061204001

平成18日11月29日(水)

 

翌日は沖縄平和祈念公園に行くつもりであった。

今回、新たに沖縄に行くのならば私は最初からここに来るつもりであった。

この日の朝までの計画では、私は家内とわかれて別行動をとり、単独でバスを利用してここに行くつもりであった。

家内は一人でツアーのバスに乗る予定であったが、家内にしても二度目のことで、同じようなところに二度も行くこともないというわけで、それをキャンセルしてしまった。

先回も、この平和祈念公園には来たことがあるが、そのときはバスのツアーであったものが、お客が少ないというわけでタクシーに変わった経緯がある。

バスツアーがタクシーにかわっても、ツアーのコースは変わらないので、結局のところ時間にせかされて「平和の礎」のみを見て、肝心の資料館には入れずじまいに終わった。

よって今回はしっかりと資料館を見ようと手薬煉ひねってやってきた次第である。

で、前々からの計画を直前になって変更し、二人揃って平和公園に行くことになったが、タクシーで行くとなると現金を用意しなければならず、ホテルの外の郵便局のATMで下ろそうと思って、ホテルの案内係に聞いて出かけた。

「あの坂を登ればすぐですよ」といわれたので、安易な気持ちで出かけたら、この坂がとんでもない急坂で、胸突き3寸というのはこういうこと言うのだろうか。

まるで獣のように4つ足で登らなければならないような急坂であった。

日ごろの運動不足がたたって、息せき切って胸が痛くなってしまう。

坂を上り詰めてバス通りを少し左に歩いたら郵便局はあったが、帰りはまた転がり落ちそうな道であった。

このホテルは首里城の近くにあったが、この辺りはどういうものか非常に起伏に富んでいる。

首里城があるということは今まで見てきた城・グスクのように、おそらく太古の時代には峰の尾根尾根に囲まれていたのかも知れない。

沖縄の城、いわゆるグスクというものは、代々沖縄に住んでいた人が作ったわけで、そのことから考えてみると、今の首里城は開けた場所になっているが、こうなる前の立地条件は、きっと今まで見てきたグスクと同じではなかったろうか。

とにかくこの周辺は坂が多い。

まあそういうわけで、ホテルの前からタクシーで平和公園まで出かけたが、時間にして1時間程度であった。

タクシーは中央入り口から右に寄った売店の前で降ろしてくれた。

この売店では顕花用の花を売っていたが、われわれはここに肉親が眠っているわけではないので、それはパスした。

運転手が教えてくれたとおり進むと、そこには園内を巡回するマイクロバスが留まっていて、金200円で霊園の奥のほうまで運んでくれた。

私は最初に一番奥までいって、それからだんだん見ながら戻ってこようと思っていたので、ずんずん奥の方に行くと一番奥には「黎明の塔」というのがあった。

この塔の左下には、次のような碑文が記されていた。

「第32軍は、沖縄県民の献身的協力を受け、力闘奮戦3ヶ月に及んだが、その甲斐も空しく将兵ことごとく祖国に殉じ、軍司令官牛島満大将、並びに参謀長長勇中将等この地において自刃、十時に昭和20年6月23日午前4時30分、茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を伝う。

昭和37年10月 財団法人 沖縄遺族連合会」

しかし、軍の司令官が自刃して果てた地を「黎明」というのはどういうことなのあろう。もっと直裁にそのままリアルな表現でも良かったのではなかろうか。

「黎明」という言葉を広辞苑で引いてみると「あけがた、夜明け」となっている。

ということは、ここで暗い残酷な戦争は終わったので、次には明るい未来の夜明けが来るよ、とでも言いたかったのだろうか。

昨年も今年も、どういうわけか国内旅行が戦跡めぐりになってしまったが、こういう戦争の傷跡を回っていていつも不思議に思うことは、われわれの民族には敵を恨むという感情がまったくないというのはどういうわけなのであろう。

広島の平和祈念堂でも「われわれは二度と過ちを繰り返しません」、となっているが、無辜の一般市民を18万人も殺傷したのはアメリカであって、われわれは被害者にもかかわらず、その被害者のほうが「二度と過ちを繰り返しません」では論理が逆になっているのではないか。

この論理的な矛盾をなぜわれわれは今まで戦後60年も放置していたのであろう。

確かに、われわれは昭和16年12月8日にアメリカと戦争をはじめたが、これは一部の好戦的な日本人が好き勝手に始めたわけではない。

話し合いでなんとか戦争にならない方法を模索したが、結果として話し合いは成立せず、最後の手段として開戦ということになったわけで、そのとき日本の海軍が真珠湾を攻撃した。

それを受けたアメリカは「リメンバー・パールハ―バー」が合言葉になったではないか。マッカアサ−がフイリッピンのコレヒドールから撤退するときは「アイ・シャル・リターン」といって後足で砂をけったように逃げたではないか。

これこそ人間の人間らしい本当の姿ではないのか。

やられたらやり返す。殴られたら殴り返す。取られたら取り返す。

戦争には3つの結果しかない。

勝つか負けるか引き分けかの3つしかない。

われわれはあの戦争では負けたわけで、完璧にまで負けた。

負けたなら次はなんとしても先の失敗の二の舞はしないという気概を持って然るべきではなかろうか。

人間は怨念を持ってこそ普通の自然の人間ではなかろうか。

人間の怨念を否定するような人は、口先で奇麗事を言っている似非文化人で、人が人足るには、やられたらやり返すという信条こそ、ごく自然の人間の感情だと思う。

何も、また血で血を洗う戦争をせよ、という意味ではないが、広島、長崎に原爆を落とされ、沖縄では地上戦でコテンパンにやられ、ソ連には60万人も連れ去られ、なおかつ北方4島まで不法占拠され、それでも「われわれは二度と過ちを繰り返しません」では、誇りある人間としての価値観を放り出しているようなものではないか。

同胞が玉砕した地に「黎明」とはあまりにも人間性を無視した、奇麗事ではなかろうか。大自然の営みのことから考えれば、死んだ肉体は植物の滋養となって、再び黎明として生き返ってくるかもしれないが、俗人としては「やられたらやり返す」という意気込みで生き抜きたいと思う。

沖縄の話からはそれるが、この「われわれは二度と過ちを繰り返しません」という文言はあまりにも自虐的な表現ではなかろうか。

東京裁判でただ一人日本を擁護したインドのパール判事が、この碑文を読んで憤慨したといわれているが、普通の教養を持った、普通の人が見れば当然のことだと思う。

にもかかわらず、何故にわれわれはこういう奇麗事の感情に浸りきってのうのうとしているのだろう。

この「過ち」というのは何を指し示しているのであろう。

私は素直に読んで、この文言の「過ち」は戦争全般だと思うが、もう少し深読みしてみると、戦争は政治の延長なわけで、その意味から推し量ってみると「負けるような戦争指導した政治の過ち」ということであろうか。

そして、この碑の少し手前には「勇魂の碑」というのがあった。

この「勇魂の碑」の脇には、ここで亡くなった方々の命名碑があって、大勢の名前が記されていた。

この碑の反対側には休憩所があり、そこから下がって行く細道が見えた。

この細道を下ってみるとすぐに行き止まりの柵があり、その先には進めなかったが、後で資料をよく調べてみると、この先には沖縄師範学校生徒の「健児の塔」があったようだ。

行けないものは仕方がないが、そこにはそれこそ洞穴があって鉄の格子がはめてあった。牛島大将や長参謀がここで指揮をしたのかどうかはわからないが、とにかくそういう状況が連想されそうな洞穴、壕、ガマであった。

こんな穴の中に潜んで20世紀の戦争に勝てるわけがないではないか。

状況がここまで、つまり沖縄戦にいたるまでに、すでに日本の敗北は明らかなわけで、敗北が明らかになれば、民族の生きる道としては一刻も早く降伏して、一般市民の死傷者を極力少なくし、それこそそれを黎明の期として民族の再生のことに気を使うべきではなかったろうか。

先の「二度と過ちを繰り返しません」の話ではないが、われわれはどうしてこういう明らかに不利な戦い、愚かな過ちをしてしまったのであろう。

日本軍には戦陣訓があって生きて俘囚の辱めを受けずということがあり、降伏が許されなかったといわれているが、その前に状況があまりにも不利であったではないか。

こんな穴に潜んでアメリカ軍の飛行機や、戦車や、火炎放射器に太刀打ちできるわけがないではないか。

沖縄戦に至ったと述べたが、本当は特別攻撃隊、いわゆる神風攻撃をしなければならなくなった時点で、すでに戦争の決着はついていたとみなさなければならない。

その見極めがどうしてわれわれの中できなかったのであろう。

こういう設問をぶつけると、必ず「当時は治安維持法があって自由にものが言えなかったから」という答えが返ってくるが、それは一種の言い逃れだったと思う。

昭和初期の時代というのは、きわめて軍人のモラルが崩れていた時代で、軍人のクーデターやテロが盛んに行われていたが、問題はこういう軍人のモラルの低下を国民が支持していたという点にある。

このことをわれわれの同胞の評論家や歴史家はあまり言いたがらない。

あの戦争の責任を全部軍人に覆い被せて、それで禊が済んだように錯覚しているが、いかなる悪政であろうと善政であろうと、政治の基底には国民の願望が横たわっているわけで、政治はそれを具現化しているに過ぎない。

近衛が悪い、東條が悪いといっても、彼らも国民の声なき声、暗黙の世情を汲み取っていたわけで、秦の始皇帝のように、まったくの独裁者というわけではない。

ただし、あの太平洋戦争、日本よみならば大東亜戦争の最中に限って言えば、これはまさしく軍政そのものであった。

われわれが過ちを犯したとすれば、この軍政をシビリアン・コントロールにしきれなかった点である。

アメリカに宣戦布告するまでは、かろうじてシビリアン・コントロールの形が取りえたが、戦争になってしまえば、後はすべてが作戦行動になってしまったわけで、まさしく軍政そのものである。

その意味でわれわれは二度と過ちを犯してはならないことは言うまでもない。

この碑のある一帯を「摩文仁の丘」という。

その真ん中をメイン・ストリートが通っており、そこをバスが通っていたが、この道の両側にはそれぞれに府県の碑が並んでいた。

後で資料を詳しく調べてみたら、奥から鹿児島、石川、熊本、福島、大阪、三重、静岡、神奈川、兵庫、福井、千葉、栃木、青森、岡山、愛媛、愛知、新潟、秋田、茨城、滋賀、群馬、富山、岐阜、岩手、福岡、徳島、長崎、佐賀、山口、埼玉、宮城とあり、その他にもそれぞれの部隊の碑や、旧植民地の碑や、団体の碑、たとえばNHKという具合に並んでいた。

その一つ一つがそれぞれ違ったデザインで、一つとして同じものがないが、きっと各地方自治体でそれぞれにデザインを専門家に依頼して建立したに違いない。

愛知県人として当然愛知県の碑を見ないわけには行かない。

愛知の碑は「愛国知租の塔」として立派なものができていた。

愛知県というのは極めて語呂が良いようで、本年執り行われた万国博覧会でも愛・地球博などと、極めて良いネーミングで成功を収めたように、ここでも愛国知租とは実に良いネーミングだと思う。

そして地球をイメージしているのであろう、半球の大きなもので、立派さにおいても他に引けをとらない、実に堂々たるものであった。

他の碑は樹木が覆いかぶさりそうなものも有ったが、これはこれで霊験あらたかな気分になれそうであるが、ここの場合は実に開放的で、海も見えるし、樹木がない分、実に開放的で私は大いに気に入った。

資料によるとここには5万1千余の御霊が祭られているということだ。

話が後先になるが、後で資料館においてアンケートを書くようになっていたので、そこに書き込んできたが、沖縄での犠牲者はおおよそ23万人といわれているが、その中で沖縄県外の人は10万人もいるということである。

その10万人の人は沖縄防衛の犠牲になったわけで、あの戦艦大和も沖縄防衛のために出撃して結果的に撃沈されたわけである。

今の沖縄の言論の場では、沖縄は昔も今も「本土の犠牲になった」という被害者意識が非常に強いように見受けられるが、この内地の人々の犠牲をどう考えているのであろう。

われわれ日本民族というのは、どうも植民地の管理というものが下手なようで、台湾でも、朝鮮でも、良かれと思ってわれわれのしたことが全部裏目に出ているようだ。

沖縄の人々も、朝鮮ほどではないにしても、ある種の恨みを内地の人々に対して持っているような気がしてならない。

また政府も沖縄に対して何かしら後ろめたい贖罪の気持ちがあるものだから、羹に触るような気の使いようをしている風に見えてならない。

人間の作る国家というものには、どうしても国家の中心というものが必然的に要るわけで、国家全体から見るとその中心に近いところと遠いところの地勢的な条件はなんとしても是正できるものではない。

あらゆる場面で、中心に近いところは何かと有利で、逆に遠いところは何かと不都合である。

その意味からすれば、沖縄や北海道は明らかに辺境なわけで、それだからこそ国家の中心である東京に吸い寄せられるように人々が集まってくるのである。

敵であるアメリカだとて,サイパンを落とし、グアムを落とし、硫黄島を落としたからといって、いきなり東京湾に攻め込んでくるということはありえない。

旧ソビエット軍だとて、北方4島を回避していきなり東京湾に攻め込むなどということは考えられない。

国家の周辺から、つまり辺境、国家の中心から離れたところから徐々に中心に向かって攻め上がって来るのが人間の発想としては当然のことである。

沖縄というのは地勢的にこういう不運に見舞われる宿命にあったわけで、それは今も続いている。

沖縄が61年前にアメリカ軍によって敵前上陸され、占領されたということは、その後アメリカ軍の基地が残ったとしても致し方ないことだ。

これこそ沖縄の宿命そのものである。

そういう宿命だと悟れば、それにあった生き方を探すよりほかない。

この丘のメイン・ストリート中ほどの左側には一段と大きな墓地があり、そこは国立沖縄戦没者墓苑となっていた。

資料によると、

「沖縄戦没者墓苑は、沖縄戦において戦没された方々の遺骨を納めてあたる墓苑である。

本墓苑は、これらの方々を永く追悼するため、摩文仁が丘に昭和54年(1979年)2月25日に創建された。

沖縄戦においては軍民あわせて18万人余の尊い生命が失われた。

この戦没者の遺骨収集は、戦後いち早く地域住民からはじまり、納骨堂、慰霊塔を急造し、遺骨を納めていたが、昭和32年(1957年)に政府が当時の琉球政府に委託して、那覇市職名に戦没者中央納骨所を建設し、同所に納骨していた。

しかし、しだいに収骨数が多くなるにつれ、同納骨所が狭隘になってきたことなどから、厚生省の配慮により、昭和54年に本墓苑が創建され、中央納骨所から本墓苑に転骨されたものである。

現在本墓苑には、戦没者18万余柱が納骨合祀されている。

参拝所の屋根は、沖縄の在来赤瓦を使い、納骨堂には沖縄産の琉球トラバーチン石1千個が古来の方法で積み上げられている。

正面から見る建物は、沖縄の青い空と海の青さの中に見事なコントラストを見せ、その静かなたたずまいは悲惨な戦争により犠牲となられた方々の御霊が安らかに眠るにふさわしい。」となっている。

それぞれの碑には、それぞれに顕辞というのか顕詩というのか知らないが付録の碑があって、それをいちいち読んでいたら埒が明かない。

どれを読んでも死者をいたわるものに違いなく、内容的にはそうたいして違いはなさそうに思えた。

その大部分の碑をカメラに収めたが、カメラに収めた後で、資料館で資料を購入して、それと見比べればと思っていたが、この資料というのがあまり精密ではなくて、思っていたほど参考にはならなかった。

ここを見終わったので、次は資料館のほうに移動したが、その途中で「平和の礎」の脇を通ってきた。

あの屏風のような黒曜石の板の外側を歩いてきたが、今でもこの碑には新しい氏名が書き込まれている。

この「平和の礎」とその前にある「平和の火」というのは実に立派な墓だと思う。

さて、資料館に展示してあったもろもろの品物はさほど珍しいというものではなかった。私の年代のものにとっては昔、1度や2度は目にしたものばかりであったが、問題なのはこの沖縄戦のデータの数字である。

敵のアメリカ軍は、精鋭の正規兵54万8千人という数字、艦船1500隻、鉄の暴風といわれるほどの砲弾の数、このことはアメリカが如何に本気で日本と戦っていたかということだと思う。

それを迎え撃つ日本側は、中学生や女学生まで動員していたわけで、そのことを考えると平和の呪縛である、「二度と過ちを!!!」という文言も立派に整合性を持ち得る。

この中ではアメリカ側が写した映像が流されていたが、日本側はまったく惨めなものだ。

アメリカ側に余裕があったからこういう映像が残っているのであろうが、こういう映像を見せ付けられると、われわれの側は完全に骨抜きにされてしまって、もう二度とああいう悲惨な戦争は経験したくない、という気持ちも当然のことと思われる。

やり返す意欲は完全に萎えてしまう。怨念を通り越してしまっている。

われわれは完全にPTSD(心的外傷後ストレス症候群)にかかってしまって、精神的にもとの正常な思考に戻れなくなってしまっている。

これがあるからわれわれは「二度と過ちを繰り返しません」という言葉になるのであろう。

生きた命をもたない物質も、外から大きな圧力を加えると、ある点で大きく破断する。

その限界点の前で力が抜ければ、物は元の形に戻ろうとする回復力というか復元力のようなものが作用してもとの形に戻る。

ところが外からの力が破断の限界を超えると、そこで破壊されてしまい、その後はいくら力を抜いても決してもとの形に戻らなく、破壊されたままになる。

われわれは沖縄のみならず、あの戦争に敗北したことによって完全にPTSDに罹ってしまい,精神の破断点を越えてしまったので、決してもとの日本人の精神を取り戻すことはないというわけだ。

この資料館でアメリカ側の写したフイルムによる映像を見ると、われわれがPTSDに陥るのも致し方ない面がある。

昔、アホウドリは人間に恐怖心を持っていなかったから人間によって絶滅させられたと聞くが、沖縄戦の現状はまったくあれと同じだ。

沖縄の中学生や女学生がいくらがんばったところで、アメリカ軍の前では無力なアホウドリのようなものだ。

空の要塞、B-29に竹槍で立ち向かおうとした構図とまったく同じではないか。

これではPTSDに陥るのも致し方ない。

その結果として、われわれは完全に民族の誇りを失ってしまったものだから、再びそれを取り戻そうとするならば、中国の南京大虐殺殉難同胞記念館のようなものを作って、この恨みを決して忘れないようにすべきではなかろうか。

やられてもやられても、やられっ放しのままで、復讐する意欲を失ったままで「もう二度と過ちは繰り返しません」では、あまりにも情けないではないか。

中国の南京大虐殺殉難同胞記念館は、中国人の同胞が日本人からこういう仕打ちを受けたのだから、われわれは(中国人は)決してそれを忘れてはならず、いつの日か仕返しをすべきであるという反日、排日のメモリアルとして作られているわけで、これこそ人間のあるべき自然の感情だと思う。

反日、排日が目的なるがゆえに、それには過度な誇張があるわけで、自分たちの失敗、見苦しいところ、自らの汚点は隠して、ありもしない虚構で塗り固められた展示であったとしても、それは中国側の国威の掲揚につながるわけで、中国人の中から批判は出てこない。

自分たちが人間として恥になるようなことはすべて覆い隠して、相手の残虐性のみを強調し、そういう大きな目標の前には、真実の捏造、針小棒大、架空の事件、嘘八百の羅列、等など公然と罷り通っているわけで、中国側からこれを是正しようということはありえない。

これはこれで人間のもっている根源的な思考であり、ごく自然の人間の生き様であり、真の人間の姿を展示していると思う。

それに引き換え、われわれの方は奇麗事で理想の理念を覆いつくして、敵を恨むよりも、自らを貶めて、相手の善意にすがろうとする生き方は、まさに乞食根性、奴隷根性そのものだと思う。

ここの展示してあるものは、すべて如何にわれわれがやられたかの展示であって、やれたことは仕方がないが、次はやり返すという発想は徹底的に押さえ込まれている。

戦後、われわれは61年間も武力行使、戦争というものに直接かかわりあうことはなかったが、これはただの偶然だと思う。

ただし、偶然の前に日米安全保障条約があったことも大きな理由であろうが、本来ならば戦争で解決しなければならないことを、戦争を回避してきたので、血を見ることなくこれたが、それは同時に相手の日本に対する主権侵害を黙認し、相手のされるがままになっていたということでもある。

北方四島の問題、北朝鮮による日本人拉致の問題、尖閣諸島の問題等々、戦争の火種はわれわれの周りには常に転がっていたが、日本はそれらを解決することなく、ただただ先延ばししてきただけで、その理由は、先の戦争でわれわれはPTSDに罹り、同胞の血を見るのが嫌なためだ。

戦後のわれわれは、話し合いで物事を解決することを金科玉条としているが、話し合いで物事が解決できないから戦争になるわけで、戦争を回避するということは、問題の解決をしない、放棄するということである。

いくら主権が侵害されても、武力に訴えてまで解決しようとしなければ、平和であることには違いない。

そういうことが十分わかっているとしても、この沖縄の過去のことを思うと、われわれは「二度と過ちを犯しません」という意味も十分に重く心に響いてくる。

この資料館の展示はすべてが冊子となって販売されていたので、これは後から見るに非常に便利である。

この沖縄平和祈念公園というのは全体的に見て実に立派な墓苑である。

私はここに足を運ぶ前に、アメリカのアーリントン墓地に先に行ったが、あそこはあそこで実に立派で、アメリカ人の愛国心の片鱗を見る思いがしたものであるが、この平和記念公園もそれに劣らず実に見事な施設だと思う。

ただ、勝った側と負けた側では、心の持ちように大きな違いがあることは否めない。

そして広島でも、ここ沖縄でも「二度と過ちは犯したくない」という願いは共通するものであるが、この「過ち」の部分を深く深く考察する必要があると思う。

私が思うには、この「過ち」というのは政治の「過ち」でなければならないと思う。

戦争というのは政治の延長線のことで、日本が太平洋戦争に嵌まり込んだというのは、明らかに政治の失敗であったわけで、政治の失敗という意味では、軍人をのさばらせたという点に起因しているはずだ。

そして、戦後の進歩的な知識人のものの言い方には、戦争のすべての責任を軍人だけに負いかぶせて、昭和初期の文人、教養人、知識人の責任については不問にしている。

「治安維持法があって自由にものが言えなかったから沈黙せざるを得ない」という言い方で、すべての責任を軍人だけに転嫁して、自分は身の潔白を強調しているが、これこそ大きな過ちのひとつだと思う。

戦争、日中戦争から太平洋戦争、沖縄戦から広島、長崎、東京大空襲等々の戦争の惨禍はすでに十分語り継がれているが、われわれの過ちの中で、政治の過ちについては、まだまだ掘り起こさねばならないのではなかろうか。

何故われわれは軍政に等しいような政治を許したのであろう。

大正時代の自由民権運動がどうして昭和の時代になると軍国主義に傾倒してしまったのだろう。

どうしてものが自由に言えない治安維持法が成立したのであろう。

治安維持法は、基本的には過度な思想を取り締まるのが目的であったが、その過度な思想の中には、右翼的思想も左翼的な思想も両方を均等に扱う趣旨であったはずであるが、それが蓋を開けてみると、左翼思想の取り締まりにのみ威力を発揮した。

これは、われわれ日本国民の法・法律に対する感覚・感性の問題だと思う。

今のわれわれでも、憲法9条の存在を見れば、今の自衛隊の存在は明らかに憲法9条から逸脱しているにもかかわらず、それを憲法解釈のみで今日まで来ているわけで、それと同じことが治安維持法でも行われたということだと思う。

自分の国を自分で守るということは、この地球上に生存するあらゆる人間に課せられた自然権だと思うのに、その自然の権利さえ自ら放棄するということは、自然の摂理にさえ反するのに、それを禁じている憲法9条は、占領軍が押し付けたにもかかわらず、その改正に反対し、それを貫こうとする能天気な人々がおり、それに迎合する政治家がいる。

実態と法律の齟齬を是正せず、解釈で切り抜けようという発想が大手を振って罷り通っているわけで、勝った側に押し付けられた憲法さえも、是正をしようとしないのは、われわれ民族自身の責任だと思う。

ということは、もっと担当直入に言えば、われわれは法律というものを自分の都合に合わせ都合のいいように解釈するということである。

で、それは当然、法律を運用する側の意識の問題となるわけで、当局が統治しやすいように、自分勝手に法を解釈して運用するということである。

この部分でわれわれは二度と過ちを犯してはならないと思う。

法律などというものは社会の進化に合わせて、その時代時代に適合するように改正し、その改正された法律には厳正に自らを律するというのが普通の人間のあり方だと思う。

過去のわれわれの過ちというのは、この法律や組織内の暗黙の了解事項となっている手順を無視し、下克上が横行したが故の過ちでなかったかと思う。

人間というのは一人では生きれないわけで、群れでなければ生きていけない。

つまり、人は社会というものを構成しなければたった一人では生けれないのである。

群れで生きるとなれば、当然そこには群れ全体の利益というものが生じてくるわけで、自分の属する群れのために、自己犠牲をするということは、いかなる群れの中でも賞賛されるべき行為だと思う。

沖縄で犠牲になった人たちというのは、すべてそういう人々であったと思う。

そういう人々に対してご冥福を祈るのみである。

この資料館の展望台に登ってみたら、近くに「愛国知租の塔」に類似した半円球の墳墓があったので、そこに行ってみたら、これが韓国人慰霊塔であった。

この碑も立派なものであったが、現在の韓国では非常に反日感情が強いといわれているが、これはいったいどういうことなのであろう。

1910年、明治43年の日韓併合は、日本が朝鮮と戦争をして、日本が朝鮮を占領したわけではない。

日本の軍事力が背景にあったとはいえ、日本と朝鮮は合意の上で外交交渉で併合がなされたわけで、それこそ平和的な話し合いで、血を見ることもなく併合、実質は日本の支配下になったわけである。

他国と戦う勇気を持たない、ということはこういうことな訳である。

血を見ることが怖くて、話し合いでことを解決しよう、ということはこういうことなわけである。

しかし、あの時代の朝鮮の人々の思いというのは実に複雑だと思う。

ぶっちゃけて言えば、強国の国際政治に翻弄されている図でしかない。

明治維新以降の新興日本と、清王朝・中華民国と、はたまたロシア・ソビエット連邦とに三方を囲まれて、自らは蛇ににらまれた蛙のように身動きさえできなくなってしまったわけだ。

そういう状況下で、朝鮮民族の生き方の選択となれば、やはり日本の支配下に入るのが一番ベターな選択ではなかろうか。

被支配者の驕った思考かもしれないが、あの時代の朝鮮民族の選択肢としては、他にどんなものがありえたであろう。

戦後も、在日朝鮮人たちは日本で生きながら差別を問題視するが、差別などというものは人の集団にはついて回るもので、同じ日本人同士でも、同じ朝鮮人同士でも、同じアメリカ人同士でも、大なり小なりはあるもので、そのことを問題視するほうがおかしいと思う。

朝鮮の人々が一時的に日本人として日本のために犠牲になった、ということはわれわれの側としては有り難いと思わなければならないが、そういうことを言うと、それに付け込んでくる点が彼らの卑しさである。

日本民族も、朝鮮民族も、お互いに生きた人間の集合という目で見れば、全員が善人ではないし、全員が悪人でもない。

悪い人もいれば良い人もいるのが普通であって、片面だけを強調するのは公平さを欠くというものである。

昭和の初期の時代に、日本人が中国や朝鮮、台湾で威張り散らしたのも、われわれの同胞のある一部の人間であって、それが全てではなかったはずであるが、事実は事実として認めなければならない。

ただわれわれの同胞が外地で威張り散らしたというのも、当時の日本の雰囲気がそういうこと容認していたわけで、そのことに関しては素直に反省しなければならないと思う。

「われわれは二度と過ちを繰り返しません」という中には、そのことも入れておくべきだと思う。

当時のわが同胞が外地で威張り散らしたのは、ある意味で教養の低さを露呈したということであって、それは無知から来ていると思う。

今、こういうことを言うのは、この広い日本でも私一人だと思うが、それは明治維新の四民平等がそういう現象を露呈させたものと見て間違いないと思う。

江戸時代の封建制度の身分制度の下で、全人口の10%にも満たない武士階級というのはきちんとしたノブレス・オブリージを持っていた。

ところが、それが明治維新で身分制度が否定され、農民、職人、商人たちが、たった一回のペーパーチェックをクリアーすれば高位高官になれるというシステムになったとたん、品性の卑しいものが大挙して政府の要職を占めるようになった所為だと考える。

政府の要職という場合、何も官僚だけを指し示すのではなく、軍人も立派な政府の要人なわけで、四民平等ということに関していえば、徴兵制も立派な四民平等のシステムであったと考えなければならない。

上は陸軍士官学校、または海軍兵学校から、下は徴兵制までそれこそ出自に何のかかわりもなく、ただ年齢に達したというだけで集められた人々は、明らかに玉石混交の烏合の衆の状態だったと考えられる。

そういう人たちが2、3年の訓練を受けて海外に赴任したとすると、周囲の人間は自分たちよりももっともっと惨めな生活をしていたわけで、それを目の当たりにした教養低き、無知蒙昧なわが同胞が、自分たちは進んだ国の人間だ、と思い込むのも当然の成り行きだったと想像する。

そういう意識が根底にあったからこそ、彼らは現地の人々を侮っていたわけで、それは無知のなせる業であった。

そういう意味で、われわれは二度と同じ過ちを繰り返してはならない、と誓うことは大いに結構なことといわなければならない。

この後、そのすぐそばにあった沖縄平和祈念堂にも行ってみたが、ここは中に入るのに金を取ったから入るのはやめてきた。

私は信仰心がないので、あまりにもこれ見よがしのものに出会うと反抗心がでて逆らいたくなる。

それで写真だけ撮って退散したが、こういう施設に修学旅行で来るということはいいことだと思う。

平和教育の一環ということであろうが、そこできっと先生は「こういう悲惨な戦争は二度としてはいけない」と教えるであろう。

それはそれでいいのだが、戦争というものは少数の好戦的な人間が好き勝手にするものだという風に教え込んでいたとしたら、これはまた問題である。

主権国家同士が、話し合いを詰めて詰めて、それでも合意に至らないときに始めて起きるわけで、そのときに安易に相手の言い分の飲んでしまえば、ことは起きないが、ならば我が方の国益はどうなるのか、という点を考えなければならない。

感情論で、「戦争は悲惨だからしないでおきましょう」では、それこそ無知に通じるわけで、こういう無知がわれわれを奈落の底に転がり落としたことを肝に銘じて知らなければならない。

ここを見終わって、そろそろ帰ろうとしたら今度はタクシーがなかなかつかまらなかった。

入り口で花を売っていたおばさんたちに助力を求め、電話番号を教えてもらって、2、3軒かけても、いずれもコンタクトが取れず、仕方なくバスで帰ろうと、バス停で待っていたら、運良く通り合わせた車を拾うことができた。

それで那覇空港まで一気に来てしまったが、さすがに時間があまってしまった。

沖縄は日本の総面積の1%にも満たないが、日本にある米軍基地の75%が集中しているといわれている。

これは沖縄という土地が20世紀から21世紀にかけて負わされた宿命であって、この地勢的な条件というのはナンビトたりともなんとも致し方ないと思う。

沖縄の人が、米軍の出て行くの望んでいることは、心情としては理解できるが、沖縄がこの地にある限りそれはありえないと思う。

沖縄の米軍基地というのは、沖縄の問題というよりも、また日本の問題というよりも、アメリカ自身の国益が直接かかわっているわけで、アメリカ自身の問題である。

最近の技術革新で、読谷村の「像の檻」といわれている無線設備も、その使命を終えて、返却されるかもしれないが、基本的に沖縄のアメリカ軍基地はアメリカの国益に直接かかわっているわけで、いくら沖縄に人が声高に叫んだところで、そう安易には帰らないと思う。

日本の政府もそのことがわかっているので、ある意味で思いやり予算というような形で沖縄には大いに金を掛けている。

沖縄海洋博覧会も沖縄サミットもそういう意味合いがあったものと思わなければならない。沖縄の人々の今後の生き方は、基地との共存共栄の道を模索し、後は徹底的なリゾート地として生き残る道を開拓するほか、生き残る道はないと思う。

 

Minesanの大きい旅小さい旅に戻る