060721002

富田メモ騒動

靖国の御霊

 

昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に対して非常に不快感を持っておられたとする20日付け(平成18年7月)のニュースはこれからも日本社会に大きな波紋を残すであろう。

このことは昭和天皇も、連合軍が認定した戦前、戦中の日本の政治指導者、戦争指導者が悪玉、悪党であったという価値観を容認すると言うことである。

あの戦争を遂行した人に対する思いで、昭和天皇の考えも、連合軍の考えと一致していたということである。

敗戦、終戦の時点で、昭和天皇も、連合軍いわゆるマッカーサーと同じ価値観を共有していたということである。

つまり、A級戦犯と称せられる人たちは、連合軍から見ても、昭和天皇の側から見ても、明らかに敵であったということに他ならない。

このメモの中に語られている「松岡も、白鳥までもが・・・」という言葉の中には、あの戦争に日本の国民を駆り立てた人々に対する恨みつらみが込められているものと察する。

連合軍がA級戦犯と認定した人たち、つまり極東国際軍事法廷で裁かれた人のすべてが妥当な判定でなかったことは言うまでもないが、明らかに妥当だと思われる人々が、他の英霊と同じように靖国神社に祭られることには納得できないという気持ちがあったに違いない。

A級戦犯という言葉は、便宜上、連合軍が使った言葉ではあるが、昭和天皇の立場からも、君の思いを踏み躙って無意味、無謀な戦争に駆り立てた悪人、悪党と思われても仕方がないような臣下が政治の中枢を握っていたわけで、そういう臣下にたいしては、殺してやりたいほど恨みを持ったとしても何ら不思議ではない。

天皇は常に平和思考であったにもかかわらず、ずるずると開戦の方向に国政を傾けていった臣下に対しては、陛下といえども恨み骨髄に思っていたものと考えなければならない。

ただ天皇という立場上、それが口に出来なかった悔しさは察して余りある。

「松岡も、白鳥までもが・・・」という言葉の中には、そういう人たちに対する嫌悪感が含まれているものと想像する。

そもそもA級戦犯という言葉は、連合軍が旧敵国の悪人に対して、その悪のレベルに応じた区分けをして処理するために考え出された処置であって、昔のように勝った側が負けた側を奴隷として使役に使えば何ら問題にもならなかった事柄のはずである。

ところが、現代の人間の文明というのは、古代ギリシャと同じような文明の程度では自らの自尊心が許さないので、文明の名に応じる処理をしようとしたのである。

勝った側が負けた側を一様に殺戮し、使役に使い、有無を言わせず殺生与奪の権利を行使すれば、こういう複雑な問題はなかった。

ところがそれでは野蛮人と同じなわけで、文明の名が廃ると思ったので、何となく文明らしい行為で本来持っている野蛮性をカモフラージュしようとしたのが戦後の軍事法廷というものであった。

20世紀の地球は基本的に西洋人、いわゆるヨーロッパ系の白人に支配されていたわけで、この白人達が全地球の価値観を自分達で決め、自分達で実践していた。

白人達は自分達以外の有色人種を力で押さえつけようとして、力で支配しようとしたが、力で支配することの野蛮性には気がつかなかったわけである。

ところが有色人種の中でも、白人達と変わらない能力を持った民族が現れた時、改めて自分達の野蛮性に気がついたのである。

そういう恐怖心を抱かせたのは、アジアにおける日本がそれに該当したわけで、日本は連合軍と約5年にわたる死闘を展開したが結果として、それは敗北であった。

この時、本来ならば、アジアの有色人種というのは、我々の側に味方して、ヨーロッパ系の白人達を糾弾する方向に思考力を働かせなければならなかった。

ところが現実はそうはならなかった。

アジアの有色人種、特に中国人や朝鮮人は、今まで彼らを支配し続けていた白人に靡いて、彼らに擦り寄って、水に落ちた犬を叩く側に廻ったのである。

しかし、古代の野蛮人ではなく、現代の文明人と思っている西洋人は、そういう論理は国際条約できちんと規定されて、そんな野蛮な発想は成り立たないはずであったが、戦争状態というのは国内外においてでさえ物事がきちんとまわらないのに、文明の仮面を被っただけの交戦国同士でそれが十分に遵守されないのも当然のことであった。

こういう場合、一番効果的なことは従来どおり力に訴えることである。

いわゆる武力行使である。

ところが日本はその武力行使、実力行使に失敗して戦争に負けた。

戦争に負けたということは紛れもない事実で、誰がどう言おうと申し開きの余地がない。

負けた方は勝った側の成すがままになるより生き方がないわけで、戦争で負けた我々も、それ以外の道がなく、他に選択の方法もなかったのである。

そういう立場の我々にとって、勝った側のすることが正しいとか、正義だとか、人道に則っているとかいないとか、そんなことを詮索する心のゆとりも、余裕も、気持ちもないわけである。

ただされるままに成っているほかなかった。

そういう状況下において、A級戦犯というのは連合軍側の思い込みにしたがって、彼らが旧敵国のもっとも憎むべき敵性人だと思い込んだ人たちのことで、我々の考えとは全く違った次元の人選であった。

当然のこと、敵をたくさん殺した人間はその国では英雄であるが、相手の立場からすれば、もっとも忌むべき人間となるわけで、縛り首の標的となることは致し方ない。

極東国際軍事法廷の場合、それは戦前、戦中の我々、日本の政治的な指導者、軍事的指導者であることにはかわりはないが、その選別の基準は、彼らの基準によっているわけで、我々の考えとか、本人の実績とかを全く考慮しない、ただただ先方の思い込みだけで決まったのである。

昭和初期の日本の起こした戦争というものを今の時点でつらつら眺めてみると、我々の同胞の中にも随分と考え違いをしていた人がいたわけで、昭和天皇が自分の重臣に対して、快く思うことの出来ない人がいたことも当然のことだと思う。

昭和天皇は戦後進駐してきた連合軍最高司令官マッカーサー元帥の下に出向いたとき、「我が身はどうなってもいいから臣下を助けてくれ」という意味の事を言ったとされているが、そういう謙虚な心の中にも、ひとりの人間として我慢ならない、憎くて憎くてならない臣下の一人二人の居たことは察して余りあると思う。

昭和天皇も生きた一人の人間として、気に入る部下も気に入らない部下もそれぞれに居たと思う。

一人の人間として、生きた空気を吸う生身の人間として、好きな人も嫌いな人も、それぞれに居たと思う。

ただし、それは職務口に出せなかったことも事実だろうと思う。

普通の立場の人間ならば、そんなことは臆面もなく言い放ち、「あれは嫌いだからよこすな」とか、「あれは好きだから手元におきたい」とか、そういうことは普通にいえると思うが、天皇陛下に限っては、それもままならなかったに違いない。

それと靖国神社に祭られるとその御霊は全部善人に変わってしまうというのも変な話だと思う。

ここが宗教の宗教たるゆえんで、人間の理性や知性では考えも及ばないことがさも本当らしく語られる。

どんな悪人でも死んでしまえば、一つの魂として差別をしないというのは、ある種の偽善だと思う。

日本以外のアジアの民、例えば中国や朝鮮では、悪人は死んでも悪人であって、死後も墓を暴いてまで生前の悪を糾弾するといわれているが、それに比べると我々、大和民族の死生観というのはあまりにも奇麗事過ぎると思う。奇麗事過ぎて丸々偽善ではないか。

戦争で亡くなった人を全部靖国神社に合祀するというのも厳密に言えばかなり不合理な話だと思う。

ここで祭られた御霊を全部英霊というのもかなり不合理に満ちていると思う。

戦争というものがほんのささやかな武器、例えば、刀や幼稚な銃で行われていた時代ならば、戦争で死ぬということは直接的な戦闘で死ぬということに直結していたが、近現代の国家総力戦では、後方にいても強力な火器で死ぬことがあるわけで、その意味からして「戦争で命を落とした人を弔う」という意味が変質してきていると思う。

日清戦争や日露戦争のときのように、敵と合間見えて合戦をして、その戦闘で死んだ人ならば、戦場の勇者としてその御霊を英霊とするにやぶさかではないが、近現代の国家総力戦で、政策、作戦を失敗した為政者が敵の血祭りにされ、勝った側の生贄として裁かれて死んだ人まで、同じ英霊として祭るということに関して様々な考え方が錯綜するのも当然だと思う。

こういう人は戦場に出ておらず、後方で安逸とまではいえないにしても前線の兵士に比べれば非常に楽をしておきながら、政策を間違えてその責任を負わされたに過ぎず、それを前線で戦った兵士の御霊と同列に扱うことに対して、異論が出ることは当然だと思う。

靖国神社というものは、明治維新のときの戊辰戦争で死んだ人の御霊を、敵味方なく弔うということが始まりであったわけで、そういう意味から戦争で死んだ人を祭ることとなり、その延長線上に海外に出た若人も「死んだら靖国神社に祭られるから頑張ろう」ということが普遍化したものと思う。

だから普通の人が抱く「靖国神社に祭られる」ということの概念としては、華々しい戦闘で命を落とした、ということが暗黙の了解になっていたのではないかと思う。

とは言うものの、死ぬ本人は、そのことを頭の中で描き続けているわけではなく、死んだ本人の周囲の人が、手を尽くして靖国神社に合祀するように手続きを踏むわけで、その手続きの過程で、厳密な戦闘ではなく、移送中の敵襲で命を落とした人や、戦地で病気で死んだ人も、戦死ということでは同じだ、戦争で死んだことに変わりはない、という拡大解釈によって此処に祭られるようになったのではないかと考える。

そこには戦争で死んだという、あまりにも杜撰で大雑把な拡大解釈があると思う。

この拡大解釈なるがゆえに、「A級戦犯も靖国神社に祭られてしかるべきだ」という発想がわいてきたものと考える。

我々日本民族の死生観では、死んでしまえば悪人も善人もない、皆おなじ御霊として等価値というか、優劣も上下の関係もないということになっているが、祭られる御霊の方はそうかも知れないが、生きてその御霊を拝む立場とすれば、生前の本人の所業を考えて、「こんな奴は拝みたくない!」、という心境も拭いきれないと思う。

祭られている御霊のほうには、生きた人間の心情というものが存在していないが、その御霊を拝む方は、生きた生身の人間で、艶かしい煩悩に充ちているわけであり、生きた人間の感情として、煩悩を克服し切れないものがあると思う。

戦争で生き残った生身の人間として、「確かにあいつは戦争で死んだかもしれないが、俺はこんな奴を拝みたくない!」という感情が残っていたとしても何ら不思議ではない。

昔も今も、靖国神社の御霊といえば、戦闘で勇ましく戦った勇者を祭っているのだ、という認識が普遍化していたと思う。

そこに勝った側が認定したとはいえ、又、その判定が正しいかどうかもわからないとはいえ、祖国を敗戦に導いた元為政者を、戦いの勇者と同じように扱っていいものかどうか、という逡巡はあって当たりまえだと思う。

ここでA級戦犯というものを靖国神社としてどう捉えるかという問題に突き当たると思う。

そして、その捉え方が、靖国神社の宮司によっても微妙に違っていたからこういう結果になったものと考える。

戦後の1946年から30年間宮司をつとめた、旧皇族出身の筑波藤麿という人は、本人の在職中は合祀を認めていなかったのは、そういうところに理由があるものと解釈しなければならない。

それが松平永芳という宮司に変わったとたん合祀されてしまったのである。

それが1978年のことで、それ以降昭和天皇は靖国神社参詣を止めているということだ。

ここでA級戦犯という言葉の重みがひしひしと伝わってくる。

 

論理と情緒

 

我々は今戦後61年も経て、あの戦争の総括としてA級戦犯というものを根底から考え直してみる必要があると思う。

戦後に生きた普通の日本人ならば、あの極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判というものの整合性に極めて深い疑義をさしはさんでいると思う。

もっとも、急進的な左翼の人々は、あの裁判を極めて高く評価して、「我々はアジアで悪いことをしたのだ!」という自虐史観を嬉々として受け入れ、自らの政治指針として鼓舞宣伝している。

今回、暴露された昭和天皇の気持ちというのも、そういう方向に傾いていたことは事実として認めざるをえないだろう。

しかし、声なき声としての一般の庶民感覚からすれば、「あれは勝った側が勝手に敗者を裁いた整合性の欠落した処置である」という認識が底流に流れていると思う。

しかし、これらの視点は、いづれも庶民としての視点、ないしは視野でしかないわけで、それはいわば統治される側、統治された側の認識でしかない。

ところが、このA級戦犯というものを天皇の立場から見てみるとどういうものが見えてくるのか、ということは我々がいままで経験したことのないことだ。

昭和天皇は、立憲君主として国事には極力かかわりを持たないように、ただただ国の飾りとして、象徴としての存在に徹しようとされていた節が見えがくれする。

とはいうものの、国の行く末に関して、全く無関心というわけにも行かず、必要最小限のことはせざるを得なかったと思う。

その過程で、日々の国事、つまり行政に関することや軍事に関することは詳細に報告されていたものと想像する。

そういう状況を前提として、昭和初期の日本の政治・外交というものを、天皇の立場として敷衍して見てみれば、人間天皇として、腹の立つことも往々にしてあったと思う。

だからといって、いちいちそれに対して指図をしたり感想を述べることは、立憲君主としての立場を放棄するに等しく、勝手気ままにそうすることも立場上出来なかったと思う。

昭和初期の日本の政治・軍事・外交の場面において、自分の臣下としての軍隊が、自分達の政府のいうことも聞かずに、どんどん中国の奥深く入り込んでいく様子を見ながら、切歯扼腕していたのではないかと想像する。

それは当時の日本の国民、いわゆる庶民の感情とは全く逆になっていたわけで、国民の方はイケイケドンドンとなっており、軍の矛先を批判する政府に対して「弱腰だ!!」と逆に非難していたのである。

このことは統治する側とされる側でもものの見方が全く逆転しているということだ。

こういう状況下で、天皇の立場から松岡洋右や白鳥敏夫という外交官を見てみると、彼らはドイツやイタリアと結託した事実を以ってしても、昭和天皇の逆鱗に触れていたわけで、天皇から彼らを見れば、「あの馬鹿野郎メが!!!」ということになっていたに違いない。

ところがこれを当時の日本国民という立場から眺めてみれば、日本は一等国として西洋先進国に一泡吹かせるに良い機会だ、日本の実力を誇示するいいチャンスだ、と思い込んでいたわけである。

その観点から松岡洋右や白鳥敏夫という外交官を見れば、「彼らはなかなかやっているではないか!」という評価になるものと思う。

それは真の情報に接して、広範な見地から物事を見ていたかどうかの違いである。

為政者というのは当事者として生の情報に接しれるが、国民というのはメデイアによって偏向され、煽られた2次情報、3次情報にしか接することが出来ないわけで、それが為、そこで思考の差が生じるものと考える。

戦後の日本の左翼を始めとする知識人たちの天皇論というのは、あの昭和初期の日本の政治的、外交的、軍事的行為のすべてを昭和天皇が後押しし、その庇護の下に、ないしは天皇自身がそれを願って率先して推し進めたというニュアンスで眺めようとしているが、それはあまりにも物事の真実を知らないということである。

天皇の立場から見て、臣下の重臣、官僚、軍官僚、高級司令官の中には、なんとも許しがたい行為をする人間が多々いたのではないかと思う。

ところが昭和天皇は独裁者ではなく、あくまでも立憲君主として、国家の、国事の飾りに徹しようとするあまり、自分の意思というものを露に出すことを極力控えようとされ、臣下の取り決めたことには、仮に本人は不本意であったとしても、それを顔に出さずに、御璽を押されたのではないかと想像する。

それは結果から見れば確かに天皇がすべての国事を推し進めたという形にはなるが、天皇の心の内では、こんなことをしたくない、こんなことをしてはいけない、これは直ちに止めるべきだ、という事柄もあったと思う。

7月20日に公表された富田メモのなかの「松岡、白鳥までもが」という文言は、松岡洋右と白鳥敏夫というような「天皇の心を踏み躙ったような外交官まで靖国神社に祭るとは何事だ!」というニュアンスだったと思う。

人間天皇の極めて人間らしい心の動きを表した言葉だと私は思う。

この言葉から推察されることは、昭和天皇は日独伊三国同盟には心底不賛成であり、松岡洋右が国際連盟を脱退したことによって日本が孤立化したことに心を痛め、どうしょうようもない役立たず、将来展望の欠けた、自己中心主義の輩だという印象を持っていたということである。

だからといってスターリンや毛沢東のように気に入らないからといって粛清するわけにもいかなかった。

松岡洋右は国際連盟にケツを撒くって意気揚々と誇らしげに脱退してきたが、この裏には日本が満州に進出したことを国際社会が認めず、にもかかわらず国際連盟を脱退したことで世界の顰蹙を買ったわけで、昭和天皇はそのことに思いを致して、松岡洋右を快く思っていなかったのであろう。

ということは、昭和天皇は三国同盟でドイツとイタリアと手を結ぶことに極めて嫌悪感を抱いていたということである。

しかれども、立憲君主として、臣下としての外交官が決めてきた条約に御璽を押さないわけには行かず、苦々しい気持ちでそれをしたに違いない。

A級戦犯の合祀という点に関していえば、靖国神社内の宮司の交代ということがきっかけで今まで合祀されていなかったものがいきなり合祀されることになったわけである。

この二人の考え方の相違というものは一体何を意味しているのであろう。

前の宮司の筑波藤麿氏と、その後に就任した松平永芳氏の考え方の違いは、それこそA級戦犯に対する所感の違い、極東国際軍事法廷に対する所感の違いであろうと思う。

それはまさしく宗教の原理主義の戦いではなかろうか。

その前に、この合祀を執り行った松平永芳氏が皇国史観の大御所の平泉澄氏と繋がっていたというのだから驚く。

そもそも東京帝国大学で皇国史観なるものが存在すること自体おかしな話だ。

もう一方の京都帝国大学では美濃部達吉の天皇機関説が槍玉に上がっている最中に、片一方では皇国史観が浮上するということは、あの時代の最高学府というのは一体どうなっていたのかと言わなければならない。

今、あの時代を語るとき、我々の視点は、すべて軍人の独走、軍部の独断専横に目を奪われているが、あの時代にも日本の大学はきちんと機能していたわけで、戦況の切迫にともなって、学生の兵役免除の処置は大幅に狭められたが、大学の先生が学生を戦争に狩り出すことはあっても、自らが戦場に赴くことはほとんどなかった。

確かにあの時代、軍人の独走、軍部の独断専横があったことは確かであろう。

しかし、これをコントロールすべきは、本来は、当時の日本の知識人層でなければならなかったのではなかろうか。

昭和の初期の時代、確かに軍人が威張っていたことは事実であろうが、その軍人というのは、明治憲法の統帥権を盾に威張っていたわけで、その不合理を論理的に、理性的に、軍人に対し、軍部に対して、又国民全般に対して説き、説明し、不合理であることを納得させ、説き伏せる役目、使命を担っていたのは何時の時代でも学識経験の豊富な文化人、知識人のはずである。

あの時代、日本の名門であるべき、帝国大学の教授達中が、そういう活動に奔走したであろうか。

昭和初期の時代に、そういう知識人の動きは皆無であった。

そこを突かれると、彼らの言い分としては「治安維持法があって自由にものが言えなかった」と反駁されるが、それは時流に嬉々として迎合していただけのことで、そこで抵抗を示す術を考えるのが、真の意味の知識人であり、真の意味のリーダーではなかったのかと問いたい。

天皇機関説問題というのは、昭和10年2月に貴族院議員で菊池武雄という元軍人の中将が、例の「天皇機関説が不適当ではないか」と論陣を張ったことが元で、それに応えて美濃部達吉本人が、この機関説を本人の口から安易に理解できるように解説する演説を「一身上の弁明」という形で行った。

この演説を聴いて、菊池武雄本人も「そういうことであれば、何ら問題はない」と一応は納得したのであるが、議場の外では、その本旨が理解されず排斥運動が逆に高揚してしまったのである。

これを今日どういう視点で見、どう考えたらいいのであろう。

この時、彼の同僚、つまり大学の同僚の教師、帝国大学の先生方は、誰一人、彼、美濃部達吉氏を応援しなかったということを我々はどう考えたらいいのであろう。

これは言葉を変えれば究極の苛めの構図であり、当時の知識階層の全部が時流に迎合し、潮の流れを見定めようとし、様子見に徹し、苛めを勇気を持って告発することなく、ただただ保身につとめた構図で、衆愚という言葉以外に言いようが無い。

それとも同じ大学の先生の書いた天皇機関説というものが読めなかったのであろうか。

一度はその学説に疑義を差し挟んだ菊池武雄氏も、本人の口からその学説を丁寧に教われば大いに納得したにもかかわらず、彼の学友というか同僚というか、帝国大学の先生方が彼をフォローしなかった、ということをどう解釈し、どう理解したらいいのであろう。

美濃部達吉の話を直接彼の口から聞いた聴衆、つまり国会議事堂の中にいた議員は、この天皇機関説の主旨を理解し、それの論説には不合理な点はないと結論つけたのに、それを直接聞いていなかった聴衆は、ドンドン既成事実を積み上げてしまったわけで、こういうことの集大成として、我々は奈落の底に転がり落ちたわけである。

この時、国会議事堂の外にいた人々、ぶっちゃけて言えば、日本の一般大衆というのは彼の説をただただ思い込みによって、人の尻馬に乗って、彼が「天皇を侮辱した」と騒いでいるだけで、この無意味な騒動を日本のメディアも大学の先生も誰一人沈静化し切れなかったのである。

これこそ究極の衆愚ではなかろうか。有象無象の衆というものではなかろうか。

こういう無意味な行動の集大成として、我々は戦争という泥沼にはまり込んでいったものと考える。

昭和の初期の時代に、軍部が暴走しかけていたことは、普通に常識のある日本国民ならば、うすうす肌で感じ取っていたのではないかと思う。

この時代、確かに左翼というのは治安維持法で追い回されていたが、普通の学者や知識人やメデイアの人ならば、軍人を慰撫し、独走を食い止め、独断専横を差し止めるぐらいの知恵とアイデアを心得ていなければいけなかったと思う。

戦後になって「あの時代には治安維持法があって自由にものが言えなかったので軍人の独走を止められなかった」というのはあくまでも事後の言い逃れで、自分も時流に便乗して、甘い汁を吸っていたということに他ならない。

自分も共犯者の仲間であったものだから、それをカモフラージュするために、時代状況が変わると、さも反政府運動に血道を上げていたような素振りをするわけである。

そういう猿芝居をすることによって、戦前は時の時流に便乗して、そのお先棒を担いでいたことを誤魔化そうとするのである。

この時に、美濃部達吉の天皇機関説を当時の日本国民は寄って集って糾弾したことは今まで述べてきたとおりであるが、今度は逆に、皇国史観の蔓延というのはどう説明したらいいのであろう。

わが祖国の天皇制というのは実に不思議な経緯をたどっているわけで、明治維新までは天皇などに重きが置かれていなくて、いわゆる征夷大将軍が日本で一番偉い人だと思われていたものが、明治維新の王政復古で、再び日本の最高権威者となったわけである。

そんなことは日本人ならば誰でも知っていることなのに、その中で何故に「万世一系の皇室を敬ばなければ」という思想が生まれてきたのであろう。

征夷大将軍も天皇の認可の下で国政を授けられていたわけだが、庶民としては将軍の上にいるもののことなど考えてもいなかったが、王政復古になったら何故に拝み倒さねばならないものになったのであろう。

これも後ろで誰かが意図的に国民世論を操作していたわけで、突き詰めて言えば、世論操作の結果だと思う。

江戸時代の封建主義的社会から脱皮して、一刻も早く近代国家にならなければならないと思っていた当時の為政者にすれば、国民のエネルギーを何かに集中させるべき目標というか象徴というかシンボライズされたものが必要であったに違いない。

そういう視点に立って、明治維新の志士たちが自分たちの歴史を見てみると、我々は時の為政者のもうひとつ上に、天皇というものを戴いていたことに気がついたわけである。

明治維新により、徳川家が版籍奉還で行政権を天皇に返上した以上、これからの世は天皇の世になると思うのも当然のことだろうと考える。

事実、明治憲法というのは、それを見事に具現化していたわけで、そこでこういう時勢になると、天皇というものを権威つける必要が出てきたものと考える。

天皇というものを学問的にどういう風に位置つけるかということだと思う。

美濃部達吉の天皇機関説も、平泉澄の皇国史観も、共に天皇をどういう風に位置づけるかという問題なわけで、美濃部氏の方は行政システムの中のトップとして、天皇を中心としてピラミット型の社会を論理的に思い描いて、これは理詰めの論理であった。

が、しかし、平泉氏のほうはただただ神がかり的な空想の産物で、何でもかんでも昭和天皇を太古からの万世一系という歴史を無視した論理を展開していたわけで、神話と現実をごっちゃにする神経は、学者の風上にも置けない、非科学的な行為であり、学究としては実に卑しむべき行為でして、何ら値打ちのないことだと思う。

現代の表現で示せば、オウム真理教の麻原彰晃と何ら変わるものではないではないか。

我々が今あの時代を検証するに、あの時代においては、何ゆえにこういうものの考え方が、時代を風靡したのかということでなければならない。

わが祖国は、明治維新で天皇を敬うことで国家の隆盛を図ろうとして、それはある程度までは成功したが、昭和の時代になると、それが行き過ぎてしまった。

明治維新で天皇を担ぎ出したということは、近代化におけるある種の方便であったのではなかろうか。

徳川家というものが、行政の手腕も方策も資金も失って倒産してしまったので、国家の象徴として何かそれに代わる物が欲しかったときに、たまたま休眠状態にあった皇室に目をつけ、それを新たな象徴として担ぎ出したという構図ではなかろうか。

明治維新で近代化に目覚めた我々は、気がついてみると富国強兵が国民的なコンセンサスになっていたわけで、その富国強兵のスローガンを後ろから後押ししたのが、天皇制という国民の力を集約するための象徴としての存在であったわけである。

江戸時代に三百余藩に分かれていたものを一つに集合しなければならなかったわけで、その為中心に天皇というものを据え、それを中心にして民族の興隆を図らねばならない、という思考が誰ともなく整合性を持ったのではなかろうか。

富国強兵の具現化の過程で、この明治維新の時創建された日本の軍隊は、日清戦争、日露戦争を経験したことで見事に実績を上げたが、この時以来、その勇猛果敢な日本の軍隊は、天皇の兵隊、天皇の軍隊なわけで、それは憲法上にもきちんと規定されていたことになる(統帥権)。

そういう社会の状況を目の当たりにして,日本の社会の中の天皇の位置というものを学問的にかつ論理的に説いた学説と、極めて情緒的に神がかり的に曖昧で極めてファジーな論説が登場したわけである。

この二つの論説の登場で、日本の社会を成す一般大衆という人々は、理詰めの論理で固められた思考よりも、極めてファジーで曖昧模糊とした雲を掴むような情緒的な論説を贔屓にしたということである。

天皇家の血統が、天照大神の代から一度も絶えた事がない、などという如何にもいい加減な論説を説く学者を我々はどう考えたらいいのであろう。

昭和初期の時代において、我々の同胞は絶海の孤島で生きていたわけではない。

太平洋戦争が始まるまで我々の同胞は世界に出ていたわけで、その当時でも、そういう視野の広い人が我々の中に大勢いたに違いないのに、何故に皇国史観が日本中の人々を捉えたのであろう。

美濃部達吉の天皇機関説が貴族院議員で問題となったのならば、平泉澄の皇国史観も、当然、国会の中で問題提起されなければおかしいではないか。

にもかかわらず、こちらの方は全くそういうことがないわけで、天皇機関説のみ問題にされるということは一体どういうことなのであろう。

こういう場面で学者とか知識人とかメデイアの人々が活躍しなければいけないと思う。

ところが、この時代、こういう人たちは沈黙を守っていたわけで、見て見ぬ振りをして時勢を掻い潜っていたわけである。

貝のように沈黙するだけでは生きて行けれないので、生きんが為に、時勢に迎合して、時勢の提灯持ちに徹し、糊口をしのいでいたのである。

この時代、治安維持法があって、不用意にものを言えば特高警察に引っ張られて、拷問を受けるという状況があったことは理解できる。

しかし、そういう状況を是正するのが学者とか知識人とかメデイアの人々であって、治安維持法だって、天皇陛下が作らせたわけでもなければ、軍部が作らせたわけでもなく、いわば国民の総意として、国会で法案が通って出来たわけで、極めて民主的な手法でもって成立しているのである。

時の為政者が共産主義者を取り締まりたいと思っていたことは事実であろう。

それだからこそ、そういう法律を国会に提出して、国会で審議し、可決されて出来たわけで、独裁者が勝手気ままに作って共産主義者を取り締まったわけではない。

その法律の運用が間違っているとするならば、それを正すのも学者とか知識人とかメデイアの人々というような有識者でなければならないわけで、「治安維持法があったからものが言えなかった」というのは事後の言い逃れ以外の何物でもない。

ただただ勇気がなかったというだけのことだ。

ここで大きな問題とすべきことは、片一方は論理的な議論の展開なのに,片一方は情緒的というか、神秘的というか、神話と真の歴史をごちゃ混ぜにした論理を展開していたということである。

この両方の説を見比べたとき、大方の知的な人々、いわゆる学者とか知識人とかメデイアの人々ならば、前者のほうに整合性があるということに気がついていたと思う。

そう思っていながら、神秘的な論理のほうの肩を持ったのは一体何故かという点を突き詰めなければならないと思う。

ここにこそ我々の民族の本質があるのではなかろうか。

昭和の初期の時代に我々が道を踏み外した大きな理由があるのではなかろうか。

あの昭和の初期の時代を考えるとき、あの時代に軍人が威張り散らしたことは歴史上の事実として万人が認めることであるが、ならばその理由はなんであったのだろう。

 

歩ピュリズムの限界

 

人間の行為の裏には何か理由があるものと考える。

人が何の理由もないのに特異な行為や行動を起こすことはありえないと思う。

私が考えるには、明治維新以降、日清、日露の戦争に勝ったことにより、軍人の活躍があったのでその後の日本は一等国になりえた、それはすべからく軍人のお陰であるから、日本中の人間が、富国強兵のためには軍人に威張られても致し方ないという、国民の側の思い入れがあったのではなかろうか。

ただ当時の日本の国民は、勝った日清戦争、日露戦争でも、結果は勝利であったが、その内情は極めて厳しい状況で、かろうじて勝てたという裏の事情を知らないものだから、戦争をすれば必ず勝てるという安易な思考に陥っていたのではないかと思う。

しかし、こういう状況、つまり国民が裏の事情に疎いので、勝った勝ったと浮かれている浅薄な思考に対して、警鐘を鳴らすべきなのは当時の学者であり、知識人であり、メデイアの人々、いわゆる有識者といわれる人々でなければならないことは言うまでもない。

ところが、人々が勝った勝ったと浮かれているときに、「実は台所事情はこうであって、決して浮かれている場合ではない」、ということを言うには非常に勇気がいるわけで、その勇気がなかったものだから沈黙を続けると、国民の側は馬鹿だから、自分達の実力も知らずに雰囲気に酔って、浮かれに浮かれてしまったわけである。

昭和の初期の時代に、日本の国民が軍人の横暴を許したということは、こういう軍人が国威掲揚に携わっているから、彼らのおかげで日本は一等国になれた、という思い込みがあったからではないかと思う。

そして、軍隊というのは富国強兵という国家目標に対して直接的に目に見える形で呼応していたので、中国の地で日本の軍隊がどんどん奥に入り込んでいくと、それはそのまま日本の版図が広がったように錯覚していたのである。

日本軍が闇雲に中国の地に押し入っていくのを、快く思っていない人が、正論を述べると、それはいかにも弱腰に見え、国益をみすみす取り逃がすかのように写っていたに違いない。

政治というものを考えるとき、どうしても統治するものとされるもの、という二分論になってしまう。

如何なる国家でも、統治する側というのは統治される側よりは情報を沢山持っているし、自分達がこの国の舵取りだ、という認識を持ってことに当たっている。

ところが統治されている側というのは、全体のことに関しては比較的無関心でおれるし、自分にとって得か損かという発想になりがちで、それは究極の自己中心主義であるが、それを政治システムとしては諫めるわけにも行かず、結果的に無責任な発言の大合唱となるわけである。

そこで民主主義の熟練度が高ければ高いほど、こういう統治される側の声を反映させねばならないわけで、その結果として、軍部に理解を示し、論理的な議論は苛め抜いて、極めて不確実な情緒的な思考になびくという結果になるわけである。

戦後の教育で、あの戦争が語られるとき、日本軍が独断専横したのだから軍隊が諸悪の根源であり、すべての責任を軍部に押し付けて、一般の国民大衆は戦争の犠牲者であり、善流な市民であった、と教わっているが、その日本の軍隊の後ろには、当時の日本国民の世論、声なき声がああいう状況を容認していた、ということには頬被りをして、歴史の事実から目を反らそうとしている。

自分達の歴史的事実から目を反らせて、観念論で歴史の反省をしたところで、意味を成さない。

観念論が罷り通るということは、皇国史観で万世一系の天皇家を信じるようなもので、またまた将来を見誤るようなものである。

昭和初期の時代の我々の軍国主義というのは、時の為政者の立場からすればはなはだ困ったものであったが、その現実を当時の知識階級という人々が究明しなかったことにその最大の禍根があったものと考える。

それは同時に明治憲法の欠陥でもあったわけで、我々は非常に律儀にこの明治憲法を遵守しようとしていたので、この憲法が持つ内在的な欠陥を是正できなかったところにことの本質があったのである。

明治憲法をほんの少し論理的に講釈しただけで、社会的な制裁を甘受しなければならない状況というのは、ひとえに国民大衆の責任だと思う。

この場合にいう国民大衆というのは、床屋のオッサンや、魚屋のオッサン、八百屋のオッサンというレベルではなく、学者や知識人やメデイアに属している人々のことで、中でも帝国大学の教授連中というのは、もっともっと美濃部達吉氏や斉藤隆男というような人たちをフォローしなければならなかったと思う。

ということは、あの世界第2次世界大戦の後では、地球規模で民主主義が賛美されたが、民主主義の世といえども国家のリーダーにはポピリズムとしての人気者ではなく、旧来のエリート層の憎まれものの中から選出しなければだめだということに他ならない。

そしてそれは出自の選別ではなく、人間の持って生まれた特質で選別しなければ行けないということでもある。

ドイツのヒットラーも無知蒙昧な大衆の人気の中から選出されたではないか。

日本の昭和初期の政治も、基本的には日本の普通選挙で選出された国会議員が、軍部をコントロールしきれなかったというところにあるではないか。

歴史を評価するに、善悪とか、正義・不正義、良し悪しという価値観ではかれないことはいうまでもない。

約100年ほど前、我々がアジアの中国大陸に進出していったというのは、善悪とか正義・不正義、良し悪しという価値判断に依拠して入っていったわけではなく、ただただ生きんが為に、民族の生存をかけて、あの地の足を踏み入れたわけで、それだからこそ日本内地の大衆は、政府の「止めておけ!」という声を無視して、それを支持したのである。

その国民的な支持、貧困からの脱出を願う行為、豊かさを希求する願望を実現をさせようとする、生き様を部外者、つまり外国、特に西洋列強から、出る杭を叩かれるというかたちで押さえつけられれば、日本の内部の国民的なエネルギーは、沸騰点にまで達するのも致し方ないことだと思う。

大衆、ポピュリズムというのは非常に無責任だと思う。

あの戦争が敗戦、つまり為政者が国の舵取りを失敗したとなると、国民は自分達が軍国主義にさんざん踊り狂ったことを忘れて、あれは統治者から強制されて踊らされた、という論理に摩り替えて責任転嫁をしてしまう。

自分達が豊かさを求めてあの地に渡ったということを忘れて、軍部が独走したと軍部に責任転嫁してしまう。

人間が豊かな生活を求めることは決して悪くは無い。

それは今日でも往々にして散見しているわけで、ホリエモンや村上ファンドの村上世彰の行為を見れば一目瞭然であるが、日本が昭和の初期の時代に中国の地で行ったことは、我々が個人としてではなくマスとしてホリエモンや村上世彰と同じことを武力で以ってしたに過ぎない。

白でもない黒でもない灰色のところに、自分の論理で自分の思い込みで版図を広げようとしたが、それを周囲の人間が許さなかったというわけだ。

確かに軍部が政府の言うことを考慮することなく独走した部分もあろうが、軍部がそのことによって国威を、ないしは国益を上げている間は、その後ろにいた国民はそれを容認しているが、その結果が失敗した時は、「それ見たことか!!」と、水に落ちた犬を叩くという形になったわけである。

 

奢った視点

 

富田メモが公表されてからというもの、その真偽が姦しいが、あのメモ騒動が言わんとしていることは、靖国神社の英霊と一口で言っても、その英霊にも色々あって、心から拝みたい人と、合祀されては他の英霊に対して迷惑で困るという御霊も含まれてしまっているということに他ならない。

私自身も、戦後60年を経過して様々な本や各地の戦跡めぐりをしてみると、必ずしも靖国神社に祭られている英霊が名誉ある戦死者ばかりではない、のではないかという思いに行き当たる。

あの戦争、日中戦争から太平洋戦争、大東亜戦争というのは、大昔の戦のように戦闘員だけの戦いではなかったわけで、国家総力戦として国民総出の戦いであった。

つまり、非戦闘員を巻き込んで、女子供も含めたあらゆる階層の人々を巻き込んだ戦いであったわけである。

前線と銃後という言葉があるが、あの戦いにはそれが全くなかったわけで、戦いの全域にその区別が存在していなかった。

そういう状況の中で、日本の軍隊というのは、国民を守るという意識が最初から最後まで全く存在していない。

それはある程度致し方ない面がある。

なんとなれば、明治憲法では日本の軍隊は天皇陛下の軍隊であって、天皇陛下は守らねばならないが、国民は守る対象に含まれていなかったからである。

しかし、天皇陛下が国民の平安な生活を望んでおられる以上、間接的に、日本の軍隊は天皇陛下を介して、日本国民を守るということが成り立たたねばならなかった。

ところがそういう発想は今日に至るまで現れなかった。

だから基本的に過去の日本の軍隊、特に昭和の初期の時代の日本の軍隊、大日本帝国陸海軍は、日本の国民を守るということは意識の中に無かった。

これは軍隊の責任だけではないと思う。

戦のプロとしての軍人、戦のプロでなくても、帝国大学の学生や先生方も、このことには全く気がついていなかった、ということは一体どういうことなのであろう。

私は、2、3年前、グアム島に観光旅行したことがある。

又、沖縄にも観光旅行で行ったことがある。そこで戦跡巡りをしてみた。

こういう戦跡巡りをして真っ先に思ったことは、玉砕した兵士たちは何故民間人を玉砕の道連れにしたのか、という疑問である。

軍人、ないしは兵隊は戦況によって玉砕ということは仕方がないにしても、民間人を道ずれにするということは兵として、軍人としての風上にも置けない愚劣な行為ではなかろうか。

サイパン、グアム、沖縄の戦場ではこういう非合理が我々の同胞によって行われていたということだ。

これほど顕著な例とは見なされていないが、満州からの引き上げ者の苦労を察するとき、この地に駐屯していた日本軍が、開拓農民を置き去りにして自分達だけ先に安全地帯に逃げ帰るという事例も数多くあったように聴く。

これが我々の同胞の軍人、軍部、兵隊、兵士達の行為であったとするならば、こういう人が戦地で死んだからといって、そう安易に靖国神社に祭ることに共感できない心のわだかまりがある。

軍人、兵士だったから、死ねば皆一様に靖国神社に祭られるでは、本当の英霊が迷惑するのではなかろうかと思う。

我々の民族としての死生観では、死んでしまえば善人も悪人もない、ということになっているが、私は納得できるものではない。

サイパン、グアム、沖縄、その他南洋の島々で玉砕された兵隊や軍人に敬意を表するにやぶさかではないが、こういう人たちが、民間人を道連れにした、ということを我々は今どう考えたらいいのであろう。

戦後60年も経って、玉砕の現場を空想して思い描いたとき、私の認識では、こういう孤島では兵も民間人も一緒に生活し、一緒に戦っていたと思うが、その中で兵のみが玉砕するということは考えられないわけで、民間人だけを敵の攻撃から守る、ということは理論的にありえないと思う。

しかし、こういう状況に至れば、軍の司令官に「民間人は非戦闘員だから白旗を持たせれば敵がそれを殺すことはあるまい、何とか生かす手段を講ずるであろう」という発想があるかどうかの問題だと思う。

その発想そのものが人間性を表し、人としての思いやりの心だと思う。

この当時の日本人、グアム、サイパン、沖縄の人々のみならず、日本中の人々があまりにも自分の命というものを安価に考えていたと思う。

それを煽りに煽ったのが、軍国主義というもので、「華々しく死ぬことが名誉なことだ」という刷り込みであったことは今更言うまでもないが、そういう状況下で、司令官も民間人も、共に「民間人保護」、「非戦闘員の保護」、という認識を最初から欠いていたものと思う。

補給の途絶えた絶海の孤島で、敵に囲まれて、こういう平常心を持つということは至難のことではあろうが、我々の軍隊には民間人を守る、保護する、救済するという思考は最初から存在していなかったと思う。

このことで、自分のほうだけを自虐的に責めるわけにも行かない。

20世紀には戦争というものが戦闘員だけの戦いではなくなって、敵味方双方ともお互いに民間人も含めた皆殺し作戦に変質してしまったので、戦闘員と非戦闘員の区別が意味を成さなくなってしまった。

東京空襲や広島・長崎の原爆のことを考えれば一目瞭然である。

しかし、そうは言うものの主権国家の軍人や兵隊が自国民の生命財産を守るのは国家として当然のことである。

この時代にも、居留民の保護という言葉は存在していたが、それは戦争への口実に使われただけで、自分達の同胞、特に民間人の保護という意識は、日本の軍隊には最初からなかったと思う。

そういうことを全部ひっくるめて、南の海で民間人を玉砕の道連れした人も、開拓農民を放り出して自分だけ脱出しようとした人も、死んだら皆一様に靖国神社の英霊、憂国の御霊として祭られるでは、私個人としては納得できないものがある。

靖国神社の主旨そのものが、戦で死んだ人の霊を弔うということである以上、「戦で死んだ」という部分に、非常に大きな乖離が生じてきていると思う。

確かに靖国神社の発端となった戊辰戦争のときならば「戦で死ぬ」、「戦争で死ぬ」ということの意味が簡単明瞭に誰にでもわかる状態であった。

ところが、その戦争の状態が国家総力戦の近代戦争となると、「戦で死ぬ」、「戦争で死ぬ」という意味が大きく変わってしまって、戦闘員でない人まで非常に沢山の数で「戦争で死ぬ」という状況が生まれ、厳密な意味での「戦闘で死ぬ」という意味が成り立たなくなってしまった。

東京空襲をはじめとする各都市の空襲や、広島・長崎の原爆被害者も皆一様に「戦争で死ぬ」という状況に放り込まれたわけで、「こういう人々は民間人だから祭れない」「こういう人は軍務ないし公務であったから祭る」では、靖国の意味そのものが変質してしまっていると思う。

A級戦犯の合祀ということは、既にそういう問題に踏み込んでいるわけで、A級戦犯として死刑判決を受けて死んだ人を、戦闘で勇敢に戦って国の犠牲になって死んだ人と同列にして良いものかどうかの問題だと思う。

A級戦犯というものを受け入れるかどうかの問題を差し置いておいて、ここで理性的な大人の思考として、靖国神社にA級戦犯を「祭るか祭らないか」で大騒ぎするということは、実にくだらない意味のない論争ではないかと思う。

先に述べた、美濃部達吉氏の天皇機関説が不敬罪に当たるかどうかの論争と同じで、又、斉藤隆夫の予算の使途を問いただしたことが反戦演説に摩り替えられたことと同じで、実に低レベルな論争だと思う。

もっとも人間が寄り集まってする政治という行為も、人間という煩悩を持った人間のすることであるかぎり、そうそう立派な行いを期待するほうが無理というものかもしれない。

戦後60年経った時点での我々の反省でも、自分で自分を卑しめることがはやる時代ということを考えれば、我が同胞を奈落の底の突き落とした我々の政治家を、公務死ということで英霊の御霊と同じところに祭ることの是非が議論されることは当然のことかもしれない。

この問題の奥には、ただ単に戦いで亡くなった方の御霊を英霊とするかどうかのまえに、A級戦犯というものの厳密な意味での考察もかなり重要な要素になってくると思う。

A級戦犯を安易にここに合祀するということの裏には、あの戦争をどういう視点で見ているのか、という問題を内包していると思う。

私の見解では、あの戦争を日本民族が生きんが為にアジア諸国にアメーバー的な拡張を狙ったものだと考えている。

だからこそ、その行為を善悪、良し悪し、善不善という価値判断では測りきれないという考えた方に立っている。

海を隔てた双方の民族が、生きんが為に日々暮らしている状況の中に、他所(ヨーロッパ)から富の収奪を目的に異邦人が入ってきた場合、それを排除するのは、それこそ民族の自決権の問題で、善悪、良し悪し、善不善という価値判断では測りきれないのは当然のことだと思う。

進歩的な知識人の言い方で表現すれば、西洋列強の帝国主義的植民地支配がアジアにまで浸透してきたことも、彼ら(西洋人)の生存権がそうさせた、という論理になるわけで、これとても善悪、良し悪し、善不善という価値判断では測りきれないことは当然のことである。

そして我々の場合、昭和の初期の時代に、自らの生存権を掲げて中国の地に足を踏み入れたとしても、これを侵略とか、抑圧とか、弾圧とか、植民地支配職という悪意に満ちた言葉で言い繕うことは非常理だと思う。

西洋列強が帝国主義的思考で以ってアジアに進出してきたのは、その基底のところに、彼らの生存権が懸かっていたわけで、それを許したアジアの人々は、自らの生存権の認識に欠けていたのである。

民族自立という意識がなかったか、極めて薄かったということに他ならない。

20世紀の初頭の中国の民には、自分達で自分達の生存権を維持、確保し、それを発展的に拡大しようという思考は全く無かったわけで、それを海を隔てた我々の側では、「そういう土地ならば、我々が行って極楽浄土を築こうこうではないか」、という発想に至ったものと思う。

その状況は、コロンブスがアメリカ大陸を発見した以降というもの、西洋人は原住民を追いやりながら合衆国を建設したことと全く同じ発想なわけで、我々から中国を見た場合、アメリカ大陸の先住民族と同じ感覚で認識されたものと考える。

この感覚そのものが我々の民族の奢った思考であったことは言うまでもない。

ところが我々の奢りにも理由があったわけで、明治維新で文明開化を経験したあと、海を隔てた向こう側を見た時、我々の目に写った中国の地は、まさしくコロンブスが発見した新大陸と同じようなフロンテイアで、文明に取り残された未開の地、野蛮人の跋扈している土地として映ったわけである。

ここで我々の同胞の中に本当に教養ある人がいたとすれば、そういう思い上がった思考を諌めるように活動しなければならなかったはずであるが、そういう人は誰も現れなかったわけである。

結果的に我々の民族全部がそういう思い上がった思考に陥ってしまった。

我々の民族の全部と言うことは、当時の日本の国民の全部ということで、根底にそういう潜在意識が流れていたので、軍部が中国に地で少々行き過ぎたことをしても、それを厳しく糾弾することをしなかったのである。

ところが、我々の国の舵取りをしている人たちは、自分たちだけのことにだけかまけているわけには行かず、周囲とのバランス、駆け引き、国益というもののバランスを考えなければならなかった。

そういう統治する側の視点としては、軍部のすることに諸手を上げて賛成することも出来ず、困り果てていたはずである。

政府が困り果てているのを見て、当時の国民大衆は政府が弱腰だと思い、優柔不断だと思い、時流の旗振りに徹していたのである。

何度も言うように、こういう状況を打開する手立ては、基本的にはその場にいて、その場の空気を吸っている知識人、教養人、学識経験者、大学教授という類の人間が、理性と知性でもって現状の不条理な行為や行動を諌める方向に世論を導かねばならなったはずである。

ところが現実には、こういう人たちも政治や外交に関する裏の事情には疎く、真の実情を知るという機会に恵まれなかった、という事情は考慮に値する。

それを見事にやりとおしたのが、ゾルゲ事件の尾崎秀美であったわけで、彼こそはあの時代の真の知識人といって言えないことはない。

彼の場合、その情報が旧ソビエット連邦を利する方向に作用したので、死刑ということになったが、知識人というのは基本的にああいう行動をして、日本国民に真の情報を提供し、現実の姿を直視させ、空想や理念に踊らされることのないように国民大衆、馬鹿な庶民、有象無象の一般人に、健全な判断をする状況を提供しなければならないと思う。

一般大衆をリードするということは共産主義者の常套手段であったが、この共産主義というものに日本の知的エリートが靡いたという事実を、人々は真摯に受け取らなければならないと思う。

日本の学識経験者の大勢の人間が、世直しのためには暴力革命も辞さない、ユートピアの建設には暴力も辞さない、金持ちは殺しても構わない、という発想に共感を持つこと自体が既に自己矛盾である。

高等教育を受けた人間が、それに共鳴すること自体が、既に世紀末の現象になっていたわけで、高等教育を受けた人間ならば、発想が逆にならなければ、高等教育の理性と知性の意味がないではないか。

そう思い、そう考えた人が多かったから治安維持法が成立したわけで、そのことは共産主義に被れた知識人が、天を向いて唾を吐いたようなもので、自分達の思い上がりが押さえ込まれたに過ぎない。

昭和初期の時代の共産主義の蔓延と軍国主義の蔓延は、お互いに干渉しつつ我々の祖国を奈落の底に転がり落ちるコースを作りつつあった。

大正時代のモガモボの時代に、浮かれに浮かれた知識人が共産主義に現を抜かしている間に、社会の底辺の貧困層の中には、軍国主義が隠花植物のように蔓延し、天皇のために死ぬことが美徳であるかのような雰囲気が広がったのである。

モガモボで浮かれた連中は裕福な層であって、そういうことで時代の倦怠を表現することが出来たが、貧しい農家の人間としては、自分の存在感を世に示すためには、華々しく名誉の戦死をして靖国神社に祭られることしかなかったわけで、それこそ英霊であり、尊い御霊であろうと考える。

 

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