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またまた沖縄に行ってきた。
11月27日の月曜日の朝、あたふたと中部国際国空港に駆けつけた。
昨年、中部国際空港セントレアが開港したけれど、私たちにとってはまことに不便になった。
金も時間も全く無駄になるが、致し方ない。
飛行機はボーイング747−400。今回は家内が張り込んでJクラスという普通のクラスよりも少々奮発したシートであった。
窓の外の景色を楽しみにしていたが、天候が悪くさっぱり見えなかった。
まるでトンネルのなかでケーブルカーに乗っているようなものだ。
せっかく家内が外の景色が見える窓側の席を確保してくれても無駄な努力で終わった。
このJシートというのは、昔の国鉄が1等2等3等とクラス分けしていたのと同じで、エコノミー席とファーストクラスの中間に、昔流にいえば2等の席を作ったようなものだ。
どうしてこういう昔風のクラス分けの呼称がすたれていったのであろう。
戦後の民主教育の中で、こういう階級を象徴するような言葉が排斥されたのであろうが、問題はそういう風潮が時流になると、その時流に便乗する処世の仕方にあると思う。
大戦中に、われわれは敵性用語というわけで、英語の使用を制限したが、それと同じことではないのか。
あの時も、戦時色という時流の中で、敵性用語の英語を遣うことは罷りならぬ、という時流に迎合して、われわれは野球用語までわざわざ無様な日本語を使ったではないか。
公共交通機関であろうとも、金をもっているのは堂々と一等車に乗ればいいと思う。
ファーストクラスに乗ればいいと思う。
また企業も、そういう者からは遠慮なく金を取ればいいと思う。
世間で、民主化教育の中で人々の差別化は罷りならぬ、といったところで、その風潮に迎合する必要はないと思う。
いくら名前を変えたところで差別化していることに変わりはないわけで、1等2等3等をファーストクラス、エグゼクテブ、エコノミー、などと呼び変えても実質は変わらないわけである。
ただ言葉が混乱するだけのことである。
ゲニ、時流というものは実に恐ろしいものだ。
しかし、4万4千フイート、約12000mの飛行高度に達すると雲の上になり、上から下の雲を見るというのはいつ見ても見事な景色だと思う。
雲の上では、太陽の光がさんさんと降り注いでおり、それが雲に反射して実に明るく、孫悟空が金遁雲に乗って飛び回っているような感じがする。
地上では暗雲垂れ込めた薄暗い空模様でも、その雲の上に出てしまえば、それこそOn the Sunny side Streetである。
で、約2時間後には南国の沖縄・那覇空港に着いたわけであるが、この近代的な空港というのは考えて見れば極め機能的にできているわけで、その意味からすると空港の地方色というのは極めて乏しい。
セントレアも沖縄・那覇空港も、大した違いは無いように見えた。
飛行機が止まって、スチュワーデス(今はアテンダントと言うらしい)に誘導されるままに歩いていると、自然と外に出てしまった。
このときちょうど昼飯時であったので腹ごしらえすることになり、適当な店に飛び込んでみたら、そこのメニューに「ソーキそば」というのがあった。
店先のサンプルを見ると肉の塊がドンと丼の中に鎮座していたので、これを食べてみることにした。ソーキというのは豚の骨付き肉のことだ、と店の人が説明してくれた。
で、これを食べてみたが、結構いける。
肉はラーメンのチャーシューに似ていたが、麺のほうはわれわれの感覚からするとちょっと違和感があった。
というのもラーメンとうどんの合いの子といった感じで、違和感は否めない。
到着早々に土地の名物のひとつを体験したわけだ。
腹ごしらえしたところで,本日のホテルに直行ということであったが、これが日航アリビラというもので、そこまではリムジンバスで1時間かかるということだ。
リムジンバスというものだから、どんなに立派なものがくるかと思っていたら、これが名前倒れで、ただの普通の大型観光バスであったのでがっかりした。
しかし、これはただの移動の道具だと思えばさしたる問題はないが、その行った先が昨年泊まったホテルのまん前であった。
まん前といっても、目には見えているが歩けば相当の距離があるに違いない。
何しろ双方ともサトウキビ畑の中で、ホテルのみが高層建築物として屹立しているので、そういう意味で目の前ということである。
昨年来たときは、この間の道中にバスガイドさんがさまざまな説明をしてくれたが、今回はガイドさんの添乗がなく、沈黙のうちに運ばれたが、ものを考えるにはこの方がいい。
道中のメイン・ストリートは内地とさほど変わらないが、その後の移動でも時々目にしたものに、幹線道路の脇にこちらのお墓を散見した。
このお墓というのは明らかに沖縄独特のものだと思う。
その後、タクシーの運転手か誰かに聞いた話だが、こちらでは生きた人間の住宅よりも、お墓に金をかけるといっていたがまさしくそのとおりである。
コンクリートで、家の形そのままの墓で、周りはそれこそトーチカのようにコンクリートで囲まれている。
米軍が上陸したとき、日本兵の隠れ家だと思って銃撃したともいわれているが、確かにそう思われても仕方がないほど立派なものだ。
当地の死生観というのは確かにわれわれ内地のものとは異質だと思う。
昔は、死者が出ると一旦埋葬して、4、5年後にそれを再び掘り起こして、洗骨してから改めて墓に入れると聞いた。
しかし、墓・墓地というのはどこでもここでも好き勝手に作れるものではないと認識しているが、そのあたりの事情はどうなっているのであろう。
バスの窓から見て、あちらにもこちらにも墓が見えるということは、この土地の人は好き勝手に自分の気に入った所に墓を作っているのではないかとさえ思える。
確かにその墓は皆どれを見ても立派だ。
卒塔婆や何の変哲もない石碑とは違う。
先回来たとき、ガイド嬢が、この土地では先祖神を敬っていて、それは仏教や他の宗教とも違うということを言っていたが、だとすると、この地には仏教が伝播しなかったのであろうか。
バスで島内を回ってみてもお寺というのは見なかったような気がするから案外そうかもしれない。
外来の信仰というものがなかったから、必然的に自分たちの先祖・祖先を敬うという形になったのかもしれない。
墓の前では一族郎党が集まって大宴会を催し、その采配は長男の嫁の責務だそうだ。
日本全国、長男の嫁というのは大変だ。
しかし、墓の前で一族郎党が大宴会をするということは、良いことではなかろうか。
それでこそ、墓の中に入っている先祖様も、三途の川の向こう側から、一族郎党が一堂に集まってにぎやかに宴会しているのを眺めてきっと大喜びしているに違いない。
バスは1時間ほどでホテルに着いたが、去年のホテルも今回のホテルも、どういうわけかサトウキビ畑の真ん中にある。
畑の真ん中といっても一方は海で、その海は遠浅の海岸になっている。
サトウキビ畑というと、どういうわけかサワワサワワという歌が思い出されて、まさしくあのオトマトベはサトウキビ畑の実感を髣髴させる。
しかし、子供のころあのサトウキビというのはよくかじったものだ。
10cmか15cmに切ったものを口で表皮をはがし、中の繊維質の部分を噛むと、甘い汁が口の中に広がったものだ。
噛んだ繊維質の部分はあたりに吐き出しては、お菓子のない時代のおやつ代わりにしたものだ。
ホテルには14時半ごろに着いてしまい、そうそうにチェックインしてしまったが、午後の時間を如何につぶすかが当面の問題となった。
自転車を借りてサイクリングするか、それともレンタカーで周辺を回るか、タクシーでその辺りに出てみるか、散々迷ったが、結局のところタクシーで近場を回ることにした。
それで早速ホテルの前からタクシーに乗り込んで残波岬に行った。
去年来たときも小雨模様の天候で、ここの灯台の上までは行かなかったので今回は是非とも灯台の上に登ってみたいと思っていたが、運悪く補修工事のため灯台の中に入ることさえできなかった。
今、日本の灯台には灯台守がいない、と先日テレビで放送していたが、GPSがこれほど普及すれば、もう灯台も不要かもしれない。
しかし、その一方で海難事故というのは多発しているように見える。
つい先日も、海上自衛隊の潜水艦と貨物船が接触事故を起こしたと報道されたが、あの広い海、そして空でも、結構事故というのは起きているようだ。
灯台に灯台守がいようといまいと事故は起きるときには起きるのであろう。
灯台というのも、ある意味では社会的なインフラに当たるわけで、いくらインフラ整備が完備しても、それを利用するのはあくまでも人間なわけで、ヒューマンエラーというのは絶滅できないのであろう。
昨年来たときは、この辺りを歩き回ったんで、それをタクシーの窓から見るのも何だか不思議な気がする。
ガイド役を買って出たタクシーの運転手が、夫婦そろって写真に収めてくれた。
灯台に上がれなければ、この岬も意味がないわけで、次は焼き物の里、やむちんの里に行った。
私はまことに不調法者で、こういうものには一切興味がない。
焼き物だろうが陶器だろうがガラスであろうが、器以外の認識がない。
水さえ漏らなければなんでもいいという感じである。
最近は日本も豊かになったので、陶器だとかガラスに凝って、薀蓄を傾けることが教養とでもいうような傾向があるが、私に言わしめればチャンチャラおかしい。
昔から、陶器や瀬戸物の茶碗などが文化財とされているが、そんなことは知的センズリ、知的マスタベーション以外の何ものでもないと思っている。
個人的にはそういう思いでいるが、家内は結構こういうものが好きだし、周りの人間にもこういうことに薀蓄を傾けて悦に入っているものがいるので、こちらも同じ話題にでもなれば、と思って行ってみた。
運転手に言われるまま、その辺りを歩いてみると、瀬戸の商店街から一歩山の中に入ったような感じで、さほど驚くような光景ではなかった。
家の中の轆轤のある光景、庭先に並べた日干しの生地、釉薬をかける前の生乾きの器の並んだ光景というのは、われわれ瀬戸の近くに生きている人間にとってはさほど珍しいものではない。
あの雑然として光景は、陶磁器を扱う集落ではどこも似たり寄ったりの光景である。
出来上がったものが名品かどうかは私には何の感慨もない。
そのそばにはガラス工房があって、ここでもガラス製品を作っていたが、ガラスだとて、茶碗とまったく同じで、そんなものの良さというのは私にはまったくわからない。
まさしく、猫に小判、馬の耳に念仏の類でしかない。
しかし、ここでは登り窯というものの本物の姿を見た。
本物の姿といったところで特別に感慨にふけるような代物ではないが、登り窯という言葉はよく聞くが、そのイメージが沸かなかったので、それが納得できたという程度のことである。
私の関心は、出来てくる作品よりも、それを作る過程での資源の消費のほうに視線が向いてしまう。
瀬戸物、陶器、ガラス作品を作る過程での燃料に注目してみると、登り窯の炊口には膨大な材木が積み上げていた。
ガラスを溶かす炉の前には、燃料のドラム缶が何本も放置してあった。
出来上がった作品、いびつな形のものや、色もわけのわからないものを眺め、良いの悪いの、としたり顔で薀蓄を傾けているとき、それが出来るまでの過程で、如何に資源を浪費しているか、考えたことがあるのであろうか。
燃料の材木だとて、作品を鑑賞する側からすれば、きっと「あの木は駄目だ、この木でなければ」などと、それこそ愚にもつかない薀蓄が競われているに違いないと思う。
私は出来上がった作品の優劣よりも、この炉の前におかれた材木の山に心を痛めずにおれない。
ならば電気釜が焼けばいいかとなれば、これも大いに問題があるわけで、確かに目の前にある状況では材木の浪費ということは目に見えないが、どこかで火力発電か原子力発電で電気を作っているわけで、資源の浪費という意味ではなんら変わるものではない。
問題は、こういう資源を無駄使いした挙句に出来上がったものに芸術性を求めて、それを文化とか、文明とか、教養と称すること自体が人間の驕りであり、知的マスタベーションであって、自然を冒涜し、破壊しているという自覚があるかどうかの問題だと思う。
確かに何万年も前に人間が作った茶碗が出てくれば、それは人間の成長の記録として貴重な存在であろうが、今どきの日本では、瀬戸から多治見、常滑から九州伊万里、沖縄、押しなべて全国各地で土を掘っては捏ね繰り、燃料として材木や化石燃料を燃やし、あるいは電気を使い続けて、それが芸術だとか文化だとか、チャンチャラ可笑しいではないか。
時代の時流に逆行しているではないか。
こんな馬鹿な話があるものか。
愚痴はそれくらいにして、この辺りの光景はまさしく瀬戸の町を一歩裏通りに入った感じと酷似しているので、さほどの感慨というものはなかった。
ま、そんなわけで、この周辺をしばらくぶらついて帰る段になって、次は座喜味城跡に行った。
最初は歩いていくつもりでのこのこと歩きかけたが、そんなに甘くはなく、とても歩ける距離ではないと悟り、再びタクシーを利用することになった。
しばらく歩いたところにコンビニがあったので、そこの店先のベンチでタクシーを待ったが、タクシーに乗ればまことに他愛ない距離であった。
今回は翌日にも今帰仁城跡に行って、二度も古い城を回ることになったが、沖縄の古城というのはわれわれ、内地の人間の思い描いている認識とは少々異なっている。
タクシーを降りたところが公園のようになっていて、奥のほうに緩やかな上り坂になっており、その左側には妙な小屋があった。
かやぶきの屋根に柱だけが6本あり床は高床式になっていた。
その前には「高倉」として説明文があったが、写真を撮るのに夢中で、そんなものをゆっくり読む暇はなかった。
インターネットで調べてみると次のような記述になっていた。
「稲の貯蔵施設として、沖縄のいたるところの稲作農家に高倉がありましたが、今は、ほとんど見ることがありません。
名護市では、ここ我部祖河と名護博物館にだけ見ることができる貴重な民俗文化財です。
高倉は、穀物を貯蔵するための倉で、通風をよくし、湿気などを防ぐために床を思いきり高く上げ、ねずみの害から守るための工夫もされています。
構造は、木造の茅ぶきが多く、建物の大きさに応じて支え柱(径20〜30cm)を 4本、 6本、 9本などと配列し、豪農になると16本柱の大倉もあったといいます。
我部祖河の高倉は、床が地上2mくらいの位置に厚さ 7cmの板で頑丈に敷きつめ、壁は山原竹で編んだチヌブでもって約45度外側に傾斜してはりつけられています。
梯子は12cm程度の角材に段刻りした一本造りで、穀物をねずみの害から防ぐため利用する以外は取り除けるようになっています。
稲作農家では、ほとんど各戸に高倉がありましたが、土地共有制の頃には屋敷の狭さや災害保護策などもあって、村の一ヶ所に集中的に建っていたところもあったそうです。
そこを群倉(ぶりぐら)と呼びました。
この我部祖河の高倉は、香川県出土の銅鐸に描かれた高倉と同形であり、その形様は農民の基盤的な生活文化の特色を示す典型的なものです。」
同じようなものは犬山のリトルワールドにもあるので、南洋系の農業にはつき物のようだ。
そこを通過してなおも奥に進むと、石積み城壁があり、正面に城門があった。
沖縄の城の特徴は堀がないことであろう。
江戸城、名古屋城のように平野に築かれているわけではないので無理もないことかもしれないが、それにしても岐阜城ともかなり趣が違う。
沖縄の城跡にはその上の建造物がないので余計に違和感があるのかもしれない。
それと、その石垣がサンゴ礁系の石灰岩でできている所為かも知れない。
実に荒っぽい出来上がりで歩きにくくできている。
そして、小さな山の尾根に出来ているので、眺望はそれなりにすばらしいが、そこから城跡を見るとまるで万里の長城のような形に見える。
外敵を防ぐためであろうと思われるが入り口はたったの一箇所のみである。
天守閣と思しきものがあった、と思われる平地を囲んでさらに石積みの回廊ができていたが、そのわずかな空間に国土地理院の一等三角点の印があった。
この三角点は、翌日に行った今帰仁城にもあった。
一等三角点は二十センチ四方の石柱の中心に+の記号が記されていた。
それを取り囲むような形で、同じような石柱が4隅に4本立てられていた。
インターネットからこの城のいわれを検索し、その詳細を借用すると、次のようになっていた。
「15世紀のはじめに護佐丸により築城されたと言われ、切石積みで造られている連郭式の城で、アーチ型の石門としては、最古の物かとも言われています。
15、6世紀の中国陶器も出土しているので、護佐丸が1440年に中城城に移った後も、使用されていたと思われます。
第二次大戦の時には日本軍の高射砲基地が置かれ、戦後は一時アメリカ軍のレーダー基地になったりもしていました。
そして、1982年に現在のような形に修復されたということです。」
と言うことだそうだ。
ここを見終わった時点で、もうホテルに帰ってもいい時刻になったので、そのまま直行したが、ホテルについてみると庭一面にクリスマスのイルミネーションが点灯しており、実にきれいな光景であった。
そのイルミネーションの中を散策して、夕食をなんにするか散々迷ったが、ここは日本旅館と違って浴衣やスリッパで館内を歩き回ることができないので、それが億劫に感じていた。
それで、よくアメリカ映画に出てくるルームサービスをとることにした。
ところが、このルームサービスというのもサービスの関係上だろうと思うが、メニューが限られていた。
当然といえば当然なのかもしれない。
何品もある豪華な料理は出前することが出来ないわけで、出前のできる料理となれば、ある程度制限せざるを得ない。
でも、アメリカ映画の主人公になったつもりで出前を取り、それをテラスに持ち出して、南国の潮風に吹かれながら食した。
ビールは館内のコンビニで買ってきたものを飲み、これはこれで極めてゴージャスな気分に浸れた。
このテラスからは昨年泊まった残波岬ロイヤルホテルのロゴが前面に見えて、その左手には灯台の光が規則正しく光っていた。