4月8日 ミラノ へ

 

次の日はインスブルッグの市内観光ということで、まず最初に小高い山にバスで移動した。

そこは一寸した公園になっていて、高くて立派なスキーのジャンプ台があった。

スキーのジャンプ競技はテレビの映像でしか見たことがないが、あれほど高いところから滑り降りるものだとは思っても見なかった。

まさしく飛翔という言葉を使わなければならないような塔がそびえ立っていた。

選手はジャンプ台の脇をエスカレーターで登るのだそうだが、その高い90m級のジャンプ台を滑走して飛び出すと、その下には墓が眼下に見える。

この町を案内してくれたガイドは、選手達の話として「ジャンプ台を踏み切るとあの墓の中に入っていく感じがするそうです」といっていた。

しかし、実際にそうなった人は未だにおらず、はかない話ですとジョークを飛ばしていた。

このジャンプ台の脇には2つのオリンピック献火台があった。

というのもこの町は過去に2回冬季オリンピックを開催しているので、二つあるということであった。

この地域はまさしくウインタースポーツの盛んな場所で、地勢的にも雪が多いということであればそれも自然の成り行きであろうが、小学生の時から人々はウインタースポーツに興じているらしい。

当然、選手の層も厚く、優秀な選手も数多く輩出しているに違いない。

私も若いときにはスキーに並々ならぬ情熱を傾けたつもりではあるが、所詮は金の切れ目が縁の切れ目となって、今では全く遠のいてしまった。

生活を犠牲にしてまで続ける勇気も情熱もなかった。

見事な挫折であるが、私としては悔いはない。

もう一歩のところで十分納得できるところまでいったと自分では思っているので、多少心残りではあるが、自分の人生に悔いはない。

人にはそれぞれ天分というものがあって、私がスキーで身を立てるなどということは、生来の持って生まれた天分から考えれば所詮不可能なことで、それに気がついただけでも十分である。

この小高い公園の中には大小の銅像があって、それぞれに曰く因縁がありそうだが、それをガイドはひとつひとつ説明していたが、私の記憶にはさっぱり残っていない。

しかし、高台の裏手、つまり後ろが崖になった部分には射撃場があったのには少なからず驚いた。

市民生活と射撃場が隣接しているということは、我々、平和ぼけの日本人には奇異な感じがする。

けれども、この国、つまりオーストリアは意外なことにスイスと同じ永世中立国を宣言していることから考えれば不思議でもなんでもない。

ところがこの永世中立ということは、戦後の日本の進歩的な知識人が夢想する非武装中立とは次元が異なっているわけで、一切合切、軍備、軍事力、兵器を持たないということではない。

実情はその正反対で、男子は国民皆兵で、女性は本人の意志により兵役に準ずる行為に就く権利を有するというものである。

日本の戦後の平和主義の思考とは完全に逆転しているわけで、永世中立を維持することと軍備を放棄するということを厳然と峻別している。

その点ではスイスと全く同じ道を踏襲していることになる。

ここで彼らが我々よりも一歩進んでいると思われることは、男子は国民皆兵であるが故に、良心的兵役拒否を認めているという点である。

ということは、兵役に替わる代替の義務が科せられるということだ。

こうなると日本の進歩的知識人も永世中立ということに諸手を挙げて賛成しかねるのではないかと推察する。

そして注目しなければならないことは、女性は「自己の意志で兵役に準じる行為に就く」ことが権利となっている点である。

男子は兵役に就いて戦闘訓練を受けることが義務とされているが、女性は男子と同じことをする必要がないかわり、それに替わる義務として後方支援や、傷病者の介護や、市民の救護活動に就こうとするものには、それを権利として認めるということである。

これはオーストリア国民たるものは祖国の危難には率先してたちあがるということが前提としてあるわけで、その意味で我々平和ぼけの日本人は大いに考えさせられる。

人と人の諍いというのは一人ではあり得ないわけで、そういう状況に陥ったときには既に相手があるはずで、こちらがいくら攻め込まないといったところで、相手がどう考えるかは全く予測のつかないことである。

これは人類の歴史をつぶさに観察すれば、つまり歴史を振り返ってみれば歴然としているわけで、我々、戦後の日本人の進歩的知識人の発想は、あまりにも他力本願というか、人間の本質を知らない論旨だと思う。

それも無理からぬことで、我が日本民族が壊滅的な侵略を被った経験は、あの対米戦(1941年〜1945年)のみであって、日本民族にとってああいう経験はたった一度しかないが、ヨーロッパの諸国民はあれに匹敵する経験を何度も経験しているのである。

その経験から永世中立という思考が芽生えるのも当然といえば当然である。

ところがこの思考も今新たな局面に突き当たろうとしている。

というのは、ECの誕生で、オーストリアもECの一員として責任ある地位を占めようとすると、一国平和主義というものが成り立たなくなってきたからである。

EC内の仲間として、仲間内の中で連携を維持するためには、自分だけが「戦争は嫌です」ということが成り立たなくなっているからである。

ECというのは究極的にいえばヨーロッパ合衆国に匹敵するということだ。

だとすれば、アメリカ合衆国内で、カリフォルニァ州とかバージニァ州だけが勝手に「イラクの戦争には参加しない」ということが通るかどうかということになる。

その意味で、今、オーストリアも新しい局面に対峙しているに違いないが、男子の兵役義務に替わる代替措置を講じているという点は非常に意義あることだと私は考える。

我々日本も、戦後60年、平和を享受して完全に平和ボケに嵌っているが、今更若者の兵役義務というのも時代錯誤である。

そういう時代状況の中で、若者の精神の自立を促す意味で、強制的な義務を負う「何か」を考えるときに来ていると思う。

その「何か」とは、社会奉仕につながることを考え出すべきだと思う。

介護とか、町の清掃とか、他の奉仕活動とか、そういうものを強制的にある期間に限って若者に強いるシステムを考え出すときに来ていると思う。

地球上のあらゆる民族には大体において構成員の成熟に応じて通過儀礼というものがある。

戦後の我々の場合、それは成人式として行われてきたが、成人式が本来の我が民族の構成員を確定する通過儀礼であるとするならば、これは戦後のアメリカの占領政策で完全に我が民族の潜在意識を折り曲げられ、骨抜きにされてしまった存在である。

戦後の平和思考のおかげで、ただただ大人になったお祝いという意味合いにすり替わってしまったが、本来の通過儀礼であるとすれば、あらたに新大人、新成人、新構成員として認知するためには厳正な義務の付託があってしかるべきだと思う。

アメリカナイズされた成人式になる前の元服式では、成人として振る舞うべき義務や倫理や習俗の訓導が行われたものと考える。

その場では、男子ならば闘うことの誇りが強調され、女子ならば家を守ることのノウハウが強調されたに違いない。

これはことの善し悪しを超越して、地球上に民族の普遍的な行為ではないかと思う。

それを経ることによって、様々な民族が様々な社会を構成し、そのことによって人類は今まで生き抜いてきたに違いない。

この小高い丘の射撃場の存在というのは、オーストリアの市民が自分達の祖国を守ることを日常生活の中で常に意識する場所ではなかろうか。

射撃場というのは弓道場と同じで特別な施設は要らないわけで、それでいながら常に祖国愛を喚起するには格好な施設だと考える。

ところが我々は銃というものに異常に敏感で、これは刀狩りの時代から全く変わらないようだ。

ここにも我々とヨーロッパ人の発想の違いがある。

我々は農耕民族として、そして異民族との接触がなかったが故に、農民の抗争の武器といえば鎌や鍬(くわ)、鋤(すき)程度のもの間に合っていたし、武装集団としての武士の兵器でさえ、武器そのものが芸術品と化し、闘うという行為が極めて精神的なものに転化してしまった。

だから暴力団がピストルでガラス窓を壊した程度でも大騒ぎする。

銃を発砲すれば必ず人が死ぬと思い込んでいるが、冷静に考えればあの小さな弾が仮に体に当たったところでそう簡単に人が死ぬものではない。

一発の銃弾で完全に人の命を取るのは相当に至難の業で、そうそう誰でも彼でも銃を撃ちさすれば人が死ぬものではない。

だからこそ訓練がいるわけで、射撃場もその訓練のためにここに存在するのであろう。

 

追記  この項を書いているとき(4月18日)日本では長崎市長が撃たれ、アメリカでは韓国人学生による32人にもわたる銃による大量殺戮が報道されたが、銃を規制することと戦時における銃の扱いは次元の違う問題だと思う。

銃による殺人は許し難いが、ナイフや包丁による殺人は許されるのかといえば、そんなバカな話はないわけで、ことの本質を見誤らないようにしなければいけない。

銃によるテロと一般論とはわけて考えなければならない。

 

ここを見終わってバスは旧市街に入り、州立劇場脇の駐車場で停車し、そこから徒歩で市内見物となったが、そこに行くまでの間に王宮庭園を通った。

ここはありきたりの公園で大きな木々が新緑に萌えていたが、さほどのことはなかった。

古い『地球の歩き方 ヨーロッパ編』の記事によると、この場合の王宮というのはホーフブルグという王様の庭園だったらしいが、しばらく歩くと石作りの堅牢な本宅にであった。

日本でいえば古い銀行の建物という感じのものであるが、この一角に絶妙のケーキを提供するレストランがあるということであった。

そのケーキの名はザハトルテというチョコレートケーキである。

もともとザッハーという人が考案したケーキらしいが、それが今では世界各地に広がって普通名詞にまでなってしまったが、本来の元祖はこの地のこの店から始まったものらしい。

店の名前もザッハーという。その日の昼食にはこの店のケーキですますことになった。

市内を散策して昼近くになったので、もう一軒、ガイドから紹介されていたモンデイングという店に入ろうと思って探し回ったが、どうしても探し出せず、このザッハーにはいることになった。

出されたカプチーノとこのザハトルテを取って、その味を十分に堪能した。

最初は店の説明を聞き流して町中の散策をしていたが、そこでもう一つのモンデイングという店も教えてもらった。

ところが、此処の名所の「黄金の小屋根」の辺りの撮影に夢中になっている内に、その所在がわからなくなってしまい、とうとう行き着けなかった。

それでザッハーに行ったわけであるが、これは間違って正解であった。

ガイド嬢は、「この店のトイレは綺麗だ」といっていたが、それはこの辺りの普通のトイレに比べて「少しはましだ」という風に受けとっていた。

ところがドッコイ、この店のトイレの立派さは半端ではない。

日本のホテルやキャバレーには、それこそ目を見張るような立派なトイレがしばしばあるが、それと同じで、まさしく目を見張るような立派なものであった。

話は前後するが、最初、この店の説明を聞くだけで店の前を素通りして町中の散策をしていたが、この町の「黄金の小屋根」というのは観光案内に出ているとおりのものである。

その昔、マリア・テレジアという皇后が市民の催し物を眺める場所として作られたといわれているが、このマリア・テレジアという女性は、そうとうオーストリアの歴史には貢献している。

というのも王様がこういう市井の人々のお祭りを見るということ自体が相当に革新的なことであったらしい。

そのことについては旅行前に読んだ本に詳しく記されていた。

 

ヨーロッパ旅行に関連して、例によって図書館から借りてきた本で「ハプスブルグ文化紀行」という本を読んだ。

私は、アメリカに比べるとヨーロッパというのはどうも認識が浅く、不案内なのでまことに興味深いものがあった。

しかし、ここでいう「文化」というものは一体何なのであろう。

電車やバスの発達というのは目に見える形で文化の進展と解るが、文学、絵画、演劇となると、一瞬のうちに消えてなくなるもので、人々はこういうものこそ文化と称して崇め奉っている。

だが、こういうものは人間の利便には何一つ貢献していないわけで、私に言わしめれば知のマスタベーション以外の何物でもない。

先に哲学についてこきおろしたが、文化そのものが暇人の「知恵の輪」以外の何物でもないように思われてならない。

電車やバスの運転手は一度に大勢の人を運んで、大勢の人々が暑いさなか、寒いさなかに歩かなくてもよいという利便を与えて人々の生活に貢献しているが、知識人と称する小説家、絵描き、演劇の関係者などという人々は、こういう形で人々に貢献しているのであろうか。

中世のヨーロッパでは絵画によってキリスト教の教義を説くということもあったらしい。

絵画というものが、そういう使命をも背負っていたらしいが、これは十分にあり得ることだと思う。

無学文盲の大衆にキリスト教の教義を説明するのに絵画を利用して視覚に訴えるという手法は極めて効率的だとは思う。

問題は、それを説く側の人間性である。

キリスト教の司祭も突き詰めれば生身の人間なわけで、人間が本来持っている煩悩からは脱却できず、無知蒙昧な民衆に立派なことを説きながら、自分達もその無知蒙昧な人間と同じことをする、という極めて人間性に富んでいたということである。

煩悩を克服できない者が、煩悩に満ちた人間に、高いところから偉そうに説教する愚は、信教に名を借りた詐術以外の何ものでもなく、大きな矛盾そのものだと思う。

私はマルキストではないが、神に仕える教会の中で、その役割や仕事に付随して様々な位階が存在すること自体が不思議でならない。

神の前に平等ならば、教会のシステムの中に位階など有ってはならないのではないかと思う。

そして、洋の東西を問わず、教会とか寺院というのは世俗の世界から様々な寄進を受けるわけで、その意味で、教会でも寺社でも広大な土地所有者になるわけで、こんなバカな話はないと思う。絵画や、彫刻、音楽、演劇等々の芸術と称せられるものは、全て教会とか貴族の存在によって推し進められてきたわけで、庶民が日常的に行ってきたものは一向に芸術とは見なされていない。そのことは明らかに文化人、教養人が、下々の人々を見下げた奢り以外の何ものでもない。

マリア・テレジアという女性は、この部分の意識改革をして、下々のお祭りを鑑賞しようとしたものと考える。

イタリアのカンツオーネ、スペインのフラメンコ、フランスのシャンソンなどというのは、これらの地方のそれぞれの民衆・大衆・下層階級の人々の音楽ではなかったかと思う。

ところが中世の王侯貴族の人々にしてみれば、そういうものは芸術ではないわけで、彼らからすれば、芸術とはオペラであり、宮廷音楽としてのクラシックであり、演劇でなければならなかった。

要するに、貴族がパトロンとしてなりうるものでなければ芸術ではないわけで、そこが現在とは根本的に違っていたということだろう。

そしてそれは下々の者に対して教訓的あり、同時に道徳的でなければならなかった。

とはいうもののハプスブルグ家の本拠地としてのウイーンというのは実に立派な都市であったようだ。

昔、『第三の男』という映画があった。

ウイーンが舞台となっていたが、この中では地下水道の中での追いかけっこが描かれていたが、その地下水道というのが人間が立って走れるほどの大規模なもので、それが戦後すぐの時点で出来上がっていたということは実に驚くべきことだと思う。

ウイーンという都市の西洋文化の懐の深さを感じずにはおれない。

教会や貴族の荘園が貧しい人々を搾取していた、ということもある一面では事実であろうが、その反面では、社会的インフラの整備も進んでいたわけで、その意味で我々も大いに西洋というものを見習わなければならないと思う。

それともう一つ、我々はパトロンという言葉をあまり良い意味では使わないが、この認識も大いに改めなければならないと思う。

我々の間では「武士道」という言葉が極めて良い感じを与える言葉となっているが、そこにはノブレス・オブリージのニュアンスがかすかに匂う。

西洋のパトロンという言葉はこのノブレス・オブリージの具現化ではないかとさえ思える。

貴族が新進気鋭の芸術家を囲い込んで、自由に制作に没頭できる環境を与えるということは、ただただ趣味の領域を超えた行為ではなかろうか。 

日本の歴史でもお寺や荘園が力を持っていた時期もあるにはあったが、中世から近世においては武士が普通の市民を統治した時代が長かった。

その中で、この武士という階層は人々を統治する階層であったことは確かだが、必ずしも富裕階級ではなく、ある面で官僚的な色彩が強かった。

大名という階層は確かに富裕階級のように見えてはいたが、その内実は火の車で、ある意味で身分制にともなう虚勢を張らざるを得ない立場であった、という面がなきにしもあらずである。

それが為、明治維新では版籍奉還が無血のうちに行われたと見なしていい。

よって日本の場合、文化の清新というのは市井の中にその原動力があったわけで、その意味でマリア・テレジアの行った上からの文化革命というものはあり得ない。

よってパトロンという概念もありえず、文化というものは常に下からの突き上げで唱導してきたのではないかと想像する。

文化というものは他との比較することによって進化があるように思う。

絵画にしろ、音楽にしろ、演劇にしろ、他と比較をすることにより、それを越えようと競争することによって、他よりも一歩先に進むということが進化のエネルギーになっているのではないかと思う。

頂点を極めたと思っていたら、そこで文化は停滞してしまうわけで、常に上を目指し、現状を克服し、他と比較してそれを乗り越える努力をして初めて進化があると思う。

よってそれを比較検討する場がないことには先に進めないわけで、その意味でもヨーロッパの貴族はパトロンという立場でそれをしうる財力と知力に富んでいたのではないかと想像する。

このように貴族の頂点に位置する王様、王妃というのは庶民の娯楽とは全く別の娯楽に興じていたわけで、そういう状況の中で王様、王妃が市井の人々のお祭りを見るということは大いに革新的なことであったに違いない。

それでこの「黄金の小屋根」には2657枚の金泊で張られた瓦が乗っているということであるが、500年間というもの、この瓦が盗難にあったことは一度もなかったのだろうか。

名古屋城の金シャチの鱗は盗難に遭っているが、名古屋城の金シャチに比べればこの「黄金の小屋根」の方が盗難に対して遙かに無防備に見える。

何といっても町中の建物で、右左とも棟続きでつながっているわけで、怪盗ルパンやネズミ小僧ならずとも、その気になれば簡単に盗めそうに思える。

確かに町の中心にあり、路上で行われる催し物を見るには格好の場所ではある。

それよりも問題はハプスブルグ家がこの地で勢力を大きくして、ウイーンに進出していったことの歴史的意義に思いをいたさなければならない。

それについては先に記した記述をそのまま転用するが、今回の旅行に際して、予備知識にと思って図書館から借りてきた資料を読んでみた。

 

薄っぺらなリーフレットでハプスブルグ家にまつわる資料であったが、結局、軽く読み流した程度では概念すらつかめなかった。

どう考えても我々の日本やアジアの歴史とは違っている。

我々の歴史認識ですと、どうしても統一国家という概念が抜けきれず、中国の唐、元、明、清等々、また日本では徳川家、毛利家というような概念がつきまとって、ヨーロッパの事情とは全く違っている。

ハプスブルグ家というのは民族を超え、地域を越えて全ヨーロッパに勢力を伸ばしたようだ。

そこにキリスト教が新旧に別れ、その上イスラム教とかユダヤ教の確執まで絡んできているわけで、私ごとき無学のものでは何がなんだか解らない。

おおざっぱに敷衍してみると、古来からヨーロッパに割拠していた王侯貴族を、婚姻を通じて親戚関係を樹立し、それに付随して勢力が大きくなったり小さくなったりしたということなのであろう。

人類というのは基本的に農耕と牧畜を生業として生存し続けたということは洋の東西を問わないわけで、それはそれぞれの孤立した地域の地勢的な特性によって農耕であったり牧畜あったりした筈だ。

そこに精神の糧として宗教が入り込んだが、宗教というのはいくら神様に祈ろうが、それで食料が天から降ってくるわけではない。

いくら敬虔なお祈りを捧げようとも、人々が汗水垂らして働かないことには自らの生存は確保できないわけで、その過程で余剰生産品を管理する側とされる側という階層の格差ができるわけで、

余剰生産品を管理する側はだんだん生活も豊かになり、生産品を管理される側はいつまで経ても朝星夜星で働き続けなければならないということになる。

ここで生産品を如何に温存して、不慮の出来事や後世の憂いに備えるかというノウハウは、それこそ個人のアイデアにあるわけで、備蓄に備えるノウハウを持った人間が必然的に金持ちになり裕福になる。

これがいわゆる階級制度の成立となるわけで、そこでカール・マルクスが「それではいけない、人は皆平等だから人間同士の間で貧富の差があってはならない」と立派なことを唱えた。

ところが「人間は考える芦」なわけで、10人ヒトがいれば、その考え方も10通りになるわけで、その10通りの考え方の中に格差を生む原因がある。

「人は皆平等だ」ということは、その人それぞれの考え方を否定して、一つに集約してしまうということに他ならない。

19世紀初等に、そういう考え方が生まれて来るまでの人々は、人類誕生以来の思考のままに生きてきたわけで、そこで洋の東西を問わず、貴族とそうでないものの階級制度が温存されたまま続いてきたわけである。

そういう状況の中で、ハプスブルグ家というのは各地の貴族たちを婚姻という手法で結びつけて、いわゆる婚姻による貴族連合ないしは王侯連合のようなものを作ったと考えてもいいのではないか。

近代国家の概念は、人類の歴史の中では極めておそいわけで、人類誕生以来の人々は、自分の生まれ落ちた地域からそう遠くに移動するものではなく、地域地域に固まりながら、その中で仲間意識を持って他の地域と比較することによって、主権国家の概念が醸成されてきたのではないかと、私なりに勝手に解釈している。

私のそういう認識によって、このハプスブルグ家というものを見てみると、この家系は地域を越え、民族の相違を乗り越え、ヨーロッパ全域にその勢力を伸ばしたということは何とも不思議でならない。

ハプスブルグ家の存在というのは今のEUと全く同じではないかと思う。

このハプスブルグ家の一員としてのマリア・テレジアという皇后は16人の子をもうけて、神聖ローマ皇帝(実質ドイツ)に二人、フランスの皇室に嫁がせた娘二人、その中にはフランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントネットもいるわけで、他にドイツ騎士団長とか大修道院長とか、様々な要職に就かせている。

それを大きな目で俯瞰的に見ると、ヨーロッパの国々というのはすべて姻戚関係で結ばれているということになる。

ヨーロッパ全土の王様、貴族が姻戚関係で結ばれているのならば戦争など起こりえないように思うが、そこがそうならないところが人間のなせる業であろう。

我々がヨーロッパに着いたときからイースターに入っていたので、市民生活は4連休ということで大部分の商店街は休みに入っていた。

ところが観光を生業としている人々は信仰心の度合いと、世俗の生活を秤にかけて、店を開いているところもあったので、全く全市が死んだように静まりかえっているわけでもない。

この「黄金の小屋根」のあるマリア・テレジァ通りも、我々のような観光客やらヨーロッパ各地から集まった観光客であふれていたが、その中で音楽隊の行進にであった。

これもイースターにちなんだ行事の一つなのであろう。

又、路上のパフォーマンスもあり、人形になりきって一瞬たりとも微動しないという芸を披露している人もいた。

この通りに出た屋台には人だかりがして如何にもお祭り気分にあふれていた。

此処を見終わるといよいよ本当のアルプス越えとなる。

イタリアのミラノに向けて約400kmのドライブである。

バスが進むにつれて遠方に雪をいただいた高山が見え隠れしだした。

山の斜面には雪渓やら氷河の後とおぼしきガレ場があり、アルピニストならばきっと挑戦したくなるような光景が次々に現われてきた。

道路は日本の主要国道という程度のもので、オーストラリア領内ではアウトバーンというのかどうかは知らないが、高速道路のような立派なものであった。

この道路でイタリアに抜ける途中にブレンナー峠というのがある。

私はこの峠に非常に関心を持っていたので、目を皿のようにして気をつけていたが、結局わからずじまいに終わった。

何故それほど関心があったかというと、後述する資料を読んでいたからである。

ところがこの資料の出典が図書館から借りてきた本で、必要部分をコピーしたのち返却してしまったので、出典の書名がわからなくなってしまった。

とはいうものの、その資料はこのブレンナー峠とインスブルグの関係を懇切丁寧に記しているので、参考のために、又自分自身のためにその部分を記しておく。

 

ブレンナー峠

チロル(インスブルグ周辺)はヨーロッパの中でローマからキリスト教が最も早く布教された地域の一つであった。

2千年前のキリスト降誕前後には、チべリウス帝、アウグストウス帝の大軍団がやってきて、この地方に駐屯し、北方のゲルマニア、今のドイツに向かったが彼らが峻険なアルプスを越えるのに選んだ場所がインスブルグ南方36kmにあるにあるブレンナーである。

このブレンナー峠は標高3千m前後のアルプス山脈の中で、例外的に標高わずか1370mで、その昔から越えやすいことで知られ、先史時代からエトルリア人などがこの峠を通ってチロルにやってきた。

特にローマ人はこの道を石で舗装し、高度の土木技術をヨーロッパに伝えると共に、のちにキリスト教を普及させ、チロル地方の言語、生活習慣、社会生活に深く影響を与えたのである。

土着宗教の伝統的なお祭りとキリスト教が一体となって伝承されているチロル独特の村祭りを見ると、そのことがよくわかる。

深い渓谷に架けられた巨大なヨーロッパ橋を通って南に36km、アウトバーンを車で飛ばして30分、ブレンナー峠に向かう険しい急な坂道は、私が訪れたときはどういうわけかいつも小雨にぬれていた。

イタリア国境沿いのこの辺りの険しく深いチロル・アルプスの谷間にあるブレンナー峠は、濃い緑のもみの木立に包まれているが、左右の斜面はむき出しの岩肌になっている。

北方のチロルの谷間には、沸き立つ灰色の雲が渦巻き、飛び交い、何かブリューゲルの山の絵を思わせるような不気味なところがあるが、峠に立って南の方を望むと、陽光明るいイタリアの大地が広がっている。

ボルツアーノ、ヴェローナ、ヴェネチアなど、ゲーテが「君知るや南の国」と少女ミニヨンに歌わせた北方の人々のあこがれの地イタリアが、此処ブレンナー峠から始まるのだ。

峠にたどりつくと人々はなにがしか感傷的になるものである。

振り返れば来し方移り越し日々は遠くなり、前方を望んではこれからの未来に思いを巡らすが、ブレンナー峠は混沌とした熱情的なゲルマンの魂と、清浄透明なラテンの感性が、神秘をたたえた暗黒から光り輝く黎明へと一変する分水嶺である。

ゲルマンとラテンは、北と南と対照的でありながら相補う不可分の精神構造を形成するヨーロッパの2つの柱である。

だからこそ多くの芸術家がインスブルグに泊まり、ブレンナー峠を越えてイタリアの旅に向かったのである。

宗教改革のマルチン・ルター、画家のホルバインやデューラー、音楽家のヘンデル、バッハ、モーツアルト、ワーグナー、ベルリオーズ、作家・詩人のゲーテ、ニーチェ、リルケ、ヘッセなど多くの北方の人々がブレンナー峠を越えて南の陽光を浴び、ヨーロッパの文化を開花させていった。

ブレンナー峠は南北ヨーロッパの交易、輸送の通路であるだけではなく、歴史を刻む峠でもあった。ヒットラーがムッソリーニとこの峠で2度も会談したことはよく知られているが、第2次世界大戦末期にアイゼンハウワー元帥指揮下の連合軍が、イタリアの中世の僧院のあるモンテ・カッシーノの激戦でドイツ軍を破り、一気にドイツに攻め入ってきたのもこのブレンナー峠である。

ブレンナーという言葉にはヨーロッパでは文化史的にも歴史的にも特別の感慨を抱かせる響きがある。

そしてゲーテやワーグナーらの巨匠達の多くが一夜の宿を取ったのがインスブルッグのゴールデネ・アドラー「金の鷲」という旅籠屋である。

創業は1390年だから既に600年。この街が如何に東西南北の交通の要衝であったかがわかる。はじめてインスブルグにいったとき以来何度も泊まっているが、あえてホテルと書かなかったのは、部屋数が何百もある近代的なホテルではなく、石作りの小ぢんまりとした中世風の雰囲気を持つ、心あたたまる宿屋だからである。

入り口には此処に泊まった歴史上の人物のリストを彫った大理石の板が今もはめ込まれている。

ハプスブルグ家の原型

インスブルグは「イン川に架かる橋」という意味で、1180年に橋のほとりのささやかな市場町として発足以来800年以上の歴史を持ち、中世から近世にかけ欧州政治の中心の街でもあった。

ハプスブルグ家のマキシミリアン1世(1459〜1519)が深くこの地を愛し、ウイーン生まれにもかかわらず1490年インスブルグを神聖ローマ帝国の首都として、広く欧州諸国に対して権謀術数の政策を展開して版図を拡大し、オーストリア帝国を欧州最強の国にする基礎を築いたからである。

代々、ハプスブルグ家と親密であったチロルの支配者との関係が次第に深まり、自然に両者が一緒になりハプスブルグ領に入ったのがこれよりも1世紀以上前の1368年だが、ハプスブルグ家史上もっとも名高いこの名君がチロルを愛したのは、やはり類い希なる美しさと安らぎを与える雄大な自然と独特の風物のためであった。

皇帝はチロルの山々で狩猟をし、登山や森で野営をしたり、湖水で泳ぎ、釣りを楽しみながら同時に重要な会議や会談を行い、宮廷楽団に演奏させ、お抱えの画家や彫刻家たちを激励して展覧会を開かせ、舞踏会や競技会を開催した。

この中にはマキシミリアン皇帝の肖像画を描き、親しかったデューラーもいた。

貴族や外交官、宮廷人や従者がいつも皇帝に従いインスブルグとチロルの名は当時、欧州中に轟いていたのである。

インスブルグの人は「コンパスをインスブルグを中心にして回してみると、我々の街がヨーロッパの真ん中に位置していることがわかる」という。実際その通りである。

皇帝が版図雄大な政策を遂行できた背景には、莫大な銀と鉱物資源を擁するインスブルグ東方の山シュバーッツの存在があった。

これが皇帝の政治と戦争の財源で、神聖ローマ帝国皇帝の選挙でも、選帝候を買収するこのような財源がなければ、皇帝の後継者の時代にハプスブルグ家を存続させることは不可能であったといわれている。(ガイドの説明によると、神聖ローマ帝国の皇帝は選挙で選ばれ、ハプスブルグ家はその選挙人を買収するだけの財力を持っていた、ということであった)

米国の通貨のドルの名称の起源も、この時代にチロルで鋳造された通貨ターラーからきていると言われている。

南米から銀が出るようになるまで、世界の銀市場の相場を決めたのはこのチロルの銀山であった。もう一つの財産に「白い金」といわれる岩塩があった。

となりのザルッツブルグ(塩の城という意味)と共に、この辺り一帯には中世時代には貴重だった岩塩が産出し、財政を豊かにするのに大いに役立っていた。

インスブルグ市内の観光名所の一つで皇帝マキシミリアン1世が広場での馬上御前試合などを見るために作った張り出しのバルコニーの「黄金の小屋根」は、金メッキした2657枚の銅板の瓦が葺かれ、今も黄金色に燦然と輝いている。

 

この資料に書かれている「ヨーロッパ橋」というのは正直言ってよくわからなかった。

ブレンナー峠の頂上と思われる場所は、おそらく以前は国境の検問所でもあったに違いなく、広い空地があって、そこには大きなトレーラーが車体を休めていた。

この辺りの風景は、東名高速を走って東京に向かうとき、御殿場を過ぎて箱根の山中にさしかかると高速道路が渓谷の高いところを橋でまたいで、その下の方を一般道が走っている光景があるがあの光景と同じである。

「ヨーロッパ橋」は道路が大きくカーブした折りに立派な橋脚の部分を通過していたのでたぶんあれに違いない。

この峠についてはスーパー添乗員も通り一遍の説明で、何処がそれで、何時通過したかの説明もいっさいなかったので最後までわからずじまいだった。

ただこの峠を越えるとイタリアにはいるわけで、アルプス山脈の南側はドロミテ山塊といって石灰質の山脈だ、ということは強調していたが、こちらの知りたいことには全く無頓着であった。

ただし、このドロミテ山塊というのはイタリア側からすれば著名な観光地なわけで、スキー場もたくさんあるし、元々がチロルの延長なわけで、言語もオーストリア圏に属するということだった。

アルプス山脈の北と南の違いであって、地勢的な条件は同じであったということであろう。

確かにブレンナー峠を下ってしばらくの間は山中の光景と殆ど変わらなかった。

遠くに雪を被った高山(ドロミテ山塊)を遠望しながら、快適な高速道路をひた走りに走っていたが、徐々に今までの景色とは違ってきた。

それは沿道の風景に人の生活のにおいが漂ってくるみたいなもので、徐々に民家が多くなり、今までとは異質の光景に変わっていった。

そのことは同時に、そこに棲む人々の意識の差ではないかと思う。

道路脇の光景に雑然さが現われ、屋外広告が多くなったことでそれが感じられる。

人々の建物に統一性が欠け、その大小様々な建物に広告が書かれるようになってきている。

尚、ブレンナー峠を下りたあたりで、バスはイタリアの高速道路を走っていたが、イタリアの高速道路はドイツのように無料ではなく、有料だそうだ。

高速道路といっても日本のように、如何にも仰々しく高速道路でございますという雰囲気ではなく、日本でいえば高規格の一般国道という程度のものであったが、イタリアに入った途端に沿道のガードレールは赤さびに埋もれていた。

赤くさびたガードレール、まちまちの家の規格、建物に塗りたくられた広告等々の風景は、まさしく我々の国日本に酷似している。

ただ日本では考えられないことは、高速道路のサービス・エリアのトイレで料金を取るというのは、完全に我々の思考の外のことである。

そして、このサービス・エリアの混み具合というのも、我々の祖国のそれとは少々異なっている。

この違いは、おそらく密度の違いではないかと推測する。

キリスト教文化圏の人々にとって、イースターの休暇というのは、我々の盆暮れの休暇に匹敵するものであろうが、単位面積あたりの人と車の数が我々の国とは大きく違うのであろう、サービス・エリアの混みようも我々の国に比べればまだまだ余裕があるという感じがした。

高速道路にはETCも普及しているようであるが、どうも我が国のように進化したものではなさそうで、如何にもぎこちなさが残っている。

ドイツでは元々アウトバーンが無料なので、ETCも存在していないようだ。

イタリアの雑然さは、われわれの国とよく似た感じなので、妙な親しみやすさを感じる。

箱庭のようなドイツ、オーストリアの美しさから世俗的な美しさに変わったように見える。

ガードレールの赤さびを見ても妙に親しみが沸く。

バスが夕暮れのミラノの町に着くと、例によってトランクを部屋に運び上げてから再び町中に出て、レストランでの夕食となったが、今回の旅行ではすべてがこういうスタイルなので不思議でならない。

今回の旅行の企画が、グルメに関しても力点を置いているので、ホテルでの食事よりも町の有名なレストランへという配慮なのかもしれない。

しかし、ヨーロッパの食事というのはフランス料理とかイタリア料理というふうに名前だけは聞き及んでいるが、実質そうそう美味しいものではないと考える。

人はフランス料理といえば頭から美味しいものだと思い込んでいるが、そうでもないと思う。

同じことがイタリア料理にも言えるわけで、料理に対する感覚では我々日本人の方が上だと思う。ただ我々には、フランスとかイタリアなどという美名を耳にすると、そういう料理も何となく美味しいと言わないと、相手に対して失礼と思われるのではないか、という気配りがあるものだから、誰でも彼でもそういう場面に直面すれば一応はそれを褒めるので、一般的にヨーロッパの料理も美味しいものだと思われがちであるが、本当はそうではないと思う。

イギリスとかドイツの料理のまずさは定評があるが、それに比べればフランスもイタリアもそれよりはましかもしれないが、日本のと比べれば雲泥の差だと思う。

それでこの日もミラノ風カツレツなるものを食した。

肉の厚さは薄かったがその分大きなカツレツであった。

味覚の鈍感の私はそれでも美味しく感じられた。

 

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