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人類の試練

「朝日」の特集記事

 

本日(平成18年4月30日)の朝日新聞16、17ページには「歴史と向き合う」という主題の元、「原点にゆれる政治読み解く東京裁判」という特集記事が載っていた。

内容的にはすべて既存の事実として知られていることの追従に過ぎないが、問題は、「事後法、勝者の裁き」論点、「なぜ評価が分かれる」という点にある。

物事には必ず賛否両論があることは理性では理解できる。

しかし、自分たちの先輩諸氏の行った行為に対して、自分たちの先輩諸氏を貶める判断というのはいかがなものかと思う。

政治の失敗、作戦の失敗ということは歴史的事実として謙虚に受け止めなければならないが、だからといって彼らを犯罪者、戦争犯罪人という言い方をすることは同胞を貶めることだと思う。

彼らの行為は私利私欲で私服を肥やすためではなかったわけで、それを勝者から犯罪・戦争犯罪人といわれることに対して違和感を抱かない同胞というのは私には理解しがたい存在である。

この項目の中の文言で、否定する側の根拠は「事後法批判など当時の弁護側の主張とほぼ重なる」としているがこれは当然のことである。

戦争というものが1945年8月に至るまで犯罪をなしていなかったにもかかわらず、この日からいきなり戦争犯罪者といわれて、自己弁護しない方がおかしいではないか。

それを犯罪と認定することこそ事後法なわけで、この矛盾を矛盾と感じない者の方がおかしいと思う。

評価する側の論点は、様々な問題点を認めた上で、裁判を通じ敗戦前の政治のありようを広く日本人自身に知らせたことを歴史への大きな貢献としている点、もう一つはニュルンベルグ裁判と東京裁判が国際法とりわけ武力行使と戦争犠牲者の保護のためのルールを定める国際人道法を発展させる上で役割を果たしたことに光をあてる視点だ、としている点である。

この文面から推し量られることは、この東京裁判を評価する視点というのが全く根拠に乏しいということである。

その前段の部分の「敗戦前の政治のありよう」という部分でも、検察側の集めた証拠のみで結論が導き出されたわけで、弁護側の証拠は一切証拠として認められず、検察側に不利なものはすべて却下されるという状況下で、何が「歴史への大きな貢献」などといえるのか、不思議でならない。

公正な裁判ならば、検察側に不利だと思われる証拠もきちんと認めたうえで、判断を下すべきで、恣意的に検察側に有利なものだけを並べて何が公正な裁判かと言うことに尽きる。

又、第2の論点においても、人道という言葉が独り歩きしているわけで、日本側の南京大虐殺(私は個人的には犠牲者の数は巷間に伝えられているほど大きくはないと考えている)や、パターン死の行進というものに比べれば、東京大空襲や広島、長崎の原爆被害者の数を比較するまでもなく、どちらが多くの民間人を殺戮したかを問い直すべきだと思う。

この数の比較の上で、人道的という言葉を使うべきであって、一方的に先方の言うことのみを我々は受け入れるべきではないと思う。

この現実を眺めれば、勝った方は何をやっても許され、負けた方は自己弁護一つ許されないという現実が目に前にあるではないか。

この裁判は、結局のところ勝者による敗者の裁きという域を出るものではないが、これは人類というものが人類である限り、これからも背負っていかねばならない宿命だと考えるべきだ。

あの裁判が、日本人の立場からいくら不合理、不正常、不道徳だといってみても、勝った側からすれば、自分たちにも相当な犠牲者がいたわけで、勝ったからといって、その代償を何ら認めずにはおれなかったことも事実だろうと考える。

彼ら連合軍は「領土的野心は求めるものではない」と公言していたからには、それに変わる何かがあってしかるべきだと考えるのも当然の成り行きではある。

これは洋の東西を問わず、人間の持っている業だとしか言いようがない。

日本がアジアに武力でもって進出してきたので、それをただ単に追い返したという単純なものではないはずである。

そして、それは人類がこの地球上に誕生して以来というもの何度も繰り返されてきたことであって、それがたまたま当事者が日本人、日本民族という黄色人種だったから「人道に対する罪」だったというわけである。

西洋人といえども、自分たちでさえ何度も何度も同じことを繰り返していたことを、日本人がしたからといって、それだけを「人道に対する罪」として追求するということは非常に不合理だといわざるを得ない。

この裁判に対する批判というのは、その点にあるわけで、我々の同胞が犯した罪以上に、連合軍、特にアメリカ軍は我々の同胞に対して数多の民間人を殺傷するという惨禍を強いたではないか、ということを不問に付したまま「人道に対する罪」を大きく振りかざすから我々は承服出来ないのである。

そして客観的な事実を忠実にトレースすれば、我々の側はシナとの戦いでは終始戦線不拡大であり、アメリカとの戦いでは戦争回避の努力を最後の最後まで重ねていたわけで、その事実をもってすれば「人道に対する罪」や「共同謀議」などが成り立つわけがないではないか。

その意味からしても、この裁判そのものが不合理であるといわざるを得なかったのである。

こういう事実は、占領中は公開もされず、言論統制もあり、我々はその裁判の真実そのものを知る術を持ちあせていなかった。

ところが時の経過とともに、歴史的資料が公開されるにしたがって、我々の先輩諸氏は、あの戦争の前にはこのような努力をしていたのか、ということが明るみに出るに従い、占領中の押し付けの認識が間違っていたことに気が付くのである。

あの占領中において、アメリカは民主化という旗印の下、自分たちでは言論統制をしていたわけで、そういう状況下で検察側の証言は何でもかんでも証拠として認め、弁護側の証言は何でもかんでも却下していたわけで、これでは到底公正な裁判ではありえないはずである。

が、負けた側の我々では、その状況を遺憾ともしがたかった。

その意味で、この裁判の初頭に勝者が敗者を裁くことの不合理性を説いた人は、日本側弁護士の清瀬一郎氏のほかにもアメリカ側の弁護士の中にもうそういう立派な人がいたにもかかわらず、勝った側が一方的にそういう正論を排除してしまったので、裁判としての意味を失ってしまったわけである。

当時の世界情勢を鑑みると、ああいう世界情勢の中で、あの裁判はそれなりに存在価値があったに違いない。

仮に他の方法をとったとしても、日本に対する報復という意味合いのものにならざるをない。

連合軍側としても、あれだけの戦争をしておいて、それに勝利したからといって何も手にすることなく引き上げるということも考えられないわけで、あの裁判が不合理であろうとなかろうと、7人の日本側の指導者を血祭りにし、縛り首にしたので彼らも戦いの大儀を全うしたことになり、大手を振って祖国に帰れたわけで、あれだけのことをしなかったとしたら彼らも国民からそっぽを向かれたに違いない。

ただし、アメリカ側の弁護士には立派な人が多くいたと思う。

敵の、しかも敗者の大将を弁護するというのだから、交戦中ならばとても考えられないことで、普通の人ならば怖気付いてそう安易には引き受けないだろうと考える。

しかし、彼らが如何に勇気を振り絞って正義を説いても、裁判官と検察側がそれに対して聞く耳を持たないでは如何ともしがたい状況であった。

それが東京裁判、極東国際軍事法廷というものであった。

 

同胞に対する嫌悪

 

この記事の言う論点は、その趣旨が歪曲されていると思う。

この裁判は敗戦前の日本人の政治のありようを検察側の証言で洗いざらい公開した点で歴史への大きな貢献としているが、それならばあの戦争中の我々の政府は、中国の戦線に関して不拡大方針であり、対米戦に関しては戦争回避に最後の最後まで努力していたことを率直に認めなければならないということになり、日本が侵略をしたという言辞は取り消さねばならないことになるではないか。

又、問題はあるがニュルンベルグ裁判と東京裁判が国際法とりわけ武力行使と戦争犠牲者の保護のためのルールを定める国際人道法を発展させる上で役割を果たしたことに光をあてる視点だ、としている点でも言葉の綾がたぶんに見受けられる。

そもそもこのフレーズの最初の点に「問題があるが」と断っている点で、その問題があること自体が大問題のはずである。

その問題があるがままに国際人道法を発展させる上で役割を果たしたという言い方そのものが間違っていると思う。

国際人道法なるものは未だに出来上がっていないわけで、あの東京裁判そのものが何の価値も意義もなかったから、その後の世界でも戦争というものが絶えることなく、あの裁判が抑止力足りえなかったということに他何らない。

あの裁判で、正義・不正義は裁かれない、力の弱いものは強いものには勝てない、戦争は何が何でも勝たねばならない、ということを世界中が学んだわけで、それは戦争抑止という意味では何一つ貢献するものがなかったではないか。

その後すぐ朝鮮戦争が起き、中印戦争が起き、インドパキスタン戦争が起き、中東戦争が起き、ベトナム戦争が起き、アフガン戦争が起き、その他様々な戦争が起きたではないか。

この戦争の中で国際人道法なるものがまともに機能していたであろうか。

この国際人道法というのも基本的には戦争をしたものを罰するという性質のものではなく、戦争のときは民間人や赤十字の人を殺してはいけませんよ、という程度のもので、大昔の仁義ある戦争の手法と何ら変わるものではない。

ただ20世紀において、戦争というものを仁義なき戦いに変遷させたのはヨーロッパ人であったわけで、我々はあくまでも仁義ある戦いを望んでいたにもかかわらず、その信義を踏みにじったのはアメリカの絨毯爆撃であり、焼夷弾攻撃であり、広島・長崎の原爆であったではないか。

前段の部分の、戦前の政治のありようを日本国民の知らしめたという部分を引き合いに出すとすれば、我々は、西洋列強に真綿で首を締め付けられた結果として、窮鼠猫を噛む式にアメリカに敢然と戦いを挑んだという状況が見えてこなければおかしいではないか。

アメリカの識者は、アメリカが勝利した時点で、そのことに気が付いていたにもかかわらず、どうして我々、ある意味で被害者の側がそのことに頬かむりしているのであろう。

当時は、占領軍総司令官マッカアサーの指令で、そういうことが公に言えなかったとしても、今日ではそういうことが言えるわけで、今日そういうことを言うと、なぜ東南アジアを刺激することにつながるのであろう。

共同謀議についても、我々の政治家というのは昔も今も一致団結ということが下手で、常に政治家どうして意見の衝突というのがあるわけで、共同謀議という言葉そのものが我々の民族には不釣合いな言葉である。

日米開戦に至る過程でも、「皆で一生懸命頑張ってやり遂げましょう」などという発言は何処にもないわけで、御前会議の出席者はそれぞれに思惑が違っていて、とても共同謀議という言葉が当て嵌らない状況であったではないか。

時間が経過して事実が明るみに出るに従い、我々は西洋列強に真綿で首を絞められるように尻すぼみの状況になりつつある、ということがわかってきたわけで、ならばあの戦争も究極の選択であったという結論にならざるを得ないではないか。

この事実の認識は、あの当時でさえ、戦勝国側にもあったわけで、マッカアサー自身が既にそのことを述べているではないか。

裁判の判決の出た時点で、インドのパール判事は、そのことに言及しているではないか。

あの裁判の他の判事も、祖国に帰った後では同じことを言っているではないか。

あれから60年後の今日、我々の同胞が何ゆえにあの裁判の整合性を信じて疑わないのかという点が最大の問題だと思う。

「あの裁判は間違いであった」ということを戦勝国側の人が幾人も言っているのに、我々の側が何ゆえにその言を否定するのかという点に尽きると思う。

私の個人的な考えでは、あの戦争で負けた責任の所在を、あの戦争で生き残った我々は、全てあの裁判の結果に転嫁して、自ら掘り下げて考えることを避けているとしか思われない。

政府レベルでは、中国戦線は不拡大方針であり、対米戦では戦争回避の努力をしていたが、結果として国民は、敵と戦う前に同胞に殺されたわけで、それは戦争以前の問題だと思う。

政府レベルでは不拡大方針であり、戦争回避であったにしても、その時点の日本国民、大日本帝国臣民としては、その事実は全く知らさず、それとは裏腹に戦場に刈り出されていたわけで、それが我々に知れ渡り明るみに出たのは、あの裁判であったわけで、それに引き換え、現実には東京が焼かれ、広島、長崎には原爆落ちて、国民感情としてはポツダム宣言を政府が素直に受け入れていれば我々の同胞は死なずに済んだではないかという思いがあったものと推察する。

これらを勘案すれば、同胞の無駄な死は、日本政府の責任だ、同胞の軍隊の責任だということに行き着くと思うのも不思議ではない。

それと同時に、我々の作戦は全てが全く稚拙で、最初の一撃だけは訓練も機材もそれなりに揃っていたので一応の戦果を得ることが出来たが、それ以降はだんだんと尻すぼみの状況に陥ったわけで、これはすべからく作戦の稚拙さと機材の不足に起因していた。

戦後生き残った我々の同胞にしてみれば、戦争で敗北した恨みつらみは、本来、憎むべき敵に向けるよりは、作戦の稚拙さと機材不足のまま戦わせた同胞に向けられるのも致し方ない面があると思う。

本来、憎むべき敵、アメリカのヤンキーに向けられるべき憎悪が、内向きになってしまい、我々の同胞に向けられたのが戦後の我々の反政府、反自民、反体制の運動の基底には潜んでいると考えられる。

それがあるものだから、戦前の日本政府が盤やむを得ず戦いの火蓋を切らざるを得なかった、ということがわかったとしても、その現実を素直に聞き入れられなかったのもむべなるかなという部分がある。

彼らにしてみたら、本来憎まなければならない敵よりも、嘘八百を並べて前線に送り出した同胞のほうがそれよりも憎かったに違いない。

その結果として裁判の整合性よりも、同胞を戦場に送り出した政府の要人、当時の日本側の戦争指導者が懲罰を受けることのほうに快感を覚え、この裁判に総合性が有ろうがなかろうが受け入れたものと考える。

それにあの占領下という状況を考えると、占領軍GHQの意向には逆らえないし、我々大和民族というのは外圧というものには極めて弱いわけで、GHQのマッカアサーが天皇陛下以上の存在となったとなれば、自分たちの不満を直接進駐軍にぶつけるという勇気も萎えていたに違いない。

そんなことを考える前に、まず明日の食料を如何に調達するかの問題のほうが切実であったに違いありません。

庶民にとって、雲の上の存在の政府高官の一人や二人が死のうが生きようが、焼け跡のトタン張りの小屋に住んでいた庶民にとってはどうでもいい問題であったに違いない。

 

人種差別意識

 

あの戦争を通して我々が考えなければならないこと、我々が反省しなければならないことは、あの戦争の前には我々の体制が政治指導者と国民、特に軍部との間に大きな乖離があったことである。

政府首脳が中国戦線で不拡大方針を実施しようとしても、それを許さなかった勢力の存在を考えなければならない。

歴史的な時系列で昭和の初期の我々の体制を見てみると、中国の地に進出した日本の軍部は、本国政府がいくら不拡大方針を打ち出しても、それを無視してどんどん奥に入り込んでしまい、結果的にそれがアメリカのおよび他のヨーロッパ諸国の経済封鎖を導き出してしまったわけで、その延長線上に日本の敗戦というものがあった。

この軍部が中国戦線で、奥に奥に入り込んで、満州国を作るという点に、西洋列強、特にアメリカの対日感情の嫌悪感が潜んでいたものと推察する。

しかし、歴史というものを人間の生き様として大きな視点で俯瞰的に見た場合、ある民族が他の民族を駆逐して勢力範囲を拡大するということは、歴史上枚挙に暇がないわけで、このときまでの西洋列強というのは、そのいずれもがそのことをしてきたわけで、イギリスのインド支配、フランスのインドシナ支配、イタリアのエチオピア支配、ドイツの南洋諸島支配、アメリカのフイリッピン支配、それぞれが同じことをしていたわけで、その同じことを日本だけが許されないというのも大きな矛盾である。

東京裁判というのは、そのことを追求し、日本が西洋列強と同じことをしたことに対して、「お前たちのしたことは人道に対する罪であり、侵略であった」と決め付けたわけである。

此処にあるのは、はっきりとした人種差別主義だと思う。

勝った側からすれば、日本が黄色人種であるにもかかわらず、西洋列強の人々、つまり白人と同じことをする、それ以上の能力を持っている、白人を乗り越えかねない技量と才能を持っている、だから此処で彼らを叩いておかなければならない、という切迫した観念ではなかったかと想像する。西洋列強の視点から見て、我々の明治維新から昭和の初期の時代までの間の日本の行為をつぶさに観察すると、彼らとしてはどうしても芽のうちに日本を叩いておかなければ将来これが大木になった暁にはどうなるかわからない、という恐怖感があったものと考える。

それ故に、中国戦線の状況から見て、それがABCD包囲網という経済封鎖を誘引し、日本を真綿で締め付ける政策となったわけだ。

日本の存在そのものが、西洋列強、つまり白色人種から見ると許されざる存在であったわけで、彼らの視点でアジアの人々を見た場合、アジアの人々は人間のうちにも入っていないかったわけで、だから日本人もそうあるべきだという認識で彼らは団結したわけである。

しかし、昭和初期の時代に、日本を取り巻く西洋列強の視点は人種差別主義であったことは認めざるを得ないと思うが、彼ら西洋人も、アジアの人間を実によく観察していたと思う。

彼らは、日本の台頭を叩くためにABCD包囲網を築き、日本を締め上げようとしたが、これはアジアの諸民族を救済するための施策ではないわけで、彼ら自身の国益のためであったということを知る必要がある。

しかるに、彼らはアジア人を統治するために実に良くアジア人を観察していたと思う。

西洋列強、ヨーロッパの人々からアジアの人々を見て、彼らが真に恐れたのは日本人だけで、中国人も、インド人も、スマトラ人、フイリッピン人も、朝鮮人も、彼らから見て何ら脅威ではなかったが、日本人だけは脅威そのものであったわけである。

だからこの裁判においてもマッカアサーはアジアの人間を判事の中に招き入れて、人種差別意識を払拭すべく体裁を繕っては見たものの、フイリッピンの判事や中国の判事は彼らの民族性そのものの役を演じたに過ぎない。

ところがインドの判事、パール判事は、かっての連合国に一矢報いて、「日本のしたことはかってヨーロッパ人がアジアでしたことと同じではないか」と言い、被告を全員無罪というきわめて挑戦的な意見を開陳したわけである。

彼の立場からすれば、日本憎しというよりも、ヨーロッパ憎しの感情の方が強かったに違いない。

この裁判は、地球規模での武力による戦いが終焉して、ある意味で国際政治の武力行使としての戦いとは異なる言葉の戦いの場面に移ったことを表しているわけで、そこに渦巻いているのは外交としての手練手管であった。

力の戦いにおいても、言葉の戦いにおいても、その主導権をアメリカが握っていたことは疑う余地はないが、この法廷ではただ単に人をどれだけ殺したかが問われたわけではない。

それは日本の国内政治ともかけ離れたもので、まさしく勝った側としては何らかの手柄がないことには祖国に帰ることも出来ない、という状況であったことは間違いない。

その後、時の経過とともに、我々の側にも「日本はアジアで悪いことをした、アジアで侵略行為をした」という自虐史観というものが芽生えてきたが、この発想の根底には、我が同胞の中にもこの裁判を素直に受け入れたいという願望があったのではないかと思う。

その背景にはここで裁かれている日本側の戦争指導者を恨む気持ちが大きく作用していると思う。その恨みが高じてこの裁判を安易に受け入れるならば、仮に日本が侵略したとして、ならば西洋列強、ヨーロッパ諸国がアジアでしたことは一体何であったのか、彼らはアジアを侵略しなかったのか、という疑問が当然沸いてくるわけで、少なくとも西洋のしたことには頬被りしたまま、侵略という言葉を我々の側から軽々に使ってはならないと思う。

外交ということは突き詰めれば言葉の戦争なわけで、我々の側で侵略と言う言葉を使ってしまえば、先方はそれこそ言葉尻を捕まえて「お前たちは我々を侵略したではないか、ならば金よこせ」という論議にたどり着くことは当然の帰結ではないか。

外交当事者はそこで金を払えば、当然、自分一人は良い子になれるが、その金は結局のところ国民の血税なわけで、安易に良い子ぶってもらっては国民が迷惑することは火を見るより明らかなことである。

東京裁判で昭和天皇を免責したことも明らかにアメリカの国策であったわけで、アメリカが日本の占領をスムースの行わしめるための手練手管の一つであったわけである。

だからオーストラリアなどは執拗に天皇の出廷を主張したが、マッカアサーはそれを押さえ込んでしまった。

此処で注目しなければならないことは、日本の政治的指導者、天皇も含めてあの戦争を指導した為政者たちは、誰一人、助命運動、助命嘆願をしなかったという事実である。

昭和天皇が最初にマッカアサーに会見したとき、マッカアサーは天皇が助命嘆願に来たと思ったらしい。

彼ら西洋人の発想からすれば、戦争に負けた君主は、その前に逃亡するか亡命するか、その暇がなかったとすれば助命嘆願するのが彼らの常識であったわけで、それを敢えて「一切の責任は私にある」と言いに来る君主というのは、彼らの認識からすれば非常識であったがゆえに、大いなる驚きでもあったわけである。

逃亡も、亡命もしなかったという点ではA級戦犯として絞首刑こ付された7名の人々もみな同じで、堂々と自己の意見を開陳して刑に服したわけで、その意味では他の先進国の首脳らも足元にも及ばなかったに違いない。

それに引き換え、この裁判で証人台に立った清朝のラストエンペラー、満州国皇帝、宣統帝溥儀の供述は真に見下げたものだ。

元の清帝国の元首が、この有態では中国本土が混迷に至るのも当然のことである。

中国大陸の有様がこの体たらくでは西洋列強、ヨーロッパ諸国が中国を蚕食するのも当然のことだと思う。

事実、そういうことをヨーロッパ諸国は100年にわたり観察していたわけで、我々日本も、その中国と肩を並べる程度の国だったならば、日中戦争から太平洋戦争というのも起きなかったに違いない。

我々がそういう国であり、そういう民族であったがゆえに、勝った連合国側としては、日本に対して中途半端な断罪では再び世界に向かって立ち上がってくるのではないか、という心配があったわけで、徹底的に民族の魂を抜き取ることに専心したわけである。

東京裁判、極東国際軍事法廷というのは、そういう思惑を秘めた日本民族改造の事始の事業であったわけで、連合軍側からすれば、その裁判の整合性や、不合理性、欺瞞性など最初から問題ではなく、彼らの立場から見て、日本民族の魂の改造事業の最初の一歩であったものと考える。問題は、こういう連合軍側の思惑を感知することなく、ただ表面的な裁判の整合性のみに気を取られて、彼らの権謀術策の裏を読み切れなかった戦後の日本の文化人の思考である。

戦後の文化人というよりも、あの戦争で生き残った文化人と言い換えたほうがいいかもしれない。文化人であるからには、戦前・戦中の軍部や軍隊や戦争遂行にも批判的であったものと思うし、当時の為政者に対しても批判的であったろうとは思うが、そういう人たちが戦後状況が逆転したらアメリカ、GHQ、に開放された共産主義者たちと迎合して、占領政策を民主化と称して提灯持ちに走ったことにある。 

その過程で、この東京裁判史観というものを何ら検証することなく受け入れてしまったことに今日の混迷があるものと推察する。

終戦直後の東条英機元首相の嫌われ方というのは実にひどいものだった。

彼が逮捕直前に自殺未遂したことも彼の人気を下げたに違いない。

大勢の若者を戦場に送り込んでおいて、自分は満足に自殺も出来ないのか、というあざけりの声は庶民感覚としては当然だと思う。

彼はたまたま開戦のときの首相であったが、彼とても自分から真っ先に開戦を唱えたわけではなく、開戦を煽ったわけでもなく、御前会議の結論に不満な天皇の心中を図って、再度、御前会議をしなおすぐらい開戦には消極的であったにもかかわらず、その当時はそのことが国民にはわからなかった。

一般国民の印象としては、彼が「行け行けどんどん」と言っていたように受け取られていたに違いないが、事実は全く逆であったと思う。

そういう事実が明らかになったという点では東京裁判の功績かもしれない。  

この東京裁判、極東国際軍事法廷というものが、あの戦争で戦った国の間、つまり戦勝国同士の国益の分捕り合戦であったことは否めないと思う。

あの戦争の真の勝利者というのは実質アメリカ一国だと思う。

他の国も戦勝国として名を連ねているが、それらの国々が真の戦勝国と言えるかどうかは真に疑わしいものである。

フイリッピンや中華民国(蒋介石の中国)が戦勝国と言えるかどうか真に疑わしい限りである。

しかし、これもマッカアサー流の流儀で、マッカサー自身が自分を尊大に見せるためのパフォーマンスであったのかもしれない。

ただし、此処で注意しなければならないのがソビエットの態度である。

ソビエットに対しては、我々は実に対応が下手で、日露戦争で一度勝利をしたがゆえに、それ以降というもの、ソビエットの実力を過小評価したかと思うと、今度は又逆に過大評価をし、期待をするなどということはあまりにも現実無視の態度だと思う。

つまり、真のリアリズムで眺めていないと言うことである。

日ソ不可侵条約にしろ、終戦の斡旋にしろ、我々の対ソ交渉というのは先方からの裏切りの連続であるにもかかわらず、いまだに我々は何らかの希望的観測をしがちである。

アメリカのルーズベルト大統領が日本人に対して人種差別意識を持っていたのと同様、ソビエットの人々、ロシアの人々も、黄色人種の我々日本人に対しては人間のうちにも入れていないということをついつい忘れてしまう。

アメリカ人が我々に対して東京を焼き払い、広島と長崎に原爆を投下しても、何ら良心の呵責を感じないのと同じで、ソビエット人、ロシア人も日本人を60万も抑留して、無償で使役に使っても何ら良心の呵責を感じていないわけで、これこそ人種差別のもっとも顕著な例ではないか。

北方4島の問題にしても、いまだに何の解決の糸口も見出していないではないか。

これこそ侵略そのものではないのか。

対日戦に関して言えば、わずか1週間の戦いで戦勝国となったわけで、敵ながら小憎らしいぐらいの外交手腕の見事さとしか言いようがない。

狡いとか、ズルイとか、狡猾とか、汚いという言葉を超越している。

 

我々の生真面目さ

 

しかし、外交というのはこうでなければならない。

これこそ究極の外交手腕といわざるを得ない。

我々が中国でしようとしたように、武力で領地を拡大するのは最も下手な帝国主義的拡張手段である。

言葉によるハッタリ、ないしはブラフで領地をせしめるのが外交としてはもっとも利巧で、上手な手法だと思うが、我々は根が真っ正直なものだから、こういうことは人を騙すような気分がして、良心が咎めるからそれが出来ないのである。

この裁判におけるソビエットの役割というのは、当面はアメリカのすることを監視し、あわよくば漁夫の利を狙うことであったが、アメリカの大統領がルーズベルトからトルーマンに代わったことによって、ソビエットもアメリカを口先で騙せなくなった。

それとは別に、この時点で中国を代表していたのは蒋介石の中華民国であったわけで、今日、日本に対して難癖をつけてくる中国・中華人民共和国というのはまだ誕生もしていないわけで、まだ誕生もしていない国から、このときのことを難癖つけられるというのも真に不合理なことだと思う。外交というのは言葉の戦争なわけだから、先方がそういうことを言い出したときには、こちら側もその根拠をきちんと指し示して、正統に反論しておかなければならなかった。

先方も物を言う以上、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う式に利害得失を考えて物を言ってくるのだから、当然のことは当然のこととして、正論は正論として、きちんと反論しておかないと、先方の言うことが通ってしまうわけで、先方のことを慮ってこちらが下手に出ると、それが先方の切り札となってしまう。

この切り札を出せば相手は妥協するということを学習してしまうわけで、こうなるとなし崩し式に妥協を迫られることになる。

問題は、こういう場合に、我々の同胞の中から先方の言い分をよしとする賛同者が現れることである。

こういう人たちというのは、その全てがこの裁判の整合性を信じているわけで、かっての日本は悪いことをしたのだから裁かれるも当然だ、というきわめて軽薄、浅薄な思考によっているからである。

裁判の整合性を我々が問題にしてもそれは詮無いことで、我々は戦争に負けて無条件降伏に近い処遇を受けているのだから、当時の我々の立場は「まな板の上の鯉」と同じで、何とも致し方ない。

しかし、その裁判の受け入れ方には、民族の誇りを維持しつつ、悔し涙で受け入れるか、身も心も勝った側に売り渡すかの選択は我々自身にあるわけで、ここにこの新聞のいう判断が分かれる部分がある。

この時期、占領軍としても何もかも全てを公開したわけではない。

当然、占領に不利な部分、アメリカに不利な部分、占領政策を害するような事柄は伏せられたわけで、それが占領も解かれ、全ての資料が公開される時期が来ると、我々の知らない部分も公開されつつある。

すると、あの裁判では「我々はアジアで悪いことをしたことになっていたが、そうでもないではないか」という部分も次から次に明らかになってきたわけである。

又、この裁判の進行中から旧敵国のアメリカ人の弁護士でさえ、日本が戦争への道を選択したのは、侵略ではなく自存自衛の道であった、と説くブレークニーというような勇気ある人たちもいた。そして言うまでもなくインドのパール判事は、裁判そのもののを否定しているわけで、全員無罪という見解を示していた。

それに引き換え、我々がそういう事実があるにもかかわらず、この裁判をあっさりと受け入れるということは、世界中の心ある人たちを嘆かせたに違いない。

この裁判を通して日本人、日本民族というもの見てみると、我々の民族は実に生真面目だと思う。その生真面目さが、この整合性に欠けた裁判でも素直に受け入れ、判決を素直に受け入れ、戦後生き残った我々の同胞も、裁判そのものを素直に受け入れたのではないかと思う。

此処で裁かれた人たちは決して戦争を煽ったり、開戦を煽ったり、行け行けどんどんと煽ったりしたことはなかったがと思うが、結果としては、我々の同胞の誰かがそれを煽りに煽ったからこそ敗戦に行き着いたものと考える。

それを煽ったのは軍部とマスメデイアであったということは簡単に想像が付くが、ならば軍部やメデイアの中の誰であったのかと、犯人を絞り込む段階になると一様に焦点がぼやけてしまい、責任の所在がわからなくなってしまう。

だからその組織のトップにいた人に責任が集約されてしまうが、トップにいた人は、世評で言われていることと逆の指示を与えていたわけで、真相は藪の中ということになってしまう。

あの戦争に生き残った日本の知識人は、本来ならばそこの部分を究明してしかるべきだと思う。それは我々の組織論に行き着き、我々の意思決定の過程を探る作業になってしまうが、それがなされていないので、我々の歴史への反省がうにゃむやになっているのではなかろうか。

中国戦線で関東軍がどんどん攻め込んでいるときに、中央政府では不拡大方針を示していたにもかかわらず、それを無視して軍部の指揮者がことを推し進めてしまったところに今回の戦争の原因があったわけで、そこの部分が軍部の独断専横といわれる点であるが、この陸軍部内の権力構図を解き明かさない限り、その究明は難しいと思う。

本来、我々の民族は生真面目なはずなのに、ここで道を踏み外したのは如何なる理由によるものか、ということが未だに究明されていないのではないかと思う。

私見では、日本の近代化の過程で、貧しい人々、特に農民が立身出世を願うとき、その一番手っ取りはやい手法は軍の学校に入って職業軍人になることであった。

四民平等という言葉は非常にきれいに聞こえ美しく響くが、実態は玉石混交だと思う。

昔は卑しむべき人として選別されていた人たちが、平等社会としての軍の施設で教育を受けたとしても、その性根が克服されるとは思われない。

そういう人々が軍の中枢を占めると、コントロールが効かなくなった、というのが軍の独走に拍車をかけたということだと思う。

彼らの出身母体が貧困であったがゆえに貧乏から脱出に異常に固執していたともいえる。

今、こういう言辞は厳しく糾弾されること承知の上で言っているが、ものごとの解明は奇麗事ではすまないと思うからである。

ここでこの究明を推し進めよとすると、再び我々の生真面目さが前面に出てきてしまい、同胞の、ないしは同僚の失敗を暴露するような作業には加担したくない、という心情が真実を覆い隠してしまうのである。

A級戦犯として悪名高き、世評としては最低の評判の東条英機元首相も、裁判の過程ではどうどうとウエッブ裁判長やキーナン検事と渡り合ったが、家族には一切の弁明を禁じ、「一切語るなかれ」と、弁解がましいことを一切言うなと厳命したといわれている。

これも他民族にはない日本民族の大きな特質だと思う。

これに引き換え、先の宣統帝溥儀の証言などを見るに付け、その違いは歴然としているではないか。

この我々の生真面目さというのは、権力に対して非常に有機的に機能していたのであろうか。

確かに、権力に忠実という意味では有機的に機能していたといえるが、あまりの生真面目さというのも実は困った存在だと思う。

例えば、サイパンや沖縄で、優勢なアメリカ軍に攻められて絶体絶命というところまできたときに、あまりに生真面目に戦陣訓にしたがい、戦陣訓に束縛されるはずもない民間人にまで自決を強いるなどということはあってはならないことだと思う。

この戦陣訓というのは戦闘員たる兵隊に対して、徹底的に果敢に戦うべし、という規範であったわけで、無駄な自決に走るなという戒めであったものと思う。

現に激戦の行われたサイパンや沖縄で戦死した同胞の中には、まだまだ戦える状態にあったにもかかわらず、早々と自決してしまった人もいたといわれている。

我々の倫理観では、死んだ人を悪く言わない生真面目さがあるものだから、死んだ人は皆果敢な戦闘の上に戦死したということになっているようだが、実際には早々と自決してしまった人もかなりいたようである。

我々の民族の生真面目さというのは、我が国の国益を相当損なっているのではなかろうか。

その証拠に、我々の敵であった連合軍側においては、我々のことを非常に野蛮で好戦的でその上卑怯な民族だという認識で彼らは我々に敵対していたではないか。

ところが東京裁判で明らかになったことは、我々は中国に対しては常に不拡大方針であり、アメリカに対しては最後の最後まで宣戦布告を逡巡し、躊躇し続けていたではないか。

これが生真面目と言わずして何といったらいいのであろう。

昭和天皇自身、逃げも隠れもせず、堂々と勝者の前に出て行ったではないか。

この我々の生真面目さというものが本当はかなり曲者で、これがあったがゆえに、我々は軍部の独断専横を安易に容認してしまったのではなかろうか。

戦前、戦中において、軍部の行動、陸軍の活躍、海軍の戦果に、当時の日本国民は老若男女、打ち揃って一喜一憂していたに違いない。

ということは、それだけ生真面目に自分たちの軍隊を信頼し、買い被っていたということである。

軍部の挙げる戦果(これの多くは虚報であった)に比べると、政府のやっていることはまどろっこしくて仕方がなかったと推察する。

問題はここに潜んでいたのである。

政府の指導を聞き入れない軍部の暴走を誰も制御し切れなかったところに我々が奈落のそこに転がり落ちる原因が潜んでいたものと考えざるを得ない。

この時、軍部の暴走を食い止めるべき人たちは、本来ならば当時の知識人であり、大学教授という人々であり、メデイアに携わっていた人々でなければならなかった。

ところが、こういう人たちも実に生真面目だったものだから、治安維持法に抵触するような発言を一切しなかったから軍部の暴走を止められなかったわけである。

戦後、マッカアサーが我々の上にもたらしたのは、民主化という名の反逆の精神であり、それは我々のもつ生真面目さというものを真っ向から否定することであった。

我々は生来生真面目なるがゆえに、指導者が軍国主義を唱えれば猫も杓子もそれに盲従し、それが一旦否定されると、それこそまたまた猫も杓子も民主化の風潮になびいてしまう。

常に我々は強いものに生真面目に盲従するという民族的特質を備えた集合だと思う。

民主化という言葉で、その生真面目さが否定されると、それに抵抗するものが時代の寵児と映り、それが俗っぽい世間でもてはやされると、皆が皆その潮流にあやかろうと後に続くものが現れる。その根底のところには、我々の民族は自分の頭で考え、自分の判断力で決断し、その決断したことを実行する、という術に自信をもっていないように見える。

常に外圧に頼り、外圧がないことには何事も前に進めず、自分たちの責任を外圧に転嫁することによって、自己責任を放棄しているのである。

 

人類の試練

 

東京裁判も我々の民族の上に覆いかぶさってきた、戦争責任に対する大きな外圧であったわけで、それは我々の外からの圧力で、我々の外からの視点で、あの戦争の責任の所在を暴き、それが裁きを受け、外圧としての連合軍が、自ら自身を納得させるための政治的ないしは外交的、または国際的措置であったわけである。

あの裁判から60年も経過したにもかかわらず、我々の民族の中からあの戦争の責任の所在を暴きだそうという発想は未だに出ていないではないか。

仮にあったとしても、その全てが軍人が悪い、当時の政府が悪い、軍閥が悪い、警察が悪い、というような観念的または情緒的で稚拙な発想ばかりで、それは戦後の民主的と称する共産主義的な現行の秩序を破壊するだけのアプローチでしかなかったではないか。

我々の民族の内側からの告発ということになると、どうしても我々の親兄弟、親戚縁者に累が及び、責任の大部分がそういう人たちに覆いかぶさってきてしまうので、どうしても矛先が鈍るということはありえると思う。

一家の大黒柱を兵隊にとられて、その人が無事帰還すると、彼は外地で悪いことをしてきた、アジアを侵略してきた、人を殺してきた、などということが留守家族として容認できるであろうか。

こんなことはとても容認できるはずもない。

ということは、内側から戦争の責任を掘り起こすことはありえないという結論に至らざるを得ない。そもそも対外戦争の責任を追及すること自体が自然の摂理に反しているわけで、ニュルンベルグ裁判や東京裁判では、従来の自然の摂理に反した新しい概念で敵国を裁こうとしたから、人類の普遍的な思考に齟齬をきたしたのである。

軍隊に入って国家に忠誠を誓い、国家の命令で外国にいき、鉄砲の弾の下をくぐって、そこから無事帰還してみたら、今までの価値観ならばその人は英雄として扱われたが、それが悪人であって、外国で悪いことをしてきた、などということを認める国家はありえないと思う。

ところが戦後の日本はこのありえない国家の一つになっているではないか。

とはいうものの、その最初の段階で、民族の内側からの戦争責任の告発が出来ていないにもかかわらず、外圧による価値観の押し付け、つまり当時の、昭和初期の日本の政治指導者、戦争指導者は犯罪者である、という価値観をあっさり受け入れてしまったではないか。

この戦犯、戦争犯罪者という言葉を我々はよくよく考えなければならないと思う。

民間人をはじめとする多くの人々を殺したから犯罪者であるとするならば、勝った側にもそれに値する人は数多くいるわけで、ただただ負けた側に身を置いていたから犯罪者であるとするならば、これは人類の過去の歴史を冒涜するものだと思う。

俗に言われている戦犯、A級戦犯、BC級戦犯という言葉の本質は、政治の失敗者であり、作戦の失敗者であり、敗戦の責任者であったとしても、犯罪人ではないはずである。

確かに捕虜を虐待するなどという、個々の戦時規範に反する行為もあったことは認めざるを得ないが、統治者に対して統治の失敗、作戦の失敗を犯罪というには無理があると思う。

この裁判の不整合、非合理性、大きな矛盾というのは、この地球上に今まで生きた人間が経験したことのない非常に大きな試練に直面したことによる混乱だと思う。

今までの人類は、地球規模の戦争というものを経験したことがないわけで、せいぜい軍艦から鉄砲を撃ち合って、小さな土地を奪い合う程度の戦いであったものが、第2次世界大戦というのは地球全体が戦場と化したわけで、その中で勝者と敗者が歴然と存在していた。

このことは今までの人類がまだ一度も経験したことない全く新しい状況であり、戦争そのものが全く新しい人類の試練であったわけである。

その中で勝者が敗者を裁くということ自体も新しい試みであったわけで、新しい試みが何の齟齬もなく終わるということはありえないと思う。

だとしたら、その結果に不平不満が残るのも致し方ない、といわなければならないが、問題はそれを我々がどう受け入れるかという我々の心の内側の問題にブーメランのようにかえって来ることである。

普通のありきたりの人間ならば、人から叩かれれば叩き返すと思う。

足を踏まれれば踏み返すと思う。

これこそが自然の人間の自然の振る舞いだと思う。

ところが人間に知恵が付いてくると、叩かれたときに条件反射的に叩き返すのではなく、なぜ相手は俺を叩いたのだろうと考える。

足を踏まれた時にも同じことで、なぜ相手は俺の足を踏んだのであろうと、一瞬考えると思う。

これこそ人間の理性であり、知性であり、知識であり、思慮分別であり、教養であるが、それは叩かれた側の心的状況であって、叩いた側はそういうことを一切考えることはないわけで、好きなときに好きなように自分勝手に行動するわけである。

これが第2次世界大戦であり、ニュルンベルグ裁判であり、東京裁判であったわけである。

とは言うものの、この第2次世界大戦というのは、人類が今まで経験したこともない大きな試練であったことに変わりはないわけで、その過程では、今まで人類が培ってきた経験則が何一つ通用しない試練であった。

その中には、あの大戦で生き残った者にとって良いこともたくさんあった。

例えば、領土的野心を露にしないとか、敗者の国民を奴隷として扱わなかったとか(旧ソビエッと連邦は例外で、この国は中世以前の国家行動と何ら変わるところのない野蛮な国家であった)、植民地を開放するとか、良いこともたくさんあったが、その逆も数多あったわけである。

その一番顕著な例が、大量殺戮である。

しかも民間人の大量殺戮である。

東京裁判では日本軍がしたとされる南京大虐殺が暴かれて傍聴した人が非常に驚いたとされているが、アメリカ軍のした日本の都市の絨毯爆撃から広島・長崎の原爆に関していえば、南京大虐殺の比ではないと思う。

ところがこれは勝った側の行為であるがゆえに不問に付されているわけで、敗者の側の行為のみ大々的に宣伝され、日本がいかにも極悪非道な民族であるというイメージを植え付けるように施策が練られていた。

我々は、相手から叩かれたとき「何故、我々は叩かれたのだろう」と一瞬考えたとすれば、この経緯を知った今日なら、黙っておれないのが普通の人間の普通の感覚ではないかと思う。

ところが戦後生き残った我々は、叩かれっぱなしでのうのうと生きているわけで、そういう現状を見るにつけ、我々の民族の誇りは一体何処に行ってしまったのだろう、という疑問が沸くのも当然の成り行きだと思う。

あの戦争の終わった時点では、我々の国土は一面焼け野原で、食うや食わずの生活を強いられており、名誉や誇りで生きてはおれないことは火を見るより明らかであった。

ところが戦後復興をなし、高度経済成長を成し遂げ、世界で1、2を争う経済大国になったならば、そろそろ民族の誇りと名誉のことを考えてもいい時期に来ているのではなかろうか。

これを言い出すと、すぐに復古調だとか、懐古趣味だとか、軍国主義の復活だとか、戦争への道を歩むとか、アジアの歩調を乱すとか、否定的な意見が続出するのは一体どういうわけなのであろう。

確かに今の日本、いや世界中が、国境の壁が低くなって、あらゆる国の人々が非常に輻輳的に混在している。

日本にもあらゆる国から人がやってきているし、日本人もあらゆる国に進出している。

こういう現況から、国家主権という概念は薄れつつあるように思われるが、日本に外国から人が来、又日本人が外国に行けるというのも、日本という国の国家主権がきちんと確立されているから、その信用の元に人が来れ、人が行けるのである。

国家主権がきちんと確立されているということは、治安の安全ということまで含まれているわけで、そういう国の国民であるということは、本来ならば大きな誇りであり名誉なはずである。

だとすれば、我々の国の過去についてもきちんとした認識を持つことが重要であり、自分たちの先輩諸氏のしたことに対しても、きちんとした認識を持つことが大事だと思う。

ただただ相手側の言う事のみを鵜呑みにして「我々の国は悪いことをした」などという認識は払拭すべきだと思う。

今、地球上には190も主権国家があるが、その国の国民の中で、外国の言う事を鵜呑みにして、自分の国のことを卑下する人が、知識人として優遇されているのは日本以外にはありえないのではなかろうか。

外国から自分の国のことを悪く言われて、腹を立て憤慨し、言い返すというのならば普通の人間として極当たり前であるが、それをこともあろうに相手に迎合して、相手の提灯持ちに徹する同胞をどう考えたらいいのであろう。

それもこれも、あの東京裁判を何の疑問も感じずに受け入れて、戦勝国の示した判断が正しく、我々はアジアに多大な迷惑をかけたことは間違いないという、東京裁判史観、自虐史観のなさしめることである。

 

靖国とA級戦犯

 

この問題をよりいっそう複雑したのが、この裁判で死刑が確定した、俗にA級戦犯といわれる人々を靖国神社に合祀したことである。

A級戦犯といわれる方々の遺骨は、最初は別のところにあったが、それを此処に合祀したことによって、その複雑さがよりいっそう混迷の渦に巻き込まれてしまった。

このことによって東京裁判の問題も、靖国神社の問題も、両方が混迷の渦に巻き込まれて解決の糸口さえ見当たらない。

そしてこれは完全に日本国内の問題であり、外国に関与されるべき筋合いのものではないが、これに関与したがる国が近隣に存在するから困ったものだ。

俗にA級戦犯といわれる人々と、靖国神社の問題は、我々日本民族の本質にかかわることだと思うが、それ故に一朝一夕には結論を出すというわけにもいかず、民族の問題でありながら、それならばこそ、結論が見出せない問題だと思う。

一般的な我々の今までの認識では、靖国神社というのは戦いで死んだ英霊を祭るところだ、という風になっているが、A級戦犯として絞首刑で死んだものを、前線で戦闘中に死んだ人と同列に扱っていいかどうかの問題だと思う。

ここで、A級戦犯という字句から、東京裁判に連動するわけで、東京裁判に於ける連合軍側の認識では、当時の日本側の為政者と一般国民を別の存在だと認識していた節がある。

彼らの認識によると、A級戦犯といわれる人たちは、共同謀議でもって連合国ばかりではなく、日本の一般国民をも騙していた、という認識であったように見える。

中国が小泉首相の靖国神社参詣に対する批判も、こういうスタンスで迫ってきているが、靖国神社そのものは、そういう見解をとっていないわけで、戦争の犠牲者という大きな枠組みで捉えているように見える。

「A級戦犯だけ別に分祀すればいいではないか」という議論は当然出てくるが、靖国神社に祭られている神様というのは戦闘で散華した英霊であって、一旦祭った以上、それは合体してしまったので今更分けられないというものである。

しかし、こんなことは不毛の論議だと思う。

中世の宗教論議と同じで、答えなどあるわけないし、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う式の不毛の議論を重ねることになる。

政治家というのは自分の一言がそのまま選挙に響くわけで、一般受けのする選挙民に良い印象を与える効果を狙った発言をしなければならないので、その発言のすべてが奇麗事過ぎる。

一番波風の立たない、先方も納得しやすく、こちらも利益を得そうな、八方美人的でかつ全方位的な発言をするので、それを真に受けると大火傷をしかねない。

7名のA級戦犯が処刑されたとき、米軍は彼らの遺体を秘密裏に荼毘に付した。

しかし、彼らの教誡師であった花山信勝氏が、刑場から出てきたトラックを追跡して、その遺灰の所在を突き止め、それをかき集めて一部は遺族に渡し、その残りを愛知県の三ヶ根山の頂上に埋葬した。

と、私は記憶しているが、「A級戦犯の魂を靖国神社に一緒に祭るな」という意見は、我々の民族の奥の深い怨恨の現われとみなさなければならないと思う。

あの戦争で生き残った我々の同胞の中には戦争被害者という意識が相当根深く浸透しているということだろうと思う。

民主党の党首に推された小沢一郎なども、こういう見解を示しているが、あの戦争で生き残った我が同胞の中で、当時の政治指導者、戦争指導者を糾弾したい気持ちというのは察して余りある。鬼畜米英、撃ちてし止まん、欲しがりません勝つまでは、滅私奉公、忠君愛国、こういう言葉に煽られて幾万の将兵が散華して行ったことを考えると、その恨みが相当深く刷り込まれたとしても致し方ない。

そういう恨みの感情が、A級戦犯を靖国神社に合祀してはならない、別に分祀する施設を作るべきだ、という思考を形作っているものと考える。

しかし、このことをあまり深く掘り下げていくと、またまた国家神道の領域にまで迷い込んでしまうことにならないだろうか。

戦前においては、軍国主義を煽るために日本は神の国などと現実離れした教義が罷り通っていたわけで、実態のない心的な、ないしは霊的な領域にあまりにも深入りすると、荒唐無稽な論理にはまり込んでしまうような気がしてならない。

昭和天皇が現人神などという現実離れした論理がまかり通ったということは、軍国主義を煽るために荒唐無稽な流言蜚語に近い論理を鼓舞宣伝したからに他ならない。

靖国神社に祭られている英霊たちは、勇猛果敢に敵と撃ちあい、結果として散華した人たちだと厳密に規定してしまうと逆に妙なことになると思う。

日本軍は補給ということを疎かにしていたので、補給が絶たれてジャングルの中で餓死、ないしは戦病死、自決した人の立場はどうなのか、という問題に行き着くと思う。

弾薬がまだ少し残っていたにもかかわらず、早々と自決してしまった人はどうなのか、という疑問も沸いてくると思う。

民間人に集団自決に強いておいて、戦死した軍人の立場はどうなのか、という問題に突き当たると思う。

同じように戦死といっても様々なパターンがあると思う。

死んでしまったからには、その全員が戦争の被害者であることには間違いないが、あまり死に方にこだわりすぎると、文字通り墓穴を掘ることになりかねない。

我々に限らず、死人を鞭打つような行為は、地球規模で忌み嫌われると思うが、同じような戦死でも、お前は勇敢に戦ったから靖国神社に行ける、お前はまだ弾が残っているのに自決したから千鳥が淵の無名戦士の方に行け、などと実にみょうちくりんな事になりかねない。

それにつけても、俗にA級戦犯と言われた人たちも、実に妙な立場だと思う。

日本が戦争に負けたという点からすれば、一般の日本国民と同じように戦争の犠牲者のうちに入るが、日本と言う井戸の中の視点から見ると、彼らこそ日本の同胞に人的、物的被害、惨禍を強いた人たちであったわけで、被害者ではなく加害者ということになる。

靖国神社に祭られている英霊たちは、一応国のために命をささげた英霊たちであり、明らかに戦争の被害者であったが、彼らは一般国民としての同胞からすれば加害者なわけで、同じにされてはたまらない、という怨恨は当然あると思う。

今、中国が小泉首相の靖国神社参詣に難癖をつけるのは明らかに論理の飛躍であり、難癖のための難癖に他ならない。

日本の首相が靖国神社に参詣に行ったとしても、彼らは先の戦争を賛美するわけでもなければ、同じことをまたしようと考えているわけでもなく、A級戦犯を慕っているわけでもなければ尊敬しているわけでもない。

ただ単に、英霊とともに祭られているだけのことで、その人に対して参拝しているわけでもない。

にもかかわらず、中国がそういう文脈で迫り、日本側がそれに素直に対応するということは、我々の側の説明不足である。

説明不足だからよく説明したら先方は理解してくれるか、と言ったら答えはノーである。

彼らがそういうことを口に出したと言うことは、言外に「金を出せ」というシグナルに過ぎない。

金を出すまで彼らはそれを言い続けるに違いない。

彼らにしてみれば、元手要らずの玉手箱と同じなわけで、先方の言う事を聞けば聞くほど要求はエスカレートしてくるはずである。

彼らも日本の首相が靖国神社に参詣に行こうが行くまいがそんなことはどうでもいい訳で、金さえ引き出せれば、それで目的を果たしたことになるわけである。

此処が中国外交のしたたかなところである。

今ではこの問題が地球規模の広がりを持って、アメリカでさえ日本と中国の意思の疎通の悪さを心配する有様であるが、これもひとえに中国のプロパガンダの成功例としなければならない。

いわゆる中国側の宣伝戦の勝利なわけで、我々はこういう場合における自己弁護、自己宣伝があまりにも下手だと思う。

中国は共産主義の独裁国家なるがゆえに、反対意見というのは完全に封殺できるが、我々の側は、自由主義体制を堅持しようとしているので、反対意見のみならず、日本人でありながら、中国の国益に貢献することさえ許されているので、どうしてもあらゆる宣伝戦で不利な立場におかれていることは確かである。

日本の国内にいて、中国の国益に貢献し、それがアジアの安定につながるなどと思っている人間がいる限り、日本が宣伝戦に勝利するなどということはありえない。

今の我々には、国家の主権という概念さえ失っているわけで、主権が侵害されるといっても、さしあたって食うに困るわけではなく、今の豊かな生活が一気に危機に瀕するわけでもない以上、主権など考えることもないわけである。

国民が不便を託ったならば、それは政府が悪いわけで、政府の首さえ挿げ替えれば、そんな問題はすぐにでも解決できるとでも思っている。

日本の首相の靖国神社参詣に中国が干渉してくる問題でも、中国が嫌がることならばさっさと止めればいい、という発想は此処にあると思う。

中国の言い分は、靖国神社にはA級戦犯が合祀されているので、それに一国の首相が参詣するということは、先の戦争の反省が足りないなどといっているが、こんな馬鹿な話もないはずで、中国にしてみれば、A級戦犯の何であるかも知らずに言っているとしか言いようがない。

A級戦犯が裁かれた時点で、中国、中華人民共和国というのはまだ誕生もしていなかったわけで、そういう事情を勘案すれば、相手から文句の言われる筋合いは全くない。

こういう不見識を先方が持っていることはある程度致し方ない面が有る。

だからその不見識を直すには我々の側に、説明責任が生じてくると思う。

そしてその説明は、中国がそういうこと言ってきた時点で懇切丁寧にこちらの立場を相手だけではなく、全世界に向けて発信しなければならなかったのである。

二国間の外交ルートだけではなく、あらゆるマス・メデイアを総動員して、中国が日本に対してこういうことを言ってきているが、これは斯く斯くしかじかで、中国の言い分は完全なる内政干渉である旨、全世界に向けて発信すべきである。

ところが身内の中の裏切り者がいて、中国の肩を持つような輩がいる限り如何ともしがたい。

 

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