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今日(平成18年8月15日)は終戦から61回目の終戦記念日である。
この終戦記念日という言い方も本当はおかしい言い方だと思う。
本来ならば敗戦記念日といわなければいけないのではないかと思う。
この日、つまり平成18年8月15日の早朝、小泉純一郎内閣総理大臣は靖国神社に公式参詣された。
これは総裁選のときの公約であって、彼は内閣総理大臣に立候補したとき、このことを公約していたわけで、それを当たり前に実施したに過ぎない。
民主主義体制の主権国家では、為政者として名乗りを上げる人は、国民に対して「私はこういう公約をいたします」ということを表明して、国民の側はそういう立候補者に国政を負託するというシステムになっている。
だから、その立候補者が総理大臣に選出されたからには、彼の公約は守ってもらわなければ、民主主義体制の意味がないわけで、小泉純一郎が靖国神社に参詣するということは、彼は自分の公約を実践したにすぎない。
彼は思いつきで靖国神社に行ったり行かなかったりしているわけではない。
とは言うものの、他所の国が彼の行為に対してああでもないこうでもないと干渉がましいことを言ってくるので、その雑音をかわす手前、多少日程をずらすことはあっても、彼は公約を健気に守ろうと努めたわけである。
このことは一国の首脳として決して悪いことでもなければ、後ろ指をさされるべきことでもなく、至極当然のことを行ったまでである。
一国のリーダーとして、当然過ぎるほど当然のことで、そのことを問題視する側がよほどいびつな感情に支配されている。
この日、つまり平成18年8月15日の7時41分に小泉首相が正装して靖国神社に参詣したら、日本のメデイアは、それこそ蜂の巣をつついたような大騒ぎ演じていたが、これは一体どういうことなのであろう。
自分たちの国の首相が、国民に対してあらかじめ公約していたことを実施することが、それほどのニュース・バリューを生み出すほど価値のある奇異なことなのであろうか。
公約というものは守られないのが当たり前で、守るとそれがニュースになるということであろうか。
人が当たり前のことをして、それがニュースになるということは一体どういうことなのであろう。
メデイア論の初歩の初歩に、「犬が人を噛んでもニュースではないが、人が犬を噛めばニュースだ」という話があるが、自分たちの国の首相が靖国神社に参詣すると、人が犬を噛むほどの珍しいニュース性がそこに存在しているのであろうか。
私は愛国心を大上段から振りかざす気はないが、自分の国の最高責任者が、自分たちの祖国のために闘った先輩諸氏の御霊を慰霊することが、人が犬を噛むほど珍奇な事件だと思い込む同胞の感性のほうがよほど問題が大きいと思う。
この日の前日(8月14日)に起きた東京の大停電は、それこそニュースの中のニュースであるが、自分の国の首相が、祖国の戦没者の慰霊に行ったことをこれほど大きく報道するということは、報道としてのニュースというよりも、中国と韓国に向けたリップ・サービスではないかと思う。
同胞に、ニュースを提供するという枠を超えて、中華人民共和国と大韓民国に向けて、「日本の首相があなた方の神経を逆なでしているから、あなた方はもっともっと抗議をしなさいよ」と、彼らの国益に貢献しているのではなかろうか。
私もこの世に生を受けて66年も徒食していると、相当にいじけたものの見方になってしまったので、そのついで言うとすると、この世の戦争というのは、その全てがメデイアが原因で起きているのではなかろうか。
この世からメデイアというものを消滅させたとしたら人間同士のいさかいというのは一掃できるのではなかろうか。
この地球上にAという民族と、Bという民族、そしてC、D、E、Fその他さまざまな民族がいたとしたとして、仮にAという民族が飢饉に見舞われて、Bという民族の領地に入ってきたとしても、そこにメデイアというものがなかったとしたら
、Aも、Bも、はたまたC、D、E、Fという人々も何も悩むことなく済んでしまうわけである。
この世にメデイアなるものがあるから、人々は要らぬ心配を背負い込み、悩み、同情し、利己主義に陥り、いらぬ干渉をして問題より深くこじらせてしまうのではなかろうか。
それは全てメデイアがあるからであって、人間がメデイアとしての情報伝達の手段というものを持っていなかったとしたら、人間同士のいさかいは決して起きなかったに違いない。
メデイアつまり情報と言うものは我欲を促進する効用があるから、それがいさかいを引き起こすのではないかと想像する。
61年前の戦争も、われわれは軍人に煽られて軍国主義者という型にはめられたと一般的には思われているが、われわれは軍人に煽られたのではなく、軍人の言を鼓舞宣伝に努めたメデイアに煽られていたのである。
ここのところをしっかりと認識しないと、またまた違った価値観の衝突がおき、それをまたまたメデイアが増幅して、とんでもない禍根を残しかねない。
われわれはメデイアというものをよくよく注意して監視しなければいけない。
一般の人々というのは実にメデイアに弱く、新聞やテレビの報道していることは正しいものだと信じきっているが、ここが一番肝心なところである。
61年前のわれわれもそう思い込んで、新聞やラジオの報ずることを頭から信じ込み、そうしなければ国民として申し訳ない、というマインド・コントロールに自らはまり込んでいったのである。
本日、平成18年8月15日の朝のNHKテレビでも、小泉首相の靖国神社参詣のニュースを、昨日の停電のように報じていたが、そこには「ニュースとはいかなるものか」という考察は最初から抜け落ちているわけで、ニュースに対する考察が最初から抜け落ちているが故に、そのことが諸外国の国益に貢献して、祖国の足を引っ張っていることにまったく気がついていない。
一国の首相ともなれば一日24時間あらゆる行動がニュースのネタになるわけだが、その数々あるニュース・ネタの中でも、靖国神社に参詣したニュースのみを特筆に大きなニュースとして取り上げるということは、明らかに中華人民共和国と韓国に対するサービスとしか取れないではないか。
一国の首相の、ある一日の行動の一環としてのニュースであるとしたら、もっと小さく扱かってもいいはずで、それをあれだけ大きく報道するということは、中国や韓国に、日本をもっともっと叩いてください、小泉純一郎ともっともっと叩いてくだい、日本からもっともっと金をふんだくってください、と相手に言っているのと同じことではないか。
ニュースを追いかける記者に、国益とか外交を念頭に入れて行動せよといっても、どだい無理なことは承知しているが、だとすれがメデイアそのものを最初から無視するほかない。
私は基本的にNHKのファンであって、日本のテレビ局はNHK一社あればそれで十分だと思っているほうであるが、このNHKですら、およそ日本の国益を無視し、他国の利益に貢献しようとしている風に見えてないならない。
日本のための報道ではなく、中華人民共和国や大韓民国へ向けての報道ではないかと疑いたくなることがある。
例えば、小泉首相の靖国参詣問題を討論する番組に、何ゆえに外国人のゲスト、特に中国人や韓国人のゲストを入れるのか、という点だけ考えてもはなはだ矛盾に満ちていると思う。
また、日本の安全保障の問題を論ずるときにも、何故に中国人や韓国人をゲストとして招き入れるのか、はなはだ不可解だと思う。
私は特別なナショナリストであるつもりはないが、自分の国の問題なのに、何故に外国人の意見を求めるのか、という馬鹿らしさである。
アメリカの真似だとしたらこれほどの不見識もないわけで、アメリカ人は姿かたちは違っていてもみなアメリカ人であるが、そのことと主権国家の主権に関することを外国人に語らせる愚鈍さというのは一体どこから来ているのであろう。
この問題は、NHKの内部で、番組を企画する人間に、国際感覚が欠如しているということを如実に現しているわけで、国際感覚の欠如ということは、自分の祖国という認識も最初から持ち合わせていないことを示しており、何でもかんでも外国人を入れれば、それが国際的だと思い違いをしているということである。
小泉首相が靖国神社に参詣することに対して、外国人に意見を求むるとすれば、元の西洋列強諸国の人ならば、「それは日本の国内の問題だ!」といって深入りしてこないが、中華人民共和国や大韓民国の人に意見を聞けば、「軍国主義の復活であり、先の戦争の反省が足りない、よって金を出せ!!」という論法になるのは火を見るより明らかではないか。
意見を求められる先方の人々は、国益、自分の祖国の利益を代弁するにやぶさかではないが、われわれの側は、自分の祖国の利益を先方に分け与えることにのみ専念して、もっぱら先様のご機嫌取りに終始するわけである。
東西冷戦が終焉したとき、アジアではアジアの多様性が盛んに語られた。
このことの真意は、それぞれの民族の民族性というものは今後とも是正されることは全くありませんよ、ということの確認でなければならなかったはずである。
それをわれわれは「お互いに仲良くしましょう」というサインと間違えているが、われわれが中国や韓国とで仲良くできるわけがないではないか。
それは過去の歴史が歴然と示しているではないか。
お互いに武力を使うことなく話し合いで仲良くやりましょうと言うのは、日本の平和ボケの人士の絵空事で、現実問題として話し合いでことが解決したことがないではないか。
一時的に解決したと思ってもすぐまた掘り返されて、元の木阿弥に戻ってしまっているではないか。基本的に中国人や韓国人を信用すること自体が間違っている。
これはれっきとした人種差別であるが、現実に先方はそれをしているわけで、ならばこちらも現実的な手法でそれに対応しなければならない。
口先の当たり障りのない奇麗事では済まないということをもうそろそろ悟らなければならない。
日本で一番まともそうなNHKでさえも、中国に媚びるような報道のしかたをとるということは、まことに由々しき問題だと思う。
自分の国の首相が、祖国の英霊に参詣することを、何か悪いことでもしているようなニュアンスで報道しておいて、そのニュースが終わるや否や、高校野球の実況である。
これっていったいどうなっているのであろう。
われわれは戦後61年間も戦争というものに直接かかわることがなかったゆえの平和ボケというものであろうか。
小泉首相は首相になるときに公約として靖国神社に参詣して戦没者に慰霊の気持ちを表明するということを表明していたので、その当然のことを当然のこととして行ったに過ぎないわけだが、それをこういう風に大々的に報道するということは、中華人民共和国や大韓民国に抗議の場を与えてやったようなもので、これらの国々にサービスしてやったようなものである。
問題はここにある。
日本首相が、日本の戦没者の慰霊に参詣すると、それが中国と韓国の外交カードになるという不可思議である。
これに日本のメデイアが手を貸しているわけである。
日本の首相が、日本の戦没者の慰霊に参詣したとしても、日本のメデイアが大騒ぎをせず、小さく事実のみを目立たなく控えめ目に報道しさえすれば、こういう国々もそれで以って外交カードにするようなことはできないはずである。
ところが日本のメデイアが大騒ぎをして、自民党の中の異論から、公明党から民社党の意見、著名な評論家の意見など、全て小泉首相の行為を批判するものだから、先方にしてみれば日本国内でもこれほど反対があるのならば、中国の言い分にも整合性があるではないか、という論法になるのは当然のことである。
日本の中の反対意見が、中国や韓国の外交カードとして極めて有効な手段となりうるわけで、ということは、日本の外交を阻害しているのは、日本の政府首脳というよりも、日本のメデイアに大きな責任があるということである。
だからこそ、冒頭に述べたように、メデイアというものは相当に注意を払って監視しなければならないわけで、メデイアを野放しにするということは、大きな禍根を残すことになる。
61年前の戦争でも、われわれはあの軍国主義を軍人から強要されたという認識に陥りがちであるが、もっともっと精密に観察すれば、われわれはメデイアに踊らされていたわけで、メデイアというのはその時々の時代状況によって形態が違うので、われわれはついつい見落としがちであるが、基本的にはメデイアに踊らされていたことに気がつかなければならない。
メデイアといえば今日ではテレビがその筆頭に来て、その周りにさまざまなIT機器が取り巻いているが、61年前のメデイアといえばそれは当然新聞と雑誌とわずかばかりのラジオでしかなかった。
その中でも普通の市民と密接な関係にあったのが新聞だと思う。
あの戦争を振り返って眺めてみると、われわれ日本人というのは実に単純な思考しか持ち合わせていなかったように思えてならない。
われわれの民族は、民族の特質としてものの考え方が極めて単純ということは、われわれの民族の置かれた地勢的な影響が大いに関係していると推察せざるを得ない。
われわれは太平洋の東に浮かぶ小さな4つの島の住人というわけで、異民族との接触には極めて不慣れであった。
せいぜい元寇の乱でモンゴルの兵隊と接触した程度で、他民族との接触ということにはきわめて不慣れであった。
そういう環境の下で、いきなり日清・日露の戦いで勝者の側に身を置いてみたとき、他民族、異民族の扱いに不慣れであったばかりに、いらぬ警戒心を相手に抱かせてしまった。
それが、昭和初期に中国に地で起きた排日・反日感情というものであろうと推察する。
自分達とは違う人々が、この世には他にいくらでもいる、という認識に欠けていたので、人の形をしたものを見れば、われわれ同胞と同じように見えたわけで、ならばそういう人たちはわれわれと同じように扱わなければいけないのではないかという発想にいたったのである。
ところが、このことは先方にしてみれば、日ごろ野蛮人と考えていたものが対等の立場で対応してくることなど迷惑な話であったわけで、今までどおりの関係を維持したいと思っていたものを、われわれの側の勝手な思い込みで、自分たちと同じようにすれば相手も喜ぶであろうと、勝手に思い込み、それを良かれと思って実践してしまったので、それが排日感情になり反日感情になってしまったものと推察する。
この意識のずれが反日感情として今にいたるまで根付いたものと推察する。
ここでもその意識のずれを増幅させたのは言うまでもなくメデイアであったわけで、異民族と異民族の接する線はあくまでも前線・フロントなわけであって、後背地はそういう接触から隔離されているのは理の当然である。
その前線の情報を後背地に伝えるのはいうまでもなくメデイアであって、そのメデイアが客観的な事実だけを事務的に報ずるだけならば意識のずれが問題化することもないが、そこに多少とも誇張が入ると、意識のずれの幅はだんだん大きくなるわけで、それが敵対意識、対抗意識となるのもむべなるかなである。
言葉というものはまことの便利であると同時に厄介でもあるわけで、8月15日でも、実質は日本の敗戦記念日のはずなのに、実際は終戦記念日と言い変えている。
「敗戦」ではあまりにも実直すぎて実も蓋もない言い方だが、「終戦」といえば、勝った負けたは二の次になって戦いが終わったことが強調される。
ここが言葉の摩訶不思議なところで、実際は、日本は完璧に負けたわけで、真実を強調するならば「敗戦記念日」でなければならないが、我々は「終戦記念日」と言い習わしている。
ことほど左様に言葉というのはどういう風にも言い換えられるわけで、小泉首相が「祖国のために命を落とした人の霊を弔い、二度とこういうことをしないように誓った」と、いくら言葉で言い、態度で示しても、それを故意に曲解しようと思えば、「先の戦争を省みず、再び軍国主義で以ってアジアを席巻する意思の表明だ」と言い切ることも可能なわけである。
こちらの言い分と裏腹に、先方の言い分にいくら異議を唱え、言い方を変え、曲解を解こうと努力しても、先方がそれを信じない限り、何一つ元にもどらないわけで、話は平行線をたどるのみで水掛け論に終わり、解決には至らない。
自分の意思を一方的に押し通し、こちらの言い分を全く聞こうとしない態度というのは、中国人の昔から変わらない民族的特質で、そういう状況を打ち破ろうとすれば、頭ごなしに高圧的に出るほかなく、それがお互いの相互不信の原因でもある。
そこには、お互いに話し合って妥協点を見つけ出そう、という発想は最初から存在していないわけで、先方にしてみれば「駄目もと」という発想だろうと思う。
言って相手が聞けば儲けもので、聞かなくてももともとだという思考だろうと推察する。
われわれは戦争というとすぐに武力行使のことを連想するが、相手は言葉でもすでに戦争を仕掛けてきているわけで、この中国人の言葉による戦争というのは実にすさまじいものがある。
最近、平成18年の夏に、中国国民党の蒋介石の日記というものが公開されたが、蒋介石というのは対日戦を世界戦争に導く腹でいたことが証明されたと報じられている。
そして、これも少し前に明らかになったことであるが、中国共産党の毛沢東も、日本をして中国国民党と戦わせて、双方の弱ることを期待し、「漁夫の利」を狙っていたということが表明されている。
この二つの事を考え合わせて見ると、われわれは中国を侵略したのではなく、蒋介石と毛沢東に嵌められて、中国戦線に引き込まれたということがいえる。
こうなると例の東京裁判史観と言うものは根底から覆されることになるわけで、日本が中国を「侵略した」と言うことが、「侵略させられた」と言い換えなければならないことになる。
侵略という行為が、日本の積極的な意思でもって行われた行為から、中国国民党と中国共産党の罠に嵌められた受動的な行為とみなされ、意思の存立の立脚点が逆転してしまうことになる。
それにしても蒋介石の手腕というのは実に見上げたものだと思う。
日本が同盟を組もうとしていたドイツからでさえ、軍事援助を引き出していたという、そのしたたかさには大いに驚かざるを得ない。
それに引き換えわれわれのアホさ加減というのはまさしく噴飯モノである。
19世紀には西洋列強に国土を蚕食されながら、その相手と手を組んで、日本を叩こうなどというスケールの大きな発想は、われわれにはありえない発想である。
あの第2次世界大戦を眺めてみれば、結果的に、われわれは中国に嵌まり込んで、そこから足を抜くことができないうちに西洋列強との大決戦に引き込まれたという感じがする。
国と国、特に主権国家同士の国益の獲得競争で、武力でそれをするのは考えてみれば一番幼稚で能のない方法であろう。
最も良い方法は、口先で先方の国益を削ぎ、それを自国に引き込むことであろう。
日本がドイツと手を組もうかどうしようかというときに、蒋介石はすでに日本の提携先のドイツから軍事援助を受け、それで日本に対して戦っていたわけで、これでは日本はまるで馬鹿みたいなものではないか。
われわれの相手を見る目の無さというものをどう考えたらいいのであろう。
まるで外交音痴そのものではないか。
この外交音痴が今でも連綿と生きているわけで「中国や韓国がうるさく言うから首相は靖国神社の参拝をやめよ」という論理は、その最たるものである。
相手の恫喝に素直に屈するということは、その場は取り繕うことができても、それは一回で終わるわけではなく、最初の恫喝が成功すれば、次々に同じことを繰り返されるというのが生きた人間の普遍的な行いである。
中国は19世紀に西洋列強から「眠れる獅子」などといわれて相当に馬鹿にされていたが、西洋列強の側から見てみれば、中国がいくら頑張ったところで西洋を凌駕する心配はまったくないから、その分、安心して中国に援助ができたわけである。
ところが、これが日本となると、そうは行かないわけで、西洋列強も大いに警戒せざるを得なかったのである。
それというのも、日清・日露の戦争に勝利した、というところにその原因があったと推察する。
この二つの戦争は、西洋人がどう考えても日本に勝ち目はなかったわけで、その意味で、日本の勝利というのは、それまでの西洋の常識を根底から覆したわけである。
ところが、中国と韓国には、西洋を凌駕するような恐れはまったくなかったので、西洋列強も中国の地で日本が暴れまくっていれば、中国に対する同情よりも、日本を恨む気持ちが強く作用し、中国に梃入れする気にもなったのであろう。
弱きを助け、強きをくじく、任侠の、いやある種のノブレス・オブリージであったかもしれない。
俗っぽい言い方をすれば、恩を売っておいて、後から何がしかの見返りにありつこう、という魂胆であったものと推察する。
だから、あの当時の西洋人の感覚からすれば、中国人は日本人とおなじ黄色人種でも、まったく人畜無害であったが、日本人はそうではなったわけで、日本人だけはあの4つの島に閉じ込めておかなければならないと考えたとしてもなんら不思議ではない。
その意味からすると、蒋介石は西洋人の潜在意識に上手に自分を売りこむことに成功したわけで、あの中国大陸に共産主義というものが蔓延しなかったとすれば、彼は中国の新しい帝王にもなりえた可能性がある。
西洋人、特に20世紀のヨーロッパ系、アングロサクソン系の白人には、日本に対する敵愾心は相当に強くあったわけで、これは歴然とした差別意識であるが、不思議なことにその差別意識は中国人や朝鮮人に向けられていない。
ということは、彼らにとって中国人や韓国人は少しも怖くはないが、日本人は怖いので、その分警戒心も強く差別意識も顕著に現れていたのである。
第2次世界大戦が終わった後で、アジアを開放したのは結果として日本であったわけで、その意味で西洋人が日本を恐れた彼らの認識は間違っていなかったのである。
戦後61年もたって、今のわれわれもあの戦争に思いをはせて、二度とああいう戦争を起こしてはならないと声高に叫んでいるが、あの時代に、この地球上に共産主義というものがなかったとしたら、われわれはもっともっと平和に暮らしていたに違いない。
われわれがあの戦争を自存自衛の戦争であったと言うとき、その言葉の裏には、「共産主義の脅威からの脱出」という意味のあることを忘れてはならないと思う。
あの時代の大きな流れとして、われわれが中国に地の踏み込んでいったのは、一般的にロシア、つまりソビエット連邦に対する恐れからといわれているが、そのことは共産主義に対する恐怖であったはずである。
ところが、共産主義者というのは特別な格好をしているわけではなく、他に目印があるわけでもなく、彼らの戦法は、昔も今も、一般人と同じ格好をしてテロをするわけで、攻める側いや守る側というべきか、としてはどれが敵でどれがそうでないか皆目わからないわけである。
それに対応しようとすると結局のところ掃討作戦で全員の殲滅という方法にならざるを得なかった。
ハーグの陸戦規定では、正規軍の軍服を着ていれば陸戦規定が該当し、捕虜は捕虜としての権利が主張できるが、そうでない場合は何をされても裁く方法がなかったわけである。
ところが共産主義革命と言うのはあくまでもテロの延長線上のことで、テロに対する対応は最初からハーグ陸戦規定には抵触しないわけで、共産主義革命に対応しようとすれば、それは最初から虐殺がついて回ると言うことである。
昭和初期の中国と言うのは中国国民党政府軍と、中国共産党八路軍と、日本陸軍が3つ巴になっていたわけで、この状況を善悪、正義、不正義、良し悪しで論ずることは基本的に成り立たない話だと思う。
あるのは殺すか殺されるかの現実しかなかったわけである。
ところが、これも中国側の見解によれば、自分たちの不具合なところは棚に上げて、相手の非ばかり声高に叫ぶので、事情のわからない人はそれを信じてしまうわけである。
蒋介石はこれが上手であったわけで、自分たちがルール違反をしておきながら、その結果だけを声高にアピールして相手の非を突くわけである。
結果的にそれを聞いた第3者は、目の前の現実を直視し、その結果から判断し、日本は非常に残酷な民族だというイメージを抱くようになるわけである。
中国人の特質としての、自分の言いたい事を声高に大声で叫んで、世間がそれを真摯に受け取ろうがとるまいがそんなことは意に介さず、一方的に言いまくるという行為はわれわれにはできないことである。
われわれには謙譲の美徳というものがあって、こういう一方的な言い分は、非常に下品であり、下衆の行為だ、という認識が普遍的にあり、そういう行為を蔑む美意識、価値観がある。
第2次世界大戦が終わって61年も経過したが、その間の中国本土内では日本が侵略し、残虐なことをした以上に残虐な行為が国内で行われていたに違いない。
国共内戦、北伐、長征、大躍進、文化大革命等々のことは煎じ詰めれば中国人同士の殺し合いに過ぎない。
しかし、そういう自分たちの臭い部分には見事に蓋をして、日本がしたということだけをことさら国際社会に大きくクローズ・アップさせるなどということは、われわれの潜在意識からはありえないことである。
それを突き詰めれば、本当に人命が大事であったわけではなく、自分たちが自分たちの同胞を殺す分にはなんら問題はないが、同じことを異邦人としての日本がすると、彼らの潜在意識を強烈に侮辱したと受け取るのである。
19世紀から20世紀の地球上で、この緑の地球を思うがままにコントロールしていたのは基本的に西洋列強、いわゆるアングロサクソン系の白人たちであったことは誰も否定の仕様がなかったと思う。
そういう状況下で、本来ならば黄色人種としてのアジアは、その西洋列強のくびきからの脱出を図らねばならなかったと思う。
こう考えたとき、その主役は当然アジアで一番大きな国・中国がその任にあたるのが妥当だと思う。ところが、その当時の中国というのは、それこそ国家統一がなされているかどうかもきわめて不確実な状況であったわけで、仮に清という国があり、それが中華民国に変ったとしても、国家統一という点からそれが統一国家であるかどうかという点では極めて曖昧な存在であった。
そういう状況であるにもかかわらず、世界に向けて日本の非を大声で吹聴したものだから、西洋列強は、同じ黄色人種であるにもかかわらず、中国人よりも日本人に警戒感を持ったわけである。
先にも述べたように、西洋人が日本に対して警戒感を持つに至ったということは、二つの戦役の勝利ということであったわけで、あのわれわれの実績から見て、将来は中国よりも日本のほうが怖いと、西洋人は考えたものと思う。
だとしたら、ここで本来ならば中国がアジアの開放という行為に出なければおかしいわけであるが、当時の中国には、そういう気持ちは毛頭なかったわけである。
なんとなれば、中国そのものが大宇宙であったのだから、その他のことは全て「化外の地」であったわけで、関心がなかったのである。
その前に、中国そのものが統一国家の体をなしていなかったにもかかわらず、後世の歴史家も、当時の中国の為政者も、あたかもきちんとした統一国家であったかのような言い方をするものだから歴史が歪曲されてしまうのである。
19世紀から20世紀の中国というのは、アメリカの西部劇に登場するインデイアンの住むフロンテイと同じで、文明とは程遠い状況であったにもかかわらず、それを日本と同じ状況として論じているから、おかしな歴史認識が生まれるのである。
彼らの認識から類推するとすれば、自分たち、つまり中国人同士がいくら殺しあったところで、それは残虐でもなければ、悲惨なことでもなく、ただただ殺された人の運が悪かっただけのことだが、おなじことを異邦人、異民族としての倭の国、一段と見下げた東海の小島の野蛮人が行うと、俄然、敵愾心が刺激されて反日運動へとつながるのである。
我々、日本人は有史以来、太平洋の東の小さな島の住人で、基本的にはアジアから流れ着いた人間の子孫であろうが、比較的単一民族であるので、お互いを不信感で見るということには長けていない。
お互いに人間同士であるならば、なんとなく相手とは話し合えば物事は解決できるものと信じて疑わない。
こういう民族が、中国人相手にまともに付き合うことは基本的に不可能だと思う。
戦後も61年、双方の経緯を見ても、我々日本人は「死人には善悪もない」という価値観であるが、先方は、墓をも暴く民族性を捨てきっていないわけで、相手の非を骨までしゃぶるという国民性が変わったわけではない。
これからも変わることはありえない。
こんな相手に奇麗事を言ったところで損をすることは目に見えているではないか。
我々の同胞も、教養があればあるほど、奇麗事を言って本音でものを言わないから、それを聞く人は結果的に騙されてしまうわけである。
話の落ちどころがここまで来ると、再びメデイアの話に戻ってしまうが、我々の同胞の中の知識人といわれるような人々は、いわゆる学識経験も豊富で、教養もあり、国民のリードすべき立場であることに変わりはないが、こういう人々は非常に物分りが良く、人をいらだてることなく、誰にでも受け入れやすく、八方美人的で当たり障りのない言辞を労するのが常であるが、問題はここにある。
国と国の関係、国と国の駆け引き、国と国の交渉では、この人たちの言うような奇麗事では収まらないわけで、基本的には本音と本音のぶつかりあいなわけで、奇麗事で、当たり障りのない、誰も傷つけることなく、皆が納得できるなどということはありえないはずである。
しかし、メデイアというのは、人々の根源的な本音をあからさまには伝えられないので、表面上は当たり障りのないコンテンツしか流せないわけである。
本音をそのまま流すということは極めて困難なことだと思う。
話は突然飛躍するが、平成18年8月15日、小泉首相が靖国神社を参詣したというニュースが流れた。
そのニュースに付随して、元自民党幹事長を務めた加藤紘一氏のコメントが流れた。
彼は不用意にも本音を漏らして、首相の行為を批判し、「日本のアジア外交を損なった」と言ってしまった。
私はテレビの画面を見ながらおもわず「この馬鹿が!!これでは殺されるぞ!!」と叫んでしまったが、その日の夕方、彼の家は放火されて燃えてしまった。
彼のコメントと、彼の家の火事とは直接の因果関係はないだろうが、本音を漏らすことの危険の究極の現象だと思う。
本音を言うということは、こういう危険性を孕んでいるわけで、メデイアにはなかなか本音というものが出てこない。
オブラートで包んだような奇麗事ばかりが踊っているわけで、それは突き詰めれば、嘘ばかりが飛び交っているということである。
同じ日、15日の夜のNHKでは、「これからの日本」という討論番組で、視聴者代表から数人の評論家を交えて公開討論会という様式で特別番組を放映していたが、メデイアの伝える真実というのは、なかなか難しいものがあるように思える。
視聴者の代表としての普通の人の発言は、いくら本音を言ってもさほど本人にとってダメージというのはありえないが、これが著名な評論家ともなると、本音の一言で加藤紘一氏と同じ憂き目に会わないとも限らないわけで、物を言うときにはきわめて用心して、一言ひとことを選んでしゃべらなければならない。
この番組の中では一般視聴者の意見の中にはきわめて率直に本音の疑問が提示されていた。
例えば、「今回の問題で文句を言っているのは中国と韓国だけで他のアジアに国は言っていないではないか」とか、「広島長崎の惨劇は日本人の問題なのか、アメリカにその責任を追及する気はないのか」とか、「北朝鮮に対する経済制裁が強行などとはおかしい、今のイスラエルイとアラブの状況と比べて見たら」とか、「きわめて露骨な反日教育をしている相手と、真の信頼関係など出来るわけがないではないか」とか、見ていた私はついつい拍手したくなるような率直な意見が出ていた。
しかし、番組全体の流れとしては、そういう意見を掘り下げることは出来ないわけで、他の人にマイクを渡さざるを得ず、いくら良い意見であってもその場の線香花火で終わってしまう。
素人が率直に屈託のない正論を言っても、討論会の場は、専門の司会者に上手にリードされて、最後は当たり障りのない、まったく人畜無害な意見に集約されてしまうというわけである。
結果として、いくらNHKが力んで番組を作ったとしても、それで終わりということである。
ところが、国民の各層の中には、こういう本音というべきか、正論というべきか、まっとうな疑問というべきか、私が無責任にも言い放っているのと同じような見識を持った人が五万といるわけで、それこそ声なき声だと思う。
ところが、こういう声なき声というのは普通は表面には出てこないわけで、NHKが今回特別にこういう企画を組んだからこそ、表面に出てきたわけであり、そうでなければ決して表面化することのない意見だと思う。
われわれが日常生活の中で人の意見を聞くという場合、隣近所の名もない人の意見よりも、いつもテレビに登場している有名人の意見のほうになんとなく価値があるように思うのは人間の心理として当然ではなかろうか。
有名人の意見というのはそれだけ重みがあることは確かである。
それだけに有名人を自覚している評論家や政治家などは、軽々に安易な発言は出来ないわけで、それがため誰でもが納得しそうな奇麗事で、自分の保身を図ろうとするものだから、逆に本音が言えないのである。
メデイアというのも文化の発達とともに進化しているわけで、昭和初期のメデイアといえばラジオと新聞その他の雑誌程度のものしかなかったが、今日ではテレビは当然のこと、あらゆる情報の媒体があるわけで、その全てが今に生きる人間の価値判断の根拠となっているはずである。
しかし、いくらメデイアが発達したとしても、それが一方通行である事実はこれから先も変わらないものと思う。
つまり、情報の発信元と、その受け手という関係は、いくら22世紀になろうとも変わることはないと思う。
ということは、メデイアというものは発信する側が常に優位だということで、それがため、昔の為政者は放送局、つまりメデイアを手中に収めようと躍起になったわけである。
民主主義を標榜している主権国家では、メデイアは政府を批判する自由を与えられて、国民はメデイアから送られてくる情報を信頼して、それから自分の判断で為政者を選択するというシステムであるが、為政者とメデイアはもともとがお互いに対立する関係というのも本当はおかしなことではないかと思う。
昭和初期の日本のメデイアは、国家べったりであって、自分の国や政府を批判するということは基本的に不可能であったといわれている。
ところがこれが不思議なことに、あの時代の日本政府も軍部もメデイアを恣意的に弾圧したことはないという。
平成18年8月15日の中日新聞20ページに「むの たけじ」という人の談話が載っているが、彼は戦中、朝日新聞に奉職していたが、終戦が目前に迫ってきて書く記事がなくなったので新聞社を辞めたといっている。
その彼が言うには、戦前、戦中を通じて、記事に対して弾圧はなかったけれども、自主規制で戦意高揚の記事を書いたといっている。
とはいうものの、弾圧はなかったけれども、それは同時に、取材の自由が封殺されていたわけで、大本営発表を鵜呑みで報ずるしか方法がなかった、ということであり、朝日新聞といえども今で言うところのメデイアの体をなしていなかったということだ。
結局のところ、正直な情報に接したとしても、それをありのまま記事にすることが憚れたので、結局は無難な大本営発表というものでなければ記事にならなったということだ。
問題は、正確な情報に接したとき、それをそのまま記事にできなかったのは何故か、という点に突き当たるわけであるが、ここでこの記者は、隣人の目、同僚の目、周囲の目、というものが恐ろしくて、正直になれなかったと言っている。
まさしく彼の本音であって、このときの正確な情報ということは、結局のところ、日本があちらの戦場でもこちらの戦場でも負けた、あらゆる戦場が負け戦であったということであろうが、そういう情報を得たとしても、それをそのまま記事にすることは隣人の目、同僚の目、周囲の目が気になって、とてもできなかったということを吐露したわけだ。
こういうことは何も新聞記者だけ問題ではなかったろうと思う。
あの当時、日本のあらゆるところがこういう雰囲気であったに違いない。
あの時代には、それはそれでお互いに生き延びるために致し方なかったと思う。
ならば戦後のメデイアも、少しは相手の気持ちを慮る配慮というものを持っても決して罰は当たらないと思う。
われわれ国民から見て、掌を返したように反政府、反体制、ソ連寄り、中共寄り、自国の国益を削ぎ、相手の国益に貢献する態度をこれ見よがしにあからさまにしているから、善良な国民は嫌気がさすわけである。
おなじメデイアだとしても中身の人間は当然世代交代しているので、それが社の態度に大きく現れるということもありうるかもしれないが、為政者とメデイアというのは、いつの世においても対極の位置に対峙するものだと思う。
統治する側というのは何でもかんでも公開すればそれで民主的というわけに行かない部分も多々あると思う。
住民には公開してはならない情報というのも多々あると思う。
ある人にとっては貴重な情報だが、ある人にとっては何の価値もないというものもあると思う。
ということは、メデイアに携わっているような人ならば常識として当然わかっているはずであるが、それを無視して、何でもかんでも公開してしまって特ダネと称して喜んでいるわけである。
メデイア側にこういう常識がないものだから、為政者の側は、それに対する防衛をするわけで、それはそれで過剰防衛となり、何でもかんでも秘密区分に仕分けしてしまうことになる。
問題は、メデイアの側も為政者の側も、お互いに子供ではないのだから、普通の常識が作用すれば、こういうことにはならないのであるが、双方に普通の常識が欠けているので、国益に直接影響しそうなことまで特ダネとして巷にばら撒かれてしまうわけである。
先に述べた「むの たけじ」という人の述懐も、あの時代には日本の負け戦を国民に知らしめてはならないということが暗黙の了解になっていたわけで、その社の、その記者の仲間内の常識に殉じていたから真の報道ができず、メデイアがメデイアでありえなかったのである。
ということは、この記者は一人の新聞記者として、当時の社会常識にはきわめて素直に服していたわけだが、この常識そのものが時代によって価値基準の変動が起き、戦中の常識が戦後は全否定されてしまったということである。
古今東西、メデイアというものは国家と二人三脚で歩み続けていると思う。
8月15日というのは、日本全国終戦記念日であるが、日本を敗戦に導いたとして、勝った連合軍からA級戦犯として指名されて、その責を負って亡くなった方々もいる。
日本を敗戦に導いたという意味で、その方々が絞首刑にされるのもある意味では致し方ないことではあるが、あの戦争を声高々と詠い上げ、戦意高揚に尽力したメデイアの責任はいったいどこでどうなったのであろう。
連合軍がA級戦犯と言うことを不合理だとは思いつつも、日本の戦争指導者であったことは間違いないわけだが、そういう人の考え方を国民に敷衍し、鼓舞宣伝し、「軍国の母」などと称して、戦意高揚に尽力したメデイアの責任はいったいどうすればよかったのであろう。
先に述べた「むの たけじ」氏の言葉ではないが、朝日新聞など、あの8月15日の新聞でさえ、日本が戦争に負けたという現実を覆い隠そうとしているわけで、このことを一般国民としてはどう考えたらいいのであろう。
言葉というものはまことに調法で、どういう風にも言いくるめるわけで、赤を黒ともいえるし白ともいえるわけで、ならば真実とはいったい何なのか問えば「無」と帰ってくるわけで、結局のところいくら言葉を弄しても何も得るものはないというところに落ち着く。
つまり「虚しさ」だけが残るということだ。
ただ言えることは、メデイアとして「言う事は何もありません」、「コメントは控えさせていただきます」、「当方は何の感想も持っていません」、ということは死んでも言えないわけで、新聞雑誌ならば何がしかの活字は並べなければならないし、テレビ・ラジオならば持ち時間の間、何か言葉を発し続けなければならないわけである。
その為には、そこに無責任な記事を載せざるを得ないという事情があるのかもしれない。
今の日本のメデイアの状況を見れば、同じ記事が幾重にも輻輳せざるを得ないのも当然なわけで、情報を発信する側があまりにも数が多すぎると思う。
その中の大部分の企業は、民間企業で、その民間企業というのは、広告で経営が成り立っているわけで、広告の合間に報道があるというような状況からみれば、報道そのものは刺身のツマのような存在であるにもかかわらず、表向きには報道機関と自他共に認めているので、その報道の内容が堕落するのではなかろうか。
旧ソビエット連邦というのは1991年に崩壊してしまったが、これら社会主義国ではメデイアというのは完全に共産党に管理されており、報道に民意を反映することなど思いもよらないことであった。それをいまだに継続しているのが中華人民共和国であって、ここでは日本の首相が靖国神社に行くと「先の戦争の反省が足りない」とか「軍国主義の復活」などといって反発をしてくるが、自らは戦前の日本以上に軍国主義を煽り、ナショナリズムを煽り、反日教育に腐心し、戦意高揚に努め、日本に対して敵意を露にし、まるで戦前のわれわれがしていたことと同じではないか。
彼らの反日教育の露骨さというものを日本の知識人が知らないのであろうか。
いくら日本のメデイアが中国の国益に貢献しているといっても、日本にはさまざまなメデイアがあるわけで、あちらの事情も漏れて来ている。
いくら中国が情報管理していても、メデイアと情報に蓋は出来ないわけで、その漏れて流れてくる情報を再構築してみれば、彼らは日本と真に和解する気は最初から存在していないということが歴然としているにもかかわらず、日本側の識者というのは、先方の悪意には故意に目をつぶり、先方に貢献することが両国のためを信じて疑っていない。
この日本側の知識人の中国寄りの認識というのは、明らかに先の大戦の贖罪意識がそうなさしめているのであろうが、もしそうだとすると、あまりにも無知というか非常識というか、歴史を知らず、人間を知らず、人間の集団行動というものを知らなすぎると思う。
この贖罪意識というのは、ある種の思い込みに過ぎないわけで、この思い込みに陥って現実を直視することを怠ると、またまた戦前のような過誤に陥るわけで、メデイアから流れてくる情報、メデイアが意図的に流す情報、メデイアが大声で鼓舞宣伝している情報というものは、自分の目を大きく見開いて、自分で見て、自分で考え、自分で判断して、自分で発信しなければならない。
それが知識人の知識の根底になければ、本当の意味の知識人ではありえない。
奇麗事を言って、誰も傷つけることなく、誰も彼もが暴力を否定し、ただただ平和、平和と念仏さえ唱え、自分の言葉に酔っていれば、先方がわれわれのことを好意的に扱ってくれると思い込むほどの愚は厳に慎むべきである。
国家とメデイアの関係では、いかなる主権国家でも、メデイアを自分の側につけておきたいと思っているのは当然であるが、民主化の度合いが進んだ国ほど、その間には距離がある。
民主化の度合いが遅れている国ほど密着しているわけで、メデイアを国家が管理している。
そのことは当然のこと、崩壊する以前のソビエット連邦や、今の中国を見れば歴然としているが、人類の更なる進歩の中で、メデイアの役割というのは一体どういうところにあるのであろう。
メデイアの起源といえば、当然のこと、土の板に書いた文字や木簡や、狼煙というようなものまで情報伝達という意味からすればその範疇に入ってくるであろうが、人間にとって情報というのは一体何なのであろう。
今のわれわれの生活からテレビがなくなったとしても、生きていくだけならば可能であろうが、きっと無味乾燥な生活を強いられることになるであろう。
だとすると、今のわれわれにとってテレビというのは心の慰みとして存在しているのであろうか。
生きた人間にとって、情報というのは一体いかなる効果というか、価値というか、効能があるというのだろう。
今の日本の民放テレビ局が、コマーシャルのみを流して、その合間に報道モドキのものを、さも立派な報道機関を装って流している現状に対して、一般国民としてはそういうメデイアに対していかように対応したらいいのであろう。
私の個人的な意見としては、民放テレビ局というものが娯楽を提供するものだとしたら、その設置許可をもっともっと厳密にコントロールすべきだと思う。
そもそもテレビというものを娯楽と捉える発想が私には不遜な行為と思えてならない。
本来ならば、もっともっと敬虔な気持ちで接しなければならないと思う。
こういう現状に至らしめた最大の原因は、言うまでもなく技術革新であるが、テクノロジーというのは発展の先行きが全くわからないところまで行き着く。
しかし、人間の思考というのはテクノロジーのような発展は最初から望めないのではないかと思う。
今の人間の思考は、千年前、一万年前の思考となんら変わるものではないと思う。
人間の喜怒哀楽、憎悪、嫌悪、愛、愛憎、不倫、横恋慕、同胞愛、郷土愛、親族愛、親殺し、子殺しその他諸々の人間の心の動きというのは千年前、一万年前と何も変わっていないものと思う。
そして、この人間の本質的なものは、テレビがあろうとなかろうと関係なく存在し続けていたわけで、「テレビが日本人の古来の生活パターンを壊した」、という言い方は成り立たないと思う。
テレビを真似た犯罪が増えたというのも、真偽のほどはわからないと思う。
問題は、昨今の日本人は差別意識は悪いものだと刷り込まれているので、その人の持つ本質的な欠陥を指摘することを嫌悪し、避けようとするあまり、相手を傷つけまいと奇麗事で済まそうとするから真の解決に至らない場合が多いと思う。
テレビを真似て悪さをする人は、本質的にそういう傾向を持っているわけで、テレビがなければ本からまねて同じような犯罪を起こしかねないと考えられる。
犯罪を犯すということは、持って生まれたその人の本質だと思う。
同じ境遇でも犯さない人は犯さないわけで、犯す人は何処にいてもどんな境遇でも犯すわけで、その人のDNAだと考えなければならない。
こういうことをあからさまに言う事は、人権問題に抵触するので、人々は奇麗事でその場を繕おうとするから犯罪者の再犯が絶えないのである。
物事の本質を突いて人から嫌われるのを恐れるあまり、そのことを覆い隠そうとし、それをテレビの所為に転嫁しているに過ぎない。
しかるに、テレビ側はテレビ側で、それを真に受けて番組改善などと新たな自主規制で臨もうとしている。
テレビから俗悪な番組がなくなり、番組が良くなることはまことに結構なことであるが、メデイアが善意で以って自主規制することの良し悪しを根底から見つめなおさなければならないと思う。
テレビを真似た犯罪が多いからテレビ番組を見直そう、というテレビ側の自主規制は一見立派な行為に見える。
誰もそれに反対を言いかねる。
良い傾向であることには間違いないからぜひともその線に沿って推進してもらいたいという意見が大部分であろう。
テレビ局側も、世のため人のためと思って、さまざまな自主規制を考え、それを公表することで企業のイメージアップを図ろうとするに違いない。
ところが、そういう風になればなるほど、真実の報道とかけ離れてしまうわけで、真似される恐れがあると思われる行為が、全部画面から消えたとしたら、その報道は一体何なのかということになってしまう。
ニュースがニュースでなくなってしまうではないか。
真実が真実でなくなってしまうではないか。
戦前、戦中の日本の新聞は、軍や政府から弾圧を受けて報道できなかったのではなく、自分たちの自主規制で、その自主規制を強いたのが他ならぬ隣人や同僚や世間の目であって、異端者、売国奴、非国民と、隣人や同僚や世間から後ろ指指されるのが怖くて自らその自主規制に服したと当事者が述べているではないか。
基本的にメデイアとして一番大事なことは、どれをニュースとして報道し、どれを没にするかという選択眼だと思う。
その選択眼の中には、これを報道すれば誰がどういう風に得をし、誰が被害をこうむるのかというところまでの洞察力も合わせて必要だと思う。
そのことを司るのは健全な良識だと思うし、ある種のバランス感覚でもあると思う。
ところが日本のメデイアがNHK一社ならばNHKだけにそういう人が居ればいいが、日本のメデイアは何社もあるわけで、そのなかには明らかに政府や祖国や同胞の足を引っ張ることを目論んだメデイアもあるわけで、そのいうメデイアに良識やバランス感覚を期待することは最初から出来ないわけである。
こういうメデイアを同じ同胞としてどう扱うかということは21世紀の大きな課題だと思う。
ここで話がもう一度飛躍するが、人の意見は百人百様であってなんら不思議ではないが、少なくとも自分の国の最高責任者が、自分たちの国のために戦って命を落とした人々の霊を弔うというのに、それがいけないという人の根拠は一体何なのであろう。
主権国家の国民が、自分の祖国のために命を落とす、祖国の犠牲となるということは、いかなる体制であろうともそれは褒め称えられるべき行為ではなかろうか。
また、何処の国でも、そのことは常識として普遍的な観念となっているが、何故に日本だけがその行為を糾弾しているのであろう。
18日の中日新聞には昔YKKと言われた小泉氏の同輩たちがそろいもそろって超党派で彼の靖国神社参詣を批判している、と報じている。
こんな馬鹿なことがあっていいものだろうか。
以前、総理を務めた中曽根康弘は、21年前、公式に8月15日に参詣したら、中国から抗議を受け、それからは中国からの恫喝に屈して参詣をやめていると言うことである。
小泉氏の靖国神社参詣に反対する勢力は、全てが中国の意向や韓国の思惑を気にして、「アジアの外交が頓挫するからやめよ」と言っているわけだが、これこそ先方の恫喝に屈することである。
経済界も中国との経済関係が悪化するのを恐れて参詣に難色をしめしているが、これではあまりにも軟弱外交ではなかろうか。
しかし、現実の我々の中には「軟弱外交でいけ!中国の言い分を聞け!」という勢力があるわけで、この考え方の根拠と言うのは一体何処にあるのであろう。
昔のYKKの中の山崎拓も加藤紘一も、この軟弱外交で行けという方であるが、彼らは中国の本質というものを知っているのであろうか。
先方は、「靖国神社にさえ行かなければ首脳会談に応じる」とは言っているが、首脳会談にいくら応じても、過去の問題を全て日本側の言うとおりに飲むとは一言も言っていないわけで、中国の言うことに屈して、靖国神社に行くことをやめ、首脳会談のテーブルに就いたとしても、新たなスタートラインに着いただけのことで、そこからまた延々と新らしい恫喝が始まり、結局は新たな金をむしられるのがオチではないか。
人の考えというのは様々であって、昔はYKKとして仲が良かったとしても、3人が同じ考えで纏まらなければならないということはないが、他の二人が「相手の言い分に屈するということが日本の将来にとって有益だ」とする判断には私は納得できない。
この世に生きる人間の常として、一度相手の恫喝に屈すれば、先方は次もその次も同じ手法を講じてくるのが常で、それが人間の心理だと思う。
中国側が日本の首相に対して、靖国神社参詣を踏み絵として利用するということは明らかに恫喝以外のなにものでもないわけで、それにやすやすと屈すると言うことは、完全に先方の手玉に乗るということである。
問題は、われわれの側にあるわけで、先方に言われて素直に靖国神社参詣をやめる同胞の政治家の存在である。
その筆頭が例の中曽根康弘で、彼は中国から言われて、「お説ごもっとも」と真っ先に先方に膝まついて謝罪を乞うたわけである。
この図が見えてこない日本の国民は相当に馬鹿ではなかろうか。
彼、中曽根康弘にとって靖国神社に祭られている英霊は、対中外交よりもプライオリテイーが低いということを示しているわけで、彼には民族の誇りも名誉も何もないということを指し示している。
ただただトラブル回避の方策だけで、恥も外聞のかなぐり捨てて、先方に膝まついて平身低頭している図でしかない。
彼は小泉氏の靖国神社参詣について、「個人の面子よりもアジア全体の関係を考えなければならない」と述べていたが、確かに言葉としてはきわめて説得力に富んでいるが、ならば民族の誇りは投げ捨ててもいいというのであろうか。
国家の名誉は捨て去ってもいいと思っているのであろうか。
今日の日本の礎となった英霊に対して礼を尽くさなくてもいいと考えているのであろうか。
中国からの今回の恫喝は、彼が最初に屈服してしまったので、そのことが先方の外交カードとして有効だという認識を植えつけ、その後21年間も尾を引いたわけで、彼が公式参拝して中国からクレームが来たとき、適切にクレーム処理し、適切に対応しておかなかったことが最大の原因ではないか。
靖国神社に対する国民の思いも今は多様になってきていると思う。
私などもA級戦犯の合祀には納得のいかない感情を持っているが、だからといって他の250万以上の英霊が眠っていることも確かなわけで、たった7人(14人)のために他を全部否定することも出来ないわけで、そういう個人個人の思いは千路に乱れているであろうが、とにかく国に殉じた人が祭られていることだけは確かなわけで、それを否定するわけには行かない。
靖国神社と言うものを深く深く掘り下げて考えれば、納得のいかないことも多々出てくるであろうが、われわれはそんな細部にとらわれるよりも、亡くなった方の霊を弔い、再度不戦の誓いをする場として大雑把に捉えればそれでいいではないか。
何故にわれわれはそういう細部にこだわって全体を否定する方向に思考を巡らすのであろうか。
18日の中日新聞に、小さな記事として、日の丸掲揚に思い悩んで自殺した、広島、世羅高校の元校長に公務災害が認定されたと載っていたが、こんな馬鹿な話もないと思う。
公立高校の校長たるものが、卒業式の日に、国歌斉唱と日の丸掲揚で思い悩むこと自体がそもそもおかしいことではないのか。
公立高校の校長たるものが、卒業式には日の丸掲揚と国歌斉唱をするのが常識ではないのか。
それが朝鮮人学校ならば致し方ない。
しかし、それが朝鮮人学校やアメリカンスクールであったとしたら、当然、祖国の国旗掲揚と祖国の国歌斉唱が行われたに違いない。
それが人類の普遍的な常識なわけで、その常識のわからない県立高校の校長なる者の精神構造そのものが異常であったものと私は考える。
それと、その校長が卒業式に国旗掲揚と国歌斉唱で思い悩む直接的な原因は、日教組の締め付け乃至は突き上げにあったはずなので、彼の死に対して何らかの補償をするならば、それは日教組がしなければならないと思う。
世羅高校の校長の自殺にはこういう背景があるにもかかわらず、その自殺を公務災害に認定するなどと言うのは、まことに由々しき問題だと思う。
死者を鞭打つことは、われわれ日本人の価値観では一番見下げた行為であるが、もしそれを言うならば、靖国神社にA級戦犯が何人祭られようとも、われわれはそれを素直に受け入れなければならないことになる。
私の言いたいことは、戦後の日本の公立高校、いわば国民(県民)の税金を食んで運営されている公立高校の校長先生が、自分の国の国旗、国歌を認めようとしていないという現実である。
これからの若い日本国民を育てるべき施設で、自分の国の国旗と国歌を認めようとしない校長先生の存在である。
こんなことがあっていいものだろうか。
朝鮮人学校やアメリカンスクールに日の丸や君が代を認めよといっているのではない。
我々の、自分の国の中で、自分たちの国旗や国歌を歌うかどうか思い悩む公立高校の校長先生というのは、世界的な視野からすればきわめて珍しい存在ではなかろうか。
アメリカの学校で、イギリスの学校で、インドの学校で、中国の学校で、韓国の学校で、こんなことがありうるであろうか。
これからの将来を担う若い人の教育の場で、自分の国の国旗や国歌を否定する教育などというものがありうるであろうか。