5月28日大和ミュージアム

江田島・小用から呉に渡るのは比較的スムースに異動できたが、ここも例によってフェリーで渡らねばならなかった。当然のことだ。

時間的にはわずか30分程度の航海でさほどの揺れも無く無事到着したが、まだ昼前であったので早速腹ごしらえということになった。

フェリーの着いたターミナルの上のほうに適当な食堂があったので、そこでの腹ごしらえとなったが、海軍カレーを望んでいたものもいたがそういうわけには行かなかった。

ここで腹こしらえをして、案内標識に沿って外に出るともうそこ大和ミュージアムとなっていた。

ここは本来、呉海事歴史科学館ということらしいが、俗称のほうが有名になってしまったので今は大和ミュージアムのほうが通りがいいようだ。

入り口には艦首の旗ざおと大きな錨が鎮座していた。

そして主砲とそれにスクリューが展示してあったがこれは戦艦「陸奥」のものということだ。

戦艦「陸奥」は呉港内で火薬庫の爆発で謎の沈没をしているわけで、それを引き上げて再現したものらしい。

最初、大和のミュージアムに何故「陸奥」があるのかと思ったが、ここはその名前が示している通り、呉海事歴史科学館なわけで、呉にゆかりのあるものならば大和に限らず展示すると考えれば納得がいく。

この日は日曜日で館の内外とも人であふれていた。

私たちのような年寄りのみならず若い人も大勢来ていたが、これは一体どういうことなのであろう。

此処の開館とあわせて「男たちの大和」という映画があって、私も見ようと思いつつ見逃してしまったが、そういうものの影響だろうか。

人であふれかえったエントランス・ホールで切符を購入して中に入ると、正面に1/10の「大和」の模型があった。

確かにその全容は威風堂々としたものである。

模型とはいえそれなりの貫禄を十分の発揮している。

この博物館が誇示しているように、やはり日本人としての我々は物作りにはきわめて優れた人種であることは間違いない。

私は個人的には「大和」の製作の意図と、その運用には極めて酷な印象を抱いているが、物作りの精神だけは世界に冠たるものがあると思う。

考えても見よ!!!あの時代、昭和の初期の時代に、日本人以外の黄色人種、アジアの民で、これに相当するものを作り上げた民族が他にあるであろうか。

この日本人の特性は、戦争に敗れたとはいえ、戦後にも生き続けていたわけで、それだからこそ戦後復興も見事になしえたと考えなければならない。

このミュージアムも「大和」の威容を誇示するのが目的ではなく、日本人のもの作りのバイタリテイーを誇示するのが目的だと私なりに解釈している。

その目玉が「大和」なわけで、このもの作りの精神は我々が世界に誇りうる最大のものといっても過言ではないと思う。

ただし、ここで注意しなければならないことは、物つくりに関しては秀でているが、政治・外交に掛けては最低の民族である、という現実を直視しなければならない。

「孫子の兵法」に、敵を知り己を知るということがあるが、我々は敵を知ることも己を知ることも実に下手だということを自覚し、それを肝に命じておかなければならない。

民族の特質というのはやはり永久不変のもののようで、日本が戦争に負けたとき、いみじくも占領軍最高司令官のマッカアサーが言ったように、我々は「12歳の子供だ」ということは戦後61年たった今でも少しも変わらない。

それは同時に物つくりに秀でているという現実もやはり変わらないわけで、これが我々の民族の特質だと考えるとそういうものは時代がいくら変わっても少しも変わらない。

「大和」の模型の隣にある展示室には、ヤーロー式ボイラーというものがマネキンを使用して展示してあったが、これは非常に良いことだと思う。

戦艦「金剛」に搭載されていたボイラーということである。

今までの旅で見てきたものは全てが華々しい脚光を浴びるポジションのものばかりで、人々の目線もどうしてもそういうものに向きがちであるが、こういう日の当たらない場所でも重要な仕事があり、それが機能を果たしているからこそ組織が回転するという意味で、非常に好感の持てる展示だと思う。

東京の「船の科学館」でも巨大なエンジンの展示があったが、エンジンというのは船に関するばかりでなく全ての動力の根源なわけで、それは当然日の当たらない職場である。

軍艦というのはいわゆる技術革新の塊みたいなもので、「大和」は既にデイーゼルエンジンのはずなので、このヤーロー式ボイラーとは縁がないと思うが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で描かれている、日本海海戦の場面に登場する日本とロシアの軍艦はおそらくこういうエンジンによって稼動していたに違いない。

しかし、あらゆるものの動力源としてのボイラーマンというのは実に大変な仕事だろうと思う。

ボイラーマンの現場の仕事は見たことも経験したこともないが、さぞかし大変だったろうと想像する。

旧兵学校を見学していたとき、広報担当者は、「全ての建物にスチームが通っている」とさも自慢げに話していたが、ここで修養を積んでいる若人たちには、ボイラーの仕事なとは縁のない生活を送るわけで、そういう環境が日本を敗戦へと導いていったものと考える。

つまり、組織のトップの者がその組織の底辺で働いている人の現状を知らずに、トップという視点からしか物を見ないからだと思う。

日本は縦割り社会だとよく言われるが、組織のトップがその縦割り社会の中で、他の組織のトップの動向のみを見ているから、そういう過誤に陥ると思う。

縦割り社会の中で、トップの視点が組織の上から下に目線が行けば、合理性が発揮できると思うが、縦割り社会の中で他の組織のことばかり意識するから本来持っている機能が十分に発揮できないのではないかと思う。

戦後急成長した民間のメーカーのトップは、自分の組織の中を上から下まで見てまわって、そこから改善点を見つけ出し、それを業績に反映させていたではないか。

ボイラーというのは軍艦に限らずあらゆる船の心臓部であるわけで、出来うることならばここで原子力を利用するのが一番ベターだと思う。

日本でも原子力船の研究として「むつ」が竣工したことがあったが、左翼陣営の激しい抗議で結局廃船になってしまった。

これなどもまさしく不毛の議論の最たるもので、日本のような資源小国、資源を海外に依存している国ならばこそ、率先して原子力の利用を図るべきだと思う。

日本が最初の原子爆弾の被爆国であることと、原子力の平和利用とはまったく関係のない話で、それを一緒にして原子力に関するものは何でもかんでも反対だというのはまさしく12歳の政治以外の何物でもない。

又、それを誰一人、そういう論議に対して反論をしない、相手を説得できない、というのも政治の稚拙としかいいようがない。

しかし、こういう場合の反対勢力というのは、理論整然とした話を聞こうとしないわけで、土井たかこの言い草ではないが、「駄目なものは駄目」式の感情論でことを推し進めるから取り付く島がないというのが現実の姿だと思う。

これは明らかに100%完全なる個人の我侭であるが、相手が我侭だからといって、今の民主主義の社会ではこれをどうすることもできない。

よって我々は何時まで経っても12歳以上にはなれないわけである。

軍艦によらず船の動力源としては原子力というのは一番適した燃料ではないかと思う。

現にその見地からアメリカでは空母にも潜水艦にも原子力が使われているわけで、その最大のメリットは言うまでもなく燃料補給がほとんど不必要というところにある。

商船の場合はやはりコストとの絡みで、まだまだ採算割れのリスクがあるので、そこまでは至っていないが、これも原油の値段が上がれば大いにメリットが出てくるわけで、そういうときのための研究として原子力船「むつ」が有ったのではないかと思う。

「原子力エンジンだから危険だ」というのはある意味で完全なる思い込みに過ぎず、それはただただ反対のための反対に過ぎない。

この世に100%の安全などというものは存在しないわけで、やはり現代に生きる我々はどこかでなんらかのリスクを背負わなければならないと思う。

飛行機がたくさん飛ぶようになればどこかで航空機事故はおきるし、車が町に氾濫すれば交通事故はついて回るし、そういうものは科学技術の進歩に伴う一種のリスクでもあるわけで、我々は細心の注意を払ってリスクの回避を願っているが、やはりリスクというものは根絶できない。

 

 

この展示室も人であふれかえっているのでゆっくり見ることはとてもできなかった。

で、細部は公式パンフレットで見るより仕方がない。

大体の大まかな展示は呉市というものが造船というものに大きく依存して発展してきたということである。

私は正確には名古屋生まれではないが、名古屋の近郊で育った人間として完全に井戸の中の蛙であったことを思い知った。

私の広島に対する先入観というものは原爆のことは当然としても後は車のマツダのことぐらいしか思い当たらない。

広島が軍都であった、ということはものの本で知っていたが、それは日清・日露戦争の時にここから大勢の将兵が海を渡ったという程度の認識に過ぎなかった。

ところがこの地は名古屋に匹敵するほどの軍需産業の地であったことを今回改めて認識した。

次の展示室には零戦が展示してあって、何故此処にこれがあるのかと思ってよくよく公式パンフレットを見てみると、此処には海軍工廠があったわけだ。

だから零戦を作っていたのは名古屋だけではなく、ここでも作っていたわけだ。

パンフレットのよると、呉海軍工廠から広支廠として開設されたと記されているが、この広というのがまたまた判らない。

で、今度は日本地図で調べてみると呉の一駅大阪によったところに広という駅がある。

これで納得。しかし、実にややこしい。

私は広島の島の一字を省略したのかと思った。

この件とは関係ないが、私も工廠という言葉は知っている。

しかし実態がどうもつかめない。

名古屋工廠と言ったり、私の家の近くには通称鷹来の工廠というのがあったが、この工廠というものが一体どういうものは具体的にはわからない。

国家の工場ということはなんとなく理解できる。またまた辞書を引いてみる。

「陸海軍に直接所属して軍需品を作る工場」となっていた。

とすると中で働いていた人たちはどういう身分なのだろう。

学徒動員で行ったとか、女子挺身隊で行ったという話は良く聞くが、そういう人たちはあくまでも臨時的な措置であったわけで、正規の人間は今でいう国家公務員なのか民間からの派遣というような形なのかそのへんが未だによく判らない。

とにかくこの広海軍工廠では飛行機を作っていたらしい。

それで零式戦闘機もここに展示してあったわけだ。

井戸の中の蛙とはよく言ったもので、まさしく私も一匹の蛙であったわけだ。

栃木のほうの中島航空機というのは知っていたが、この広島でも飛行機を作っていたなどとは思って見なかった。

この地の軍需産業のもの作りの精神が今でも残っているからこそ広島の発展もあったのだろう。

軍艦にしろ飛行機にしろ、こういうものは科学技術の粋を集めたもので、技術の裾野の広がりが無いことには成り立たないわけで、日本全体の技術力、その基底のところには創意工夫とアイデアと未知のものに対するチャレンジ精神が無いことには達成しきれないことだと思う。

「大和」に関する思索は前に記述しておいたのでここでは省略するが、この博物館、本来ならばもっとゆっくり見たいものだがこの人ごみには辟易した。

それで適当なところで切り上げてJRに乗ってホテルに戻ることにした。

広島駅から路面電車に乗って袋町という停留所で降りた。

この停留所で降りて道路を渡ったところに、旧日本銀行広島支店というのが有った。

すると誰かが「ここを見学しよう」ということを言い出して連れ立って中にはいった。

3階建てのそう大きくはない建物で、やはり旧式の年代を感じさせるに十分な代物であったが、その3階には千羽鶴が所狭しと陳列してあった。

案内してくれたガードマンが千羽鶴にもオスとメスがあるなどと説明してくれたが、その量の多さにはいささか度肝をぬかれた。

で、閉館間際だったが、その人が地下には大金庫があるということをいったので、全員、慌てて地下まで行ってみた。

確かに大金庫があった。扉の重さ3トン、扉の厚さ70センチ。それが開放されたままになっていたが、ここも例に漏れず原爆の被害を受けたことは言うまでも無いが、地下の金庫だけはなんにも被害が無かったというのだから驚きである。

地下の金庫は被害が無かったが被害を受けた方々が大勢押し寄せたということはもっともなことだろうと思う。

戦後、私がまだ小学生の頃だったと思うが、名古屋のデパートで開かれた原爆展に、父に連れられて行ったことがある。

その時に銀行の前の石段に座って被爆して、その人の影が石段に焼きついた写真を見たことがあるので、そのことを尋ねてみると、それは住友銀行でこことは違うということを教えられた。

閉館間際だったにもかかわらず快く見せてくれたガードマン諸氏に礼を言って外に出てみると

一人足らないではないか。

これは中に忘れてきたのではないかと思ったが、先にホテルに戻っていた。

本人のいうのには、振り向いたら誰もいなかったということだ。

だから先にホテルに行ったと思って、ホテルまで戻っていたということであったが人騒がせな

一幕であった。

ホテルで一休みしてから今度は広島焼きに挑戦すべく再びホテルを出た。

これは既にミールクーポンを手にしていたし、広島焼きというものが一体どういうものか食べてみたいという気もあったので皆でぞろぞろと地図を見ながら連れ立って歩いた。

「お好み共和国ひろしま」というところに行った。

小さなペンシルビルで、狭いエレベーターで乗り合わせた若い人が「ここだよ」と教えてくれたが、エレベーターを降りたらもう小さな屋台のような店が所狭しと並んでいた。

その中の「姉妹」という店に8人がいっぺんに入ってしまったので、先客の二人の若い娘達が隅に追いやられてしまったが、ある種の郷愁というか、貧乏人の安心感をくすぐるような妙な庶民性が感じられた。

我々が子供のころはお好み焼きなどというものは子供の駄菓子であった。

近所の駄菓子屋の店先でおばさんが汚い前掛けで作ってくれたものだ。

ところがこれが昨今では大きく市民権を得て立派な料理というか、社交の場というか、寛ぎの場に変わってしまっている。

店では二人の女性がそれぞれにお好み焼きを焼いてくれたが、最初、水で溶いた小麦粉を鉄板の上に伸ばす手つきなどやはり経験者でなければできない技だと思う。

しかし、その上にキャベツを載せるときの手つきというのは、文字どおり鷲つかみである。

手でむんずと掴んでその上に載せていた。

これも経験からくる技の一つなのであろう。

上品にはやっておれないのであろう。

最初はどうなることかと思っていたが、しばらくすると立派なお好み焼きが出来上がっていた。

この店は屋号が「姉妹」ということで、使っている卵は黄身が二つのものばかりと言っていたが、確かに割る卵は黄身が二つ入っていた。

どんな仕事でも熟練した人の仕事ぶりというのは見事なものだと感心した。

ここを出てから広島の繁華街を散歩しながら、散歩ついでに夜の平和公園まで足を延ばして散策を楽しんだ。

(夜の原爆死没者慰霊碑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5月29日 原爆ドーム

 

前夜、平和公園を大雑把に見ておいたが改めて朝日を受けた慰霊碑を見てみると敬虔な気持ちにならざるをえない。

現在、広島の原爆ドームについても様々な方々がそれぞれの方法で書き連ねておられるので今更私が屋上屋を重ねる必要もないことは言うまでもない。

しかし、見たことを文字で表すことを趣味としている限り、自分の見たことを書かずに済ませることはできない。

で、遅ればせながら挑戦しているわけであるが、広島と原爆についてはそれこそ掃いて捨てるほど著述があることは言うまでもない。

しかし、一応セオリーに則ってみると、(以下、インターネットより引用)まず住所は中区大手町1丁目10。

すぐ西には、原爆投下の目標になったともいわれるT字型の相生橋がかかり、には元安川をはさんで広島平和記念公園(通称:平和記念公園もしくは平和公園)が広がっている。北には市内電車(広島電鉄)の走る通りをはさんで広島市民球場がある。

に200m行った所に爆心地とされる島病院がある。

現在、原爆ドームの名称で知られているこの廃墟は、元来は地上3階(一部5階)・地下1階の構造をもつ建造物であり、1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日、広島県物産陳列館として開館されたものである。

同館はチェコ人の建築家ヤン・レッツェルJan Letzel, 1880年-1925年)によって設計され、ネオ・バロック的な骨格にゼツェッション風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。

その後1921年(大正10年)に広島県商品陳列所となり、同年には第4回全国菓子飴大品評会の会場にもなった。

1933年(昭和8年)には広島県産業奨励館に改称され、この前後は盛んに美術展が開催され、広島における美術の普及に大きく貢献した。

しかし1944年(昭和19年)以後、産業奨励館はその業務を停止し、内務省中国四国土木事務所・広島県地方木材株式会社・日本木材広島支社など、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。

1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分(投下が15分で、爆発は16分ともいわれる)、原爆ドームから580mの地点に原子爆弾リトルボーイ)が投下され爆発した。

ほぼ真上からの衝撃波を受けたことと窓の数が多かったことにより爆風が窓から吹き抜け、垂直部分のいくらかは破壊を免れ外壁を中心に残存した。

建物内にいた職員など約30名は全員即死した(なお前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、唯一の生存者となった)。

原爆ドームは原爆の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一方では「悲惨な戦争を思い出すので撤去すべき」などの意見もあり、その存廃が議論されてきた。

1966年(昭和41年)広島市議会が永久保存することを決議し、風化を防ぐため定期的に補修工事が行われている。

1995年(平成7年)史跡に指定され、さらに翌1996年(平成8年)12月5日には、ユネスコ世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。

最近では立ち入り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。

又、2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設あり方懇談会」が開催され、博物館に移設する、屋根をつけるなどの議論も出たが、2006年に今後も原状のまま保存する方針が確認された。

原爆ドーム保存の問題点

クローズアップ

拡大

クローズアップ

遠景、相生橋より

拡大

遠景、相生橋より

破壊された当時の形を保ったままの保存という特徴を持つ建造物である。定期的な保存作業が行われてはいるものの、年々風化が進んでいる箇所も確認されており、保存に非常に困難な面がある事は否めない。

また地震の多い日本の地理的特徴の点から、大型地震に対しての耐震性を考慮した保存工事が行われてはいる。しかし、あくまでも理論上の数値に基づいての耐震工事しか行われておらず、地震による崩落の危険性を常に抱えている。

世界遺産への登録

原爆ドームの登録審議は、1996年(平成8年)に開催された世界遺産審査委員会で行われた。このときアメリカ合衆国は、原爆ドームの登録に強く反対。調査報告書から、世界で初めて使用された核兵器との文字を削除させた。また、中華人民共和国も、日本の戦争への反省が足りないことを根拠として、棄権に回った。(引用終わり)

 

まあ公式案内としては以上のようなものであるが、この広島と長崎の原爆投下が、連合軍側のポツダム宣言の受諾を日本が素直に受けなかったから投下されたというアメリカの言い分は詭弁以外の何物でもない。

アメリカにしてみれば逆に日本があっさりポツダム宣言を受諾してしまえば原爆投下の理由がなくなってしまうので却って困ったのではないかと思う。

アメリカが何故原爆を投下したのかという問題は諸説あるが、アメリカの戦争指導者の立場からすれば、日本人など人間のうちにも入ってなかったものと思わざるを得ない。

サルかチンパンジーくらいの認識しかもっていなかったというのが本音だろうと思う。

そういう潜在意識が根底のところにあったからこそ、日米開戦となったわけで、アメリカが日本人を彼らと同類の西洋の人々と同じ認識で見ていたとすれば、日米開戦ということはなかったと思う。

第1次世界大戦後に設立された国際連盟で、日本が5大強国の一員として招かれたとき、真っ先に人種差別の撤廃を提唱した事実を忘れてはならないと思う。

そのとき西洋列強各国はこぞって日本の人種差別撤廃の動議を時期尚早として退けてしまったではないか。

つまり彼ら、西洋諸国では、人種差別を維持することで彼らの国益が成り立っていたということに他ならない。

そのことから鑑みれば、アメリカの人種差別は第2次世界大戦後もしばらく続いたわけで、アメリカの公民権運動というのは日本の年号でいえば昭和40年代のことである。

それまで彼らは公然の人種差別意識を持っていたわけで、そのことから考えれば、あの戦争の末期に、日本人に対して原爆実験をすることに彼らは何の良心の呵責も感じていなかったものと考えなければならない。

戦争という状況下において、アメリカは堂々と人体実験をしたということである。

新型爆弾の実験をしたということである。

戦時下なればこそアメリカは誰はばかることなく新型爆弾の人体実験ができたわけである。

原爆使用についてはアメリカの中でも様々な意見があったが、「戦争に勝つため」というアメリカ側の大儀の前では、そういう人道主義も沈黙せざるをえなかったのだろう。

この広島に原爆を投下したアメリカの爆撃機B−29エノラ・ゲイというのを実際にこの目で見たことがあるが、今から思うとそう巨大なという感じはしない。

それも当然なことで、今ではこれよりも巨大な飛行機、旅客機がいくらでも空を飛んでいるわけで、今の感覚で見ればことさら大きいという印象は受けない。

元航空自衛隊、航空警戒管制員の視点でいえば、海上自衛隊の対潜哨戒機P2Vと差ほど大きな違いはない。

エンジンも共用のものだ。

というよりもB−29のエンジンをP2Vも使っているということであろう。

しかし、B−29は通称「空とぶ要塞」とも言われたくらいで非常に対空火器に優れたものだったと思うが、エノラ・ゲイに関していえば一切そういう武装は取り外されて、ただただ「リトルボーイ」を運ぶだけ、というように仕様変更されていた。

翼も胴体も見事に磨き上げられてピカピカに光っていた。

塗装も一切なくジュラルミンの地が綺麗に磨き上げられていた。

日本・広島に惨劇をもたらした機体でも、アメリカにすれば原子爆弾を最初に投下し、アメリカの将兵100万の命を救った特別な機体なわけで、それなりに特別な扱いを受けている。(日本本土上陸作戦では100万の将兵が要ったであろうといわれていた)

この機体を展示するについては日本から原水禁の抗議があり、かなり調整に時間をとられたようであるが、結果的にはアメリカの愛国心に推されて展示ということになったようだ。

アメリカと日本は交戦国であったのだから、双方で価値観の衝突ということは致し方ない。

アメリカの英雄は日本ならば鬼畜生となり、憎悪の対象であるが、立場が逆になれば同じことなわけで、広島・長崎の惨劇を再び繰り返してならないことは言うまでもないが、その為にはただただ戦争反対を念仏のように繰り返して怒鳴るだけでは何の進展もない。

原水爆禁止の運動も立派な理念ではあるが、ただただ叫んでいるだけでは何の進歩もない。

戦争が無意味で、悲惨で、してはならないことは言うまでもない。

そんなことは赤ん坊でもわかることで、その判りきったことをただただ叫んでいるだけでは何の効果もなければ何の進展もはかれない。

平和を築き、平和を維持するためにはそれなりの行動が必要なわけで、ただただ武力を持たず、平和念仏を唱えていれば、それで平和が達成できると思い込むことは大いなる錯覚である。

原爆慰霊碑に刻まれている「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」という碑文はどう考えてもおかしいと思うが、関係者は何をどう考えているのであろう。

極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判でただ一人全員無罪を主張したインドのパール判事はこの地を訪れ、この碑文を見て大いに憤慨したといわれている。

被害者の側が「過ちを繰り返しませんから」とは何事か、というものであるがまったくその通りだと思う。

我々の発想では何故こうなるのであろう。

この発想の延長線上に、日本の原水協の無意味な絶叫があるものと思う。

この惨禍を及ぼしたアメリカが、この地に慰霊に来て、それで「過ちを繰り返しません」というのならば立派に整合性があるが、被害を受けた側がこんなことを言うのは論理的におかしいことではなかろうか。

それに気が付かない我々もまったくおかしいと思う。

広島が人類で最初に原子爆弾の洗礼を受けた場所ということは理解できるが、ならば普通の人間の普通の感情ならば、「この恨みは決して忘れません」「50年後100年後には必ずこの仕返しをしよう」というのでなければおかしいではないか。

(占領当初、アメリカは真剣にこのことを恐れていた、ゆえにその後、愚民化政策が講じられて今日に至っていると思う。)

これは極端な話ではあるが、人間の心理とすればこうなって当然ではなかろうか。

人類の最初の原爆被害者が、自分たちの側から「過ちを繰り返しません」ではまったく整合性がないではないか。

何故こういう発想になるのであろう。

あまりにも酷い惨状に直面して、人間の思考回路が断絶してしまったものだろうか。

原爆慰霊碑だけではなく、戦後の日本はあらゆる場面で、アメリカにさんざんやられたということを記憶の外に投げ捨てようとしているみたいなところがある。

日米開戦は日本が悪いことをしたからアメリカから何をされても致し方ない、アメリカの残虐行為は全て正義の行為だ、という見解に無理にでも自分の意識を沿わせようとしているところがある。

それはある意味で致し方ない面もある。

あの極東国際軍事法廷では日本側の釈明は一切聞き入れなかったわけで、日本は「悪の権化」だという先入観で裁かれ、明治維新以降日本人が営々と築き上げた実績というものを頭から無視して、連合国側の論理で裁判が行われてしまったため、占領下の日本人としてはその認識を受け入れざるを得なかった。

そういう面があるのも事実であろうが、あの戦争を振りかえって見ると、我々は敵にやられるよりも同胞の稚拙な作戦、補給の途絶というような、戦闘以前の問題で苦難を背負わされたわけで、敵を恨むよりも同胞に対する恨みのほうが大きかったという面があるのかもしれない。

内地にいればいたで、大本営発表というのは嘘ばかりで、町内の防火訓練に出れば出たで、長老の年寄りや退役将校が威張り散らして、弱いものいじめに現をぬかしていたわけで、敵を恨むよりも同胞のほうにより多くの恨みを持っていたのかもしれない。

そういう背景の上に終戦となって、そういうものの権威がいっぺんに消し飛んでしまったので、その反動として虐められていた人たちが今度は逆にこの世の春を謳歌すべく、理不尽な整合性に欠けたことを大声で叫んで、昔の鬱憤を晴らしているのかもしれない。

しかし、やられたらやり返す、足を踏まれたら踏み返す、取られたら取り返すというのが基本的な、そして自然人としての人間の行動パターンではなかろうか。

普遍的な人間の普遍的な行為というものには善悪はないと思う。

殴られたら殴り返すということには何の理由も説明も要らないと思う。

殴られたくなかったら最初からそのような行為をしなければいいが、自分から殴ることをしなくとも、又殴る気がなくとも、相手がかってに殴られると思い込むことは通常何処にでもあるわけで、それが今の言葉でいえば安全保障ということだと思う。

先の戦争の例でいえば、日本は中国とは戦争をしていたけれど、アメリカとはする気がなかったにもかかわらず、アメリカは日本に対して中国から手を引かせるべく、戦争に引きずり込んだという節が多々ある。

たからあのような惨状が出来上がってしまったわけである。

アメリカに、人類最初の原爆の人体実験に晒されて、何故に「過ちは犯しません!!!」だ。

こんな馬鹿な話があっていいものか。

何故、「今に見ておれ、この恨みを晴らさずにおくものか」という発想にならないのであろう。

それで真っ先にその屈辱的は碑文の碑に行って見た。

確かに書いてあるではないか。

「安らかに眠ってください過ちは繰返しませんから」と。

この文言は極めて日本的に曖昧な表現だと思う。

第一、   主語が欠落している。

意識的に省いてあるのだろうけれど、これが政治が3流というか、12歳の子供というか、稚拙な政治の根源に横たわっていると思う。

この平和公園の中には原爆にちなんだ様々な像が建立されているが、その一つ一つが恨みの権化ではなかろうか。

ところが我々は恨みを素直に表すことを避けている節がある。

この公園を歩いて原爆ドームに近づいてみると、やはり世界遺産に登録されるだけの価値はあると思う。

何枚も写真に収めたが、原爆に対する思考は既に出来ているので、それは後述するとして、やはりこの遺影を見ていると平和について考えを巡らさないわけには行かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の文章は2002年に書いて「Minesanの辛口評論」にアップしたものであるが、加筆訂正して再度収めたものである。

広島原爆慰霊碑に思いをめぐらす

12歳の子供の思考

 

毎年、8月6日にこの場所において原爆慰霊祭が催されている。
あの61年前の悲劇を後世に語り継ぐためには不可欠なことだと思う。
それはそれで結構なことだと思うが、ここで気になることは原水爆反対の矛先が常にアメリカに向けられていることだ。
確かに、広島と長崎に原爆を投下したのはアメリカであったことは否定の仕様もない歴史的事実であるが、今こんにち核兵器を保有している国というのはアメリカ一国ではないはずだ。
これも世界的に周知の事実である。
にもかかわらず、核兵器の保持に対する嫌悪感の矛先が、常にアメリカにだけ向けられているというのは論理的におかしなことではなかろうか。
私はアメリカの回し者でもなく、アメリカから報酬をもらってアメリカを弁護しているわけでもない。
我々の同胞の有り態が、如何にも安直な行為に見えるので、別の視点から見てみたいというだけのことである。
アメリカの悪口を言っている限り、日本は安全なことは言うまでもない。
これと同じ事を中華人民共和国に向けて言ったとしたら、大問題になること請け合いである。
61年前、日本が戦争に敗北して、アメリカ占領軍が天皇陛下の上に君臨したとき、その総司令官であったマッカアサー元帥がいみじくも言った言葉を我々、日本民族は民族の怨恨として忘れてはならない。
彼は「日本は12歳の子供である」と世界に向けて言い放ったわけである。
この言葉を発した彼の真意は、日本をこき下ろすためではなく、むしろ反対に日本を持ち上げるために発したに違いない。
彼の日本に対する認識は言葉が指し示していると思う。
この言葉は、彼が占領軍の最高司令官という任を解かれ、アメリカ議会で講演したときの言葉と記憶しているが、それと同時に、あの太平洋対戦争、我々の側の言い方としては大東亜戦争であるが、あの戦争は日本にとって「自存自衛の戦争だった」とも述べている。
マッカアーの言いたかった真意は、「日本は政治的には12歳の子供であるが、それが自存自衛のためとはいえ、我々に戦いを挑んできた気骨ある国民だ!」ということではなかったかと思う。
今、彼の論旨を話題にする日本人はほとんどいないが、私から言わしめれば、今でも日本の政治および外交というのは12歳の子供と同じで、いくらも進歩してないと思う。
現実の問題として、今核兵器を保持している主権国家というのは、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、インド、パキスタン、中華人民共和国と、これだけあるにもかかわらず、核廃絶の矛先はアメリカ一国に向けられている。
中でもロシアというのは旧ソビエット連邦共和国が分裂してしまったので、分裂した先でそのまま残っていることが考えられるので、どの国がどれだけ持っているかわ我々にはわからない部分があるはずである。
こういう状況下にもかかわらず、核廃絶の矛先がアメリカだけに集中してしまっているというのは、戦後の我々の思考過程が12歳の子供の域をでるものではない、といわざるを得ない。
それは同時に、12歳の子供としての「甘え」でもあったわけである。
12歳の子供が母親に甘えている構図である。
中国にアメリカに言うのと同じことを言ったとしたら、たちまちの内に「アジアの覇権を狙うかっての亡霊の出現」とでも言われかねないので、中国からは何をされても沈黙を守り、言っても軽く受け流してくれるアメリカなればこそ、歯に衣を着せず言うわけである。
言っていることは理論的には正しいわけで、「正しいから相手は聞くべきだ」という魂胆が見え見えだけれど、相手も大人の政治家であり、大人の外交官であるので、子供の甘えをそのまま受け入れる腹は毛頭ないわけである。
言っている本人は、犬の遠吠えと同じで、吠え続けている限り、自分は正義を実践している気でおれるわけである。
相手の顔色を下目使いに伺いながら発言している、この態度の有り体を見ると、まさしく大人と子供の違いが一目瞭然と理解できる。
言っても実害のない相手には言いまくるが、一言いうと猛然と反発を食らう相手には、沈黙を決め込むわけである。

平和念仏の限界

細川内国のとき、官房長官を務めた武村正義が、閣僚のままフランスの核実験に反対してデモに参加して顰蹙を買ったことがある。
自分が立派なことをしている、というパフォーマンスであったろうが、この行為そのものが、子供の発想から一歩も出ることがないわけで、相手の国からすれば馬鹿に見えるわけである。
冷静で分別ある大人の思考ならば、核兵器を持った国々には同じ度合い、同じ音量、同じ手法、同じ趣旨で説得すべきである。
核兵器というのは言うまでもなく人類の負の遺産である。
負の遺産という意味では軍隊の保持、維持ということも核兵器の保持と同じ程度に負の遺産である。
軍備を強化するよりも、社会福祉にその金を回したほうがどれだけその国の国民のとって幸せかわからない。
しかし、世界の統治者というのはそういうことをしない。
核兵器も軍隊の保持も負の遺産であることを十分に承知した上で、それでもなお福祉の金を削ってまでもそちらに金を回しているわけである。
人間は愚かといえば確かに愚かである。
その愚かさに付き合うことも、国際社会という生き馬の目を抜く弱肉強食の世界を生き抜く術であるという発想をして始めて大人に近づくわけである。
自分ひとりが良いと思ったことを独善的に推し進めても、世間ではそれを評価してくれないのである。
この独善に陥るということが、非常に危険なことである。
自分が良いと持ったことは、人もそう思ってくれるに違いないと、勝手に思い込むことほど危険なこともない。
この地球上に存在する190カ国以上の主権国家国は、民主化の度合いがみな均一ではないわけで、我々が良いと思ったことでも、相手にとんでもない誤解を招いていることもあるわけで、その解決に一番実効性のある行為が、武力による威嚇である。
これはまだ戦争にはいたっていないわけで、普通の国ならばそういう手段が講じれるが、日本は両手両足を縛られているので、大声で助けを叫ばなければならない、というわけである。
よって普通の主権国家では、主権の維持のためには、社会福祉よりも軍備に金をつぎ込まざるを得ないと思っているわけである。
しかし、これが主権国家の統治者としての大人の思考である。
「軍備に投ずる金は死に銭だから、その金を全部福祉に回せ」という発想は、あくまでも青白き子供の発想で、人としての理想論では確かにそうであるが、その理想では人は生きておれないのである。
現実の、生き馬の目を抜く国際社会を生き抜くためには、理想論では片がつかないという発想が大人の思考なわけである。
そして終戦記念日を前にして、元敵将のマッカアサー元帥がいみじくも言った、「あの戦争は日本にとって自存自衛の戦争だった!」という言葉を、我々は真摯に考察してきたであろうか。
これと同じ発言を日本国内でしようものならば、一瞬のうちの「あいつは太平洋戦争肯定論差だ!」と、「戦争賛美者だ!」、「好戦主義者だ!」という烙印を押して、封殺してしまうではないか。
あのマッカアサー元帥の言葉は、彼が6年半に及ぶ日本占領の経験から言わしめた言葉であった。
かれが戦勝国の占領司令官として、天皇陛下の上に君臨した経験から言わしめた言葉で、占領期間中を通じて、彼は日本が物資の何もない、生産品目として絹以外何もつくりえない国ということを知ったわけである。
日本はアメリカに宣戦布告をして正面から戦いをしたわけで、戦争である以上、彼は自分の祖国に忠誠を尽くし、敵であるところの日本と戦ったわけである。
そして戦いに勝って、その敵国に君臨してみると、日本が無鉄砲にもアメリカに挑戦してきた理由を悟ったわけである。
このマッカアサー元帥の悟り、旧敵国として占領している側の悟りを我々、日本人の同胞、日本の識者、日本人の学者、日本の政治家というのは考察したことがあるであろうか。
彼は、その悟りを日本人に向けて言ったのではない。
アメリカ議会という公の場で、アメリカ国民に向けて言うと同時に、世界に向けて発信したわけである。
我々は戦後、反戦平和ということを幼稚園の子供でさえ言うようになった。
ある意味で、平和思考が幼稚園児にまで浸透したという言い方も成り立つと思う。
ところが我々は、我々の民族の内側から、過去の戦争に対する反省をしてきたであろうか。
反省はしてきたが、それは不思議なことに、すべからく自虐的な思考で、我々はアジアの人々に対して「悪いことをしてきた」という悔悟の言葉の羅列のみで、自分たちの行為を論理的に整合性のある客観的な視野で捉える発言というのは皆無である。
それをすると、世論が一方的に叩くという社会的背景があることは否めない。
それと同時に、周辺諸国からの干渉が姦しくて、本当の論理が展開できないということもある。
ここでアジアの周辺諸国からの干渉が姦しいということも真摯に考察する必要がある。
戦後の我々は、アメリカに対しては「核兵器を放棄せよ」とか、環境問題に関連して「京都議定書を批准せよ」ということ散々言ってきたが、アメリカはそれを理由に政治とか外交に問題をすりかえるようなことはしない。
ところがアジア諸国というのは、日本の一挙手一投足を政治、外交、貿易に絡めて詰め寄ってくるではないか。
日本の首相が日本人の戦没者の慰霊をするだけで内政に干渉し、日本の教科書にまで首を突っ込んできているではないか。
この現実を私なりに、アジアの日本の周辺諸国は、「民主化の度合いが低い」と称しているが、日本周辺の諸国と日米安保の締約国であるアメリカとでは、これだけ意識の相違があるわけである。
我々が、先の戦争の反省を内なるエネルギーで解き明かそうすると、どうしても「太平洋戦争肯定論」にならざるを得ないと思う。
けれども敢えてその肯定論を作り上げなければならないのではないかと思う。
それは、物事には必然的に因果応報ということがあるわけで、日本が戦争をおっぱじめたことについても、そこには当時の社会情勢、世界情勢、時流の流れというものの中にその理由があったに違いない。
ただ単に、戦争の好きな人間が、好き勝手に中国を侵略した、というような単純なものではないと思う。
戦争をしたのは悪人で、戦後生き残った者はみな善人で、被害者であった、というような単純な図式では語れないと思う。
問題は、我々の同胞の中から、「あの戦争は間違いだった」というような認識が普遍化したことである。
ならば先に述べたマッカサー元帥のアメリカ議会においてなされて「日本は自存自衛のために戦った」ということが嘘だったということになる。
日本が中国戦線で相手国の土地を次から次にと侵略していったことは、中国側にも欠陥があったわけである。
その後に起きたベトナム戦争では、ベトナム側にそういう欠陥がなかったから、アメリカはベトナムに侵攻できず、撤退を余儀なくされたのである。
国と国の戦い、民族と民族の戦いには、理念も理想もないわけで、今のイスラエルとパレスチナ暫定政府の確執を見ても、そこには人間の理性も知性も感じられないではないか。
そこには勝つか負けるしかないわけで、負ければ相手から屈辱を味合わされるという現実しかないわけである。
だからこそ国というものは武力を整備し、主権国家としての主権を維持しようと努めるわけである。
イラクのクエート侵攻でも、攻められたクエートの方は理由も何もわからないまま、されるがままになっていたわけで、そういう事態が自分の国であってはならないという発想の元、社会福祉の金をけづってでも国防に金を回すことが普通の国の普通の有り態である。
それは理想論から行けば良い事ではない。
しかし、そうしなければいつクエートのような憂き目に会うかわからないわけである。

青年を甘やかした結果

昭和初期の日本が、アジア大陸に進出しなければならなかった理由は、我々の内側の事情であったことは言うまでもないが、それを容認せざるを得なかった相手の方にも不甲斐なさというものがあったわけである。
相手がだらしなかったからという理由で、日本は免責されるのかという論法になるが、こういう問題は歴史の流れの中で捉えなければならず、善悪、良し悪し、正義不正義という倫理のものさしで測ることが出来ない事柄である。
2001年、9月11日にアメリカで起きた同時多発テロ行為に対して、あれを従来の価値観に依拠する倫理では裁くことが出来ないからといって、アメリカ国家は何もせずにおれるであろうか。
ブッシュ大統領は、あの事件は「アメリカ国家が世界から嫌われているのだから仕方がない」と傍観しておれるであろうか。
やはりああいうアクションがあれば、好むと好まざるとリ・アクションをとらなければ統治者としての資質を問われることになる。
日本の知識人というのは、部外者として極めて気楽な立場で、アメリカを批判しておれるが、物事には必ず因果応報ということがあるわけで、昭和初期のアジア諸国が日本からの蹂躙を受けたというのにも、そこにはそれだけの理由があったわけである。
だから日本のしたことが免責されるというわけではない。
同じことを又繰り返しても良いというわけでもない。
ただただ相手の言うことを鵜呑みにして、悔悟の気持ちだけを相手に示せば、相手が許してくれると思い込む愚だけは避けなければならない。
こちらが安易に謝罪すれば、相手からすれば「それみろ、お前たちが悪いことをしたことを認めているではないか」という論法になるわけである。
日本の外交にはこういう愚があまりにも多すぎる。
その愚を白日の元にさらすことは、恥ずかしいことではあるが、それをして、はじめて我々は先の戦争を心から反省することになると思う。
ところが日本の外交も、政治の場も、案外我々の身近な同胞のあり方をつぶさに観察していると、同じ行動パターンを踏襲していることがわかる。
昭和前期の日本が、アメリカと戦争するか否かの御前会議も、私の町内会の会議も、本質的には同じ行動パターンを踏襲している。
つまり参列者が自分の所信を積極的に述べて、賛成なり、反対なりの意見をはっきりと表明することなしに、沈黙のうちになんとなく事が決まり、決まったあとから「俺はそんなつもりでなかった」とか、「この決定は間違っている」とか、自分に不利な情報は握りつぶして発表しないとか、やっていることがまことに子供っぽいわけで、12歳の子供といわれても仕方がない有様である。
これが地域の町内会ならば笑って済ませるが、アメリカと戦争するかしないかの国家の重大会議でも、町内会と同じ思考パターンを踏襲しているわけである。
これは我々大和民族、日本民族の持つ本質的な特質なのかもしれない。
国の最高機関の意思決定かこの有様だとすれば、行政の末端、軍組織の末端においても、同じような意思決定がなされていると思わなければならない。
現にノモンハン事件、インパール作戦、ミッドウエイ海戦等の作戦の失敗の原因というのは、この意思決定の不備にあったといっても過言ではないと思う。
そして下克上の風潮が日本を奈落の底に転がり落としたといえると思うが、そういう論旨を今まであまり聞いたことがない。
例えば、日支事変の当初、日本政府の方針は不拡大方針で、事件の早期収拾を願っていたにもかかわらず、出先の機関がそれを次から次へと拡大していってしまった。
これなども今我々はどう解釈したらいいのであろう。
政府も天皇も不拡大方針でいるにもかかわらず、出先の軍部がその言うことを無視してどんどん拡大していってしまったわけである。
これを今我々はどう反省したら良いのであろう。
極東国際軍事法廷というのは戦勝国よりも我々のほうがそれを開催したいくらいだ。
軍人勅諭にも、軍人は政治に関与してならない、と記載されているにもかかわらず、その軍人が率先して不服従を実践していたわけである。
天皇陛下の赤子といいながら、その天皇陛下の言うことを無視し続けていたわけである。
これを我々は今どう反省したら良いのであろう。
昭和の前期という時代には、青年将校のテロ行為というのが案外頻繁に起きている。
そして戦後も、そういうテロを遂行した青年将校に対する見方というのは、案外寛大な目で見られており、当時の政治家の不甲斐なさに対する青年将校の熱情と純真さがそうなさしめた、というような解釈に立脚して同情の目で語られている。
当時の軍部内でも、同じような感覚で捉えられていたと想像するが、ここがボタンのかけ違いの最初の一歩ではないかと思う。
昭和前期の青年将校の反乱、テロ行為を、青年の純真さと熱情の具現化とみなして、寛大に見ようとする心情が、政治の何たるかを真に心得ていないものの発想だと思う。
戦後、1960年代、学生運動華やかりし頃、学生の暴走に対して世間は案外暖かい扱い方をした。
進歩的知識人は、いっせいに学生の肩を持ち、政府や当局のほうを糾弾してやまなかった。
青年の常軌を逸した行為に対して、世間というのは、青年なるがゆえに案外暖かい扱いをするものである。
ところが根本的にはこれが諸悪の根源であったわけである。
戦前、戦中、戦後を通じて、青年の暴走に対して毅然とした態度を取ってこなかったという意味では、その時代時代の当局側の過失は大きいと思う。
青年といえども、従来の秩序はきちんと遵守せよ、ということを言い聞かせてこなかった罪は大きいと思う。
昭和の全時代を通じて、日本の大人たちは青年の行動には寛大すぎたわけで、その結果として、戦前の日本は奈落の道に転がり込み、戦後の日本は、太平洋の浮き草に成り下がって、今にも日本沈没しかかっているわけである。
この青年たちを、暖かく寛大な措置で遇したのが、老獪な大人たちであったわけで、そういう大人たちというのは、青年たちの引き起こした結果を上手に利用して、自らの保身を図ったわけである。
私の個人的は考え方からすれば、日本が奈落の底に転がり落ちた最大の原因は明治憲法にあると思う。
あの憲法がある限り、日本ではシビリアン・コントールということは不可能であったわけで、遅かれ早かれ対米戦は避けられなかったと思う。
明治天皇が崩御して、明治の元勲たちがだんだんと数が少なくなるに従い、昭和の軍人たちが天皇を食い物にしだわけである。
忠君愛国という言葉の裏では、その言葉の意味を曲解して、権勢欲を満たす保身に現を抜かしていたわけである。
こういう現象は町内会レベルでもよく散見できる光景で、大儀を傘にして威張り散らす人間というは何処にでもいるもので、それと同じ現象なわけである。
昭和の全時代を通じて、青年の暴走に大人たちが案外寛大であったということは、それが世間受けするということを皮膚感覚で知っていたからである。
戦前では反乱将校を出した直属上司、戦後では大学教授とかマスコミ関係者が、青年の暴走を援助し、フォローアップし、その熱情と称する思い上がった思考を褒め称えたわけで、その結果として日本は二度も奈落の底に転がり落ちたわけである。

戦争の本質を知らないわが同胞

8月15日の終戦記念日を前にして今改めてあの戦争というものを考察してみると、我々日本人というのは、戦争というものを真に理解していないのではないかと思う。
これは戦前戦後を通じて一歩も進歩していないのではないかと思う。
戦争を語るということは究極的に政治を語るということにならなければならないと思う。
クロウゼビッツの「戦争論」ではないが、戦争は政治の延長線上の事象だということを理解していなかったのではないかと思う。
それが不思議なことに、戦前も戦後も、日本国民というのは全員間違ったままの認識を持っていたのではないかと思う。
我々は言うまでもなく小さな島国に住む民族で、その中での戦争というのは、当然、政治の延長線上にあったわけで、織田信長の長篠の合戦とか、桶狭間の合戦とか、関が原の合戦というイメージから脱却しきれていないように思う。
明治に入って、日清・日露の戦いに勝利したことが、いっそう近代的な戦争というイメージをつかみきることに失敗してしまったに違いない。
明治時代の二つの戦争で負けていれば、戦争に対する認識もまた変わっていたかもしれないが、この二つの戦争で勝ってしまったものだから、「やれば安易に勝てる」と勘違いしてしまったのかもしれない。
ここで戦争に対する認識がすり変わってしまったものと想像する。
中国戦線というのは確かに関が原の合戦の延長のようなものであったが、アメリカとの戦いではそういうわけにいかなかった。
戦争に対する認識が関が原の合戦で止まってしまっているものだから、近代的な総合戦、国家総力戦に対する認識がまったくなかったわけである。
中国戦線でも、相手の蒋介石というのは、連合国側からの支援を受けて、それなりの軍隊の近代化はしていたはずであるが、そこでは日本軍の敢闘精神が一歩勝って、点と線の維持だけは出来ていたわけである。
戦争の本質を知らなかったということは、政治家ばかりではなく、軍部内でもその本当の意味を知っていたものが少ないということである。
この戦争に対する無知というのは、戦前の人ばかりでなく、戦後にいたっても、反戦の騎士としての文化人、進歩的知識人、政治家、大学の先生、ともども真の戦争ということを本当に理解していないと思う。
彼らの唱えている戦争反対のスローガンは、100%感情論に依拠する思考で、論理的に戦争の本質を説いた上での反対論ではない。
戦争をするかしないかの判断をする際には、当然、反対論もあるのが常態で、政府首脳の中で反対論が出てこない状況のほうが異常である。
戦後の日本のように、政府首脳は一貫して「戦争はしない」と言っていっているにもかかわらず、なお国民の側では戦争反対といっているわけで、こんな陳腐な現象もないと思う。
戦前の日本政府というのは、結果的に国民に対して嘘の発表ばかりしてきたことは否めない事実である。
そういう過去の実績からして、自分たちが選出した政府といえども、嘘を言うから常に声をからして戦争反対を唱え続ける、というのは心情的には理解できる。
問題は、政治・外交のあらゆる局面を、すべてこの戦争反対に絡めて、時の施策に反対する態度である。
そのことは、戦争反対というスローガンが空念仏になってしまっており、意味を持っていないということになってしまう。
つまり、大儀の意義が失われて、言葉の揚げ足とりに使われているに過ぎないということである。
戦争反対などということは、殊更声を荒げて叫ばねばならないことではない。
この地球上で生きている人間ならば、誰でも皆、戦争などしたくないに決まっている。
問題は、したくないことは十分わかっているが、それでもなお相手から仕掛けられたときはどうするかが問題なわけである。
そいう場合に、一目散に財産を背負って逃げることが出来れば、それも生きるための選択肢である。
しかし、四周を海で囲まれた我々はどこに逃げればいいのだ。
飛行機で逃げるにしても、1億の人間が一気に飛行場に集結して、具合よく飛行場が機能するであろうか。
日米安保闘争のとき、日本の進歩的知識人というのは、「アメリカと同盟を結べばかえって攻撃を受けるからそれは罷り成らぬ」といったではないか。
そう言った人は、その後懺悔でもしたであろうか。
そういう発想をした人たちというのは、戦争の本質というものをまったく知らないで言っているわけである。
像を盲人が撫ぜているようなもので、自分の視野からしか戦争というものを見ていないわけである。

物の本質を議論しない同胞

戦前の日本の政治が軍人によって左右されたということは日本の致命的な欠陥であった。
あの時点で、明治憲法下では、軍事に関する事項が天皇の専管事項になっていたことが致命的な欠陥であったが、それにつけても、その天皇の専管事項を傘にして、覇権争いに現を抜かした軍人政治家、軍官僚がいたことが、日本が奈落の底に転がり落ちた最大の原因である。
日本のため、天皇のため、といいながら好き勝手なことをした軍人政治家を我々はどう糾弾したら良いのであろう。
政治、特に民主政治というのはある意味で言葉の戦場なわけで、キリスト教文化圏では、政治的な演説のよしあしで政治家の本質が問われるが、日本では演説の卓越さというのは政治の実力を測るバロメーターになりきっていない。
我々の民族的本質の中では、以心伝心ということがあり、能弁が必ずしも世評の評価を得ておらず、「男は黙ってサッポロビール」というように、寡黙なことが評価を受ける社会である。
だから政治の場でも、言葉の解釈でどういう風にでもとることが出来るような言い回しがなされている。
これは政治の世界ならば、どこの国でも多少のことはあるように思う。
ある意味で、相手の言葉の揚げ足を取って、自分を有利に導こうという行為は政治の世界ならば普遍的にあることだと思う。
問題は、言葉の揚げ足取りではなく、言葉の本質を論議し、論議し、審議すべきだと思うが、我々の場合、言葉の本質を論議するよりも揚げ足取りに終始しているように思われてならない。
例えば、原子力発電のことを論議するような場合、「100%安全かどうか」が問題にされるが、人間の作ったもので100%安全などというものはありえないわけである。
こういう言い方をしてくるということは、議論が子供の口げんかの域を出るものではないということである。
「100%安全でないのなら作ってはならない」というならば、他の整合性のある理由を探してくるべきである。
「100%の安全」ということを口にするだけで、既にその人は子供の発想に陥っているわけである。
自衛隊の国際貢献の問題でも、「危険な場所には自衛隊を出してはならない」というものだから、後方の安全なところで自衛隊員が活動して、前線の危険なところで民間ボランテイアが仕事する、という奇妙なことになるわけである。
こういう陳腐な議論の先例として、「日米安保が出来ると戦争に巻き込まれる」という奇妙な論理が罷り通ることになるわけである。
すべからく、こういう発言をする人というのは、日本のオピニオン・リーダーを自負する進歩的知識人たちで、こういう人たちの発想が、まさしく12歳の子供の発想から一歩も前進していないということの確たる証拠だと思う。
安保闘争の時、国会で極東の範囲ということで、「どこからどこまでが極東か」という問題が非常にやかましく言い立てられたことがあるが、これなども子供の口喧嘩の領域に近い議論である。
「極東」といった場合、北緯何度から何度まで、東経何度から何度まで、というきちんとした定義をしないように漠然とした言い回しとして「極東」という言葉があるわけで、それをわざわざ定義つけようとする発言というのは、子供の口喧嘩の類である。
国会の場で、子供の口喧嘩と同じレベルの議論をするということ自体、12歳の子供と言われても致し方ない。
国会の場での言葉の応酬というのは、一種の言葉の戦争なわけで、それを言葉の定義付けに終始していては、もの本質を見失ってしまうわけである。
ものの本質を見失っているから、陳腐な議論がまかり通るわけで、そのもっとも典型的な例が、戦前の鳩山一郎が言い出した統帥権干犯という言葉である。
政友会と憲政会との政治的議論の中で、相手を言い負かそうとして、軍縮条約を批准してきた全権大使が、天皇陛下の統帥権を犯しているという論法で相手を言い負かそうと思ったわけである。
昭和5年、ロンドン軍縮会議に出席して、それを批准調印してきた全権大使は、天皇の統帥権を犯しているのではないか、といって政敵を窮地に追い込もうとしたわけである。
これなども全権大使というものの本質、軍縮条約というものの本質、統帥権というものの本質、そういう物事の本質に目をつぶって、子供の口けんかのような論争をしているから社会全体が奈落の底に転がり落ちてしまったわけである。
自由民権運動の結果として、政友会と憲政会がこういう低レベルの議論で政局を転がしているのに業を煮やしたのが血気盛んな、ある意味で純真でかつ真っ正直な、子供っぽい正義感にあふれた青年将校という構図が成り立つ。
鳩山一郎という功名心にあふれた政治家が、受けを狙って統帥権というものを、つまり天皇を政治の場に引きずり込んでしまったので、その後天皇は軍部に好き勝手に利用されつくしてしまったわけである。
青年というのは、何時の時代でも、青年らしく正義感にあふれ、純真で、熱情にあふれ、現状に不満を持っているものである。
それは戦前・戦後を通じて、時代を越えて普遍的な青年の特質でさえある。
戦後の安保闘争や成田闘争で角棒を振り回して警察と渡り合った青年たちにも、それと同じ熱情があったことは否めないし、青年というものは何時の時代でも、現状に不満で、老獪な政治家には懐疑の心を持ち続けるということは、成長の過程にある青年の特質でもある。
だから軍国主義が世間に蔓延すると、雪崩を打って、我も我もとその渦中に身を投ずるわけである。
世の中の流れが逆向きになり、ベクトルの方向が反対向くと、またまた雪崩を打ってその渦中に身を投じようとするのが青年の特徴である。
これを称して私はメダカやイワシの方向転換と言っている。
メダカやイワシは、ほんのちょっとしたきっかけで群れ全体が一斉の方向転換をする。
水の中で、非常に弱い固体としてのイワシやメダカは、大きな群れを作って生きているが、その群れ全体が大きな固体と見えるようにして外敵から身を守っているのである。
戦前においては、老獪な政治家たちが、この青年の熱情という名の血の暴力に対して、毅然たる態度をとらなかった。
戦後においては、同じような青年の暴走に対して、理解を示すことによって懐柔しようとし、大人の側が妥協してしまった。
戦前の老獪な政治家たちが、青年将校に対して毅然たる態度を取らなかったことは、いわば身の安全という意味の保身に徹したわけである。
戦後における老獪な政治家は、若者に理解を示す振りをして、連中に妥協したことは、保身にもつながるがその前に自信の喪失である。
若者を説得する自信、若者に倫理を説く自信、そういう自信を喪失してしまったのである。
日本人は、先の戦争で負けたということで、非常に自信を喪失してしまった。
自信と同時に、日本民族という誇りさえ失ってしまっている。
これは若者ばかりの現象ではなく、あの太平洋戦争を生き残った大人の側にも、非常な自信の喪失と、誇りの喪失が顕著に現れていると思う。
戦後生まれの若者は、もともと自信も誇りも最初から持ち合わせていないが、一億玉砕という信念で戦い抜いて、生き残った大人の側に、この自信と誇りの喪失が顕著に現れていると思う。
それはあの戦争を戦い抜いてきたことよりも、その後に押し寄せてきた価値観の大転換で、今までの自信も誇りも一気に喪失してしまったに違いない。
戦前の大正時代の自由民権運動を潜り抜けてきた民権運動家たちが、つまり政治家たちが、何故に嘴の青い青年将校に沈黙させられたのであろう。
斉藤隆夫が昭和15年2月、国会で粛軍演説をしたら、当時の日本の政治家はよってたかって彼を除名してしまったのは、一体どういうことなのであろう。
貴族院議員であった美濃部達吉が、大学教授時代に書いた天皇機関説を、国体明徴に反するなどという理由で彼をボイコットするなどという行為がなぜ起きたのであろうか。
これらを今の言葉でわかりやすく言えば「いじめ」である。
誰かをスケープ・ゴートにして、自分はその他大勢の中に身を隠して保身に終始している図と同じである。
今の小学校や中学校で起きている「いじめ」というものが、昭和初期において国政レベルで起きていたわけである。
戦後でも、あの安保闘争のときの野党の政治家の言い分の中には、アメリカが憎くて反対しているのではない、「岸信介が憎くて反対しているのだ」、ということを公の場で述べていたのを見れば、これも個人的な怨恨が国政の場に持ち込まれている確かな証拠である。
物の本質、物事の本質を議論するのではなく「あいつが嫌いだから、あれのすることには反対だ」というあり方は如何にも子供じみた思考といわなければならない。
こういうことが国政レベルで随所に見られるわけで、それをマッカアサーは12歳の子供と称したのであろう。
日本人以外の目で見ればそう取られても致し方ない。

押し付けられた民主主義

我々の政治の思考と、西洋のデモクラシーの思考は、根本的に違っているわけで、戦後我々はデモクラシーを完全に受け入れたかに見えるが、我々にとってアメリカ流デモクラシーというのは、あくまでも移入文化であり、移入文化を日本流に租借するということは、我々日本民族の潜在能力として古来より連綿と引き継がれてきたことである。
日本の移入文化としては、仏教も、漢字も、そして陶器の製法も、今の日本文化の大部分が移入文化とみなしていい。
しかし、これらの移入文化というのは、我々の内側からの希求によって日本に到来し、日本に根つき、日本全国津々浦々に普及していったが、戦後のアメリカン・デモクラシーというのは、占領という外圧による押し付けであった。
そしてそれはあまりにも急で、押し付けがましい普及の仕方であったので、我々の側で十分な下地が出来ないまま全国に押し付けられてしまった。
結果として、天皇の上に君臨する占領軍に、表向き従順に服しているというポーズをとらなければならず、どうしても表層的にしか普及しなかったわけである。
デモクラシーの本質を知ることなしに、目に見える部分だけ民主主義に帰依したポーズが必要であったわけである。
その過程で、烏合の衆としての日本の大衆は、日本の旧来の秩序を全否定することがアメリカの言うデモクラシーの実践であると勘違いしてしまったわけである。
アメリカ占領軍の先発隊が厚木に到着し、その後マッカアサーが愛機「パターン」号で厚木につき、横浜に進駐し、東京、皇居前の第一生命ビルにGHQを置き、最初の仕事が政治犯としての日本共産党員の解放であった。
戦前の日本共産党員というのは、当然、日本の戦争遂行に反対であったわけで、その意味では日本の敵国としてのアメリカと利害が一致していたわけである。
その意味で、日本に最初の進駐して来たアメリカは、自分たちの同志としての日本共産党員を解放したが、共産党員というのはあくまでも共産党員であって、既存の国家システムには常に反対する宿命を負っている。
日本共産党というのは、政府の上に君臨したアメリカ軍政に対しても、なかなか言うことを聞かないので、最終的には再び弾圧を受ける憂き目を見ることになったが、占領の初期の段階で、このアメリカが無理やり日本にデモクラシーを押し付けようとしたことは、日本共産党の利害は完全に一致した時期がある。
それは旧来の日本の秩序の破壊という点で、アメリカ占領軍と、パンドラの箱から解き放たれた日本共産党の利害は完全に一致したわけである。
この影響は、それから50有余年経過した今でも残っている。
我々は、デモクラシーというものを自らの内なる力で習得し、獲得したわけではない。
あくまでも押し付けであり、上からの強制によって、無理強いされた民主主義であったわけである。
だからそれの本質を咀嚼して、十分に理解し、納得して受け入れたわけではない。
生きんがために必要に迫られて、訳もわからず、とりあえず民主主義らしきことを実践して、その場を取り繕ったわけである。
国民大衆としての烏合の衆はそうであったが、戦前・戦中と牢獄という天国にいて、衣食住を完全に国家から補償され、3食昼寝つきの楽園ですごしていた日本共産党員にとっては、この占領軍による民主主義の押し付けというのは、千歳一隅のチャンスであったわけである。
共産党員にとっては、従来の秩序の破壊ということが最大課題なわけで、それこそが革命の第一歩なわけであるが、それをアメリカ占領軍がフォロー・アップしてくれているわけである。 
アメリカ占領軍が、倒した旧敵国を再生しようとして最初にしなければならなかったことは、旧来の日本の秩序を徹底的に破壊することであったわけである。
第2次世界大戦が終わった時点で、アメリカの抱える最大の課題は、日本が再びアメリカに立ち向かうことのない様にすることであった。
その国家指針に沿って、日本の民主化が行われたわけである。
アメリカの国家戦略というのは、我々も大いに見習うべきであるが、実に綿密な計画に基づいて施策がなされている。
戦後1960年代、ベトナム戦争でアメリカが撤退したのは、アメリカにとってベトナムなど日本ほど価値を見出していなかったので、それだけ力を抜いて、おざなりの対応をしたからだと思う。
ところがその前の対日戦では、国家総力戦と銘打って、総力を結集した結果として、対日戦勝利があったわけである。
ベトナム戦争など、日本にたとえればノモンハン事件のようなものであったわけである。日本が敗北して、アメリカ占領軍から民主主義というものを押し付けられたが、その無理強いされた民主主義というものを日本流に咀嚼した結果が、今日の日本の現状である。
だから我々は、今日自由を謳歌しているが、その自由の裏側には、権利と義務が横たわっているということを少しも認識しようとしていない。
権利意識と公共の福祉に尽くすという義務感のバランスの上に自由が不安定な形で乗っかっているということを理解しようとしてない。
自分の我侭が通らないと、行政の不備にしたり、権力の乱用という形で、他者を悪者に仕立てるわけである。
自分の我侭ということが自分自身で理解できていないわけである。
無理もない話で、我侭を言っている人に誰も「あなたの言っていることはあなたの我侭で、世間はそれでは通りませんよ」ということを本人に言わないものだから、本人はいつまでたっても自分の我侭に気がつかないわけである。
我侭を言っている人に「あなたの言っていることはただ単なる我侭ですよ」と云えば、それを「いじめ」ととり、個人の意思を踏みにじるととり、言論の弾圧ととり、こちらの言い分を封殺しようとするわけである。
自分は言いたい放題のことを言いながら、相手の言うことはまったく聞こうとしないわけである。
それが民主主義だと勘違いしているわけである。
こういう我々の同胞を、一括して表現するとしたら、愚民とでも言う他ないのではなかろうか。
大衆というものは常に愚民だと思う。
それが証拠に、あの共産党というのは古い旧世代の階級制度はぶち壊さなければならないが、それを成した暁には、優秀な共産党幹部と、その他の愚民としての一般大衆というものをきちんと区分けした階級制度を確立することを夢見ていたわけである。
統治するものとされるものという役割分担がある以上、統治される側は、ある意味で愚民足らざるを得ない。
民主主義、民主的政治制度というのは、ある意味で愚民による愚民のための政治なわけで、我々は今日自由を謳歌しているが、この民主政治にも愚民による弊害は如実に露呈している。

 

朝のうちに平和公園を散策して写真をたくさん撮って、さてそれから朝飯と称して町の喫茶店に入って簡単な朝食を済ませた。

それから広島城に向かったが、ここは毛利輝元がひらいた城らしいが、私自身は城などというものにそう関心があるわけではないので物見遊山の域を出るものではない。

自分の関心の無いものを見ても目が死んでいるはずだ。

ただ美しいなあ、形が良いなあぐらいの感想しかわいてこない。

自分の関心のないものはいくら人が熱心に解説してもさっぱり頭の中に残っていない。

もともと自分の頭は悪いと自覚しているから、そうたいして落胆もしないが、まさしく馬の耳に念仏という状態だ。

そんなわけで、昼ごろ広島駅に来て、この構内で昼食を取り、しばらくお土産タイムとしてそれぞれに自由時間があった。

私が駅前に出てみたらここには立派なモチーフが置いてあった。

というわけで、今回の旅も無事終えることが出来た。

 

 

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