060414001

我々の真の独立

プロパガンダの失敗

 

中国脅威論が姦しく、それに対抗するに核抑止力の議論まで飛び交っているが、その前に我々はすべきことがあると思う。

それは、人として、生きた人間として当然のことをする、ということであるが、このことが我々の場合、過去の歴史に依拠する贖罪意識で、人として当然のことをする前に、遠慮してしまうから先方から舐められているのである。

先方は話し合いに素直に応じる相手でないことは、歴史が証明しているわけで、それに対抗するには当然傾向と対策を調べることが必要なことは言うまでもない。

外交上の傾向と対策は当然相手国によって多種多様であることは論を待たないが、今中国にとって最大の関心というよりも、彼らが最も心配していることは、オリッピックと万博だろうと思う。

これに成功するかどうかで、成功すれば彼らの覇権主義はもっともと露骨になると想像する。

だとすれば、これがこちら側の切り札になるわけで、理不尽な要求をすればこれをボイコットするという態度を示せば、先方も考えざるを得なくなる。

問題は先方の理不尽な要求を2国間の問題としてしまう我々の人の良さ、つまり馬鹿さ加減である。

首相の靖国神社参詣に対する反対表明など、さっさと国連に持ち込んでしまうべきだ。

中国が常任理事国で拒否権を持っていることは承知しているが、拒否権をもっていようといまいと国連という国際会議の場で、中国側の日本に対する理不尽な要求、つまり中国政府が主権国家としての日本の行動に内政干渉している、その実情を大々的に暴露、逆宣伝として利用すべきである。

これは制裁をするための表決を得る内容のものではないので、中国に拒否権が有ろうがなかろうが構わないわけで、日本がその内容を演説するだけで、中国の実態というものが世界的規模で暴かれるという効果を生むものと思う。

他国に内政干渉したのだから制裁を加えるというところまで持っていけたならば、日本の外交としては最高であろうが、日本人というのはそういうど太い神経は持ち合わせたいなものと考える。

特に、戦後の軟弱な外務省では「えびで鯛を釣る」ような手練手管を弄する器量は持ち合わせていないであろう。

話題が飛躍するが、あの太平洋戦争、私の言い方によれば大東亜戦争であるが、あの戦争の我が方の敗因の一つは、我々は兵站、ロジスチックの軽視だった、と私なりに考えている。

この兵站の軽視という思考は、軍関係者のみならず、当時の日本国民の全部が、兵站の意義、意味というものを真剣に考えたことがなかったということだ。

日本がABCD包囲網で、真綿で首を絞められるように物が外国から入ってこなくなったということは、このとき既にロジステイックの問題、兵站の問題が内在していたわけである。

にもかかわらず、我々の側には誰一人そういう風に考えた者がいなくて、「現状打開のためには武力行使もやむなし」と、戦うことばかりに視線が向いていたわけである。

結果的には、アメリカの仕掛けた罠に見事に嵌って、戦後60年経過した今日でも、アメリカの属国的存在でしかないのが我が祖国なわけであるが、この例でもわかるように、我々、日本人というのはグローバルな視点というのが全くない。

地球上の太平洋の東の海に見え隠れしている小さな4つの島の住民という、全く、そのおかれた環境から一歩も出ることのない「井戸の中の蛙」状態のままの思考しかできていないのである。

中国側からすれば、華夷秩序の一番外側の野蛮国という位置付けになるのだが、それに我々自身が自ら進んで甘んじているわけである。

戦前の我々が、ロジステイック・兵站という認識に欠けていたのと同様、21世紀の日本民族も、宣伝戦の意義というものの認識を全く欠いていると思う。

このことは戦前の日本がロジステイック・兵站に関して日本人の誰一人として関心を持たなかったのと同様、戦後の日本では誰一人、宣伝戦・対外プロパガンダ、世界に向けて日本の立場を発信し、自らの立場を擁護し、自らを自己弁護することの意義を認めていないということに他ならない。

戦前の日本も国内的には戦意高揚のプロパガンダを大々的に推し進め、それによる弊害もかなり招いたが、国際的にはプロパガンダを成功させるのが下手であった。

このワールド・ワイドなプロパガンダの失敗が、欧米諸国のジャパン・パッシングを招いたのではないかと思う。

 

宣伝戦にも敗北

 

我々、日本人の昔からの価値観には「能ある鷹は爪を隠す」とか、「男は黙って何とかビール」と言う具合に寡黙であることが美徳とされていた。

しかし、これは世界には通用しないわけで、地球規模で世界の中で生き抜くには、自己PRということが極めて大事であったにもかかわらず、我々はそういうものに対して引っ込み思案でいたから世界から理解されなかったに違いない。

2・26事件のとき、犬飼首相が暴漢に対していったとされる「話せばわかる」という言葉は、日本人の潜在意識として我が同胞には染み渡っていると思う。

犬養首相も、とっさにこの言葉が口から出たに違いなかろうが、我々はこの宇宙のすべてのことは話し合えば分かり合えるという楽観主義に陥っているのではなかろうか。

世界中にこれが通用すると信じて疑わないのが我々の同胞だと思う。

しかし、西洋文化圏に対しては自己の宣伝に努めないことには相手がこちらを認知してくれないわけで、明治維新以降の我々というのは、ものつくりに関しては追いつき追い越せの意気込みでやってきたが、精神の面では何一つ先方のものを模倣しようとせず、むしろ反対向きになって、日本精神とか大和魂などと旧来のものを大事にしてしまったものと考える。

20世紀初頭の世界を、地球の外の宇宙からの視点で睥睨してみれば、日本の勃興というのは、目を見張るように斬新で光り輝いた旭日のように見えたに違いない。

それに反し、アジア大陸、特に中国の地というのは、それこそ野蛮人や未開人の姿のままに写り、文明とは程遠い類人猿並み、土人の因習と低俗な文明しか持ち合わせていないように写っていたものと想像する。

こういう状況を認識した西洋列強は、姿かたちはサルのような東洋人の或る一族が、旭日の勢いて西洋文化圏を圧迫するような力をつけては困るわけで、そこでそれを叩く方向に思考が作用したものと考える。

彼らから見て、西洋文化圏を圧迫するだけではなく、彼らの帝国主義的な植民地支配という国益そのものを圧迫しかねないので、そこに恐怖感を覚えジャパン・パッシングになったのではないかと想像する。

同じアジア人、黄色人種でも、西洋文化圏を席巻する恐れのない、日本人以外の人種、例えば中国人、韓国人、ベトナム人、フイリッピン人にはさほど恐怖感を抱かないが、彼らの文化圏を根底から覆す能力、又その恐れを持っている日本人だけは、叩いておかなければ彼ら自身枕を高くして眠れないという恐怖感に苛まれていたのではなかろうか。

それを具体的に示したのが、まぎれもなくアメリカのルーズベルトであり、イギリスのチャーチルであり、ソビエット連邦共和国のスターリンであったわけである。

20世紀の歴史を俯瞰して眺めてみれば、こういう結論に達するのが当然の帰結ではなかろうか。我々、日本民族というのは、自己弁護ということにあまりよい印象を抱かない。

しかも、この価値観は民族の潜在意識として刷り込まれている。

自己弁護、自分で自分を弁護するということを女々しい行為、男らしくない行為、潔さの対極の行為、自己愛の具現化という風にプラス思考ではなく、マイナス思考として捉える向きがある。

最近、教育界で問題となっているイジメの問題でも、いじめられてる本人はなかなか自分がいじめられていることを認めようとせず、他人、特に両親や先生にもその事実を素直に語らない点にも、それが端的に現れていると思う。

太平洋戦争、大東亜戦争が日本の敗北ということで終了した後、勝った連合軍側が行った極東国際軍事法廷でも、我々の側から当時の、つまり昭和初期の時代に、日本は西洋列強から徹底的にいじめられたから、「窮鼠猫を噛む」式に反逆したのだ、と発言した日本側政策担当者、戦争遂行者(通俗的な戦犯という言葉は使いたくない)が独りもいないではないか。

俗に戦犯といわれていた人たちでも、誰一人自己弁護した人物がいないではないか。

この裁判が結論を出し、刑が施行され、しばらく歳月がたつと、裁いた側から「あの裁判は間違いだった」という声が上がってきたが、すると今度はそれを受入れた我々の側の思考が混乱してしまって、自己愛、自己弁護の方策を見つけれなくなってしまっている。

この点に関し我々の内側の事情を勘案するとすればある程度の理屈は成り立つ。

つまり、我々の同胞に途端の苦しみを強いた当時の我が同胞の為政者を、勝者が間違って裁いたからといって、被害者として蒙った怨念をそう簡単に相殺できるか、彼らが強いた犠牲のことを思えば彼らをそう安易に許し、弁護できるか、という恨みつらみは我が国民にはそうとう根深く沈殿し容易には消し去ることが出来なかったのも事実だと思う。

あの戦争に嵌り込んで行く過程を、歴史の推移から勘案すると、満州国の建国を国際連盟が否認した点にあると思うが、あの場面において我々がもっと上手に立ち回れたならば歴史は大きく変わっていたに違いない。

こういう場面における我が方の対応の不味さが、結果的に我々が奈落の底に転がり落ちた最大の原因ではないかと思う。

あの場面で、具体的には国際連盟における満州国承認の際に、我々が自己弁護ということをもっと上手に処し、我々を取り巻いていた周囲の状況を上手に宣伝し、プロパガンダを流し、自己の正当性をアピールすれば、松岡洋右が粋がって国際連盟を脱退する必要などなかったのではないかと思う。

松岡洋右がいくら粋がったところで、それが国益を損ねてしまっては、実も蓋もないわけだが、我が方の国民は、あの時の彼の立ち居振る舞いを相当買っていたことになる。

あの場面で、我々にとって必要なことは国際的なプロパガンダを世界的規模で流すことであったことは当然である。

アジア大陸、シナ大陸の現実の姿をありのままに世界に知らしめ、日本の立場を弁護し、将来のアジアのあるべき姿に、我々日本が如何に貢献できるかを世界的規模で知らしめるべきであったはずである。

惜しむらくは、こういう宣伝は我々よりもシナのほうが一枚上手なわけで、我々はシナの宣伝戦には戦前から負けっぱなしでいるということに他ならない。

あの時代でも我々は世界に向かって立派なことを発言している。

例えば、我々の先輩はあの時代の国際会議でも人種差別の撤廃とか、ブロック経済の弊害とかを世界に先駆けて説いているが、西洋文化圏の人々、西洋先進国の人々の視点から見れば、そのこと自体が低俗な言葉で表現すれば生意気に聞こえたに違いない。

「黄色人種ごときが何をほざくか!」という感じだと思えば良いと思う。

こういう立派なことを言わずに、泣き言を並べておれば「憂いやつだ!」という同情が得られたかもしれないが、堂々と立派なことを言ったものだから逆に反感を買ったに違いない。

人間の感情などというものはおし並べてこんなものだと思う。

中国との宣伝戦で日本側の受けた大敗北は、言うまでもなく南京大虐殺の風説である。

20世紀の地上戦なのだから敵味方に死傷者の出ることは当然のことで、それも南京という国際都市での出来事であったわけがゆえに、我々は慎重の上にも慎重を期し、国際的に信義の問われるようなことは極力回避しようとして行動したにもかかわらず、先方は、国際都市なるがゆえに、宣伝効果を最大限に利用して、そのすべての現状を日本側の所為に覆い被せることに成功したわけである。

現状の写真、つまり残酷非情な結果を画像で指し示しておいて、それをことごとく日本軍のしたこととして世界的に宣伝することに成功したのである。

ざっくばらんに言えば、嘘で世界を丸め込んだということである。

日本軍がしたとされる写真の画像は、そのことごとくが南京のものではなく、まして日本軍がしたものでもなく、国民政府軍が共匪、盗賊、共産ゲリラを粛清したときの写真であったことがその後の研究で明らかになっているではないか。

しかし、世界はそれによって日本軍のマイナス・イメージを新たに書き換えたわけで、中国側の宣伝戦は大勝利を収めたという結果になっている。

嘘で世界を丸め込むということは、彼らにとってはある意味で必然的なことかもしれない。

というのも、嘘を罪悪と考える民族と、嘘は生活のための方便と考えている民族では、「嘘はいけないことだ」という共通の価値観が存在しないわけで、この両者が同じ土俵に上がっても意味を成さない。

なんとなれば、これでは価値観の衝突さえ起きないので、それを比較検討する意味さえない。

あるのはその嘘を超える傾向と対策を考えるほかないわけだが、お互いに価値観さえ衝突し得ない民族を同じテーブルに就かせるには結局のところ暴力しかないのではなかろうか。

 

敗北主義

 

価値観が根本から違っているので、話し合いでことが解決するということはありえない。

暴力の脅威で、どちらかが言い分を通すほかないわけである。

結果として、自国の人命を大事に考える側が妥協せざるを得ない。

自分の国の人命をなんとも思わない方は、どこまでも強気で攻められるが、自国の人命が損なわれることを憂う立場の方は、不承不承、どこかで相手の言うことに屈服せざるを得ない。

我々の祖国も、戦前は国民の人命が軽く扱われていたため、暴力で以って事を解決すること厭わなかったが、戦後は人命尊重のあまり、屈辱的な屈服を強いられてきているではないか。

現に、第2次世界大戦後のアジア大陸、特にシナ大陸では暴力のみが民衆を統治する手段と化しているではないか。

彼らは暴力でなければ動かないわけで、人としての理性、知性、英知などというものを全く信用していないではないか。

地球が誕生して46億年、人類が誕生して1億5千万年、中国の歴史が4、5千年、日本の歴史が2千年だとして、その間人間の寿命というのは今日21世紀にいたっても百歳まで生きる人は稀で、日本人の平均寿命が延びたといわれてもせいぜい70年である。

つい数年前までは50年といわれていたものだ。

人の命などというものは地球規模の視点から眺めれば一瞬のシャボン玉のようなまことにバブリーなものだと思う。

民族だとか、国家だとか、主権だとかいったところで、それはそのバブリーな人間がお互いの心の中で築き上げた単なるイメージに過ぎないわけで、実態のあるものではない。

万里の長城や、ピラミットや、大阪城や、エンパイヤーステートビルのような形のあるものではない。

個々の人間の脳の中にしかない、架空のイメージに過ぎないわけであるが、政治というのは、そのイメージとイメージの戦いではなかろうか。

統治者は自分のイメージを国民という他者に押し付けているに過ぎないのではなかろうか。

統治者の押し付けるイメージに納得しきれないものは反逆者という烙印を押されて淘汰されるのが過去の人間の政治というものではなかろうか。

統治者が自分の思い描くイメージを、他者、つまり国民に押し付けるに、暴力で以って押し付けるのが人間の行為としては一番単純で、一番手っ取り早い手法だと思う。

民主主義というのは、そのイメージを納得させるのに言葉という媒体を使わなければならないわけで、手法としては一番手間が掛かり、時間が掛かり、統治する側からすれば一番厄介で非能率な手法だと思う。

地球上の離れた場所で、それぞれに環境にあった生き方を選択してきたさまざまな人々は、それぞれ自分たちにあったイメージ、つまり政治としての統治の手法を思い描くのは当然のことである。

その中で、暴力によって人々を自分のイメージに縛りつけようと考える人たちがいてもなんら不思議ではないし、その逆に話し合いで人々を取りまとめていこうとする人々がいたとしてもなんら不思議ではない。

今の世界情勢から見て、アジアで前者の手法をとっているのが中華人民共和国であり、朝鮮人民民主主義国であり、後者の立場を維持しようとしているのが、我が祖国であり、大韓民国であろうと思われる。

この双方のものの考え方の相違を、良し悪し、善悪、正義・不正義という尺度・価値観で測ることは出来ないわけで、それはその国を形成している人々の選択の問題だと思う。

ただし、民主的かそうでないか、というものの見方は成り立つわけで、自分の国の内包する国民にとってどちらが、彼ら自身の立場から見て幸せかどうか、という見方は当然あると思う。

結果的にみて、民主的な手法の国家の方が、その国の国民にとっては幸が多いということは言えていると思う。

此処で問題なのは、どの国も自分たちの体制が一番良いと思っているわけで、その体制を他の国にまで押し付けようとすると、それが覇権主義ということになって、軋轢を生んでしまうことになる。

20世紀においては、ある国の政治が、自分の国の枠内だけでは治まりきれないわけで、これが18世紀までならば自分の国の問題として他国との関係が希薄であったが、今日ではあらゆる事柄が国内問題であると同時に国際問題でもある。

他国との関わり無しで済ませることが出来なくなったところに、今日的な厄介な問題となっているものと考える。

近年、とみに姦しくなってきた中国による日本の首相の靖国神社参詣に対する反対運動というのも、我々の立場からすれば、明らかに内政干渉そのものであるが、これは同時に中国国内の内政問題でもあるわけで、中国国内の不満の捌け口、中国国内の政治的不平不満のガス抜きの面があることは確かだと思う。

先方にしてみれば、自分たちの国はこのように外国、特に日本に対して強い態度で臨んでいるので、相手は震え上がっているぞ、ということを中国国民に指し示し、自分たちの国の優位性を自国民にアピールする必要がある。

これこそ覇権主義そのものである。

アメリカのイラク攻撃も、イラクの民衆に民主主義を指し示すということは、アメリカ国民に対してアメリカ軍はこのように未開な人々に民主主義を教えているのだ、そのことによってテロを撲滅するのだ、という強い立場を指し示す必要があったわけである。

これも同じように覇権主義そのものである。

ところが日本の政治というのは、こういう自分たちの実績をなんら国民に対してアピールする必要がないのである。

というのも、我々の国は自由主義国で、しかも資本主義国と来ているので、情報ははき捨てるほど向こうから入ってきてしまっている。

政府がその後追い報道をするまでもなく、国民は勝手に情報を得て、勝手に判断をし、勝手に走りだしてしまっている。

幸いなことに、戦後の我々は軍事力ないしは暴力でことを解決するということは、国を挙げて反対しているわけで、突き詰めていえば井戸の中で蛙が大騒ぎしている図でしかない。

井戸の中で蛙がいくら大騒動、喧々諤々の議論をしても、全く人畜無害で井戸の外にはなんら影響を及ぼす恐れはない。

こういう我々の議論の中で時々リーダーシップというキーワードが浮上するが、これも実にいい加減な発言だと思う。

会社のような組織ならばリーダーシップというものも多少は必要であろうが、トップがリーダーシップをとってことにあたれば、我々の潜在意識としての話し合いの精神がどこかに飛んでしまうではないか。

政治、外交ということは端的に言えば利益調整ということだと思う。

政治でも、外交でも、当事者同士の利益の公平な負担を模索する手順だと思う。

それには突き詰めた話し合いこそ必要なわけで、トップがリーダーシップを縦横無尽に発揮してどんどん先に進んでしまったならば話し合いの場がそれこそなくなってしまうではないか。

当事者同士の「公平な負担を如何様にするか?」と話し合うことが政治であり外交であるわけで、そこには相手の要求することにどこまで妥協が出来るかという点に尽きると思う。

双方に妥協を受け入れる心のゆとりがないことには決まるものも決まらないことはいうまでもない。

一方的に要求を押し付けるでは話し合う余地がないではないか。

戦後の我々の政治・外交というのは、あの第2次世界大戦、大東亜戦争で我々が敗北したという事実から鑑みて、自分のほうから要求を出すということに非常に臆病になっていると思う。

「熱さに懲りて膾を吹く」という俚諺があるが、戦後の我々は先の大戦に敗北し、極東国際軍事法廷では、「日本はアジアで悪いことをした」と決め付けられてしまったので、それがトラウマとなってしまって、特にアジアに対しては贖罪意識が抜け切れず、遠慮がちになってしまっている。

アメリカに対しては堂々と渡り合っているかといえば、これも究極のところでは妥協を強いられている。

問題は、今の日本がアジアからの要求も呑むことが出来れば、アメリカの要求も一様に呑むことが出来る豊かな国になっているという点にある。

60年前に時計の針を戻してみれば、その当時の日本には全く何もなかったではないか。

「戦い敗れて山河あり」で、我々の祖国はそれこそ何もなかったではないか。

東京、大阪、名古屋、広島、長崎というかっての日本の都市は焼け野原で、食うものもなければ住む家もなく、仕事もなければ、働く場所すらなかったではないか。

そのことから考えれば、アジア、特に中国や韓国から言われたことに従うぐらいはたやすい御用ということも成り立つ。

こういう状況に身をおいてみれば、名誉や誇りなどというものは腹の足しにもならないわけで、そんなものはかなぐり捨ててでも今の飽食の時代が続いてほしいと願う人がいても不思議ではない。

「金持ち喧嘩せず」で通っていけれれば名誉も誇りもいらないと思う人がいても不思議ではない。

ところが、相手はこちらの腹を既に知ってしまって、叩けばいくらでも金が出てくるということを学習してしまった。

そして、どこを叩けばそれが可能か、という点まで見事に学習してしまったわけである。

彼らにとって日本はまるで「打ち出の小槌」で、労せずして金が得られるのである。

此処まで来ると、いくら「金持ち喧嘩せず」でも黙ってはおれないわけで、反撃に転ずるより仕方がない。

この点が非常に危険な部分である。

アメリカ側の言い方による太平洋戦争の直接の原因も、日本が到底飲めない要求を先方が突きつけてきたことによるわけで、それで日本が堪忍袋の緒が切れたという状況で始まっている。

21世紀における中国の日本に対する対応の仕方も、この太平洋戦争のときのアメリカの対応と酷似しているわけで、先方は戦争という武力行使も全く辞さないが、我が方はそういう手段をとりえないのだから、堪忍袋の緒も相当粘り強くがんばるではあろうが、やはり物事には限界というものがある。

ところが、我々は、第2次世界大戦が終わった時点で、完全に戦争放棄して、2度と戦争という暴力の行使はしないと決心して60年という時間を経過している。

しかし、先方は、その間継続して戦争することを前提としてことを進めてきており、人の命などなんとも思わない精神的風土なわけで、戦争がしたくてしたくてたまらないわけである。

我々の方は、何がなんでも戦争を回避しようと、これまた対米戦と全く同じ軌跡を踏襲しようとしているではないか。

先方は、相手つまり日本をなんとかして戦争に引き釣り込もうと虎視眈々としているのに、我々の側は何が何でも戦争を回避しようと、藁をも掴む気持ちでいる図ではなかろうか。

我々は戦後60年間というもの戦争をするという前提でものを考えたことがないものだから、こういう状況に陥ると全く何をしていいのか判らないというのが今日の状況ではなかろうか。

我々の戦後60年にも及ぶ平和思考の中では、戦争で鉄砲の弾を飛び交わすぐらいならば、さっさと降参したらどうか、という安易な敗北主義で満ち満ちているように思う。

 

知識人の使命

 

主権国家、独立国として主権を備えた主権国家の国民が、敗北主義に陥っていては、独立の意味がないと思うが、戦後の我々は、命を失うぐらいならば独立などというものはいらない、という心境だろうと推察する。

こういう発想をすること自体、ものを知らない、ということの端的な例であるが、こういう我々の側の発想というのは、戦後まもなくから日本の知識人、知識階層の中に浸透していたわけで、それが今日形を変えて我々の目の前に展開しているのではないかと思う。

60年前の状況をもう一度瞼に描いてみると、敗戦、終戦で日本の既存の組織は徹底的に破壊された。

GHQ・マッカアサーによって旧来の日本の社会秩序というものは徹底的に破壊されたが、政治システムとしては間接統治として表向きは日本人による政治であった。

あらゆる行政機関も表向きは完全に日本人が管理運営していた。

ところがその中身は完全に占領政策そのものであった。

つまり言い方を変えると、日本人がアメリカ占領政策を実質運営したということである。

問題は、この時点で生き残っていた我が同胞の生き様というか、占領政策に対する対応の仕方である。特に知識階級の身の処し方であった。

戦争中、年端も行かない若者までが戦線に駆り出され、幸いに生きて帰れた人たちは、敵・占領軍を恨むよりも、自分たちを奈落のそこに突き落とした同胞を恨む気持ちが癒えなかったことも、今の私にはなんとなく理解できる。

この時点で、我々の今まで持っていた価値観が音を立てて崩れ、大転換したことは万人が認めるところであろうが、こういうときにこそ高等教育を受けた方々が、その受けた教育の真価を発揮する場ではなかったかと思う。

アメリカの占領政策が約6年続き、昭和28年に独立を回復したとき、当時の東大総長の矢内原忠夫は日本の独立に反対している。

国会では当時の吉田茂から「曲学阿世の輩」と言われているが、此処に戦後の日本の知識人のものの考え方が端的に現れていると思う。

吉田首相が日本人でありながら占領軍の政策遂行に協力せざるを得なかった事情は、あの当時の状況から察して致し方なかったと思うが、その頚城から脱しようと、外圧・この場合は朝鮮戦争を利用して、我々の自主独立を回復しようとしているのに、我々の同胞の中の最高の知識人たち、旧帝国大学の教授連中が、雁首をそろえて「独立はしなくていい」、「このまま占領されておればいい」と言ったのである。

これは明らかにそれまでの軍国主義の締め付けに対する反発であることは論を待たない。

いわば戦時中の反動でもあったわけだが、これではあまりにも日本人として、大和民族の生き残りとして無節操、無貞節ではなかろうか。

東大総長として、個人的に吉田茂が気に食わないと思っていたところで、日本という我々の祖国が、占領軍の占領から脱して独立しようというときに、「ソビエットが賛成してくれなければ嫌やだ」という神経は普通の人間としては理解しがたい。

この時点ではソビエトはまだシベリヤに大勢の日本人を抑留させたままにもかかわらず、そのソビエットの提灯持ちのような東大総長の神経は理解しかねる。

昭和16年から20年までの戦争中も、我々の祖国は未曾有の国難に殉じていたが、戦後だとて敗北という形で戦争中と同じような国難に変わりはなかったはずである。

戦時中は軍部、軍人という人種が日本民族の殺傷与奪を握っていたので目の前で命のやり取りが展開していたが、戦後はそれがなくなった分、今度は知識人が我が民族の殺傷与奪権を握り、知識や知恵という文化の面で、ないしは道徳、倫理、公徳心という面で、大衆というよりも、日本の国民を善導しなければならなかったのではないか。

ところが、戦後、あの大戦を生き残った我が同胞の知識人、大学教授、マス・メデイアの人々というのはいずれも自分の祖国に弓を引く側についてしまったのは一体どういうことなのであろう。

戦争中に軍部から散々痛めつけられた、という恨みが残っていることは素直に理解できる。

ところがそれは個人の問題であって、何時の世にも体制に迎合して、上手に世渡りする人は、職業の貴賎を乗り越えて、何処にでも、どの階層にもいるわけで、それはあくまでも個人的な問題だと思う。

戦前・戦中の日本は軍部の流した「行け行けどんどん」というプロパガンダに踊らされて、若い命がむやみやたらと流されたが、その反動として戦後生き残った知識人たちは、自分たちの政府に抵抗することこそ平和への道だと勘違いしてしまった。

これを裏側の視点から見れば、学者たちが言う我々の政府、与党というのは、占領中もその後独立の後も、政府というものはすべからく戦争への道を進むものという認識にならざるを得ない。

こんな馬鹿な論法はない。

しかし、当時の学者・先生たちはそういう態度で政府に対して反抗していたことを忘れてはならない。

物事を勘違いすることこそ知識人が最も忌むべきことで、勘違いする知識人ならば、その学識経験というのは一体なんであったのかということになる。

あの戦争中でも「八紘一宇」というプロパガンダを大真面目に吹聴した大学教授がいたではないか。

曲学阿世の生きた見本ではないか。

戦後の反体制、反政府を旗印にしていきまいている大学教授も、これと同じで、典型的な曲学阿世の見本である。

つまり、時流に迎合して、人としての本質を見失っているという点で、戦前・戦中も、戦後も、学界というところは何ら変わっていないということである。

無理もない話で、いくら学会とか政界とかいっても、それを構成している中身の人間は金太郎飴のように何処を切り取っても正真正銘の日本人である限り、日本人としての本質が消し去れないのも道理である。

ところが、この日本人の本質というものが戦後60年も経過すると揺らぎ始めているのではないかと思えてくる。

というのは、戦前の日本は実に貧しかった。

昭和初期の日本は実に貧しかった。

ところが戦後も60年も経ってみると、我々はアメリカに次ぐ世界でも1、2位の経済大国になっていることに気が付いた。

すると貧しいときの日本と、豊かになった日本では、物事の発想の段階から違ってきているわけで、貧しいときには民族の誇りと名誉が「武士は食わねど高楊枝」という具合に、やせ我慢が美徳であったが、豊かな日本では「金持ち喧嘩せず」という具合に金で解決できることは金で解決すればよく、命を投げ出してまで名誉や誇りにこだわることはないという発想になってきている。

その上、民主主義の下で、言いたい放題のことが言えるわけで、政府を批判しないものは馬鹿かと思われるぐらい政府自身も名誉と誇りを失ってしまっている。

そこにもって来て、3権分立で裁判所は政府からも行政からも独立しているわけで、司法判断というのは何者も侵すことが出来ない仕組みになっている。

それはそれで大変結構なことであるが、問題は、戦後の民主化の中で裁判官にも共産主義思想のものが多くなったという事例である。

裁判に限らず、戦後の日本では思想・信条の自由が保障されているので、いくら共産主義者であったとしても、それを理由に排除することが出来ない。

それはそれで民主化の成果として認めざるを得ないが、問題は、そういう人たちが日常の業務をその思想下のものの見方に依拠して行ってもらっては非常に困るということである。

裁判官が共産主義に依拠した判決を出したとしたら、それは非常に困るし、学校の先生が共産主義思想を日常の授業の中に取り入れてもらっても困るし、昔のように国労、動労という組合が日常業務の中に共産主義思想を忍び込ませてサボタージュを繰り返すようでは困るわけである。

大学で、思想的に白紙の状態で入学してきた学生に、大学教授が共産主義を吹聴してもらっては困るわけである。

東西冷戦が消滅し、ソビエット連邦というものが消滅して久しいので、共産主義という言葉も陳腐化しつつあるが、日本の戦後復興60年の間には、この言葉ももっともっと精彩を放っていた。

特に、戦後60年の間における教育現場での共産主義の影響というのは計り知れないものがあると思う。

その根っこところには、あの戦争で生き残った知識人、大学教授、マス・メデイアの人々、一般教諭人としての作家たちの影響がことのほか大きく残っていたと思う。

今の日本のこのような有態の基本的な部分には、戦後の価値観の大転換のときの、精神的な断層の影響がそのまま息づいていると思う。

日本が戦争に負けるなどということは、戦前の日本、戦中の日本人には信じられないような未曾有の出来事なわけで、そうならないようにあの戦時中には若い命が沢山散華して行ったわけで、それが結果として日本の敗北ということになってしまった。

この事実は、あの時代を生き抜いた人々、兵隊に行った人も行かなかった人も、とにかくあの時代を生き抜いてきた人たちにとって、何を信じていいのかわからなかったに違いない。

将来の展望というものが全く見えず、結果が敗北ならば、散華していった若い命は犬死にだったのか、という悔悟の念にさいなまれて、生きる希望も気力も一時的に失せるのが当然だと思う。

こういう時代状況の中で、毅然と指針を示すべき立場の人々は、高い教養と知性を持ったインテリゲンチャ、つまり大学の教授というような学問に裏打ちされて精神の強靭さもった人々でなければならなかったと思う。

そういう人たちが、戦後生き残った人々の心の支えとなって、迷える子羊たちに目標と希望を与え、荒んだ国民の精神を後ろ支えし、打ちひしがれた国民、庶民に精神の気高さを説き、希望を失うことなく前に進むことを鼓舞しなければならなかった。

それこそ最高学府で学問を研鑽した人の使命であり、知識人の使命であり、教養と知性を遺憾なく発揮できる場であったはずである。

ところが現実の大学の教授、あの戦争に生き残った大学教授というのは、その前の時代に軍部に押さえ込まれていた分、過去の日本政府に対する恨みつらみから、自分たちの擬似政府、つまりアメリカの占領政策を施行している我が同胞の政府に対して反抗することばかりをしていたわけである。

国民には、共産主義というばら色の希望と夢を与えるような振りをして、世界革命の片棒を担ごうとしていたのである。

結局、日本の大学の学問というのは戦前、戦後を通じて、日本の国、政府、国民に対して、何一つ貢献していないではないか。

戦前の帝国大学が戦後国立大学に変わったとしても、そこで若い日本人に教養、知性、学問を教えるべき人々は、日本国という全体のためには何一つ貢献していないではないか。

象牙の塔に閉じこもって、研究一筋といえば聞こえはいいが、結局のところ、納税者が納めた税金を食いながら、自分の趣味、研究という名の趣味に没頭していただけではないか。

大学の学問が国民の全体に奉仕すべきものであるとするならば、戦前においても戦後においても何らかの形で大学の社会的貢献というものが目に見える形で納税者の前に現出して当然ではなかろうか。

戦前は軍国主義に迎合し、戦後はマルクス主義一辺倒に傾倒してしまって、自分の祖国に弓を引く人間ばかりを養成していたとなると、大学の意義、大学の使命、高等教育の目的、最高学府としての知性・理性というのは一体どうなっているのか、と問い直さなければならない。

日本の大学は戦前・戦後を通じて最高学府としての意義を全く発揮していないではないか。

戦前の日本で、世の中の傾向がだんだん右傾しかかって来たとき、それに警告を与え、近未来の予測をし、正しき道を提示するのが学問の府としての使命ではないかと思う。

 

平和ボケの功罪

 

こういう問いかけをすると、当然、こういう反論が起きてくる。

「当時は治安維持法があって、そう安易にものが言えない時代であった、だから何とも致し方なかった」というものである。冗談ではない。

こんな子供の言い訳のような反論をしているから、戦前の日本に軍国主義がはびこったのである。暴力には知性と理性と知恵で堂々と立ち向かうべきであって、そのために象牙の党の中で長年も研鑽を極めていたのではなかったのか。

そういう時にこそ、そういう時代ならばこそ、長年培ってきた学問という武器で、軍部に対抗すべきであって、軍部の言うことに何の抵抗も示さず迎合するでは、児戯にも等しいわけで最高学府の意味がないではないか。

これは戦後60年以上を経過した今日では傾向が逆転している。ベクトルが反転している。

今の大学では為政者に積極的に肩を持つことは大学人として、教養人として沽券にかかわるという認識に浸っているのではないかと思う。

その結果として、教養、知性の高い人ほど政府に対して批判的な態度を示す。

それはある面で致し方ない点があることは承知している。

政府というのはある種の政治家のみが形作っているが、この政治家というのは、何の資格審査も必要ないわけで、被参政権さえあれば何処の馬の骨でもなれるわけである。

一種の人気投票で選出されればそれだけが関門となっている。

個人的な資質という点からしても、一般教養という点からしても、大学人のほうが数段上なわけで、彼ら大学人から政治家を見れば、馬鹿に見えるのは至極当然なことだと思う。

だから、その政治家の言うこと成すことすべてが陳腐で馬鹿らしく写るのも当然だとは思う。

しかし、何時の世においても、日本という国の舵取りは、この政治家といわれる人々が行っているわけで、大学人がいくら正論を説いても、政治家が聞く耳を持たないというのも、何時の世でも、何処の国でも同じだと思う。

問題は、日本が独立をするかしないかという選択を迫られたときに、「独立をする必要がない」という発言する大学人の存在である。

それに関連して、今の日本国憲法を改正するかどうかという問題提起に対して、「今の憲法は平和憲法だから、改正する必要がない」と発言する大学人の思考である。

大学人がこういう思考に陥っているということは実に由々しき問題だと思う。

独立云々の問題は、もう少し正確に言えば、「全面講和でなければならない」というわけで、「ソビエットや中国をも含む世界のすべての国々に承認されなければ独立しても意味がないから反対だ」という趣旨であったが、これはあくまでも理想論であって、国民の命を預かっている政治家からすれば、そんな奇麗事は言っておれないわけである。

現実問題として、かっての敵に占領されて、国民の打ちひしがれた精神状況を見るにつけ、一刻も早く自主独立を目指し、国民のやる気と勇気を引き出さねばならない、という切実な問題に直面していたわけである。

象牙の塔に閉じこもっている学者諸氏にすれば、国民が如何様に苦しんでいても、それは政治家の責任であって大学の関与する問題ではないはずで、自分たちは趣味の研究さえしていれば済むことなわけである。無責任極まりない。

政治家と学者では現実を見る視点が違っているわけで、霞を食っても生きていける学者と、巷には浮浪者がうようよ徘徊している現実の社会を直視しなければならない政治家では、もの見方が違うのも当然のことである。

憲法の改正に関しても、あの憲法をアメリカの押し付けではない、とする思考は一体何処から出てくるのかといわなければならない。

ものの見方というのは、それこそ10人10色であるとは思うので、ある一つのことに対して如何様にも読み取れるということは言えるが、敗戦直後の占領下で、GHQがわずか1週間で作った憲法を、日本の学者といわれる人たちは何ゆえに押し付け憲法ではないというのであろう。

確かに平和の理念が盛り込まれていることは明白であるが、だから我々は戦後60年間戦争に巻き込まれなかったわけではない、ということが日本の戦後の学者にはどうしてわからないのであろう。

この学者、大学教授という人種、霞を食って生きているような人たちには、人としての普通の常識、日本人という枠をはずした人間としての論理や倫理がどうして通用しないのであろう。

学問というのは、どうしてこういう自己撞着を作り出すのであろう。

日米安保条約を結ぶとどうして日本が戦争に巻きこまれるのであろう。

そう言って安保闘争で赤旗を振り回した学生や大学教授たちは、今どのように懺悔をしているのであろう。

戦後の日本の復興に貢献した人々というのは、突き詰めれば、あの戦争に生き残った人たちであったことは言うまでもない。

彼らの仲間、友達、同僚、親戚縁者の数々は、戦場に散った人も多かったに違いない。

しかし、そういう試練にもかかわらず、その試練に打ち勝って、生き残った人々が戦後の日本の復興に尽力したからこそ今日があるものと考える。

そして戦後復興の基底にあるのは物つくりの精神である。

戦後の焼け野原のトタン葺きの掘っ立て小屋からアメリカ向けのブリキの玩具が出来上がって、それが外貨を稼ぎ、それが大きく成長し今日にまでなっているのである。

戦後、復員して都会の焼け野原に立って見れば、目の前の眺望に愕然とし、この無から何か形あるものを作り出さねば我々の将来はありえない、何かを作らねばならない、作ればきっと売れるに違いない、というわけでアメリカ軍の捨てたごみの中から使えるものは使い、使えそうもないものは創意と工夫で何がしかの付加価値を得るよう加工することから戦後の復興は始まったのである。

ところがこういう状況下で、左翼の人々は、戦中は鉄筋コンクリートの要塞のような日本で一番安全な場所に隔離され、衣食住完備で三食昼寝尽きの極楽に起居していたのである。

同じ日本人でも、南方の戦線に駆り出された同胞は、屍が累々と折り重なっている地で死闘を繰り返し、沖縄も全く同様な状況にあったにもかかわらず、左翼の人々、共産主義者たちは、こういう高待遇の中で生きながらえていたのである。

戦後、牢獄から解放された左翼系の人々は、日本政府が悪いから我々は理由もなく弾圧、抑圧されたのだと声高に叫んでいるが、冗談ではない。

南方の戦線で泥水をすすりながら戦うよりは、左翼でも右翼でも何でもいいから、牢屋の中にいたほうがどれだけよかったか知れない。と、どちらも体験していない戦後派の私は思う。

戦後の我々は、先の戦争があまりにも我々の運命に過酷な試練を与えたので、戦争という言葉そのものに極めて敏感なアレルギー反応を起こすようになってしまった。

そしてそのアレルギーを引きづったまま60年間というものを過ごしてきたので、戦争というものの実態を全く知ることなく生きてしまった。

戦争という言葉は、銃でもって撃ち合い、すなわち殺し合いをして、沢山敵を殺したほうが勝ちを占める、という単純はイメージしか持ちえず、それ以外のイメージを完全に封殺してしまっている。

アメリカと安保条約を結ぶと戦争に巻き込まれるという発想など、まるで児戯に等しい思考ではないか。

だから戦後の日本人というのは、戦争というものは好戦的な人間が趣味で行っているというような全く荒唐無稽な思考でもって、反戦平和を説いているが、こういう無知ほど恐ろしいものもまたとない。

だから、銃器による応酬さえなければ、それは平和的な手段だと勘違いしているので、中国が日本に内政干渉してきても、先方の意に沿うように行動せよ、と馬鹿なことを言っているわけである。

銃弾さえ飛び交わなければそれは平和だと思うこの浅はかさを戦後の日本では誰一人不思議と思っていない。

湾岸戦争のとき、わざわざイラクに出向いて拘束され、周囲に多大な迷惑をかけた馬鹿がいたが、こういうセンスは戦後の日本の大部分にあると思う。

戦後60年の明らかなる平和ボケの顕著な例であるが、この平和ボケというのは笑って済ませるほどイージーなことではないと思う。

独立国の主権国家の国民として非常に由々しき問題のはずであるが、我々にはそういう感覚がまるでない。

わざわざ自分の意思で危険なイラクに行って、拘束されれば政府が何とかせよ、という言い草はあきれて物が言えないが、この馬鹿さ加減がわからないのが今日の我々の同胞である。

 

現実との乖離

 

戦後の日本人の精神的屈折は当然のこと1945年、昭和20年8月15日の終戦、敗戦に起因していることは論を待たないが、この点を深く振り下げて考える学者が出てこないということは一体どういうことなのであろう。

前にも述べたように、この時点で日本の青年、壮年の人たちが全部死に絶えたわけではない。

地球規模に広がった前線から無事復員し、修羅場のあの戦場から帰り、学徒動員から開放されて、内地での教育中に終戦を迎えた若者も大勢いたはずである。

戦後の日本の復興は、そういう方々によってなされたとは既に述べたことであるが、その過程で、こういう方々の頭の中の思考が、戦前・戦中とは全く逆のベクトルを持っに至ったという点が実に不思議でもあり、日和見でもあり、不節操でもあり、その深層心理を解き明かそうと考えた人が日本人の中には一人もいないのではなかろうか。

私の勝手な想像では、戦いが終わって復員して、あの焼け野原に立ったとき、今まで教わってきたことが見事に裏切られ、完璧に騙され、虚無の状態になったことは理解できる。

そこで、それまで自分自身を奮い立たせていた魂を失ってしまった、ということもある程度は理解できる。

だとしたら、そういう状況下に希望の光を投げかけるのは、やはり生き残った知識人階級でなければならなかったのではなかろうか。

現実の歴史の流れとして、治安維持法が廃止され、牢獄につながれていた左翼系の人々が解放されると、すぐに「米よこせ!」というプラカードを掲げた大衆行動というか、共産主義に主導されてデモが起きているわけで、戦中はあのデモに参加していた人たちは、男も女もすべて地下にもぐっていたということであろうか。

戦時中にもあれだけの共産主義者たちが地下に潜っていたということであろうか。

それがビンの蓋が開いたので一斉に日の目を見るところに出てきたということであろうか。

我々は戦前・戦中は心の底から鬼畜米英、忠君愛国、軍国の母、滅私奉公というスローガンを信じて疑わなかった。

それが戦争に負けたトタン、一夜にして「マッカアサー元帥様」という言い方に変わっているわけで、これはいったいどういうことなのであろう。

ついこの前までは敵の御大将であったものが、一夜明ければ天皇陛下を差し置いて元帥様といわれているのである。

これはある意味で、現実の国民大衆の側からの希求とすれば当然のことであったかもしれない。戦前・戦中の我々の日本国政府というのは、自国民に対して苦難ばかりを要求し、滅私奉公を要求するのみで、何一つその見返りというものがなかったわけである。

その点、マッカアサーは戦後の何もない日本に対してさまざまな救援物資を送り込んでくれたわけで、我々の庶民としては、かっての自分の政府よりも、敵の大将のほうが頼りがいがあったことも事実だと思う。

昭和初期の日本政府というのは、国民に対して、目に見える形で施政をしたようには見えない。

国民に対しては戦争遂行のために苦役を課し、金品財宝を供出させ、使役を強要し、教育は途中で打ち切り、都会で延焼を防ぐため民家を壊し、国民の幸福追求という生きる目的を根本から否定する施策をしていたことになる。

当然、教育関係者もマス・メデイアの人々も、同じように目に見える形で戦争協力を迫られていたわけで、こういう世の中、こういう時代を生き残った人々が、長いトンネルを潜り抜けた暁には、その反動として自分の政府を信じないというのも理屈としては理解できる。

しかし、ここでもう一歩踏み込んで考えてみれば、それでは当時の知識人やメデイアに携わっていた人々も、一般庶民と何ら変わるところがないわけで、彼らのみに備わった高等教育、学識経験、切磋琢磨した実績というものは一体どうなったのかといわなければならない。

戦前・戦中を通して、大学という学問の府で、共産主義というものを学問として研究する分にはそれはそれで整合性があると思う。

ところが戦後はその研究が実践の場に登場してきてしまって、戦中に学問の府で皇国史観が普遍化したように、戦後はその皇国史観に変わって共産主義の実践が普遍化してしまった。

そして、共産主義というものはその根本のところに旧秩序の破壊ということが大前提として息ついているわけで、革命をするためにはまず旧秩序を壊さなければならないという理屈からすれば、それは当然の帰結である。

ところが、このこと自体がマッカアサーの押し進めようとしていた占領政策と見事に軌跡が一致していたわけである。

だから占領軍総司令官としてのマッカアサーの施策は、実質、共産主義革命と同じものであったことになる。

しかるにマッカアサーは実に巧妙にそれを演じたので、我々はそれが共産主義革命などとは思っても見なかった。

既に、この時点では、東西の冷戦は幕を上げていたが、我々は何処までいっても政治的には3流の国なわけで、マッカアサーは自分で軍政を引くことなく、日本人を使って間接統治をしたものだから、表面上は日本人が自らこの共産主義革命をしたように見えたのである。

しかもそれは巧妙にカモフラージュされており、GHQの占領政策という名目でなされたので、日本国民の誰一人それが共産主義革命であったことに気が付かなかった。

戦中に牢獄につながれていた日本共産党の面々にとっては、マッカアサーが救命主のように見えたに違いないが、彼らは彼らでその考えることが浅薄であったので、増徴しすぎて又弾圧を受けるという仕儀にいたったのである。

右にしろ、左にしろ、我々はすぐに増徴するという傾向は日本人の潜在意識の中の潜んでいるのかもしれない。

高度経済成長の最中でも、ちょっと景気がいいからといってアメリカのコロンビア映画や、ロックフェラービルを買収するなどという行為は、思い上がりもはなはだしい。

同じく、中小企業のオッサンが従業員を引き連れ、農協が農家のオッサンを引き連れて海外旅行に繰り出すなどという行為は、思い上がり、増徴そのものではないか。

バブルがはじければその反動が来ることはいうまでもない。

私が問題提起したいのは、戦後の初期、占領中から日本が復興する前の段階で、日本の学識経験者というのはどんな役割を演じたかということである。

確かに現実の政治そのものは政治家が舵取りをしていたには違いないが、あの戦争に生き残った学識経験者、いわゆる学者とか大学教授というような人々は、この戦後政治、占領政策にどのような影響力を指し示したかということである。

治安維持法が撤廃されたので、共産主義に関する研究もおおぴらに出来るようになったことは言うまでもないが、するとそれは研究の域を脱してしまって、その主義の実践にまで踏み込んでしまったのではないかと思う。

これは大学の使命、特に国立大学のあり方として由々しき問題といわなければならないが、その当時大学に在籍していた学者たちでそのことに気を配った人がいたであろうか。

問題は、この時期における共産主義者たちのいかにも狡猾そうに見えるが、その実浅薄な立ち回りである。

彼らは彼らで、自分たちでは何一つアイデアを出すこともなく、自らの意思で行動するということもなかった。

すべての行動がコミンテルンの指令を受けて、その指令の通りに動いていたわけで、いわば全くのロボットに過ぎなかった。

日本共産党員が自分たちで考え、自分たちで判断し、自主的に行動したわけではなかったということである。

アメリカ占領軍は、日本で共産主義革命を実践したが、それはソビエットのコミンテルンの指令とは何の関連もないので、日本共産党員の行動は現実の政治から浮き上がってしまったのである。この乖離が理解できなかったのが当時の日本共産党員であったわけで、結局、この浮き上がった分が又弾圧という形で共産党員に跳ね返ってきたわけである。

 

数々の不合理

 

我々の国は、昔も今も太平洋の東に浮かぶ小さな4つの島という地理的条件、地勢的条件はなんびとも如何ともしがたいわけで、それがゆえに我々は常に四周の状況に左右されながら生きてきたわけである。

日中戦争から太平洋戦争に至る行程とその原因も、日本を取り巻く周囲の状況によって、そういう道に嵌り込んだわけであるが、このとき我々の民族としての先見性のなさが、こういう状況を作り出したと考えざるをえない。

戦前の日本の政府から軍部の人々、はたまた戦後の共産党員のすべてが、周囲の状況に全く無頓着であったということである。

自分たちの周囲の存在、周りの状況が、こう出れば相手はこう動くであろう、我々がこう動けがきっと相手はこう対応するであろうという、という予測を掴むことが全く下手であったということだ。

近未来の予測ということになれば、それを日夜研究しているのは本来ならば象牙の塔に閉じこもった学者諸氏でなければならない。

戦前、戦後を通じて日本の大学の側からこういう警鐘が鳴らされてことがあったであろうか。

戦後の安保闘争では大学の先生方はすべからく反体制側につき、結果として政治家の判断が間違っていなくて、学者の唱えた安保条約を結べば戦争に巻き込まれるという予測は完全に間違っていたではないか。

これでは学者とか知識人というのは一体何をしていたのかといわざるを得ないではないか。

我々、日本という国は、太平洋に浮かぶ小さな4つの島の住民なるがゆえに、常に外部の影響に左右され続けているわけで、それは太平洋の向こう側から来る影響もあれば、東シナ海から来る影響もあり、又北の朝鮮半島からの影響もあるわけで、我々は常に相手、先方、外国の動向に細心の注意を払っていなければならないということである。

基本的には全方位外交が一番ベターなことは言うまでもないが、東西冷戦の最中にそんな虫のいい話はありえないわけで、好むと好まざるとアメリカの核の傘に逃げ込む以外に生きる道はなかったのである。

今日でも知識人の中には日本の真の独立、完全なる自尊自立した主権国家、アメリカとの隷属関係を断ち切った真の独立を、という声があるが、冗談ではない。

そのような絵に描いたもちを望むということは、あまりにも無知に等しいと思う。

真の独立などという言葉は実に美しいが、そのためには如何に軍事費が必要かということを考えたことがあるであろうか。

スイスの例を見てもわかるように、スイスは日本の平和主義者にとっては理想的に写っているようだが、冗談ではない。あの国は国民皆兵である。

女も子供も一般成人男子はもとより、国民の全員が兵役の義務を背負って、各家庭には国家から支給された銃が保管されており、その銃も常に更新されているのである。

国防のためには、国を守り抜くためには、金も人も膨大なエネルギーを注ぎ込んでいるのである。そういう努力の結果を周囲の国々が理解しているから永世中立国として認められているのである。憲法で戦争放棄しておきながら、隣の朝鮮で戦争が始まると手のひらを返したように再軍備に走り、その自衛隊はアジアで最も強力な武装集団であるにもかかわらず、軍隊ではないなどと詭弁を弄しているヤワな国とは雲泥の差である。

もっとも再軍備は日本が自ら望んだものではないことは言うまでもないが、はたから強いられて、それに追従しなければならなかった当時の日本は実に哀れな存在だったということはいえる。我々は戦争に負けたからこういう哀れな状況を強いられたのだから、50年後100年後にはそれを見返してやらなければならない、という強い復讐の気持ち、怨念を抱くのが普通の人間ではなかろうか。

復讐のことはさておき、問題は、こういう不合理、憲法における戦争放棄、戦争放棄をうたいながら軍隊を持つ不合理、60年前に占領軍に押し付けられた憲法を後生大事に抱え込んでいる不合理、国際貢献に自衛隊を軍隊として出してはならないという不合理、こういう戦後60年間にたまりにたまった不合理の数々を日本の知識人たちが一向に解消しようという声を出さないことである。

こういう不合理の一つでも解消しようと行動を起こすと、真っ先に反対ののろしを上げるのが日本の知識人であり、日本のマス・メデイアであり、「それは右傾化に進むものだ」という論調で、不合理を不合理のままで温存するほうに贔屓する、日本の知識人をどう考えたらいいのであろう。

不合理をそのままにしておいても我々がすぐに死ぬわけでもなく、生活が一気に窮乏するものではないとはいうものの、それでは真の人間としての尊厳もないわけで、人が人たるにはそういう不合理を一刻も早く是正してこそ極普通の人間ということではなかろうか。

 

Minesanの辛口評論に戻る