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次の日は家内が予め予約しておいた観光バスによるツアーである。
指定の時間にホテルの玄関で待機していると立派な観光バスがやって来た。
ホテルではわれわれの他にもう2、3人乗ったようであるが、他人のことを観察する心の余裕など微塵もなかった。
バスは定刻になり出発したが、ガイドさんは、本人の自己紹介によると、今年入社した新米ということで、どことなくぎこちなさが残っていて、それもご愛嬌であった。
で、2、3のホテルを回って、最初についたところが琉球村というテーマパークである。テーマパークといえばデイズニーランドやUSJユニバーサル・スタジオ・ジャパンを思い浮かべるかもしれないが、そんな大それたものではない。
バスを降りたらどういうわけか全員で記念写真を撮ったが、不思議なことにそれを買えとは最後まで言ってこなかった。
香港に行ったときは執拗に買うように粘られて、なんだか買わなきゃ悪いような気になって、しぶしぶ購入したことがあったが、ここではそういうことはなかった。
それにしても不思議といえば不思議である。
お客に売りつける魂胆がなければ記念撮影をする意味がないわけで、きっとそのうちに売りつけに来るだろうと思っていたが、それがなかったことはなんとしたことだろう。
で、その後、人の後にくっついて進むと、大きな屋根の小屋に入り、そこでは入場券を売っていた。
それを持って中に入ると、最初に目についたのが大きな刳り貫きの丸木舟であった。
この丸木舟をサバニと言うらしいが、かやぶきの小屋の真ん中にそれだけが鎮座していた。
以下、インターネットのウィキペデイアによると次のように説明されている。
「サバニは、琉球列島の漁業従事者に古くから使われていた漁船の名称。
エークと呼ばれる櫂による漕走だけでなく、帆走用の艤装も可能。
独特な形状をもつエークは漕ぐだけでなく帆走時には舵としても使われる。
戦後のエンジンの普及で、伝統的なサバニの帆漕技術は急激に失われつつある
従来、サバニは漁で使われるだけでなく、日常の荷物運搬等に欠かせない生活の足でもあった。
近年では日露戦争時に敵バルチック艦隊の船影を認めた5人の漁師が、宮古島から通信設備を備えた石垣島までをサバニで漕破し、その存在を伝えたとされる久松五勇士の活躍が有名である。 完成度が高いサバニの製造技術は海を超えて近隣諸国まで伝承され、また遠くインド洋まで航海したと言われている。」
この説明のとおり、海洋の民が長年の経験から作り出した生活の知恵の集大成なのであろう。
この刳り貫き船については、船を作る技術と、それを運用する技術の両方がそろって初めて琉球の人々の生活が向上したものと想像する。
園内には琉球のそれぞれの旧家の家が再現されているが、基本的に農業を営む民である限り、われわれ内地のものとそう大した違いはない。
中ほどにあった旧仲宗根家などは、私のおじいさんの家と間取りなどは実に似通っていた。ただこちらの家は海風が当たる所為だろうが、材木の朽ちかたがちがう。
内地では湿気が多いせいか、こちらの柱のように塩を噴いたような朽ち方はしない。
しかし、間取りに関していえば、農業という基本的な生業である限り、その使い勝手にそう大きな違いはないように思える。
家の隅にクドがあって、そのクドでは大きなお釜で煮炊きをする構図というのは同じである。
糸車にしても、おばあさんたちがそれを繰っている姿をこの目で見ながら育ったわけで、いまさら珍しいとも思わない。
かやぶきの屋根といったところで、私の子供のころは身の回りにいくらでもあったわけで、今でこそこの地方でも珍しくなったが、子供のころはあちらこちらに散在していたものだ。この園内にはこのような家が数軒あって、それが見せ物になっているので、その意味で琉球村というのであろうが、その中でも特に私の目を引いたのはサトウキビから砂糖を絞る工場というか、作業場である。
サトウキビというのは私の子供のころはわれわれのおやつとしてかなり出回っていた。
八百屋で適当な長さにきったものを売っていたし、農家では自家製として作ってもいた。サトウキビから砂糖を絞る作業も、ごく零細な規模で行われていたように記憶している。ところが、ここでの展示は、その砂糖を絞る作業を牛の力を利用して行っており、また水車の力を利用しているところが珍しいといえば珍しい光景である。
工場といっても実質は掘っ立て小屋で、ローラーを回転させて、その回転の動力として牛を使ったり、水車を使ったりしているわけだ。
ところがこのローラーがかなり大きくて、大の大人でも一人では動かせないであろう。
小屋の隅にはこのローラーが並べておいてあった。しかもこの並べられたローラーは真っ赤にさびて、長いこと使われていないことが一目瞭然だった。
牛の動力、水車の動力などということは、内地ではあの戦争の前でさえすでに廃れていたものと思うと、100年ぐらい後ろにタイムスリップしたようなものだ。
100年も前の時代ならば、それなりに環境にやさしい社会であったわけで、砂糖を絞るのに化石燃料をまったく使わないということは、そういうことだと思う。
ここの場合は、あくまでも観光ということで、沖縄でも今ではきっと石油燃料を動力源としているに違いないと思う。
ここに展示してある民家は、いづれも草葺屋根であるが、バスやタクシーの窓から見る今の沖縄の民家というのは、その大部分がコンクリートの流し込みで、屋根といえば陸屋根であって、我が家とまったく同じものだ。
沖縄の観光パンフレットに出てくる赤い瓦に漆喰で雨の吹き込みを抑える独特の屋根というのはほとんど見れない。
タクシーの運転手の話したところによると、今の沖縄で赤瓦に漆喰を塗り固めた屋根の家を作る人は相当な富裕階級ということだ。
沖縄の普通の民家は、そのほとんどがコンクリート作りなので、私はプレハブ工法かと思っていたら、中に鉄筋をしっかり入れた、流し込みの家だったので驚いた。
しかし、その分沖縄らしさというか、沖縄独特の風情は消失しているわけで、沖縄を生活の場として長く住もうと思っている人は、そんな情緒にふけるわけにも行かないので、やはり時代の流れなのだろう。
ここを見終わって、園外に出ようとしたら、広場でエイサーの踊りが展開された。
このエイサーという踊りも、近頃は内地でも盛んに踊られている。
これはいったいどういうことなのであろう。
沖縄の人がそれだけ本土に来て県人会のようなものを作り、その関係で各地のイベントに出るということなのだろうか。
エイサーというものの確たる定義を知らないので、例によってインターネットから借用すると次のようになっていた。
「エイサーは、沖縄でお盆の時期に踊られる伝統的な芸能である。
お盆の時期に現世に戻ってくる祖先の霊を送り出すため、盆の送りに若者たちが歌と囃子に合わせ、太鼓をもって踊りながら地区の道を練り歩くものであるが、近年ではそれ自体を鑑賞するために各地域のエイサーを集めたイベント等も開催されている。」
ま、われわれの認識からすれば、盆踊りと考えればいいと思う。
しかし、日本文化の幅は実に広い。
同じ盆踊りでも北陸のおわら風の盆歌から沖縄のエイサーまで、実に多種多様といわなければならない。
風の盆歌のあの飄々とした寒々とした愛惜の詰まった盆踊り歌と、このエイサーを比べてみると、こちらのほうは実に豪放、快活、陽気である。
歌の文句は方言が多くて理解しかねるが、その動きだけを見ていても実に楽しい。
このシーンはビデオに撮っておいたが、私のビデオカメラは実に使い勝手がいい。
スチル写真もビデオも、手元で切り替えができて、動きのあるものはビデオですぐに撮れるので実に重宝だ。
沖縄の衣装も実に多彩で、それぞれにTPOがあるのだろうが、今回はそこまでは掘り下げることができなかった。
ここを見終わったら、バスは次の万座毛に向かったが、ここは二度目なので左程の感慨はなかった。
断崖絶壁に大きな波が打ち寄せるさまはいつまで見ていても飽きないものと思うが、現代に生きるわれわれは、そんな悠長なことはしておれない。
死ぬまでに、できる限りのことをしておかねばならない。
沖縄には根元に気根のある樹が多い。
この万座毛の崖の上の岩がごつごつしたところにも、アダンという気根を持つ樹があった。新米ガイドの説明によると、この実はパイナップルによく似ているが、食べられないということであったが、私の好奇心が引かれたのは、この樹の根っこ、つまり気根の壊れた部分を見ると、中が中空になっていたことだ。
気根というのは、写真でマングローブなどを見ると、樹の幹の途中から水の中に枝のようなものが出ていることを目にすることがあるが、その枝のようなものが気根というもので、いわゆる普通の根っこと同じだろうと思う。
普通の根はその根っこが地下にあるが、気根の場合それが地上に露出したものだと思う。普通の根と同じならば、根の中は繊維質で埋ってなければならないのに、この場合はどうもその中が中空のように見えたので覗いて見ると確かに中空で、空っぽであった。
そういう変なところに私の好奇心は向いてしまう。
マングローブのような干満の差が大きく、干上がる機会の多いところの樹に気根があるというのならば素直に理解できるが、こんな崖の上で岩だらけの場所の樹に気根があるなんてどうも理解しがたい。
自分でいくら不思議がって見たところで、現実がそうなっている以上仕方がない。
そんなわけで、ここは周囲を一回りしただけでバスに戻った。
次は海洋博覧会記念公園に廻った。
ここは昨年来たときに、ここの大きな水族館に入って、それこそ魚を十分に見たので、今回は熱帯ドリームセンターという植物園に行ってみた。
熱帯の花といえば、どうしてもランに注目が行くが、これは致し方ない。
ランは実に美しいので、人々が惹かれるのも無理のない話である。
ところが、こちらはそうそう植物に関心があるわけではないので、どの花を見てもみな同じようにしか見えない。
とはいうものの、私にとって特に注目を引いたのは、トックリキワタという樹で、これは幹がまさしく徳利のような形をしていた。
ヤシの一種であろうが、幹の格好が徳利そのものである。
のん兵衛好みの樹であり、そういう意味で愛着を感じる。
それから大ハス、南米の大ハスで、それこそテレビの映像で見るものと同じであった。
またウツボカズラというのも面白い木である。
それこそウツボの巣のような形、私も実際には見たことがないが、ウツボの姿形から想像して、おそらくウツボの巣ならばこんな形ではなかろうか、と思わせるような造詣である。ウツボカズラとは言い得て妙である。
直径3、4cm、長さ20cmぐらいのつぼが中空にぶら下がっている。
そのつぼの中には昆虫を吸い寄せる妙薬があり、その匂いにつられて中に入った虫を食す、食虫食物である。
カズラというからには蔦の一種であろう。
この植物園も、じっくり時間をかけてみれば結構面白そうだが、何しろツアーなので、時間が気になってならない。
そして丁度このころ昼になって空腹を覚えたが、この公園内にはレストランがない。
この植物園の中には軽食のレストランはあったが、メニューの選択の幅が狭く、選り好みはまったくできなかった。
それでも少ないメニューの中から腹持ちのよさそうなのを選んで空腹をごまかしたが、この温室の施設そのものは実に金のかかった施設ではないかと思う。
この公園は水族館のほかに、こういう施設が他にもあり、それはもう一つ奥に熱帯・亜熱帯都市緑化植物園というものがある。
広大な敷地に余裕を持って各種の施設が配置されているが、沖縄県の経済だけではとてもこれだけのものが維持可能だとは思われない。
この公園そのものが国営となっているので、われわれ本土の税金がこういうところにも流れているということだと思う。
沖縄という土地は、先の大戦でも犠牲を大きく払わされたし、今も基地の島として迷惑をかけている、という日本政府の思いやりのひとつかもしれない。
この植物園に付随して、遠見台というものがあって、茶色の巻貝のような形の展望台があった。
しかし、これは完全に設計ミスで、実に不真面目な出来上がりだ。
巻貝のように螺旋階段を上がっていくことはいいが、壁というか、手すりというか、その高さがまことに不都合で、人間の目線の位置にある。
ということは螺旋状の階段を登るにしても降りるにしても、景色はさっぱり見えないということである。
頂上はどうかといえば、景色を見るための配慮には欠けている。
ただただ植物園のシンボルという意味合いしかないわけで、あってもなくても一向にかまわない代物である。
この公園、あまりに広いので園内に電気自動車のバスが走っている。
植物園が正面入り口からかなり離れていることがわかっていたので、このバスを利用したけれど、帰りにもこれに乗って水族館まで来たとき、海岸に近い水槽で、イルカの曲芸をやっていた。
こういう場合、私のカメラは実に重宝だ。
動きのある被写体はビデオで撮るに限る。
イルカショウと言うのも左程珍しいものではないが、イルカが芸を覚えるということは実に不思議だと思う。
サルでも、犬でも、馬でも教えればできるということはなんとなく判るような気がするが、イルカにも芸を教えることができるということは驚きだ。
ここから今帰仁城跡に向かったが、これをナキジンと発音するそうだが、とてもわれわれには読めない。
この城も、昨日見た座喜味城とよく似ていた。
無理もない話で、沖縄という小さな島で、多少の違いはあろうとも、攻めにくく守りやすい城を作るとなれば、誰が作ったとしても同じような構造にならざるを得ないであろう。素材にしても、狭い島の中で調達しなければならないわけで、その意味からして、とっぴなものはできないに違いない。
ここで家内は疲労のため城に行くことをやめて入り口でボランテイアガイドと話をしていたらしい。
その流れで、私も少しばかり話を聞いたが、琉球は小さくとも、その昔は一応王国を作っていたということだ。
まあそういうことは物の本で知っていたが、小さいがゆえに、他からの干渉は免れず、結局のところ日本についたというのが歴史の流れであったのであろう。
その意味で、もし琉球が中国についていたとしたら、今頃どういうことになっているのであろう。
アメリカの基地の代わりに中国の軍隊が基地を設けて、人々はそれこそ無償で軍用地として土地を取られているのではなかろうか。
今帰仁城跡の中には前にも述べたように国土地理院の四等三角点の印があった。
座喜味城にあったのは一等三角点であったが、こちらのは四等三角点で、そうとうに格が落ちるのであろう、直径5cmぐらいの真鍮の円の中心に、+の印をつけたものが埋め込まれていた。
此処はまさしく城跡そのもので、上の建造物がないので、万里の長城のミニチュアのようなものでしかない。
しかし、ここには石垣の作り方が展示してあったが、それはハンチクという工法でできているということだ。
で、再びインターネットでハンチクを調べてみると次のようになっていた。
「版築(はんちく)とは、土壁や基礎部分を作るために古代から用いられてきた方法である。
版築自体はほぼ土のみでできており、築造の際には若干量の木材を要する。(版築という単語は、版築という方法自体と、版築で作った壁を指すことが多く、文脈により分別が必要である。)
版築は非常に頑丈で、城壁や墳墓など大規模な建造物をはじめ、道路や家屋などにも用いられてきた。
中国では古代における長城など大規模な工事での使用例も多いが、日本では主に家屋の壁や城郭の土塁などの建設に用いることが多い。
日本ではすでに廃れた方法だが、中国では西域などで安価かつ技術的に容易であり、粒子の細かい黄土が版築に適しているという点から現代でも多く用いられている。」
ということは私もテレビで見て知っていたが、それによってこの城が築かれたということは不思議な気がする。
版築というのは土をつき固める工法のことで、この沖縄のサンゴ礁系の石灰質の石をどうやってつき固めるのか不思議でならない。
版築というのは、中国の西域地方で非常にきめの細かい土の場合、突き固めればそれこそ強固な固形物になるであろうが、石灰質のぱらぱらのものではそういう効果は期待できないように思える。
私がいくら不思議がったところで、それでできている以上現実を認めるしかない。
最後にバスはお土産屋によって、お土産を買わせる魂胆であろうが、こちらはその手には安易に乗らない。
明らかにバス会社とお土産屋がタイアップして、お客を引き込む作戦であろうが、客のほうもトイレ・ストップが欲しいところなので、考えてみればギブ・アンド・テイクが成り立っているのかもしれない。
このお土産屋はパイナップルを扱っていて、パイナップルを栽培しているところを見せ、それからできる製品を店内で試飲させ、それでもって客の購買力を引き出そうとしている。店内は実に混んでいて、年末のデパート並みの混みようであった。
こういうところでも買う人は買うようで、同じバスに乗り合わせた二人連れの若い女性は大きな荷物を抱えながら10分遅れで乗り込んできた。
ここから再びバスは沖縄自動車道路を走って東南植物園なるところに連れて行ってくれたが、われわれは先の海洋博公園で散々見てきたので、入るには入ったがおざなりの見学で終わった。
観光バスで4箇所も5箇所もつれまわされると最後には嫌になってしまう。
廻る所は少なくともいいので、もう少し時間をかけてもらいたいものだ。
まあ、そうは言うものの、そのあたりのことは観光業者も調べつくしているに違いなく、経験からいって、これがベストの企画なのであろう。
沖縄の地図を見てみると、沖縄空港、つまり那覇の空港は、島の一番南に位置しているわけで、われわれの泊まったホテルは、結構北の方に寄ったところである。
そして、この日一日走り回ったところも、島の中央部に位置しているわけで、この間、結構な距離があったようだ。
最後の東南植物園を見終わったら、バスは再び出発地点の日航アビエラホテルまで戻り、それからまた那覇に入り、われわれの泊まるホテルまで送り届けるという寸法であった。その簡、1時間ばかりかかるので、新米のガイドさんは、われわれを飽きさせないように、いろいろ気を使って、沖縄にまつわる雑学をレクチャーしてくれた。
この日の宿は、ホテル日航那覇グランドキャッスルであったが、バスはその玄関までわれわれを送り届けてくれた。
このホテルは実に地の利の良いところにあった。
首里城の近くで、歩いても行けそうであったが、先回ここも堪能したので今回はパスした。着いたのが19時近くであったが、家内がどうしてもDFSギャラリーに行くというので、仕方なくつき合わされた。
私にとっては、いくら世界のブランド品であろうと、猫に小判で、まったく欲しいなどという気が起きない。
ブランド品に金をかける人の気が知れない。
そうは言うものの、金のある奴はどんどん使うべきで、それでこそ景気が上向くというものである。
家内も、何か目当てのものがあったらしいが、値段を見て気が萎縮したのであろう、何も買わずに出てきた。
来るときは店のシャトルバスで来たが、帰りはタクシーでホテルに戻った。
それで夕食と相成ったわけであるが、昨夜も、この日の昼食も、節約に努めたので、今回のデイナーには少々張り込んでみた。
私の考えでは、旅とは金持ちの遊びだと思う。
旅に出たからには、少々の散在は覚悟しなければならないと思うが、そこに価値観の相違があるので、旅に出てブランド品を買って散在しようと思う人もおれば、良い酒や食事に金をかけたいと思う人もいる。
夫婦の間でも結構価値観の食い違いということはあるもので、実を言うとこれにはほとほと閉口している。
私は旅に出たときぐらい、美酒に酔って見たいと思うのに、席に座って酒を注文しようとすると、家内がそれを断ってしまうのでまことに不味い。
家内からすると、土地の銘酒などタバコのニコチンと同じ程度の認識しかないようだ。
だから夫婦で旅行などしたくないのだ。
この年になって、酩酊するほど飲むわけではないのに千円か二千円の出費に、目を三角にして怒りだすから困ったものだ。