051209001

耐震強度偽造問題に関連して

被害者の態度

 

姉歯建築士の耐震構造の欺瞞が発覚してからというもの、世間ではビルの耐震構造の問題で姦しいが、この問題は日本人のモラルの問題に起因すると思う。

当然、第一原因の一級建築士たるものが法で定めた規則を無視した行為が真っ先に責められるべきである。

地震にも堪えられるビルを設計するという意味で、国家資格として一級建築士なる資格免状が発行されているにもかかわらず、その有資格者が率先して法に逸脱した行為をしていたわけであるから、これはもう弁解の余地がない。

だが、そうはいうものの、その法律違反に対してその被害があまりにも甚大であるので、問題が複雑化しているが、しかし、視点を少し変えて眺めてみれば、我々が毎日使っている車の運転にも資格審査を通った人が、国家から免許証を発行してもらって運転していることに変わりはない。

にもかかわらず、交通違反というのは後を絶たないし、その被害も甚大なものがあり、人命も相当に損なわれている。

姉歯建築士の所業も、これと全く同じ構造で、本人はさほど悪いことをしたという意識はないと思う。「交通違反なんか誰でもしているではないか、法律違反など誰でも多かれ少なかれしているではないか」という意識ではなかったかと思う。

交通違反も、警察官に捕まらなければそれで何事もなく済んでしまうわけで、彼の心境もこれに類するものではなかったかと思う。

問題は、彼の違反に誰も気が付かなかった点にあると思う。 

巷には交通違反者が掃いて捨てるほどいるのに、それを取り締まる警察力がついていけず、たまたま運の悪いものが餌食になるという構図と同じだと思う。

彼の場合で言えば、彼の設計したものに建築許可をあたえるかどうかの査定は最終的には行政が担っているわけで、その意味で行政の責任が問われることは致し方ない。

この問題が浮上したとき、「食堂に入るのに毒があるかもしれないと思って入る人がいるだろうか」と言って、一級建築士の設計したものに不信感を持つことの不合理を突いた人がいたが、その論理で行けば、「車の免許を持った人が運転するのだから、事故は全くないのが当然だ」という論理になる。

これは免許をもった人ならば全員優良運転手であるという論理と同じなわけで、行政指導というか、行政としての本質を放棄した言辞である。

お医者さんは全員医師免許を持っているはずだから、誤診はありえないと言うのと同じではないか。

国家が審査して免許を与えたのだから、有資格者は決して法に反するようなことをするはずがない、という発想はあまりにも幼稚すぎるのではなかろうか。

この点で行政として有資格者の管理が不十分であったという責を攻められても致し方ない。

しかし、私が注視したいのは被害者の態度である。

犯罪には、被害者と加害者という立場の違いがあるのは当然であるが、世間一般では被害者の方にすべての同情が行ってしまっているが、果たしてこれで本当にいいのだろうか。

いたいけない少女を殺すというような事件ならば、当然、被害者の側に落ち度がないのははっきりしているが、今回のように高額なマンション購入やホテルの建設に関する事犯においては、それを購入する側にも一抹の責任があるのではなかろうか。

世にブランド品の偽物というのは掃いて捨てるほど出回っているわけで、偽物をつかまされて泣きを見る被害者というのは後を絶たないと思う。

マンションの購入やホテルの建設にもこういうことが言えているのではなかろうか。

だからといって耐震性の弱い建物を作ったり売ったりしたものを擁護する気はさらさらないが、マンションを買いたい人にとっては、出来るだけ安くて、出来る限り大きいものがほしいのは当然の心理だろうと思う。

その意味ではブランド品の偽物をつかまされた人と同じ状況ではなかろうか。

こういう偽物を作ったり売ったりする業者を容認する気もさらさらなく、そういうことが犯罪だということも十分納得できるが、この事件がおきたときにテレビで報道された被害者たちの言い草があまりにも横柄な態度であったので、見ている側としても嫌味の一つも言いたくなった。

事件が発覚して、行政側が「そんな耐震性の危うい建物は使ってはならない」と、使用禁止命令を出すと、被害者たちは「今晩から道路で寝ろというのか」、とか「引っ越してきたばかりなのにまた転校させるのか」とか、自分の都合のみを声高に叫んで、自分たちがいい加減な悪徳業者を見抜けなかった、という自己責任の観念は全く見られなかった。

そこには自分たちが偽物をつかまされたのは、自分たちの業者を見抜く洞察力に欠けていたから被害にあった、という反省の念が全くなく、悪いのは業者であり、行政であるという責任転嫁の構図である。

悪いのは、そういう物件を作ったり売ったりした業者であることに変わりはないが、何千万という高額の商品・マンションを購入するというのに、業者の言うことを一方的に信用するというのも間の抜けた話だと思う。

商売人の口車に乗せられて偽物をつかまされる構図と何一つ変わっていないではないか。

この問題に関していえば、姉歯秀次という一級建築士の設計した物件だからきっと間違いはないだろうということで、建築確認もそのまま無審査に近い形で通り、それを購入した人達も、何の疑いももたずそれを信用していたと言わなければならない。

その意味からすれば、建築確認を通した行政も、この場合は民間に委託された業者であるが、それを購入した被害者も、その瑕疵を見抜けなかったという意味で同じ程度に落ち度があると思う。

建築の設計などということは、普通の人ではその瑕疵が見抜けない、というのはもっともな議論だとおもうが、だとすればそれは運が悪かったというほかない。

テレビに放映されていた被害者の姿というのは、被害を受けたことによって自分たちは絶大な権力を握ったかのような傲慢な態度で行政の側をなじっていたが、そういう人間だからこそ、偽物をつかまされるといってもいいと思う。

ブランド品の偽者をつかまされて地団駄踏む構図と同じなわけで、そういう愚を犯さないためには、ある程度の標準価格のものを購入するということであろう。

しかし、この事件においても、またJR福知山線の列車事故の際にも、被害者というのは何故ああも傲慢な物言いをするのであろう。

あれはテレビという媒体が、ああいう過激な場面のみを好んで放映するということであろうか。

仮にそうであったとしても、テレビカメラの前で現実にああいう態度をしたから、それが映像として流されるわけで、事件に直面して取り乱したから、その人の本心、本音、赤裸々な精神状態が生のままで露呈したということであろう。

マス・メデイアと言うのはニュース・バリューがないことには映像として送り出すことはしないわけで、被害者が自分の愚に自分自身で愛想を付かせて、沈黙してしまえば映像としてニュース・バリューを失っているわけで、それではニュースとして成り立たず、大げさに憤慨している人を映像として採用するということであろう。

被害者の心中は察して余りあるものがあるが、それは事件を知れば当然誰でも同じようにそういう心境になると思う。

尼崎の列車事故が起きれば、日本全国の人が被害者として亡くなった方や怪我をした人の心中を察して、気の毒に、可愛そうにと感じていると思う。

にもかかわらず、テレビの画面で、被害者という人達が傲慢な態度で出てこられると、見ているほうが嫌気がさす。

 

責任の所在

 

それはさておき、問題の本質は、やはり意図的に耐震強度をごまかしてもそれが見破れなかったという点にある。

国家の資格検査というものは基本的に法を遵守するということが前提に出来ているわけで、お医者さんでも、弁護士でも、会計士でも、建築士でも、法に触れる行為をしないことを前提に、法に触れないようにセルフコントロールし、それを事前にチェックするという前提で成り立っていると思う。

だから冒頭に述べた運転免許証でも、基本的に運転免許証を取得した人は全員法令違反はしないというのが建前のはずである。

ところが、実際には法令違反をする人が掃いて捨てるほどいるので、ネズミ捕りなどという卑劣な行為をしてまで、その法令違反者を取り締まらざるをえないのである。

ところが建築確認の際には、「有資格者が設計したのだから間違いはないのだろう」というわけで無審査で通っていたということである。

こんな馬鹿な話もないと思う。

これでは行政が行政足りえていないではないか。

交通違反を取り締まるお巡りさんが、皆、サボっているようなものではないか。

白バイ隊員が喫茶店でコーヒー飲んで、さもやったように報告書を出しているようなものではないか。こんな馬鹿な話も無い。

建築確認申請がだされたら、行政の該当部署は当然それをまじめに審査し、不具合があれば直ちにそれを指摘し、是正措置をとらせるのでなければ行政が行政足りえないではないか。

姉歯氏にしてみれば、鉄筋を減らさなければ次の仕事がまわしてもらえない状況に置かれれば、悪いと知りつつも手を染めざるを得なかったという事情はよく理解できる。

だからといって彼の行為が容認されるものではないが、問題は、それほどまでしてコスト削減に徹しておいて、なおかつそれを人の売りつけるという行為である。

その腹は、出来るだけたくさんの利益、利さやを含ませようということでしかない。

建築物というのは大きな買い物のはずで、施工主とか、発注者とか、売り主とか、この場合でも権限がさまざまに分かれている。

しかし、自分たちの扱っている建築物が違法なものである、ということはこの関係者の全員が承知であったと私は考える。

問題は、それを見破れなかった行政の側にあると思う。

そこでは、この建築確認をイーホームズという民間企業に委託していたということであるが、此処が諸悪の根源だと思う。

本来、行政がすべき業務を委託されているのであれば、このイーホームズは行政サイドの立場で業務を進めなければならなかったにもかかわらず、業者側の立場に立っていたわけで、これでは適正な審査がなされないのも当然のことである。

本来、行政がすべきことを民間に委託するというのもおかしなことだと思う。

スピード違反の取り締まりを民間に委託するというのと何処が違うのであろう。

この件に関して、行政は耐震性に疑義があるということで、直ちにその建物を使用禁止にして、入居者に対して立ち退きを勧告しているが、震度5の地震で倒れるかもしれないということは事実であろうとも、それは来てみないことにはわからないわけで、自分たちの責務であり職責でもある確認申請にはろくに目も通さないのに、来るかこないか判らない地震に対しては直ぐに対応するというのもどうかしていると思う。

「人命が掛かっている」という大儀を振りかざして、直ぐにでも出るように勧告しているが、これもおかしなことである。

これは行政というものが、口先で安易に出来ることはすぐするが、手間のかかる難儀なことは人に転嫁している、民間に委託という形で責任転嫁していることを如実に示していると思う。

「この建物は危険だから直ぐに出なさい」という命令は、口先の行為で、何時でも何処でも言えるが、建築確認申請書というのは膨大な厚さの書類なわけで、その全部に確実に目を通し、不具合を探し出すということは、再度同じ書類を作るのと同じ程度の努力を要することなので、そちらの方の仕事は口先でこなせるものではない。

だからそれを委託されたイーホームズという会社は、ろくに精査もせずにOKを出したので、こういう事件になったものと考える。

ここに現れている関係者の相関図というのは、すべて欲望の絡んだ自己中心的な思考のみで、これは姉歯秀次氏一人の犯罪ではない。

彼がこの事件の突破口になったことは否めないが、確認申請の欺瞞ということは、構造的な犯罪であるように思う。

そして欠陥住宅、欠陥建物と知りながら売買したことは、会社ぐるみの組織的犯罪であり、構造的な犯罪だと思う。

姉歯氏に耐震強度に満たないような設計を強いたのは木村建設の東京支店、支店長篠塚氏となっているが、此処でもう金の問題が絡まっているではないか。

姉歯氏は「自分の引いた図面はプロが見れば不具合が判るものだ」と本人が言っているわけで、それほど明瞭な不具合事項にもかかわらず、誰もそれを指摘せずに通ってきたということは、はなはだ遺憾な事態だと思う。

当然、木村建設の東京支店長篠塚氏も、コストダウンの見地から「安く仕上げてくれ」という要求は出したと本人が言っているが、此処で問題になることは法に反してまでコストを削減するかどうかという点に道義心が問われる。

姉歯氏は木村建設側が「法に反してもコストを下げよ」と要求していると思っていたわけだし、木村建設側は「法に反してまで鉄筋を減らせといった覚えはない」というわけで、水掛け論である。

姉歯氏と木村建設の立場は、木村建設側が姉歯氏側に仕事を発注する立場として、その力関係は木村建設側の方が断然強いと思う。

姉歯氏の言葉の中にも「代わりはいくらでもある」という形で恫喝されていたわけで、こういう環境の中で、仮に姉歯氏がきちんと法に則った図面を書いたとすれば、今度は彼が生きていけない状況に追いやられる。この問題の悪玉の張本人は木村建設だろうと思う。

 

行政の瑕疵

 

しかし、法に反してまでコストダウンを強いられた図面が、ほとんど無審査に近い形で建築許可が下りて、それによってマンションとかホテルが実際に作られてしまった点が最も憂うべきことだと思う。

出来上がったマンションなりホテルが耐震基準を満たしていないので、取り壊して作り直すということは、ただではできないわけで、誰が一体その費用を負担するのだろう。

木村建設は事件が発覚した時点で倒産してしまって、いわゆる売り逃げというか、責任を放棄してしまったわけで、被害をこうむったのは結局のところそれを買った購入者である。

マンションなどというものは、ある種のブランド品とは違うわけで、ブランド品ならば騙されたといっても命に直接かかわることはないが、耐震強度が不足した建物というのは、地震が来たときの不安を抱えて生きなければならないわけで、そのために行政がきちんと建築確認をして設計図に瑕疵がないことを確認した上で建築許可を与えているはずである。

そういう意味からして、図面の検査をいい加減に済ませたという点で、行政の側にも大いに責任が生まれていると思う。

前にも延べたように、これでは行政のチェック機能が全く機能していないということである。

だからといって取り壊しの費用、立替えの費用というものを行政が全部負担するということも、納税者としては納得の行くものではない。

震度5の地震がくれば倒壊する建物を作ったのは、建築業者であり、それを売った販売会社であるわけで、当然これらの会社は責任の大部分を負わなければならないが、これらの会社が倒産してしまってもうこの世にないということであれば、その尻拭いが行政に降りかかってくることは明らかである。

そのとき、行政の側は明らかに自分たちの職務怠慢によってこういう事態が引き起こされたのであるから、行政の個々の人間が、そのセクションの個人個人で、その責任を負うということであれば納税者としても納得がいく。

しかし、役所の個人の瑕疵を個人的に償うなどということが今までにありえたであろうか。

単純な公金横領程度の事案ならば、個人の給料から返済とか、その人の資産から返済ということがあるだろうが、役所として組織的に過失を犯したわけで、そういう場合に役所の個人が、その補償を個人的に補填するなどということがありえたであろうか。

役所のあるセクションの瑕疵でも、それは役所全体の責任ということにして、結局のところ納税者の金、つまり税金で補填するというのが今までの慣例ではなかろうか。

で、そのことは役所の個人の失敗を、納税者の全員が分担して支払い、その人が役所を退職するときには、膨大な退職金を支払うという図式になる。

こんな馬鹿な話があっていいものだろうか。

小泉純一郎氏の推し進める行政改革の一環として、行政のあらゆる面を民間に委託する方針を推し進めていたが、それがこういう形で不具合を露呈してしまったわけである。

その前提条件になっていることが「一級建築士が設計に関与しているのだから問題はない」という発想、思い込みではなかったかと思う。

論理的には確かにその通りであろうが、有資格者だからそういう人のすることは間違いがないだろう、と思うのはあまりにも幼稚すぎるのではなかろうか。

先の例にも示したように、車の運転でも、車の車検制度でも、国家がその人の技量や技術を認めたにもかかわらず、警察は常にその実施具合を監視しているわけで、建築確認申請ということも、それと全く同じことではないのか。

建築確認申請を民間に委託するというのも、車検を民間のデイラーに委託することと全く変わらないわけで、それは全体として行政の仕事の軽減につながっているはずである。

 

法が内包する矛盾

 

問題は国家から厳しく監視されなければ、法を遵守することができないという我々、国民の側の遵法精神の欠如だと思う。

法、法律というのは、国民が守らなければならないミニマムの規則なわけで、ミニマムの規則だからこそ、それを守らなかった場合は罰則が科せられているのである。

道路交通法で、制限速度40キロの道路は、40キロ以上で走れば危険だから、ミニマム40キロで走りなさいよということである。

それ以上で走れば危険だからこそ、これに反したときは罰則を科しますよ、ということでネズミ取りが行われるのである。

しかし、いくら制限時速を遵守して40キロで走っていても、事故に会ったときに国家が補償してくれるかといえばそれは全くないわけで、いくら40キロで走っていても余所見をしていれば事故は当たり前ではないか、と切り替えされて事故の補償にはありつけないのである。

車検制度でも全くそれと同じで、車検にいくら合格しても、故障が起きれば自分の保守点検が悪かったからだ、と切り返されてしまうわけである。

法というものは、その成立の段階からこういう矛盾を内包しているものである。。

当然、これとおなじようなケースが建築基準法にもあるわけで、何階以上の建物には直径何センチの鉄筋を何本入れなさいよ、というものがあるはずである。

それを満たさないと震度5の地震では倒壊する可能性があるから、という理由付けがなされているはずである。

しかし、いくら建築基準法を満たしていなくても、地震さえなければなんら不都合はないわけであり、仮に地震が来たとしても必ず倒壊するとも限らないと思う。

国家の施策としては、建築基準法を遵守していればたぶん安全なのであろうという見込みの安全対策であることはいうまでもない。

姉歯一級建築士もそんなことは重々分かっていることだと思う。

しかし、発注元が法を犯してまでそれを要求してきたということは非常に由々しきことで、此処に個人としての順法精神の度量が試される場面であろうと思う。

そして、それを強要した木村建設と、不良物件と知りながらそれに許可書を発行したイーホームズという会社は、安く建物を作って、それを高く売りつけて、問題が発覚したら会社を倒産させて売り抜けたわけで、得た利益は上手に隠匿したということになる。

結局は、消費者を食い物にしたという構図である。

問題をこういう視点で眺めてみれば、消費者は偽ブランド品を掴まされたということと同じである。

この問題に関して、12月14日に衆議院国土交通委員会が証人喚問を行った際、その全容がテレビで放映されたので時間の許す限りそれを見ていた。

午前中は姉歯秀次氏に対して各党が尋問にあったが、最初に喚問に立った自民党の渡辺具能という代議士は一体なんであったのかといわなければならない。

17日の朝日新聞26ページの報ずるところによると、「40分という持ち時間のうち33分も自分がしゃべってしまった」、とテリー伊藤が言っていると報じているが、テレビを見ていた限りにおいて全くその通りであった。

それに関連して、自民党幹事長の武部勤氏が素直にその事態を受け止めているようであるが、テレビを見ていた限りにおいては、明らかに誰の目にも渡辺具能氏の愚昧さが露呈していた。

耐震強度偽装という今回の事件に関して、社会的な道義心の欠如というのはあらゆる階層にいきわたっている感じであるが、国会議員たるもののこの愚昧さというのも実に嘆かわしい問題だと思う。

渡辺具能のものの言い方や言っていることが不具合というわけではないが、証人喚問ということに関して、その証人喚問の意味、意義ということ全く理解していないのではないかという点に愚昧さが現れている。

この事件が発覚して以来というもの、あらゆるマス・メデイァは姉歯秀次一級建築士の欺瞞を報道しているので、国会の証人喚問というからには彼から、どうしてそういうことをするに至ったか、圧力があったかなかったか、強制があったかなかったか、関係者は誰々ではないか、等々のことを彼の口から語らせなければならないはずなのに、自分の調べてきたことをとうとうと並べ立てて、自分の手柄話をしているようなもので、喚問の意味を成さない状況であった。

この点に関しては、彼をこういう場で喚問する立場に置いたという自民党の人選に問題があるわけで、自民党幹事長の武部勤氏は素直にそのことを認めている。

各党の代表が入れ替わり立ち代り質問に立った中で、この渡辺具能氏が一番年長のように見受けられたが、その年長者が一番なさけない質問をしたわけで、国会議員というものが、この程度の人間ばかりかと思うとまことに情けない限りだ。

武部幹事長の嘆きはもっともだと思う。

この問題が発覚したとき、武部幹事長は「この問題をあまりつつくと日本経済の足元がぐらつきかねない」といっていたが、いよいよ日本経済の根幹がぐらつきかねない事態になりつつあるように思える。

耐震強度の欺瞞ということは、姉歯秀次氏一人の問題ではなさそうに思える。

建築業界全部がこういうことをやっていたように思える。

この事件を契機にして、それぞれのホテルやマンションが再度強度のチェックを点検すると、続々と同じ問題が出てくるのではないかと思う。

法律を遵守するということは非常に金の掛かることで、コストをできるだけ低く抑えようとすれば、どうしても法律に違反しなければならない構造に日本全体がなっていると思う。

法律で定められた耐震強度を持たせようとすれば、当然、鉄筋もコンクリートもミニマムの価格は割れないわけで、それ以下の価格に抑えようとすれば、どうしても法を逸脱しなければできないということだと思う。

車の車検制度でも同じことが言えるわけで、法律の定めるとおりにすれば金が掛かるので、法律に反して手抜き車検をして安く仕上げたところで、普通の日常生活の上でそれを指摘されることはまずない。

日常生活の中で、年末が近づくと飲酒運転の検問とか、スピード違反取締りのネズミ捕りということはあっても、車検が適正かどうかまでは調べられないわけで、手抜き車検をしていても重大事故でも起こさない限りそれが露呈することはまずない。

だから人々は安易に安い方に流れるのである。

整備不良の車は、それこそいつ走る凶器に変身するかもわからないといったところで、理屈では確かにそのとおりであるが、目の前の出費の痛さには絶えかねるわけで、世に手抜き車検というのは跡を絶たない。

「震度5の地震には耐えられない」といったところで、そんな地震はいつ来るかもわからないわけで、仮に来たとしても必ず倒れるというわけでもないはずで、誰かがそこを突付かなければ皆平和に暮らしておれたわけである。

しかし、倒れたときには人命にかかわるというのも歴然たる事実であつて、ならば法的にきちんとした建物を作れば地震のとき決して倒れないか、といえばそうとも限らないわけで、そういう時は天災だから仕方がないという論旨になると思う。

「法を遵守した建物だから、倒れたときは国家がそれを補償してくれるのか」と問いただせば、きっとこういう答えが返ってくるに違いない。

建築基準法でも車検制度でも、それをきちんと遵守したならば、その後の面倒は国家がきちんと面倒を見てくれるのかといえば、必ずしもそうとは限らないわけで、その保証は何処にもないはずである。

国家の決めたことをきちんと実施していれば、そうではないときよりも被害が多少少なく済むということはいえると思うが絶対ではないはずである。

 

国家資格の意味

 

人命ということを唱えるとそれは立派な大儀となってしまう。

大儀を掲げられると、もうあらゆる弁解はそこで機能停止となってしまい、沈黙せざるを得ない。

此処で問題は少々飛躍するが、一級建築士などという資格も、そうそう安易に取れるものではないと思う。

そういう難しい試験に公認会計士とか、弁護士試験というのもあるが、こういう資格を取った人は人から依頼を受けて会計検査や裁判の弁護をするが、こういう行為は国家的見地から見た場合、非社会的、反国家的行為につながるではないかと思う。

つまり言わんとするところは、こういう人達というのは法律の専門家なわけで、それ故に法律の範囲内という条件付きながら、社会や国家の利益に反する個人の利益を代弁しているはずである。

たとえば、公認会計士の場合、企業の財務監査を行って、法律の範囲内で企業の利益を守るようにその能力を発揮するのが本義であろうが、「法律の範囲内」という限りにおいては、個人の、ないしは企業の利益を守るということは整合性があるように見える。

しかし、個人や企業が今日あるのは社会の恩恵、国家の恩恵があるからこそそれがあるわけで、ミニマムの法律が定めるよりも、少しでも多く社会や国家に恩返して、その恩恵に報えるように、依頼人を説得するようにはたらかねばならないと思う。

ところが、会社そのものは赤字にしておいて、経営者は会社が赤字であるにもかかわらず贅沢三昧にふけるという例において、会計士が、それが法律に抵触していないからといって、経営者の私利私欲の拡幅をフォロー・アップするようなことを指導したとなれば、我々庶民感覚としては納得いかないものがある。

公認会計士でも、弁護士でも、こういう事例において、合法的という常套句でそれを許しているわけで、それは明らかに犯罪の一歩手前の行為にすぎないけれども、法的には違反姓がないと解釈する。

まさしく反社会的な行為だと思う。

弁護士でも、限りなく真犯人の近いものでも証拠がないからといって無罪放免にするということはまじめな庶民や被害者の立場からすれば大いに不満である。

法、法律というのは、前にも述べたようにミニマムの規則なわけで、そういう法律の抜け穴ばかりを漁って、合法的ということ自体アンチ・モラルな行為だと思う。

公認会計士が企業の監査を行って、企業そのものは赤字であるのもかかわらず、一部の役員が贅沢三昧にふけっている状況を許してはならないと思う。

一部の役員、経営者だけが贅沢をする金があるぐらいならば、それは企業の方の会計に還元させるぐらいの裁量権を施行してしかるべきだと思う。

かっての名門企業であったカネボウが倒産の危機に瀕して、その一部の部門が花王に売られそうであるが、最終的な決断は当然経営者が断を下すに違いなかろうが、事態が此処まで来る間に公認会計士がもっと適切なアドバスをしていればこういう事態は避けられたのではないかと思う。

その原因は、要するに今までのカネボウ内部の粉飾決算にあったものと想像するが、ならばカネボウの公認会計士はいったい何をしていたのかということを問わなければならない。

企業が粉飾決算で倒産なり合併という事態になったとすれば、それはその企業を会計監査していた公認会計士にも責任の一旦はあるのではなかろうか。

そうでなければ何のための会計監査かといわなければならない。

コンサルタントとか、会計監査というのは、企業に法の抜け道を教えるのではなく、社会的な貢献に奉仕する姿勢、つまり税金を気前よく払う方向にアドバイスをすべきなのではなかろうか。

委託された企業が青息吐息で、全社員が一生懸命努力しているにもかかわらず、税金が払えないようなときには法の定めるミニマムの線で納税する手法を伝授してもいいが、故意に赤字にして納税を免れるような企業には、そのアンチ・モラルの発想を是正する方向に善導すべきではないか。

公認会計士という高度な知識を必要とする職業の人が、委託された企業の便宜を出来る限り図るというのはある程度は致し方ないが、反社会的な発想、社会に対する奉仕を否定する思考にまでその高度な知識を活用する必要はさらさらないと思う。

この点が今回の耐震強度欺瞞事件にも大きくかかわっているわけで、せっかく高度な試験をパスした有資格者が、クライアントの言いなりになって、法律というものを知りながらそれをクライアントに説得できなかった点にあると思う。

カネボウの件でも同じことが言えるわけで、カネボウから委託された公認会計士がカネボウの言うがままになっていたから粉飾決算が罷り通っていたものと思う。

これでは一級建築士とか公認会計士という国家資格の意味がなさないではないか。

企業の会計に詳しいわけではないが、儲かって儲かってしょうがないという企業がそうそうあるものではないと思う。

また、企業でも個人でも税金を取られる心境というのは自分の身を切られるほどつらくて切ない気持ちというのはよく理解できる。

自分の血と汗の結晶をお上に取られるかと思うと、悔しくて悔しくてならないという気持ちもよく理解できる。

それこそ悪代官に年貢を搾取される農民という構図と同じだと思う。

そういう中で、公認会計士というのは納める側の気持ちを柔らかくして、出来るだけ社会に奉仕する気持ちを醸成して、商売で儲けれたのは国家の施策があったからだよ、ということをクライアントに説いて、ごまかすことのないように誘導、善導すべきだと思う。

法律に則って税金を納めるということは人間として立派なことですよ、社会人として立派な行為ですよ、それが社会に対する奉仕に直結しているよ、社会から受けた恩恵に恩返しすることですよと言うことを、クライアントに対して説かなければいけないと思う。

それでなければ有資格者である必要はまったくないものといわなければならない。

 

国民の義務

 

ところが此処で問題になってくることが行政との絡みだと思う。

つまり今回の耐震強度の問題で露呈したことは、一級建築士という有資格者の判があると、行政の側は、その内容を頭から信用して、中身を審査することなくほとんど無審査でパスするということである。

おそらく同じことは会計監査についても言えているのではないかと思う。

公認会計士の判があれば、一旦は無審査で受理しておいて、それでも税務署としては一銭でも税金を取りたいので、後でゆっくり精査するとまだまだ取れる余地があるということがわかり、追徴課税ということになるのだと思う。

法律の抜け穴を知っていても、可能な限り順法精神を喚起する方向に導かねば公認会計士としては意義をなさないと思う。

同じことは弁護士にも言えるわけで、自分の依頼人にはできる限り捜査に協力する方向に犯人を説得すべきだと思う。

ただただ何でもかんでも依頼人を無実にすれば金になるというものではないと思う。

法律の専門家なればこそ、法の盲点、法律の抜け穴を教えるのではなく、それは最後の最後の切り札として取っておくべきことで、その前に素直に法律に従う順法精神を涵養すべくクライアントを説得すべきだと思う。

公認会計士でも、弁護士でも、一級建築士でも、依頼人の意図は会った瞬間にわかるものではないかと思う。

純粋に法に従う手続きがわからなくて依頼に来たのか、法の抜け道を探しに来たのかぐらいは最初の名刺交換できちんと判るものと思う。

そのときに金に目がくらんで、安易に抜け道を教えるようでは良心的な法律の専門家ではないと思う。

高等教育を受け、何年も修行を積んで、最高に困難な試験をパスした人が、金になるからといって、国家に損をさせるようなことを人々に教えるとなれば、これは国家的な損失になると思う。

合法的という言葉にも非常に大きな言葉のアヤが含まれているわけで、それは違反行為ではないが薦められる行為でもないはずで、法律の専門家が人々にそういう法の抜け穴を教えるということは由々しき問題だと思う。

戦後の風潮として、こういう高学歴で特殊な経歴を持ったいわゆるインテリと称せられる人々は、自分の祖国に対して反抗するポーズをとりがちで、それがいわゆる格好いいポーズと思い違いをしている節がある。

自分の祖国に対して、出すものは舌を出すのも嫌だが、取れるものなら何でも取ろうとする傾向がある。

自分たちの祖国が、日本全国の津々浦々の人々の協力で成り立っているということを忘れて、自分たちの祖国は自民党という悪党が占領している、エイリアンの国とでも思っているかの様な対応をしている。

だから悪徳業者に誘惑されると、金に目がくらんで法律の抜け穴を指南し、脱税をフォローして止まないのである。

自分自身が、自の祖国を悪の拠点と思っているものだから、依頼者にも自分の価値観を押し付けて、素直に納税しようという気持ちを反らせてしまうわけである。

納税ということは如何なる国の国民でも、如何なる民族でも、納める立場としては面白くもおかしくもないことで、出来れば避けて通りたいと思うのは万民共通であろうと思う。

しかし、自分の所属する国家というのは、国民の納税した金で運用されているわけで、国民が少しずつ供出した金で道路が出来、学校が出来、橋が出来、福祉が向上し、老人介護が成り立っているわけで、だからといって国民の全員がそれに満足できるとは限らないが、そういう風に回っていることは確かである。

そんなことは子供でもわかることであるが、そういうことが判っていながら、自分だけ何とかして得をしようと思うから、違法行為に走るわけである。

公認会計士でも、弁護士でも、一級建築士でも、「違法行為を指南しているわけではない」という言い分も、彼らの立場からすればそうであるが、違法行為ではなくとも、限りなく違法に近いことなわけで、国民が普遍的に負うべき義務を限りなく排除する方向に作用しているはずである。

主権国家の国民ならば、自分の祖国には限りない誇りと、自信と、名誉を以って、祖国の課す義務には率先して服するのが普通の国民だと思う。

主権国家の普通の国民だと思う。

我々の祖国も60年前までは徴兵制があったが、今はそれが廃止されているので我々、日本国民には兵役の義務というのはない。

隣の国、韓国にはそれはまだ厳然と生きている。

だから韓国の国民は、国民の義務の中に兵役の義務も歴然と存在しているはずである。

この地球上には、まだまだ国民に兵役の義務を課している主権国家は掃いて捨てるほどあるわけで、兵役の義務などというものは、納税の義務と同じように万人が好き好むものではないことも万国共通である。

兵役の義務のある国では、何とかして兵役を逃れようと、あの手この手のアイデアが試されるというのも万民に共通したことである。

一生懸命稼いだ金、汗水たらして得た金を税金として取れるというのは、それこそ身を切られるようにつらいというのも地球的規模で見て万民共通だろうと思う。

しかし、自分の属する祖国の全体のためには、国民の一人一人が少しずつ痛みを分け合わねばならないことも万国共通のことである。

主権国家の国民が、全体のために少しずつ痛みを分け合うということが納税の義務であり、兵役の義務なわけであるが、我々は兵役の義務というものがない分、幸せな社会に生きているということである。

だとすれば、肉体的、ないしは精神的な苦痛の伴わない納税の義務は、積極的に担う心構えがあってもなんら不思議ではないはずである。

そういう前提に立てば、一生懸命稼いだ金、汗水たらして得た金の一部を自分の祖国に献上することも意義あることになるのではなかろうか。

法律の抜け穴、法の網の割れ目を探し出して、少しでも国家に献上する金を減らそうという発想は、社会に対する恩典に背く思考だと思う。

 

悪事をする人権

 

大体、生きている人間がいくら財を溜め込んだところで、死んであの世に持っていけるわけではないし、仮に親族に残したとしても、その親族もいづれは同じあの世に行くわけで、「美田を後世に残すな」という俚諺にもあるとおり、それを受け取ったほうも労せずして得た金だから人間的に堕落するのも時間の問題だと思う。

金を儲けたり、金持ちになるということは、本人の努力もさることながら、その本人の努力そのものが、いろいろな社会の恩恵にあずかって可能だったリ、実現したのだから、そのことを考えれば、その金を再び社会に還元してもなんら不都合はないわけで、法の抜け穴や破れ目を血眼になって探して社会的批判を浴びるよりもよほどスマートな生き方だと思う。

以前にも述べたことがあるが、西武グループの総師、堤義明氏のように、金に何不自由ない身でも、より多くの金をというわけで、法を犯し、70過ぎで監獄に入れられる羽目に陥ったではないか。

普通の市井の人間にとって、監獄に入れられるということほど不名誉なことはないはずである。

昔は、人としてあるまじき行為だからこそ、村八分という制裁が課せられたが、今は人権意識が姦しいので、犯罪者にも人権があるなどと奇麗事を言っているが、本人が法を犯した罪というのは終生消えるものではないはずである。

堤義明氏のように、金も、地位も、名誉もあるような人が前科者といわれたら、その親族、子や孫はどういう気持ちなのであろう。

仮に、世間体がわずらわしいので海外で生活したとしても、前科者の係累という事実は消えるわけではなく、心のうちでは肩身の狭い思いで暮らさねばならないことに変わりはないはずだ。

とは言うものの、彼ら一族としては端が心配するほど恥じ入った気持ちではないのかもしれない。

誰でもやっていることだが、運が悪かった程度の認識かもしれない。

前科者という言葉も今は差別用語として使われなくなったが、言葉が如何様に変わろうとも、「あの人は法を犯した人間だから信用ならない」という事実は消せるものではない。

普通に良心のある人間ならば、そのことを口に出して人前では言わないので、表面上は差別がないように見えるけれども、人々の心の中ではやはり連綿と生きていると思う。

前科者が村八分にされた江戸時代に比べると、今日の日本の社会というは、言葉では言い表せないほど複雑多岐になっている。

そして民主主義の浸透と共に人権意識も向上し、罪を犯した人でも差別してはならないという風に変わっては来ているが、それは同時に悪事も複雑多岐になってきているということである。

オレオレ詐欺だとか、振り込め詐欺などという犯罪は昔は考えられなかった。

それに連動して、近頃では人権意識が向上し、犯罪者にも人権があるなどと称し,悪事をした人間を擁護する風潮が盛んである。

問題は、警察が泥棒を捕まえる。

するとその泥棒は裁判で刑が確定するわけであるが、この過程で、警察の泥棒の捕まえ方が悪い、犯人の自供を強制的に強いた、警察が犯人に対して暴力を振るった、という論法で犯人を擁護する。

つまり、悪いのは官憲としての警察であって、泥棒をした本人は何も悪くはない、泥棒にも泥棒をする3分の理があるのだから、その3分の理を尊重すべきだという論法である。

確かに、官憲としての警察も、我々と同じ人間が集まって出来ている組織であるから、人間の集団のすることとして、全く落ち度がないとは言い切れない部分があることも考えられる。

だからといって悪事を働いた人間を人権意識で以って擁護する必要は全くないわけで、こういう事例が広範に広がったから、悪者がのさばる状況になったもの考えざるを得ない。

人権意識の向上ということは、何のことはない悪人をのさばらせるだけのことで、いくら悪人をのさばらせたところで、そういうこと言っている進歩的文化人や評論家やマスコミには実質的な被害はまったくないものだから奇麗事を並べて済ましておれるのである。

昔から言われているように悪事を抑制するには極刑しかないと思う。

人間の恐怖心に訴えるほか悪事を抑制する方法というのはないと思う。

姉歯一級建築士でも、堤義明氏でも、自分のしたことが極刑に直結しているとすれば、クライアントの言い分を素直に聞き入れたり、ほんの少しの欲望を満たすために法に触れる行為などしなかったかもしれない。

結局のところ、「この程度の法律違反ならば大した刑ではなかろう」という判断がこういう事態を引き起こしたのではないかと推察する。

車の運転でも「ビール一杯30万円」と法律改正されれば、いくらか飲酒運転も減ったのではないかと想像する。

万物の霊長である人間が、極刑がなければルールが守れない、ということは非常に嘆かわしいことだと思う。

そのことは同時に自分たちの力、いわゆる下からの積み上げで自分たちの社会、コミニテイーを良くしようという気が全くないということに他ならない。

今の我々の社会の民主主義というのは60年前にアメリカ進駐軍によって押し付けられた民主主義である。

フランス革命のように、市民の血と、汗と、銃剣の中からふつふつと湧き上った民主主義ではなく、敗戦という虚脱状態の中で、無理やり押し付けられた民主主義であるので、我々はそれを咀嚼するに十分な時間がないままそれを受け入れてしまった。

だから我々は「民主主義は自分の我侭を通すものだ」と間違って認識してしまったのである。

自分の我侭を無理やり通すために、その方便として人権ということを声高に叫ぶようになったわけで、そのことは同時に、上から統治する存在というものを暗黙のうちに認めているということである。自分たちで、自分たちを治めるものを選出している、ということを忘れてしまって、旧体制のまま、天皇の部下が無辜の一般市民を上から統治しているという認識が抜け切れていないのである。

自分たちが政治家を選出しているにもかかわらず、その政治家をこき下ろして止まないのは、自分の意に沿わないものが選出された、という腹いせの部分もたぶんにあると思う。

自分の意に沿わない人間が選出されたので、それに対しては断固協力しない、という強固な意思表明の態度であるが、ここに個人としての我侭が潜んでいるわけである。

社会を構成している個々の人間というのは、完璧な人格を備えた人はいないわけで、それぞれに良いところも持っていれば同時に悪いところも併せ持っているわけで、政治家の中にもそれは言える。

国民から選出された政治家の中にも、私利私欲を肥やすことに現を抜かす人もいれば、誠心誠意国民に尽くそうとする人もいるわけで、下からのボトム・アップの民主主義というのは、そういう善意の人の輪を大きくすることでなければならない。

そのためには、決められたルールは率先して遵守しよう、という運動が自然発生的に起きなければ、それは達成しきれないと思う。

ところが、こういう見えないところの善意の輪というのは、ほとんど見返りというものがなく、いわゆる正直者が馬鹿を見る状況である。

一般国民の間に正直者が馬鹿を見る状況があってはならない、という正論も当然出てくるわけであるが、人がきちんとルールを守っていてもそれはニュース足りえないのである。

一級建築士がきちんと規則に従って図面を書いていてもそれはニュースにならないのである。

堤義明氏がきちんとルールを遵守していても、それはニュースにならないのである。

JR福知山線の運転手がきちんと乗務していたのではニュースにならないのである。

世の中の人がきちんと決められたルールに則って、真面目に、正直に、平穏に生活していてはニュースにならないのである。

世の中に悪事を働く人がいるからニュースがあり、それがためマス・メデイァが糊塗を凌げ、評論家に執筆の依頼が来、大学教授が尤もらしいことが言えるのである。

しかし、本当の平穏な生活というのは、この世にニュースが枯渇したときであると思う。

マス・メデイァが倒産し、評論家や大学教授が失職した時だと思う。

しかし、いまどきの警察もさぞかし大変だろうと思う。

人が死ねば必ず警察が出てくるわけで、今年起きたJR福知山線の脱線事故から、飛行機の墜落事故から、耐震強度の問題から、会社の粉飾決算のことまで、この世におきたあらゆる事件を警察は調べなければならないわけで、素人なり思うに、警察に鉄道のことや航空機のことや、ビルの鉄筋構造のことや、会計監査のことが本当に理解されているのかどうかまことに心配である。

あまりにも多岐にわたっているではないか。

個々の細部の調査にはそれぞれの専門分野に委託しているであろうが、これが案外信用ならない。

その典型的な例が、昭和24年におきた下山事件で、東京大学の「死後轢断」と慶応大学の「生体轢断」という全く逆の鑑定結果が出たわけで、これでは警視総監ならずともどちらを信用していいか苦慮せざるをえない。

日本のそうそうたる大学に委託しても、その鑑定が全く反対では「真実はどうなのか」と不思議でならない。

一体、日本の学問はどうなっているのかとさえ思えてくる。

重大事件ほどその鑑定は専門家でも難しいと思う。

 

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