買い被られた国連

アナン事務総長の演説

 

国連のアナン事務総長が5月18日(平成18年)、東京大学で講演を行った。

今の国連にとって最大の課題は言うまでもなくイランや北朝鮮の核開発の問題だ。

核拡散防止条約(NPT)の枠組みが危機に直面していることをアナン事務総長も素直に認めているが、こういう弱小国家のわがままを押さえつけれないということは国連の最大の弱点だと思う。

そもそも国連の設立の理念が第2次世界大戦後の紛争の抑止と解決であったはずであるが、この設立の趣旨は65年経った今も全く実を結んでいない。

ある意味では当然のこととも言える。

「世界中で仲良くやりましょう」というのは、理念としては誰も反対しうる根拠を持たない。

誰でもがそうありたいと願い、そういう理想を実現するにやぶさかではないと思う。

しかしながら、人間の現実の欲望は総論賛成、各論反対となるわけで、これは国の集まりといったところで、それぞれの国には個々の人間に例えれば人権に当たる国の主権というものがあるわけで、それぞれがこの国家主権を盾にすれば、いくら綺麗な理念でも、国家の主権の立場から国益を勘案すれば、自分だけは損をしたくないというわがままが目を吹くのは当然である。

全く自分たちの利害得失にかかわらない事項ならば、それこそ理念の実現に協力できるが、自分が不利益をこうむるような政策には誰でも反対するのが当然である。

発足当時の国連は、第2次世界大戦の戦勝国を包含する50カ国ぐらいのものであったが、60年以上経った今では190カ国にも及んでいるわけで、そういう弱小国家のわがままを押さえつけるには当然のこと、それ相応の武力がいることは必定である。

我々日本人は紛争解決に武力を使うという思考を徹底的に忌み嫌う精神的風土に起居しているが、これは世界の常識としては通らないわけで、我々、井戸の中の蛙的日本でしか通用しない常識である。

物事を処するのに、武力によらないで平和的な話し合いで解決するほうが良いことは世界的に共通している。

誰も好き好んで武力行使などしたいとは思っていないのも当然のことである。

しかし、それでも尚、武力行使に頼らざる場合も多々あるわけで、それこそ人間、いや人類の精神的な未熟さというべきかもしれないが、逆に人間がそれから逸脱できないということは、我々、人間、人類が根源的に持っている本質と言うべきかも知れない。

そういうときにも我々は「武力を使いません」と言っているから、ものごとは何も解決されず、問題が先送りされているだけである。

物事が先送りされてもそこで血を見ることがないので我々は何となく問題が解決したような気分、ないしは解決したと錯覚しているが、これは我々が如何に愚昧かということを現していると思う。

ならばこそ、そういう場合にこそ、本当は国連が主導権をとって、双方の調停に乗り出してこなければ国連の意味がないと思う。

国連がいくら積極的に乗り出してきて、意見調整を図り、非があると思われるほうを説得したとしても、相手が聞かなければ国連もそれ以上の行動はできなくなってしまう。

結果的に、我々の日常的に使っている言葉でいうところのゴネ得で終わってしまって、国連の理念は空念仏に終わり、意味は喪失するということになる。

国連ならばこそ、ゴネ得などということを通らせてはならないわけだが、「いやだ!」と相手が言う以上国連としても相手を抹殺するわけにもいかず、手のうちようがない。

国連などというのは世界平和などと立派なことを理念に掲げているが、基本的には我々の村の長の寄り合い程度のことしかできないわけで、いくら安全保障理事会で決まったといったところで、相手が聞かなければそれまでのことである。

何の拘束力もなければ強制力もないわけで、非があると思われる先方に対しても、効果的な手法は持ち合わせていない。

湾岸戦争のときはイラクのサダム・フセインが国連の言うことなど鼻もひっかけなかったし、イラク戦争の時は逆にアメリカが国連を無視して行動したではないか。

イラク戦争の例を見るまでもなく、アメリカは国連の決議があろうがなかろうが、したいようにしているわけで、その意味ではイラクの核開発もそうであるし、北朝鮮の核開発でも然りである。

国連など全く無力ではないか。

アナン事務総長の東大での講演でも、北朝鮮の日本人拉致の問題に関して、「完全に解決することを期待する」というコメントをしているが、冗談ではない、通常的な交渉では埒が明かないから我々が困り抜いているにもかかわらず、まるで傍観者としてのコメントではないか。

国連が紛争の解決機関だとするならば、もっともっと積極的に北朝鮮にコミットして、そういう非合法な行為は直ちに止め、当事者を即刻返還するよう北朝鮮に働きかけてしかるべきだと思う。

それができないのは国連そのものに実行力にともなう武力を、つまり国連が持つ自前の軍という力の背景がないからである。

主権国家の中側の、つまり国内の紛争解決には如何なる主権国家でも国家の保障する強権力を持った司法権、警察、検察、裁判所などというものが存在するので、国民はそれに事の解決を負託することが可能である。

ところが国際社会には未だにそれが確立されていないので、極端な言い方をすれば弱肉強食の野蛮な社会ということになり、わがままのし放題、悪口雑言の言いぱなしで終わるわけである。

結局のところ何も事は解決しないということである。

北朝鮮による日本人拉致の問題というのは、完全な主権侵害であるにもかかわらず、国連が「完全に解決することを期待する」ではあまりにも無責任ではないか。

日本は国連に対して世界で一番多額の供出金を負担しているという事実から鑑みても、国連が真っ先に北朝鮮に乗り込んで事の解決に当たってしかるべきではないのか。

今の日本を取り巻く諸問題、中国の海底油田の開発、韓国の竹島の問題、例の拉致の問題、古いところでは北方4島の問題まで、国連は日本に対して何一つ親身に考えたことがないではないか。こんな馬鹿な話はないと思う。

それというのも、日本の知識人は何かにつけて国連尊重主義で、国連の指針をありがたくおうけするという態度で通しているが、だとしたら国連にもっともっと強くなってもらって、国連が積極的にわがままな国に関与するようにアプローチしなければいけないと思う。

 

安保理の欺瞞

 

国連の問題を語るとき、よく安全保障理事会の拒否権の問題が取り沙汰されるが、あんなものはさほどの問題ではないと思う。

安全保障理事会が全員一致の決議したところで、その決議した内容に関しては武力の背景、いわゆる警察権の後ろ盾がないのは同じなわけで、その勧告を受ける側から見れば、何の抑圧にもならない。

2度のイラク戦争を例に見るまでもなく、先のときは安全保障理事会の全員一致のお墨付きがあったが、2度目のときはロシアや中国が反対したにもかかわらず、イラクはそれによって特別に態度が変わったわけでもなく、アメリカはしたいようにしたわけで、結果的に「拒否権とは一体なんぞや!」ということであったではないか。

安全保障理事会の拒否権を持った国が全員一致したからその決議に整合性があるというのはある意味のまやかしで、意見が一致したということは国益が一致したということに過ぎない。

アメリカと中国、それに旧ソビエット、今のロシアという価値観がまったく正反対の国の意見が合うなどということを期待するほうがおかしいわけで、国益が一致したからそれには整合性があり、それは正しい行動などということは、まったく浅薄な思考そのものだと思う。

全員一致であろうがなかろうが、勧告を受ける側にそれは何の拘束力もないし、又行動を起こそうとするアメリカという超大国に対しても何の抑止力にもなっていないではないか。

双方に何の拘束力ないという事になれば、一体それは何なのかということになる。

これは国連というものが全地球規模においてアメリカやロシアをしのぐほどの軍事力を持っていないので、そういう国々をコントロールする機能が持ち合わせていないということに他ならない。

極端な言い方をすれば、今の地球上の主権国家の存在は、いわゆる弱肉強食、強いもの勝の原始的な状況を呈しているということである。

国連の理念はこの地球上から戦争をなくすことを目的としているはずであるが、国連創立以来それが少しでも実現しそうになったことがあるであろうか。

第2次世界大戦後も朝鮮戦争から何度にも及ぶ中東戦争からベトナム戦争、アフガン戦争、何一つ国連が解決したものがないではないか。

そういう張子のトラとしての価値しかない国連に、日本の知識階級の人たちは何故あれほど期待をかけるのであろう。

結局、国連というのは町内会のようなもの、ないしは村の寄り合いのようなもので、権力もなければ武力もない以上、何一つ具体的な行動がしえないということである。

北朝鮮の日本人拉致の問題など、国連が真っ先に調停に乗り出してしかるべき問題ではないか。

日本が平和憲法で武力の行使ということ決してしません、と内外に宣言している立場から考えれば、国連が真っ先に平和立国日本のために、供出金を沢山出している日本のために、率先して問題解決に乗り出してしかるべきことだと思う。

それを他人事のように、「完全に解決することを期待する」とは何事だと言わなければならない。

国連創立以来何一つ解決できなかった背景はこういうことだと思う。

イラク戦争のとき、確かに前の国連総長のデクエアルがイラクに乗り込んでフセイン大統領と会談を持ったが、フセインは国連の言うことを無視した経緯がある。

このときはイラクがクエートに攻め入ったという状況から国連の安産保障理事会もイラク攻撃を承認した。

けれども、国連は自前の軍隊を持っていないので、結局のところアメリカを中心にして、その周りに各国から派遣された軍隊を貼り付けて、暫定的に国連軍という形にして戦ったわけだが、ここでアメリカが抜けたらもう国連軍というのは成り立たなくなってしまう。

逆にアメリカ軍は国連のお墨付きなどなくても一国で、何処の国とも戦えるわけで、アメリカにすれば安全保障理事会の決議などあってもなくても何ら影響ないわけである。

アメリカは地球上、アメリカ自身が戦争をしたいと思ったときには、何時でも何処でも躊躇することなく大統領の命令があれば戦争できる国ということだ。

国連はこのアメリカの行動を如何なる手法でもっても阻止しえない。

ということはもう国連の存在価値は消失したということである。

二度目のイラク戦争のときでも、フセインが大量破壊兵器を隠したかどうかで、国連が査察に入ったが、結局のところそれを見つけ出せないままアメリカ一国でイラクに戦争を仕掛けたわけである。

このときの問題はイラクのサダム・フセインは本当に核兵器を持っていて隠し切ったのか、それとも最初からそんなものは無かったのかという点が最大のポイントであったが、アメリカにしてみれば、9・11事件の落とし前をつけなければアメリカ国民の納得を得られないので、国連の査察の結果などどうでもよかったわけである。

NPT核拡散防止条約というのもおかしな話で、今の国連安全保障理事会の拒否権を持った常任理事国は全部核を保有しておいて、他の国がそれを持とうとすると{だめだ!}という言い分は当然不満が出るのも致し方ない。

インドやパキスタン、イラクやイラン、イスラエルや北朝鮮が、常任理事国と同じことをしようとすると、「お前たちはだめだ」などという論理が通るわけがないではないか。

だからこういう国々も一様にもとうとするわけで、それは当然の成り行きだと思う。

それと平行して国連の改革も話題になっているが、国連の最大の問題はいうまでもなく安全保障理事会の部分である。

この部分の常任理事国の選出の問題であるが、これは発足のときに第2次世界大戦の戦勝国が占めてしまっているので、今更なんとも致し方ないと思う。

創設以来60有余年の間に、当初の国家体制が変わってしまった国が2つもある。

中国とロシアである。

中国などは前の中華民国から中華人民共和国に変わり、ソビエット連邦共和国が旧のロシアに変わってしまったが、このあたりも国連内でどういう話し合いが行われたのか知らないが、考えてみればおかしなことだと思う。

中華民国が台湾に逃げたにもかかわらずそれがその後も中華民国として存続し続けるならばやはり中華民国(台湾)でなければ辻褄が合わないと思う。

ソビエット連邦にしてもソ連が崩壊した時点でその席は空席ないしは抹消しなければおかしいではなか。

中華人民共和国が第2次世界大戦の戦勝国か?ロシアが第2次世界大戦の戦勝国か?

結局のところ、国連といえども理想主義の発揚の場とは言うもの、蓋を開ければ現実的なパワー・ポリテックの跳躍する場であって、力がことを左右するということである。

蒋介石の中華民国が台湾に追いやられて、毛沢東の中華人民共和国がその席を埋めたということは戦勝国云々ということよりも、所詮、力のあるものが席を占めるということを物語っているわけで、ソビエットが崩壊した後ロシアがその席を維持するということも、結局のところ軍事力、つまり現実的なパワーを持っているからこそそうなりうるのである。

日本のように、戦争放棄をしているような軟弱な国家では、何時まで待っていてもその席に座ることはありえないであろう。

それに反し、国連の分担金は日本が一番多く負担しているといわれているが、世界的な視点から見れば、第2次世界大戦で敗北した日本から金を出せることについて、世界は何の痛痒も感じていないわけで、金を一番多く出しているから何らかの発言権を与えようか、という発想は毛頭ないわけである。

敗戦国日本には金だけ出させて何の発言権も与えないようにしたい、というのは常任理事国の共通した願いであるに違いない。

だからこそ未だに敵国条項が残っているではないか。

そういう国連に日本の知識階層というのは憧れをいだき、国連に頼めば何でも聞いてもらえるというのんきな思考に陥っているのである。

国連こそ、この世の正義だとでも思い込んでいる節がある。

冗談ではない、国連もきわめてしっかりした現実主義であって、自分自身に有効な武力、軍隊を持っていないので、隷下の素直な臣下に甘言を弄して金とものを出させる点では極めてしたたかだといわなければならない。

日本にも常任理事国の椅子という餌をぶら下げて、金をより多く負担させようという魂胆と見なければならない。

国連の改革などというと、すぐに我々は常任理事国の椅子が回ってきそうな錯覚に陥るが、そこが先方の狡からいところで、餌だけぶら下げて何一つ我々の益を図る労を尽くそうとはしないところを注視しなければならない。

 

日本の分担金

 

国連の発端は、第2次世界大戦の戦勝国連合なわけで、あの戦勝国の立場からすれば、敗戦国というのはあくまでも敵国なわけで、敵国条項というのが未だに残っているのも当然のことだと考えなければならない。

敵国条項をその中に内包しているとはいえ、その理念は立派なものだから、我が同胞の進歩的知識人はその理念に惹かれてこの世の神のごとくそれを崇め奉っているが、その安全保障理事会における戦勝国が抱え込んでいる拒否権というものは、真っ向からその立派な理念と対立し、神的存在を否定するもので、極めてリアリズム的でエコテイスチックな思考の現れである。

要するに、国際連合の場といえども国益のぶつかり合う弱肉強食の場に過ぎず、戦勝国としての国益擁護の現実的な現れということに他ならない。

彼らがこの安全保障会議で口角泡を飛ばして議論できるということは、それぞれの主権国家が、それぞれに軍隊を持っているので、その軍事力を背景とした発言権を行使しているわけで、それでこそ有効な話し合いが出来るというものである。

我々は国連というものは話し合いでことを解決する場だと勘違いしがちであるが、この場で話し合っても解決されないことは山ほどあるわけである。

話し合いで合意が形成されれば、それはめでたいこととして報道されるが、いくら話し合っても合意に達せない問題は最初からニュースになりえないわけで、そういう表面に現れる前に消え去ってしまった事柄も掃いて捨てるほどあるに違いない。

国連というものはあくまでも地球警察にはなりえないわけで、何でも駆け込めば解決してくれるというものではない。

我々はともするとそう思い込んで、国連至上主義に陥りがちであるが、それはやはり物を知らないというところに行き着いてしまう。

もの本質を知らずに、一方的にその理念や理想にのめりこんでしまうということは、軽佻浮薄といわなければならないわけで、それをわが同胞の知識人が国内で煽り立てるから、我々の行動が世界の非常識になってしまうわけである。

そういう観点に立てば、日本が国連に供出している分担金も我々はそれを大いに武器として使うべきで、金を出す以上、からならずその見返りを要求すべきだと思う。

ただ言われたから言われたとおりに出すでは脳がないと思う。

金を出すからには、条件を提示して、その条件が満たされなかったならば出さない、という交換条件をつけるべきだと思う。

金を出すという問題ではODAでも同じことが言えるわけで、金を出す以上は、その金の使い方にまで関与すべきで、せっかく出した金が我々に向けた武器の購入に使われたでは話にならないではないか。

この国連のあり方、金の集め方まで含めて、国連のあり方というのはまるまる我々の町内会や村の寄り合いの域を出るものではなく、人の集まりという限りにおいては、人間の行動というのはマクロであろうとミクロであろうとそうたいした変わりはないということだと思う。

町内会でも村の寄り合いでも、極端な無法者には手のうちようがないという点でもまったく同じ構図である。

我々の国のように治安システムが完備されている国でも、町内の無法者、村の中の無法者を自分達で処罰したり処分したり、罰則を科すということは不可能で、そういうときには公権力に頼らざるを得ない。

我々の周囲の町内会や村の寄り合いの場合は、その上に公権力というものが存在するが、国連の場合は、その上にそれを統治するための公権力というものが存在していないわけで、枠内の無法者を処罰したり処分する機能が最初からないのである。

だから「俺はかってにあいつをやっつける」と言うものがいる一方で、それを「そんなことしてはならない、あくまでも話し合いで」と、止める勢力もいるわけで、結局は力の強い勢力のほうが直接的な行動を起こすということになる。

我々はそういう強い力というものをもっていないので、つまり恒久的な風見鶏なわけで、時の情勢を伺いながら有利なほうに身をすり寄せるということを選択するわけである。

それはそれで弱いものの身の処し方として致し方ない面もあるが、だからといって、弱いけれども金だけはふんだんにあるから、ドンドン言われるままに出すというのも真に不甲斐ない話だと思う。

弱ければ弱いものの常として下手に出て、言われた金額を最低限まで値切るという手法を考えるべきだと思う。

 

画餅としての理念

 

この文をしたためているとき丁度「緒方貞子という生き方」という本を読んだ。

彼女は言うまでもなく国連難民高等弁務官という職責を全うした日本女性であるが、この難民高等弁務官というものはそもそも東西冷戦によって、旧ソビエットや旧東ドイツから逃げてくる人々を救済する機構であったということだ。

だとしたら、ここでもう既に国際連合という理念は破綻しているということである。

国連が平和と安全の維持のために高い理想を掲げて設立されたすぐその舌の根も乾かないうちからソ連とか東ドイツから人々は命からがら逃げてくる状況というのは、国連というものの存在価値が最初から確立されていないということではないのか。

当初は60カ国程度の国々の集まりということであったが、そういう国々が一堂に介して集まったとしても、国連の理念の実現には何一つ有効な手立てが講じられなかったということである。

国連には様々な機構があり、それは大雑把に言って目的別に分かれている。

緒方貞子さんの就任した難民高等弁務官というのは、あくまでも難民救済の機構なわけで、総会とか安保理とは別の組織だということは良く理解できる。

当初は東西冷戦が歴然と確立していたので、難民というのは社会主義国からその社会体制に不満を持つ人々が壁を乗り越えたり、川を渡ったりして逃げてきた人々を保護する機構であった。

ところが東西冷戦が終焉して、社会主義国のイデオロギーによる締め付けが一気に緩んでしまうと、今までその社会体制の下に押さえ込まれていた民族主義が一気に復活して、ある種の民族エゴイズムの台頭の様相を呈してきた。

こういう地域の人々、あるいは民族というのは、基本的に彼らの持つ民主化の度合いが低い人たちだと思う。

彼ら自身の民族的な自意識、自覚、民族のアイデンテイテイーが低い人たちだと思う。

だからこそ社会主義体制に安易に感化し、妥協し、飲み込まれ、又それから解き放たれると、安直に民族エゴをむき出しにし、自ら自立する術に稚拙なわけである。

俗っぽい表現で端的に言えば、彼らはアホだから共産主義に蹂躙され、共産主義から開放されても、自らの自立が出来ず、お互いに殺し合いばかりしているということである。

私自身は学のない人間だからこそ、こういう直截な表現で端的に語れるが、これが社会的に立派な地位にある人ならば、こういう言い方は許されないわけで、もって回った言い方をしなければならないので問題が尚複雑化するのである。

問題は国連、国際連合というものが、国家の体制を超越して、それを一切問うことなしに、いちように国連加盟ということを認めており、その中の安全保障理事会の常任理事国の5カ国のうち2カ国まで社会体制がまったく正反対の国家が入っている以上、意見が一致することはありえないということだ。

結局のところ、村の寄り合いと同じで、寄り集まっていろいろな話はするけれど、結論は期待されていないということに尽きると思う。

ことを解決する気は最初からないと言うことである。

あるのは話し合うためだけの話し合いの場というだけで、それによってことを解決する場ではないということだ。

いわば仲良しクラブに過ぎない。

この仲良しクラブでは、体制から逃れようとする人々を救済することが出来ないわけで、だからこそ、それとは別に難民高等弁務官という機構が入用になったものを推察する。

国連自身がもっともと積極的に動けるとすれば、難民を出すこと自体を抑制しなければならないと思う。

しかし、それは主権国家の政治に直接かかわることなので、明らかに主権国家の主権に累が及び、なんびともそれはしえない。

だからこそ国連の機構の一つとして、こういうものが別に要ったのであろう。

ところがこの難民というのは今の地球上に2千万人からいるということだ。

東西冷戦が崩壊したとき、これで我々は枕を高くして眠れると思ったものだが、事態は逆で、東西冷戦が崩壊したからこそ、社会体制の締め付けがなくなった分、イデオロギーの重しがなくなった分、民族エゴが噴出して人々は余計に混乱の渦に巻き込まれてしまった。

しかし、これは彼ら自身の選択なわけで、我々傍観者、特に太平洋の東の小島に住む我々からすれば、彼ら自身の問題なわけである。

緒方貞子氏は、こういう民族紛争の真っ只中に飛び込んで、難民救済に奔走しているわけであるが、それはそれで立派なことであり、彼女でなければしえない仕事であろう。

しかし、難民の問題というのは、この地球上に人類が生き続ける以上避けて通れない道であろう。

民族エゴというものを払拭して、皆が平和に武器を捨てて生きるなどということはありえないと思う。

国連の理念も、日本の平和主義者の理念も、緒方貞子さんの理念も、そこに行き着くとは思うが、それはあくまでも画餅に過ぎないのではないかと思う。

理念を目指して進むということは、人間の生き様として崇高なものだと思うが、その崇高な理念を実現するためには武力も辞さないでは、本末転倒だと思うが、現実にはそうなっている。

アフリカの可愛そうな人々、腹だけ飛び出したうつろな目の子供を見るにつけ、こういう人たちを何とかしたいというのは、人間として崇高な慈愛の気持ちであろうが、それは彼ら自身が解決しなければならない問題だろうと考える。

よく巷には、貧富の格差があるからだとか、富の偏在が原因だとか、部族間の確執があるからだとか、言われているが確かにそういう問題を全部同時に抱え込んでいると思う。

人類の歴史というものを原始の時代までさかのぼれば、今の文明国、アメリカ、イギリス、フランス、日本その他様々な近代国家も、昔は今のアフリカの人々と似たり寄ったりの生活に甘んじていたわけで、アフリカや旧ユーゴスラビアの人々が今の民族間紛争から抜け出して人並みの生活をしようとするならば、自分達で努力するほかないわけである。

いくら国連が横からサポートしてもそれは一時的なものに過ぎないと思う。

今のイラクの状況を見るにつけ、サダム・フセインが倒されて3年も経つのに未だにイラクではまともな政府、民主的な政府さえ出来ていないということは、明らかにイラク人自身の問題だと思う。

シイア派だとかスンニ派だとかクルド人の問題は、彼ら自身の問題なわけで、アメリカ軍の駐留の話とは別次元のことである。

旧ユーゴスラビアの民族間紛争の件など明らかに文明以下のものだ。

ただただ公然たる殺し合いというほかない。

彼らの紛争には何一つ近代文明に値する整合性は見出せない。

ただただ殺し合いのための殺し合いにすぎない。

 

ノブレス・オブリッジ

 

緒方貞子さんはこういう地域に日本女性として堂々と分け入って、救援物資を届けたり、弱者救済の手を打ったり、と大活躍をされたわけであるが、私の無責任な独断によれば、果たしてそれほどのことをする必要があるかどうかはなはだ疑問だと思う。

彼女の立場からすればせざるを得ないだろうが、傍観者としての我々からすれば、好き勝手に殺し合いをしているのだから、彼らの納得のいくまで好きなようにさせておけば良いように思う。

殺し合いが、人として、してはならないということは十分理解しているが、そんなことはしている連中も十分判っているわけで、それでいてなおし続けるということは、第3者として何とも手の施しようがないではないか。

イラクの自爆テロをする人に対して、「そんなことをすれば大勢の人が迷惑するから、してはなりません」と説いて、相手は素直にいうことを聞くであろうか。

難民救済というと非常に綺麗な言葉として響く。

困った人を助けるというと非常に人の心を打つ言葉として響く。

緒方貞子氏ほどではないにしても、黒柳徹子氏や、アクネス・チャン氏のキャーンペーンでも非常に人の心を打つ綺麗な言葉であり、行為である。

人様の貴重な浄財を、困った人に分け与えるという行為は、非常に良い行いだと自他共に認めざるを得ない。

与えられた人からは、文字とおり良き人として崇め奉られることは言うまでもない。

与えた側からも、心清き人として認知されるに違いない。

100%完全なる善意のサンタクローズである。

与えた側も与えられた側もサンタクローズにお土産を一杯持たせてそれを渇望している人々に届ければ喜ばれることはうけいあいである。

ただし緒方貞子氏の場合は、サンタクローズの役目だけではなく、その配分までも考えねばならないわけで、こういう紛争地域ではこのサンタクローズのお土産そのものが紛争当事者の間で取り合いになるわけで、のんきにサンタクローズの役を演じているだけではすまなかったに違いない。

昨今の難民救済というのは、貧乏な国から豊かな国に逃げてくるというだけではなく、難民を出す側も決して豊かではないわけで、逃げ場も豊かなところはないわけであるから、援助物資というのは紛争当事者同士の双方で渇望されているわけである。

旧ユーゴスラビア、アフリカの部族間紛争、アフガン、今のどの地域を例に引き出しても、東西冷戦の落とし子としての難民という枠を超えてしまっている。

そういうところに援助物資をばら撒くというのは、私の感覚からすればナンセンス以外の何物でもないが、国連という立場、人類愛という立場、博愛という精神からすれば、そう言ってはおれないというのも一理あるとは思う。

問題は、そういう状況をのなかで、日本は如何なる行動をすれば世界から認められるかということだと思う。

日本の進歩的知識人の言うように、我々の国が世界からソッポを向かれても一向に構わないというのであれば、国連至上主義というのは引っ込めなければならない。

イラク戦争のとき、アメリカに追従した日本政府を批判するのに、「国連決議がないのに政府はアメリカに追従したからけしからん」という論調であった。

これは逆に言うと、アメリカが国連決議に則って行動した時はアメリカに追従しても良いということになるが、そうなるとここで日本の内政の問題に好むと好まざるとリンクしてしまう。

緒方貞子氏が、民族紛争や部族間紛争で戦火を交えている地域に国連として踏み込んでいこうとするとき、理想的には彼女の身の安全は日本の自衛隊が保障するのが一番良いことだと思う。

ところが日本の現行法ではそれが許されないわけで、国連軍という形で他国の軍隊に依存せざるをえない。

日本の進歩的な人たちが国連至上主義で、国連の指示命令には臆することなく従うという方針であるとするならば、まず最初に我が国の憲法を変えてからでなければそれが出来ない。

我々は戦後61年という歳月を世界と共有しているが、この間に軍隊というものの本質も随分と変化してしまっている。

イラク戦争でも、アメリカ側の攻撃はまさしくピンポイント攻撃で、イラクの一般大衆に被害の及ぶことを極力避けた戦争であった。

61年前の東京絨毯爆撃とか、都市の無差別攻撃などという無辜の人を巻き込むような攻撃ではないわけで、主要な拠点をピンポイントとして攻撃するというものに変わっている。

戦争であるから巻き添えを食う人が出ることは致し方ないが、それでも人的被害を最小限にとどめようとする意図のもとで戦争が行われている。

日本が第2次世界大戦で敗北したとき、1945年8月の時点で、この地球上の人で日本の復興を信じていた人が一人でも居たであろうか。

我々日本人でさえ、あの戦争で生き残った我々の同胞の中で、日本の今日の姿を想像した人が一人でも居たであろうか。

日本の都市はそれこそ皆灰燼と化し、上野駅には浮浪者や傷痍軍人が物乞いをしていた状況から、今日の日本を想像した人が一人でも居たであろうか。

今の日本国憲法というのはそういうときに出来た憲法なのである。

この60年という時間は、この地球上に住む全ての人が共有していた時の流れであるが、その間に我々はとんでもない発展をしたわけで、60年前に我々は戦争放棄を謳った憲法を作ったということはそれなりに意義がある。

しかし、この60年の間に、我々はアメリカに次ぐ世界第二の経済大国になったわけで、経済大国になればなったで、その名に値するノブレスオブリッジが求められることは当然の成り行きだと思う。

そのことは何もアメリカと連携してドンパチをすれば良い、という単純なものではない。

日本とアメリカの間には日米安全保障条約があるのだから、その枠組みはきちんと押さえておかなければならないが、今世界は、緒方貞子さんが直面していたように、世界各地で地域紛争が勃発しており、その中で難民救済するにはどうしても自己完結的な組織が必要になっているわけで、日本もそういう活動に積極的に参加できるように憲法を整えるということは時代状況の変化のことを勘案すれば必要なことだと思う。

憲法を改正したらすぐにどこかの国と戦争をする、などという馬鹿な話はないと思う。

しかし、今の日本の護憲論者というのは、こういう「風が吹くと桶屋が儲かる」式の稚拙な論法を声高に叫んでいるわけで、そのこと自体、戦後の世界の変革についてまったく無知ということをさらけ出しているに過ぎない。

60年前までは、経済大国になれば、それがそのまま軍事大国に移行するという考え方が普遍的であったが、日本はそうなってはいないではないか。

今のままでは日本はPKOもPKFも十分に出し切れていないではないか。

過去にPKOを出すには出したが、それはまるで申し訳程度のもの、あれではとても世界の要請に答えたことにはならないと思う。

緒方貞子さんが紛争地域に入っていくというのに、日本の組織が身辺警護したかと言いたい。

彼女は外国の軍隊に守られて仕事をしているわけで、こんなことで良いものだろうか。

確かに彼女の身分は国連職員であって、国連として彼女の身辺を警護するということはよくわかるが、日本も国連至上主義であるからには、日本人の高等弁務官であるならば、日本人が日本人の高等弁務官を警護しても何らおかしいことはないと考える。

戦後60年間、日本人はまったく戦争の本質も軍隊の本質も知ろうとしてこなかったと思う。

ただただ戦争反対、軍備反対、自衛隊派遣反対と念仏を唱えるだけで、ものの本質を知ろうとする努力をしてこなかったと思う。

戦後60年経って、日本がアメリカに次ぐ世界で例を見ない経済大国になったということは、それに見合うノブレスオブリッジも世界から望まれているということを知るべきである。

日本が国連に多額の供出金を出していることも立派なノブレスオブリッジではあるが、ならばそれに見合う線で、PRもすべきであって、黙って言われるままに金を出すだけでは、まるで「打ち出の小槌」と思われるのが関の山だ。

 

難民は可愛そうか?

 

難民の出る原因というのは様々な要因があることは言うまでもない。

貧困だとか、部族間の確執だとか、統治者の独裁だとか、民主化の度合いだとか、様々な理由によってそれが難民という形であふれ出るわけであるが、それを根元から根絶するということはたぶん不可能だと思う。

例えば、アフリカの状況など、民族間の昔からの確執が最大の理由であろうが、それを外側から改善しようなどと思っても土台無理なことだと思う。

外側から出来ることと言えば、援助物資を配ることぐらいしかないと思う。

ところがこれを仕様とすると人間の赤裸々な欲望がそこでモロに現出してしまって、文字とおり弱肉強食の世界が出てしまう。

これを収めるには、こちらもそれに見合うだけの武力をもたないことには、その場の収集が出来ないわけで、援助物資は公平に行きわたらないという結果になってしまう。

ということは、こちらも組織立った自己完結式の組織、いわゆる軍隊的なもので援助活動をしないことには本来の目的が達成できないということである。

今の日本の憲法では、これさえ出来ないわけで、端的に言えば、今の日本が現行憲法を抱えているかぎり、国際貢献もままならないということである。

我々は60年前に戦争で敗北したのを機会に「もう戦争はしません」と曲がりなりにも誓い合ったわけであるが、しかし地球規模で眺めてみると、そう思っていない国が結構あるものだ。

例えば、地雷除去ということが言われて、例のイギリスのダイアナ妃なども積極的にその活動を支援していたようであるが、これも実に不思議なことだと思う。

地雷除去などということは、敷設した側の責任で取り除くのが当たり前ではなかろうか。

それなのに何故第3者が危険な目にあいながら除去作業をしなければならないのだろう。

悪いことをしたほうが罪を免れて、されたほうが責任をもって除去するなどということは本末転倒もはなはだしいと思うのは私一人であろうか。

難民の流出もこれと同じで、難民を出したほうの責任は問われず、受け入れる側が、収容人数が少ないだとか、待遇が悪いだとか言われるのは筋が通らないと思う。

難民といえばベトナム戦争の際、南ベトナムに共産ゲリラが侵攻して結局はアメリカ軍が海に追い落とされた格好になったときにも、ベトナムから小さなボートで脱出してボート・ピューピルという人々が大勢沿岸諸国にたどりつた。

これらも明らかに政治難民というものであろうが、こういう人たちの対応というものも実に困ったことだと思う。

国連の立場からすれば、「小さな国益を振り回す前に目の前の可愛そうな人たちを先に救え」という論理になるであろうが、それでは既存の国家というのは困ってしまうと思う。

自分達が試行錯誤を重ねて作り上げてきた諸々の秩序が、難民によってぶち壊されてしまう可能性があるわけで、国を預かるものとしては安易に受け入れられないものもむべなるかなと思う。

国連は国連の立場として奇麗事で済ませられるが、当事者である国家、国としては、そう安易な問題ではないと思う。

さりとて、そういう難民を無条件に送り返すことも出来ないわけで、送り返せば彼ら自身が又抑圧を受けることが判っている以上、そこまでは出来ないだろうと思う。

とはいいつつも、難民を送り出す側に干渉すれば、これも内政干渉そのものとなってしまうし、極めて難しい問題だといわなければならない。

結局のところ、人道主義という名目で、援助物資を与え続けて、最終的には飼い殺しと言うことにならざるを得ないだろうと思う。

人間の生き様として、この飼い殺しに甘んじないほどの覇気のある人間ならば、難民という状況に陥る前に何らかの自立更生の手段方法を見つけ出しているのではないかと思う。

60年前、我々が第2次世界大戦に敗北した時の状況というのは、それこそあの戦争に生き残った日本人は、今で言うところ難民に等しいものであったのではなかろうか。

我々の祖国は海に囲まれているので陸伝いにぞろぞろと移動することはないが、我々の置かれていた状況というのはまさしく難民そのものであったといっても過言ではないと思う。

我々の戦後復興というのは、まさしく無からの再生であったわけで、今の難民もぞろぞろと漂っている人は、それこそ個人の責任ではないかと思う。

難民として支援を待っている人々の背景には様々な事情があることは理解できるが、そういうことをいえば、何処の国の何処に住んでいる人でも、それなりの事情はあるわけで、自分の住んでいるところがユートピアなどと思って生きている人は一人もいないと思う。

私の今までの論旨は、難民という弱者に対して酷な言い方であったかもしれないが、何もしないのに、ものが与えられれば人はますます働かなくなると思う。

それがソビエット連邦が崩壊した最大の理由ではなかったかと思う。

我々の常識では、人は長生きすればするほど幸せだという観念に縛られている。

か弱い女性には手を差し伸べなければならないという観念に縛られている。

貧しい人には施しをしなければならないという観念に縛られている。

こういう観念に何の疑いももっていないので、善良な人は皆そうしなければならないと思い込んでいる。

それで豊かな社会の心清らかな人々は、率先してそういう善を施すことを競い合って、自分は人助けをしたという自己満足に浸っている。

それはそれでいいのだが、施しを受けたほうは、何もせずに朝から日向ぼっこをしていながら、食い物から医療まで先方からどんどん支援という名の施しが流れてくるわけで、ますます自助努力をスポイルするようになると思う。

彼らにとってこんな良いことはまたとないわけである。

彼ら難民でなくても、何もせずにしていても、先方から食料や医療がやってきてくれれば、それこそこんなありがたいことはないわけで、自ら汗水たらして働くことはないということになる。

それこそ人類が捜し求めてきたユートピアそのものではないか。

以前、ODAの問題が世論を沸かせたとき、先方の言うがまま、現地の事情を勘案することなく支援したから折角贈ったものが使われないまま放置されているという批判がでた。官僚のすることとして当然のことだと思う。

ところが、この場合は贈るほうと贈られる方で、双方の官僚が関係していることになる。ODAを受ける側とすれば、普通に考えれば貧乏な国で、その国の官僚とすれば、当然高価なものを贈られたほうが自分達の国益に沿うと思うのは至極当たり前である。

だから当然高価な工作機械をODAの対象として要求する。

贈る側の官僚は、これまた官僚なるがゆえに現地の事情を勘案することなく、言われるままを鵜呑みにしてODAの品目を決定する。

そしてその結果として、先方の要求した高価な機械は、先方で誰も使いこなせる人がいないまま、使われることなく放置されるという結果を招く。

その現実を目の当たりした我々は、使われることのない機械を贈るよりも彼らの生活に密着した物を贈るべきではないか、あれは資金の無駄使いではないのか、それともメーカーのためにODAではないのか、と逆ねじを食わせるということになる。

現実の姿は確かにこの通りだと思う。

ところが問題は、この時我々の誰もが「先方の要求が最初から間違っていたのだ、彼らにはあれを使いこなす能力はない」と正鵠を得た説明をきちんとしないものだから、論議が噛み合わないのである。

つまり極端なことを言えば、「相手の国はあまり利巧でないから、彼らにはあの機械は使いこなせない」と、本当のことを、本当の言葉で、素直にはっきりと説明しないので議論が噛み合わないのである。

こういうことを言うこと自体が戦後の民主教育の中では否定されつづけたわけで、我々は相手の悪口を言うことは悪いことだと頭から信じている。

だから常に奇麗事でその場を取り繕うとするので、相手を悪く言うことは何となく遠慮して、言葉を捜して捜して相手を傷つけまいとする。

相手を慮ることばかりに知恵が行ってしまって、本質を突く議論を避けたがる節がある。

この例の場合、我々ならば、立派な工作機械を贈られたならば、それが何とか動くように創意工夫をして、皆で知恵を出し合い、使いこなすようになっていると思う。

折角贈られた機械を使い方が判らないからといって放置しておくようなことは決してないと思う。

この違いが、結局は、民族の相違としてODAをする側と受ける側の違いとなっているということではなかろうか。

 

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