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月(7月1日)が変わったその日の中日新聞朝刊、3ページに「国家の品格」という本を著した藤原正彦氏が名古屋で講演したという記事が掲載されていた。
この「国家の品格」という本はだいぶ前から本屋の店頭にこれ見よがしに平積で並べられていたが私はまだ読んでいない。
読みたい衝動に図られているが、その衝動を煽り立てるような本の題名である。
「国家の品格」とはあまりにも衝撃的なタイトルだと思う。
本というものはタイトルで相当に売れるか売れないかの違いがあるらしいが、それが真実だとしたら、それこそ、それを手にする人間のほうも、相当にいい加減な人間ということになる。
事実、本を手にするほうの側も相当にいい加減のものが多いと思う。
明治、大正時代ならば、本を持つということ、本を読むということはある種のステータスであったと思うが、今日では既にそういう状況ではなくなって、本とか活字というのは食物と同じで飽食の域にまで達してしまっている。
本の題名が売り上げを左右するということは、その内容のいかんに関わらず、見栄えが本の売り上げを左右するということで、内容は二の次になっているということである。
本を書いて、作って、売るということは、遊びでもなければ慈善事業でもないわけで、そこから何がしかの利益をひねり出さないことには、行為の意味がない筈で、大衆が表題だけで本を買ってくれることを期待するだけでは、ビジネスとして立ち行かない。
当然のこと、その内容も問われるわけで、本の題名というのは、その内容をアピールするための一つの手段ではあろうが、見せ掛けだけではとても本を売って利益を出すということはありえないものと推察する。
と、私は個人的には思うのであるが、巷の本屋さんの繁昌というか、本の多さというのは一体どう説明したらいいのであろう。
幼稚園児用から大学生向けに向けに渡って、あまりにも種々雑多な本がありすぎると思う。
その中には本当に金を稼ぐ本もあろうが、逆に全く採算の合わないものも数多くあるに違いない。
で、わたしはまだこの「国家の品格」なる本を読んでいないので、本の内容に関するコメントは出来ないが、この日の新聞のニュースとして報道されている講演に関しては、私論を述べても構わないと思う。
新聞に報道されている「壊された国柄」という項目では、初っ端に「よくぞ日本の国柄がここまで壊された、戦後、米国からの独立を目指したのに、いまや米国の属国、植民地のようだ」という出だしで現状を嘆いている。
あたかも小泉首相が訪米中で、ブッシュ大統領とエルビス・プレスリーの家、メンフイスのグレースランドを二人で訪問していた状況を正面から皮肉っているようだ。
今の日本を考えるには、好むと好まざると1945年、昭和20年まで戻らなければならないと思う。
1945年、昭和20年という時まで戻って、そこから我々の歩んできた道を再度考察しなければならないと思うが、しかしそれは死んだ子の年を数えるようなもので、今に生きている者にとっては何の価値も見出せないかもしれない。
「歴史への反省」という言葉があって、我々は歴史から将来の糧を何か見つけ出さねばならないという意味合いで使われる。
過去を振り返ることによって同じ過ちを再び繰返してはならない、過去から何か教訓を得ようとし、そう考えることが「善」だと思い込んでいる。
ところが人間の考えというのは常に変化しているわけで、地球規模で大きく捉えれば、封建主義とか、重商主義とか、植民地主義とか、帝国主義とか、共産主義とか、資本主義とか、民主主義とか様々な言い方で表現されているが、これは過去の人類がそのときどきに合わせて自分達の考え方を変化させてきたという証拠である。
地球規模で大きく考えれば、このようにイズムというもので一括りに表せるが、こういう人間の考え方の変化というのは、常に我々の身の回りにもついてまわっているわけで、当然のこと、人類としての大きな思考のうねりに追従して変わっていることは論を待たない。
1945年、昭和20年8月というのは、我々の日本民族として、大和民族としての、民族固有の思考が西洋列強、つまり白人としてのヨーロッパ系の人々の思考に敗北したということである。
武力による敗北だけではなく、精神力でも我々日本人はアメリカに負けたということである。
ここで双方について国家というものを観てみると、日本でもアメリカでも国家というのは統治するものとされるものという風に二分されている。
その現実にてらして国家というものを見れば、戦争に敗北したということは、統治する側が相手の統治するものに対して負けたということで、その下の統治されているものに関しては、この関係は成り立たないと思う。
1945年、昭和20年、日本がポツダム宣言を受諾して、昭和天皇が終戦の詔勅を発せられ、日本軍が武器を置いた。
そして9月2日東京湾内における戦艦ミズーリ号上における日本側の降伏文書の調印。
これをもって我々はアメリカに負けたと心底感じたに違いない。
わたしはこの時の感情が日米双方共にそのまま戦後60年間息づいていると思う。
特に我々、日本人の国民の感情としては、この日まで鬼畜米英、一億火の玉、本土決戦、水際上陸阻止作戦等々の戦意高揚のプロパガンダに踊らされてきた国民からすれば、目の前の現実は一体何なんだという感じ、感情、思いはそう綺麗さっぱり忘れ去られたわけではないと思う。
昨日まで声高々と言い続けてきたことは一体何なんだ!
俺達の為政者は嘘ばかり言っていたのか?
俺達は戦争指導者に騙されていたのか?
という思いは体の内側からふつふつ湧き出て来たに違いない。
しかし、そう思いつつもその瞬間からでも生きていかねばならなったわけで、生きんがためには建前も本音もないわけで、如何にも動物的に且即物的に生を維持しなければならなかった。
一方、勝ったアメリカも、当然、日本はある時期に来れば必ず報復するであろう、ということを恐れていたわけで、そうさせてはならじと対策を講ずることを忘れなかった。
それが具体的には占領政策であったわけであるが、この占領政策というのはうまい具合に日本の民主化という路線と重なり合ってしまい、それが占領政策という色調を弱めてしまった。
ことの発端がそうであるとするならば、戦争で敗北した日本が再び世界で自主権を確立した真の独立国たり得ないのも当然ではないか。
日本がアメリカの属国である限り、世界は日本の存在を認めているが、日本が真にアメリカと対等の発言をする国家であるとするならば、世界は又枕を高くして眠れない状況に陥ってしまうと思う。
日本がアメリカのポチでいるから世界は安心して日本と付き合えるわけで、今の我々日本人は世界をリードしていく気概はそれこそ持ち合わせていない。
日本がアメリカのポチでいるからこそ世界は平穏な日々がおくれるのである。
しかし、日本がアメリカのポチでいることに対して、心ある日本人が快く思わないのも当然のことで、そういう人の憤慨も理解しなければならないが、戦後60年間というもの、日本の中では非日本人の発言のほうが大きく捉えられてきたことも厳然たる事実だと思う。
この本の著者、藤原正彦氏も「エリート養成を」という項目の中で、戦後の日本の精神状況を、「戦後のGHQの政策と日教組の教育により祖国の誇りを失ったから」と述べているが、これは勝ったアメリカの当然の施策であったわけで、アメリカ、いやあの第2次世界大戦で日本の敵であった諸国は、ごく普通の人間のごく普通の心理として、「日本は何時の日か再び世界向かって再挑戦、つまり復讐の挙に出るにちがいない」と思い、それを心から心配していたに違いない。
第2次世界大戦後、日本を独占的に占領していたアメリカとしても、当然そのことを考えていたわけで、その点でもアメリカという国は日本以上に老獪な国であり、戦争を始める前から戦後のことを考えていたのである。
そのアメリカが日本をポチとして引き止め、ポチ以下にも扱わないとういう点がアメリカの非常に老獪なところである。
このアメリカの老獪さの上を行こうとしてのが、吉田茂であったが、日本の国民の側に彼の考えを真に理解したものは一人もいない。
「国家の品格」を著した作者が、戦後の日本の混迷の原因を日教組に挙げていることは当然のことであるが、日教組の根本をなしている我々の同胞について、もっともっと糾弾しなければならないと思う。
戦後の日教組というものが共産主義者の集団、ほとんど共産党と同一の組織であったという点に、一般国民としてはもっともっと注目すべきであったと思う。
自分達の子供が、共産主義の先生から、共産主義の線に沿った偏向した教育がなされたということに対してもっとももっと真摯に反省しなければならないと思う。
将来を担う子供の教育、特に学校という公共機関で、政府公認政党(日本共産党)が独善的に偏った思想教育をするということは、戦前の軍国主義教育を髣髴させるもので、民主化の時代には許されてはならず、民主教育とは程遠いものといわなければならないが、国民の側から誰も文句を言わなかった。
それは戦前は軍国主義が大儀であり、戦後は民主教育という名の偏向教育が大儀であったということにほかならず、我々は大儀という錦の御旗には平身低頭して屈服するという国民としての品格が備わっているからであろう。
学校の先生も労働者である、という論理は非常に共産主義的な発想であって、そういう発想そのものがアメリカの占領政策の中で民主的という名でもって容認されていたということである。
「学校の先生も労働者である」とする思考と、「先生というものは聖職者だ!」という思考では、どちらに品位とか品格というものが存在するのであろう。
これらの言葉は、どちらも先生という本質を極端な捉え方をしているわけで、どちらも現実とはかけ離れているが、国民の品位という点からすれば、その差は歴然としていると思う。
品位とか品格の問題はさておき、公立学校の先生が労働者であるということと、特定政党の教義を授業で教えるということは、問題の次元が違うわけで、それをぐちゃぐちゃのまま論議するところがわが民族の欠点だろうと思う。
歴史というものも不思議な因縁を持っているわけで、時代が進むにつれて昔は判らなかった真相が解明されてくるというのも実に妙なことだと思う。
アメリカの公文書館に保管されている文書の秘区分がだんだん解除され、徐々に公開されるようになると、それに従い徐々に歴史の裏側が見えてくる。
それによるとマッカアサーの対日占領政策を起案したのは1940年代のニューデイラー達で、その中にはソビエットのエージェント、つまりスパイが相当数紛れ込んでいたようだ。
そういうスパイがソビエット連邦の利益のためにアメリカの対日占領政策の中にそういう要因、つまりソ連の思惑を対日弱体化政策の中に滑り込ませて置いたということも多々あったと思う。
GHQの占領政策のなかには、日本のあらゆる組織に対して組合を作ることも推奨されていたわけで、その中には当然のように学校の先生の組合もあったわけで、その全国組織が日教組となるのは当然の成り行きではある。
ここで、国家権力の側としては、戦前、戦中、戦後をとおして文部省というものがあり、そこで戦後は日教組という対立軸が出来たが、この関係を調整する機関がとうとう生まれなかった。
ここで本来ならばアメリカの占領政策の民主主義の部分として、教育委員会という新しい存在があったのだけれども、共産主義の勢いがあまりにも強すぎて、教育委員会も共産主義の洗脳を免れず、日教組という組合を押さえ込む能力がなかったといえると思う。
文部省という国家権力と、共産主義者の集団としての日教組と、その仲を取り持つのが本来ならば教育委員会でなければなかったが、この教育委員会そのものが心情的に日教組に傾いていたと思う。
ならば何故、日教組の面々は、自分の祖国や自分の同胞を旧ソビエット連邦や中華人民共和国に売り渡すような思考に至ったのであろう。
此処に我々の先輩諸氏が1945年、昭和20年8月15日に受けた精神的ショックから立ち直れていない精神の断絶があるものと考える。
今まで、勝つ、勝つとばかり思い込み、そう聞かされていたものが、蓋を開けたならば敗北であった。
この事実をもってすれば、我々は自分達の同胞に、自分達の為政者に、自分達の天皇に、騙され続けていたのか、という不信感は、仮にその時は生き延びたとしても、生きている限り心からは拭い去ることの出来なかったと思う。
そのときを生き抜いた人たちと言えども、精神の断絶、心の怨念、同胞が信じれないという不信感にさいなまれ続けていたに違いない。
そういうものの行き着く先として共産主義があったのではないかと思う。
人間の織り成す社会、つまり近代的な国家はもちろんのこと、普通の国家を例にとっても、国の先行きを、国家の水先案内をするのは政治家と同時に学識経験者と称するインテリの人々だと思う。
いわゆる政治家のブレーンとして彼らにアドバイスする立場の人たちが何度も何度も鳩首会談を重ねて国の指針を決めているものと思うが、そのブレーンの中には当然のこと大学の先生やマス・メデイアの人々や、経済界の大御所というような人も含まれると思う。
こういう人たちが一斉に共産主義に寛容さを示すとなると、我々が古来から持っている特質が失われるのもむべなるかなという感じがする。
1945年、昭和20年という年は、我々にとって戦争に負けたというだけではなくて、その後に続く占領政策とあいまって、非常に困難な時期であったことは論を待たないが、一方、大きな革新の時期でもあったわけである。
このことについては戦後の我々の同胞もあまり語りたがらないが、アメリカの占領政策というのは、我々の政治という観点から見れば、非常に革新的なことであったわけである。
言うまでもなく、軍人の政治的関与というものは綺麗さっぱり払拭されたわけで、その意味で真の民主的議会制度に先祖帰りしたようなものであるが、問題は、敗戦という外圧がないことには、我々の政治から軍人が排除できなかった、という我々の側の政治的感覚の未熟さである。
明治憲法では明らかに天皇の統帥権というものが明示されていたので、それを軍部に握られてしまって、我々は軍部の言うことに対して文句をいう術を失ってしまった。
この統帥権を軍部の錦の御旗に仕立てたのが、政党政治家としての鳩山一郎で、彼が党利党略の目先の利益のために統帥権干犯という字句を使ったので、これが軍部によって逆利用されてしまったのである。
それで戦前の日本の政治が袋小路にはまり込んでしまったのである。
目先の利益のみを追求して止まない政党政治家としての鳩山一郎が、政府追い落としの意図の元に、ロンドン軍縮会議に主席した全権大使に対して統帥権干犯という字句を使ったので、軍縮されては困る軍部が、彼の言質を最大限に使ったことが回りまわって日本が奈落の底の転がり落ちた遠因だと思う。
問題は、ここで戦前の日本人の理性と知性が、何故にきちんと機能しなかったか、という疑問である。
昭和の初期の時代に、軍部が中国奥地にドンドン戦線を広げていることに対して、日本の軍部以外の日本人が、どういう考え方でもってそれを観ていたのかということである。
日本政府はあくまでも戦線不拡大方針であったことは言うまでもない。
日本政府が戦線不拡大方針であるにもかかわらず、軍部が政府の言うことを聞かずにドンドン戦線を拡大していったわけで、これに対して内地にいる日本国民と、日本のメデイアはどういう反応をしていたのか、ということが最大の問題だったと思う。
この時、日本のメデイアはどういう見解を示し、日本の知性の総本山として帝国大学の教授の見解、内地の政治家はどういう反応を示したか、ということが大きな問題だと思う。
こういうもろもろの経過を経た上で、日本は戦争に敗北したわけで、その戦後処理の一貫として、この時代の日本の組織の中のあらゆるリーダー的な人は綺麗さっぱり排除されてしまった。
日本のあらゆる組織の中で、旧来の指導者、統率者、統治者、管理者、監督者というのは綺麗に身を引かされたわけで、ある意味で完全に組織の刷新が行われ、人事の若返りが行われ、下克上が起き、慣れないものが管理監督する立場にいきなり立たされたというケースもあったのではないかと思う。
そういう状況下の中で、組織の下部においては組合が結成され、共産主義者が組織破壊に走りまわり、自分で天に唾して自己矛盾にはまり、自暴自棄に陥っていた。
この革新のときに、価値観が大きく180度転換してしまったわけで、この時、この価値観の転換に棹差す言辞は、ことごとく右傾化、守旧派、保守派、天皇制擁護派、戦前戦中派と、マイナスのイメージで糾弾してしまったのである。
本来ならば、こういう場面で日本の知性とか理性の体現者としての学識経験者、大学の教授連中、メデイアの首謀者や編集者というような人たちの発言が大きく物を言うべきところであるが、そういう人々がことごとく反政府の方向、つまり革新を推し進める方向に作用したものだから、旧来の価値観を保とうという力が根こそぎ引き抜かれてしまった。
そこにもって来て、国民や庶民という階級は、食うに精一杯で、とても将来のことや子供のことを考えている余裕もなく、明日の糧を得ることだけで精一杯の生活を余儀なくさせられていたのである。
敗戦直後の日本の状況というのは、まさしく革命前夜というに等しく、人間としての倫理も、論理も、常識も、道徳もあって無きが如くであったわけで、そういう状況から徐々に生を、命を、生物的な生命を回復してみれば、国の品格とか、人間の生き様だとか、属国かどうかとか、自尊心とか、民族の誇りだとか、武士道だとか、そんなもので人間が生きていけるかどうか、という問題の核心に突き当たってしまうと思う。
今、60年前を振り返ってみたとき、今日の我々の姿というのは、あの時にはとても想像も出来ない有様で、誰が今日を予想しえたであろう。
1945年、昭和20年8月に生きていた日本人の中で、今生き残っている人は、今の日本の現実が60年目に想像できたであろうか。
誰一人想像しえないと思う。
私自身、決して想像できていなかった。
子供の頃、進駐軍として日本にきていたアメリカのGIの姿を見て、何と彼らはスマートで文化的な生活をしているのであろう、これでは日本が戦争に負けるのも仕方がない、とさえ子供心にも思ったものだ。
ところが今の我々は、アメリカ以上に豊かな生活をしているわけで、こんな世の中が来るなどとは60年前には全く想像だに出来なかった。
そういう風に、日本が世界的にも最高度に経済成長したので、そこで改めて我々日本人の、大和民族の気を大きく引き締める意味で「国家の品格」と言う本を売れているのではなかろうか。
今の日本で「国家の品格」が問題になるということは、突き詰めれば経済大国としてのノブレス・オブリッジの問題が問われていることだとだと思う。
アメリカのポチのままでノブレス・オブリッジが示せるのかどうか、中国や韓国にいわれるままになっていて、ノブレス・オブリッジが示せるかどうかという問題だと思う。
ここで問題になるのが、ノブレス・オブリッジとは一体何なのか、ということであるが、この言葉を辞書で引いてみれば「高い地位に伴う道徳的・精神的義務」となっている。
これはそのまま日本の武士道に通じるものといってもいいと思う。
判りやすくする為に卑近な例で示せば、「武士は食わねど高楊枝」という戯れ歌が、武士のやせ我慢を揶揄するニュアンスで受け取られているが、これは、それほどにまでに武士というのは曲がったことをしない、大儀に忠実で、倫理を重んじ、金で魂を売ることしない、という意味と解釈すべきではないかと思う。
日本の武士というのは、西洋的な意味の貴族階級ではないわけで、彼らは極めて今のサラリーマン的な存在であったものと考える。
武士の中でも大名は本当の意味でもより貴族に近いが、それでも西洋の貴族と全く同じではない。
しかし、彼等とても農民を搾取して自分達は酒池肉林にふけていたわけではない。
ただ農民を管理運営していたという意味では彼らを統治していたということは言えるが、それでも奴隷として扱っていたわけではない。
江戸時代の大名とか武士階級というのも、西洋的な意味での搾取集団ではなかったが、この時代は、洋の東西を問わず農業が生産の主体であったことに変わりはないわけで、農業であるからには、天候の加減で豊作であったり不作であったりすることはついてまわるわけで、そういう意味で年貢が苛酷になったりすることは往々にあったものと考える。
しかし、こういう状況下でも武士階級というのは農民と共に共存共栄を図るよう、知恵とアイデアを出していたわけで、決して搾取ばかりではなかったと思う。
こういう封建主義の社会体制の中では、武士階級がノブレス・オブリッジを発揮しないことには、社会全体が成り立たないわけで、そのことは各人各層の間で、分をわきまえて生きていたということだと思う。
つまり、江戸時代という封建主義社会のなかでは、士農工商という身分制度はどうしようもなく強固に確立されていたので、それぞれの階級では、それぞれに分をわきまえて生きていたということだろうと思う。
その分をわきまえるということが、武士階級に限って言えば、ノブレス・オブリッジだったと考えられる。
ところが、明治維新で四民平等ということに成ると、それまで分をわきまえていたことの意味が喪失してしまったわけで、そのことが全面否定されてしまった。
このことは言葉を変えて表現すれば、極めて民主化された社会が出現したということである。
皆が平等にものを言い、文句を言い、不平不満を言い、政府の悪口を言い、為政者の足を引っ張り、私利私欲に走っても、誰もそれを咎めない社会が出来たということである。
それでも、明治時代のように、日本の国そのものが近代国家として未熟であり、若い近代国家であるうちは、国民を統治する側も、西洋列強に追いつき追い越せと健気な努力をしていた。
ところが、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と、戦争するたびに実績が上がってくると、ここで慢心してしまったのが我々の国の先輩諸氏であったのである。
日清戦争で台湾を手に入れてみると、台湾というのは我々と比べると如何にも未開の地、野蛮な土地であった。
又、日露戦争で朝鮮の地を確保してみると、ここも見事に未開の地であった。
こういう地に日本の軍人、ないしは軍にくっついて入った日本の商人の多くが足を踏み入れてみると、彼の地の住民は実に未開人ばかりで、逆に、我々は彼等と比べれば実に立派で、優秀で、尊大な人間に見えたに違いない。
それはおそらく西洋人がアジアに来て最初にアジア人と接触した時も、これと同じ感情を抱いたと思う。
ここで我々の側に、相手を蔑視する感情が自然発生的に生まれたものと考える。
これが我々の側の奢りであり、慢心であり、油断であり、それらを全部ひっくるめて下種な人間の浅薄な思考であったといってもいい。
ところがこういう現実を見た我々は、この地の人々を我々と同じレベルまで、生活の向上をさせなければならない、と考えそれを実践しようとしたところが、西洋列強の植民地主義と大いに違ったわけだ。
この発想こそが我々の側の下種な人間の奢りであったのかもしれない。
我々はアジアでも西洋人のように徹底した帝国主義的植民地主義に徹して、純粋に富の収奪に徹し、彼らを土人として扱っていれば、21世紀になってから彼らに舐められるようなことはなかったに違いない。
問題は、こういう下種な人間が社会の中枢に這い上がってくる社会システムに帰すると思う。
私の持論では、明治維新の四民平等にその遠因があると思っている。
明治維新で、西洋列強に一刻も早く追いつき追い越せという発想の元、政府は国民の中から士農工商の別なく、有能な人材を掘り出すべく、たった一回のペーパー・チェックでその人の将来を決定つけるシステムを構築した。
例えば、陸軍士官学校、海軍兵学校、帝国大学等々は、たった一回の試験に合格すれば後はエスカレーターのように官吏としての道が保証されたのである。
全国の有象無象の若者が、その恩典にあずかろうと集まってくることは火を見るより明らかで、事実そうなって、その中から優秀な人材が輩出したことは歴史が示している通りである。
そういう人材が、明治維新以降の日本を近代化に導いたことは論を待たないが、そういう誉れ高い良い結果を出した人は、それはそれで結構なことであるが、問題は、そういう形で歴史には登場しきれない日の当たらない人たち、つまりサイレント・マジョリテイーの存在である。
明治維新の四民平等で、官吏登用の道が階級や階層のいかんを問わず開放されたことは、非常な民主化を促したことになるが、民主化ということは、同時に、玉石混交ということでもあり、良貨が悪貨に駆逐されるということでもあったわけである。
誰でも、たった一回のペーパー・チェックさえパスすれば官吏としての道が開けるとなると、全国から優秀な若者が集まってくるということは、いわゆる狭き門に集中するということで、これはそのまま学歴偏重主義になっていくわけである。
学校の評価が上がれば上がるほどそれは狭き門になっていくということである。
学歴偏重主義に成ればなったで、その学歴を取ることが人生の目的になってしまい、又、人を見る目がその学歴だけに集中してしまうことになったわけである。
学歴だけに憧れて入ってきた人が、結果として立派な実績を残せるわけもなく、それは必然的に、事なかれ主義、責任転嫁、ことの先延ばし、年功序列に汲々とする官吏を作り出すということになる。
戦後のマルクス史観によると、如何なる国でも大衆、民衆、国民、市井の人々というのは、か弱き人々で、常に抑圧され、自分の意思で世の中を切り開く動機も勇気も思考も無いと思われてるが、実はそうではないと思う。
大衆や民衆を抑圧したかに見える為政者の側も、案外、大衆や民衆のご機嫌取りのような施策をする場面もあるわけで、人々を統治するということの裏には、そういうケースも往々にしてあると思う。
ただ、一党独裁により、国家権力が一極に集中しているような政治システムのところでは、民衆、大衆というものの価値観が最初から存在していないわけで、こういうところでは統治者の奴隷という位置づけでしかない。
ところがそうではなく、民主的で人の意見が政治に少しでも反映されるシステムにおいては、為政者の思考というのは、統治される側の意向を出来るだけ汲み取ろうと努力するものである。
そういう意味で、戦前の日本の政治が道を踏み外していったということも、それはある意味で、国民の意識の具体的な意思表示、ないしは願望であり、あるいはそうありたいと思う希望の現れであったと思われる。
明治維新の四民平等で、官吏への登竜門が門戸開放されたならば、日本中の優秀な人材が我も我もとそこに集中するということはこういうことだと思う。
問題は、この「日本中の優秀な!」という点にあるわけで、たった一回のペーパー・チェックでそれが決まるということは、そこには山勘が作用することもあれば、もともと卑しい心根のものが紛れ込むこともあり、立身出世のみしか関心を示さないものとか、単純な点取り虫が紛れ込むこともあり、家が貧乏だから授業料免除の学校に来たとか、その動機に不純なものがいたとしてもそれを排除することは非常に難しいと思う。
江戸時代の士農工商の身分制度の中で、その一番上の士の階層というのは、全人口の10%にも満たないと聞くが、もしそうだとすると残りの90%の人間は、四民平等によって一斉に立身出世のレースに参加できたことになる。
この時代、明治の初期の段階で、我々の社会はまだ近代化されておらず、父祖伝来の職業、つまり、これは額に汗して働く肉体労働であるが、から逃れたいと思っている人々にとって、官吏になることは一番の憧れだったと思う。
だからこの時代、つまり明治時代に陸軍士官学校や、海軍兵学校、ないしは東京帝国大学に行くということは、当時の日本国民の潜在的な民族的思考であったのである。
江戸時代に士族でなかった残りの90%の人々は、出来うれば官吏となって、父祖伝来の肉体労働から解放されたいと思っていたに違いない。
けれどもそこにはペーパー・チェックという関門があったわけで、これはおいそれと突破できるものではなかったわけである。
だから逆に、そこを突破した人は、もうそれだけで国民の羨望の的になりえたわけで、陸士、海兵、帝大というだけで自分達とは違う人種だ、という新しい価値観というか階級制度というか、羨望と羨ましさが混じった感情が出来上がったのではないかと想像する。
だから、それ以降の日本では、こういうものを頂点とした裾広がりの学歴偏重社会が出来上がったのではないかと思う。
国民の全部が、右肩上がりの上昇気流に乗ることを目指し、その曲線から少しでも外れると、自分は学歴がないからだとか、俺の卒業した学校はレベルが低いからだとか、世間のあらゆることを学歴と結び付けてものを考えるようになったのではないかと思う。
世間がこうなると、それに如何に応えるかが為政者の指針になるわけで、学歴偏重とは言いながらも、国民全部の知的レベル、つまり国民の知識の底上げということは、全体的に見れば国全体としても大いにメリットがあるわけで、そのことによって我々の国はアジアでの近代化レースに勝利したということも成り立つ。
問題は、国民の知的レベルが大きく底上げされたといっても、それは国民のモラルの向上にはいささかの影響も与えなかったということである。
貧乏な水飲み百姓のこ倅が、有名大学を出て官吏になる。
するとこの人物は官吏という地位を悪用して私利私欲の蓄積に奔走し、産を成すこと憂き身をやつすという構図が想像できる。
これでは高等教育がモラルの向上に何一つ貢献していないわけで、ただただ守銭奴を公費で養ったというだけのことではないか。
こんなことは、高等教育を受けた人に第3者が説くべきことではないはずで、問題は、それほどにモラルの低い人間でも、たった一回のペーパー・チェックさえクリアーすれば、その人が潜在的に持つモラルは何一つ問われないということである。
高等教育、つまり学問を究めるということ、はたまた学識経験をつむということは、江戸時代ならば全人口の10%の武士階級の中の更に限られた人か、ないしは他の階級であれば、相当に人望の厚い篤志家としての大商人か庄屋ドンでなければありえなかったわけで、そのこと自体が特権階級の特権であったわけで、下々のものではあずかり知らぬ存在であった。
それが明治維新の四民平等という民主化政策と、学制の改革で、猫も杓子も教育の機会が与えられるようになると、そのことを立身出世のばねに利用しようという庶民の発想も当然湧き出てくるのである。
そのこと自体は決して悪いことではないが、教育の向上と、モラルの向上が一致しない点が大いに困るのである。
人間という生き物は、欲望を持っているわけで、人間以外の生物には、この欲望というものがないので、ただただ運命の命ずるままに自己の生き様に何一つ加えようという欲望を持たない。
けれども、人間に限っては、如何に楽をしようか、如何に金持ちになろうか、如何に名誉を得ようか、という欲望を払拭しきれないので、どうしても目先の誘惑に負けるということになる。
来世にまで、自分の得た富や権力をもっては行けれないということが十分にわかっていながら、その煩悩に打ち勝てない、という弱い面がある。
江戸時代までは厳然とあった身分制度の元で、分をわきまえて生きていたものが、明治維新になって四民平等になり、学制の改革でもって立身出世のチャンスが平等になったとたんに、一般大衆、一般庶民、一般の有象無象の人々が、そのチャンスに群がったのが明治以降の日本人の生き様であったと思う。
この向上心が、明治以降の日本の近代化に大きく貢献したことは認めざるをえないし、それがあったればこそ、日本がアジアのリーダー足りえた事実も注視しなければならないが、それが同時に、アジアの人々に対する蔑視に繋がったのも厳然たる事実だと思う。
こういう状況を招いたということは、とりもなおさずモラルの低下ということに他ならない。
江戸時代においては、我々は、それぞれの身分に応じて分をわきまえて生きてきたものが、一気に知的下克上の世界に放り出されたわけで、人としての倫理に問題を抱えた人間までもが、一回のペーパー・チェックで統治する側になってしまったところに問題があると思う。
ある意味で、我々日本人のあからさまな奢りだと思う。
人が奢るということは、我々の従来の価値観からすれば一番卑しむべき倫理であるにも関わらず、それがアジアの人々に対しては盲目になってしまったわけで、それが奔流となって、我々は奈落の底に集団で転がり込んで行ったと考えざるを得ない。
そして、我々の中の大衆といわれる有象無象の人々は、日清、日露の戦で勝ったことによって奢ってしまったが、それに対してブレーキを掛けるべき存在が、本当は、大学教授やマス・メデイアの人々でなければならなったはずである。
なんとなれば、こういう類の人々は、一般の有象無象の大衆よりは高度な教育を受け、学識経験共に一般大衆よりは優れていたはずだからである。
そのための高等教育ではなかったのかと言いたい。
ところが、明治以降の日本で高等教育を受けた人々も、基本的には有象無象の一般の大衆と同じレベルの思考や発想しか出来なかったということである。
為政者の発想というのは、国民の思考や発想とかけ離れた施策というのはありえないわけで、明治以降の日本の政治が民主的であればあるほど、国民の潜在的な願望を実現する方向に傾くはずである。
だから、その風潮を煽りに煽る存在が大学教授とかマス・メデイアに携わっていた知識人といわれる人々で、こういう人たちが社会の木鐸としての使命を忘れてしまったところに、大きな禍根があったと言ってもいいと思う。
戦後の民主教育では、戦前、戦中を通じて、日本の一般大衆は一部の軍国主義者に騙されて、戦場に駆り出されたという論調であり、昨今の中国の日本に対する内政干渉でも、こういう論調で迫ってきているが、こういう史観は成り立たないと思う。
この史観に立てば、我々日本民族というのは、軍国主義者という憎き悪漢と、善良で健気な国民という二極化で語らねばならないことになるが、そんな馬鹿な話はありえないわけで、我々日本民族は何処でどう切っても日本人であり、その日本人の中には悪い奴もいれば善良なものもおり、モラルを欠いたものもいれば謙虚な人もいたわけで、そういうものを全部内包したままで日本人、ないしは日本民族という国の輪郭、モナカの皮、つまり国家というものが出来上がっている。
そこで「国家の品格」ということになれば、国家の中身の品位ということになるわけで、それはひとえに、国民全体の品位、民族としての品位ということだろうと考える。
そこで1945年、昭和20年8月という時を境目として、戦前、戦中と戦後というわけ方をした場合、戦前、戦中の我々の国家の品位というものはそうそう悪いものではなかったと思う。
ただ相手の立場から見れば、日本という国に抑圧された、という印象を受けるであろうが、それは今日的な視点で60年前のことを見るからそういう印象に浸るだけのことで、その当時の視点で見れば、相手方にもこちらを非難する資格はないと思う。
前にも述べたように、戦前において海外に出て行った日本人のすべてが善良な人間ばかりでなかったことは当然であるが、それにもまして相手は野蛮で、未開人で、敵対的であったわけで、それは日本人が品位に欠け、傲慢であったという視点とは又違ったものでなかったかと思う。
相手方に、こちらを非難する資格がなかった、という点が既に日本側の奢りであるということは否めないと思う。
戦前、戦中に、我々の先輩諸氏が「奢っていた」ということと、今日の日本の有識者がアジア諸国に対して「媚び諂う」ということの間には大きな違いがあると思う。
「奢り」も「媚び諂う」こともモラルの上ではどちらも良いことではなく、それこそ「国家の品格」が問われても仕方のないことではあるが、問題はそれを行っている主体である。
戦前の日本人の「奢り」というのは、それこそ草の根の奢りであったと思うし、昨今の「媚び諂い」というのは日本の有識者の行為であり、日本の有識者が自分達の為政者に向かってアジア諸国に対して「媚び諂いなさい」と強要している点が大いに異なると思う。
昔も今も、我々の同胞は聖人君子ばかりでなかったことは当然であるが、仮にそうであったとしても、私利私欲でアジアの人々を搾取したわけではなく、あくまでも日本全体に貢献することによって、アジア全体を底上げしようとした意図が、結果的に相手国に苦難を強いたという面が往々にしてあったと思う。
仮に、台湾の支配にしろ、朝鮮の支配にしろ、満州国の建設にしろ、これらは西洋列強と同じような帝国主義的植民地支配ではなかったわけで、我々と同じレベルまで、彼の地の人々の生活を底上げしようとしたことが、日本の敗戦ということで中途半端に終わり、彼らは好むとこのまざると、戦勝国に名を連ねることになってしまったので、自分達が強いられた苦労を省みて、「抑圧された」という言い分になったわけである。
立場が変わると掌を返したように対応を変化させる点でも、当時の日本人は、彼らの本質を当初から見抜いていたが、彼らの本質に対抗するために、彼らに対して尊大な対応となって、日本人と同じレベルのモラルにまで引き上げようと同情心を起こしたことが我々の側の奢りとなったのではないかと思う。
そう考えること自体が我々の側の「奢り」だったと言えなくもない。
我々も西洋列強と同じように、現実を直視して、リアリズムに徹し、彼らのモラルを引き上げようなどと考えずに、徹底的に富の収奪にだけ撤しておれば、戦後、彼らに侮られることもなかったかもしれない。
今の我々、つまり21世紀に生きている我々日本人は、中国や韓国の内政干渉について、我々が相手から侮られて、馬鹿にされているという感覚を持っていないのかもしれない。
今日においても日本の政府として統治する側は、相手が我々を侮っているから相手の言うことには屈せれないと考えているが、政府の関係者以外の人間、つまり有識者とかマス・メデイアの人とか、評論家というような人は、日本政府が相手から侮られようが、馬鹿にされようが、自分の利害得失には全く関係ないわけである。
今の日本は、この地球上でアメリカに次ぐ経済大国になっているが、20世紀までの世界の常識では、経済大国ということは、そのまま軍事大国であるというのが普通であった。
我々も100年前は富国強兵ということが国是であったわけで、それは経済大国であると同時に軍事大国になるということでもあったわけで、今の我々は経済大国ではあっても、軍事大国ではないので、その意味では世界から崇高の目で観られて当然でなければならない。
ところが、日本人以外の人は、軍事大国でない経済大国などというものに何の価値も見出していないので、だからこそアジアの周辺諸国は日本を侮っているのである。
しかし、我々はいくら侮られても、馬鹿にされても、いくら謝罪を求められても、国の舵取りを任された為政者は何とかしっぺ返しをしてやりたいと思っていても、肝心の国民の側は、いくら辱められても、自分達の利害得失に直接影響するものではないので、相手側の思惑のみを慮るのである。
ということは、結果として相手の国益に奉仕しているが、そのことによって自国の国益が目に見える形で侵害されているわけではないので、無責任に、のんきに構えているのである。
我々は1945年、昭和20年8月というときには非常に大きな価値観の転換を強いられた。
今まで、勝つ、勝つと教えられ、そう信じてきたものが、一夜にして無条件降伏、厳密にはそうではないが実質これに等しい降伏の仕方で、敗戦となり、我々はアジアで悪いことをしてきたのだ、という価値観に転換してしまった。
問題は、この時点で生き延びた我々の同胞のその後の生き様だと思う。
この時、20歳前後の方は今は80歳を過ぎた老人になっていると思う。
戦後の世相は、この世代の肩に掛かっていたと考えて間違いないと思う。
終戦のとき20歳前後の方々が良きにつけ悪きにつけ戦後の日本を背負ってきたものと考えざるを得ない。
で、そういう方々が戦後という世相に対してどういう感想というか、対処の仕方というか、取り組みというか、将来像を描いていたかということになると、現実の問題としてその時点でそういうことを考える余裕はなかったと思う。
こういう混沌とした世相において、大衆をリードすべき社会的使命を持っていたのは、本来ならば大学の教授とか、マス・メデイアの人々とか、知識階級の人々でなければならかったと思う。
旧軍人というのは完全に社会的な信用を失墜しているので、その存在さえも否定されており、出る幕はなかったと思う。
しかし、戦後という混沌の時期に、日本のインテリゲンチャというのは、その社会的使命を果たしていたであろうか。
巷には闇屋、担ぎ屋、三国人、予科練くずれ、復員軍人、引揚者、浮浪者、戦災孤児、赤線、青線、パンパンが、必死で明日の糧を求めてさまよっているときに、日本のインテリゲンチャという人々は、そういう人々に希望とか、明日の夢を語りかけたであろうか。
日本の再建について熱く語っていたであろうか。
メデイアは旧悪を暴くのみで、これからの日本再建について熱く語りかけたであろうか。
現実の問題として、あの時点で生き残った人々は、当時、そのような夢について語り合う余裕はなかったに違いない。
誰も彼もが、自ら食うに精一杯で、将来のことについて語り合う余裕などなかったものと思う。
我々は、戦前、戦後を通じて、為政者の悪口はいくらでも言うことができるが、こういう状況下でも為政者というのは国民を放り出しておくわけにはいかなったと思う。
国民の一人として、為政者の施策が自分では気に食わないといっても、為政者が国民を放り出しておいたわけではないと思う。
しかし、戦前の為政者も国民を思う気持ちは同じであったかもしれないが、国民の側がイケイケドンドンという雰囲気で、それを為政者がフォローしたという部分があったと思う。
こんなことを言うと戦後の知識人から相当にきつい反撃を蒙るかもしれないが、共産主義の独裁体制でもない限り、為政者の行為、つまり行政というのは、国民の潜在的願望を具現化する行為だと思う。
ただそうは言っても、国民の声というものも色々あるわけで、現実の為政者の行為が国民の思っていることと一致するとは限らないので、その意味で国民の不満というのは常に存在するのも致し方ないことではある。
そういうことを前提条件として、1945年、昭和20年8月以降の日本で生き延びた人々にとって、当面の問題は、その場その場を如何に生きるかと言うことだったと思う。
そして、そういう混迷の時期がしばらく続いた後、アメリカの占領政策がだんだんと機能してくるようになったとき、それとは逆に、その時期を生き延びた我が同胞は、自分達を奈落の底に追い落とした自分達の同胞に対して、恨み辛みと怨恨がじわじわと沸きあがってきたに違いない。
だから、それを基点として、その後一切同胞を信用しない、自分達の政府を信用しない、自分達の為政者は敵だ、という信念を持ち、自分達の政府よりも共産主義国の政府に協力しようという思考に陥ったものと思わざるを得ない。
又、不思議なことにアメリカの対日占領政策と、共産主義の唱える日本の民主化というのは見事にその軌跡が一致しているわけで、あの時代の日本の反政府勢力と、アメリカの対日占領政策では利害得失が重なり合っていたのである。
それは当然のことである。
というのも、アメリカというよりも世界の普通の常識では、1945年に一度日本が敗北しても、いづれ日本は再び国力を整えて連合国に挑戦してくるに違いない、という考え方が普遍的なものであった。
だからアメリカはもちろんのこと、ソビエット連邦も、日本に再びそういう機会を与えてはならない、そうならないように日本を去勢しておかなければならない、と考えたわけで、アメリカはその線に沿って占領政策を行った。
ところが戦後の日本の知識人達は、自分達が国家として去勢されているにもかかわらず、そのことによって戦争に組み込まれていないので、平和だ、平和だと勘違いして自分が去勢されていることにも気がつかないのである。
戦後の日本で、こういう志向が一般化したのは、言うまでもなく戦後の日本の知識階層の責任である。
彼らが戦前において同胞の為政者から嘘で固められた施策を強要され、その結果として、膨大な犠牲者を出したことへの復讐として、同胞の為政者の行いというものは、すべて悪魔の所業だという認識を国民の全部に鼓舞宣伝したことによる。
この時の日本の知識階層、いわゆる大学教授やマス・メデイアに従属している人々、又それに付随する評論家と称する人々の言動と発言は、アメリカ占領政策にとっては非常に有益に作用し、そのことは共産党のしようとしていたこととも見事に一致していたのである。
アメリカの占領政策の究極の目的は、日本人の従来の価値観の大転覆と、再びアメリカに歯向かうことのないように精神的な去勢をすることにあったわけである。
このことは、革命の輸出をしようとしていたソビエットの意向とも一致していたので、ソビエットのことならば何でもありがたがる日本共産党も、それに応えようと大なる努力を払ったわけである。
問題は、戦後の日本の知識人の階層が、この共産党に媚び諂い、擦り寄ったことにある。
同胞の為政者が信用ならないのは言うまでもないが、その為政者はアメリカ占領政策を忠実にトレースしているので、その為政者に対抗するには、共産主義の方に身を置かねばならなかったわけで、それでなければ自分の存在感がアピールできなかったのである。
戦後の我々日本人同士の政治闘争を省みると、我々の同胞は極めて好戦的な民族だと思う。
口では反戦平和を叫び、戦争を非難し、平和主義を標榜している人たちも、口先で言っていることと、己の行動は極端に乖離しており、口先で言っていることは、全く信用ならず、極めて好戦的な人々だと思う。
戦前のワシントン軍縮会議の結果に不満で起きた日比谷公園焼き討ち事件、戦後の安保反対運動、学園紛争、成田闘争等々、これらの事件はすべて平和を希求する人々の暴力行為ではなかったか。
反戦平和を唱えながら、暴力を振るうということをどういう風に解釈すべきなのであろう。
しかも、この行為が与太者や浮浪者や、博徒の集団威嚇行為ではなく、日本の大学の学生の引き起こしている行為であるとするならば、学生本人も、その大学の教授も、その学生の親も、この学生の暴力行為、無法行為、破壊行為、世の知識人も、メデイアも、それをどう考えていたのであろう。
戦前は軍人が日本の大衆、民衆、国民をミス・リードしたというのであれば、戦後は日本のインテリゲンチャ、知識人、マス・メデイアが、日本の国民をミス・リードしたといっても過言ではないと思う。
ただし、戦後のミス・リードは、ミス・リードではあっても、人の命に関わることではなく、他国に迷惑をかけたわけでもないので、その意味で、こういう人々は胸を張っているのかもしれないが、その分、日本の国際的な品位、品格が落ちたことも確かだと思う。
戦前の我々の価値観では忠君愛国が最も価値ある考え方であって、国家のやり方に棹差すような思考は許されるべくもなかった。
だから戦前の日本のインテリー達も、国家に歯向かうようなことは心の中で思っても口に出して言うような愚は犯さなかった。
ところが、戦後はこれが180度転換してしまったので、心の中で思ったことは何でもかんでも口に出して言い、行動で示さなければ再び国家に騙される、国家は国民を奈落の底に突き落とすものだから信用してはならない、という思考が普遍化したのである。
そうなった最大の理由はマッカアサーの占領政策にあったことは当然であるが、その直接的な理由よりも、占領政策を実施する段階における行政の措置の拡大解釈によるところが大きいと思う。
言葉を変えて言えば、行政の各段階における下克上の風潮がそういう国民の側の思い上った志向ないしは奢りを逆利用したというところにあると思う。
例えば、国鉄の職員が毎日きちんと列車を運行させる、小学校の先生が毎日きちんと学校で授業をしている。
これではメデイアとして何もニュースにならないわけで、国鉄の職員や学校の先生が禁止されているストをするからニュースになるわけである。
そして、そのニュースをただただ客観的に真面目に事実だけを報道してても面白くもおかしくもないわけで、それに対してもっともらしいコメントを添えるからメデイアがメデイアとしての存在感を発揮できるのである。
戦中においては、メデイアが真面目に客観的な事実でさえ報道することが阻害されたが、それは、事実を面白おかしくするためにありもしないことを書き立てられないようにする予防措置でもあった。
自分達の負け戦であれば、当事者としての為政者の側も隠しておきたいという心理も当然のことだと思う。
しかし、メデイア全体として、自らが報道する内容が無責任極まりないという点では、戦前も戦後も変わらないわけで、戦前ならば戦意高揚という趣旨に沿って「百人切り」というような嘘の報道が罷り通って、結果的には2人の陸軍将校が冤罪のまま汚名を削がれることもなく逝った事実さえある。
この例でもわかるように、メデイアというのは国民の潜在的願望を如実に内包していると思う。
戦前の富国強兵、忠君愛国、一億総火の玉、本土決戦という思考も、為政者の究極の選択であると同時に、国民の側の潜在意識でもあったものと考えざるを得ない。
一人一人は本土決戦などしても意味がないと思っていたとしても、メデイアがそう書き立て、ラジオがそうわめき立てれば、それは当時の日本国民の全部の総意、総和、潜在意識であったといわざるを得ない。
ところが現実には当時の日本でたった一人それに異を挟んだ人がいたわけで、それが昭和天皇であった。
たった一人の日本人の決断で、我々は民族の絶滅の危機から救われたのであるが、戦後のメデイアは、その事実にも光をあてようとはしない。
なんとなれば、メデイアとして戦前はその人の名を語って戦意高揚の大宣伝をした手前、戦いに敗れたからといって、再びその人の名を使えないからである。
そこで戦後のメデイアというのは為政者、つまり政府をこき下ろすことにしたわけで、政府をこき下ろしている分には誰も傷つかないわけで、メデイアとして一番無難な安全地帯なわけである。
ところが、こういう風潮というのは良識ある人からすれば非常に嘆かわしきことでなければならないわけで、教養、知性のある人ならば本来そういう風潮を戒める方向に思考をコントロールしなければならないと思う。
確かに、為政者のしようとすることにも反対意見というのはあって当然ではある。
だからといって、為政者、政府のいうことに何でもかんでも反対では物事は先に進めないわけで、そのために多数決原理で、過半数の賛成があればものごとを前に進めましょう、というのが民主主義というものであろうと思う。
1945年8月に戦争が終わって、それから1951年、昭和26年までアメリカの占領政策が行われ、この年の9月に日本はサンフランシスコ講和会議で再度独立を承認された。
これを推し進めたのが吉田茂であったが、この時、東京大学の数名の教授達が徒党を組んで、平和問題談話会という組織を作って、吉田茂が講和条約を締結しようとしたことに対して反対したことがある。
この大学教授たちの言い分は、中国やソビエットが納得しない講和条約では、何時また戦争に巻き込まれるかもしれないから駄目だ、という言い分であったが、その後の日本の歴史はアメリカを中心とする自由主義陣営に身をおいたからこそ、経済復興もありえたわけで、日本の有名大学の先生方の未来予測は根本から間違っていたということになる。
日本の有名大学の先生方が大勢集まって鳩首会議をして、その結果として吉田首相の施政は間違っているから反対しようということになったものと想像するが、だとしたら、この先生方の未来予測こそ間違っていたわけで、為政者に対して反対したという政治的行動の責任はいったいどう考えたらいいのであろう。
日本の旧帝国大学の大学教授が間違ったことを言っていた、という責任はかなり大きなインパクトがあるのではなかろうか。
こういう立派な大学で、立派な大学教授から、嘘を吹き込まれた学生は一体どうなるのであろう。
これでは戦後といえども、戦前の大本営発表の嘘を糾弾することさえ出来ないではないか。
日本の国立大学の著名な先生が、若い学生に嘘八百を教えていたことを納税者としての我々はどう考えたらいいのであろう。
戦争で敗北した我々は、仇敵から思想・信条の自由というものをありがたく押し頂いた。
これによって戦前・戦中、治安維持法によって牢獄につながれていた共産主義者たちが野に放たれた。
共産主義というものは、その中身は実に立派で、ユートピアを指し示していることは理解できるが、問題は、そこに至る過程で暴力を肯定して、武力行使によってその目的を成さねばならないと言い募る点にある。
だからアメリカ占領軍も一旦は日本共産党員を解放したが、その彼らが解放されたことに有頂天になり、奢り高ぶって自己を見失い、傍若無人な振る舞いをするので再び非合法にされてしまった。
で、戦前、戦後を通じて、日本の大学で、この共産主義というものを象牙の塔の中だけで研究している分には問題はないが、ここでミイラ取りがミイラになってしまって、その思考を実践しなければならない、という風潮になってきた。
これはある意味で戦前の軍部が、政府の方針を無視して大陸にのめりこんでいった構図と瓜二つである。
大学という研究の場で、研究が行過ぎて、その思考の実践というところまでのめりこんでしまった図である。
軍人と大学教授の違いはあっても、本来ならは自分の分をわきまえて、分に応じた行為ならば非常に意義のあるものが、それぞれの分を逸脱して、他からのアドバイスを全く無視し、唯我独尊的な行動に走ったので、再び為政者の捕縛を受けるようになってしまったのである。
大学の先生方が、自分の政府に対して反対の意思表示をするということは、メデイアにとって格好のビジネス・チャンスであって、それこそ無責任極まりない報道を撒き散らしたのである。
一般の社会で真面目に社会生活を営み、真面目に仕事をしている人たちが、このメデイアに接したとすれば、我々が選挙で選んだ政治家はこんなに悪いことをしているのか、ならばこれからは革新の方に票を入れなければならないなあと思うに違いない。
現代という時代においてはメデイアの役目というのは非常に大きなものがあると思う。
統治する側もされる側も、メデイアを自分の側に取り込みたいと思っているに違いないが、その中で正義とか、善とか、普遍的な価値観とか、倫理とか道義というような信義にかかわる内容のものは俗に言うインテリーと称せられる人々が率先垂範して実践しなければならないと思う。
メデイアを利用して自分を利害得失のみを鼓舞宣伝しているようでは、その人の知性と理性が泣くというものである。