ東海岸にたどりついたとき、現地のネイテイブ人、つまりアメリカ・インデアンは彼らを暖かくもてなし食料などを分け与えたといわれている。

この場合の現地のネイテイブ人、アメリカ・インデアンは我々と同じモンゴロイドなわけで、ヨーロッパ人のようなコーカサス人やラテン系の人たちではなかったし、トルコの軍艦が和歌山沖で遭難したときも、現地の人々は彼らを助けたわけで、これもよくよく考えてみれば、明治初期の和歌山の人々にとってのトルコ人の出現というのは、アメリカにたどりついた清教徒達と同じような状況で有ったに違いない。

つまり今まで見たこともない異邦人、異人を暖かく迎え入れるということは如何に平和思考の持ち主であったかということだと思う。

それに対して西洋の白人といわれる人々は、常に異邦人に対して殲滅を考えているわけで、自分達と同じでないものを排除しようという気が露骨に現われていると思う。

中世のヨーロッパ人の世界制覇というのは、その典型的な例ではなかろうか。

だから彼らにとって武器を持って闘うということは、彼らの生き様なわけで、それは彼らの潜在意識として染みこんでいるのではなかろうか。

見せ物としてはこの凱旋門の遠望も確かに立派なものだと思う。

緑の広大な芝生の向こうに凱旋門とその上に乗っている闘う群像というのは一枚の絵としては一見の値打ちがあることは確かである。

それから徒歩でスカラ座広場というところに移動してスカラ座なるものを見たが、劇場を外側から見たところでなんの値打ちもないが、団体旅行である限り致し方ない。

スカラ座には建物本体から張り出した車寄せがあったが、こんなものは珍しくも何ともない。

ただの劇場であり、その前の広場というだけで、遠路はるばるやってきてこんなものに感嘆するほど愚妹ではないつもりである。

ただスカラ座という語感には私の青春を彷彿させるものがある。

名古屋に名宝スカラ座が出来たのは何時のことであろう。

私がまだ中学生ぐらいのことでなかったかと思う。

時代でいえば昭和30年頃の話ではないかと思うが正確には知らない。

学校をさぼっては此処に映画を見に行ったものであるが、あのころは名古屋で一番豪華で新しい映画館であった。

切符を買って中にはいると若い案内嬢が懐中電灯で足下をてらして席に案内してくれたものだ。学校をさぼって見に来ている身には、それが何とも罪深いことに思われて、罪悪感に苛まれたものだ。

スカラ座という言葉からはそんなほろ苦い青春を思い出すが、あの頃もスカラ座の意義そのものには全く無頓着で、ただただ映画館の名前というぐらいの認識しか持っていなかった。

このミラノのスカラ座がどういう出し物をしていたか、ということなど全く思いもいたさなかった。

大体私は演劇とか戯曲などというものに批判的な態度を取ってきたので、これを芸術などと崇め奉ることに反発をしてきた。

芝居などは河原乞食の生業だと思っている。

洋の東西を問わず、人間の集団というのは階層を形成するわけで、階層の上のものが下々の演ずる演劇や戯曲を見て楽しむという行為は、人間の生存として既定事実として伝わってきたに違いない。

最初は身分の高いものが身分の低いものの演ずる出し物に興じていたが、その出し物を見る楽しみを身分の低いものにも与えようと画策したのが先に述べたマリア・テレジアのハプスブルグ家の文化革命であった。

ところが、時代が進むと本来は身分の低いものが演ずべきものに人気が出るようになってきた。

つまり役者という本来ならば身分の低い階層が、身分の高いものを風刺することによって、身分の高い低いにかかわらず、すべての階層から人気を得るようになってきた。

というのも、その演目によって社会風刺の様相を呈するようになってくるにしたがい、見る側に贔屓が生まれ、そのことは同時に社会的に大きな影響力を持つようになってきた。

つまり、身分の低い役者が社会風刺のきつい演目を演ずると、庶民は溜飲を下げるわけだが、そのことが大きな影響力になりうるわけで、それは同時に演じている役者の個人的影響力と見なされるようになってしまった。

そうなると演劇とか戯曲というものが学術の領域に入り、学問の仲間入りをしてしまうことになるわけである。

結局のところ、今では役者や脚本家は文化人とか知識人という範疇に入れられて文化勲章などが授与されるということになる。

後ほど見ることになるローマのコロッセオなどは、明らかに身分の高いものが、すり鉢状の野外演技場の底の方で、奴隷や猛獣を闘わせてそれを高いところから見て楽しむという施設である。

野外での興行が屋内での演劇という風に変わってくると、その演目を如何に演ずれば見る人を楽しませることが出来るか、という問題が生じてきたのであろう。

こうなると演劇というのは野外演劇では済まなくなって、劇場という限られたスペースで行われ、そのために見せるためのテクニックというものが必然的に生まれてきたのではないかと想像する。

それと同時に、見る側も、次から次と新しい演出を好むようになり、そのことが専門化してきた。それが役者であり脚本家というわけだが、ここで又、文化の登場で、それらに関する蘊蓄が大きく人々の歓心を買うようになり、そのことで演劇や芝居が学問の領域に入り込んでいったわけである。

演劇や芝居など見て楽しければそれで良いはずであるが、これがなかなか人によって違うわけで、Aの人が楽しいと思ってもBの人がそうは思うとは限らず、同じものを見ても人によってその評価は違う。

そこに評論家と称する人々の蘊蓄が幅をきかすことになる。

ここに人間の弱さが露呈して、人々は評論家の弁を頭から信用して、評論家のいうことを鵜呑みにする傾向がある。

演劇や芝居の良さなどというものは、見た人の感じたままの直感が一番正直な評価なわけで、評論家のいうことなど信じることはないと思う。

ところが人間というのは自分の感じたままの感想というものには確信が持てないので、評価しきれず、判断が迷うので、専門家としての評論家の弁に頼りたくなるのである。

 

このミラノでは公式の日本語ガイドブックを買ってみたが、これによると、このスカラ座にも例のオーストリアのマリア・テレジアの影響が及んでいることがわかり、それは大きな驚きであった。

それによるとマリア・テレジアの意向を汲んでジュゼッペ・ピエルマリーニの設計の元に、このスカラ座の建築が進められ、1778年にこけら落としが行われたと記されている。

1778年というと日本では江戸時代である。

その後何度も改修が行われイタリア・オペラの殿堂として後世に残されたものであるが、私がいくら個人的に蔑もうとも、世の風潮として、芸術は人々の共感を得るようになってきたわけで、そのことは人々がこういう形の精神の糧を望むようになったということなのであろう。

そう考えると私としてはどうしてもアメリカとの比較ということになる。

アメリカにおいて芸術としての演劇というのは、いささか低いのではないかと思う。

アメリカといえば何といっても映画であって、オペラとか、歌劇とか、芝居に関していえば、アメリカ人はヨーロッパに対してコンプレックスを抱いていると思う。

その典型的な例としてラスベガスのショウは何処まで行ってもショウで、芸術の領域にはなり得ない。

そのことはアメリカ人もよくわかっているので、その領域でヨーロッパで競うことはしない。

その代わりとしてうまく棲み分けが出来ているのが映画であって、映画という総合芸術となると、俄然本領を発揮するわけで、芸術、特に演劇とか芝居の領域では真価を発揮しきれないが、映画になればその本領が心おきなく発揮できている。

それに引き替え、我々の日本は何でもかんでも消化しようとするので、結局のところゴッタ煮の状況に陥ってしまう。

アメリカ人は自分というものをよくよく見極めて、まねの出来ることと出来ないことをあらかじめ知ることから取りかかるが、我々は何でもかんでもまねをしようとするので結果として混沌しか残らないのである。

その雑食性が我々の民族の特徴でもあり、それがあったが故に廃墟の中から不死鳥のように立ち上がったとも言える。

結果として、我々もハードウエアーとしての劇場はこれに匹敵するものを手に入れ、それは整ったが、その中で演ずる演劇なり芝居となると、そうそう自慢できるものがなく、結局のところ海外の指揮者や楽団を高額で招くということになる。

しかし、こういう高額な入場料を払ってそれを見ても、それを本当に理解することが我々に出来るであろうか。

芸術、特に演劇とか芝居を理解するということは、実際問題としてどういうことなのであろう。

5万も6万も支払って外国からきた交響楽団の演奏を聴くという真の意味は一体どういうことなのであろう。

スカラ座の聴衆というのは、5万円、6万円もの入場料の問題はさておいて、音楽を楽しみ、オペラを楽しむということはいったいどういうことなのであろう。

アメリカ映画ではタキシードを着た紳士がドレスに身を包んだ淑女の手を引いて、こういう劇場で芝居や音楽会を楽しむというシーンがしばしばあるが、現実の生きた人間がそれをするということは、究極の貴族趣味を堪能するということなのであろうか。

一時の貴族趣味を堪能するための媚薬としての芝居であったり音楽であったりするならば、そこで演じられている芝居や音楽は、その程度の価値でしかないということなのであろうか。

だとしたら、その入場料というのはべらぼうに高額なわけで、それは非合理そのものだ。

オペラとか歌劇というのは登場人物の数が多いので、それを見る見物料もその登場人物の数に比例して高くなるというのであれば、多少とも整合性が認められるが、それを芸術性のせいにして高額な入場料をむしり取るというのは詐術に等しいと思う。

冒頭のところで哲学についてこきおろしたが、芸術に関してもそれと同じ論理がまかり通る。

愚昧な人々は、先に箱ものとしての絢爛豪華な劇場をつくっておいて、そこに人を集めるには高額な入場料と取らなければ採算があわないので、否が応でも高額な入場料を設定する。

すると、そういう高い入場料のところで演じられる出し物は「きっと良いものに違いない」、と人々が錯覚するのではなかろうか。

そういう錯覚を錯覚のままにすべく、評論家と称する詐欺師が、それをことさら強調するわけで、観客はその批評を鵜呑みにして感動にうちふるえ酔ったような気分になるのではなかろうか。

基本的にドイツ・オペラはドイツ語が、イタリア・オペラはイタリア語が母国語と同じ程度に理解できないことには演じられているものの感動は伝わらないと思う。

シェイクスピアの戯曲は、イギリス英語を母国語並みに習得したものでなければ理解できないのではないかと思う。

とはいうものの、我々も歌舞伎の言葉が真に理解し切れているかといわれれば真におぼつかないので、これは少々言い過ぎかもしれないと自省はしている。

というわけで、いくら有名なスカラ座であろうとも、建物を外から眺めているだけでは何とも締まらない話である。

ところがスカラ座のとい面には、大きさはそれほどでもないが、凱旋門があって、それと屋根続きで立派なアーケードがあった。

このアーケードがヴィットリオ・エマヌエーレ2世・ガレリエというものであったが、これはドウオモとスカラ座広場を結ぶアーケードで、実に立派な通りである。

真ん中の天井は丸屋根になっていて、床は8角形をなしているが、この建設には12年を要したといわれている。

この施工者は期限内に完成させることが出来ずに、完成の日の前日に死んだともいわれている。4つのコーナーには、それぞれの大陸が描かれているが、豪州のみはまだ発見されておらず、此処には描かれていないということだ。

鉄とガラスで出来たこのアーケードは、当時の近代技術の粋を集めたものに違いないが、ガラスというものは西洋では太古から存在していたもののようだ。

この後たびたびお目にかかるドウオモの中のステンドグラスなどを見ても、ガラスがふんだんに利用されている。

又、ヨーロッパのワインなどにもガラス瓶としてふんだんに使われているわけで、その辺りの事情は我が祖国とは大いに異なっている。

こういう場面、人が集まるアーケードにガラスを利用するということも、こちらの人々の太陽へのあこがれであったのかもしれない。

イタリアは太陽の国といったところで、南洋とは違うわけで、太陽へのあこがれというのは、この地方の人々にとっては普遍的なことなのであろう。

それと同時に、鉄の利用ということにも注目しなければならないと思う。

エッフェル塔の建設が1889年、このガレリアの建設が1865年ということは、エッフェル塔の建設よりも24年も前ということになり、建造物に鉄材が使われるという新機軸を生み出したのかもしれない。

建築の素材としての鉄の使用も人類の発展に大きく貢献していると思う。

ところが我々は温暖で多湿な風土に生きているので、鉄を建築の資材とする考えをずいぶん後になるまで持っていなかった。

鉄の利用ということは、それに付随した様々な技術が入用なわけで、鉄鋼石があるからといって、それですぐに鉄が出来るわけではなく、鉄にまつわる周辺技術がないことには鉄を利用するということはあり得ない。

その意味からすればヨーロッパは確かに先進国であった。

鉄も火を使う技術であるが、ガラスも鉄と同じように火を使う技術だと思う。

この二つの技術を併せたこのアーケード、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世・ガレリエというのは、我々日本人の感性からすればきわめて特異な存在だと思う。

我々の場合、市が立つ、ないしは市場が開場するという場合、極めて安易な折りたたみ式のいつでも撤去できそうな情景を思い起こす。

戦後各地に屋根付きのアーケードが出来て、雨降りでも傘をささずに買い物が出来るかのようなイメージを抱いたものであるが、それも高度経済成長とともに終焉を迎えてしまった。

それというのも、我々の市場とか市が立つという場合のイメージがあまり良い意味のプラス思考に至っていなかったからではないかと思う。

屋根付きのアーケードが出来て傘をささずに買い物が出来るのであれば、そこに有名ブランドが集中してきて、その界隈がもっともっと隆盛を極めるのかというと、結果は全くその逆で、今では完全に客離れが進んでシャッター街と化してしまった。

このイタリアのアーケードが、世界から買い物客が集まってくるヴィットリオ・エマヌエーレ2世・ガレリエとして今日でも繁栄を誇っているのとは極めて好対照をなしている。

此処では世界のブランド品が軒を並べ、まさしく世界の高級ブランド品の競争の場と化している。私にとっては如何に世界のブランド品であろうとも「猫に小判」「馬の耳に念仏」「馬耳東風」で、全く価値がないに等しい。

欲しいとも思わなければ身につけようとも思わないし、買いたいとも思わないが、家内は違う。

プラダがどうだとか、ルイビトンがどうだとか非常にかしましいが、私は何一つ欲しいとも思わない。

ところが現実にはそういう店がところ狭しと店舗を構えているわけで、この発想の違いはどういうところにあるのであろう。

伝統の重さとか、歴史の深さなどというものではないと思う。

そもそも、ものを買うという人間の基本的な生き方の違いではなかろうか。

ヨーロッパの人々にとって、こういうブランド品は一生一代の買い物で、一度買ったからにはそれを孫子の代まで使いこなすのが普通なわけで、孫子の代まで使えるものだから値段もそれにふさわしく高くなっていたに違いない。

ところが日本が高度経済成長を経験すると、日本のノウキョウの団体がこういうところに押しかけて、札びらを切って買いまくったものだからブランドとしてのイメージは危機に瀕したに違いない。

イメージを維持するには尚いっそう価格を上げなければならないわけで、価格を上げれば上げるほどブランドのイメージも保たれたものと思う。

ところが我々の市場という感覚は庶民の感覚で、高級品など市場で売り買いするものではなかったわけで、いくら商店街が屋根付きのアーケードを造ったところで、高級品を買い求める客はそこには集まらなかったわけである。

そこにもってきて郊外に大型ショピングセンターが出来ると、客は一斉にそちらに向かうわけで、いくらアーケードがあって、傘をささずに買い物が出来るといっても、一旦逃げた客足は再び商店街には戻らなかった。

このヴィットリオ・エマヌエーレ2世・ガレリエには確かに世界から客を引きつける魅力がある。

鉄とガラスで出来たアーケードもさることながら、歩道にしても色とりどりの大理石を磨き上げて、モザイク模様に石が敷かれているわけで、ここに来るだけでなにがしかの楽しみがある。

来た瞬間、その場所に来た途端に、写真に撮りたいと思うこと自体が既に大きな魅力があるということで、見慣れたありきたりの光景にであっても、そういう衝動には駆られないものである。

写真に撮りたいと思った瞬間、もう既にその魅力にとりつかれたということだろうと思う。

その真ん中の円形天井の下からほんの少し隅に寄ったところに、小さな窪みがあって、そこに靴の踵をいれ一回りすると願いが叶うという迷信があるらしい。

ガイドからそれを聞いて早速試してみた。

大勢の人が同じことをするのであろう、そこだけ少し窪んでいた。

此処ではミラノの日本語版のガイドブックを購入しておいた。

それからドウオモに行ったが、このドウオモというのもどうも理解しがたい代物である。

日本語では大聖堂という意味らしいが、一言でいえば教会で、これが何処に行ってもあるわけで、日本でいえば京都を歩いてお寺に突き当たるようなものである。

大聖堂というのは司教のいる場所でもあるわけで、司教のいないところはただの教会であるが、司教が常駐していると、それが大聖堂、いわゆるドウオモというものらしい。

キリスト教文化圏において教会の存在は不思議でもなんでもないが、その教会たるものが我々が日本で見る教会とは異質なもの、その荘厳さというのはまさしく目を見張るものがある。

ゴチック建築の劣塔の多さといったらない。

この劣塔の意義は、少しでも天国に近いところにという意味で、中世の人々の願望を表しているとは聴いていたが、この建物内外には約3千に近い像が付随しているというのだから驚く。

日本の寺院にも建物内外に数多くの仏像をおいているところもあるにはあるが、それがすべて石で出来ているとなると少々考えざるを得ない。

正面からの光景はまさしく威風堂々という感じで、中にはいると、これが実に敬虔な雰囲気を醸し出している。

キリスト教は偶像崇拝をしないと聞いているが、建物の内外にこれほど多くの像を配せば立派な偶像崇拝ではないか。

問題は、その像の素材が大理石ということである。

石の加工というものがそんなに大昔から安易に出来たものだろうか。

ヨーロッパの教会が石で出来ている分には、それは地勢的な条件でそうなっているに違いないが、宗教施設としての教会と、日本の寺院の違いは、完全に180度の相違だ。

豪華さの質の違いだ。

日本の寺院は豪華の中にも素朴さというものを内在した質素を信条としているが、西洋の教会というのは明らかに絢爛豪華さを表に出して、如何にもこれ見よがしに押し立てている。

西洋諸国の言語は、積極的に自分の方から発信しないことには物事が成り立たないといわれているが、我々の側は以心伝心で、口で言わなくても意志が通じ合えるという特徴を持っている。

人々は心の平安を託す施設として、西洋の方は「俺はこんなに頑丈でたくましいから安心せよ」と言っているみたいだが、我が方は「なるようにしかならないのだから運を天に任せましょう」と言っているようなもので、極めて他力本願のようだ。

今ならば石を磨く工具や機械もそれなりに発達しているであろうから、どんなデザインの細工もそう難しい仕事ではないと思うが、鏨とハンマーだけで石を刻みながら、これだけ表面を綺麗に仕上げるということは不思議でならない。

仮に素材が石でないとしても、一体の像の仕上がり具合というのは驚嘆に値する。

昔の人の実績には実に驚くべきものが多い。

エジプトのピラミットの建設なども、どうやってああいうものを積み上げたのか不思議でならないし、イースター島のモヤイの像も、どういう手法でああいうものをあの場所に立てたのか不思議でならない。

それと同じで、このドウオモの壁面にどういう手法でいくつもの像を取り付けたのか、ということも不思議でならない。

塔の先端の像など、どうしてあの場所に取り付けたのか不思議でならない。

2千年にも及ぶ人類の歴史の中、いやもっと限定的に言って、キリスト教文化圏においては、宗教のよりどころとしての教会を、どうして人々の集まる町の真ん中に作ったのかという疑問がわく。

我々の場合、仏教の寺院でも、神道の神社でも、深山幽谷にその庵を結ぶのが普遍的であって、その回りに後から人々が住みつくというのが基本的なパターンだと思うが、キリスト教文化圏では、それが逆さまになっていて、人が大勢いるところに宗教の施設として教会が出来ている。

この発想の違いというのはどう説明すべきなのであろう。

私が思うに、これは宗教と政治の距離感の問題ではないかと思う。

我々の場合、宗教と政治が密着していた時期は極めて初期の段階で、それ以降は歴然と宗教と政治の距離が離れていた。

ところがキリスト教文化圏では、極めて近い時期にまで、この分離が出来ておらず、政治と宗教はある意味で二人三脚で近世まできたということではなかろうか。

ヨーロッパの文化の底流には歴然とキリスト教が流れているが、我々の場合、教養としての宗教の影響はあったが、政治に宗教が加わるということは平安時代以降殆どなかった。

ただし20世紀の初頭において、宗教としての神道が政治的に利用されたので、人々は塗炭の苦しみを味あわされ、それ以降は前にも増して政治と宗教の分離は厳しくなった。

宗教の神秘性はこのドウオモの中に入ってみると一段と肌で感じる。

中に入ったとき、そこではイースターのミサが行われており、前の方で敬虔な信者が厳かに祈りを捧げていた。

高い窓からはステンドグラスを通して光が入ってきてはいるが、それでも薄暗く神秘さが漂っていた。

両端の壁の間には大きな石柱が何本も並び、天井も滅法高く、荘厳さにおいては他に類を見ないが、これでも世界で3番目ということである。

壁にもそれぞれに祭壇があって、正面に対して90度の角度でイスが並べてあり、ご神体らしきものが置いてあったが、これでは明らかに偶像崇拝をしているに等しい。

私のような不信心なものでも一応は寄進をしてローソクを捧げ、十字を切るまねごとをしてきた。今まで生きてきて、神様に助けられたなどと思ったことは一度もないので、信心も義理信仰であるが、それでも今まで生ながらえたということは、神様の思し召しだったのかもしれない。

ただ本人の私が自覚していないだけのことで、本当は神様の加護があったのでいままで生きてこれたのかもしれない。

 

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