051229001

情報・知識と知恵

情報に裏打ちされた知恵

 

平成17年12月29日の朝日新聞の報ずるところによると、上海総領事館の館員が、女性スキャンダルをネタに中国の公安当局から機密漏洩の圧力を掛けられて自殺したということが報じられている。

しかもこの事件は1年以上も前の事件で、その間に日本の外務省は4度も抗議をしたとされているが、先方からは何の反応もないと報道されている。

これは一体どういうことなのであろう。

如何なる理由があろうとも、領事館の人間が先方から外交機密情報を漏洩するように圧力を掛けられたとなれば、それだけで重大な国際問題のはずである。

本人は自殺する前に何故その事実を公にしなかったのであろうか。

この件に関していえば、中国を責める前に日本の領事館の外交的センスというか、国際常識というか、自分たちが日本国を代表しているという公の立場というか、置かれた位置というか、そういうものの認識がまるでなっていないではないか。

ばかばかしくて話にならない。

きしくも、前日、「CIAスパイ研修」という本を読んだばかりであった。

本の内容自体はさしたる目新しいものはなかったが、ただ日本の政府機関における情報収集ということについては考えさせられた。

日本がスパイ天国ということは前々から言われていたわけで、そのことは相手国にとってこれほど仕事のやりやすい国は他にないということである。

情報ということにきわめて関心が薄いということは、我々日本人の根源的な民族意識がそう有らしめているのかもしれない。

つまり、我々は比較的単一民族なわけで、以心伝心ということが極めて無意識的に広範に行き渡っているので、情報というものについて深く考察する必要がなかったということである。

例えば、「見ざる言わざる聞かざる」という風に、情報に接することすら遺棄していたわけで、そういう行為を卑怯と認識していた。

しかし、世界的規模でグローバル化が進むと、我々の島国根性だけでは通用しなくなったにもかかわらず、その意識が我々にはいまだに覚醒されていないということだと思う。

普通の主権国家ならば、警察なり、軍隊なり、他の治安機関なりがそれぞれ独自に情報収集を行って、相互にそれを隠匿しがちだというのが通例である。

我が国もその例にもれず、それぞれの機関でそれぞれが独自に情報収集しているので、結局は集めた情報が死蔵してしまっているということは考えられる。

問題は、情報をあれこれする前に、各機関の担当者、およびその機関そのものが己の使命を如何に自覚しているかということだと思う。

今回、俎上に登った外務省もその機関のひとつであって、上海の領事館の事件でも、その自覚さえあれば、最初の先方のアクション、つまり先方が「外交機密情報を出せ」と言ってきた時点で、それを公にしてしまえば、明らかに我が方が勝ち点を得、ポイントが稼げたではないか。

外務省の人間、総領事館の人間、外交にかかわっている人間にはそれがわからなかったのだろうか。

それが外交戦略というものではないのか。

戦後60年間、我々は戦争放棄をうたった憲法で以ってホットな戦争は曲がりなりにも回避してきたが、戦争放棄をうたっているからこそ言葉では大いに戦うべきであって、生き馬の目を抜く国際社会というものを、言葉と知恵と、判断力と、洞察力、最後に金で以って国益を図るべきである。

我々は憲法で以って両手両足を縛られているのであるから、戦略と金で世界に働きかけねばならないのに、領事館員が自殺するとは一体何事かといわなければならない。

ことほど左様に我々は国際政治の中の情報、インテリジェンスというものを理解していないと思う。

ブッシュ大統領は、イラク攻撃に際して、「誤った情報によって判断をした」ことを認めたと報道されているが、情報というのはこういう結果をももたらすことがあるわけで、情報の重さということはこれほど重大なことである。

情報というものは完全に戦略的な力を持っている。

それは軍事力にも勝るとも劣らないものだと思う。

我々は戦争放棄している以上、情報こそ我々にとって大いなる武器になるはずである。

情報とはすなわち、知恵であると思う。

その知恵を形作るものとして、語学力とか、判断力とか、洞察力というものが有効に機能することは論を待たないが、そういうものを総括すると、それは知恵ということになると考えられる。

中国の公安当局が日本の領事館の人間に脅迫まがいに外交機密の情報をながさせようとした、などということは我々にとって最高の対中国交渉カードになりうるではないか。

中国の反日感情を押さえ込む最高のカードとして国連安全保障会議に提訴する、などということを声高に叫べば中国の面目は丸つぶれになることは火を見るより明らかではないか。

我々はどうしてそういう知恵が回らないのであろう。

我々は戦争放棄をしており、もし我々の国が侵略されたときには国連に依存することを前提にしているわけで、自衛隊の存在というのはそれまでのつなぎということで国が成り立っているではないか。

それが理由かどうか知らないが、国連の分担金もアメリカについで2番目に多く供出している。

だとしたら国連をもっともっと有効に使う知恵を出さなければいけないのではなかろうか。

北朝鮮による拉致問題も、国連の場で世界中に向けて北朝鮮のしていることを逆宣伝すべきではないのか。

ブッシュ大統領が誤った情報に基づいてイラク攻撃を決断してしまったということは、アメリカにおいても情報の一元化がなされていなかったということだと思う。

アメリカの場合、情報収集の機関が多すぎて、結果的にどの情報が正確であったのかという点で焦点がぼやけてしまったのであろう。

我々は先の戦争で300百万人もの命を失ったといわれ、アジア太平洋地域ではトータルとして1千万人もの命が失われたといわれている。

戦争そのものも、突き詰めれば知恵と知恵の戦いであったと思う。

昭和の初期の時代、当時のアメリカにしてみれば、アジアの片隅から突如と湧き上ってきた新興勢力としての日本の頭を抑えておきたい、ならばどうするかということでアメリカ政府は知恵を絞って、ABCD包囲網で日本を兵糧攻めにすれば、きっと先方から戦端を開くに違いないと考え、そういう方向に知恵を絞って罠を仕掛けて待っていたのである。

我々の方も、当時の8千万近い人間を食わすには如何にすべきか、ということに知恵を絞っていたが、結果として中国に進出するほかないと結論つけたのである。

戦争は究極の知恵と知恵の戦いだと思う。

如何に血を流さずに自らの目的を達成するかが知恵の出しどころであろうが、そのことは同時に、統治する行為そのこと自体がもう既に知恵の塊ということである。

 

狐と狸の化かしあい

 

日本人の知恵といえば、我々は太古から中国大陸、つまりアジア大陸に連綿と生きてきた諸民族の影響を受けてきたことはいうまでもないが、それを丸呑みしてきたわけではない。

戦後もしばらくの間、我々は物まね民族という言葉が一斉を風靡した時期があったが、あれは敗戦の困窮状態の中で、生きんがためにしゃにむに売れるものを作り、それを売らねば我々自体が生存できなかったから、そうせざるを得なかったからだと思う。

今のように物資が自由に外国から手に入り、自分たちのアイデアをそこに織り込める機会を与えられれば、我々はおおいに独創的な物を作り出す能力は潜在的に持った民族だと思う。

一つのアイデアを生かすということは、非常に勇気のいることだ。

今まで誰もしたことのないことを試す、ということは非常に勇気がいる。

失敗を恐れない勇気がいる。

それを採用するには柔軟な発想がいると思う。

戦後の復興期には、身の回りにあるもののコピーを安い労働力で作って、それを売りまくることで、次なる投資の準備をしてきたわけで、我々は戦災で何もかも失ってしまった時期では、それも生きんがために致し方ない生き方だった。。

それをしばらく続けて、資金の調達が徐々に回復するにつれ、ボツボツと自らのアイデアを盛り込む余裕ができてきたのではないかと想像する。

余裕が出来てくれば、自ら考えることが可能になるわけで、それが定着すれば、作るものに繊細さを盛り込むことが可能になったものと考える。

我々は、戦後の一時期、物まね民族と卑下されたものであったが、我々の文化というのは決して物まねではないわけで、文化の大部分は中国大陸の影響を受けたとは言うものの、物まね、猿真似、丸写しではなかったはずである。

そこには我々のアイデアで、かなり厳しく取捨選択されている。

それは聖徳太子の時代からそうであったはずで、その当時から中国はある意味でアジアの先進国であったことは間違いない。

だからといって、我々はそれを鵜呑みにはしなかったが、朝鮮民族はそれを鵜呑みにして近世まで来たわけである。

中国に対する畏敬の念の相違が近世において日本と朝鮮民族の悲喜劇につながっていると思う。

徳川時代に250年間の鎖国をするということも、ある意味で当時の日本の統治者の知恵であったものと思う。

しかし、この250年間の空白というのは、「井戸の中の蛙」状態にいた我々にとっては、西洋先進国との間に大きな文化的ギャップとなったことは周知の事実であるが、それは同時に、日本文化の爛熟の時期でもあった。

もしも、この時期に我々の国が鎖国していなかったとしたら、第2次世界大戦前のアジア諸国と同じ運命をたどっていたものと推察される。

フイリッピンからインドネシア、インド、スマトラというような国と同じ状況に置かれたものと思う。我々は、太平洋の東の果ての小さな小島であったので、鎖国という状況が可能であったが、陸続きの諸国、諸民族ではそうは行かなかったことも当然だ。

そして明治維新で開国してみると、西洋先進国は100歩も200歩も先に進んでいたわけで、それに追いつき追い越せというのが民族としての潜在的な意識となったのも致し方ない。

そして、西洋先進国に追いつき追い越せという過程の中にも、我々のアイデアは遺憾なく発揮されたわけで、その結果として第2次世界大戦で西洋列強を敵に回してまで死闘を繰り広げることが可能となった。

この第2次世界大戦では民族の知恵の精華が非常に克明に現れていると思う。

第2次世界大戦のアジアにおける局面としては、それまでの西洋列強というのは従来どおりアジアで覇権、つまり植民地支配を維持したいという思考は残っていたに違いない。

それに対して我々の祖国は、正面からそれに抵抗を示したわけであるが、中国は本来ならば我々の側に身をおかねばならなかったにもかかわらず、西洋列強の側に身を置いた。

なんとなれば、当時の中国には西洋先進国の植民地としての租界と言うのが各地にあって、我々も西洋列強を見習って租界を持っていたが、我々はそれを自主的に返還して、それに習って列強も租界を中国に返還した経緯がある。

中国は本土内に西洋列強の植民地があったという点からしても、日本の側に立って西洋列強の植民地支配に立ち向かわねばならなかったはずである。

とは言うものの、当時の中国は国民党と共産党、匪賊、馬賊、山賊、海賊、軍閥が入り乱れて、実に混沌としていたわけで、そういう前提条件があったにもかかわらず、我々が無謀にもアジア大陸に進攻したという状況があったことは否めないが、彼らの心中としては日本に統治されるよりは西洋人の統治されたほうがましだという打算があったものと解釈せざるを得ない。

このときの中国の立ち居振る舞いというのは実に見上げたもんだと感心する。

まさしく中国の大人(たいじん)の知恵そのものである。

此処で我々が考えなければならないことは、中国人、ひいてはアジア諸国の人々の対日感情である。

戦後60年を経過して、我々は物心両面で非常に恵まれた生活を今享受しているので、「近隣諸国と仲良くしなければ」、「アジアに顔を向けるべきだ」、「アジアの連携を重視すべきだ」と、奇麗事を並べているが、アジアの諸民族の対日感情というのは有史以来変わっていないということを悟らなければならない。

その根底にある潜在意識は、いうまでもなく華狄秩序であって、彼らから日本を見れば、いまだに我々は夷狄、つまり野蛮人に他ならないのである。

ところが彼らが野蛮人だと思っている民族が、今、世界でアメリカに次ぐ経済大国になっているものだから、彼らは歯がゆくて仕方がないので、愚にも付かない難癖をつけているのである。

彼らもせいぜい知恵を絞って、日本の足を引っ張ることに一生懸命なので、それに対抗するには我々の側も彼ら以上に知恵を絞って対抗しなければならない。

唐突に話が飛躍するが、平成18年1月18日、読売新聞の報道によると、アメリカ・ハリウッドで昭和12年の南京大虐殺といわれているものが映画にされるということだ。

このことは世界中が中国人の言うことを真に受けて、日本人があの事件を引き起こしたということが周知徹底されているということである。

戦前の中華民国、蒋介石の手法が今日になっても依然生きているということに他ならない。

我々の側が、「あの事件は中国側の虚実の宣伝だ」、といくら声を大きくアピールしても、世界は中国人のほうの言を信じているということである。

これは中国人が如何に西洋人、ヨーロッパ系の人々の心をひきつける手法に長けているかということで、我々が如何にそれが下手かということを如実に物語っていると思う。

ただ私は思うに、我々は中国のいうこと、つまり「南京大虐殺は日本が引き起こした」、ということを世界に向けて、真剣に否定してきたかどうか、ということである。

数年前、アメリカ、ワシントンのスミソニアン航空博物館で、原爆投下に使用されたB−29の展示をするというときに、日本の平和団体が抗議を申し込んだことがあったが、 先方はそんなことお構いなしに展示した経緯がある。

先方の意図を覆すことは出来なかったが、日本側の真意をぶつけることには、ある程度の効果があったに違いない。

我々は沈黙に価値を認める民族で、「男は黙って何とかビール」ということを粋に感ずる民族性を持っている。

だから、自分にかかわることでも、口から泡を飛ばして抗議することを潔しとせず、口をつぐんでしまう。

すると先方はこれ幸いにと自己の主張を声高に主張し、周囲の人はその言を鵜呑みにするという構図ではないかと想像する。

あの戦時中に、中国が連合軍側に身を摺り寄せたということは実に知的巧者だと思う。

日本を叩くためならば恥も外聞もかなぐり捨てて、自分たちの宗主国にまで擦り寄るという態度は敵ながら天晴れだと思う。

戦争が終わってみれば、彼らは勝者の側に身を置いていたわけで、見事に日本を叩くという目的を果たしたことになる。

それに引き換え我々の側は、真っ正直に西洋列強、特にアメリカの罠に見事に嵌まり込んだではないか。

国際政治というのは、特に国際連合という国際会議の場は、実質のところ狐と狸の化かしあいの場と心得なければいけない。

我々は、根が生真面目なので物事を真正面かとらえ、「戦争はいけない」、「悲惨な戦争はすべきではない」、「体制を考えもせず人道支援をしなければいけない」、「貧困はなくさなければいけない」、「弱いものは助けなければいけない」、と神様のようなことを金科玉条としているが、世界はそんな奇麗事では回っていないはずだ。

主権国家を代表して国際会議に臨めば、まず第1に考えることは自国の国益だろうと思う。

如何に少ない金で、少ない労力で、負担を如何に免れ、大きな名誉を得るかということに知恵を絞ると思う。

日本が世界でアメリカに次ぐ経済大国だとすれば、金のない国が擦り寄ってくることは火を見るより明かであるが、金を出したからといって、我々の国が世界から尊敬されるわけではない。

だとしたら金の使い方を工夫して、条件付でなければ金を出さないという態度をとるべきである。

またアメリカのように国際連合の勧告を無視して行動しても、そのアメリカに制裁を加える国というのはありえないではないか。

日本の知識人の中には、アメリカ一辺倒の外交ではいけない、アジアの意向も汲み取るべきだなどと奇麗事を言っている人がいるが、無責任極まりない発言だと思う。

我々はアメリカの51番目の州という存在でしか生きておれないではないか。

戦後の日本が独立国などと思い込んでいると、また奈落の底に落ちかねない。

アジアの連携などというのは幻想に過ぎない。

その証拠に、例の6者協議でさえ何時まで経っても結論がでないではないか。

我々がアメリカと疎遠になったとして、アジア諸国がその代替をしてくれるかと考えたら、とてもそんなことは想像できない。

 

東京裁判

 

今日に至ってもアジアの諸国家では、人々の間に日本を夷狄と思う潜在意識が抜け切れていないのに、そういう人々が日本を心から信頼し、日本のためを思うことなどあるわけないではないか。

かって日本が支配した朝鮮や台湾においても、日本内地の納税者の納めた税金がこの朝鮮や台湾に渡って、かの地の社会的インフラ整備がなされたにもかかわらず、支配した事実のみを声高に叫んで、自分たちの受けた恩恵はきれいさっぱり口をぬぐっている人達を我々が信ずることが出来ないのも当然である。

中国の民には人類誕生以来の連綿と生きづいた歴史があることは否めないが、その歴史的遺産として実に巧妙な外交手法を身につけている。

それは相手に対して虚実取り混ぜて話をするというテクニックである。

我々日本民族は非常に淡白なものだから、人に対して嘘を言うことはその倫理観が許さない。

だからトランプで言うところのブラフ、つまり張ったりをいうことを卑怯な行為と認識して、そういうことを軽蔑する気風があるが、先方はそういう意識が最初から存在しないので、外交交渉でも強きににじり寄り、自己の保身のためには恥も外聞もかなぐり捨てても一向に気にならないのである。我々は、一度嘘をつくと、その嘘を隠すために、またまた嘘で塗り固めなければならず、最後はそれが破綻して真実が暴露してしまうが、彼らは一度ついた嘘を何処までも押し通し、最初から欺瞞するつもりで掛かってくるし、真実を究明する気はさらさらなく、嘘がさも真実かのようにふるまうし、嘘を隠そうという気が最初からないものだから、嘘がばれたところでなんら良心の呵責ということを感じていない。

彼らには、嘘は悪いことだから言ってはならないという罪悪感がない。

使えるものは何でもかんでも自己の保身のために利用するというわけである。

彼らにしてみれば、日本というのは何時まで経っても倭の国、つまり夷狄として、野蛮人としての認識しかないわけで、そういう人間に対しては正統な人としての評価をするに値しない、という意識が21世紀の今日においてもいきついているものと思う。

だから日本人が中国の土地、アジアの一角に拠点を置くことをことのほか恐怖心を抱くわけで、我々の側がいくら日中友好を呼びかけ、いくら過去の清算をしても、腹の虫が納得しないのである。

孫子の兵法で言うところの「敵を知り己を知るものは百戦危うからず」という言葉は真理だと思う。我々は、四方を海で囲まれた小さな島に住む住民なので、敵を知るチャンスが少なく、敵、つまり自分を囲んでいる異民族の本質を書物からしか得ることが出来ない。

ところが中国をはじめとする大陸国家では、そういう情報や、自分の周りの異民族の本質というものを肌で感じ、身をもって体験しているので、口先の知識や書物から得た知識ではない皮膚感覚として備えている。

知識などという薄っぺらなものではなく、潜在意識として刷り込まれているわけだから、そういう民族を相手にするときは、こちらとしても相手を繊細に研究して対処しなければならない。

日本ではこういう研究がなおざりにされていると思う。

こういう研究をしても金につながらないので誰も手をつけようとしない。

それで表層の事象に気を取られて、その場その場の対応をしているわけだが、戦前の日本の大陸進出というのは、そういう刹那的な発想ではなかったわけで、そこが今日まで相手から突っ込まれる最大のポイントになってしまった。

我々の思いはアジア大陸の一角に理想的な国家を作り上げ、そこでは五族皆んなで仲良く暮らしましょうというものであったが、この理想は彼らに理解されることはなかった。

なぜ理解されなかったかといえば、それは発起人が日本だったからである。

その前に、彼らには自立する、自らの力で自らの行政を司るという発想が欠落していたからである。

彼らの潜在意識の中には、とにかく力のあるものには盲従するという潜在意識が民族の本質として刷り込まれているので、強権力で上から圧迫されていないことには居心地が悪いわけで、我々の側で良かれと思って民主化をしようとしても彼らには受け入れなかったのである。

戦後の我が同胞の意識の中には、あの戦争、太平洋戦争、大東亜戦争を、「日本が悪いことをした」という認識で塗り固められているが、こういう思考は何処から来るのであろう。

戦争はいうまでもなく政治の一形態であるので、あの戦争で負けたということは、政治としては大失敗であったことは当然であるが、「悪い」「良い」という価値評価はありえないと思う。

現実の問題として、日本がアジアの地で暴れまくったので、それまで植民地に甘んじていたアジアの諸民族が独立のきっかけを得たではないか。

アジアの各地を植民地支配していた旧宗主国、いわゆるイギリス、フランス、オランダという西洋列強の軍事力というものを我々が粉砕したので、それが直接の原因となって、アジアの諸民族が独立を勝ち得たではないか。

だから政治の一形態である戦争について「よしあし」、「善悪」という評価はありえないと思うが、我々は今どうして「日本が悪いことをした」という認識に甘んじているのであろう。

平成18年1月17日、「東京裁判の正体」という本を読んだ。

あの東京裁判、極東国際軍事法廷というものの欺瞞をこれだけ痛快に論破した本は他にないと思う。

著者があの裁判の弁護をしたという点で当事者でもあったわけで、その意味でも真に迫るものがある。

あの裁判は当然のことながら勝者の敗者に対する報復以外のなにものでもないわけで、連合軍、連合国側としても、戦争に勝った以上手ぶらで本国に帰るわけにも行かず、7人の首を手土産にしたという以外、言いようのない裁判だと思う。

だから戦争には勝たなければならないのである。

あの裁判がでたらめだったからといって、それを企画運営したアメリカに対していくら抗議したところで、負けた日本としては何とも致し方なかったわけである。

いくらソ連が国際法規を踏みにじった行為をしたところで、戦争に負けた我々としては、抗議の仕様もなかったわけで、だから一度戦端を開いた戦争には負けてはならないのである。

東京裁判、極東国際軍事裁判がいくら理不尽な裁判だったとしても、負けた我々では如何ともしがたい。

国際社会というのは正義や善意で動いているわけではない。

極めて冷酷な弱肉強食の自然界の法則そのもので動いているわけで、力、武力こそが全能であることを如実に示している。

問題は、戦後の我々は、その力にあえなく屈してしまったことである。

戦後の我々は、あのインチキ裁判をあたかも神の啓示のごとく素直に受け入れて、自然界の法則に屈し、アメリカの力に屈し、ソビエットの横暴に屈し、一人奇麗事をのたまって自己の生を維持しようとしたのである。

あの戦争の前までの西洋列強諸国は日本という国を心底恐れていたと思う。

それは明治維新から太平洋戦争までの日本の国威の向上に恐れをなしていたわけで、ああいう国にこの地球を席巻されたらたまらない、という恐怖心にさいなまれていたが、我々の方は、自国民を如何に生かすかと暗中模索していたのである。

その軋轢が高じて混沌の渦に巻き込まれてみると、我々の方が、矢が尽き刀は折れて敗北という結果なったわけで、その延長線上に、日本に再度同じようなことをさせてはならない、と徹底的な愚民化政策が施されたのである。

その端緒が東京裁判、極東国際軍事裁判であったが、我々の側がこれを実に真っ正直に受け入れたので、連合国側の日本愚民化政策は見事に成功を収めた。

その証拠に、戦後の日本人は、あの裁判を如何にも正義の裁きとして受け入れ、我々の同胞はアジアを侵略して多大な迷惑を掛けた、と本気で思っているではないか。

あの裁判に判事の一人として参加していたインドのパール判事は、日本の無罪を信じ、普通に言われているA級戦犯に対しても全員無罪といっているではないか。

またあの裁判を行わしめた極東軍最高司令官のマッカアサー元帥も、任を解かれた後になって「日本の行為は自衛のものであった」といっているではないか。

それなのに何故同胞である我々の後世代の者たちが、「日本はアジアを侵略し悪いことをした」という認識を持つのであろう。

我々はあまり知らないが、あの裁判の期間中を通じて、A級戦犯にはすべてアメリカ人の弁護士が付いていたが、このアメリカ人の弁護士たちは一様に戦犯と言われている人たちを弁護するに当たり、彼らの無罪を確信していたのである。

しかし、被告にきちんと弁護士をつけて、人道的にも、民主的にも、法的にも、限りなく正規の裁判に似せても、この裁判そのものが見せしめのための手の込んだパフォーマンスであったことに変わりはなく、真実とか正義ということは二の次にして、それぞれの本国に対しての戦勝アピールであったため、その結論は政治的な要因が大きく左右し、無罪ということはありえなかった。

 

精神の倒錯

 

国際社会というのは、はっきりいって弱肉強食の自然界の摂理のまま動いているわけで、奇麗事では生き馬の目を剥く修羅場を生き抜けないのである。

そのことを考えると我々日本人は実に純真で、真っ正直で、生真面目だと思う。

戦争は、国際的には、主権国家の権利として認められており、それには交戦規定というルールがあって、我々は実に忠実にそのルールに則って戦争をしていたが、敵の方はそんなルールを頭から無視して戦争していたわけである。

国家総力戦というのは、交戦規定に反しているわけで、我々は一生懸命そのルールを守ろうとしていたが、敵の方はそんなことお構いなしに非戦闘員を殺戮し、原子爆弾を使ったのである。

戦後の我々同胞の間の平和主義というのも、国際常識を逸脱した独りよがりの独善的な発想であることは論を待たない。

あの裁判は現時点では勝者の欺瞞そのものだ、ということが世界的に識者の間では普遍化しているようだ。

ところは我が国では正義の審判という認識が蔓延している。

我が国の人間があれを神聖化して、外国の人がそれを笑っている図である。

この現実を見るにつけ、我々はあまりにも自虐的な思考に陥っていると思う。

なぜそういう発想が生まれてくるのかと考察してみると、今、我々の置かれている状況というのはこの地球上でも一番幸せで恵まれた場所にいるからだと思う。

つまり、「金持ち喧嘩せず」という俚諺のとおりで、我々にはこれ以上苦労してまで得なければならないものというのはありえないわけで、何もかもが満ち足りているので、こういう飽食の時代になると人に善を施したくなったということではなかろうか。

貧乏人にならば、他人に善を施すゆとりはないが、金持ちならば、そのゆとりがあるわけで、善を施すのに自分が善人では偽善がましいが、自分が悪人ならば、贖罪ということがおおぴらに披瀝できるわけで、そのためには自分が大悪人であったということを宣伝しなければならないからこういうおかしなことになると思う。

あの戦争を体験して、我々は悲惨なめにあった。

だから「もう二度とああいう悲惨な戦争はやめましょう」といっているが、そんなことは人類誕生以来の悲願なわけで、いまさら声高に叫ぶべきことではない。

あの東京裁判でただ一人全員無罪を主張したインドのパール判事は、その後広島の原爆慰霊碑を参拝して、その碑文に書かれている「もう二度と繰り返しません」という碑文を読んで憤慨したといわれている。

彼の発想の中には、被害者であるべき広島の人が「もう二度と繰り返しません」とは何事かというものである。

まことに当を得た感想だと思う。

しかし、広島市民も、そこを訪れた観光客も、平和団体も、その碑文の言っていることの不可思議なことに気が付かないということは一体どういうことなのであろう。

広島に原爆を落としたのはアメリカであって、そのアメリカが「もう二度とこういう悲惨なことは繰り返しません」というのならば納得がいくが、それを被害者の側が言う不可解を誰も指摘しなかったわけである。

パール判事の心中では広島市民は「馬鹿か!」と写っていたかもしれない。

被害者の側が謝っている不可思議を「馬鹿」と思うのは当然だと思う。

この精神の倒錯は一体何処からきているのであろう。

この精神の倒錯の延長線上に、我々の自虐的歴史観というものがあると思う。

あの極東国際軍事法廷の判決を正義の鉄槌と捉え、あれを正しい判断だとする歴史観があるものと考える。

国際間において互いの信義が通用するとすれば、あの裁判は完全に国際法に違反しているわけだが、彼ら勝った側がいくら国際法に違反していようとも、それを正す手法を人類は持っていないわけで、所詮は、力の前に屈服して膝まつくほかないということである。

そして我々は連合国という勝者の前に膝まついたわけであるが、それがどういうことか判らないから、勝者の行った報復裁判を正義の判決として受け入れたに違いない。

問題は、連合軍側の行為が、我々を侮辱するものだ、ということが理解できない我々の能天気な気質である。

これこそ四周を海で囲まれた小国の「井戸の中の蛙」的、唯我独尊的な偽善というか、独善というか、世間知らずというか、政治的には三流四流の民族のなせる技だと言わなければならない。我々が全地球規模で笑われていても、今、現在こうして飽食な生活が出来ているのだから、我々の同胞としては、誰一人痛痒を感じていないわけで、だからこそ自分たちが被害者であることも忘れて、「もう二度と過ちは繰り返しません」とのんきなことは言えているのである。

自分たちが世界的規模で馬鹿にされていることが判っていないものだから、中国が「首相の靖国神社参詣は罷りならぬ」と言うと、我々の同胞の中からでさえ「そうだ1そうだ!」と中国に共鳴する馬鹿が現れるのである。

あの戦争で我々が負けた敗因の第一は、我々はウイーン条約の交戦規定を限りなく遵守しようというとした武士道に則って戦いに臨んだからだと思う。

近代の戦争はすでに国家総力戦の様相を呈していたにもかかわらず、我々は古式ゆかしく武士道の精神で戦おうとして、武士としてルールを遵守し、男と男、戦艦と戦艦、槍と槍、刀と刀、非戦闘員を戦に巻き込まず、女子供を傷つけず、古典的は戦を想定したいたからだと考える。

昭和16年12月8日の日本の真珠湾攻撃でも、我々は湾内の軍艦のみを攻撃して、軍港としての付属設備は無傷のまま引き上げてきている。

そのことは直ぐに戦力の回復が可能だということであった。

あの広い太平洋でも我々は敵の輸送船は全く攻撃しなかったが、我々の側の輸送船はことごとく沈められたわけで、沖縄戦でふと気が付いてみると、敵の物資は山のように目の前に現出したわけである。

我々はアメリカの物量に負けたと思い込んでいたが、何のことはない、我々の側はアメリカの輸送船を沈めなかったから、結果的にアメリカの物量に負けたということになる。

あの戦争を通じて我々の倒すべき目標は、アメリカ側の直接的な兵器、つまり軍艦や戦闘機とかB−29という直接的なものしか我々は倒そうと考えなかったわけである。

ところが敵のアメリカ側は、日本内地の非武装の民間人の住む家まで焼き尽くして、それによって兵器を作る機能を麻痺させる魂胆で、主要都市の空襲ということを実施してきたのである。

そして、海外に進展した兵力の息の根を断つために、日本の輸送船を片っ端から沈めたわけで、結果的に兵站が絶たれ、孤立して全滅、玉砕という結果になったのである。

これを総括してみると、我々はあくまでも武士道の精神に則り、ウイーン条約の交戦規定をまことに従順に遵守していたにもかかわらず、人道の罪とか、平和を乱したとかで裁かれる愚をどう解釈したらいいのであろう。

先方は我々日本人を猿ぐらいにしか見ていないので、ウイーン条約などさらさら守る気がなかったということである。

これが国際社会を生き抜く哲理だろうと思う。

これこそ人として、人間として、人類として自然の摂理のままの弱肉強食の生き様だと思うが、戦後の我々は、飽食の中で生かされていたので、こういう自然のままの姿を理解することが出来ず、奇麗事並べて、理想を掲げ、それに達するように努力することが善だと思い込んでいる。

それはそれで正しいが、人の織り成す社会というのは、奇麗事や善意では通らないわけで、現実を直視して、現実に沿った判断をしなければ、結局のところ苦労を背負い込むことになるのである。

 

メデイァの功罪

 

ところが戦後の日本の知識階層というのは、この理想を声高に叫んで姦しかったが、政治家というのは絵に描いた餅を眺めているだけでは実績にならず、現実に呼応して現実問題をそのつど処理しなければならないわけで、知識階層の言うことを直ぐには取り入れることが出来なかった。

政治というのは独裁体制でない限り、国民の声を大なり小なり反映するものであり、それは戦前の政治も戦後の政治も変わらないはずである。

ところが戦後の言い方によると、戦前は「軍部の独裁」という風に言われているが、これも言葉として少々おかしいものを含んでいると思う。

「軍部の独裁」という言い方は厳密に言うと成り立たないのではないかと思う。

軍部というものがたった一人の人間を指しているのならばそれもありうるであろうが、軍部という以上、複数の人間の集合体、いわゆる組織としての存在をさしていると解釈すべきだと思う。

もう少し厳密に言うと、日米開戦当時の政治の状況は、東条英機が首相のほか陸軍大臣やその他の役職も兼任していたことから考えると独裁に極めて近いといえるけれども、完全なる独裁政治ではなかったと思う。

しかし、あの状況下、ABCD包囲網という経済制裁の締め付けの中で、東条英機が首相に指名されたということは、あの当時の日本の国民の総意が反映されていたと見なさなければならない。

実際に東条英機を首班指名したのは木戸幸一といわれているが、彼がそう思う根底には、東条ならば陸軍を抑えて、日中戦争を収拾し、日米開戦を回避してくれるのではないか、という国民の期待に答えてくれると思ったからである。

ところが現実の政治はそうはならなかったわけで、その過程において、当時の日本国民のそれぞれの思惑が渦巻いていたものと想像する。

この過程において、当時の日本国民の総意が少なからず反映しているのではないかと思う。

いうまでもなく、日本国民がそういう気持ちになるということは、その前にマス・メデイァの活動抜きにはありえないわけで、昭和初期の日本人はメデイァの活躍によって「鬼畜米英、撃ちてし止まん」と本気で考えていたものと思う。

メデイァというは、古今東西まことに無責任なわけで、言いぱなしで済むわけである。

自分の言ったことに責任をとるということは一切ないわけで、記事が面白おかしければ、それが真実であろうが嘘であろうが、お構いなしである。

3面記事ではよく「裏を取る」などということが言われて、あたかも嘘ではないということを強調しがちであるが、こと政治や外交のことになれば、裏の取りようがないわけで、憶測で記事を書かなければならないことは当然である。

此処にマス・メデイァが大衆をミス・リードする危険性が潜んでいる。

戦後ではマス・メデイァが世論をコントロールする気遣いさえ出てきている。

戦後の日本のメデイアは反政府を旗印にして、「権力を監視する」などと奢り昂ぶっているので、中国の言うことはそのまま素直に受け入れているが、自分たちの政府の言うことは眉唾物という姿勢で貫かれている。

そしてメデイアと言うものは、自分たちで集めたさまざまな情報から、自分たちの気に入った情報のみを流すという機能も併せ持っているわけで、自分たちにとって不都合なものは流さずにおくという手も使えるわけである。

どの情報が自分たちにとって有利で、どの情報は伏せなければならないか、という判断はひとえにメデイァ側が握っている。

我々は流されてきたものの中から自分の気に入ったものを取捨選択するほかない。

冒頭の上海の領事館員の自殺なども、また中国のいう靖国神社の件も、日本のメデイァが報道しなければ国内の騒ぎは起きず、中国側も外交カードとして切り札になりえなかったはずである。

1991年のソビエット連邦の崩壊も、メデイァの果たした役割は大きなものがあったと思う。

あの時はハンガリーだったと思うが、ある検問所が開放されたというニュースが流れて、そこに民衆が殺到して、それが雪崩現象を起こし、取り締まる当局側で収拾がつかなくなり、結果的に祖国の解放につながった。

21世紀に入って、あらゆる局面でメデイァの果たす役割は極めて大きなものになりつつあるが、メデイァというのも両刃の刃と同じで、メデイァに踊らされるのではなくて使いこなさなければならないと思う。

だから統治者というのはメデイァに神経を使って、懐柔したり、締め付けたりしてそれをコントロールしようとするが、それは何処までいっても姑息な手段というほかない。

基本的にはメデイァも愛国心を持って、祖国に忠実であるべきであるが、メデイァの扱う素材、つまりニュースというものが国際化しているわけで、世界の隅々から集まってくる情報に自分なりの価値観を与えて視聴者に送り出さなければならない。

その際にはどうしても偏向というフィルターが掛かってしまいがちである。

さまざまは情報の中から、メデイァの意向に沿った情報のみを、大きく拡大したり、ある特定の国が不利益をこうむるような場合は、その情報を隠匿したりして、相手国を利し、自分の祖国に損害を与えて悦に入っているのが日本のメデイァの主体性である。

主権国家の首脳の考えていることと、つまり為政者の考えることと、メデイァが良かれと思っている価値観の間には大きなずれがあるものと思う。

湾岸戦争のとき、アメリカCNNのテレビ・クルーが戦場にまで入り込んで、戦禍をいちいち報告していたが、これなども国家、いわゆる為政者の立場からするとまことに不都合なことだと思う。

こんなことは中国や旧ソ連では許されることではなく即刻反逆罪で刑務所に入れられてしまうに違いない。

だから民主化の度合いの低い国では為政者がメデイァを押さえつけて、その活動をコントロールし、為政者、国家にとって不都合なことを勝手気ままに報道させないように上から押さえつけているではないか。

中国などそのもっとも顕著な例である。

我々の国で少しでもそのようなことをしようものならば、それこそ憲法違反で逆に糾弾されてしまう。だから朝日新聞のように、自分の国よりも中国の国益に奉仕するようなメデイァでも、日本では生きておれるが、中国では一日たりとも存在しえないであろう。

戦後の日本のメデイアというのは完全に日本人というアイデンテイテイを失ってしまって、まるで無国籍者の集団と化した状態である。

メデイァの流す情報というのは、誰かがどこかで取材をしたものを、活字として編集したり、映像として編集しなおして流しているわけで、その過程で編集者としての偏った思考が挿入されることは先に述べたとおりであるが、虚偽の報道をされるのがいやならば、取材の時点で、その取材そのものを拒めばいいと思う。

平成18年1月17日の午後、NHK TVでは耐震強度疑惑の問題で、ヒューザーの小島社長の国会喚問を放映していたが、それを見ている限り、彼は「拒否します」とか、「答えられません」という言葉を連発していた。

マスコミに対する対応というのはあれでいいと思う。

あの状況は、国会喚問という場面で、マスコミの取材とは異なっており、同列には論じれず、小島社長の社会的な責任は免れようもないが、マスコミに対する受け答えとしてはあれでいいと思う。

首相をはじめとする政府要人の記者会見では、失言を引き出そうという意図のもとに、記者の方が鎌を掛けて質問するものだから、それに引っかからないように、言葉尻をつかまれないように、答えるほうも慎重にならざるを得ず、歯切れの悪い応対になっている。

メデイァの方は、あの手この手で何とかして当局側の失策を引き出そうと、いろいろと画策して、誘導尋問まがいの質問をぶつけてくるので、答えるほうも言葉を選ばなければならない。

メデイァの側のこういう態度は、突き詰めれば資本主義体制の中の自由競争の原理が作用しているわけで、メデイァの中の同業他社との競争が熾烈なる我ゆえに、何か目新しいインパクトのある特種を得たいという心理が大きく作用していると思う。

これはいわゆる過当競争なわけで、メデイァの業界が過当競争に明け暮れているので、何とかして他社を追い越して存在感をアピールしたいという気持ちがそういう状況を作り上げているものと思う。

行政や政府の言うこと、言ったことをそのまま流しているだけでは、メデイアとしての存在感が疑われるわけで、そのためには反政府、反体制のポーズをとることで、庶民の味方だということを視聴者に大きくアピールしているものと考える。

これは一言で言えば、商業主義に押し流されている姿なわけである。

ところがメデイァの中の人間というのは、どちらかというと高学歴な人が多いわけで、高学歴なるが故に、共産主義、社会仕儀に対しても非常に寛大である。

だから自らが共産主義や社会主義に寛大なものだから、メデイァに携わっている人達の視点、視野、先入観がそちらの方に大きくスライドしてしまっている。

戦後の日本の政治家、特に自民党内の保守派といわれる人々でも、非常に物分りが良くなって、かなりの人が共産主義や社会主義に寛大で、理解を示す人が多くなったが、それでもメデイァの中の人から比べると非常に保守的に見えるわけである。

だから、メデイアというのは常に政府や与党や官僚を攻撃して止まないが、こういう攻撃にさらされている人達は実績が問われ、実績で評価される。

ところがメデイァ側の人々は、彼らの実績というものが問われることがないわけで、言いたい放題、言いぱなしで済んでしまっている。

自分たちが報道したことの責任が問われることがない。

冒頭に述べた上海の総領事館員の自殺の問題などは、本来は外務省の失態のはずである。

問題の本質は外務省の失態であったはずであるが、その外務省の失態を日本のメデイァは自分たちの嗅覚で嗅ぎ取れなかったということだ。

週刊誌が嗅ぎつけたので、その後追い報道であったわけで、その意味で外務省の失態もさることながら、同じ程度に日本のメデイァも、これほど重大なニュースを見落としていたという意味で厳しく糾弾されるべきだと思う。

そして、日本の首相が靖国神社を参拝し、それを中国が厳しく批判すると、今度は逆に日本のメデイァが誇大に報道するものだから、それが先方の大きな外交カードになってしまったではないか。

中国の首脳の発言など、大きく取り上げずに、客観的な事実だけをそ知らぬ顔で流しておけば、外交カードなどになりうるわけがないではないか。

この問題は、日本のメデイァがフレーム・アップした問題だと思う。

その根底のところには、日本のメデイァの人達には日本を愛する気持ち、自分の祖国・日本を愛する気持ちというものが全く存在していないわけで、我々は中国や韓国の属国になることこそ日本人の幸福につながるという思い込みがあるからだと思う。

自分の国、自分の祖国は貶めるところまで貶めて、中国や韓国に奉仕して、これらの国から勲章でももらえれば、それが日本民族の幸せにつながるに違いない、と思い込んでいるとしか思えない。

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