証券スキャンダルで思うこと
日本人の特性
一連の証券不祥事や銀行の不正融資の事件を見ていると、日本人の本質が見えてくるような気がする。
企業戦士という言葉があるが、50年前、日本が中国や東南アジアに進出していったのと同じ精神的体質というか、50年前にしたことも、当時は当時なりの論理がそこには存在していた筈である。
それと同じで今回の一連の不祥事においても、それなりの論理があると思う。
言葉で表現すれば収益偏重という表現で弁解されているが、そういう表現というのは結果から見た反省から出た言葉であって、経済戦争にのめり込んでいる時にはそんな表現はありえない訳である。
行け、行け、の進軍ラッパを高らかにならせていたに違いない。
50年前においても日本は発展を願いつつ、結果的には破滅に向って、中国や東南アジアに進出したわけである。
こういう結果を願っていたわけではなかろうが、その過程にはいろんな理由付けがなされたろうけれども、結果はご覧のとおりの終戦、敗戦というものであった。
今回の一連の不祥事もこういう結果を出すために行なわれたわけではなく、その本心は企業の業績アップをするための行為であったに違いない。
ただ結果として悪い面が暴露されただけのことでいわば敗戦。
証券業界、金融業界の敗戦ということである。
こうして、ある種のム−ドに乗ってしまうと善悪が分からなくなってしまうというのは日本人の特性ではないかと思う。
各民族には本人達も知らない、気が付かない民族の性格というものがあるのかもしれない。民族学者ではないので詳しくは分からないが、やはり、日本人には日本人としての民族としての本質、特性というものが存在するのではないかと思う。
先の太平洋戦争においても、今回の経済戦争においても、通常の常識をはみ出したところにその原因がある。
当事者は行きすぎであることが分かっていながら、段々のめり込んでいった所に、その主な原因がある。
理性で考えれば誰でも悪いということが分かっていながら、誰もそれを阻止できなかったところに、日本人の本質として共通の物があると思う。
そういう本質がどうして出来上がったのかという背景を考えてみると、昔で言えば軍隊、今で言えば経済界、実業界というのはその時代では最高に人気のある職域である。
これは以前述べたことと重複するが、昔の軍隊という組織はその時代の一番優秀な人材が集合した職域である。
学制の違いというものがあるとしても、昔の中学で一番、二番の学生、生徒で5体満足であれば陸軍なり、海軍なりに志願したわけである。
学校のトップでありながら学者になろうとか、家業を継ぐなどということは変り者と見なされていた。
そういうム−ドが世の中全体を支配していた。
その状況と同じ事が今は経済界、実業界で起きている。
大学で工学部の人間までが金融や商社への就職を希望する時代である。
よって、昔の軍隊、今の経済界というのは日本の一番優秀な頭脳が集まっている集団である。この時の、世の中のム−ドというものが、日本社会の特質であると思う。
この世の中のム−ドにより、その時代の優秀な若者が軍隊にあこがれたり、経済界にあこがれたりするわけである。
日本の優秀な若者はその時々のム−ドにより、その時代の一番花形の職業に就くという、一種の自主性の無さ、これが日本人社会の特質かもしれない。
時流に乗るということ
その時々のム−ドに、日本の優秀な若者が右往左往するという自主性の無さを言うまえに、その時々のム−ドがどうして出来上がるのかということを解明することが、先決だと思う。が、このム−ドの形成ということにはマス・コミニュケイションが大きく関わり合っているのではないかと思う。
50年前に優秀な若者が軍部にあこがれた時代のマスコミは、新聞、雑誌という活字による媒体であり、ラジオが有ったといってもまだ数が少なく、今のテレビの普及程には及ばなかったのではないかと思う。
けれどもその少ない媒体によって、元々が優秀な若者達であるので、敏感に時の流れを感知していたに違いない。
又、50年前と言うことを考えれば学校教育の影響も大きかったのではないかと思う。
学校の先生といえばインテリゲンチャの端くれである。
世の中の流れというものを敏感に感じており、当時の世相というものを考慮に入れれば、富国強兵に協調せざるを得ず、それを優秀な生徒に鼓舞したに違いない。
それと同じ事が今の日本、それから50年経った今でも続いていると見なければならない。今の日本は50年前に較べればマス・コミニュケイションの手段も方法も実に多様化しているとはいえ、優秀な若者が世代に敏感であるということには変わりはない。
昔も今もすぐれた若者は世の中のトレンドには敏感である。そして、そこに憧れる。
若者がトレンドに憧れることに昔も今も変わりが無いとすると、このトレンドというものが日本の先行きに大きく影響するといわなければならない。
50年前なら富国強兵がトレンドであり、今は経済成長がトレンドである。
このトレンドを形成するのはマスコミであろうと思う。
マスコミが若者を富国強兵という帝国主義思想に走らせ、経済戦争のなかで収益至上主義に走らせるわけである。
このマスコミに踊らされる優秀な若者が悪いのか、優秀な若者をトレンドに走らせるマスコミが悪いのか、定かでないが、ここに大きな落し穴がある。
今まで優秀な若者という言い方をしてきたが、この優秀ということがどういうことかと、一歩下がった視点から世に中を眺めてみる必要がある。
私の今迄の見方というのは、学校で一番、二番の成績を取った者を「優秀な」という表現をしてきたが、これがなかなかの曲者である。
果たして本当に優秀であったかどうか?ということである。
確かに歴史的事実として、学校で一、二番の成績を取っていたもの、今の大学で優秀な成績を取ったものが、世の中のトレンドに流れたことは否定できないけれども、その人達が本当に優秀であったかどうかということは、今一度考え直してみる必要がある。
学校の成績が優秀であったことは事実であろうが、それは学校という土壌において、学業という範囲において優れていたという事は事実であろう。
けれども、学校の中と実社会では完全に別々の社会である。
学校という社会はある秩序の中での競争である。
けれども一般社会には秩序の幅が非常に広いし、又、学校の成績というのは教えられたことをどれだけ記憶として残っているかという評価である。
ところが一般社会では評価の物差しが全く別である。
だから、学校の成績の良い者ばかりを集めた集団、昔の軍隊、今の経済界というのは本当に優秀な人間を集めていたのかという疑問が私自身に起こってきた。
果たして本当に頭脳明晰で優秀な人材だっただろうか?そういう疑問が沸いてきた。
世の中というのは不思議なもので、学校の成績が優秀な者が、皆が皆、立身出世しているとは限らない。
大企業の社長というのは若い時、学校の成績が良かったかというと、案外そうでもないケ−スが多い。
そうすると優秀な若者がトレンドに流れたという、私の個人的な見解も再検討を要する。
逆に言えば本当に優秀でなかったから日本をミス・リ−ドしたと言えるのかもしれない。
しかし、昔の軍隊でも、今の経済界でも、学校時代に優秀な人々がリ−ドしていたことに変わりはない。
となると、そういう人々の特質を解明しなければならないことになるが、学校の成績というのは教えられたことを記憶しているかどうかという評価であり、ただこの一点だけが成績を決める。
つまり、記憶力の良い人間が勝つということである。
記憶力が良くて従順な者が学校では良い成績が取れ、そういう人々が軍隊に流れ、経済界に流れたわけである。
こうなってくると日本をミス・リ−ドした理由に近付いてくる。
この記憶力が良くて従順であるというところが曲者である。
特に従順というところが曲者である。
この従順さが時流に逆らうことを拒んだに違いない。拒まざるを得なかったに違いない。
主流に対して反抗する勇気が無かったに違いない。
だから、物言わぬ羊の群れのように黙々と従順に時流に流されたに違いない。
時流に逆らうということは非常に勇気の要る事である。
又、一人や、二人で時流に逆らったところで、時流が変わるものでもない。
群れの行動
少し前、「赤信号 皆で渡れば 恐くない」というざれうたが流行ったことがある。
50年前の日本の暴走も、今回の経済界の不祥事も完全にこの言葉の通りである。
日本人の深層心理の中にこの言葉通りの心理が潜在的に潜んでいる。
悪いと分かっていても人がやるなら自分も付いていかなければ、という他力本願的な態度で、責任は連帯責任ということになる。
赤信号を皆で渡る時に、「赤信号だから駄目だ、信号が変わるまで待て」と言う人がいない。一人だけが勇気を降り絞ってそれを言えば、水臭いとか、融通が利かないと言う烙印を押されてしまう。
だから内心はこれはいけないと分かっていても、ついつい人の後くっついて行ってしまうというのが日本人の特性ではないかと思う。
50年前の日本が中国や東南アジアに進出した時も、今回の経済界の一連の不祥事も、全てこれであろうと想像する。
前にも述べたように学校で優秀な成績を治めた連中ばかりの集団である。
事の善し悪しが分からないはずはない。
分かっていながら止められないという所が日本人の体質なのかもしれない。
この分かっていても止められないという日本人の特質は一体何処から来ているのだろうか?日本人に民主主義が充分行き渡っていないのだろうか?
それとも他の理由によるものだろうか?
以前から、新聞報道によると日本人が海外で嫌われる要因に、日本人は群がって行動し、団体となると傍若無人に振る舞うといって顰蹙を買っていると、度々言われている。
これも全く日本人の深層心理をモロに表現している事例であるが、日本人の行動のパタ−ンとして、日本人には潜在的に、なおかつ遺伝子的に組み込まれた要因だとすれば、これは21世紀になっても、我々、日本人はその引け目を背負って生きていかなければならない。
私、個人の見解では遺伝子的な要因ではなく、教育の無さからくる無知の為せる業だと思う。前にも述べたように、学校の成績と社会通念上の教養とは別の物で、日本人の中にはこの教養ということを評価しない人間というのが多々ある。
学校の成績というのは過大に評価するが、教養というのを全く評価しない人間というのが多数いる。
企業のトップでも教養の無い人というのは多数いる。
であるから、海外に出掛ける人達の中でも教養の無い人間というのがいても、何ら不思議ではない。
学校の成績と教養とは別の物であるということが一般大衆には行き渡っていない。
昔のように海外に出掛ける人が極限られた人間であるうちは、世界の方から見ても、日本人の悪業は事例が少なく、我々の耳にも入ってこなかったろうけれど、年間1千万人もの日本人が海外に出掛ける時代になると、日本人の素顔が海外で暴露されても致し方ない。
この素顔そのものが日本人の特質であることに変わりが無い。
何故日本人は群れたがるのであろうか。
これもよく言われていることであるが「とかくメダカは群れたがる」という言葉がある。
メガカとかイワシという体の小さな魚は群れとして一塊りになっていることにより、外敵から逃れ、外敵から攻撃された時の被害を分散しようという習性がある。
日本人の群れたがる深層心理にもこれと同じ物があるのかもしれない。
群れとなって行動することにより外敵から攻撃される事を防止するというか、仲間が一緒にいる事による安心感に浸っているのかもしれない。
そういう人がいる反面、一人で世界を飛び回って活躍する人もいるわけで、一般的に言えば、この事は日本人全体の特性ではなく個人の問題であろうと思う。
要するに自分に自信の無い人間は群れで行動し、そうでない人は単独で行動しているわけである。
所詮、個人の心の持ち方、生き方の問題である。
これは海外にいく人ばかりでなく、日本の国内においても同じ行動パタ−ンは存在する訳である。
同じメンバ−でゴルフやマ−ジャンをする人、全くそういう団体行動を取らない人と、それぞれ個人によって行動のパタ−ンは違っているわけであって、日本人全体を云々する問題ではない。
けれども、学校の成績が優秀で、昔、軍隊、今、経済界に身を置くような人は、ほとんどが群れで行動するパタ−ンが多い。
群れで行動するパタ−ン、及びその思考のもとにはトレンドに敏感であり、時流に上手に乗ると言ってもいいかもしれない、単独行動を好む人は時流など関係なく、我儘一杯に生きぬく力を持っている。
群れで行動する人は時流を上手に捕まえる。
こういう群れ行動が生まれてくる背景はやはり、個人の問題として自信の無さがこういう行動パタ−ンに陥る原因ではないかと思う。
時流に乗ると言うことは、赤信号を渡るようなもので、群れと一緒にいれば食いはぐれが無いという打算があると思う。
なにしろそういう人間は学校の成績が良いので、学科試験なら大得意である。
日本人が人を選択するときの基準は、まず第一に学科試験である。
時流に乗りたいと思っても、この学科試験でパスしないことには先が開けない。
そういう意味では学校の成績のいい者は、時流というものに対して常に一番良い位置にいるわけである。
又、一匹狼的な、野性的な人は、全くこれと反対に位置している。
まれに学校の成績のいい者が、一匹狼的な行動をしたとすれば、変り者というレッテルが貼られてしまう。
日本人全体としてはこの群れの中に入りたいという心理が根強く存在していると思う。
ここが日本人の特質であり、その理由は個人としての自信の喪失がそうさせていると思う。この個人としての自信の喪失というのは、民主主義が未熟だということではないかと思う。民主主義の基づく個人主義が未熟というべきかもしれない。
この辺りの考え方の違いが、日本人の思考、思想を混乱に陥れている最大のポイントである。日本人というのはどうも自分に都合のいいように民主主義を使い分ける。
民主主義のもとに我儘を押し通す事を個人主義と勘違いしている向きがある。
我儘を言うことが民主主義であると思い違いをしている。
この思い違いも日本の民主主義が占領軍という上から与えられた考え方であるので、日本民族の本来持っている村の考え方との間にギャップがある。
それが原因でこうなっていると思う。
日本の古来の集落は村と呼ばれていたが、この村の中では村の民主主義があった。
要するに講であるが、これは村を一つの単位とした運命共同体として一種の民主主義であったと見ていいと思う。
村の民主主義
日本人の行動のパタ−ンの中にはこの村の民主主義の残滓があるのではないかと思う。
現代の村というのは言わずと知れた企業である。
だから、日本人は日常生活はこの企業運命共同体とともにある。
企業人として社宅に住んで、同じ会社の人とゴルフをして、同じ会社の者が社内運動会をしてということになる。
それが勤務時間中ならいざ知らず、アフタ−5になっても同じ企業の人との交際となると完全に企業運命共同体である。
他社との交流となると、交際ということになり、その費用は課税対象から外され、経費と見做される。
古来は村意識、今、企業意識である。
こういう心境に陥りやすい日本人というのが今問題になっているわけである。
ここに日本人が群れとして行動する大きな原因が潜んでいる。
民主主義の根源は個人の自由だと思う。
何の自由かというと、考え方の自由ということだろうと思う。
何物にも束縛されない自由、上からある特定の考え方を押しつけられないという自由だと思う。
これは何をやってもいいという我儘と同じという意味ではない。
近代国家として法律の枠というものは当然ある訳で、その法律の枠の中で、という前提条件が付随しているわけである。
個人主義というものも民主主義という枠の中での個人主義であって、当然これも法律という枠がはまっており、その枠を忘れてしまって、我儘とはき違えてはいけない。
日本人が群れたがるというのは、この自由ということを完全に自分の物として認知していないことによると思う。
だから、自由から、不自由を求めているようなものである。
本当の束縛からの開放を願うのではなく、少し束縛されていないと自分を律する事が出来ないのではないかと思う。
昔は村の絆があった、それが今では企業の絆に変わっている訳である。
だから、群れで行動するというパタ−ンの人々は、真の自由ということを解っていない。
真の自由のもとではどう行動していいのか解らない人々である。
だから何時もメダカのように群がって、結果的には「赤信号 皆で渡れば 恐くない」ということに落ち着くのである。
昔の太平洋戦争でも、今日の経済界の不祥事でも、それこそ赤信号という現象である。
そして問題が大きくなると対処療法を取る。
物事を、起きた後でその対処の方法を考えるというのが、日本人の基本的なパタ−ンである。この赤信号の心理は日本人が日本人であり続けるかぎり、これから先も引きずっていく、日本人の特性かもしれない。
知識、知性、感性、教養がいくら上がっても日本人である以上、群がって生きていくのかも知れない。
世の中の技術というのは日進月歩である。
けれども人間の心というのはこの技術に較べると全く向上が遅いし、心を変えるということは不可能なことかもしれない。
行政改革について
1991年、平成3年9月7日、ソ連のゴルバチョフとエリツインがアメリカのテレビ局、ABCテレビの生中継でアメリカ市民との討論が行なわれたことを報じていた。
又、この日、バルト3国が51年間に及ぶソ連の束縛から開放されて、独立を獲得したことをマスコミは報じていた。
同じ日、日本の中では海部総理大臣が自民党の研修会で政治改革を論じ、他の自民党の幹部はそれぞれのところで好き勝手なことを言っていた。
世界が激動していることは常である。
それと同時に日本の政治が揺れ動いていることも変わりがない。
まさに政治は生きものであると云うべきかも知れない。
けれども、我々の身近なものの方が語りやすいので、ここで私の見解を一言述べておくことにするが、自民党の派閥争いというものはどうにかならないのかと云いたい。
この1年間というもの日本人ということを考え続けてきたが、自民党の派閥争いというのは日本人の本質を集約したものかもしれない。
自民党の派閥争いを見ることは日本人自身を見つめていることになるのかもしれない。
この争い、派閥争いというものは自民党だけの問題ではない。
社会党にも、共産党にも同じ傾向は内在する。
ただ、自民党と云うのは党員の数が多いので目立つだけで、民社党の中にも同じように内在しているが、如何せん、数が少ないので、派閥を作り得ない。
その点自民党は数が多いので3つも4つも派閥が出来るわけである。
今回の派閥闘争も今年の10月の自民党総裁選挙の前哨戦のようなものである。
海部総理の言い分は政治改革はもともと自民党の実力者が以前から唱えていたことである。
これを遂行するためには党として一致協力、結束しなければならないと強調しているが、尤もな事である。
それに反して渡辺美智夫、中曽根康弘、三塚氏は政治改革には触れず、海部の足を引っ張っる事ばかり云っている。
中曽根なんか元総理経験者でありながら、海部をワンポイントリリ−フといっている。
けれども、同じ政党に属している、同じ仲間を、しかも若い後輩に対して、こういう形で足を引っ張るということは戴けない。
宮沢嘉一は総裁選挙に立候補を表明している。
表明すると云うことは結構なことである。
これは正正堂堂、勝負する心構えであると見て取れるけれども、ワンポイントリリ−フにしなければならなかった背景を考えて見るべきである。
海部は今迄の総理の中でも若いほうである。
若い総理をワンポイントリリ−フで出さなければならなかった背景を自民党の実力者といわれる人達はもう一度考えてみる必要がある。
それに自民党の中の実力者といわれる人々は、一体何なのか、渡辺などは自分が実力者だと思い込んでいるような発言である。
この実力者という呼び方が曲者である。
実力者といわれてもリクル−ト事件に引っ掛かれば、実力者でも何でもない。
政治家となれば、皆が総理総裁になりたい気持ちはわからないでもない、何となれば、それは人間の持っている古典的な欲望であるからである。
誰でも名誉欲、権勢欲というものは欲しがるものである。
特に政治家となれば我々一般庶民に較べて一段とその傾向は強いと思う。
ところが、自分は総理大臣になりたいということを露骨に言うことは、日本人の美徳としては戴けないとおもいこんでいる。
だから、渡辺も三塚も、以て回った言い方をしている。
総理になりたければ自分ではっきりと自分の意志を表明すればいいのである。
それで公正なル−ルで競争して正正堂堂と勝負をすれば変なしこりは残らないはずである。政治の世界は汚いと昔から言われてきているが、中曽根のように外国にまで行ってワンポイントリリ−フと公言することはない。
現職の総理をこき下ろすことはアメリカのブッシュ大統領やイギリスのメイヤ−首相をはじめとする外国の首脳に対しても失礼である。
彼らが交渉する相手を、又過去に交渉した相手をそれほどまで扱き下ろしてしまえば彼らの交渉相手はそんな実体の無いものかということになってしまう。
自民党の長老達は若い海部総理大臣を日になり影になり援助するというのなら話は美談で終わるが、その足を引っ張る様な発言はいただけない。
確かに、海部総理が誕生したときは消費税の導入で参議院選挙で大きく後退した時で、自民党の中で誰もが総理になり得なかった時期である。
ある意味では自民党の実力者達はこの時期に総理に立候補することを避けたともとれる。
消費税の問題、リクル−トの問題でこの時期に総理をやっては損だという打算の気持ちがあったのではないかと思う。
そこで文字通りワンポイントリリ−フで、瓢箪から駒が出たように、海部にお鉢が回ってきたというのが真相だろうと思う。
まあ海部なら若いので少々ミスをしても国民も納得するだろうという目で見ていたのかもしれない。
それでこの時期では捨て石のつもりで、火中の栗を拾う役を海部にさせたのかもしれない。それで海部に総理の椅子を回したのかもしれない。
その海部が曲がりなりにも乗り切ったので、これから先は安泰な事を見届けて、今度はあれなら俺でも出来るという訳で、宮沢なんかが乗り出してきたのではないかと思う。
渡辺も、三塚も中曽根もおそらく同じ腹だろうと思う。
海部総理ならずとも自民党という同じ志の者が集まった政党ならば、長老といわれる人々は若いリ−ダ−を指導鞭撻することはあっても、足を引っ張ってはいけないと思う。
まあ、一種の仲間割れ現象である。
別の政党を作るというところまでは行かないが、基本的な枠のなかでは考え方が一致しているが、細部では異なっているというのが派閥であろうけれども、自民党の派閥の場合、細部の考え方の違いというものはあまり無い。
要するに気が合うか合あわないかという程度の結びつきのような気がする。
政策の細部の考え方の違いなどという高尚な倫理で派閥が形成されているのではないと想像する。
気が合う合わないという言い方は言い換えれば親分子分の関係である。
こういう曖昧模糊とした概念で派閥というものが出来、その派閥の親玉が回り持ちで総理の椅子をたらい回しにしているというような政治ならば、即刻、政治改革しなければならない。政治改革は選挙制度の改革ばかりでない。
政治に対する意識の改革の方が大事である。
選挙制度の改革も大事なことである。40年以上も前の定数が現在もそのまま通用するとは思わないし、選挙制度そのものを見直すことも必要である。
これは自民党内においても反対がある事は理解できる。
自民党の代議士にも直接利害が及ぶので、社会党ばかりでなく自民党内からも反対が出てくることは当然で、これは正常なことである。
社会党や共産党のように全員が反対という方が異常な世界である。
党として党員の意見を集約して、党として反対ということも解らないではない、とすれば集約する時点で反対というべきで、自民党の場合、集約仕切れずに反対意見がそのまま出てきてしまったわけである。
他の政党では内心反対と思っても党がその意見を尊重せず、押しつぶしてしまうということである。
言葉を換えて言えば民主的でないということである。
少数意見を無視するというか、押さえ付けるというか、こちらの方が不自然である。
日本人の特性として難局に当たると仲間割れをするということがある。
それに、日本には昔から古い言葉で忠君愛国という言葉があるが、これも日本人は美徳と思っているようでいて、案外その通りのこと、文字通りのことはしておらず、その振りをして、裏切っている場合が多い。
自民党の内部などはこれがそのまま通用するのではないかと思う。
難局に仲間割れをするというのも、日本の政治も、世界の政治外交というのも、常に難局の連続であったはずである。
戦後46年間というもの難局の連続であったと思う。
ところが、自民党内においても派閥の抗争、自民党と社会党の確執、全て仲間割れの連続である。
戦後46年間というもの社会党が賛成したものというのはほとんどない。
国家公務員の給与を上げるとき以外は、社会党が快く賛成したものはないといっていいのではないかと思うが、この点が不自然なのである。
一つの物事を決定しようとする場合、自民党の中でも賛成、反対あり、社会党の中でも賛成、反対あり、他の政党でも賛成、反対に分かれ、その賛成を全部合わせて反対意見より多ければその決定が成立するというのが自然な姿の民主主義だと思う。
ところが現在は、党として賛成か反対か態度を決めてしまうので、常に自民党の政治になってしまう。
一つの案件を、党全体の態度をとするところに問題がある。
一つの政党のなかにも賛成意見と反対意見があって当然である。
その原点のところが硬直しているので、政治の流動性が失われている。
党の意見としてイエスかノ−かと考え方を固定してしまうので、社会党は常に反対ということになってしまう。
政治改革は選挙制度も大事だけれど、こういう意識の改革も大事だと思う。
経済界トップの倫理
今回の経済界の不祥事で大蔵省の外部団体として銀行や証券会社を監視する制度が創設されるそうであるが、こんなことは本当は行政改革に逆行することだと思う。
要するに、監視組織として新しいものを作るということは、それだけ余分な官庁を作るということで、行政改革の主旨に反することだと思う。
この経済界の不祥事というのは全く困ったことだ。
戦前軍部が不拡大方針を取りながら勝手に満州や中国に入っていったのと同じケ−スである。
並みの常識外のことをやって、それを監視する組織を作らなければならないということは全く情けないというべきか、何とも言いようがない。
国民はもっと銀行や証券会社に怒りをぶつけなければならない。
大蔵省の問題ではないと思う。
大蔵省の監督不行き届きということは出来るが、その前に当の銀行や証券会社を責めるべきである。
経済界の人々は、今回の不祥事で銀行や証券会社の商いが低迷して、資金運用に影響が出てきていると心配しているが、この際、銀行の一つや二つ潰れてもいいと思っている。
一頃のマネ−・ゲ−ムは確かに沈静化しているが、これが正常な経済活動であって、バブル経済が存在すること自体が異常な状態である。
このマネ−・ゲ−ムに携わった人々はこの際首を括るべきである。
我々のような古いタイプの人間は、金儲けをゲ−ムと考えること自体不遜な考え方であると思っている。
このことについては前にも述べたことがあるが、金をゲ−ム感覚で扱うこと自体がばち当たりな事である。
国民総生産GNPが上がる事は結構なことである。
けれどもバブル経済というのはバブルである。文字どおり泡の経済、投機である。
投機といえばまともな人間は手を出さないもので、本当の勝負師しかか手を付けなかったものを、企業ぐるみでやっていたということである。
正常な社会通念上許されるべきことではない。
それを、これも社会通念上堅いといわれていた銀行が煽り立てたということは、経済界の人々の倫理が、社会通念というものを馬鹿にしたとしか言いようがない。
経済界の不祥事に関連して国会喚問で各銀行の頭取が収益至上主義に陥っていたことを、反省を込めて述べていたが、収益至上主義に陥ったその根本のところを本当に解明しなければならないけれど、国会喚問では質問する側がそこまで突っ込んで質問していなかった。
各銀行が収益至上主義に陥ったというとは、明らかに各銀行の間で競争原理が働いていたということである。
競争原理というのは経済活動にとって悪いことではない。
競争があるが故に日本はここまで発展してきたのである。
競争原理そのものは決して悪いことではないけれど、競争にはル−ルというものがあり、そのル−ルの中での競争ならば大いに結構であるが、ル−ルの無いところでするので今回のようなことになるのである。
日本人が競争のル−ルという場合、ル−ルそのものは熟知している。
各社とも熟知しているので当然競争のフイ−ルドは狭くなってしまい、このル−ルの抜け穴を探そうとする。この行為が海外から顰蹙を買っている。
これを海外からアン・フェアと、フェアでないと指摘されているのである。
一定のフイ−ルドの中での競争ならば勝ち目がないと判断すると、フイ−ルドの外に逃げようとする、実に汚く、醜い行為である。
今回の証券会社の損失補填はまさにこれである。
一時、自動車の輸出の問題がトラブルを起こしたとき、乗用車がダメなら小型トラックならいいだろうと、ということで法の網の目を、約束の網の目を潜り抜けようとしたことがある。あの行為と全く同じである。
こういう考え方が大企業のトップから、パチンコ屋からラブ・ホテルの経営者に至るまで同じように存在する。
となると、日本の経営者の一般的な特質ということになる。
つまり、日本人の誰もが経営者の立場になれば法の外、約束事の外、通常のル−ルに抵触しない、枠の外にまではみ出しても金儲けをしたいという心理になるということである。
これは教養、教育の有る無しに係わらず、同じ事だと思う。
もし教養とか知性、それまでの教育の成果が有るとすれば、今回のような経済界の不祥事はありえない。
要するに人間の考え方の基本になっている社会的な倫理というものは、教養とか教育ということとは無関係である。
いわば人間の本質がモロに現われているということである。
今回の経済界の不祥事に連座した企業のトップは決して無学文盲の人ではないはずである。最高学府を治めた人々である。
そういう人達がこういう不祥事を引き起こしたということになれば、学歴や教養とは無関係な、人間の本質的なものがそうさせたと見るべきである。
企業というのは社業を通じて社会に貢献するのが使命であるはずである。
この社業という部分を履き違え、社会への貢献というところを、上得意様のみへの貢献と履き違えたところに問題が有る。
それとも別な言い方をすれば企業を私物化していたとも言えると思う。
それでなければ収益至上主義と云うものが出てこない。
企業というものが通常の業務を、通常のル−ルでしている間は社会に貢献することが出来る。ところがこのル−ルからはみ出してしまえば社会に貢献どころか、社会を混乱させてしまう。それで今回、この混乱が起きたわけである。
又、企業というものが外部から監査を受けなければならないということは、人間の倫理が真に確立されていない証拠である。
本来、監査というものは企業の自主規制というべきか、自助努力が有れば不用な筈である。そうは云うものの世の中に泥棒が絶えないのと全く同じで、全く廃止という訳にもいかないだろうが、それにしても銀行でも証券会社でも一応は社内監査を受けているはずであるのにこのような事態が起きるということは、この監査機能はどうなっていたのかと云わなければならない。
けれどもマスコミはあまりその点を追求してこない。
その矛先が大蔵省の方に向かっている。
銀行の不正融資などは監査でチェックできるが、それが十分機能していなかったようだ。
又、この不正融資が銀行内でチェック出来なかったという点も、銀行サイドとしては猛省を要するところである。
アメリカにはSECというのがある。
証券取引委員会というものであるが、これと同じものを日本でも作るということだけれども、こんな別組織を作ることよりも、現在有る組織を活用する方が先決で、てっとり早いのではないかと思う。
現在有る組織といっても浅学の為よくは知らないが、大蔵省の中の税務の関係に、監視を含めた機能を強めればいいのではないかと思う。
例えば、税務署に家宅捜査権を強化するとか、罰則をうんと重くするとか、いうことをすればいいのではないかと思う。
罰則というのは個人ならば懲役が一番応えるであろう。
企業の場合は組織であるので懲役ということはありえず、営業停止乃至は企業解体というのが一番効果が有るのではないかと思う。
営業停止処分というのは企業体にとってかなり大きく響くと思う。
企業解体というのは現実離れしているが、個人でも企業でも、罰則が恐くておとなしくしているというのはある意味では情けないことである。
元来、通常の倫理が機能しない組織であるので、これぐらいの罰則でもしないことには綱紀粛正は実現しないのではないかと思う。
こういう罰則を設けなければならないということは、それだけ未熟という事であるが、やることが幼稚というか、不合理な事であれば未熟といわれても致し方ない事だろうと思う。
アフリカの民を思う
この宇宙船地球号には何十億という人間という動物が生息している。
この人間という動物は住んでいる場所によってそれぞれ生活の様式が違っている。
この生活の違いをそれぞれ文化とか文明とか呼んでいるが、この文化文明にはそれぞれ発達の段階があるのであって、原始の生活に近いものから、高度に発達したものまで様々ある。その現実を直視して豊かとか貧しいという別の表現をもちいることがあるが、この豊かとか貧しいという文化文明に対する評価というのは多分、精神的な認識の違いだと思う。
文化文明の発達というのは歴然たる事実であるが、豊かとか貧しいというのは相対的なものであると思う。
文化文明が未発達でも精神的に豊かな人々も居るし、いくら高度な文明社会に生息していても精神的に貧困な人々も存在するわけである。
マスコミはアフリカの飢餓を報道し、国連等もこの飢餓に対して大々的に救援活動をしている。
今、日本においてこのアフリカの飢餓を眺めると、何とか援助しなければならないという使命感にとらわれがちである。
貧しくて食料が買えず、赤子はミルクも医療品も手に入らず、次から次へと死亡していくというマスコミの報道に接すると、飽食の国の日本人としては何とかしなければという気持ちに駆り立てられる。
けれども、われわれがアフリカの現状を知るようになったのはここ数十年前からのことである。
我々の認識の中のアフリカといえば、タ−ザンのイメ−ジで、密林と象とチンパンジ−のイメ−ジである。
それが最近マスコミの報道によりアフリカの現実の姿を知ることになったわけであるが、我々がアフリカを知るようになったのはここ数十年前のことで、知った時点からアフリカには飢餓が存在し、赤子がミルクも買えず死んでいくという現実を知ったわけである。
だから我々の善意のある人は、アフリカの飢餓を救わなければと、早急な発想に陥る。
けれどもあのアフリカ大陸というのは人類発祥の土地ではないかと言われるくらい古い土地であり、その土地において人類というものが存在し続けてきたのである。
我々が認識するようになったのは何十万年の内の何十年である。
単位を大きく見積もっても二桁繰り上がるだけで、その大部分というものをアフリカ人は存在し続けてきた訳である。
日本民族よりも古いかもしれない、恐らくその間赤子が丸々と太って、ミルクがたっぷりあった時代というものは無かったに違いない。
食料がたっぷりあって、人々が豊かな生活をした時期というものは無かったに違いない。
それでも人間は生存し続けていたことと思う。
今、われわれがアフリカの飢餓を救えということは、我々の思い上りではないのかという感じはする。
人間は全て、我々のような現代の日本人と同じ生活をすべきであるという発想が根底にあるので、アフリカの飢餓をなんとかしなければという思いにつながっているのではないかと思う。
アフリカの飢餓はそれを包含しながらの自然であると考えるべきでないかと思う。
何とかしなければ、という形で先進国が援助するとなると、それは自然に人工の手を加えることになるのではないかと思う。
我々はアフリカで食料が無く、飢餓で人々が死んでいくという現実を見せられると、反射的に、なおかつ道義的に何とかして援助して、死んでいく人々を救けなければという発想に陥る。
これは我々現代人の思い上りではないと思う。
アフリカで人類が生存し続けてきたということはそういう結果ではなかったかと思う。
自然界の法則に素直に則して、生存し続けてきたものを、我々現代人の思い上りで手を加えるということは果たして本当に彼らのためになるのかという疑問が起きてくる。
人間は自然の法則に逆らうことで一見、自然を征服したつもりでいる。
特に西洋の文化というのは自然と敵対し、自然に逆らうことで文化というものを評価しがちである。
例えば、医療というものを見ても、人間の自然淘汰というものに真っ向から逆らっている。医学の研究というものは、最初は個人の病気を救うためのものであったと思うが、その病気の研究というものは一人か二人の特定の人を救うためのものであった研究が、人類全体がその恩典に浴するようになったものである。
あらゆる文明は、その発祥の目的は、一人か二人の便宜のために考えだされたものが、全人類にその波及効果が及んだものだと思う。
要するに自然界を不自然界にしようというものである。文明イコ−ル不自然である。
便利ということはすなわち反自然である。
現代社会というのは自然というものから如何に掛け離れているかということだと思う。
医療の発達は人間の寿命を延ばした。この一事を以てしても自然に反している。
だから一つの自然に反したことをすれば、その分、別の面で弊害というものが出てくるのは当然である。
人が長生きすることによって人口爆発が問題となってくる。
又、日本人は平和ということが好きで、全地球規模でも平和ということが注目され、戦争は愚かだという認識が広がっているが、人間の生存の歴史は戦争の歴史であったということも忘れてはならない。
だからといって戦争を肯定するものではないが、人類は戦争をし続けるというのが自然ならば、平和ということも自然に反しているというわけである。
この反自然も人口爆発につながっている。
人口爆発はそれだけ沢山の食料が要る。
食料が余分に要るということは、それだけ余分な耕地が要る、これはいきおい狭義の自然破壊つながるという、食物連鎖のもう一つ外側の悪循環というものを作りだす。
これが現代、我々が直面している大命題ではないかと思う。
今時、医療の発達を止めるわけにも行かず、戦争を肯定するわけにも行かず、人口爆発を抱えながら自然を壊さず、人類が生き延びようという事は誠に虫のいい考え方ではないかと思う。
我々の宇宙船地球号は、まだこの人口爆発を吸収する余地は少しは残されているけれども、何時まで続くかは定かでない。
何時かは飽和状態になるに違いない。
今日、TVでアフリカの現状を見たとき、我々はどうしても可愛そうにという印象を拭いさることが出来ない。そういう同情心が先にくる。
我々の心の中の慈悲心が、心の隅に残っている証拠であるが、これもアフリカの人々に取ってみれば極自然なことではないかと思う。
アフリカの動物保護区の中の野性動物は人間からは保護されているが、野性動物同志では食うか食われるかの生存競争が毎日行なわれている訳で、この世の中に食われる側の動物も存在するというのが自然である。
動物を狩ってそれを食料とする動物も、他の動物に食われるために生存するという動物も居るわけである。
この食物連鎖を可哀相という理由で断ち切ってしまうと、自然は破壊されてしまう。
自然というものは食物連鎖ばかりでなく、色々な環境連鎖によってもバランスが保たれている。
環境ということも突き詰めれば自然界の食物連鎖に行き当たってしまう。
人間が医療や福祉によって長生きするということは、この食物連鎖にも環境連鎖にも影響を与える。
影響というもので良い影響ということはありえない。
良い影響というものを突き詰めていくと、他の所では悪い影響となってしまう。
文化の差異
地球上に人類が誕生して何億年経っているか知らないが、この人類の生誕の時から、今、我々が住んでいる時代というのはせいぜい2千〜3千年で、その内の2百〜3百年前から、この地球上の人類の生活環境に様々な差異が生じてきている。
人類の誕生という非常に長いタイム・スパンで考えると、ほんの一瞬の出来事である。
アフリカが未開とか、低開発だとか云ったところで、その差異はほんの2、3百年の間の差異である。
文明の誕生というタイム・スパンで考えてみても2、3百年の差異である。
後の大部分は、2、3百年以上前の人々は文字通り自然界の成り行きのまま、自然とともに生存していたわけである。
それこそ自由人である。日暮れ腹減りの、自然のままの生活をしていたに違いない。
その頃には公害もなく、環境問題もなく、福祉もなく、病気になれば無理に延命することもなく、年を取れば自然に枯れていったわけである。100%自然淘汰の時代である。
人間が万物の霊長であるという思い上がった考えもなく、極極、自然の成り行きに身を任せていたにすぎない。
これが本当の動物の姿だと思う。
動物ではこの状態が今も続いているわけであるが、人間のみはこの自然の成り行きに逆らおうとしている。
この逆らおうとした結果が文明であり、文化である。
だから、TVでアフリカの現状を見たとき、「なんとかしなければ!!!」という人類愛なり、慈悲心というものは、我々の思い上りかもしれない。
彼らは自然の成り行きのまま生存しているのであって、彼らは彼らの置かれた現状に満足しているのかもしれない。
満足という言葉はこの際適切でないかもしれない。運命と思っているのかもしれない。
現代人というのは余りにも沢山の物事に囲まれて生活している。
飽食という言葉がある。
食物が有り余っている状況を指しているが、アフリカの人々は飽食の反対の飢餓に悩まされている。
けれども、この飢餓の状態というものも、昔は良くて最近になって悪くなったというものでもない。
慢性的に、常に飢餓の状態が続いていたのではないかと想像する。
人類の発展というか、文化の発展の段階には5つの段階があると云われている。
1 有史以来の伝統的社会
2 離陸の為の先行条件の整う時期
3 近代化への離陸
4 成熟への前進
5 高度大衆消費時代
この段階の中で 1 の伝統的社会というのが今のアフリカの人々の段階ではないかと思う。人類全体としてこの伝統的社会が何百年、何万年、何億年と続いたわけである。
現在の先進国がこの伝統的社会から抜け切れたのもほんの2、3百年前のことで、地球上の人類にとってはこの伝統的社会というのが大部分であったのである。
今日の我々は、人類も動物の一つの種であるということを忘れている。
乃至は、「人類は他の動物とは違っている」という認識を持つことにより、文化とか、文明とか云うものが発達してきたのかもしれない。
アダムとイブの寓話の林檎ではないが、人類が石と火を使うことを覚えたことにより、人類の悲劇が始まったと見るべきである。
我々は、文化とか文明というものは全て善だという認識に立って物を考えているが、これは現代人の思い上りではないかと思う。
アフリカの人を見て我々は気の毒にと思うが、彼らにしてみればこれは当たり前のことかもしれない。
ただ、先進国の人間が公害とか、環境破壊という文化の排泄物をまき散らさないかぎり、これから21世紀になっても、彼らはあの生活状態を取り続けるのではないかと思う。
我々が思うほど惨めな気持ちになっていないことと思う。
我々は物事を余りにも多くを知ることにより、コミニュケ−ションを発達させることにより、高度な技術を習得することにより、一見、文化文明を享受しているような気でいるが、これは案外そうでもないのかもしれない。
我々、現代の日本人は一日中TVが5局も6局も朝から晩まで放送している事を不思議とも思わないが、これなどもコミニュケ−ションの本題からは外れた放送ばかりである。
知っても知らなくても大した問題ではない事ばかり放送している。と云うことは資源の無駄使い以外の何物でもない。
文化とか、文明というものには、こうした一見、無駄と思われることが多々ある。
けれども、我々の言い分とよると、無駄ではなく、余裕とかゆとりといって、自分に都合のいい解釈をして、その場を云逃れている。
確かに、文化文明というものは全てが、人々の生活に直接結びついているものばかりとは云えない。
この生活の中のゆとりとか余裕と云うものが、文化文明を醸成していることは認めざるをえないが、これは詰まる所、資源の枯渇につながっている事を忘れがちである。
TVの無駄な放送もエネルギ−を無駄に消費していることには違いない。
けれども、人々はそれには気付いていない。
この民間TVの無駄な放送を止めろと云おうものなら、たちまち「放送の自由を侵す」とか、「国民の知る権利を侵害する」とか云う、生活とは何の関連もないことで国会が停止するぐらいの論争が起きるに違いない。
現代人が生活に関連する情報だけ有ればいいというのも極端ではあるが、この無駄がエネルギ−の無駄使い、無駄な消費につながっていることも事実である。
人間の生活に直接関係のない情報が文化文明を発達させたというのは事実である。
この無駄ということも随分古い時代から行なわれてきたことである。
縄文時代や弥生時代、土器のデザインというのもそれにあたるのではないかと思う。
デザインというものは生活とは直接関係するものではない。
けれども、太古の人間も、そういう無地の茶わんにデザインを施すという余裕、ゆとりを持っていたという事は面白い事実だと思う。
これが茶わんばかりでなく生活の全ての物に波及したのではないかと思うが、それが文化文明であり、これが付加価値となって、商品価値をより高めて古代の社会の中で交換が行なわれたに違いない。
これが伝統的社会と云われるものだろうと思う。
この時代というのはギリシャやアテネ、中国の都市国家がそれにあたると思うが、この時代はその前の人類の誕生から続いているもので、5段階の中でも一番長い時代であったのではないかと思う。
次の「離陸の為の先行条件が整う時期」というのは、この都市国家から戦国時代を通過して、日本で云えば江戸時代の終わりの頃の事を云っていると思う。
この時代の人間もまあ、自然の成り行きのまま生きていると云っていいと思う。
なにしろ、医療も、福祉も未発達であったので、必然的にそうなっていたと想像する。
人が長生きしたいという願望は古代からあったに違いない。
けれどもその願望と現実は掛け離れており、そのために人々は今で云うところの民間療法や宗教に頼ったに違いない。
医療が発達するということは、医療だけが特別に発達するということはありえない。
やはり、全ての物が現在のように発達してきたということは、様々な段階があって、仮に医療を例にとってみても、病原菌を調べることから始まり、そのためには顕微鏡の発達と合わせて考えなければならないし、病原菌を培養するためには生物学の知識も要るという風に、全てのことが縦横、お互いに干渉しながら医学が発達してきている。
これは全ての面で同じ事が云えると思うが、こうなると未開の人々と先進国の人では、同じ格好をしているとはいうものの、どうも各民族は違う特質を備え持っているのではないかと云う疑問にぶつかる。
アフリカの人々が太古から同じ生活パタ−ンをし続け、先進国の人々はこのパタ−ンから抜け出して、文化文明を享受している姿を見ると、どうも人間の特質には民族によって差異があるといわざるをえない。と云う事に落ち着いてしまう。
違う表現をすれば各民族には優劣があるという、単刀直入な表現になってしまう。
太平洋の孤島に住んでいた人が、「我々の生活はシンプルだけどプア−ではない」と言ったと報じられているが、このプア−ではないという表現は多分精神的なことを指したものと思うが、このプア−ではないと自己主張すること自体が、民族の発展、国家の発展を阻害しているのではないかと思う。
話が飛躍するが、スポ−ツの中でもボクシングはハングリ−なスポ−ツと云われているが、これと同じ事で、民族にもハングリ−精神というものがないと、なかなか向上してこれないのではないかと思う。
椰子の実と椰子の葉っぱで葺いた小屋で、心身共に満足してしまったら、文化文明の向上ということはありえないと思う。
いわゆる、ハングリ−精神を失って、現状に十分満足してしまっては向上というものはありえない。
常に前を見て努力する気持ちが、国民の各層に存在しないことには、その民族というものはそれこそ自然淘汰されてしまう。
アメリカ・インデイアンやマヤ文化を築いた人々も、又、アイヌ民族にしても、同じ事が言えると思う。
自然淘汰が自然の成り行きとは云うものの、淘汰した方において、この現実に対して問題提起がなされるのが現状である。
やはり地球上の民族においては、各民族の間にそれぞれ固有の特質、言い換えれば民族間に優劣の差があるのではないかと思う。
これを大きな声で云う事には自責の念に駆られるが、人類を自然の成り行き、自然のままという視点から眺めれば、この優劣の差と云うものをありのまま認めなければならない。
人間の理性で眺めれば「人は皆兄弟」という事になるが、自然というものはそんなに生易しいものではなく、地球上に生息している民族には紛れもなく優劣の差があるような気がしてならない。
これを最近よく使われている言葉に置き換えてみれば、低開発国とか発展途上国と云う言葉を当てはめているが、この開発ということに対して未開地も開発された結果だという面白い論理がある。
開発途上国というのは、そのように開発された存在で、先進国によってそのように開発された結果だという論理である。
この開発された結果として未開のまま残されているというのは少し妙な感じがする。
ただ先進国が自分の都合のいいように利用したというなら、素直に理解できるが、先進国の都合により開発された結果として、未開のまま残されているという考え方にはついていけない。
確かに現時点としては未開のままとり残されたという事実は認めざるをえないが、発展途上国を見る場合、そこに住んでいる人間は一体何をしていたのかという疑問が常に付きまとう。
今、地球上に存在する先進国といわれる諸国も、過去には非常に大きな試練を乗り越えてきている。
アメリカにも南北戦争というものがあり、その前には独立戦争というものがあったわけである。
ヨ−ロッパにおいても大きな大戦を二度も経験するという大きな試練を乗り越えてきている。日本においても明治維新や太平洋戦争という大きな試練を乗り越えてきている。
今の開発途上国に国の存亡を掛けた大きな試練というものに打ち勝つ国民的なパワ−、乃至はハングリ−精神というものがあるだろうか?
中国というのは共産主義であることは皆承知の事実であるが、あの国は一体先進国なのか、開発途上国なのかどちらに位置するのだろうか?
日本と較べると確かに電化製品や車においてはその普及率が低いけれども、前に述べたように「シンプルであるけれども、プア−ではない」という状況だろうか?
今は共産主義国というのは中国とキュ−バくらいになってしまったが、共産主義国ではしばしばこういう云い方をする。
それにはコミニュケ−ションの不足と云うこともある。
マスコミが未発達で、国民が諸外国のことを知らずに、現状に満足するという場面もあったに違いない。
共産党員も人の子
ソ連が共産主義を放棄して、目下、共産主義国というのは中国とキュ−バとベトナム、北朝鮮と云うことになってしまったが、共産主義の本家本元であるソ連で共産主義社会が崩壊したとなると、一体、共産主義というのは何であったのかという疑問が残る。
産業基盤を共同体が所有するという考え方そのものは悪いことではないと思う。
ソ連もそのラインに沿って改革をして、コルホ−ズやソホ−ズを作ったことは歴史が示しているが、この運営が上手く行かなかったということが云える。
何故上手く行かなかったか?それは人間が関与しているからと云わなければならない。
施設を作ったり、システムを作るという事は一回行なえばいいけれども、それを維持管理するという事は毎日のことであり、1年、2年と続き、最終的に75年間続いたわけであるが、これだけ大きな共産革命が75年間しか続かなかったということは、そこに人間が関与したからという他ない。
人間といってもこれは共産党員のことであるが、人間という視点で共産党員というものを眺めてみれば、それは人間という自然がそこには浮き上がってくる。
ソ連に住んでいる人間が我々、地球上の他の地域に住む人間と同じであるという観点に立てば、主義主張がどのように違っていようとも、基本的には同じであるということである。
人間というのはまず自分が可愛い、その次には家族なり、親類なりの身近な人がくる。
その次となるとそれぞれ主義主張で差異が生じてくるが、地球上に住む人類として共通の感情に支配されがちである。
ソ連における共産革命においても、産業基盤を共同体の所有にしたところまではセオリ−通りに行なうことが出来たが、この人間の問題を解決することは出来なかった。
普通の人間が共産党と云うレッテルを自他共に認めながら、中身の人間の本質そのものを変革出来なかったところに、ソ連の共産主義社会の破綻の原因があったと思う。
共産主義の理論はともかく、それを運用する人間の方が、地球上のあらゆる地域に生息する人々と何ら変わるところがないので、国家システムそのものが形骸化してしまって、破綻したと見るべきであろうと思う。
共産主義は階級闘争を否定しながら、その実、共産党の中においては階級闘争のみが存在し、党の運営そのものが階級闘争そのものである。
そこになお悪い事に、共産主義というのは暴力を始めから肯定している。
この暴力を始めから肯定するという事自体が、その主義そのものが始めから欠陥があったということである。
党が主権を把握するまでは革命も致し方ないとしても、それが成就した暁には、暴力を否定しなければならない。
それをそのまま温存していたため、共産党の歴史の大部分は密告、逮捕、粛正の連続である。ソ連の場合、自国の国民をこれほどまで血に染めた主権国家というのも他に例が無いのではないかと思う。
そして結果的にはそれまでの階級闘争の目標であった貴族の位置に、共産党員が座っている。そしてやっている事といえば階級闘争に明け暮れていたわけである。
この階級闘争という表現も私に言わせれば古い表現である。
この表現は共産主義的な視点に立った見方で、本来の荘園とか、貴族という表現で充分である。
もっと分かりやすく言えば金持ちと貧乏人である。
金持ちが生まれるにはその間に、金持ちになるべき努力があったことに、昔も今も変わりはない。
これは主権国家同志でも同じであるが、金持ちと貧乏人が存在する世の中というものは極自然の成り行きで、金持ちは金持ちなりに努力を積み重ねており、貧乏人の方はそれをしなかった結果である。
ソ連で共産革命が起きたということは、貧乏人の反乱ということであって、貧乏人が天下を取ったところで、その天下を維持する努力、天下を平定する努力を維持することが出来なかった結果が、今回のソ連の崩壊だと思う。
資本主義社会においては、金持ちは金持ちのまま認め、貧乏人の方は福祉というもので下支えをしようと云うものである。
資本主義社会でも、正真正銘の資本主義では社会の不公平がますます拡大するので、その格差を折半する意味で、下の階層を下支えしようというのが社会主義というものかと思う。
共産主義の特徴は管理社会である。
管理社会ということはその中の国民のハングリ−精神は削がれてしまって、向上心が喪失してしまう。
資本主義社会ではリスクもあるが、一旗上げようというハングリ−精神を充分に刺激し、発揮できる土壌が存在する。
という事は、国民の意識がダイナミズムに富み、活力がある。
自分の努力が目に見えて報われるとなれば、なんとか一旗上げて金持ちになろうというハングリ−精神が向上心に変わる。
資本主義社会というとき、全てがベタ−と云うわけではない。
けれども、国民の向上心を刺激するという点では、共産主義よりはベタ−である。
管理社会では人々が無気力に陥りやすい、又、自然の成り行きという点においても共産主義は管理社会なるが故に計画経済、統制経済である。
人間が理性、理念で以て経済を計画してみたところで、経済の方は人間の理性や理念とは何の関連も持っていない。
いくら農作物の収穫を計画しても、天候によっては計画通りに収穫できないことは多々ある。
その点、資本主義経済というのは自然の成り行きのままであるので、豊作で儲ける人もあれば、儲けそこなう人もおるわけである。
けれども、全体としては少しずつ向上してきた結果が、今日、ソ連と西洋諸国の違いとなって存在しているわけである。
これも自然の成り行きというものを故意に無視した結果ではないかと思う。
福祉ということも自然の成り行きに棹差す行為である。
人類の理性が「老人は気の毒だ」とか、「肢体不自由者も生存する権利がある」という論調があるが、これも人間の思い上りではないかと思う。
人口爆発ということは人が死なないという事である。
これは医療の発達、向上があったからで、福祉の問題も突き詰めてくると医療の所に戻って来るが、人口爆発が21世紀の最大のテ−マではないかと思う。
医療の発達というものは純粋な科学の分野に止めておくべきである。
この科学の分野の事を応用して金を儲けようという人、これは医療の側に居る人のことであるが、それと同時に自分だけが助かりたい一心で、科学の分野のことを自分の延命にのみ応用したいという欲望が患者側にあり。この両者が寄り合って高度な医療が施されている。
一般大衆は、この科学の分野のことを一般大衆レベルまで普及させようとする。
そして技術的には延命措置ということが行なわれ、これはもちろん無料ではないはずである。65才以上の場合医療費は無料である。
この医療費が無料ということが大きな問題を含んでいる。
世間の人は、老人には医療を施す必要がないという事は云いにくいものである。
如何にも、人でなしで無慈悲な人間と見られる事を恐れて、決してそういうことは云わない。老人が1日でも、2日でも生き延びればそれで納得する。
これは人々の観念上の先入観がそうさせているだけであって、植物人間や衰弱した老人が、意識の無いまま少々延命したところで、医療機関が儲けるだけで、遺族や家族は罪悪感に苛まれる必要はない。
こういうことはだれしも分かっているがこれを認める事に精神的な抵抗が大きいのが人間的であると思い込んでいる。
老人医療も表向きは無料となっているが、その実国家から莫大な金が医療機関に流れている。
この資本主義社会で無料の物というのは存在するはずがない。
どこかで誰かがその代金を払っているわけである。
仮に65才の老人が植物人間となって病院に入院したとする。
この人の直接医療費というものは、本人は一銭も払わないとしても、国家から莫大な金が病院に流れている。
この金でアフリカの子供にどれだけのミルクを送ることが出来るのかと考えた場合、どういう結論になるのであろうか?
「日本の年寄りはどうでもよい、アフリカの子供を救え」というのは極端だとしても、人類皆兄弟という立場に立てば、アフリカの子供を沢山救った方が意義があるような気がする。
老人問題を経済の物差しで計ることは不穏当とは思うが、単純に考えればこういう論理が成り立つのではないかと思う。
自然界の中ではあの百獣の王様であるライオンも足に刺さった棘一本で生命を失うのである。それが自然界というものである。
今日、先進国においては福祉ということなら何でも善とする傾向があるが、この福祉ということは自然の成り行きに真っ向から逆らっているという事を忘れている。
自然の成り行きに真っ向から逆らっておきながら、片一方では自然破壊だとか、環境の悪化だといって騒いでいる。
自然の成り行きに逆らえば弊害が出てくるのは当然のことである。
目に見える変化のみに夢中になって、目に見えない所を見落としがちになるのは致し方ないが、21世紀においては目に見える変化もさることながら、目に見えない福祉の在り方にも注目すべきである。