5月27日 岩国・錦帯橋

 

平成18年5月27日、広島に向けて旅に出た。

今月はこれで二度も家を空けることになった。

最初は町内会の旅行で、次は高校生時代の気の合った仲間の旅行である。

まあどちらかというと同窓会に近いようなものだ。

東京に住んでいる者と、名古屋在住のものが広島のホテルで落ち合うということで、この日は名古屋のものだけが総勢6名揃って出かけた。

広島までの新幹線の中は差ほど変わったこともない。とは言うものの、この東海道と山陽新幹線というのは実によく繁盛していると思う。

途中で空席ができると、すぐ次のお客が乗り込んでくるという風で、この切符の管理というか、発行のシステムというのは実にたいしたものだと感心する。

ほとんど満席に近い回転率で、それだけ人が乗ったり降りたりと移動しているということであり、それはそのまま日本の経済の発展を表しているのではないかと思う。

定刻に発車して定刻に到着するということは、我々日本人では常識になっているが、これは世界的規模で考えればたいしたことだと思う。

鉄道、新幹線というものの発達は、車両とか施設という単体だけでは考えてはならないわけで、そういうものを全部ひっくるめたシステムとして考えるとなる実に素晴らしいものだと思う。

私なども年に2回通院で新幹線を利用しているが、普通に利用するときは、席に着いたらすぐに本を読むようにしているので改めてこういうことを考えることはしないが、この日はどういうわけかそのことが頭の中をよぎった。

広島に着いたらすぐに次の在来線の列車に飛び乗って岩国に向かった。

岩国に着いて、バスに飛び乗って錦帯橋に行ったが、この岩国駅前の印象というのは不思議なことにあまり記憶に残っていない。

仲間にくっついて小走りに移動したので印象に残らなかったのであろう。

錦帯橋ではバスを降りてすぐ食事をした。

此処の名物は岩国寿司という押し寿司らしい。

で、それを注文してみたら、やはり完全なる押し寿司であった。

この押し寿司というのは昔々、私のおばあさんが生きていたころ、そのおばあさんは自宅で作っていたものだ。

お祭りのような祝い事があると、自宅でおばあさんがこれ作るのを飽きずに眺めていたものだ。

此処の名物は、私のおばあさんが作っていたものと少しは違っている。

それは当然のことであろう。

料理というものは極めてクリエイテイブなもので、作り手のアイデアや創意工夫が随所にちりばめられているもので、同じ料理でも作り手によって千差万別になるのは当然のことと言わざるを得ない。

おばあさんが作っていたものは、箱の底に具を並べて、その上からご飯を載せ、その上に再び底板を載せて、箱の両側から爪をかい、圧力を掛けて押さえ込み、食べるときはさかさまにして箱を抜くと上に綺麗に具が載っているという按配であった。

これを適当に切って、その上にさらに甘辛いたれをつけて食べたようなかすかな記憶がある。

ここの物も大体がそれに似たものであったが、商売上のテクニックであろう、色鮮やかな食材が載せてあった。

此処で食事をした後、小雨そぼ降る錦帯橋の下、錦川の河畔に出た。

川にはまだ水量が少なく、広大な河川敷は大きな駐車場になっていた。

この河畔に下りて見ると、どうしても錦帯橋を下から眺めるという形になるが、これが又結構イケル。

というのは、この錦帯橋というのは木造建築物で、下からこの橋を眺めると、その木の組み合わせが十分に鑑賞でき、それが又素晴らしい造詣の美を演出している。

錦帯橋といえばあまりにも有名で、インターネットですぐに検索できる。

で、その受け売りをすれば、岩国藩主3代目の吉川広喜が錦川の氾濫にも耐えられるような橋を作りたいと願い、大工の児玉九郎衛門を甲州の猿橋に派遣して、橋げたのない橋を作らせようとし、それと同時の中国・杭州には島伝いに太鼓橋が掛けられているという話を聞き及んで、この双方を掛け合わせてこのアイデアが実現したということである。

下から眺めている分にはわからないが、橋げたの上に立って、その橋げたを眺めてみると、川上に向かって橋桁が流線型、いわゆる三角形の頂点が川上に向いている。

これは増水した水をスムースに左右に振り分け、橋げたに掛かる抵抗を少なくするというアイデアであろう。

河原からこの橋を望む遠景の景色は、それこそ山紫水明という表現がぴったり似合う。

河原での橋を下から眺め堪能してから次は橋を渡って対岸に向かったが、雨で濡れた木の橋というのは歩くのに案外神経を要する、

運が悪ければ足が滑って転倒しそうだ。

渡り切ってみると、これまた「100%観光地でございます」というような雰囲気であった。

如何にもこれ見よがしにあちらにもこちらにも石碑やら銅像やらが立ち並んでいる。

どうもこういう雰囲気は好きになれない。

その中で、旧目加田家住宅というのは明治村にも有りそうなものであったが、これは日本文化の素朴さを見事に表していた。

ボランテイア・ガイドが目加田家の由緒といわれを説明してくれていたが、私は家系のいわれよりもこの素朴な建築そのものに惹かれた。

西洋人の見方によると日本家屋は土と紙の家というがまさしくそうだ。

ところがこの土壁と白い紙の障子というのは実によく似合っていると思う。

トータルデザインとして、日本の風土にはこれが一番にあっているような気がしてならない。

土壁と白い紙の障子が日本の風土によく似合うというのは、家の中にものを置かないからだと思う。

21世紀に生きている我々は、自分の部屋の中にあらゆるものを詰め込んでいるので、デザイン的にいくら立派なものでも、中に物が乱雑に散らばっていればその立派なデザインは死滅してしまうわけで、その点、土と紙だけの家でも中に何もなければそれ自体が立派なデザインになるものと思う。

土と紙で囲まれた空間に、何も物を置かないということは、そのまま無に通じているわけで、これこそ究極の美だと思う。

目加田家というものが、武士階級の下層、庶民としては上層の部類の家だとすれば、今で言えば中流家庭ということであろうが、そういう家庭のこの何もない生活というのは、明らかに生活そのものが精神主義にならざるを得なかったに違いない。

21世紀に生きる我々は、物に囲まれて生きているので、物欲主義ということになり、物が多ければ多いほど自分が豊かだと錯覚しがちである。

無を維持するということは精神的に非常にクリエイテブでなければならないと思う。

何をするにも頭を働かせて、自分のすべきこととその目的達成のノウハウを自分で考えなければならない。

物がないのだから何でもかんでも自分の頭で考えて行動を律しなければならないが、今のように物があふれかえって、何でもコンビニに走れば用が足せるということになれば、人間は考えるということをしないで済ませてしまう。

私の祖父母は明治の前の生まれで、農家としてはかなり裕福なほうであったと思うが、家はやはりこういう土と紙の家で、物は全て土蔵にしまいこんでいた。

四季に応じた日常生活では、入用なもの、不要になったものをその都度出し入れして、出しっぱなしということはなかったが、21世紀に生きている私はとてもそんな器用なことはできないし、第一しまっておくスペースがない。

だから年がら年中、物に囲まれた生活ということになるが、これは明らかに精神主義の退廃以外の何物でもない。

生活の回転があまりにも早いので、ものを考える暇がないということであろう。

我々、浅薄な人間は、豊かさとは物をたくさん持つことだと勘違いしているということであろう。

確かに今に生きる我々は、便利なものに囲まれて生きているが、今の社会の混乱というのは、この有り余った物によって引き起こされていると思う。

旅行中にも若い夫婦が車の中に赤ん坊を寝かせておいて自分達はパチンコをしていて赤ん坊を死なせたという事件がおきたが、これなどは完全に物質文化の犠牲者といわなければならない。

明治維新というのは、江戸時代の精神文化の宇宙から、物質文明の世界に向けての発進であったのではないかと思う。

富国強兵というのは、物質文明への強い憧れと羨望がその基底に流れていたのではなかろうか。

近代化というのは、それの促進という部分が多分にあったのではなかろうか。

明治以降、我々はものがたくさん有ればあるほど豊かだと勘違いしてしまったのではなかろうか。

今、この文章を書いている私の部屋の中でもコンピュータを始め、椅子があって、机が有って、書類が散らかっていて、衣類が散らかっていて、不要な段ボール箱が有って、とても人様に公開できるような光景ではない。

ところがこれでないと今の年寄りは生きていけれないわけである。

コンピュータがなければ日がなテラスで何もせずにポーットしている、大昔の年寄りのような生活はありえない。そんなことは考えられない。

精神主義もいいけれど、今時そんなことをしていればすぐに痴呆症に、いや認知症になってしまう。

今の精神主義というのは、頭の中で猛烈に神経を高速回転させ、キーボードを叩き続けなけれ、見る間に精神的な廃人になってしまう。

江戸時代ならば背中に孫を負ぶっていても存在感が認められ、今でいう精神的な廃人でも安易に社会に受け入れられたに違いないが、21世紀ではそうは行かない。

21世紀では、物を考えるということはコンピューターを介して物を考えなければならない。

この土と紙でできた目加田家の畳の上にある書架にかかった本というのは、当然毛筆で書かれた大きな字の和とじの本であるが、字数を数えれば全部勘定しても千字あるかどうか疑わしい。

ところが私がコンピューターで叩き出している文書は1ページでそれを優に越している。

この時代の相違ということを考えれば、もう土と紙の家の生活と、我々の今の生活とは比較することすら不可能である。

人間の営みとしてまったく異質のものといわなければならない。

この家を一回りしてみると、私のおじいさんおばあさんの家を思い出させた。

ただ武家屋敷と農家という違いは有るが、江戸時代の雰囲気が残っているという意味で共通するものがあった。

しかし、江戸時代の初期の武家屋敷に比べれば、おじいさんおばあさんの家は明治時代の建築で、かなり贅沢というか、裕福というか、豪華というか、時代が進んでいたということが良くわかる。

この目加田家の対面には城の城壁とおぼしき石垣があって、その基底の部分から噴水が空に向かって水を放っていたが、これにはどういういきさつあるのか不思議だ。

石垣の根元から斜めに水を打ち出すということは何か理由が有るのだろうか。

又、石垣の真ん中に格子戸や扉があるというのは一体どういうことなのであろう。

岩国藩の城主の居城の跡地ということは理解できるが、この扉と斜めの噴水というのはどういう因果関係が有るのであろう。

西洋の城には地下に牢屋があるというようなことは昔活劇物語の本の中で読んだ記憶が有るが、そういう類のものであろうか。

不思議な気持ちを抱えたまま、ロープエイの駅まで行き、そこからそれにのって頂上に行き、岩国城なるものに登った。

城に登っても近代的な鉄筋コンクリートの城では何も感ずるものはなく、ただただ観光目的ということだけ確認するのみでさほどの感慨もない。

景色はあいにくの雨で、ほとんど見えず、ただただ「馬鹿と煙は高いところに昇る」というだけのことであった。

(天守閣からの展望)

ロープエイを降りてからは資料館の中を見たりして、最後に佐々木小次郎の像の前で記念写真を撮りあったりして帰ってきた。

しかし、観光地というのは実に不思議なものだ。

人間が作ったフイクションから観光地の目玉が後にできるなどということは不思議でならない。

その典型的な例が「フウテンの寅さん」こと車寅次郎の葛飾柴又などはまさしくその格好の例である。

「帝釈天で産湯を浸かり」という寅さんの台詞も、帝釈天そのものは実在しているにしても後は丸々フイクションの産物にもかかわらず、今では柴又駅から帝釈天までの間が完全に観光地と化している。

佐々木小次郎のツバメ返しの剣法も、完全にフイックションにもかかわらずこの地に銅像ができるということは明らかに観光の目玉にしようという魂胆だろうと思う。

車寅次郎の銅像と、この小次郎の銅像とではどちらが先にそのアイデアをひねり出したのであろう。

実につまらないことに気が回るものだ。人間は確かに「考えるアシ」だ。

この場合のアシは、「足」なのか、「葦」なのか、どちらなのであろう。

私の浅薄な知識では「葦」の方で,その意味は人間は考えることはできても所詮はか弱い存在だと理解しているが、案外、二本足で歩き回りながら考えることができる存在という意味だったのかもしれない。

格言などというものは自分の都合にあわせて自分に都合のいい様に解釈すればいいと思う。

我々は大学者ではないのだから、こ難しい理屈をこねる必要はない。

自分の都合に合わせて、それを自分の指針にすればいいわけで、それでこそ格言として生きてくると思う。

というわけで、観光地をぶらぶら散策しながら又錦帯橋を渡りバス停にたどり着くと、すぐに広島行きのバスが有ることがわかった。

此処で幹事が、「又、JR岩国駅までバスに乗って、JRに乗り換えて帰るよりも、直接バスで広島に出たほうがベターではないか」と提案して、そうすることになった。

結果から見るとこれは非常に合理的であった。

バスは錦帯橋を出発するとしばらくは街中をのろのろ進行したが、すぐに高速道路にのって快適に我々を広島まで運んでくれた。

広島のバスターミナルについて、路面電車に乗り換えてホテルにチェックインした。

時間的にも年寄りの旅としてはかなり余裕もあって、上々である。

この広島の路面電車というのは結構、活況を呈しているようだ。

というのも利用者がかなりいるようで、車内もそれなりに人が乗っている。

昔、名古屋にあった路面電車も時間帯によっては混雑の度を越していたこともあったが、ここの路面電車というのは、それこそ新旧取り混ぜて、我々の知っている名古屋市電から最新式のスマートなものまで、それこそ様々な形のものが行き交っている。

広島の市電は全国からかき集めてきているというふうには聞いていたが、それがかえって単調さをくつがえし変化をつけ、面白いものになっている。

この夜はバイキング形式の夕食で、一同、貧乏人根性丸出しで、割り勘負けしてはならじと、めいめいに思う存分腹に詰め込んでいたようだ。

私の経験からすると、このバイキングというのも、アメリカのホテルのものと比べると非常に選択の幅が狭いと思う。

これも物量の差と、物価高のせいかと思うが、量が極めて少なく、選択の幅が極端に狭められている。

しかし、一般論としてはこの形式がすこぶる調子がいい。

自分の好きなものを好きなだけとっていいというのは極めて具合がいいと思う。

先回、伊勢に旅行したときは、それこそ膳の上に芸術的な境地に近い盛り付けされたものが出されたが、いくら金を払わせるためのものだとはいえ、食い物を芸術の域にまで高める必要はさらさらないと思う。

食い物は所詮食い物で、食べれば無くなるわけで、そんなものにまで芸術を持ち込むことは無いと思う。

ところがホテルや旅館の側からすれば、ご飯と味噌汁だけでは金が取れないわけで、どうしても芸術張りの盛り付けをして付加価値を高めなければならないのであろう。

その点、バイキング方式は余分な付加価値を最初から拒否しているわけで、客の好みがそのまま自分の意思で選択できる。

アメリカのホテルではもっともっと選択の幅が広かったが、此処ではそういうわけには行かない。

しかし、一同はそれなりに満足したようであった。

 

5月28日
江田島・旧海軍兵学校

 

この夜遅く東京からの仲間が合流して総勢8人になった。

で、翌朝は8人打ち揃ってホテルを出て路面電車で昔の宇品港、今の広島港に行って江田島に向かった。

ところが此処で乗る船を間違えて江田島の小用に行くべきところを、その反対側の切串港に行ってしまった。

それでタクシーで山越えをするというハプニングに見舞われた。

海の無い場所で育った私としてはフェリーというと名古屋と苫小牧を結んでいる大型フェリーを思い浮かべるが、瀬戸内ではもっと頻繁に庶民の足として普及しているようだ。

大きさよりも便数が尊重されているようだ。もっともなことだと思う。

それでこそ生活を潤すというものであろう。

このフェリー、前にも後ろにも車を搭載する開口部があり、前にも後ろにも同じように進むものだろうか。

港を出てから方向転換をしないということはそういうことではないかと推察する。

乗客もまばらでまるで貸切のようなものであった。

本来ならば小用に行くべきところを間違えて乗っているんだからお客が少ないのも無理からぬことである。

というのも、そこからタクシーで海上自衛隊のゲートに着いてみると、もう既にお各は一杯いたわけで、この日は日曜日ということで、第1回の見学は10時締め切りとなっていた。

その時間に合わせて既に大勢のお客が到着していたという次第である。

海上自衛隊、ジャパン・ネービーのユニフォームというのは何時見ても凛々しい格好だと思う。

で,ゲート前で全員集合して広報室なる部屋に行って見ると、既に入りきれないほどの人がそれぞれにPRビデオの鑑賞をしていた。

後ろにはマネキンに夏用冬用とそれぞれに制服を着せたものがおいてあった。

それで私達を案内してくれる担当者は、おそらく最初に自己紹介したろうが聞き漏らした。

いわゆる現役ならば鬼軍曹というか、鬼中隊長というにふさわしい貫禄がにじみ出た人であった。アメリカのアナポリス、海軍士官学校でも内部を公開しているので、日本の旧士官学校が内部を公開するのも当然の時流とはいえ、いくら広報担当者といえども価値観のまったく違う人種に説明するという仕事も骨の折れる仕事ではなかろうか、と要らぬ心配をしたものだ。

江田島、旧日本海軍兵学校についても巷にはさまざまな本が出回っているので、此処で私がつたない屋上屋を重ねる必要はない。

私自身がどう思いどう感じたかを述べればいいと思う。

まず構内の雰囲気であるが、ここには電信棒が一本も無いと説明された。

要するに都市計画と同じで、電気、水道、ガス、蒸気という社会的インフラが全部地中に埋設されているということであった。

これは近代国家として極めて斬新的なことだと思う。

旧兵学校の敷地内という特殊な環境なるがゆえに、それが実施できたのであろうが、全国規模で考えれば、21世紀の現代においても我々はそのインフラ整備が未だ整っていない。

それは明らかに政治の問題だろうが、政治の問題として考えると、これは解決を先送りしたことと同じで、物事は半永久的に解決できないということである。

国家の利益と自分達の地域の利益は明らかに正面衝突するわけで、これは今だに解決の糸口さえ見つけれない最大の政治課題であろう。

この海軍兵学校というのは明治維新以降の国家プロシャクトとしてその充実が図られたものと考えて差し支えないと思う。

今で言えば、情報収集衛星をいくつ宇宙に上げるか、というに等しいことであったと思う。

一つ一つの建物には、そういう国家の意思が反映されているのではないかと思いながら眺めた。それぞれの建物、展示物はそれぞれか語り継がれているので今更私が言うまでも無いが、ここでちょっとばかり考えてもいいと思うことは、この海軍という組織、これは日本ばかりではなくあらゆる国でも同じことが言えるが、その組織の中の階級制度のことである。

将校、下士官、兵という階級制度は軍隊の組織である限り、何処の軍隊もこういう階級制度を維持していたようであるが、これは見直すべき時期に来ているのではなかろうか。

戦後誕生した中華人民共和国の軍隊には階級制度がないといわれたものだがいつの間にか復活していた。

それとも組織を運用するには階級制度というものが必要不可欠なものなのであろうか。

最近の組織では、特に民間企業では、日本古来の名称を廃止して英語風の呼称を使うようになって、我々、あまり英語になじみのないものにとっては、どちらが偉くどちらが上司かわからないようなものでも、所詮は階級制度なわけで、それが軍隊となると階級が違うと待遇がまるで違うというのは極端すぎると思う。

組織といえども、組織の存在目的は同じなわけで、その目的達成にまい進していることは上下にかかわらず同じはずなのに、その中で待遇がまるで違うというのは現代の感覚からすればおかしいと思う。

戦後の民間企業で、急成長した民間企業の経営トップは職工と同じものを同じ食堂で食べていると聞いたが、海軍ではこんなことは考えられないことで、持ち場立場の違いで収入の違いはあるとしても、人間としての扱いに差別があってはならないのではなかろうか。

民間企業でも、官僚の世界でも、いわゆる組織社会ではあるが、部長以上とその下で、食堂まで違い、出る料理まで違うというのはあまりにも人間性無視の世界ではなかろうか。

航空の場合、パイロットはやはり健康維持と健康管理の面から特別な食事というのは何となく整合性があるやに見えるが、狭い軍艦の中、限られたスペースの中で、幹部とその他のものと二つの食堂と二つの炊事場を持つというのはあまりにも不合理だと思う。

これは日本だけのことではなく、あらゆる国でそうなっているみたいだが、これにはどんな根拠があるのであろう。

私の持論で、明治維新で四民平等になってから、この海軍兵学校に全国の秀才が集合するその目的を突き詰めれば、その階級制度にあこがれてきたのではないかと思う。

四民平等で階級制度をぶち壊しておきながら、此処で勉学にいそしんだ暁には、またまたぶち壊したはずの階級制度のトップに躍り出るチャンスにめぐり合えるわけで、そのことは大いなる矛盾ではなかろうか。

持ち場立場で仕事の内容と責任の重さが違うということは良く理解できるが、仮に一隻の軍艦を例に取れば、その軍艦の究極の目的は戦うことにあるわけで、その戦いの最中に、こんな階級制度に振り回せれていれば十分な動きができないのではなかろうか。

昔の軍艦を今は自衛艦と称しているが、所詮は何処をどう押しても軍艦である。

ただ大艦巨砲の時代の船に比べれば大きさは随分小さくなっているが、性能的には昔の軍艦以上の実力を持っていると思う。

そしてその軍艦は徹底的に技術の塊で、その意味では肉体労働的なものは無く、頭脳労働的なものが多いわけである。

これは今の航空機でも同じ軌跡を歩んでいるが、ということは体力的には女性でも十分の仕事そのものはこなせるということである。

昔は、「女を乗せない戦車隊」といわれたものだが軍艦にも女性が乗るということは考えられなかったと思う。

そういう技術集団の中で旧態依然たる階級制度があってはならないと思う。

先にも述べたように、江田島・旧日本海軍兵学校を語るについて、この学校はあまりにも有名なるがゆえに私ごとき学のないものが語るには明らかに荷が重過ぎる。

卒業生はじめ、様々な名士が既に十分語りつくしているが、物事には多様な見方があり、人それぞれに違った感想、主観が存在することは当然のことだと思う。

いくら多士済々の名士たちが語りつくそうとも、私には私の感じ方、思い、主観というものがある。

それを書き綴ってみたい。

沿革については、いくらでも参考書があるので、それを私が繰り返しても仕方がない。

重要な点は、この学校の設立主旨が明治初期の日本人のあらゆる階層に公平に開かれていたということである。

言うまでもなく明治政府の四民平等の精神にのっとり、当時の政府の指針でもあったのであろう、たった一回のペーパーチェックで日本全国のどんな階級、階層からも全く公平に採用されたということである。

厳密には身体検査等で、なにがしかの欠陥のあるものは排除されたであろうが、それは将来の職業、職業軍人として職務を遂行するに適さないという意味での選別であったものと推察する。

この全く平等に国民の各層から公平に人員を採用するということは、あの時代背景を考えれば非常に珍しいことだと思うし、世界的に見ても画期的なことだったと思う。

この時代以前の世界の常識では、いわゆる西洋列強の職業軍人というのは、基本的に将校は貴族が占めていた。

戦争で兵隊を指揮するのは貴族出身の将校であったと考えて差し支えないと思う。

それはことの流れとして当然のことだと思う。

封建的な領主、つまり貴族の子弟が、彼らのノブレスオブリッジの実践を学ぶ学校として、あるいはステータスとして、ある種の帝王学の一環として戦争のノウハウを学んだものが将校、つまり戦う集団の中間管理職として任にあっていたもの推察する。

それは「人民を統治すのは貴族だ」という従来の認識の延長線上のことであったと想像する。

それに反し、兵隊という階層は、それこそ有象無象の大衆と言うか、農奴というか、やくざ者というか、今で言うところのフリーター的な食いつぶれたものであったと思う。

近代国家の徴兵制の前の段階として、封建制の厳しい時代には、自分の家の農奴が借り出されたケースもあろうかと思う。

金と契約で縛られたものもいたかもしれない。

地域抗争の捕虜となったものが無理強いされて連れてこられたものもいたかもしれない。

傭兵というのもいたかもしれない。

社会制度として軍隊のシステムそのものが確立されていなかったに違いなく、制度としての軍隊そのものが曖昧なものであったので、いわゆる兵隊というのは人間として五体満足なものをかき集めて、それに武器としての銃を持たせた有象無象のやくざ者の集団であったに違いない。

それ故に世界各国で兵隊が忌み嫌われ、軽蔑され、蔑視されていたに違いない。

だからこそ近代国家となった西洋諸国、いや日本も含めて、徴兵制をしいて、兵隊・兵役というものを国民の義務として押し付け、そのことによって自分の祖国、愛国心というものをことさら強調したものと考える。

話は飛躍するが、戦後のアメリカ映画でジェームス・デイーンの主演した「エデンの東」というのがあった。

この中でジェームス・デイーンは何をやっても父親から疎まれる弟の役で、兄の方はそれとは逆に何をやっても父親から褒められるが、この兄弟が自分の母親が売春宿のオーナーということがわかると、真面目な兄はそれに悲観して、世をすね、自暴自棄になり軍隊に入って欧州戦線に旅立つというところで映画が終わっている。

西洋の世間一般では、これが兵隊という社会的システムに対する価値観であったろうと想像する。当然、好き好んで自ら兵隊になろうという馬鹿はいないということである。

しかし将校は別である。

将校というのはあくまでも管理者であるわけで、自らは土の上を這い、泥水をすすって塹壕に起居するものではないわけで、あくまでも選ばれた立場ということは自明である。

だからこそ国家を維持するためにはそういう管理者が必要なわけで、それなりの敬意と尊敬を維持し続けたわけである。

問題は、かっては貴族の子弟の独壇場であった将校養成の場に、国民のあらゆる階層から雪崩を打って優秀な人々は押し寄せたということである。

現代の考え方からすれば、それは非常に民主的なことで、喜ばしきことのはずであるが、果たしてそれを鵜呑みにしていいかどうかと言うことに私は疑問を呈する。

普通に言われている海軍兵学校の教育は、平等、博愛、公平という点で素晴らしいものであったといわれているが、私に言わしめれば近代戦争に対する認識がかけていたのではないかと思う。そして精神的な倫理が先走って、武士道精神が褒め称えられている点は、人格形成として賞賛に値するが、それでは近代戦争に対して十分対応できていなかったと思う。

日本が明治維新以降近代化を推し進める過程で、海軍の充実を図るためこの学校が設立された趣旨はよくわかるが、その中では日本の武士道精神が至誠のものとして涵養されていた。

これは生きた人間としては素晴らしいことで、西洋列強もその点においては賞賛を惜しまない。

しかし、世の中は、特に昭和の時代になれば、戦争の形態は国家総力戦になっていたわけで、国民一人一人を総動員しなければ勝利がおぼつかないところまで来ていたのである。

日本の軍部、陸軍も、海軍も、そのことに敗北するまで気が付いていなかったのではないかと思う。

戦後の我々は、戦時中は学徒動員や、強制労働で苦労した、女子挺身隊で苦労した、という話しを聞かされているが、それは戦勝国側でも同じなわけで、イギリスでも、アメリカでも、女性が兵器工場で汗水たらし、女性が飛行機のリベットを打っていたのである。

ソ連では女性が地下鉄工事のような土木作業にまでしていたのであって、我々だけが特別に過酷な労働を強いられていたわけではない。

第2次世界大戦というのは地球規模で国家総力戦であったわけで、あの戦争で戦った国々は、多かれ少なかれ、我々が経験したことと似たり寄ったりのことを経験していたはずである。

そのことから考えて見ると当時の日本の軍部というのは一時代前の発想ではなかったかと思う。戦後といえども、我々は特攻隊で散華していった若人の心意気には賞賛を惜しまないが、飛行機もろとも敵艦に体当たりしなければならない状況というのは、完全に祖国が死に体になっていたわけで、これは明らかに政治の失敗というべき領域に入ってきていたと思う。

明治維新以降の日本の政府の中で、陸軍大臣と海軍大臣の存在というのはきわめて歪つなものだと思う。

その意味では明らかに前時代の発想であった。

明治憲法の不備であると思う。

近代化ということがまるでわかっていなかった。

民主化ということがまるで理解されていなかった。

陸軍大臣、海軍大臣というポストが必要であったことは理解できる。

しかし、それはシビリアンでなければならなかった。

陸軍なり海軍なり、内部の、しかも現役でなければならなかった、という点は致命的な欠陥であったと思う。

軍人勅諭では、その第一項の忠節の項で、軍人の政治的不関与をうたいながら、閣僚の中にこの二つのポストを維持し続けたということは完全に政治システムの失敗であり大矛盾だと思う。

海軍の学校、陸軍の学校の卒業者が、海軍なり陸軍という狭い世界の中で立身出世をして、その頂点が大臣だとすれば、視野が偏狭的になるのは当然のことだと思う。

昔も今も高級官僚というのは国の金で海外に留学なり、研修という名目で視野を広める手法、手段は講じられてはいるので、それなりの海外事情というのは掌握しているとは言うものの、その基底の部分に、出身母体の潜在意識を拭い去ることなく、その視点から海外事情を見ている以上、真の視察にはならないわけで、当然見落としとか見当違いということが付いて回ると思う。

うら若い青年、特に優秀な青年が官僚になったとして、その環境の中で10年20年30年と年月を過ごせば、その人にとっては自分の祖国という大きな視点よりも、自分の属する省益が優先するようになるのも当然のことだと思う。

省益がそのまま国益になると思い込むのも無理からぬことだと思う。

ところがこれでは大局を見失うわけで、それがあの戦争の日本の敗北ということではなかったかと思う。

戦後65年を経過して、いわゆる戦記物というのは巷にあふれんばかりに出回っているが、不思議なことに日本の戦争の仕方について補給という立場から論じたものが一向に無いのは一体どういうことなのであろう。

江田島に展示してあるものについても、勇ましく戦うことばかりが記されているが、補給の重要性について述べたものが一向に見当たらないということは、我々は未だに、21世紀という今日においても補給ということを軽視しているということではなかろうか。

補給、ロジステイクの重要性、その意義、その波及効果というものに対して無知ということではなかろうか。

栄光ある海軍兵学校出身のものでも、補給の重要性を論じたものが無いということは一体どういうことなのであろう。

旧陸軍では「輜重兵が兵ならば蝶ちょトンボも鳥のうち」という言葉が生きていたようだが、こんな馬鹿な話は無いと思う。

秦郁彦氏の言うところによると、あの戦争で陸軍の将兵の7割ぐらいの人たち、特に南方戦線で戦った人々は、その大部分が補給の途絶による餓死者であったとのべているが私もそうだと思う。

徴兵で集められた将兵たちが、敵の弾に当たって名誉の戦死をするならば、晴れて靖国神社に祭られて、遺族もおおいに面目を施すが、ジャングルの中で餓死したではあまりにも可愛そうではないか。

補給の続かないことを承知の上で部隊を移動させる作戦参謀の罪はいかばかりかと言わなければならない。

大陸から南方の戦線に部隊を移送するのに、輸送船に護衛も付けずに送り出すなどということがあっていいものだろうか。

そんなアホな作戦運用をしているから、戦地に着く前に船ごと敵に沈められたではないか。

これは陸軍だけの問題ではないはずで、海軍も大いに係わりのあることだと思う。

嘘か真か定かには知らないが、日本海軍は敵の輸送船を沈めてもそれを戦果として計上しなかったといわれている。

敵の輸送船を沈めても、それを戦いの戦果としないということは、ある意味で古典的な武士道精神であろうが、これでは現代の国家総力戦には通じない。

確かに、敵の戦艦と会い交えて死闘を繰り返せば、勝つにしろ負けるにしろ、それは軍人としてきわめて名誉であり、誇り高い行為であろうし、軍人としての生きがいでもあろうが、そんな宮本武蔵と佐々木小次郎の一騎打ちのような理想的な海戦が望めるはずも無いではないか。

しかし、戦史を忠実にトレースすれば、そういう理想的な海戦でも、我が方の海軍は敗北を期しているではないか。

そういう敗北をしても、尚、古典的な一騎打ちの海戦を望むあまり、敵の補給路を断つという思考は、最後まで我々の側には無かったようだ。

補給路を立つという作戦は、何も戦艦を出さなくても駆逐艦や巡洋艦や潜水艦を上手に用兵すれば可能なわけだが、我々は最後までそういう思考に至らなかったようだ。

「敵の補給を断つ」という思考が無いということは、味方の補給も軽視していたわけで、味方の補給船団の護衛という任務も軽視していたと思われる。

旧海軍では輸送船団の護衛という任務を軽蔑するあまり、あまり積極的にそれにあたらなかったので、味方の輸送船は次々に敵の潜水艦の犠牲になって、必要なところに必要な物資と人員を届けることができず、結果的に先発部隊は餓死するという状況であったと推察する。

これは海軍というもの、いや海軍ばかりではなく全ての軍人たちが、近代の、現代の国家総力戦というもの本質を知らなかったということだと思う。

明治維新以降の海軍の歴史の中で、ヒューマニズムに根ざす美談というのは掃いて捨てるほどある。

それはそれで日本人の誇りを示すに十分であるが、基本的に戦争には勝たねばならないと思う。国家総力戦に勝とうと思えば、人間のヒューマニズムは邪魔になるだけで、そんな奇麗事をいっていては近代の戦争、現代の戦争には勝てないと思う。

日本の都市の絨毯爆撃、広島・長崎の原爆投下にヒューマニズムが垣間見れるか。

日本の武士道精神が垣間見れるか。

日本海軍が戦闘する船でない輸送船を沈めようともせず、それを沈めても戦果として評価しなかったという点は、古典的な日本の武士道の延長であったことは十分うなづけるが、結果として戦争も終盤の沖縄戦では、沖縄の沖合いに雲霞のようにアメリカの船舶が出現し、それを目の当たりにしたわれわれはアメリカの物量に負けた、という言い方になったものと考える。

アメリカが物量において開戦当時から秀でていたことは周知の事実であるが、ならばこそ、それを迎え撃つ日本側としては、その物量を徹底的に叩くべく作戦を講じなければならなかったのではなかろうか。

我々の側が太平洋の全域にまで戦線を広げれば、当然補給も太平洋の全域に行き渡らねばならないわけで、ミッドウエイー海戦後、アメリカが反撃に出て、太平洋の主導権を握れば、当然アメリカの補給線も我々と同じように延びてくるのは当然である。

守勢に立たされた我々はこのアメリカの補給線を遮断するという戦法も当然考えられると思う。

ところがそうはならなかった。

補給を重視した戦法を最初から考えているとしたら、補給線が太平洋の全域にまで延びきった作戦はありえない筈だ。

同じことは陸軍でもしているわけで、中国人相手のときは時の声を上げて突撃すれば先方はどんどん奥に逃げ込んでしまうが、それを調子に乗って追い詰めると、補給線が完全に延びきってしまう。

中国人相手のときはそれでも事なきを得たが、これがそれソ連相手となると手痛いしっぺ返しをこうむったのがノモンハン事件だと思う。

これは我々の戦い方というのは補給ということを全く考えないということだと思う。

我々の側は律儀にも戦艦と戦艦の、宮本武蔵と佐々木小次郎の一騎打ちのような戦法に固執していたがゆえに、無残な敗北を期したのではなかろうか。

日本の武士道を基底とした陸海軍軍人のヒューマニズムというのは世界から賞賛されていることは論を待たない。

日清戦争のときの伊東裕亮連合艦隊司令長官の丁汝昌提督の丁重な扱いとか、日露戦争のときの乃木稀典のステッセル将軍の扱いとか、ロジェストウエンスキーに対する扱いとか、様々な美談があるが、これは明らかに人類にとって古典的な最後の戦争の例だろうと思う。

これ以降の近代ないしは現代の戦争には、こういうヒューマニズムに根ざす古典的な思考では通用しないわけで、無辜の人々に対する無差別攻撃で相手国の全体の戦争遂行力というもの削減する戦法に変わってしまっていた。

その典型的な例が、爆撃機B−29による大都市の無差別空襲であり、その究極のものが原子爆弾の投下である。

この時代になると戦争に勝つということは正規の軍人同士の戦いでは収まりきれなくなって、相手の国の人々を無制限に殺すことによって、如何に相手の戦意を喪失させるか、が勝利の鍵を握るようになったわけで、古典的なヒューマニズムや、民間人や非戦闘員を戦闘に巻き込まない、という人道主義が戦いに入り込む余地がなくなってしまった。

旧の日本海軍が補給に重きをおかなかったということは、戦後になって、その失敗の研究をする場に至っても、そのことに言及するものがほとんど皆無ということは、未だにそのことに気が付いていないということだと思う。

戦後になって、如何に日本が戦ったかという回顧的な著述に至っても、我々の側の補給の軽視に論及するものがほとんど無いということはそういうことだと思う。

補給の途絶を、まるで転変地変にあったような感覚で記述されているではないか。

輸送船が沈められて補給が絶えた、だから補給を充実させねばならない、そのためには船団護衛に重点を置かなければならない、という現実を直視した思考に至っていないような気がしてならない。

軍艦そのものはある程度の資材を自分の艦内に内包しているので、機能が正常な限り、自らが補給のことを心配する必要がない。

自らは補給のことを心配する必要がないので、他者が補給に困窮していることにも思いが届かなかったのかもしれない。

敵の船とはいえ、戦闘力の無い輸送船を攻撃することは卑怯で、武士道が廃れるという意識があったのかもしれない。

しかし、この思考は古典的な一時代前の戦争であって、近代ないしは現代の戦争ならば、「まず相手の補給を絶つ」という戦法でなければ通用しない、ということに気が付かなければならなかったと思う。

ここで養成された若者は、戦争をする具体的なテクニックには長けていたのは当然であるが、近代から現代の戦争は、戦いのテクニック、いわゆる戦術の良し悪しではなく、政策、他国との連携、狐と狸の騙しあい、狡猾な外交というもので推し進めなければならなかったわけで、それは戦略という言葉がもっとも適切な表現であるが、我々には最後の最後までこの戦略思想というものが生まれなかったようだ。

江田島・海軍兵学校が全国から優秀な若人を集め、それに立派な教育を授け、人間として優秀な人材を輩出した事実は賞賛に値するが、この秀才な人材が10年20年30年と海軍という官僚システムの中で生息すると、本来の秀才たちが凡才に成り代わってしまうところにある。

これは民間企業の中でも往々にして見られることで、入社当時はそういう新人も自分の仕事、特に現場の仕事に寝食を忘れて熱中しているが、10年たち20年たっと、そういう若者も管理職になり、現場の仕事から遠さかって、政治的な折衝とか、受注獲得というような振る舞いに明け暮れるようになってしまう。

いわゆる新人のときは戦術として自分の仕事に熱中しているが、これが戦略を担うようになると、若いときに受けた高度な教育にもさびが出てきてしまって、大局的に俯瞰して全体の利益を生み出す視点が効かなくなってしまうということだと思う。

回りの人事が気になったり、出世の速さが気になったり、派閥の動向が気になったり、ときわめて俗っぽいことに関心が向いてしまうということだと思う。

旧海軍でも同じようなことが起きていたと思う。

若いうちは、駆逐艦や巡洋艦の艦長や巨大な艦の副官とか参謀とかそういう現場の仕事にはそれこそ情熱を傾けていたものが、あまりにも長いことある意味の井戸の中に生息し続けると、外界との感覚が鈍ってしまうことは多々あると思う。

そしてそれは政治的な振る舞いに近くなり、純粋な気持ちでことにあたるとういうよりも、政治的な駆け引きの機会が多くなり、それが井戸の中で派閥を形成するようになってしまう。

もともとが優秀な逸材そろいなのだから露骨な形で表面化することは無かろうが、他者が見えなくなるという点では大同小異だと思う。

問題は先にも述べたように、軍人勅諭の第一項の忠節に中に示されている、軍人の政治的関与の排除であるが、これが死文化していて、大臣が現役の軍人でなければならなったという点に大きな矛盾が存在していた。

これは軍部の責任というよりも、政治の責任であることは言うまでも無いが、それが昭和の時代においても一向に訂正される機運さえなかったという点だと思う。

明治憲法というものが不磨の大典であったことは周知しているが、私のようなアホならば、それを黙認したとしても何ら不思議ではないが、日本には海軍兵学校をはじめ陸軍士官学校もあったし、その前に帝国大学もあったわけで、そういう人たちは今の大学出とは雲泥の差で優秀であったことは否めない。

だとしたら、そういう人たちが何らかの知恵を絞れば、その矛盾を打開する方法が見つかったのではなかろうか。

昭和の初期の時代には治安維持法があって自由にものが言えなかったとよくいわれているが、これもあの時代を生き延びた人の一種の逃げ口上だと思う。

ただそういう発想や思考が無かっただけのことで、あの時代には日本の全部の人が軍国主義のままでいいと思っていたということだと思う。

明治維新で日本が近代化に向かって走り出したといっても、市井の人々の一般の生活は、いままでの封建主義思想が一夜にしてひっくり返ったわけではなく、大部分の人々は従来の封建主義のままで生きていたと思う。

そういう泥沼の世界から抜け出すには、江田島・海軍兵学校のように国民に解放されて、金も要らず、それでいて高度の教育の受けられる環境に逃げ込むことが最良、最善の方法であったものと推察する。

私の伯父さんも片田舎の生まれで、生家はかなり恵まれた農家であったが、たまたま秀才であったがゆえに、この風潮に便乗して海軍兵学校に入学し、終戦後もしばらく生きていたが、ここで立派な教育を受けたら最後、生まれ故郷とはいえ、がちがちの封建主義的な田舎には決して帰ろうとせずに人生を全うした。

これが昭和の時代の平均的な秀才のコースではなかったかと思う。

日本が戦争に負けるまでは日本の家督相続は長子相続で、長男が全財産を相続するしきたりであった。

この制度は、自分たちの生業を末永く維持するためのある意味の生活の知恵ではあったと思うが、戦後の新憲法はそれを認めず、兄弟姉妹で等分に相続するようにしてしまったので、財産は細分化され、家は没落の憂き身になったわけである。

しかし、本当に秀才ならば、そういう財産よりも自分の自由を優先させたわけで、私の伯父という人も少々の財産にありついて田舎で暮らすよりも、自由な生活を選択した部類だった。

若いときに開明的な教育を受ければ、戦争に負けたからといって、がちがちの封建主義の田舎に帰って、家を中心とした義理人情や古い因習、慣習に縛られて暮らすことなどできないのが当然だと思う。

昭和初期の現実の我々庶民の生活にはこれほどの開きがあったものと思う。

四民平等とはいえ、又戦後の民主主義の世の中になったとはいえ、日本の大部分が田舎であったころは、農業を主体として生活をしている限り、これほどの意識の格差、精神の格差があったことは否めない。

兵学校を出た海軍士官ともなれば、戦争に負けたからといって、地面を這いずり回って農業をするなどということはありえないわけで、そう思い、そう考えたのは何も我が伯父さんだけではないはずであり、日本全国がそう考えていたものと思う。

ただ兵学校や士官学校に入る能力の無い人は、いたしかなく親の職業を踏襲するしか生きれなかったものと思う。

 

少々話題が飛躍するが、インターネット上に「海軍兵学校」というサイトがあって、その「閑話休題」と称するファイルには様々なコメントが記されているが、この中に「山本五十六 凡将論」というのがあった。

要するに山本五十六は「軍神などと言われているが、そうではないよ!」という批判記事である。作者は海兵74期、生出 寿という人であるが、ずいぶん思い切った論評だと思う。

彼は山本五十六が凡将であるとする8つの理由を挙げている。

1 なぜ海軍大臣にならずに連合艦隊司令長官になったのか。

2 なぜ連合艦隊司令長官の職を賭しても日米戦を阻止しなかったのか。

3 真珠湾攻撃は間違いではなかったのか。

4 ミッドウエイー海戦大敗の根本原因は山本長官の作戦指導のせいではないのか

5 ガダルカナル島での大消耗戦で決戦力をなくしたのはどういうわけだ。

6 「大和」「武蔵」を無用の長物化したのは判断が甘かったせいではないか。

7 搭乗機の撃墜死は判断が甘かったのではないか。

8 連合艦隊長官としてはミスキャストではなかったのか。

と、あげてそれぞれに詳細な考察をしているということであるが、ずいぶん思い切った発想だと思う。

こういう批判精神というのは常に持っていなければならず、それでこそ民主主義だと思うし、功成り名を成した人は、後からこういう批判が出ないように心して施政をしなければならなのは当然であろう。

が、その一つ一つには我々凡人でも思いあたる節がある。

最後の海軍兵学校長の井上成美氏も、これまた軍神としての東郷平八郎をこき下ろしているが、こういう批判精神の発露、批判できる社会的状況というのは、やはり民主化の進んだ社会といわなければならないであろう。

戦時中はそれができなかったから結果的に我々は奈落の底に転がり落ちたものと理解している。さて、生出 寿氏の唱える第1項については、我々は山本五十六氏が地上におればきっと暗殺されるに違いない、だから海に逃がしたという風聞を聞き知っている。

第1項と第2項はお互いに関連しあっていると思うが、あのときの状況、つまりアメリカとの交渉の経緯からすれば、彼がいくら奔走したとしても日米開戦は避けられなかったに違いないと思う。

例の、ハル・ノートといわれるものは、もう明らかに戦争に持ち込むための交渉断絶のメッセージであったわけで、事ここに及んでは、日米戦を回避する術はなかったと思う。

歴史というものは不思議なことに、時代を経るに従って詳細がわかってくる。

特に近現代史においては、ある時期には秘密文書であったものが、その秘区分が解除されるに従い徐々に詳細が克明に浮き上がってくるわけで、現時点で考えると、アメリカ側に日本を罠にはめる意図がありありと浮きあがってきたではないか。

日米開戦は純粋な意味で日本とアメリカだけの問題ではなく、その遠因は中国問題であったことはいまさら私が言うまでも無い。

当時、麻のように乱れに乱れた中国の現況から考えて、誰が海軍大臣であろうと、誰が連合艦隊司令長官であろうとも、日米開戦を阻止しえるものはこの世にいなかったと思う。

むしろ相手が悪かったと言ったほうがいいと思う。

あのときのアメリカ大統領がルーズベルトでなかったならば、あるいは回避できたかもしれない、と考えるべきだと思う。

あの当時の日米の国民の志向は、日本側の大衆はイケイケドンドンという軍国主義で覆われていたが、政府を始め天皇は戦争回避に努力しており、アメリカの国民も戦争忌避の感情が強かったので、ルーズベルト大統領は国民から支持されていなかった。

ところがその国民を参戦の方向に向けるべく工作したのがルーズベルトであったわけで、その意味からすると第3項の問題とも関連してくるが、「真珠湾攻撃が間違いであったかどうか」というよりも、日本外務省の怠慢を追及すべきであり、それを糾弾しなければならないと思う。

開戦の詔勅が実際の攻撃よりも後になったということは、決定的な日本側のミスである。

あの戦争を語る者、あの敗戦を語る者は多いが、そういう人たちも、この外務省の失態にはあまり関心を払わない。

個々の戦闘や作戦の可否は論ずるけれども、外務省の失態についてはあまり深く考察せず、ほんの些細な外交上のミスという捉え方をしているが、こんな馬鹿な話も無い。

日本がアメリカと戦争するかしないか、今にも戦争が始まるかもしれないという緊張したときに、送別会だの、日曜日でタイピストがいなかっただの、清書に手間取っただの、こんなのんきな理由が通るわけが無いではないか。

今にも戦争が始まるというときにもかかわらず、あまりにものんきすぎるではないか。

緊張感がまるで無いではないか。

この時に駐米日本大使館にいた国賊は奥村勝三、寺崎秀茂、井口貞夫らで、これらはその後も内地に送還されて、それぞれに処罰もされず逆に栄転さえしている。

こんな馬鹿な話があるか!!!。

奥村勝三は戦後、昭和天皇が始めてマッカアサーと会見したときに通訳として、寺崎秀茂は戦後もしばらくたってから「天皇独白録」を世に問うた。井口貞夫はサンフランシスコ講和条約の随員となっている。

こんな馬鹿な話があっていいものだろうか。

日本人が敗戦責任を問う裁判をしたならば、東条英機よりも先に、この3人を絞首刑にしなければならいと思う。

しかし、戦後もこれらの3人に対する糾弾というのはあまり聞かないが、それは戦後の我々といえども戦争責任の本質を知らずに、表層的な事柄にのみ関心が向いて、真の原因を掘り下げて暴くということをしてこなかったからだと思う。

あの戦争の責任を軍部にのみに押し付けて、戦勝国が東条英機ら7名の者を絞首刑にし、血祭りに挙げたので、それに便乗して自らの禊が済んだと思っているからだと思う。

我々が民族として、ことの本質を掘り下げて究明する、真の原因を暴き出すという、地道な研究に全く疎いので、われわれは道を誤ったのではないかと思う。

第4項と第5項も、お互いに関連しあっていると思うが、特に第5項に関して言えば、私が先に述べた補給の軽視、ロジステイクに対する認識不足ということだと思う。

第6項はさておいて、第7項の搭乗機が撃墜されたことは、私が思うに、これは彼は自殺しに行ったのではないかと思う。

自殺をするに道連れになったものはかなわない、という言い分もあろうかと思うが、こういう形の自殺であれば、誰も自殺ということに気づかれず、道連れになった人も、果敢に戦って死んだことになるわけで、誰一人自殺行という汚名を着せられる余地が無い。

立派な戦死となるわけである。

連合艦隊司令長官が自殺では格好が付かない。

責任を放り出して死んでしまった、ではあまりにも無責任で格好が付かない。

しかし、こういう形ならば誰がどういう角度から見ても立派な戦死、殉職として受け入れらるではないか。

いろいろな書物にも日本が戦域を拡大した世界地図が掲載されているが、それをみると日本が勢力を伸ばした地域は太平洋の全域に広がっている。

海軍の軍人、特に高級将校、海軍兵学校を出たような優秀な海軍軍人が、この図を見てどういう感想を持つであろう。

私ならば、これだけ広範囲に兵隊をばら撒いて補給はどうするのであろうということが真っ先に頭に浮かぶ。

大学にも入れないような劣等生の頭でもそういうことに思い至る。

海軍の軍人、特に高級将校、海軍兵学校を出たような優秀な海軍軍人ならば、そういうことに思いが及ばないだろうか。

ならば戦争をする前からそんなことは判っていたはずではなかろうか。

戦後、様々な戦記ものの本が出てきたが、そういう本を読んでも、やはり敗因の根本を掘り下げて暴いた記述は極めて少ない。

この生出 寿氏の本も、山本五十六の思考の欠陥を暴いていても、敗因そのものに言及はしていないわけで、私が思うに敗因のまず第1は、やはり私の持論である補給の軽視であったと思う。

その次には、やはり通信の軽視だと思う。

この通信の軽視の中には暗号に対する認識の甘さも入っている。

そしてそれは同時に情報の収拾ということも内包しなければならない。

我々はどうしてもこういう脇役的なサポート業務を軽視しがちである。

とにかく戦いとなれば、特に海の戦いともなれば、軍艦と軍艦が主砲を撃ち合って、どちらかの艦が沈むものでなければ「戦いとは」と認識しないわけで、輸送船や潜水艦相手では戦いのうちに入れていなかったのではないかと思う。

こういう戦いは日露戦争までの戦いで、第2次世界大戦では既に時代遅れになっていたわけである。

時代が先に進んでいたにもかかわらず、旧態依然とした思考のままでいたから、補給とか情報ということには全く重きをおかず、結果的にそれが命取りになったものと考える。

ところが戦後に至ってもまだなおそれに気が付いてないわけで、出てくる戦記、いわゆる歴史の反省としての戦記ものの読み物にも、そういう認識を欠いたまま書かれている。

山本五十六の墜落死も、既に情報戦の結果であったし、彼はアメリカ側の情報を逆に利用することで、自殺行を成功させたのではないかとさえ思えてくる。

前にも述べたように、ああいう死に方ならば誰一人自殺などとは思いもよらないのではなかろうか。

又、誰一人自殺を幇助したわけでもなく、道ずれになった方々は、どこからどうみても立派な戦死であるわけで、誰一人傷つくものがいないわけである。

我々が戦争の反省ということを考えたならば、補給の軽視と情報に対する認識というのは避けて通れない問題だと思う。

ところが戦後の戦記ものにはそういう視点が未だに抜け落ちているのではなかろうか。

 

同じく「海軍兵学校」サイトの「閑話休題」には、こういう面白い話題が提供されていた。

戦争末期、「大和」が水上特攻として沖縄に向かっていたとき、敵、つまりアメリカの第5艦隊司令長官スプールアンス大将は「大和」を艦対艦の一騎打ちで戦いたいと願っていたといわれている。

彼が「大和」の攻撃を命令したとき、全艦の将兵が、鍋、釜、音のするものを何でも叩いて、「大和」と戦えることを誇りとして喜び合ったとされている。

しかし、「大和」は貴下の第58機動部隊の航空機が先に発見し、ついに艦対艦の一騎打ちは実現しなく、スプールアンス大将は切歯扼腕して機動部隊ミッチャー中将に攻撃命令を出したといわれている。

スプールアンス大将は東郷平八郎を崇拝していて、是非とも彼と同じ戦い方で決戦をしたかったということだ。

この彼の考え方というのは、そのまま日本の武士道に通じるものであるが、彼自身もそうであるが、彼の艦内の将兵が「大和」と一戦を交えることをそれほど誇りであるとする、この考え方には敵ながら敬意を評せざるを得ない。

日本の海軍にもこういう思想が全部にみなぎっていたにちがいない。

特に江田島出身者にはそれが顕著であったろうと推察する。

極めつけの日本の武士道精神であるから、適も味方もその精神に敬意を表していたことは十分うなずける。

しかし、アメリカ側は勝ち戦だから何を言っても許されるが、負けた側としては、敗戦の責任を明らかにしないことには国民としても納得しかねるのは当然である。

スプールアンス大将の場合、いくら彼がそう願っていたとしても結果はそうならずに、「大和」は航空機によって沈められたが、彼のこの考え方というのは戦争の私物化とも取れる。

彼はそう願いつつも、やはり先に発見した航空機部隊に戦功を譲ったという点でやはりここでも武人の誉れ高い人物といわなければならないであろう。

スプールアンス大将が個人的には「大和」と一騎打ちがしたいと思いながらも、個々の戦闘場面では敵に勝たねばならず、敵を倒さねばならないわけで、そういう意味で敵を先に発見した航空機部隊に攻撃命令を下したという点では、徹底的な合理主義が貫かれている。

我々の様々な戦闘にもこういう場面が多々あったのではなかろうか。

司令官の個人的な思い入れが戦闘に持ち込まれた場面が相当にあるのではなかろか。

私はあの戦争を考察することが好きで無責任なことを書きなぐっているが、個々の戦闘に関しては詳しく知っているわけではない。

しかし、どうも推察するに戦争、戦い、個々の戦闘を私物化している例もあるのではなかろうか。

先に記した生出 寿氏の「山本五十六 凡将論」というのもそういう視点に立った見方ではなかろうか。

戦争の私物化という観点から個々の作戦なリ戦闘なりを調べてみると又面白い発見があるかもしれない。

 

今ひとつ不思議なことは戦艦「大和」は、何故勝算のない沖縄に向かったのかという疑問である。表向きには、「一億特攻のさきがけ」ということであるが、インターネット上のコメントでも諸説あって、正確にはわからない。

その中に、「大和」の存在そのものが国民に知られていなかったというくだりがあったが、これは果たして本当だろうか。

秘密に建造したということは知っているが、その存在がほとんど終戦まで国民に知らされていなかったであろうか。

そういう状況下であるとするならば、「一億特攻のさきがけ」というキャッチ・コピーも無意味ということになるのではなかろうか。

「大和」の存在を国民が知っていて、はじめて魁としての意味が生まれてくるはずで、国民の知らないものがいくら特攻をしたところで、国民に範を示したことにはならないではないか。

戦争中は何処の国でも情報の管理を厳しくするので、国民が戦争の細部を知り得ないという状況もおおよそ察しは付く。

それにしても国民に範を示すべき行動が、国民の知らないものが行ったところで意味を成さないと思う。

結局、日本海軍にとって戦艦「大和」とは一体なんであったのだろう。

当時の日本のGNPの3%の建造費をかけて作っても、結局のところたいした戦果を挙げていないではないか。

海軍の失態は回りまわって江田島出身者の失態ということになると思う。

日本全国から選び抜かれたエリートたちが、此処で立派な教育を受けて、人もうらやむ海軍将校になって、10年後20年後はそれこそ3等大将になり下がってしまったのかということになる。

これは一体どういうことなのであろう。

思うに、これは井戸の中の蛙状態ということではなかろうか。

先にも述べたように、海軍なり、陸軍なり、それぞれ専門機関で若いころからその組織に中に組み込まれてしまうと、10年20年30年たったとき、その井戸の壁から外を見ることができなくなってしまって、井戸の中の発想しかできないということではなかろうか。

組織というものはこれでは壊死するわけで、この組織の壊死を防ぐには外からの血の輸血ということが必要なのではなかろうか。

海軍なり、陸軍なり、その井戸の中でだんだんと階段を上がって頂点に付くころは、その思考が偏狭になってしまって、井戸の中が全世界だと思い込むようになるのではなかろうか。

そこに外部から人が出たり入ったりすれば、外の世界のものの見方、発想の違い、別の角度からの視点というものが認識できるが、下から上まで狭い井戸の中にいては、発想そのものが偏狭的になってしまうのも無理からぬことだと思う。

組織の中に他の血を混ぜるということは海軍なり、陸軍のカチカチに構築された組織のトップ、たとえば海軍大臣なり陸軍大臣には文官を当てるということになろうかと思う。

組織の中間階層にも同じことが言えるわけで、特に主計課というようなセクションには大いに文民を入れるべきであったと思う。

実際には軍属という形で、文民というか民間人というか、職業軍人でない人が組織に中にいたことはいたが、彼らには決定権が与えられていなかったので、所詮は、あらゆることを軍人が掌握していたということになる。

一言でいえば、シビリアン・コントロールの意識も発想もまったく見当たらなかったということである。

シビリアン・コントロールを充実させる為には、文民のほうにも軍事に関する相当な知識が要るわけで、今の政治家のように100%の軍事オンチ、戦争オンチではこれまた困るわけであるが、戦争前の日本の知識階層には今のようなオンチはいなかったのではないと思う。

この考え方そのものは軍人勅諭の中にも、政治の不介入ということが記されていたにもかかわらず、それがなされていなかったということは、やはり官僚の縦割り行政の顕著な弊害ということであろう。

いくら全国から集められた秀才たちといえども、15、6歳のころから社会から隔絶された特殊な環境の中で純粋培養されれば視野が偏狭になるのも当然で、それに敗戦まで気が付かなかったことは我々の民族の大反省点だと思う。

それと、この当時の軍部には戦略と戦術の認識もなかったのではないかと思う。

軍政という認識はあったように思うが、これはあくまでも自分たちの軍隊という官僚システムの温存のための発想で、自分たちの役割分担を取り決め、実施するためのもので、敵と戦うための思考ではなかったかと思う。

戦術というのは、個々の具体的な作戦とその戦闘方法のことであるが、戦略となるともっと広範な発想でもって政治的な視野で戦争というものを捉えなければならなかったと思う。

我々の側に戦略の思考があったとすれば、太平洋全域に戦闘範囲を拡大するなどということにはならなったと思う。

結果論ではあるが、そんなことは地図を広げてみればド素人でもわかる。

「大和」の水上特攻ということも、戦略的に考えれば、如何に無謀というか、馬鹿げたというか、無意味というか、まるで「大和」という戦艦を私物化した発想で、戦争そのものを私物化しているに等しいではないか。

この場合の私物化ということは、何も私利私欲という意味ではない。

戦果の独り占めというわけでもない。

それは海軍による、海軍のための、海軍による自己満足の発露に過ぎず、戦争の大儀を忘れた無益な行動という意味で、日本国全体のため、ひいてはアメリカの戦力に被害を与え、彼らをひるませる有効な行動には何ら貢献するものではなかった、という意味である。

結局のところ壮大な犬死に過ぎなかったではないか。

それにしてもこの時、この時点、昭和20年4月6日の出撃というのは一体どういう意味があったのだろう。

「一億特攻のさきがけ」とはどういう意味があったのであろう。

「大和」に死に場所を与えた、などという説もあるが、冗談ではない。

特攻なら特攻らしく敵を一つでも多く、一機でも多く、一艦でも多く道連れにしないことには、ただの犬死にではないか。

結果的にはまさしく犬死にだったと思う。

戦争だから人が死ぬのは致し方ない。

しかし、せっかく出陣してそれが犬死にだとすれば悔やんでも悔やみ切れないと思う。

「大和」の特攻もさることながら、南方のジャングルで補給も途絶えて餓死した将兵のことを今我々どう考えたらいいのであろう。

戦う人として、戦場で敵の弾で倒れたならば本人も遺族もそれなりに納得がいくと思うが、戦うより前に餓死したでは、それこそ悔やんでも悔やみきれないではなかろうか。

これを今我々はどう考えたらいいのであろう。

今日本は周辺諸国から、首相の靖国神社参詣の問題に絡めて先の戦争の反省を迫られているが、こういう状況から鑑みてあの戦争に生き残った元兵士、元軍人、元将兵はあの戦争中のことをあまり積極的に語ろうとはしない。

戦争経験者が自分の体験を語ろうとしないので、その後の若者はそういう話を聞く機会がなく、いわゆる戦争オンチの状態に陥って観念的な思考しかできない。

その根本のところには、いわゆる戦争経験者が、自分たちのした愚かな行為、例えば「大和」の無意味な出撃、例えばジャングルの中での餓死、例えば補給の途絶による玉砕、とうとうあまりにも無意味な死、あまりにも効果のない作戦による消耗、などのことが頭の中を駆けめぐって、まともに口に出せないということではなかろうか。

ということは戦争経験者の一人一人が敗戦、負け戦の責任の一端を自覚して、自覚しているからこそ贖罪の気持ちが先に出て語れないということではなかろうか。

中国などの言い分では、日本の一般国民も日本軍国主義者の被害者だというアプローチを我々の政府に投げかけているが、確かにそういう言い方も成り立つと思う。

国益と国益のぶつかり合う戦争だから、戦争そのものは致し方ないが、自分の国の施策、ないしは作戦が稚拙で、自分の国の兵隊や軍人が、戦わずして死ぬなどということは我々の側の問題であって、これを今我々はどう考えたらいいのであろう。

戦う前に全員降伏するとか、相手に寝返るというのであれば、人間の生き方としてそれなりの整合性は探し出せるが、補給が途絶して餓死ないしは玉砕では何とも言い様がないではないか。

太平洋全域に戦線を広げれば補給が成り立たないということは自明なことで、それを今どう考えたらいいのであろう。

 

この江田島でどうしても見落としてならないのが、教育参考館と称する博物館で、此処には明治から太平洋戦争までの海軍関係者の遺品が展示してあったが、その一つ一つの遺書はその場では読みきれない。

特に先の戦争で特攻隊員として散華して行った方々のものはその一つ一つが秀逸で、ゆっくり読みたいところであるが、とても許されることではない。

この館の脇には特攻兵器としての特殊潜航艇の実物等も展示してあったが、特攻という事態を招くこと自体が完全に終末思想ではないかと思う。

それにしても、あの時代の人々は何故あれほど命を粗末と言うか、いくら国のためとはいえ、自分の命を投げ出すことに抵抗を示さなかったのだろう。

以前、グアム島に行ったとき、日本軍の戦車というものを見たが、あまりにも貧弱で、あれで米軍相手に死ぬまで戦ったのかと思うとつい涙が出そうになった。

ここに展示してある特殊潜航艇といえども、出撃すれば必ず敵の軍艦を沈めることが可能かといえば、そうとも思えない代物である。

日本海軍というのは片一方で当時の日本のGNPの3%にも及ぶ戦艦「大和」を作っておきながら、何故に確実性も危うい特殊潜航艇なるものを考え出したのであろう。

又、それに乗って敵に向かっていった有志たちの真情を押しはかると、日本海軍の司令官達は生きてはおれないと思う。

そうかといってあっさり自決してもらってもこれまた困ったことだと思う。

グアム島、サイパン島、ガダルカナル、沖縄等々、こういう地で犠牲となった邦人の命をなんと考えていたのであろう。

本土決戦などというアイデアを何と考えたらいいのであろう。

「本土決戦など駄目だ!」と明快に答えたのは昭和天皇一人ではないか。

こんな馬鹿な話があっていいものか。

戦争の専門家、軍事の専門家、海軍の専門家、陸軍の専門家達は一体何をどう考えていたのであろう。

昨年、沖縄を旅行したとき、様々な慰霊碑を訪ねて本当に心からそう思った。

私は昨今の自虐史観を快く思っていない一人であるが、戦跡巡りをしてみると、敵であるべきアメリカを憎むよりも、同じ日本人として同胞を死に追い詰めた邦人が憎らしくなってきた。

この江田島に遺品を残した方々も、彼らの心情はまさしく尊いものとは思うが、結果から見れば高級司令官に「国のためだ」と言いくるめられ、煽てられて散華して行ったのではないかと思う。

 

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