このハイデルベルグのホテルは古色蒼然たるホテルで、家内は「こんな汚い古いホテルは嫌だ」といっていたが、たった一泊のことで、我慢するほかない。
歴史を売り物にしている以上、こういう古いホテルも致し方ない。
で、翌日は早朝からの行動で、バフェスタイルの朝食をすませてすぐに市内見物となった。
古い『地球の歩き方・ヨーロッパ偏』の案内によると、
ハイデルベルグといえば反射的にアルト(懐かしの)という言葉が出てくるほどアルト・ハイデルベルグで有名になった町。
ドイツの作家ウイルヘルム・マイヤー・ヘルダーの戯曲で公子カルル・ハインリッヒがハイデルベルグの大学に留学、はじめて青春の喜びを知り、カフェで働く少女ケーテーとの愛に悩むという青春物語。
その青春は今もこの町に生き続けている。
ハイデルベルグよ、汝、青春の泉よ、
ネッカー河畔の妖女よ、暖かき日を浴むために、かほどの処を 神はいずこに与えしか
つるぎはうなり 杯は鳴り すべてのものが愉快に息づく
とウイッケンベルグが歌い、ネッカー川に架かる橋の上では「ここから望む眺めには世界のいずれの橋も及ぶまい」とゲーテがたたえる。
緑深い森を背に、ひときわ赤く浮かび上がる古城の風景はまさに絶景だ。
ゲーテは恋人マリエンと共に、この古城やネッカー川河畔を散策し、『第2の青春』を謳歌し。高き古城の熱するところ、そこに吾は恋人を見いだしぬ、ともいっている。
またゲーテはファウスト第1巻の復活祭散歩の場面をネッカー川上流の田園としており、ゲーテとハイデルベルグのつながりは深い。
由緒あるハイデルベルグ大学はフライブルグ大学と並び、全ドイツ哲学を代表する大学ともなっている。
この古い大学とを舞台にアルト・ハイデルベルグの戯曲が生まれ、多くのカルル・ハインリッヒやケーテーを生み出した。
ハイデルベルグの思い出は教養と青春と詩の中に存在するといってもけっして過言ではないのだ。
と、なっているが、私の感想はそう安易にこれに賛同するものではなかった。
最初に案内されたのがもと厩(うまや)であったという学生食堂というレンガ作りの大きな建物であったが、観光案内に示されている通り一遍の記事よりも私には大学というものの在り方の方に関心が向いた。
つまりハイデルベルグ大学というものはこの世に存在しないわけで、正式には1386年に創設されたルプレヒト・カール大学というものらしい。
そんな名前はどうでもいいが、大学というものが町と一体になっているところに大いに関心が向いた。
我々の常識的なイメージからすれば、大学であるからには広大なキャンバスがあって、学舎が整然と並び、大きな樹林の下で学生が三々五々憩う光景を思い浮かべるが、そういうイメージとは全く違った存在であるところに大いなる興味を持った。
その後、まちなかを案内されて学生牢というものも見たが、これとてもそういうものの延長と思わざるを得ない。
学者という人種は、普通の人よりも知識を豊富に持っているが故に、ある意味で傲慢なところがあるように思える。
たとえば今回見た学生牢。これは大学が治外法権で、市井の警察では取り締まれないから軽微な罪を犯した学生を収容するための牢ということだが、この大学が治外法権という点に知識人の奢りがある。
この部分に、一般の市井の人々を見下す高踏的な驕り高ぶった思考が内在していると思う。
こういう流れに至るのも、ある意味では必然的な流れなわけで、近世以前の学生というのは誰でも彼でもなれたわけではなく、まず働かなくても食っていけるだけの資産家の息子でなければ大学には入れなかった。
いわゆる貴族や豊かな商人の子弟でなければ学問を目指すということ自体が出来なかったということだ。
既にそのことから、一般の市民、一般の大衆とは違っていたわけで、だからこそ朝から晩までろくでもないことを考えることに時間と労力を費やして遊んでおれたのである。
その延長線上に大学に集まって来る人間、いわゆる学生というのは普通の市民ではないわけで、そこから治外法権ということになったのではないかと私は勝手に推測している。
中世という時代状況の中での大学というのは、今の大学とは根本的にその実態が違っていたものと想像する。
大学というものは基本的に知の遊技場であったわけで、金のない貧乏人が何らかの資格免許を求めに来る場ではなかったはずである。
あくまでも金持ちのボンボンが知的遊戯にふける場であって、何らかの職業に就くための予備校的なものではなかったはずである。
ある意味で帝王学の場であったかもしれない。
大学を出るということは、貴族の世界の中で箔をつけるだけのもので、その意味で実用的な技能を習得する場でもなければさせる場でもなかった筈である。
実用的な技能などは、いわゆる賤民の職域なわけで、貴族としての農奴を管理すべきノウハウ、つまり帝王学をはじめとする哲学とか神学が学科として存在していたのであろう。
この部分がアメリカの大学とヨーロッパの大学の大きな違いではなかろうか。
大学の違いというよりも学問に対する発想が根本から違っていたのではないかと思う。
ヨーロッパの学問というのは、その歴史的風土が基盤にあって、あくまでも貴族や豪商の知的遊戯の場であり、階級社会の箔をつける場であり、帝王学を学ぶ場であったが、アメリカという新世界の状況は、そういう社会的背景とは全く異なっており、すぐにでも人々の生活の向上に役立たせるような実用に供する実践的な学問が要求されたのではなかろうか。
よってアメリカの大学は学問的な真理を如何に人間の生活につなげるかという方向に向かったのではなかろうか。
ヨーロッパでは学問の歴史が長い分、学問の内部を細部にわたってより深く掘り下げる方向に向いていたが、アメリカでは学問を如何に利用すれば人間の生活向上に役立たせることが出来るかという方向に向いたのではなかろうか。
それはさておき学生牢に関していえば、人間の本質としては金持ちも貧乏人も同じなわけで、若い頃に羽目を外す傾向に貴賤の差はないわけで、その意味で町で乱痴気騒ぎを起こすような学生を一時的に収容する施設として学生牢というものの存在意義があったものと想像する。
そして特権階級の学生にしてみれば、その牢に入れられるということは、ある種の勇気、蛮勇を示すことでもあり、名誉の象徴でもあったわけで、我々の昔の大学生の弊衣破帽にもつながるバンカラの気風に一脈通じるものであったに違いない。
明治維新以降の日本でも、大学内には警察力が入れないことになっているが、我々はこういう制度までも西洋からの丸写しをしたわけで、自分たちで考えた末にその制度を導入したわけではない。
西洋の大学というのはあくまでも特権階級の知の殿堂であったので、我々の常識でいう社会のルールというのは彼らには当てはまらない。
だからこそ一般社会の規範でその特権階級を処せれなかったため治外法権であったと思う。
けれども、そういうことを意識せずに我々は教育制度、中でも高等教育のシステムを丸飲みにしてきたわけである。
我々は明治維新以降、大学教育、高等教育というものは国民全般に解放されてしかるべきだと頭から思いこんでいたが、ヨーロッパの大学というのは決してそうではなく、エリート養成という強い信念のもと、あくまでも特権階級のものであったに違いない。
特権階級の施設だから市井の警察力が関与できなかったのではなかろうか?
ところが我々日本人は、農耕民族として仲間内では極めて平等意識が強く、差別意識が希薄で、階層が平準化されていたので、大学も誰にでも開放されてしかるべきだと考え、そこを出れば官僚への道が開けるので猫も杓子も大学に群がるという傾向になったものと思う。
平等意識が強く、差別意識が希薄で、階層が平準化されていたということは、知的に、ないしは意識としてのモラルの低水準化に大きく寄与したわけで、だからこそ大学進学ということが学問の研究という本来の目的をはずれ、立身出世のツールとして認識するに至ったものと考える。
よって、大学出のインテリやくざの出現という傾向にいたったわけである。
しかし、考えてみれば大学に行くような人、つまり学生が、社会のルールに反するようなことをすること自体が、大学に行く値打ちがない行為といわなければならないが、我々はそういう認識には立っていない。
我々の認識では、大学という施設は、学問というものが為政者の意向で左右されてはならない、という大義の下で、大学の自治というものが認められ、それに基づいて警察力が介入できないと解釈されている。
つまり、大学生で悪いことをする者、法に反するような行為をする者はいない、という前提で大学の自治が認められているはずである。
それは大学の存在意義の立派な理念であるが、現実はそんな立派な理念で学生が集まっているわけではなく、教授も学生も特定政党の、つまり端的にいえば日本共産党の広報部に身を換え、実戦活動しているにもかかわらず、そういう一部の連中が「学問の独立」という理念を振り回して犯罪者を匿う場にしているのである。
学問を目指す人に悪い人はいない、というこの前提は既に成り立っていないわけで、戦前においては非合法組織のメンバーとか、戦後の全共闘世代というのは、大学の外で反社会的な行為をしておいて、大学内に逃げ込むということが頻繁にあった。
それを大学の自治を建前にして匿う行為というのは、完全に反社会的な行為だと思う。
昨今のテレビのニュースを見ていると、今時の大学というのはもう完全に就職の予備校と化している。
大学と学問が遊離してしまっている。
そして今の日本にはあまりにも大学が多過ぎると思う。
つまり教育産業として過当競争の時代に入っているというのが現状だろうと思うが、教育産業が過当競争をして教育の質が良くなる方向に向かえば結構なことだが、現実には学生の質の低下を来しているわけで、これも成り行き上当然である。
100人の若者のうち10人しか進学の枠がなければ、その10人は真に選抜された者とみなされるが、100人のうち90人も入れるとなれば、その90人の若者は玉石混淆なわけで、学生としての質の低下は免れない。
100人の若者がいれば、真に学問を目指す人は一人か二人居るかいないのが正常であって、学問を究めるということは、健康な若者にとって楽しくてやりがいのある生き方ではない、と思われてこそ真の学問だと思う。
学問を究めるなどということは、地味で、根気が要り、とても若いはつらつとした者が飛びつきたい魅力のあるものではない筈である。
大学というのはそういう人たちのものであって、そういう人が地道に静かに挑戦する場であって、本来は就職の予備校的なものではないはずである。
一般論として、社会人にとって知識そのものは無いよりも有った方が良いに決まっているが、大学というのは若者の幼稚園ではないはずで、あくまでも学問追求の場でなければならないと思う。
就職のための予備知識を与える施設が入用だとすれば、それは大学とは別のものを用意する必要があるのではなかろうか。
さもなければ大学という呼称を使わないようにすべきだと思う。
大学には教養知性を積んだ、それこそものごとの根源を考える暇人が大勢いるであろうに、どうしてこのような現状を呈するようになったのであろう。
今の日本の大学の現状というのは、タコが自分の足を食っているようなもので、自ら崩壊の道をたどっているにもかかわらず、中にいる教養知性の豊かな大学教授たちは、一向にそのことに警鐘を鳴らすものがいないようだ。
これから少子化の傾向が進むと大学も社会の構造改革の波に晒され優勝劣敗の原理で淘汰される時代がくるであろうが、人々の間で大学というものの認識もきっと変わってくると思う。
我々の生きた20世紀から21世紀というのは今までの人間の歴史とは完全に異質の時代になっているわけで、ヨーロッパの大学が14世紀以降のものだとしたら、完全に学問の内容が異なっているはずだ。
高等教育といったところで必ずしも大学に行かなければ身に付かないということはないと思う。
今、少子化ということが大きな社会問題となっているが、人類の歴史そのものが21世紀には新しい局面に突き当たっているわけで、今までの常識とか従来の思考では対応できないところにきていると思う。
私の身の回りを見ても、我が家の孫は4歳にして殆ど自由にインターネット、コンピューターを使いこなしている。
こんなことは今までの人類の歴史では想像もつかないことで、そういう子供が大人になった時代というのは我々、旧世代の人間には想像だに出来ない。
こういう推移の中で5百年も6百年も昔の概念の学問などはあり得ないと思う。
これからの人類にとって大学=学問などという概念は自然消滅するような気がする。
「象牙の塔」にこもって日夜研究している学者さん達にすれば、当然こういう未来予測をしていると思うが、そういう人たちが的確な未来予測が出来ないというのであれば、それこそ給料泥棒といわれても仕方がない。
もっとも、こういう「象牙の塔」の住人の未来予測が当たった試しがないことは歴史が証明しているが、ならば大学という高等教育の場の存在意義はいったい何であったのかと言わざるを得ない。
20世紀の初め、昭和初期の頃、この地の大学に大内兵衛、羽仁伍郎、三木清という日本の優秀な若者が遊学した。
そして彼らは帰朝して何を成したかといえば、21世紀の日本の礎を作ったわけで、こう書くと如何にも素晴らしい日本の建設に貢献したかのように見えるが、今の日本が地球規模で見てそれほど誇りうる国であろうか。
自分達の国家首脳が、「美しい日本を作りましょう」と言わざるを得ないということは、その言葉の裏には、「汚くて醜い、堕落した祖国を何とかしよう」、ということなわけで、昭和初期の日本の知性と教養人の訓導の結果がこういう形で露呈したということである。
彼らは、戦前、治安維持法で当局から抑圧され、戦後はその反動として、反体制、反国家勢力として国に楯突き、彼らの生き様は、社会の方が大きく変革したにもかかわらず、彼らの本質、つまり自分の祖国に対する不信感、ないしは自分の祖国を貶めようという思考は、時代を超えて少しも変わっていなかったと言うことだ。
生まれてから死ぬまで、自分の祖国を蔑み、恨み、遺棄し、貶めることにうつつを抜かしていたということだ。
その彼らの精神的基盤には共産主義、ないしは社会主義があったわけで、まさしく理想に突き進むドンキホーテと同じで、現実の人々の営みとは大きく乖離していたと言うことだ。
「象牙の塔」の中に「夢を食う獏」が住み着いたようなものだ。
「夢を食う獏」が「象牙の塔」の中でおとなしくしていれば、何ら問題はないが、彼らは社会的に大きな影響力を行使したので、今の汚い日本が出来上がってしまったわけである。
彼らの最大の問題点は、秩序の破壊ということを憚らなかったので、皆が均一に平等ということを唱えている以上、そこには秩序とか、伝統とか、権威というものが消滅してしまったため、今の日本人には何を手本にすればいいのか見本がなくなってしまった。
戦後世代は、こういう著名人の影響を受けた人たちが親となり、そういう親に育てられた子供達の作った社会が今日の日本の姿なわけで、結果として、獏に食い散らかされた夢の宴の後が今日の日本で、その弊害は見事に花開いているではないか。
人としてこの世に生まれたからには誰でもが高等教育を受ける権利がある、という論旨の元で、誰でも彼でも、猫も杓子も大学に進学する、させることが「善」だ、という理想を追い求めた結果、大学出の犯罪者がうようよ出てきたのである。
もう既に大学というノブレス・オブリージは消滅してしまって、完全に就職のための予備校に成り下がっているではないか。
それでも人々が大学に群がるというのは、ただただ「何々大学出」という学歴が欲しいだけでの話で、真に学問を究めるというならば大学などに行かなくてもそれは修めることが可能だと思う。
膨大な金のかかる研究ともなれば大学という組織で立ち向かわなければならない場合もあるにはあるが、そういうものと就職予備校とは別の問題として扱わなければならないはずである。
今の日本の大学というのは、ただただこの学歴を発行しているだけで、昔カトリック教会が免罪符を発行して金を集めたのと同じである。
「貴方はこの札を買えば自分の犯した罪から解放される」という呪文を売りつけた行為と何処がどう違うのであろう。
教育が産業として利潤を追求する機関として成り立っていることの方が常軌を逸している。
その矛盾を突かない教養人を我々凡人はどう考えたらいいのであろう。
この学生牢を見ながらそぞろ歩きをして、それこそ川に突き当たったら、そこには例のカール・テオドール橋なるものが目の前に表れた。
このネッカー川というのは、川幅は木曽川ぐらいのものであるが満々と水をたたえてゆっくりと流れており、その川に大きくて立派な石の橋がかけられて、その向こう側はなだらかな丘陵地帯となっていた。
私の身の回りの光景としては犬山から対岸の各務ヶ原を眺めるような光景である。
そのなだらかな丘陵には、その昔ゲーテやヘーゲルが散策したといわれる「哲学者の道」と称する散策路があるらしく、それを京都がまねて名付けたようだ。
「哲学」という言葉を手元の辞書で引いてみると、「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を理性によって認めようとする学問。また経験から作り上げた人生観。Philosopia(知への愛)の訳語。」となっていた。
私の従来からの認識とそう大して変わるものではなかったが、要するに、ものごとの根源を考える学問ということであろう。
ならば物事の根源とはいったい何であろう。
たとえば、稲の根源を突き詰めていけば、東南アジアのモンスーン地方に生えていた稲科の植物を、人間が食用として上手に改良したことによって現在の稲があるわけで、ならばそれは稲の生態の研究であって、我々は普通これを哲学とはいわない。
ニュートンがリンゴの落ちるのを見て万有引力の存在を証明して見せたが、これもものごとの根源ではあるが、これもサイエンスとは言っても哲学とは普通言わない。
私の認識の中にある哲学とは、いわゆる人間の生活にとってはどうでもいいことを、さも有用かのように詐術することでしかない。
哲学なるものが世界の大学の中で立派な学科となっており、それを学問と称しているが、学問である限り、人間にとって何らかの有用性がなければならないと思う。
将棋の世界では「下手な考え休むに似たり」という戯れ言葉があるが、哲学というものも学問の中のこの類のものではなかろうか。
人がこの世に生を受けたならば、何らかの形でその世の中に貢献、ないしは恩返しをしなければ、人としてこの世に生まれ出た価値がないのではなかろうか。
世の中に貢献とか恩返しというと、何か立派なことをしなければならないと思うようでは、まだまだ人間が練れていない証拠だと思う。
この世に生まれ出た人間は、ことさら立派なことをしなくても、普通の社会人として、普通に生きて、普通に生活していれば、それが一番この世の人に対して貢献し、恩返ししている姿だと思う。
農家に生まれついた人が農民として普通に生育し、普通に家業を継ぎ、普通に天寿を全うすれば、それこそがこの世に生まれ出てきた価値というものだと思う。
この世の中にはあらゆる職業があって、人はそれぞれにその職業に就くことによって生業を得ているわけで、中でも物を作り、生産に従事している人たちは本当に尊い存在だと思う。
しかし、世の中の仕事という場合、必ずしも物の生産に携わらない人もいるわけで、教師とか行政官というのは物の生産に直接携わってはいないが、それはそれなりの人々の生活に奉仕し、貢献していると思う。
要するに自分以外の人にサービスを提供しているわけで、そのサービスの中に物作りや行政サービスが含まれているということである。
市井の人々にとって、自分の職業をまじめに全うさえすれば、それが回り回って社会全体にサービスを提供することになる。
だとしたら哲学者というのはどういう形で人々に奉仕し貢献しているのであろう。
目に見える形では何もしていないはずである。
彼らは麦一粒、ネギ一本、釘一本作るわけではない、しかし彼らはいつもいつも難しいことを頭の中で考えているであろうが、それが人々の生活とどう結びついているのであろう。
中世のヨーロッパでは音楽とか絵画というような芸術にはパトロンというものがついて、それはそれなりに貴族の間に癒しの空間を提供したことは否めない。
ならば哲学者というのは、そのコ難しい論説で人々に何を提供し得たのであろう。
結論からいって何も提供していないと思う。
彼らの語ることが難しければ難しいほど、仲間内では大学者と見なされたに違いなかろうが、ならばそれが一般の人々に対して如何なる思考的作用をもたらしたのであろう。
実際問題として成人に達した人間が、日がな一日ものを考えるということは、暇な人間でなければできないわけで、そういう暇のある人間というのは、自らひたいに汗して働く必要のない人間、いわゆる労働から解放されている人間、端的にいえば裕福な階層、貴族クラスということになり、そういう意味でも知のマスタベーションの域を出るものではないと思う。
私も若いときに、無知なるが故に粋がって『中央公論』とか、『世界』とか、『朝日ジャーナル』などという本を持ち歩いたものであるが、書いてあることといえばさっぱり要領を得なかった記憶がある。
これらの雑誌は純粋に哲学というものではないが、日本の知識人が執筆していたことはたしかで、そういう日本を代表するような知識人が、下々の者が読んでも理解できないような書物を出版してよいものだろうか。
知識人ならばこそ、下々の人間が読んですぐ理解できる本を書くべきではなかろうか。
大学教授を筆頭とする知識人が、自分たちの仲間内でしか理解できないような本を書いていては、文化の普及に何も貢献しきれていないということで、まさしく知の遊技、知のマスタベーション、知の自慰行為でしかないではないか。
そういう人だからこそ、下々の者が読んで解るように海外の情報や文献を紹介すべきで、そういう人達がコ難しいことばかり言い合って、「象牙の塔」に立てこもってしまっては、給料泥棒以外の何ものでもないはずだ。
哲学というのもこれと同じことで、高遠な思考を一般の人にもわかりやすく解説してこそ、学問というべきで、自分たちの仲間内で学者ゴッコしているうちは知の遊技に過ぎない。
何でもないことを、ああでもないこうでもないと口角泡を飛ばして議論してみたところで、人々に益するものは何もないはずで、ただただ時間の浪費と、労働のサボタージュ以外の何物でもない。哲学といえばドイツで、だからドイツ人というのは理屈っぽいわけで、物事を理屈っぽく説くと、さも難解に見え、難解に見えればさも立派な学者に見えるわけである。
今回の旅行にあたり、ヨーロッパについて知識が乏しいが故に、多少とも予備知識を得ようと参考書を当たってみると、ヨーロッパには厳然と階級制度が存在していたことがよく理解できた。
この橋の向こう側にある丘陵は新緑の緑に包まれていたが、あの位置に桜が植わっていたらきっと吉野の千本桜に匹敵する光景が出来たに違いない。
この橋からの眺めは私の感覚からすれば、そうそうゲーテが感動するのが不思議なほどで、我々からすれば日本の何処にでもある光景に過ぎない。
ただし、このカール・テオドール橋というのは我々の感覚からすれば異質なものだ。
この橋について、インターネットからの知見によると、
200年前までは屋根のある木の跳ね橋であったが、オルレアン継承戦争で消失したり流氷によって押し流されたりしたため、18世紀に選帝候カール・テオドールが現在の石の橋に作り変えたものである。
橋のたもとにあるバロック風の城門は13世紀にこの場所にあった城壁の一部だ。
左右の塔は暗くて低い牢獄で、二つの塔を繋ぐ部分は18世紀に建て替えられたときに出来た新たな牢獄である。
窓から美しい街の様子が見られるこの牢獄には罪の軽い罪人が収監された。
この説明にある通り、橋の入り口には立派な石造りの塔があり、二つの塔を繋ぐ鴨居のようなものがあり、それには大きな先の尖った策が備え付けられていた。
この入り口に正対した左側の空地には鏡を持った猿のモニュメントがあり、その左側には小さなネズミと書類のようなモニュメントがあったが、そのモニュメントの意味するところは不明であった。
この場所から後ろを振り向くとハイデルベルグの古城が見えたはずであるが、この時は朝の
8;30頃で、ちょうど太陽が古城の後ろから出て、写真にするには完全なる逆光になってしまい、撮影は断念した。
このハイデルベルグは大学の町というだけあって、住民の20%が学生ということであったが、この日はイースターで町中は閑散としていた。
確かに何処を見回してもヨーロッパの田舎町そのものである。
1時間ぐらいこの町を散策した後、バスで移動となったが、その時はこのネッカー川を左に見たり右に見たりとさかのぼったことになる。沿道にはいくつも古城が現れた。
この道が古城街道と名付けられている由縁だ。
しかし、ガイドの説明を注意深く聞いていてもその名前は覚えきれなかった。
移動するバスの中からは撮影もままならなかった。
そしてバスは新緑の山々を通り抜け、アウトバーンをすっ飛ばし、ローデンブルグという町に着いた。
この町は完全なる城塞都市である。その城壁も人口の増加と共に何度も拡幅されたものらしい。城壁の機能としては日本の城とたいした相違はない。
だがこの小さな城壁都市の中に入り、城壁に登って外の景色を眺めていると、我々の民族とは異質なものを感じずにはおれない。
我々日本人が過去に築いた城は、攻める方も防御する方も所詮は日本人同士である。
ところが地続きの大陸ではそうではないわけで、異民族どうしの攻防となるので、その恐怖は我々の想像を超えたものではないかと思う。
それは同時に内に向かっては結束を固める結果になったのではないかと想像する。
ここでは着いてすぐに昼食となったが、こぎれいなレストランで好印象を得た。
昼食後1時間程度の散策の余裕があったのでその辺りをぶらぶらしていたが、町には観光馬車が行き交っており、のどかな光景である。
町の真ん中には広場があり、その広場には市庁舎と教会(聖ヤコブ教会)がある。
ヨーロッパの人々が町の真ん中のこの二つを揃えるということは、彼らの文化そのものを具現化していると思う。
ヨーロッパの町の広場というのは、ただ意味のない空間ではないわけで、それは統治の象徴だと思う。
この広場では市民が意見を述べあい、君主が統治の指針を述べ、犯罪者を見せしめのために断罪する場でもあったと想像する。
この市庁舎には仕掛け時計があって、その仕掛けというのがこの町の歴史を表すものだということだ。
ある戦争で敗北して、征服者から、ビールを飲み干せば時の為政者を助命するといわれ、それを受けて市長が命がけでそのビールを飲み干し、助命に成功し、町を荒廃から救ったことを顕彰するものだということであった。
この例でもわかるように、大陸の民族というのは常に異民族の脅威を受けているわけで、その意味でも城壁というものを眺めなければならないと思う。
ただここで我々が見落としてならないことは、市民といった場合、その地域に住む人間の形をしたものがすべて市民ではないということだ。
我々は自分のおかれた境遇から、我々の周囲ではそういう感覚に乏しいので、安易に市民平等などと考えているが、市民という言葉は選ばれた人々だけのもので、ヒトでさえあれば誰でも彼でも同じような市民ではなかったという点に注意して歴史を見なければならないと思う。
そして、この小さな町に犯罪博物館があるという点にも注意する必要がある。
先のハイデルベルグでも橋のたもとに昔の牢獄や学生牢がきちんとした形で残っているということを改めて考えなければならないと思う。
西洋人の思考の中には「罪を犯す」という場合、二つのことが内在しているのではなかろうか。
学生牢の例でいえば、これらは単純なルール違反にペナルテイーを与えるという感覚だが、これが精神を冒涜するような行為と見なされると、刑罰が俄然残酷になるようだ。
ここの犯罪博物館というのは、その後者の例で、拷問の道具が陳列されているようだ。
そういうものを展示するということは、過去の自分達の忌まわしい歴史を現在に伝えているわけで、我々はこういう忌まわしいものは早く忘れ去ることに関心を寄せるが、彼らはその逆をいっている。
この犯罪博物館なるものは、見る時間もなかったが、見る気もしなかった。
そんな忌まわしいものは見たくもない、というのが素直な私の気持ちであったが、これこそ素直な日本人の感性だと思う。
ところがこの点こそ我々と西洋人の発想の相違というものであろう。
普通の観光案内にはこのローデンベルグの見所は広場、マルクト広場とそれに付随した市庁舎、それに教会、聖ヤコブ教会となっているが、確かに見物としてはそういうものがあろうが、私の関心は城壁の方にあった。
此処で昼食をとり、1時間ぐらい町中を散策したら、バスは一路アウトバーンを疾駆してミュンヘンに入った。
アウトバーンの光景は今までの風景の延長で、なだらかな丘陵とドイツの田舎の光景そのものであった。
で、バスがミュンヘンのホテルに着くと、例によってトランクがポーターによって部屋まで配られ、その後再び同じバスで町中に繰り出して夕食となった。
ミュンヘンとくれば、「ミュンヘン・ミルウオーキー・札幌」とイメージが飛躍する。
夕食として案内されたところが石作りのレストラン、「ホーフブロイハウス」というビヤーホールであった。
案内されるまま奥の部屋にはいると、ガイドが注文を取りに来た。
というのも同じビールでも色々な種類があるということで、私は普通のビールを注文したが家内は黒ビールを頼んで、二人で交換しあった。
粗末だが分厚い板のテーブルにそれにあわせるように木のイスである。
我々の向こう側では地元のドイツ人達のグループが既に盛り上がっていた。
我々のグループの若者が一人、彼らのグループの一人と肩を抱き合って、1リットル入りの大ジョッキを片手に、全員で大合唱となったが、まさにテレビの映像で見るとおりの光景である。