ミュンヘンの朝も素晴らしい朝で、例によってバフェスタイルの朝食を済ませて指定の時間にバスに乗り込むと、バスは国立劇場のそばのパーキングで我々をおろし、徒歩での観光となった。ガイドに案内されるまま、遅れないように歩いていると、そちらに気を取られて町の印象がどうも薄い。
ビルの角を2、3回曲がって広場に出ると、そこがマリエン広場というところであった。
広場には市庁舎が付随しており、その建物も威容を誇るものであった。
この市庁舎は立派な塔を持っていて、それに仕掛け時計が備わっているということだが、我々の行ったときにはその仕掛け時計は鳴らなかった。
毎日、決まった時間にはその窓の中からかわいい人形が出てくるということだが、それが見れずにまことに残念である。
マリエン広場というのは、それこそ石畳の広い広場で、我々が着いた頃から屋台の準備にかかりだしてあわただしく開店準備をしていた。
この市庁舎は、それこそ典型的なゴシックの建物で、塔には登ることも出来るそうだが今回は時間的にそれも出来なかった。
ミュンヘンというのは、私個人としては非常に興味を持った町であるが、今回のようなツアーではそういう我が儘が許されないので致し方ない。
この地のビールはとみに有名であるが、それとは全く関係のないことで、この地で1972年オリンピックが開かれたとき大変な事件が起きている。
35年も前のことで、今回のスーパー・ツアー・コンダクターも、そのことについては一言の説明もなかった。
その概要は、1972年にミュンヘン・オリンピックが開催された折り、イスラエルの選手村に「黒い9月」と名乗るアラブ系のテロ集団が押し入り、イスラエル人選手とコーチ2名を殺害し、尚9名を人質に取り、イスラエルに収監されているアラブ人の解放を要求するというものであった。
結果的にイスラエル軍部隊による人質奪還作戦をドイツが拒否して、ドイツ当局側が対応したが、それが失敗におわり、人質全員は殺害され、犯人側も5人が射殺され、逃亡を図った3名はかろうじて逮捕に至ったという事件である。
この場所でアラブとイスラエルの確執が露骨に露呈した事件である。
今回の旅行ではこういう問題にも突き当たるであろうと思って、あらかじめ今回の旅行に関して予備知識にと思って図書館から借りてきた本で、「やさしいユダヤ教Q&A」という本を読んでおいた。
キリスト教を知るにはユダヤ教も同時に知らなければならないと思って読んでみたが、これは問答形式の本で、読みやすかった。
しかしユダヤ教についてはある程度の理解を深めることは出来たが、どうもいまいちピンと来るものがない。
ユダヤ教とその信者のユダヤ教徒というのは私の理解を超えた存在だ。
この問題に関しては、ユダヤ教よりもイスラム教に視点を当てねばならないだろうが、キリスト教徒をはじめとするあらゆる宗教の信徒について同じことが言える。
というのは例えばキリスト教信者として日曜日に教会に礼拝に行くという程度の信仰ならば私も納得できる。
ところが、キリスト教徒にしろ、ユダヤ教徒にしろ、イスラム教徒にしろ、その全部が全部ではないとはいうものの、その教義とか戒律というものには何とも不可解な気持ちにならざるを得ない。
自然の中の一人の人間というよりも、社会の最小の単位の家族として、生活の節々における通過儀礼というのは如何なる民族にも大同小異存在することは理解できる。
キリスト教徒はキリスト教なりに、ユダヤ教徒はユダヤ教なりに、アラブ人はアラブ人なりに、南方のポリネシア人は彼らの風習として、インデアンはインデアンなりに通過儀礼というものを持っていると思う。
社会を構成する一番の最小単位として、若い男女が一緒になって新家庭を持てば、必然的に子供が生まれ、その子供の成長の過程で、それぞれの社会にかなった通過儀礼を経ることによって新たな社会の構成員が出来上がってくるわけで、それはそれで特別に宗教色が強いわけではないと思う。
宗教により、民族により、国により、集落により、それぞれが同じようなことを同じような意味合いで行っていると思う。
この点に関しては特にキリスト教だからとかユダヤ教だからということはないと思うが、それが2千年も前から同じことが繰り返されているとなると、これはあきらかに宗教の影響といわざるを得ない。
この地球上の、あらゆる民族が同じように通過儀礼を行うという意味では、人類は皆同じということがいえるが、問題は通過儀礼を受ける側がそれに何の懐疑も抱かずにそのまま受け容れるのかどうかという点である。
普通に健康に育った人間ならば、二十歳前後になれば当然自我に目覚め、その結果として親との確執、周囲との軋轢、自分達の伝統に対する疑義、疑念というのが生じてくるのが正常な精神の発達ではないかと思う。
いわゆる反抗期といわれるものであるが、ある民族が2千年もの間、伝統を守り続けるということは、その民族の中の若者は伝統を逸脱することが全くなかったということと考えざるを得ない。
それは良いとか悪いという問題ではなく、若者が従来の古色蒼然たる伝統とか因習に対して何の違和感も感じず、唯々諾々としてそれを引き継いだということである。
我々の普通の認識では、伝統を守るということは良い意味の価値観で評価されがちである。
伝統や因習に抵抗するような行為は、異端者、変わり者、ひねくれ者というように、どちらかというと顰蹙を買いそうな悪い評価につながりがちである。
しかし、文明とか文化というのは常にそういう古い殻を破ったときに進化するわけで、2千年も同じ伝統が守り続けられているということは、そういう飛躍が一度もなかったということである。
同じことが宗教にもいえるわけで、有史以来の伝統が未だに守り続けられているということは、その間にそれを超越する思考がいっさいなかったということである。
今日の敬虔なユダヤ教信者、イスラム教徒、キリスト教信者、その他の宗教の信者というのは、そういう古い古い思考を如何にも有り難く受け容れているということである。
2千年も語り継がれてきた言葉というのは、それこそ真理を極めているに違いない。
語り継がれていることが如何に真理であったとしても、それは真理なるが故に完全なる理想なわけで、人間の追い求めているものが100%完全なる真理であるが故に、それは人々の理想として燦然と輝いているのではなかろうか。
だから人々がそれを追い求めれば追い求める程遠のいてしまう。
陽炎の逃げ水のように近づいたと思った途端にさっと逃げてしまう。
で、結果として、人は理想を追い求めるだけで、実際にはたどり着けないということになる。
それを人間の生涯に当てはめてみると、若いときには古老の説くこの真理を意味もわからず受け容れているが、思春期ともなれば普通に健康な精神を持つ若者であればあるほど、古老の言っていることに疑問を抱くのが当然だと思う。
疑問を抱きつつも、古老の言うことをそのまま信じ続ければ、それは立派な伝統として後世に語り継ぐということになる。
ところが、ここでその疑問を深く掘り下げようとすると、現状との衝突となるわけで、それでも尚いっそう自分の考えを優先させ、それに忠実足らんとすれば、それは革新となり、異端となり、変わり者と烙印を押され、仲間内から排斥されかねない。
イエス・キリストの誕生も、この流れの中で出てきたのではないかと思う。
ここで言うユダヤ教が2千年も続いてきたということは、イエス・キリスト以外にユダヤ教の中でそれに続く革新者が一人も登場していないということに他ならない。
厳密に言えば、現代のユダヤ教徒の中にも様々な宗派があるようで、その意味ではイエス・キリスト以外にも、その他の革新者がいたということなのではなかろうか。
信仰の厚い人、敬虔な信者という言葉は、今の状況の中では良い評価を得ているようであるが、私の個人的な評価からすれば、それは心の柔軟性の乏しい人ということになる。
生まれ落ちたところが両親共に敬虔な信者で、その元で厳格な宗教的戒律の中で生育したとしても、成長の過程で思春期というものを経験する際に、その両親のしていることに何も疑問を抱かずに大人になるなどということが私には考えられない。
この地球上には未だにあらゆる情報から隔離されている地域があるが、そういう地域の人々ならばいざ知らず、普通のところであらゆる情報に晒されながら、未だに2千年前の戒律のままに生きるなどということは信じられない。
歴史上には世界的な規模で活躍したユダヤ人というは掃いて捨てるほどいる。
イエス・キリストを始め、アインシュタインからキッシンジャーまで、著名なユダヤ人が目白押しであるが、問題は彼らが自分達の祖国を持っていないという点が実に我々には解りにくい。
アメリカ人、イギリス人、フランス人、中国人、日本人という場合、大抵はそれぞれの祖国を背負って語られているが、彼らは世俗的にはそれぞれに自分の祖国というものを持ちながら尚それに付け加えてユダヤ人といわれているわけで、その部分がいまいち理解しがたいものがある。
イタリア系アメリカ人、インド系イギリス人、アルジェリア系フランス人というものともひと味違っている。
第2次世界大戦後の1948年にユダヤ人の国家、イスラエルが誕生したので、イスラエル人かというとそうでもない。
問題は、この時のイスラエル建国ということが、アラブ民族の土地に国を作ってしまったので、アラブ側とすれば自分の土地を異教徒に取られたと思い込んだことにある。
元々アラブ系の諸民族はべドウインとして荒れ地を放浪するような形で移動していたところに、忽然と近代国家が出来上がったので、自分達の行き場を失ったと感じたに違いない。
この本の中でもユダヤ人の定義が成されているが、突き詰めると、結局のところ解らないということになる。
ローマ皇帝に祖国を追われ、世界を放浪する民となり、それが20世紀になって自分達の祖国が出来た以上、全員そこに帰還すれば良さそうなものだが、そうはならなかった。
無理もない話で、アメリカやイギリスで何不自由ない生活をしていたものが、自分の祖国が出来たからといって、禿げ山ばかりの砂漠に戻るなどということは、普通の人間ならば御免被りたいと思うのが当然だ。
修験者でもない限り、わざわざ苦行の道を選択するはずもない。
大昔にローマ皇帝に祖国を追われ放浪の民となって以来というもの、あちらの国こちらの国に散って、その国の軒先を借りて細々と生きてきたといっても、軒先を貸した方の人々にしてみれば、何時寝首をかかれるか解らないという不安はついて回ると思う。
一旦は追われても又元の場所に戻って、そこで祖国を再建したというのであれば、それなりの対応というものもあり得るが、そうではなく、世界中に散らばって、散らばった先で社会的にも高い地位を占める人が多くなれば、軒先ばかりではなく母屋まで取られるのではないか、という心配はついて回ると思う。
主権国家という概念が確立すればするほど、様々な主権国家の首脳者としてみれば、自分の国の中で起居するユダヤ人に対してそういう心配がついて回ると思う。
彼らが自分達の宗教にこだわることなく、完全に周囲に同化してしまえば、そういう心配もなくなるかもしれないが、軒下を借りた形でいながら2千年も前の伝統をそのまま引き継いでいるとすれば、軒下を貸した方の心配は払拭されないものと想像する。
それが20世紀におけるユダヤ人の抑圧というものではなかろうか。
1948年にイスラエルがユダヤ人に国家として誕生したならば、そこに世界中のユダヤ人が集合すれば良さそうに思うが、そうならないという点では「人は信仰のみでは生きれない」ということなのであろう。
信仰の名において殺戮が正統性を持つなどということは私には考えられないことであるが、現実の生きた人間の行為として、それは昔から今日に至るまで連綿と継続しているということである。
この事件は、ミュンヘンの町のはずれの空港での出来事なわけで、町の観光とは直接的な関係はないかもしれないが、私にとっては寺、いやこの場合は教会というべきであろうが、そういうものよりも現実の人間の生き様の方により興味がある。
それと、これも人の命に関わる話であるが、ミュンヘンの郊外のダッハウというところにはドイツでもっとも初期の強制収容所のあった場所である。
1933年から戦争の終わった1945年までの間に20万6千人の命を奪ったところなのに、我々はそういうものに目を向けることなく、表面的な観光にうつつを抜かしている。
日本で発行されている一般的な観光案内には、この町は日本人にとってビール以外に何も興味を示さないところのような書き方がなされているが、これで果たしていいものだろうか。
ミュンヘンという町は歴史的に見れば人間の負の遺産というものを背負い込んでいるはずであるが、我々、日本の観光客はそういうものに一向に関心を示さない。
表層的なものばかりに目をやっているが、そんなことで良いものだろうか。
我々が過去に注意を払わないということは、ある意味では前向きに生きるということであろうが、それは同時に歴史から何も教訓を得ないということでもある。
まあそういう愚痴はさておいて、この町では1時間程度のフリータイムの間に花屋の店先をのぞき、写真を撮り、広場に集まっている様々な人々を見ていた。
中でも興味を引いたのは、この地の警察である。
ダークグリーンの作業服に、大型拳銃を下げ、2人でペアを組んでパトロールしていたが、彼らは体格がいいので実に立派に堂々とした姿に見える。
こういう彼らがミュンヘン事件で犯人達の狙撃に失敗したということは実に意外な気がする。
その失敗の原因が銃の方にあるということで、その後銃の改善がなされたとも聞き及んでいる。
この時のドイツの対応と、我々が同じ状況に置かれたときの対応の仕方には、大きな違いがあるがその違いは研究すべき余地がある。
此処を出ると2時間のドライブということで、トイレを借りてバスに乗り込むと、バスはホーエンシュウバンガウに向かってひたはしりに走った。
此処ではまず最初に昼食を取って、それからノイシュンバンシュタイン城の見学である。
この城はまさしく白鳥のような美しさでそそり立っていた。
山の中腹にそそり立つという感じでそびえていたが、場内の見学は予約制で、我々の場合は、
14時40分の入場ということであった。
その間に周囲の景色の撮影に追われたが、写真の被写体としては実に恵まれたところであった。
麓からは専用のバスで城の下まで運ばれて、そこで尚時間待ちをし、時間になったら一塊りとなって場内の見学となった。
場内はいっさい撮影禁止なので、内部に関しては公式ガイドブックを購入するほかない。
しかし、西洋の城というのは我が国の城とはずいぶん趣が違う。
城の機能としては洋の東西を問わないようで、戦闘用の城と、平和時の統治の象徴としての城という区分けはあるようだ。
この城も戦闘用の砦という要素よりも、平和時の居城という感じの方が強い。
このノイシュンバンシュタイン城は、ルートビッヒ2世(1845年〜1886年)が作ったとされ、彼はこの山の麓にあるホーエンシュウバンガウ城で生育し、純粋な帝王学を植え付けられたが、18歳で父王の死によりバイエルン王国の王位を継承した。
ところが、彼は政治のナマ臭さに耐えきれず、芸術を愛好するようになってしまった。
とくにワーグナーに入れあげて、劇場やそこで上演する演目に多大の出費を行った。
そして城の建設に入れあげて、このノイシュンバンシュタイン城をはじめ、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城と浪費を重ねたので、政府から身柄を拘束されて湖で死体となって発見されるという運命をたどっている。
この城を見てまず驚いたのは、富の集積である。
日本の城主でも、それなりに裕福ではあろうが、富そのものが我々のものとは完全に異質で、王様が臣民から搾取したということが明らかに見える。
素材としての石の集積からして富の象徴であろう。
名古屋城も四国の方から石垣の石を持ってきて、そのために中川運河まで掘削して、その石の上で遊女に踊らせて工事人夫を鼓舞したと言われているが、此処は山の上なわけで、運河を利用することは出来ないはずである。
この城の姿を見ても、写真で見ても、この城は上下に伸びている。
平面の移動というよりも上下に動線があるわけで、それが螺旋階段でつながっていたが、この城に住む人はさぞかし大変だったろうと推察する。
我々が見学のために階段を上り下りするだけでも大変なのに、此処で生活しなければならなかった人は毎日のことだから大変だったろうと推察する。
王様はそう動かなくてもいいだろうが、召使い達は毎日階段を上ったり降りたりと大変だったに違いない。
見学の通路には使用人の部屋、王様の居室、寝室、調理場というのはうなずける。
「玉座の間」と称する王様の部屋の豪華さというのは、我々の感覚とは全く異質のものだ。
床に敷き詰められた大理石による模様、回廊の柱の文様、天井の絵、こういうものの豪華さはまさしく絢爛豪華そのものであるが、こういう豪華さは我々日本人の感性とは別のもののようだ。
この違いは美意識の違いではなかろうか。
極彩色をごてごてと重ね合わせて如何にもこれ見よがしに表現したものをよしとする感覚は、我々にはない。
他の王様の寝室や書斎もこれと似たりよったりで、こういうものを愛でる感性は我々にはない。我々は清楚を好む傾向があって、こういうごてごてとしたものは下品な趣味という感覚を持っているはずだ。
この石でできた立派な城には不思議なことに何処にもトイレがない。
見学コースには入っていない部分にはきっとあるのであろうが、今回の旅行を通じて何処に行ってもトイレの問題は不消化のままだ。
西洋人はウンコやオシッコをしないのか、と思うほど数が少ない。
聞くところのよるとフランスのベルサイユ宮殿でも昔はトイレがなかったという話だ。
貴族の婦人は、あの鯨のヒゲで出来たボンネットの中にしゃがんで、そのまま用を足したと聞いたことがある。
庶民は溲瓶で用を済ませ、朝、窓の外に放り投げるということも聞いたことがある。
真偽の程は定かでないが、そう思いたくなるほどトイレの数が少ない。
このノイシュンバンシュタイン城を見ていると、如何に西洋の王様が金持ちであったかと思わざるを得ないが、それは同時に庶民に対する抑圧の裏返しでもある。
この城のすぐ近くには巨大な岩壁がそそり立っていて滝が白い糸を引いていた。
その滝の前には鋼鉄製のアーチ橋が架かっていて、それは「マリーエン橋」と名付けられ、ルートビッヒ2世の母の名前から命名されているということだ。
ここからの城を望む風景はまさしく一品である。格好の撮影ポイントであった。
帰りは広い道路を他の人に混じって歩いて降りてきたが、途中、脇道があって、さも近道のように見えたので、一瞬ショートカットしようかと思ったが、時間もあることだから王道を行けばいいと思って、入り込まずに来たがこれは正解であって、他のメンバーはこの道に入り込んで相当時間と労力をロスしたようだ。
眼下にはこの城を作ったルートビッヒ2世が幼少時を過ごしたというホーウエンシュウバンガウ城が見えていたが、これは茶色の城で、近くにも寄れなかった。
公式パンフレットには、この二つの城が対になって紹介されていた。
此処を出発したらバスはいよいよアルプス越えにはいることになる。
山の中のつづら折れの道をずんずん高度を上げて走った。
この道路のフェーンパス峠を越えるといよいよオーストリアである。
この辺りの光景はまさしく「アルプスの少女・ハイジ」や「サウンド・オブ・ミュージック」の光景を彷彿させるものである。
今にもジェリー・アンドリュースが、ギターと大きな鞄を振り上げて走って現われそうな光景である。
いよいよチロルと呼ばれる地域にはいってきたわけだ。
ところが、このような山の中の民家にソーラパネルが設置してある家があるのには驚いた。
この地方は特に保守的で、新しいものには飛びつかないと思っていたのに、その既成概念が見事に覆された。
文明の利器を積極的に使うということは、自分が楽をしたいわけで、ソーラパネルというのは直接的に労力の節約に貢献するものではないが、大きな目で見ればエネルギーの節約にはなるわけで、その進取性には驚かざるを得ない。
そして、くねくねとした道を通り抜けるとインスブルグの町にはいった。
此処のホテルは、それこそスポーツと一体となっており、スポーツをする人のためのホテルという感じであった。
ホテルにテニスコートが隣接しており、まるで合宿所という感じである。