4月5日は4時に起床、あわただしく外出の準備にかかり、朝食も省略して前日予約したタクシーにて岩倉駅に急行し、セントレア行きの特急列車に乗車。
電車を降りて広い通路の左側にあったジャルパックの受付カウンターにて手続きをする。
いよいよ9日間のヨーロッパ旅行の始まりである。
景気の動向か、名古屋のローカル性か、名古屋からヨーロッパへの直行便がないのがまことに不自由である。
昨年の愛知万博が終わったら折角開港した中部国際空港から撤退した航空会社がいくつかあるようで、これも一種の名古屋トバシなのであろうか。
世界的に見て名古屋の知名度がそれだけ低いということなのであろう。
世界の人々からすれば、日本といえばやはり東京に視線が向くのが当然であろう。
我々地元の人間でさえも、名古屋の後進性は歴然とわかるわけで、やはり大東京からすればあらゆる面で太刀打ちできていないと思われるのも致し方ないのかもしれない。
それよりも問題なのは、日本そのものが全て東京を中心に回っていることで、日本=東京という図式が我々日本人のみならず世界的な評価として定着しているのであろう。
今回の旅行中に東京都都知事選が行われて石原慎太郎知事が三選されたというニュースを聞いたが、彼のポリシーとしては首都移転には大反対なわけで、彼が知事になってからというもの、首都移転の問題はどこかに行ってしまった。
この問題に関しては、彼だけを責めるわけにもいかないわけで、地方にも首都など来てもらっては困るという言い分も少なからずあるようだ。その筆頭が名古屋であろうと思う。
名古屋は従来から新しいことには尻込みをする気性が抜けきれず、何かと保守的な気風で、新しいものを拒絶する面がある。
それがあるものだから名古屋トバシをされても一向に気にしない。
言い方を変えれば、引っ込み思案で、リスクを極度に恐れるということであろう。
航空会社が名古屋から撤退しても自分達にとっては一向に気にならないわけで、折角乗り入れてきた航空会社を積極的に利用するという思考に至らないのである。
そのことによって不便を被るのは極めて少数の人で、そんなことには無関心で、それ故に拒否反応につながってしまうわけで、名古屋周辺に住む他人のことには気が回らないのである。
それはさておき、早朝に家を出ても最初の飛行機、成田行きの飛行機は8:45発である。
ずいぶん時間が余るような気になるが、飛行機に搭乗するというときはどうしても余分な時間を考えなければならないのでこれも致し方ない。
その間に握り飯とお茶で腹ごしらえをしておいた。
で、成田行きの飛行機は定刻に出発したが、あいにくと窓側の席が取れず下界の様子はさっぱりわからなかったが、機内のナビゲーション表示を見ていたら、大島上空を約8500mの高度で
飛行し、鹿島灘に回り込んで成田に降下していった。
機がバンクを取ったときかすかに下界が視野に入りゴルフ場が見えたが、このゴルフ場というのは自然破壊の最たるものだと常々思う。
ゴルフなどというものは金をかける遊びなわけで、やれば面白いのは当然であろうが、それが如何に自然破壊しているかということを知っている人がどれだけいるのであろう。
もっとも自然破壊しているのはゴルフ場なわけで、ゴルフを楽しんでいる人に直接の責任はないかもしれないが、ゴルフを楽しむ人のための施設が自然破壊をしているということは何とも皮肉な現象だと思う。
ゴルフをする人は広い緑のグリーンで楽しくプレーして、如何にも健康で建設的なスポーツをしているつもりかもしれないが、これを上から俯瞰して眺めてみると、如何に自然破壊が激しいか一目瞭然である。
自然の山川をブルドーザーで押しつぶして、表面的には緑の芝生を植えたところで、自然破壊をしていることに変わりはない。
これだけ自然破壊すれば、プレー代が高くなるのも理の当然であろう。
それはさておき、成田空港とくれば我々世代にとってはあの成田闘争に思いが至るのも当然であるが、その痕跡はついにわからずじまいである。
今でも滑走路拡張のための闘争は続いていると思うのだが客席の窓を通してはわからない。
成田空港にはわずか1時間弱のフライトで着いて、フランクフルト行きの便に乗り換えるには少々時間があったが、セントレアを出た時点でもう出国手続きが済んでしまっているので、外に出られないのが難であった。
だとすれば空港内のロビーを行ったり来たりして時間をつぶすほかない。
ロビーを隅から隅まで歩き回ったが空港なんてものは何処でも似たりよったりで、記憶に残るほどのものは何もない。
中部空港から成田まではボーイング747−400であったが、フランクフルト行きは同じくボーイング777−300であった。
機体の大きさとしては先のものよりも多少小さいが、後から開発されただけあって、機能的により高度になっているはずである。
今回の旅行は日航系のJALPAKツァ―で総勢26名ということは事前にわかっていたが、この時点では誰が我々のグループなのかはわからなかった。
指定された座席についた時、添乗員とおぼしき年増のおばさんという感じの女性が挨拶がてらにパスポートの掲示と帰りのチケットの徴収に回ってきた。
全員集合して添乗員の挨拶と自己紹介をかねたオリエンテーションもないままにそういうことがあったので一瞬不安に感じたが、席の確認をしながら回っていたのでそれを信ずるほかなかった。
この女性が今回の旅行を最後まで面倒を見てくれたスーパー・ツアー・コンダクターだということはわかったが、最初は確かに不安な気持ちにさせられたものだ。
中部空港を飛び立つときもそうであったが、今回も滑走路に正対してエンジンがフルパワーに達したと思ったら、わずか1分足らずで離陸である。
そしてぐんぐん高度を上げていく。
それを座席の前にあるモニターで眺めていたら、成田空港の海抜は42mぐらいのようだ。
目的のフランクフルトまでは9376kmと表示されていた。
1800mまで上がるのに4分、その時の時速は約480km/h、だいたい9500mで水平飛行に移り、機首を新潟に向けて飛行した。
ヨーロッパ行きの航路はたぶん北周りではないかと思っていたがやはりそうであった。
飛び立って20分ぐらいで新潟上空を通過して日本海に抜け、ハバロフスクに向かいその後ロシアの大地を東に向かって飛行することとなった。
東西冷戦の華やかりし頃は、ロシアの上空を飛行できなかったので、そのころのヨーロッパ行きは全て南回りでなかったかと思う。
機内に備え付けの日航のPR誌に載っている世界地図を見ていたら、北回りのヨーロッパ航路というのはその大部分、ロシアの上空を通過する。
その飛行時間は大ざっぱにいって10時間にも及ぶわけで、これは如何にロシアの大地が大きいかということだと思う。
アメリカに行くときも10時間近い飛行時間であるが、これは太平洋という海の上の飛行であるが、ヨーロッパ便は全て陸の上の航路なわけで、これも深く考えて見ると不思議でならない。
冷戦が終わって旧ソビエット連邦が崩壊して今はロシア共和国になっているが、これだけの大地を抱えたロシアという国は計り知れない可能性を秘めているのではないかとつくづく思う。
その広大な領地を確保しているロシアが、北方4島に関しては冷戦体制のままの頑なな態度を崩さないということは一体どう解釈したらいいのであろう。
ロシアにとっては北方4島など、国土の面積としては微々たるものに過ぎないが、彼らの魂胆はその微々たる小さな島でも外交上の大きな切り札として利用価値を秘めているということなのであろう。
日本が、戦争直後のように家もなければ職もなく、まして食料も完全に不足するような弱い国家ならば、あんな小さな4つ島など外交上の切り札になり得ない。
ところが、それから60年も経過して、世界でも屈指の最優秀、最富裕な国家となった以上、ロシアから見れば吹けば飛ぶような小さな島でも外交上の利用価値は無限大に大きくなったわけである。
冷戦体制の元では、国防上の見地から自由主義圏に対するかってないほどの情報収集基地として機能していたし、冷戦が崩壊すればしたで、外交上の大きな切り札として利用価値が生じてきたのである。
アメリカに飛行するときは海、太平洋の上を10時間近く飛ぶのは何となく理解できるが、陸地の上をそれと同じ時間飛ぶということはどうにも理解の枠を越えてしまう。
そんなことを考えながら、居眠りをしたり、PR誌を見たり、音楽を聴いたりして12時間の拘束に耐えた。
ツアーの面々は、この飛行機の中で一塊りとなって席を占めていたので、飛行機を降りた時点でようやく自分のグループの人たちの姿がわかった。
飛行機は成田を13時に出たが、西に西に太陽を追いかけるように飛んだので、いつまで経っても陽が沈まない。
現地のついてもまだ18時で、陽は皓々と天空にあった。
ツアー・コンダクターは手慣れたもので、流石にスーパーという冠詞がつくだけあった。
で、フランクフルトでは案内されるままバスに乗り込んだが、添乗員が居るとついつい甘えが出て、その指示に従っていれば万事つつがなく流れてしまうので周囲の印象が一向に記憶に残らない。
フランクフルトの空港の印象も例にもれず何も残っていない。
きっとセントレアや成田と同様で、近代的な空港というのは機能が同じである以上、どこもかしこも同じようなものなのであろう。
バスに乗り込んだら、添乗員が「これからアウトバーンを走るのでシートとベルトを締めてください」といった。
ドイツではシートベルトをつけていないと本人が罰金を払わされる、と脅かされたので全員がおとなしく従った。
ドイツのアウトバーンというのはとみに有名なので一体どういうものか興味津々であったが、日本の高速道路とたいした変わりはない。考えてみれば当然のことである。
道幅が特別に広いわけでもなければ、路面に特別の策が施してあるわけでもない。
道、路、道路そのものは日本の東名・名神高速道路の方が作りは上かもしれない。
問題は、その運用の仕方にあるようだ。
ということは速度制限がないということだ。
ハードウエアーとしての道路は日本の方が上かもしれないが、車社会に対する認識の違い、車の運用に対する認識、道路の運用に関する発想、つまりソフトウエアーに我々の国とドイツでは大きな違いがあるように見えた。
ドイツの高速道、アウトバーンに速度制限がないということは自己責任の極地だと思う。
「自分の命は自分で守りなさいよ」、「交通事故は自分持ちですよ」、「事故を起こすような運転は自分の安全意識の問題ですよ」という端的な表現だと思う。
この発想の相違が我々と大きく違う部分だと思う。
そしてアウトバーンが無料という点では、大きく社会的なインフラ整備に貢献していると思う。
日本のように、金を取っている有料道路で、制限速度オ−バーでまたまた罰金を取るなどということは論理的におかしいと思う。
高速道路というからには当然無料にして、ものの移動を速やかにすることによって社会的なインフラ整備につながるわけで、その点を考慮すれば速度制限をなしにすべきである。
東名・名神を走っていて一番おそろしいのは低速車に追突する危険である。
我々は農耕民族なるが故にスピードということに比較的鈍感で、速いということは「悪」で、危険だ、と思い込んでいるが、速く走るときは誰でも緊張し、緊張すればそれだけ運転に集中する。
しかし、我々は「速く走ることは悪いことだ」という認識から抜けきれないので、ゆっくりならばそれだけで安全だと思いこみがちである。
日本の高速道路にも低速制限というのもあるにはあるが、低速で罰金を取られたという話は聞いたことがない。
今回の旅行ではバスの移動が大部分であったが、スピードはかなり出していた。
それよりも私が感心したのはドライバーの労働時間の厳守である。
スピードはいくら出しても良いが、運転手の超過勤務、過重労働、労働制限は厳しく守られているようで、時間が来るとドライバーは仕事をしない、という点に我々は見習うべきところがあると思う。
このあたりに車社会の成熟度があるのではなかろうか。
東名・名神を走る車を見ても、大部分の車が制限速度をオーバーしており、それをいちいち検挙するわけにもいかず、結果的に「赤信号、皆で渡れば怖くない」という現象を呈している。
よほどの極端な違反者でなければ捕まらないということは、既に車社会に対する認識そのものが崩壊して、道路交通法が機能を喪失しているということである。
現状に法が追従していないわけで、時代遅れの法で取り締まりしょうとしているものだから、結果的には無法に通じ、運の悪いものだけが網に引っかかるということになる。
ドイツのアウトバーンはヒットラーの構想で出来たといわれているが、中央分離帯はコンクリートのブロックが並べられており、それを撤去すれば戦闘機の離発着にも使えるようになっていると添乗員も言い、私もそういう話を過去に聞いたことがある。
これも真偽のほどは定かでないが、ドイツらしい合理主義ではなかろうか。
私も常々思っている。
日本の海岸線には護岸工事というものがまんべんなく施されているが、どうせ護岸工事をするならば、その上を車の走る道路として使えるように工夫すればよさそうにと。
河川の堤防ではそういう例が多々あるように思えるが、河川の堤防だろうと海岸の護岸だろうと、コンクリートで頑丈な囲いに近いものを作るとすれば、そういう発想が出ても不思議ではないと思う。
ドイツのアウトバーンを高速で走るバスの中から見たドイツの風景というのは、なだらかな丘陵地帯という感じであった。
うねりのように波打った田園は新緑が芽吹き、若葉色に包まれていた。
そこで日本と違うなと感じたことは屋外広告が一つもないことであった。
屋外広告が一つも見あたらないので、実にすっきりとしている。
緩やかな丘の向こうに大きな木がある、その木の下に民家が点在するという、田舎そのものである。
バスを追い越していく車は、ベンツ、アウデイー、BMW、ワーゲンに混じってイギリスのミニクーパー、イタリアのフィアット、フランスのシトロエン等があるが不思議なことにアメリカとは違ってピックアップが一つもない。
アメリカならば街を行き交う車の半分はピックアップであるが、ヨーロッパでは見事にセダンばかりである。
トラックに限ってはアメリカのものと遜色はないが、バスになると全て大型で、日本で言うマイクロバスというものが実に少ない。
ワンボックスカーも滅多に見あたらない。
それとは逆にベンツの高級車、BMWの高級車というのはやたらと目につく。流石にドイツだ。
我々の乗ったバスは、日本でいうところの観光バスであるが、胴体の真ん中にもう一つ扉のあるハイデッカー車というものだった。
床下にツアー全員のトランクを収納していた。
このトランクの出し入れにボーイを使っていたが、これも私の個人的な感想では不思議でならない。
私ならば各人に荷物の出し入れを任せればその分経費節約になるのと思うのは生来の貧乏性の考えることなのであろう。
観光業界のワークシァリングの一環として、雇用の確保ということなのであろうか。
バスがハイデルベルグのホテル、アルトハイデルベルグホテルにつくとトランクをおろした時点でロビーに集合し、それぞれの部屋のキイを渡された。
それで部屋に入って待機しているとボーイが部屋の前までトランクを運んでくれた。