060611001

問題提起「死!!」

 

ガンとタバコ

 

私もだんだん歳をとってきたが、私が歳をとると同時に周りの人たちもそれ相応に歳を召してきた。

70歳代の親戚知人が多くなったが、考えて見ると人間が70歳代まで生きるということは非常に恵まれた状況におかれていることだと思う。

ついこの前まで、人の寿命は人生50年といわれていたわけで、定年も55歳であった。

そのことは我々の認識として、人間の生命は50歳から55歳ぐらいで尽きると思われていたということだ。

それが70歳代まで生きられるということは非常にありがたいことだといわなければならないと思う。

私は8年前に舌ガンを患って、ある意味で命拾いというか、死線を超えたというか、生き延びたという感じがしないでもない。

発病したときは、まだ現役だったし、息子も娘も片ついていなかったし、父も生きていたので、今死んでは死に切れないと、心底思ったものだ。

自分の歳で58歳ぐらいで、定年前の時期で、男の人生として一番変動のありうる時であったことは確かだと思う。

事実、出向させられて、慣れない仕事を歯を食いしばって家族のためにがんばっていたときでもあり、そういう時にガンと言われて、ショックを受けないはずがない。

闘病中は病気を治すことに神経を集中させていた。

そして、退院し、社会復帰し、めでたく定年を迎えたときは本当に心からホッとした。

やれやれこれで俺の人生も一つの関門をクリアーしたぞという気持ちになった。

私は若いときにそれこそ若気の至りというもので、無鉄砲にも2、3職場を変えたことがあり、人さまよりも人生を踏み出すのが10年近く遅かった。

それでも一つの会社に30年も辛抱したということは、心底、自分自身を褒めてやりたい気持ちになったものだ。

それから、息子や娘がそれぞれ身を処して一家を構えてくれたときも、これでだんだん俺の肩の荷も降りていくなあ、と実感のこもった思いがしたものである。

ガン治療の処置がよかったのであろう、ガンを克服して生き残ったという感じがするが、私自身はこれで完治したなどとは思ってもいない。

ガン治療を受けたときから、俺の体の中にはきっとガン細胞が生き残っているに違いない、と思い続けている。

決してガンを克服したなどと考えてはいない。

ガンとともに生なければと思っている。

完治などと奢った気持ちはさらさら持たないようにしている。

ガン細胞が体の中でおとなしくしているだけで、それがおとなしくしている間にすべきことはすべてし尽くしておかなければならないと考えている。

だから人生のある区切りとして、父の死、定年、息子の結婚、娘の結婚、それぞれの孫の誕生というものが時系列で押し寄せてくると、それらを一つ一つクリアーしていくことが自分自身の生きている限りの勤めだと考えている。

ガンを患った以降の私の生き方というのは、ある種の受身の考え方で、神か仏か、そういう人間を超越した何かに生かさせてもらっている、周囲の人々に生かさせてもらっている、周囲の人々に対する感謝の気持ちを忘れてはならない、という捉え方である。

それは見方によれば受身であるが、別の面から見れば開き直りでもある。

自分を無にすれば、見方によって受身にも取れるが、別の角度から見れば開き直りという風にも見えると思う。

ガンとタバコ。

これはガンにかかわろうがかかわるまいが、社会的な問題となっているが、私の場合、ガンになる前から随分永いことタバコを吸ってきた。

それでガンになったので普通の人ならばここで当然禁煙をするであろうが、私にはそれが出来なかった。

入院中からタバコに手が出ていた。

手術の後だから最初は私も遠慮がちに吸っていたが、社会復帰するころには、もう元の木阿弥という状態であった。

タバコが体に悪いということは、何も人から言われなくとも判っている。

問題は、そのことを鬼の首でも摂ったように、錦の御旗に見たてて禁煙を迫る傍若無人な世論というものの存在である。

例えば、受動喫煙という言葉がある。

タバコを吸っている人のそばに居るだけで喫煙の被害をこうむるから何とかせよ、という論理であるが、こういうことがタバコは悪いという大儀の前で大手を振ってまかり通るという社会現象が問題だと思う。

タバコを吸っている人が居れば、自分がその人に近づかなければいいだけのことであるが、自分の行為を正当化しておいて、人がタバコを吸うことを「体に悪い」という大儀でもって糾弾するという論法は、我侭以外の何物でもないと思う。

これは、そういうことを言う人の我侭だと思うが、世間ではこの我侭を我侭と正面から言わないものだから、何となく正しこととして通ってしまっている。

タバコが吸う人本人は、タバコが体に悪いことは、人から言われるまでもなく吸っている本人自身判っていると思う。

ところが受動喫煙という言葉は、あまりにも拡大解釈だと思う。

締め切った部屋のなかで何人もの人がもうもうとタバコをふかし、自分だけは吸わないので受動喫煙というのならば理解できるが、そんなところには最初から入っていかなければいいわけで、それは個人の責任だと思う。

ところが昨今では、こういう個人の責任というものをあまり吟味することなく、何でも悪いことは社会の責任として行政に追い被せようという傾向になりつつあるような気がする。

昨今の嫌煙権の問題は、何も日本だけの問題ではなく、世界的な動きとなっているようであるが、我々は世界のこういう動きを察知すると、それを国家のプロジェクトとして成果を上げようと期待し、努力する傾向が顕著にあると思う。

タバコが体に悪いから、禁煙運動を全国規模で展開して、日本から喫煙者を一人残らず排除しようというプロパガンダに完全の踊らされてしまっている。

タバコを吸うことが社会的な悪だと認知されると、それこそ猫も杓子もその風潮になびき、タバコを吸う人を糾弾し、差別的な扱いをするというのは、完全なるファッショ的な傾向であるにもかかわらず、誰一人自分達のしていることがファッショだなどと思ってもいない。

タバコを吸う人は人であらずというような傾向がとみに強いと思う。

タバコの善悪はさておいて、私自身は手術が終わったその日からもうタバコが吸いたくなった。

その日からというのは確かに誇張であるが、手術が終わって、体に巻きつけられた様々な管が取り除かれ、散歩も出来るようになり、徐々に歩き回れるようになるとともにタバコへの欲求が日増しに強くなった。

現金なもので、タバコが吸いたいという欲求があるときは体調がいい時で、体調が芳しくないときは本当にタバコも吸いたくないし、吸ってもおいしくない。

実に身体は正直なものだ。

ガンを潜り抜けたものがタバコを吸っているので、周囲が心配すること仕切りで、皆、親切心で止めるようにとアドバイスしてくれる。

そういう人に対しては、「もう死線を超えたのであるから、怖いものはこの世にないからいいんだ」と嘯いているが、これは私の本音だ。

正直なところ、そういう気持ちで今は生きている。

ガンを潜り抜けて、今はもう拾った命だと思い、好きなことを好きなようにすればいいし、体に悪いからといって我慢することもないと思っている。

タバコが体に悪いといったところで、タバコを吸ったからといって、今日明日にコロンと逝くわけでもなく、タバコを吸おうが吸わなかろうが、人間はいつかは死ぬと思えば、吸ったからといってそうたいした違いはないと思う。

これから何年命があるか知らないが、その中でタバコの所為で1、2年命が縮まったとしても、トータルで考えればそうたいした違いはないはずだ。

恐れるに足らずだ!!!

ガンになったときは本当に自分の命ということを考えた。

俺は何時まで生きれるのだろうかと真剣に考えた。

特別に長生きする必要はないが、せめて息子と娘が一人立ちするまでは見届けたいと思ったものだ。

「タバコを吸っていたら、それは実現できないであろう」といわれたらそのときは禁煙したかもしれない。

しかし、そういうものが一つ一つクリアーされた今では、もうそれこそ怖いものは無くなったので、「何時でも死んでやるぞ!!!」という意気込みがみなぎってきた。

そう腹を括れば、それこそ怖いものなしである。

タバコだろうが酒だろうが、いくら体に悪いと言われてももう恐れる必要はない。

好きな物を体に悪いからと言われて我慢する必要はさらさらない。

完全に開き直りの心境であるが、65歳にもなってみれば、こういう心境にたどり着くのも致し方ないと思う。

ところが最近、高校時代から仲の良い仲間が夫婦連れで集まったとき、ある奥さんが「あなたが先に逝くとウチの主人がさびしがるから長生きしてください」と諭されたときは心に響いた。

昔の友情のため、少しはタバコを慎まなければならないか、と心の中でほんのちょっぴり反省した。

私自身の今の心境としては、何時お迎えが来ても、何時でも直ちに応ずる心の準備はできている。

今一番恐ろしいことは寝込むことである。

脳溢血とか脳梗塞で半身不随のまま寝込んだらそれこそ地獄だと考えている。

五体満足で自由に動けまわれる今ならば、何時お迎えが来ても素直に応じられる。

この世に未練はない。

好きなことを好きなようにさせてもらった。

随分我侭も言ってきたようだ。

家内にもかなり苦労を掛けたようだ。

たいした出世もせず、たいした金持ちにもなれなかったが、自分の人生に悔いはない。

ポックリ逝けるのならば何時でも何処でもお迎えに応えられる。

考えてみれば若いとき自分が65歳まで生きれるなどとは考えたこともなかった。

自分に孫が4人も出来るなどということは考えたこともなかった。

「ありがたいことだ」と天にも神にも仏様にも感謝している。

というわけで、私は死への覚悟は出来ている。

だからこそタバコも吸っているが、最近はタバコが値上がりして、この高いタバコ銭が馬鹿にならず、金の切れ目が縁の切れ目になれば、とひそかに思い描いている。

命は惜しくないがタバコ銭が惜しい。

 

命を金に変える錬金術

 

生きるということは考えて見ると実に難しいことだと思う。

10人居れば10の人生があり、100人居れば100の人生物語があると思う。

その中で生というのは自分の意思と全く無関係にこの世に誕生してくるが、死というのは不慮の死というのもあるにはあるが、その大部分が自分の意思で左右できるものではなかろうか。

自分の意思で寿命そのものを延命するということは不可能かも知れないが、人生の幕引きに対する自分の心構えというのは個人の意思でコントロール可能ではないかと考える。

私がガンで病院に入院していたとき、同室の人で、それこそ親身に看護していた人が居たが、私には何かしら違和感があった。

いくら最愛の人、家族、夫なり妻なり、子供、兄弟であろうとも、人間であるかぎり死別ということはついて回るわけで、その時に肉親がその場に居ようと居まいと運命は容赦なく人々の絆を打ち砕く。

その瞬間に傍に居たから心が休まるなどというものではないと思う。

ところが世間の人は、こういうことを心底信じているわけで、だからこそ病人の傍に付き添っているのであろう。

私はといえば、こういう状況には極めて冷淡で、ベッドの脇に肉親が居ようと居まいと一向に無頓着である。

居ないとさびしいなどという感情にはならない。

肉親が傍に居ないから不本意だなどとは思いもしない。

病院のベッドに横たわっている限り、全く見舞いがないというのも寂しいだろうが、家族が一週間に一度顔を見せに来てくれればそれで十分だと思う。

用もないのにベッドの脇に居てもらう必要はさらさら感じない。

家族がベッドの脇にいくら付き添っていても看護婦さんや医師の役目も代行するわけにはいかない。

ただたんなる気休めに過ぎない。気休めならば要らない。

人間、60も過ぎればどこかここかに異常をきたすのは当然のことで、病院の世話になる機会が多くなるのは致し方ない。

この時、人は病院で治療してもらったら元の体になると思い込んでいるようであるが、これは無理というものである。

60年も70年も使った身体が元に戻るわけがないではないか。

ただ年相応の機能を如何に維持させるかということだと思う。

人間の体のあらゆる機能にはそれ相応の稼動曲線というものがあるのではないかと思う。

生まれたときを基点とすれば、あらゆる機能が年齢の経過とともに右肩上がりに延びるのではないかと想像するが、60、70ともなればそれは40、50代を頂点として下り坂、右肩下がりの傾向になっているのが常態ではないかと想像する。

老人の健康管理というのは、この右肩下がりのグラフからの大幅な逸脱を極力警戒するということではないかと思う。

人間として生まれた以上、死というのは避けられない。

我々はそれを迎えたときに如何様に対応するかということだと思う。

私は以前から尊厳死ということを個人的に提唱している。

つまり、一般論として功成り名を成した人で、もうこの世に悔いはないという人は、お医者さんに行ってその旨申告すると錠剤を渡され、その薬を飲むと安らかにあの世に行けるというシステムを考えるべきだと思う。

今、自殺ということは悪いことだという認識が一般的であるが、これはおかしいと思う。

人間に生きる権利があるとすれば、死ぬ権利も同様に、また同等にあるべきだと思う。

人は、弱い人間に向かって、「強く生きよ!!!」と励ますことが良いことだと勝手に思い込んでいる。

ところが、あらゆることを超越して、もう生きる望みも希望も失った人間に対してまで、生き続ける事を期待し、叱咤激励することが善だと思い違いしているが、これは完全なる偽善に過ぎないと思う。

偽善ということは、ある種の親切の押し売りで、受け手の迷惑ということを全く考慮に入れない思い込みに過ぎない。

最近も、日本人の自殺が多くなったとマス・メデイアでは報じているが、自殺は何も悪いことはないと思う。

自殺がある意味の逃避ということは理解できる。

多重債務を抱えて、何年も何年も負債の返却に悩むよりも、あっさり自殺してしまったほうがよほど楽かしれない。

そういう人に対して「自殺をするな」、「自殺は悪いことだからしてはならない」、「何年かかっても負債を返す努力をしなさい、そうすればきっと良い事もあるに違いない」、といって励ますことは、第3者としての無責任な奇麗事に過ぎないと思う。

まさしく偽善そのものだと思う。

老人医療、高齢者医療というのは実際は非常に金が掛かっているにもかかわらず、高齢者本人が負担する分が極め少ないので、高齢者は安易に、そして暇つぶしに治療を受けている。

高齢者が暇をもてあまして病院に来るというのもはなはだ問題であることは論を待たないが、今の日本の繁栄が、今の高齢者が若いときに一生懸命働いた結果として今日があるわけで、そのことを考えると無碍に非難するわけにもいかない。

その意味で、後世の人間も高齢者というものを大事にしなければならないのは当然であるが、人間の形をしていれば、何でもかんでも延命措置をしなければならないのか、という点では大いに考えるべきだと思う。

医療の現場としては、人の形をしていさえすれば、医療の本質として延命する方向に処置をするのが普遍的な行為だと思う。

ところが80歳の人、90歳の人が脳梗塞や脳溢血で運ばれてきたとき、どういう風に対応するかははなはだ難しいと思う。

普通ならば、一応、救命措置をすればその場は取り繕えるであろうが、その後の医療行為の中でどういう処置をするかは非常に難しいと思う。

医者の倫理として通常は延命という処置をとるであろうが、患者本人も付き添いの人もそれを望まないケースも多々あると思う。

我が家でも、夫婦のうちどちらが先に倒れても、延命措置はことわる、という風に話し合いが出来ている。

年寄りは何でもかんでも殺してしまえというわけではない。

ところが80代の人、90代の人を何が何でも生きかえらせよ、というのは医者に対して酷な話だと思う。

医者もそういう方向で努力はするであろうが、そういう年齢の人は、車で言えば何処からどう見てもポンコツ車であり、その機能を完全に復旧するということは、名医ならずとも難しいことは一目瞭然である。

こういう場合、遺族によっては医者が生き返らせなかったのは、つまり患者が死んでしまったのは、医者の怠慢で、医療ミスだ、だから金寄こせという問題に展開しがちだ。

今日、実に巨大な病院が全国に出来ている。

当然、その病院内では毎日とまで行かないにしても数多くの手術も行われていると思う。

手術の数、手術数が多くなれば、それにしたがって手術中のミスの数も多くなるのは当然のことで、医者もわざとミスするわけではなかろうが、ミスの回数が増えるのは当然の成り行きだと思う。

お医者さんでなくとも、誰でもミスは排除するように、ミスしないように心して仕事をしているが、それでもミスをするのが人間の行う行為である。

問題は、医者がミスすると、それが金つるに変質するということである。

これは医者の世界でだけではなく、あらゆる業界で、人の失敗を金つるに仕立て上げる手法が罷り通っているのが現状だと思う。

人は最初からミスをするつもりでミスをするわけではなく、ホンの一瞬の不注意、判断ミスが重大事故に繋がるが、事故がおきたら最後、いくら些細なミスでも、それは許されることではなく、特に人命が失われたとなれば、そのことで以って金つるに変質するのである。

人の命を金に換算することは慎みのない行為だと顰蹙を買いそうであるが、その実、そういう人間こそ人の命を金に換算しているのである。

相手のミスにつけこんで、最初は謝罪すればことが収まるような言い方で迫ってくるが、最終的には金で解決しなければならないことになる。

医療ミスでもその他の事故、例えば交通事故やJR福知山線の脱線事故のような大きな事故まで、所詮は、人間の些細なミスを金儲けにつなげようという魂胆が見え見えである。

「死んだ人の命は金では買えない」というのは誰がどういおうと紛れもない真実なわけで、真実であるからこそ、その値打ちも高いわけで、この点を突けば補償金は何処までも吊り上げることが可能である。

人は最初から金よこせなどと露骨なことは言わず、最初は非を認めて謝罪すればことが済むなどと殊勝なことを言い、奇麗事で塗り固めながら、その間に金を吊り上げるために殊更故人との愛情の深さを強調して金額のアップをはかろうとするのである。

死んだ人を金儲けの手段として使おうとするのは、生き残った人の強欲そのものであるが、死んでいく当人も、死については生きている時からある程度の認識はもっていなければならないと思う。

人にはその人が持って生まれた寿命というものがあると思う。

この寿命というのは個人の努力では左右しきれないものだと思う。

 

運を信じる

 

世の中には若くして死んでいく天才も数々あるが、その反対に何の価値もないのに長生きする人も居るわけで、世間では、人の生き様に対して「何の価値もないとは何事とか!」という憤懣も聞こえてくる。

ところが、人はそれぞれに運命というものを背負って生きているわけで、若くして死んだ天才も、彼の持って生まれた運命が、それだけの時間しか有効でなかったということで、その反対に、一見無意味のような人生を送りながら長生きしている人も、彼自身の運命がそういう風になっているから長生きしているものと考えざるを得ない。

運命というのは人間の努力では如何ともしがたいものだと思う。

昨年のJR福地山線の転覆事故で亡くなった方々も、気の毒ではあるが、それはそれだけの運命を背負っていたものと考えざるを得ない。

この世に生を受けながら難病に苦しむ人も、その人自身の運命だと考えなければならない。

だからといって、そういう人を切り捨てよというわけではなく、そういう人を救済しようという発想は人間の行いとして極めて美しい行為ではあるが、美しい行為なるがゆえに、思い入れということにも繋がるわけで、そこは冷静に考えなければならないと思う。

若くして病に倒れた人、難病に苦しむ人、医療ミスで亡くなった人、交通事故で亡くなった人、こういう人は皆天寿を全うする前に亡くなった。

だから気の毒な人、故に、皆で助けなければならない、その為には社会制度の問題として、行政の責任に転嫁しなければならない、というのは話の飛躍のしすぎだと思う。

昨今の我々は、人が死ぬと何らかの人為的な原因があるように思い込んでいるが、それは昔からある「風が吹くと桶屋が儲かる式」の何の脈錬もない荒唐無稽な飛躍した論理だと思う。

老人が息を引き取っても、何らかの人為的なミスに結び付けて、金をせしめようという魂胆が見え隠れする。

子供が池に落ちて死ぬと、行政の池に対する管理が悪い。

幹線道路で交通事故が起きると、その大部分の原因は運転手か道路施設の不備に仕向け、高層マンションから人が落ちれば設計のミスにし、死に至る原因をことごとく他者に追いかぶせ、人為的なミスに仕立て、そのことによって金をせしめようという魂胆が見え見えだ。

数多くの医療事故の中には確かに本当の医療ミスもあるであろう。

これだけ大病院があり、これだけ毎日手術が行われておれば、医療ミスもそれだけ多くなるのは当然である。

これだけ列車のダイヤが過密化し、車の数が多くなれば、交通事故も量が多くなるのは当然のことである。

ということは、それだけ人間が不慮の事故に巻き込まれる機会が多いということであるが、ガンの手術を受けても、私のように生き残っている人もいれば、亡くなる方もいるわけで、毎日車に乗っていても事故の遭う人もいれば逢わない人もいる。

それはその人の持つ運命としか説明がつかないと思う。

運命論というと何か非科学的な感じがするが、人の織り成す社会というのはやはり理屈では割り切れない、人間の英知、科学を超越した何かがあると思う。

JR福知山線で亡くなった方々、または航空機事故で亡くなった方々というのは、全く運が悪いとしか言いようがないが、その言葉の中にもうすでに科学を超越した何かがあるように思える。

運の悪い人、運が悪い人というのは案外いるもので、そう言われながらも生きつづけておれば、その人は運など悪くはないはずであるが、そういう境遇の人もこの世にいることはいる。

我々はともすると運などという非科学的なことを軽蔑しがちであるが、これが案外その人の人生を左右していることがある。

ある人の生い立ちというか、成長の過程には、様々な選択肢の中からその中の一つを選択してきたからこそ今日があるわけで、その一つ一つの選択を選ぶのは、ゆっくり考えてから結論を出す人も当然いるであろうが、大方の人は直観か、ある種のひらめきか、そうそう科学的な根拠によって選ぶわけではないと思う。

だとすると、そこは運によって支配されているということになる。

私のガンに対する闘病も、まさしく運に左右された状況そのものであった。

選択を迫られたその結果はそれこそ運そのものである。

最初の医師の言葉を聞いたときの私の判断と行動の選択、2度目に病院を変えたときの家内の強い意志とその選択、最終的には医師の言葉を信じ、「まな板の上の鯉」という無の心境にいたる選択、これらはすべて運に支配されていたとしか言いようがない。

人生の分かれ道に差し掛かって、そこで自分の先行きを熟考したとしても、よい結果が出るとは限らないわけで、熟考しようとしまいとリスクは同じだと思う。

だとすると、それは運とでも言わなければ言いようがないと思う。

かって、石炭は黒いダイヤといわれて尊重され、貴重な存在であった。

ところが燃料のイノベーションの波に推されて、燃料が石炭から石油に代わってしまうと、石炭産業というのは衰退を余儀なくされた。

又、新聞社はかって何処の社でも鉛の印字を使っていたが、コンピューターの出現で鉛の活版そのものが要らなくなって、鉛の業者は倒産の憂き身に見舞われた。

これらは個人の力では如何ともしがたい社会的な変革なわけで、それは運としか言いようがない。説明のし様がない。

こういう事例は掃いて捨てるほどあるわけで、それを整合性のある論理で説明をしようとすると、運としか表現のしようがない。

それでは整合性のある説明にはなっていないが、そうとでも言わなければ、その変革の説明が出来ないわけで、そういうことは往々にして我々の生き様の中にはあると思う。

JR福知山線に乗っていて事故に遭った人、たまたま乗り合わせた旅客機が墜落して亡くなった方々、本来ならば退院できるはずの医療事故の犠牲者、等々、運の悪い人はこの世に大勢いると思うが、この運というものを他人の所為にするというのも昨今の傾向だと思う。

自分の運命が悪いほうの部類に組み込まれていると思い込んでしまうと、人はなかなかそのことを自分で認知しようとせず、思い込みを跳ね返そうという努力を怠る。

本人はそれほどではないにしても、周囲がそのことを納得しようとしない。

70、80の人が脳溢血や脳梗塞で死ぬ、難病の人が薬石功なく死ぬ、交通事故で亡くなる、そうすると周囲の人は、その死がその人のもって生まれた運命で定まっていたとはなかなか理解しようとせず、その死は措置の対応に落ち度があったのではないか、落ち度があった以上それは行政の責任だから金寄こせという論法になる。

死に直面して、それをその人の運命がそこで尽きたのだ、ということをなかなか認識しようとはしない。

その人の死は、その人の運命がそこで尽きたのではなく、人為的な欠陥があったから、その人は死んだのだ、という論理になると言うわけだ。

そしてその風潮を助長しているのが裁判である。

私の浅薄な知識では、裁判所が、医療ミスから、薬剤疑惑から、JRの脱線事故から、航空機の墜落事故まで、適正な判断が出来るはずがないと思う。

適正な判断が出来ないから、弱者と称せられる側に金が行くような救済措置を講ずるという形で決着が図られるものと推察する。

裁判としての公正さよりも、弱者救済という価値観が優先されているのではないかと推察している。

JRの脱線事故とか、旅客機の墜落事故というのは明らかに会社側の責任ということが追及されても致し方ない面があるが、医療事故となると、それがミスであったかどうかという判断は極めて難しいと思う。

確かに患者の腹の中にガーゼやはさみを忘れてきたなどということは単純なミスであるが、それ以外には、どの患部を残しどれを切るかなどと言うことはその場に居たもの、つまり医者でなければ判らないし、同じ医者であったとしても、その行為の整合性が一致しているとは限らないと思う。

同じ処置をしたとしても、それがミスであったかなかったかは、それぞれ判断が違うこともありうると思う。

それを医療の専門家でもない裁判官に適正に判断せよといっても土台無理な話だと思うが、それでは通らないので、無理を承知で素人の裁判官が高度な医療に判断を下すということになってしまう。

結果的に「殺された側のほうが気の毒だ」という同情論で判決が下り、訴えた側は莫大な金を得ることになり、人の命ないしは運命が金に摩り替わるわけである。

私が医者に同情する義理は毛頭ないが、手術のミスということはさておいても、手術をするということは、もともと生死の境をさまよっている人を助けるという非常に難しい、綱渡り的な行為ではないかと思う。

生死に別条なければ無理に手術する必要はないわけで、手術をしなければ手術ミスということも起きないはずである。

手術ミスの前に、手術そのものが非常に綱渡り的な行為である以上、ミスがなくても病変が急に変化するということも当然あるわけで、手術中の臨終ということもあるのが当然だろうと思う。

人は仕事をするのに誰でも自分の仕事に万膳を期して行為をするわけで、それはトラックの運転手でも、学校の先生でも、他のどんな職業の人でも、誰でも同じだと思う。

失敗する気で仕事に掛かる人などこの世にはいないと思う。

まして最近の大きい手術などというのは一人で密室でしているわけではなく、大勢のスタッフが力を合わせて患者を救おうと努力しているわけで、結果的に延命できなかったとしても、それは医師がミスしたからばかりではないと思う。

その患者は手術の前から危なかったわけで、彼の運はそこで止まっていたということであり、手術ミスという事はそういうことだと思う。

我々、日本人というのは、近年まであまり裁判というのを好んでする風潮はなかったはずである。

当人どうしは、裁判にまで掛けて金を得る気などなくても、そこに金のにおいを嗅ぎつけた弁護士というのが寄ってくると、人の死が金つるに変わるわけである。

私は運命論者ではないが、人の命というのはあくまでも運命によって決定付けられていると思う。

幼くしてなくなったお子さんは、やはりそういう運命を生まれた時から背負っていたものと思う。

100歳まで生き残る方は、生れ落ちたときからそういう運命を背負って生きてこられたものと思う。

JR福知山線でなくなった方々も、そういう運命だったと思うし、一列車遅らせた方も、一列車早く乗られた方々も、それぞれにそれぞれの運命に従っていたものと思う。

あそこでなくなられた方々は、それぞれがそういう運命だったと思う。

そうとでも考えなければ私が今日ある事自体が考えられない。

ガンになって、それでもタバコが止めれず、8年も生きながらえるということは、私の運命はまだしばらくこの世をさまようということだと思う。

私は決して命乞いなどしていない。

長生きさせてくれと拝んでもいない。

ただただ開き直って、何時でもお迎えには応じるつもりだと公言はしている。

首を洗ってお迎えの来るのを待っている以上、好きなことを我慢する必要はないと思っている。

だから今でもタバコをさほど切迫した気持ちで「止めなければ!」などとは考えてはいない。

ただしあまりにも高くなったので、馬鹿らしくなって、そろそろ潮時かなとは思っている。

 

老いと自尊心

 

私のように一度ガンを患って、死線を越えてみると、もう怖いものなしの心境になって、気持ちはさばさばして心地良いものだ。

人生を開き直ってみると全く怖いものなしだ。

だからといって、わざわざ健康によくないことをしたり、不摂生する必要もないわけで、そういうこともコロリと逝ければ結構であるが、得てしてそう簡単にコロリとあっさり理想的な形で死ねるわけはないので、それまでは摂生に努めなければならない。

そう覚悟を決めてみると身辺整理が心配になってくる。

ぼつぼつ身辺整理をして、後に残るものに出来るだけ迷惑の掛からないようにしなければならない。

まずしなければならないことは本の整理だと思う。

結婚したころから本はできるだけ買わないようにしてきたが、それでもついつい手が出て、買いためてしまうが、この本の整理というのはかなり大変である。

この本はもう二度と開くことはなかろう、と判っていながら、それでもなかなか無碍に捨て去るわけには行かない。

愛着などというものでもないが、何となく、本を捨てるとなんだか罰が当たるような気がして踏ん切りがつかない。

それでついつい一日伸ばし、一日伸ばし、結局は何も片付けれないということになる。

私自身はガンを患って、一度は死ぬかも知れないと、死を覚悟したので、今では開き直って生きておれるが、身の回りやテレビの映像で、年老いた腰の曲がったおじいさんやおばあさんの映像を見ると、自分がああいう格好になったらどうしようと真剣に悩む。

コロリと死ねれば良い。

これなら明日でも明後日でも大歓迎である。

この世に未練はない。

皆さんに元気な声で「さようなら、お世話になりました、有難うございました」と挨拶して閻魔様だろうが、お釈迦様だろうが、神様だろうが、仏様であろうがなんにでもついていく。

ところがそうは問屋が卸さず、ここで寝込んだら最後、本当の地獄がやってくる。

これは考えるだけで暗澹たる気持ちになり、恐ろしいことだ。

そうなる前にさっさと逃避したい。問題はこの逃避である。

今の日本では、まだこの安楽死というのが認められていない。

こんな馬鹿な話も無いと思うが、日本の厚生省も生に関しては気をつかうが、死に関しては一向に前向きな態度をとろうとしない。

死を促進するような考えは、寄って集って抑圧されるが、21世紀ともなれば、死も新しい概念を持つべきだと思う。

昔は人生50年で、50歳前後で大方の人は死を迎えたわけだが、今日では70.80でもまだ生きているわけで、これは今までの人類が未だに経験したことのない新しい時代に突入したことだと思う。

仮に、65歳で寝たきり老人になってしまったとすると、これはもう完全に悲劇であり地獄である。

この悲劇から本人自身が逃避しようとしても、自殺も駄目、安楽死も駄目、ただただ生ける屍としてベッドで生かされ続けることに如何ほどの価値があるのであろう。

部外者は無責任に奇麗事だけを言っていれば済む。

人の命は大事だからとか、そうむやみやたらと疎かにすべきではないとか、行政が介護をすべきだとか、一人きりの老人の巡回をしなければならないとか、もっともらしいことを並べ立てるが、本人のことは一向に斟酌する気がない。

私のおばあさんも、80を過ぎた頃から「まあ!早く死にたいわね!早くお迎えがこんか知らん!」と私達孫と顔を合わせるたびにそういうことを言っていた。

子供心にも、おばあさんも弱気になったなあ、と思ったものだが、これが本人にしてみれば嘘偽りのない本音だったと思う。

孤独であろうがなかろうが、五体満足な年寄りは、敢えて介護の必要になる地獄の到来まで待っていなければ、あの世に行けないというのは生き残ったものに対する非常に酷な仕打ちだと思う。

誰でも下の世話を人にしてもらうほど耄碌したくないと思っていると思う。

そんなにしてまで生きていたいと思うのは私一人ではないと思う。

自分で自分の始末ができている間は、何歳であろうと、生きれるだけ生きても良いが、下の世話を人にしてもらわねばならないような状態になってまで長生きしたいと思う人は稀ではないかと思う。

人は誰でも人の命を絶つ事は罪悪だと考えている。

これは人類が営々と受け継いできた普遍的な倫理観で、今までの人間の歴史の中では確かにそれは整合性を持っていたが、21世紀ともなると今までの人間の経験則では計り知れない状況になってきていると思う。

過去の人間の歴史というのは、大体が人間の寿命というものを50年程度に設定して物事が考えられている。

ところが21世紀では人間の寿命が70、80になっているわけで、昔のままの概念が通用しない状況になっているにもかかわらず、普通の人の概念そのものが状況にマッチしていないものと思う。

だから何時までも過去の概念で人の命は大事だから、仮に植物人間であろうとも延命装置をはずしてはならない、という倫理に結びついてしまうものと考える。

人間が宇宙にも飛び出していける時代になったのだから、ピラミットやスフインクスを作っていたときと同じ発想ではいけないと思う。

それでは人間の精神の進化、心の進歩というものが全くないではないか。

生命の誕生というのは、科学の進歩で目覚しい進化をして、今では人工授精という生命誕生もあるので、生命の誕生も2千年というときの流れの中で進化したのであれば、人間の死に対する概念も、それなりに進化してしかるべきではなかろうか。

私の父親は91歳という長寿を全うした。

非常に誇り高き人であったが、最後の6ヶ月というものは赤の他人にオシメの交換を煩わせた。

本人にとっては非常に屈辱ではなかったかと思う。

私自身、父の立場に立ってみれば、屈辱で居ても立ってもおれないに気持ちになると思う。

しかし、この屈辱というのは他人には判らない、理解できない感情だと思う。

本人がいくら「そんなこと(オシメの交換)をされるぐらいならば死んだほうがどれだけましだ」と思っていても、他人はそんな本人の心の底を知る由もない。

ただの老人の我侭ぐらいにしか思わないと思う。

あかの他人として、介護する側の立場からすれば、身動きも出来ない老人を介護することは素晴らしいことだと、本人の意思とは全く反対のことを、さも良い事をしたぐらいに錯覚しているに違いない。

91歳まで生きた人が、人の介護を受けるようになるということは、もう既に自ら死を選択する方法・手段を失ってしまって、自殺すら出来ない状況に追い込まれたということである。

父は下の世話まで受けながら意識はしっかりしていた。

ということは自分の自尊心の屈辱ということを死ぬまで意識し続けていたものと考えなければならない。

これは死んでいく本人にとって見れば実につらいことではないかと思う。

私自身、自分の身を、父や祖母に置き換えて考えて見ると、実にやるせないというか、そのつらさに身を切られるような思いに迫られる。

下の世話を他人に委ねるということは、自尊心のある人間、誇り高き人間からすれば、死よりもつらいことではないかと想像する。

人間は死ぬこともままならないとは実に情けないと思う。

人は生まれてくるときは、自分の意思で生まれてくる人はいない。

好むと好まざると我々はこの世に生誕する。

自分の意思で生まれてきたわけではないこの世からおさらばするときぐらいは、自分の意思で別れを告げたいと思うのは私一人であろうか。

世間では、自殺、自ら自分の命を絶つことを忌み嫌う傾向がある。

しかし、これも偽善ではないかと思う。

少なくとも、自ら、天から与えられた命を捨てると思い立った人は、その時点でもう人間としては存在価値を喪失しているわけで、こういう人はもう肉体的にいくら生きたとしても、それは魂の抜け殻であって、社会的な存在価値も同時に喪失していると思う。

今の私が完全にそれに合致しているわけで、ガンから生還し、子供もある程度は自立させ、年金で悠々自適なせいかつをしているということは、既に社会的には存在価値を失っているということに他ならない。

年金生活ということは、過去の実績が買われて、昔一生懸命働いてくださったから、これからは年金でゆっくり生活してください、という主旨である。

立派な、押しも押されもせぬ姨捨山思考である。

年金受給年齢に達したということは、姨捨山に捨てられる世代に近づいたということである。

ところが昨今の年寄りというのは昔の年寄りと比べると非常に元気な人が多い。

そりゃそうだと思う。

昔と比べると労働そのものが非常に質的変化しているわけで、昔していた肉体労働というものは、今は全く見れなくなったわけで、その分労働に対する肉体的な負荷が少なくなっているので、若くて元気な年寄りが多くなるのは当然である。

若くて元気な年寄りならば、いくらいようが全く関係ないが、問題は、自分で身の回りの世話も出来ない年寄りの存在である。

今は若くて元気な年よりも、すぐに汚くて醜く、棺おけに片足突っ込んだ老醜を晒す羽目に陥らないとも限らない。

この姨捨山思考というのが今では非常に問題視されているわけで、社会的な立派な肩書きを持った人は、こういうものの考え方を素直に受け入れようとしない。

年金問題というのは、端的に言えば姨捨山思考に他ならないにもかかわらず、この単純明快な論理に、もってまわったこ難しい論理をくっつけて、わかったようなわからない言い方で言うものだから、ものの本質が見えてこないのである。

年金や介護の問題を論じている大学者や知識人が、オムツの交換の時の屈辱感、オムツをつけなければならない、という自己の屈辱感を本当に理解しているであろうか。

痴呆になってしまった人は、こういう屈辱感にさいなまれることがない分、本人は幸せだろうと思う。

その分、周りの人の苦労は倍加することは論を待たないが、本人は幸せな気分でおれると思う。

年金や介護の問題を論じている大学者や知識人が、本人の気持ちを何処まで理解しているかはなはだ疑問だと思う。

年老いた老人の、本人の気持ちを十分に斟酌するとすれば、安楽死というものを真剣に考えなければならないと思う。

こういう文化人というのは、過去の人間の倫理を超越する勇気を持ち合わせていないと思う。

従来の価値観では、自殺はすべきでない、年老いたからという理由だけで、安楽死などもってのほかだという。

過去に人間が営々と引きずってきた価値観から脱却することが出来ないので、新しい価値観を受任する勇気がないものと推察する。

毎日の新聞には老老介護の問題が報じられているが、結局行き着くところはどちらかがどちらかに手を掛けざるを得ない状況に追い込まれるということである。

知識人はこれを社会問題として、社会全体で解決策を考え出さなければならないと、明らかに無責任な奇麗事で語り掛けようとしている。

人類誕生以来、連綿と継続してきた人間の経験則に則って、自死は罷りならぬ、自殺はまかりならぬ、生あるものは何処までも何処までも、自然に息を引き取るまで生かさねばならない、という論理から一歩も出るものではない。

まさしく命の大事さを強調せんがための正攻法を推し進めているわけであるが、この論理の中には、当人の意思、本人の苦労、介護者の心労、介護される人の自尊心、人間としての尊厳、過去の生き様に対する誇りというようなものを一切考慮することなく、ただただか弱き老人という認識を一歩も出るものではない。

問題は、年取った夫婦が、老老介護をしなければならない状況に追い込まれたということは、人としてあまりにも長生きしすぎたということである。

ところが人類誕生以来、固定的な価値観から逸脱できず、古い思考に凝り固まっている人は、「あまりにも長生きしすぎる」という概念が持ちえないのである。

そのこと自体を良いことだと認識しているのである。

老老介護ということは、もう既にそのことだけで大きな問題を抱えていることになるわけで、片一方がもう一方に手をかけなかったとしても、いづれ生き残ったもう一方は、最終的に一人で孤独死を迎えるということになる。

つまり、人としてあまりにも長生きしすぎたということに結果的になる。

人はそれほどまでして生きる必要はないわけで、自分でも納得した時期に、自分で自分の人生に幕をおろす自由というか、ゆとりというか、配慮というようなものが用意されていてもおかしくないと思う。

ところが、こういう問題は誰しも大声で語りたくない話題で、いやしくも死を薦める話題などというものは好まれる筋合いのものではない。

避けれるものならば避けて通りたい、と思うのが普通の人の普通の感覚だと思う。

人に早く死ぬことを薦めるなどということは、相手の顰蹙を買うことは必然なわけで、誰でもそういうことは避けて通りたいと思うのが人情だと思う。

ところがそれでは世の中は一歩も進化しないわけで、人の誕生が進化したならば、人の死も進化してしかるべきだと思う。

少なくとも、本人が死にたいと言っている以上、その本人の意思を素直に尊重する術を考えるべきだと思う。

当然、「死にたくない」と言っている人に無理に薦めるわけではなく、そういう人には出来うる限りの延命措置を講じて、医者ともども儲けてもらえばいいわけで、あくまでも本人が「死にたい」という場合に、その意思を尊重するというだけのことである。

ところが問題は本人がいくら自分の意思で「死にたい」と言っても、実際にはそれをまともに受け入れてくれる機関が存在しない。

本人がそう言うから、本人の意思をなまじ尊重して、本人の言うとおりに処置したとすると、死に至らしめた介添え人は、良かれと思ってしたことが逆に殺人者にされてしまう。

首吊り自殺とか、投身自殺というのならば本人一人で実行可能であるが、薬物によって死のうとすると、それの入手経路から問題が提起されてしまい、それに手を貸した人が殺人幇助などということになってしまっては気の毒だと思う。

自殺する人に対して、「勝手に死ねばいいではないか!」というのはあまりにも人間の尊厳を無視した言い方だと思う。

死に方にも選択の幅があっても良いと思う。

人間、この世に生まれてくるときは自分の意思で生まれてくるわけではない。

せめてこの世におさらばするときぐらいは、自分の意志で自分の納得のいく死の選択が許されても良いような気がしてならない。

こういうことが現在認められていないということは、我々の意識改革がなされていないということだと思う。

 

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