051127   11月23日

沖縄・鎮魂そして思索の旅

11月23日・読谷

 

私は生涯を通じて、秘書を持つようなポストに付いたことがないので判らないが、きっと秘書というのは社長の出張の行程などをきちんと管理していると思う。

何時の飛行機で、何処何処にいって、何処行き汽車に乗って、何処のホテルの泊まって、ということを詳細に把握していると思う。

我が家の家内は私にとってきわめて優秀な秘書である。

半年ほど前から航空会社のマイルだとかポイントだとかが溜まって、ただで飛行機に乗れるようになっていたらしい。

私はそういうものに無関心なのでさっぱり判らず、家内のいうことに生返事をしていたが、その期限が今年いっぱいで切れるからどうしても何処かに行かなければということらしい。

それで、どうせ行くのならば私は沖縄が良いといっておいた。

そう腹が決まってからというもの、家内はあちらこちらに電話をしまくり、インターネットで調べまくり、11月の23日に沖縄に出発ということになった。

私の秘書はまことに有能である。

すべてのスケジュールを全部作って、後は体を持っていくだけに整えてくれた。

飛行機に乗るという場合、今までならば元の名古屋空港まで車で行けばよかったが、今回からはセントレアまで行かなければならなくなった。

我々にとって、まことに不便になったが致し方ない。

家からは何時盗られてもいいような古ぼけた自転車で最寄り駅まで行き、そこから名鉄電車と地下鉄を乗り継ぎ、金山に出、そこからセントレアへの直通の特急列車で乗りつけた。

このセントレアの賑わいも一時ほどではないが、それでも結構人がいた。

搭乗手続きもすべて家内任せである。

私は社長になった気分で控えておれば、何事も滞りなく進んでいくようだ。

で、定刻になり機内に入り、定められたイスに座っていると機は静かに動き出し、こともなげに出発した。

しかし、私は飛行機に乗るたびに不思議に思えてならず、いまだに納得いかない。

こんな大きな飛行機がいとも簡単に大空に舞い上がるのが不思議でならない。

「何でこうなるの!!!」という感じがいまだに払拭しきれない。

ランウエイに正対して、ほんのしばらくし、エンジン音がいささか大きくなったと思ったら、もうジェットコースターが坂を登るような角度で上昇するのがなんとも不思議でならない。

地中に埋めたコンクリートのヒューム管のようなエンジンが、どうしてこれほどの神通力を搾り出すのか不思議で不思議でならない。

機はボーイング767−300でこれは双発の機体である。

そしていささか古い機体だし近距離ということもあって、シートには各個にテレビモニターが付いていないので、飛行状態を示すデータを表示でされないのが残念でならない。

当地の天候はうす曇であったが、途中から雲が出てきて雲上飛行になった。

雲の上というのは実にきれいな光景である。

太陽はさんさんと輝いており、白い雲に反射した光線が窓から差し込んで、シェードを下ろさねばならないくらいであった。

中部国際空港を10時に出発したが、沖縄・那覇空港には12時半に到着の予定であった。

おおむね予定時間内に収まったが、沖縄は雨であった。

機内には機種のカメラで下界を写すスクリーンがあったが、着陸の寸前まで、雲以外何も見えてなかった。

見えたときはもうすでにランウエイのまん前であった。

沖縄には数年前に一度来たことがあったが、そのときは航空自衛隊のC―1輸送機で、貨物並みの扱いできたので、今回、飛行機の窓に顔をくっつけて飛行場の様子を見ようとしたが、さっぱり判らなかった。

降りたらもうターミナルの中で、空港の外の様子というのはさっぱり見ることが出来なかった。

帰りのときは、タクシーウエイを移動しているときにかすかに見ることが出来た。

民間ターミナルと海上自衛隊の基地と、航空自衛隊の基地と、陸上自衛隊の格納庫が横一線に並んでいるのがわかった。

で、飛行機を降りてターミナルまで降りてきてみると、ハセガワ様というボードを持ったガイドが待っていてくれた。

今回は家内がいろいろ調べてくれた結果として、乗ってきた飛行機は日本航空のものであったが、観光めぐりは全日空の企画したものに便乗するという形らしい。

全日空ハローツアーということで、このガイドさん、実は個人タクシーの運転手で、彼が残波(ざんぱ)岬のホテルまでガイドするということらしい。

沖縄本島の地図を見てみると、那覇空港というのは島全体の南北の線で4分の1か5分の1南にある。

ところが我々の予約したホテル、残波岬ロイヤルホテルというのはかなり北のほうに位置している。

この間、車で1時間というのだから、かなりの距離だと思う。

那覇空港から車で出発して、ほんのしばらくするともう市内に入るが、この市内の雑踏の中で信号待ちをしてるとき、ツリーハウスを見た。

先回も見た記憶があるが、大きなガジュマルの木の上にレストランがあった。

写真に収めたかったが、あわてることもないだろうと高をくくっていたら、結局その機会はなかった。

しかし、25日のガイドさんにそのツリーハウスの話をしたら、あの木はイミテーションで、木に模した外装のみで、裏にはエレベーターまであるとのことで、多少興味を失したが、それでも面白いものだと思った。

残波岬ロイヤルホテルのあるところは読谷と言うところで、沖縄ではヨミタンというらしい。

この少し南に北谷と書いてチャタンという場所があって、この海岸線に沿って、1945年、昭和20年4月1日に米軍が18万人という大部隊で上陸してきたということだ。

私の今回の沖縄行きは言うまでもなく戦後60年にしての鎮魂の旅である。

是非とも戦跡を回りたい、という思いでやってきた。

そういう私も戦争の実体験は全くない。

せいぜい父に手を引かれて遠くに見える空襲による火事を傍観した程度の体験しかない。

しかし、昨今の世相を見てみると、戦争を体験した世代の人々が、非常に弱気になって、平和のためならば自分の祖国を売り渡してもいい、というような気分に浸っているような気がしてならない。

しかし、それではこの沖縄の地で若くして散華した人々が浮かばれないのではなかろうか。

この地で散華していった人々は、我が身が犠牲になっても残った人々が幸せに生きれる社会の到来を願って逝ったのではなかろうか。

そう考えると、なんとしてもその地を回ってみたいという衝動に駆られて此処に来たわけである。那覇空港から海を左手に見ながら国道を北上するという形であったが、途中嘉手納の空軍基地のフェンスに添って走る箇所があった。

私がまだ航空自衛隊の石狩当別にいた頃、昭和40年代の初頭、アメリカ・アラスカ州エレメンドルフからこの嘉手納までC−141とかC−5A という輸送機が行き来していた。

そのころはベトナム戦争の真っ盛りのときで、戦死者をこれらの飛行機で本国にお送り帰していたということが言われていた。

この嘉手納という基地はアメリカが読谷と北谷に上陸して以来というものアメリカの占領下にあると考えたほうがよさそうだ。

ここには日本の旧軍の作った飛行場があって、それは一度も使われることなくアメリカのものとなってしまったということだ。

しかし、今こうして車の中から見てみてみると、それはまことに合理的な配置になっている。

アメリカ軍は読谷と北谷の間の遠浅の海岸から上陸用舟艇で上陸し、そのまま飛行場を占拠し、それが戦後も60年間もそのままの状態で続いていたわけである。

嘉手納基地、金網のフェンス、フェンスの内と外、これらのものは今の若い世代では違和感を感じるかもしれないが、私からすればある意味でノスタルジックなものである。

なんと言っても小牧基地の脇で育ったわけだから、パンパンとオンリーとPAWNとバー、キャバレーの中の青春だったわけだ。

今更目新しいものではなく、違和感もなく、懐古趣味のほうが強いくらいだ。

3日間のガイドはいずれも私よりも若い世代の人達で、このフェンスの不合理性を如何に内地の人に判らせるべきか苦慮しているが、占領下の社会という点では、私のほうが良く知っているはずだ。

この嘉手納基地の手前には普天間基地というのがあったはずであるが、これは街中の小高い丘の上にあって、周囲から見えないところにあるということだった。

この普天間というのは、昨年大型ヘリが大学の構内に墜落して問題になったところであるが、基地の問題はこういうことが付いて回るのはある程度仕方がないことである。

これも戦争に負けたことに起因しているわけで、軽々に論ずべきことではないと思う。

戦争に負けたので国土の一部が占領される。

勝った側は分取った土地を自分たちの都合で、都合にいいように、負けた側の意向など無視して、その土地を使うわけで、だからこそ、その周辺は地価が安い。

地価が安いから負けた側の人々は、そこに家なり大学をつくるが、そこには危険がいっぱい転がっているわけである。

最初、米軍に占領された当初は、基地の周りは畑であったものが、地価が安いので人が集まってきて、60年後には住宅地の中に基地が埋まってしまう状況になったということだ。

日本は独立したのだから、対等の立場だというのは一つの正論ではあるが、負けたという事実が消えるものではない。

対等の立場であるとすれば、パワー的にも対等のパワーを持たないことには真の対等とはなりえない。

もう一度、喧嘩をする勇気とパワーと気概を持たないことには、負け犬は何処まで行っても負け犬に他ならない。

それが独立した主権国家同士の対等の関係だと思う。

国道から見える嘉手納基地というのは私が高校生の頃(昭和32、3年)の小牧基地の光景と寸分と変わらない。

きれいな芝生があって、瀟洒な家があって、軍用車両があって、飛行機の尾翼が見え隠れしている光景というのは私にとってはノスタルジックな光景である。

那覇からここまでは立派な片側3車線の立派な道路であった。

ガイド氏の説明によると、これもある種の軍用道路ということで無理もないと思う。

ここを過ぎると、道は旧来の一本道になるが、逆にいかにも琉球という感が強くなる。

この辺りまで来ると道の両側のところどころにお墓が見えてきた。

沖縄の墓というのは我々の感覚からすると実に珍しいものに見える。

というのもコンクリートつくりで、一坪ほどのミニチュアの家という感がする。

翌日のバスガイド氏が言っていたが、沖縄の人々は特定の宗派というものがないらしい。

ガイド氏は、祖先信仰ということを言っていたが、各宗派のトップよりも各自の先祖のほうが大事で、日蓮とか法然とかキリストというような教祖を敬うよりも、まず第一に自分の先祖のほうが大事だから、寺に頼るということがないらしい。

それで沖縄には寺がほとんどないということだ。全くないというわけではない。

それと、街を抜けると何といってもサトウキビの畑である。

「さわわ、さわわ・・・・」という歌詞は実によくサトウキビ畑の雰囲気を出していると思う。

しかし、サトウキビというのも子供の頃よく食べたものだ。

あの硬い幹の皮を歯で剥いてはかじって、繊維質の部分を歯でくちゃくちゃ噛んで、甘い汁だけ喉に流し込み、残った部分は吐き出して、その当たりに喰い散らかしたものである。

普通、沖縄の人でも「沖縄には鉄道がなかった」というが、本当のことを言えば「ひめゆりの塔」の記念館の中の写真で見ると、ちゃんとサトウキビを運ぶ列車の写真が残っている。

これはグアム島でもサイパン島でも同じではなかったかと思う。

戦前の日本は、こういう南洋諸島においても殖産興業をしようと一生懸命だったに違いない。

残波岬のホテルに近づくにつれて、那覇の町の雑踏とはかけ離れてローカル色が強くなってきた。

約1時間足らずのドライブで、ホテルには早い時間についてしまった。

確か2時半かそこらで3時前だったと思うが、こんな時刻にチェックインしていいのかどうか心配であったが素直に受け入れてくれた。

大きなホテルで、時間が早かった所為か、ロビーも閑散としていたが、夕刻には修学旅行の高校生でてんやわんやの大騒ぎであった。

到着した時間が中途半端だったので、そこらを散策するつもりで外に出てみたが、外は今にも雨が降りそうな天気であった。そのため、あまり遠出はできなかった。

部屋の窓からは灯台と大きな風力発電の風車が見えたので、灯台までいってみることにした。

ホテルの玄関を出て、導入路を道まで歩いて出てみると、そこには御菓子御殿という土産物屋というか文字とおりお菓子屋があったが、それを道なりに灯台まで散策した。

道の左側はきれいな遠浅の海が広がっていた。

右側には立派に整備された公園があって、そこには馬鹿でかいシーサーとコンクリートで出来た唐船の子供用の遊具があった。

このシーサーは茶色のもので、実に大きなものであったが、一匹であった。

灯台は海面から15、6mの高さの崖の上にあったが、灯台といえば佐田啓二と高峰秀子の「喜びも悲しみも幾年月」を思い出さずにはおれない。

天候がきちんと晴れていれば、灯台の中も見学できたけれど、今にも雨が降りそうな按配で、少しでも早く帰りたいという思いが強く、中に入ることは断念した。

帰りにはホテルの裏にあった大きなシーサーと唐船の公園を横切ってショウトカットして帰ったが、幸いにも降られることはなかった。

沖縄という島は石灰岩の島らしい。

翌日に乗ったバスのガイドは琉球石灰岩といっていたが、石灰岩といえば貝殻と同じ成分と言っていいのではなかろうか。

それが海の侵食によってさまざまな姿に変わっているが、実に妖怪な姿かたちをしている。

まるで鬼押し出しの溶岩の奇岩と同じである。

道には妙な木が植樹されていた。

それはトックリキワタという木で、幹の途中が膨らんで、まるで徳利と同じスタイルである。

また街路に植わっていた木に、丁度、梅干ほどの大きさの実が成った木があったが、いかにもおいしそうに見えた。

これも翌日のバスガイドの説明によると、沖縄夾竹桃の木で、その実は毒があるということであった。好奇心に駆られてかじらなくて良かった。

ホテルの玄関前にたどり着いてもまだ少し時間があり、雨が降っても走りこめると判断して御菓子御殿なるものに入ってみた。

中は何処にでもある土産物屋のこぎれいなものと思えば間違いないが、ここでは紅芋のお菓子がたくさんあった。

来るときのタクシーのガイドは、この紅芋のPRを怠りなくしていたが、中国大陸から渡ってきた最初のものということで、この芋がさまざまな改良を加えられて内地に伝播して行った、というようなことを言っていた。

皮の部分は普通のサツマイモと変わらないが、中が赤くて、それで紅芋というらしいが、今年の私の農作業では、サツマイモは大不作であった。

赤芋ということで一段と高い苗を購入したが、収穫は苗代にもならなかったぐらいであった。

ここでは小さな泡盛のビンを購入した。

家内はいろいろ店内を見て回っていたが、私は買う気もないものを見る気はしなくて、紅芋のソフトクリームを舐めていた。

この時間帯になると、ホテルには次から次と宿泊客が集まってきていた。

混む前に風呂の入っておこうと思って一階の大浴場に入浴に行ったが、私はこういう場合どういうものかすぐ眠くなってしまい、風呂に入りそびれることがしばしばある。

自分では、若いときから不眠症だと思っていたが、実情はそうでもなさそうだ。

大事なときに眠ってしまって大損をすることがしばしばある。

風呂に入った後、我々も夕食でも取ろうと思ってホテル内のレストランに行ってみると、これが大入り満員で、1時間近く待たされた。

私もそろそろ老いの境地に近づいた所為か、このごろでは和食党になって、そういうレストランを選んだものだから、年寄りの団体客に先を越されてしまった。

膳を持ってきたウエイトレスが、食材について説明をしてくれたが、そのなかのミミガーというのがあった。

ピーナッツでまぶした添え物の一種であろうが、それが豚の耳だということがわかると、家内はとたんに急性拒食症になってしまった。

その分私が平らげたが、結構美味であった。

レストランから出るとロビーの舞台で沖縄舞踊の公演がある旨、表示されており、開演時間もすぐだったので、舞台のまん前に陣取って開演を待っていた。

時間になると以前来たときにも見たことのある四つ竹という舞が始まった。

これは実に優雅な踊りである。

手に持った4つの竹、つまりカスタネットのようなものカチカチと鳴らしながら、花笠を被り、きらび

やかな衣装、紅型衣装をまとって優雅に舞っていた。

まさしく琉球の伝統舞踊そのものだと思う。

その後、演目は4つか5つあったが、衣装のきらびやかさでは最初のものが一番であった。

私は風呂と同様、こういうイベントもよく見逃してしまう。

今までに一番残念に思ったことは、数年前、トワイライト・エキスプレスに乗車したとき、青函トンネルの中で、乗務車掌の解説を聞き漏らしたことである。

青函トンネルを通過中に、サロンカーで常務車掌がこの海底トンネルについて面白おかしくレクチャーしたということだ。

私は、トンネルの中など見てもコンクリートだけだろうと思って、寝てしまった。

後で家内からそういう催しがあったことを聞いたときは実に悔しかった。

どうも旅先では、ほんの一杯のビールですぐ寝込んでしまう癖があるらしい。

以前、秋田に出張したときも、寝台列車で行ったが、寝る前に缶ビール一本飲んだら、翌朝まで完全に熟睡してさわやかな気分で列車を降りた記憶がある。

不眠症の割には良く寝たなあ、と自分でも思ったものだ。

その後、ホテル内の店屋さんをひやかして歩いていたが、店舗の一角で、機織機で機を織っていた中年の女性がいた。

家内はその前に並べられている織物、作品に見入っていたが、無理もない話しで、これこそ読谷山花織りというもので、以下パンフレットからの受け売り。

「1372年、読谷の長浜港から一艘の進貢船、泰期を中心とする若者達が、琉球王府の王弟として、初めて中国と交易を行います。

これが琉球王国と中国の歴史を作る発端となり、これ以降、琉球は大交易時代を開き、黄金時代を迎えます。

時を同じく東南アジア諸国との南蛮交易も盛んになり、ブータンより交易品と共に花織布が伝来し、独自に織られるようになりました。

この織物は、琉球王府の保護のもと、御用布に指定され、王府の士族と読谷の人々以外の着用が禁じられていましたが、明治の中期から衰退し、幻の花織りとなりました。

600年の歴史を誇る読谷花織りは、絶滅の寸前に読谷村の情熱ある有志によって昭和39年に約90年ぶりに幻の花織が復活いたしました。」となっている。

店内のデモンストレーションでは、織り機はわれわれが昔農家の納屋で見たものとよく似ているが、柄を織り込むためにいろいろとカラフルな紐が余分に垂れ下っていた。

柄に合わせてその紐を引っ張ることによって織り込んでいくのであろう。

そしてそれを演じていた中年の女性の着ていたものが実にすばらしかった。

色は控えめなカスリのように見えたが、材質は正絹ではないかと思う。

織り機にセットしてあった製作中の布はまさしく正絹だといっていた。

日本の伝統的な工芸品は手間隙が極端に掛かるので、その分今の時代では値が張るから困る。

高いから誰も彼もが買えるわけではなく、その分余計に価値がある、という事もいえる。

家内は如何にも欲しそうであったが、我々クラスで手の出るものではない。

ただただ見て楽しむだけのものである。

 

11月24日・島内観光

翌日は8時に出発ということであったが、ホテルの玄関前に出てみて大いに驚いた。

全日空ハローツアーに申し込んでおいたとは言っていたが、玄関には真新しい大型バスが待っているではないか。

このホテルで乗り込んだ客は、我々夫婦ともう一組若い夫婦の二組しかいなかったが、途中でもう二組載せるということではあったが、二組、たった4人で大型バスを占有したようなものであった。

出発のときは4人であったが、後でもう4人乗せるということで、最初にピック・アップするために立ち寄ったホテルでは、そのホテルの玄関前に透明のアクリル板で出来た小屋のようなものがあって、その中にはすばらしいクラシック・カーが鎮座していた。

色は小豆色で、作りは如何にもクラシック・カーらしく仕上げてあったので、どうしてもその正体が知りたく、その車の周りを何度も巡ってみたが何処にもエンブレムがなく、仕方がないのでそのホテルのドアマンに聞いてみた。

しかし、どうにも要領を得ない答えが返ってきた。

バスの運転手に聞いてみても良くわからなかったが、そのとき彼が「ハンドルに光岡と書いてある」といったので一遍に謎が解けた。

判ってしまえば十分に納得できる。

要するに光岡自動車に作らせた特注車ということだ。

しかし、凝りに凝った車である。

古い映画で、「サンセット通り」というのがあって、その映画の中でケリー・グラントがこういう車を走らせるシーンを思い出した。

それからすぐに万座毛(まんざもう)というポイントに着いた。

沖縄の観光案内には大抵登場する観光スポットである。

ガイドさんの話によると、昔琉球の王様が島内を歩いていたとき、この場所に来て「ここならば万人が座れるに違いない」ということで、万人が座れる原っぱ、ということでこういう名前が付いたということだ。

毛(もう)というのは沖縄では原っぱのことをさすということだ。

ここで言葉の考察であるが、北海道の地名もアイヌ語から来ているものが多くて非常に判りにくいが、それでもアイヌ語に内地の言葉を当てはめた部分が非常に多い。

しかし、それは明治以降のことなので、まだまだ理解しやすいが、沖縄の場合はもっと前からそういうことが行われていた所為か、独特の難しさがある。

読谷と書いてヨミタン、北谷と書いてチャタン、美ら海と書いて(ちゅらうみ)などという読み方は我々の想像を超えた使い方だと思う。

とは言うものの、この地球上で日本語に一番近い言語が、この沖縄の言語というのだから驚く。我々の言語は、それほどこの地球上で異端なわけである。

で、万座毛でバスを降りてみると目の前はお土産屋さんが軒を連ねていた。

その端から右のほうに歩いていくと例の断崖絶壁が見えてきた。

まさしく沖縄の観光パンフレットの写真と同じである。

遊歩道から見える対岸の正面には「象の鼻」と呼ばれる奇岩が聳え立っていた。

おそらく何万年何億年という歳月の間に、海水が浸食したものであろう。

しかし、崖の上が平らということは、この平面がおそらく海の底にあったということではなかろうか。この地球上で水平の土地などというものはそうそう自然界で出来るものではないと思う。

プレートテクニクスでは地球は常に動いているわけで、ヒマラヤ山脈でさえ海底にあったというのだから、沖縄本島全部がその昔海底にあったとしてもなんら不思議ではない。

観光ポイントなどというものは、一度、目で見て写真を撮れば、自分自身納得してしまって、もうそれ以上の興味は随分薄れるものである。

ここから次は海洋博公園に移動したが、ここは実に立派な施設であった。

この公園の概要と趣旨はインターネットで調べると次のようになっていた。

復帰後の沖縄を全国にアピールした海洋博。そして今は沖縄を代表する記念公園。

1975年7月19日から1976年1月18日にわたって、世界初の「海洋」「海」そのものをテーマとした沖縄国際海洋博覧会(海洋博)が開催されました。これは、沖縄の日本本土への復帰を記念したもので、同時に、沖縄の復興と経済振興の促進を目的としていました。
海と人との関わりあいや、海の将来性を探る目的の海洋博のテーマは、「海―その望ましい未来」。亜熱帯性の樹木や花々で彩られた本部(もとぶ)半島の陸と海にまたがる広大なエリアを舞台に、日本政府や
沖縄県をはじめ外国政府35、国際機関3、民間企業7グループが出展し、入場者は約348万人を記録しました。
会場のメインとなったのは、未来の海上都市をテーマにした「アクアポリス」で、本部半島を望んで浮かぶ白亜の建造物は、長蛇の列ができる程の人気を博しました。また、沖縄の海洋文化を展示した「沖縄館」や、県内で初めての水族館、会場内を走る電気自動車が人気を呼び、アクアポリス下の海中に作られた海洋牧場も未来型の漁業として注目を集めました。
現在では、観光沖縄を代表する本島北部観光の拠点、国営沖縄記念公園『海洋博公園』として生まれ変わり、『沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館』、『おきなわ郷土村』、『熱帯ドリームセンター』、エメラルドビーチ、イルカショーなどを楽しむことができます。特に、2001年11月にオープンした『美ら海(ちゅらうみ)水族館』は、世界屈指の規模と内容を誇る水族館で、数多くの観光客や地元客が足を運んでいます。
たくさんの見どころがある海洋博公園は、海洋博覧会の雰囲気を残しつつ、新たな観光スポットとして人気を集めています。(沖縄観光情報WEBサイト)

まずバスが駐車場に到着する。

バスから降りて駐車場を公園入り口まで歩くと、そこは歩道橋になっていて、下を車が走る道路になっている。

この歩道橋の上に立ってみると前方にはきれいな海が見えるが、これを降りると正面に美しい水族館の全容が見渡せる。

海洋博の跡地をそのまま公園にしたというわけで、水族館のほかにもいろいろな施設があったが、この日は沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館に行動が限定されてしまった。

ここは沖縄の人の自慢のスポットらしい。

昨日の運転手も、是非ともお勧めの観光地だと胸を張っていた。

そして中に入ってみると確かに彼らが自慢したくなるだけの概要を整えている。

まず入り口に近いところから、身近な浜辺の生態系を再現した様な展示があり、それが奥に行くに従い、だんだんと海の深さを理解させる様子が手にとるように判る仕掛けがしてあった。

この水族館の窓、いわゆるガラスの部分はガラスではなく透明なアクリル板ということである。

この厚みを持った透明なアクリル板が開発されたことで、日本各地の水族館に巨大な展示が可能になったといわれている。

奥に進むと、海亀が優雅に泳いでいた。

孫に見せたらきっと大喜びしそうな光景であった。

更に奥に進むと小さなシアターがあって、まもなく上演されるということで、そこで短い映画を見たが、これはあまり感動するものではなかった。

今はもうその内容も思い出せないくらい印象の浅いものであった。

ところがこのシアターの裏側は大きな大きな水槽になっていて、それこそ深海に来たような雰囲気であった。

つまらない映画を見て時間をロスしたように思われた。

一つ一つの魚の名前を詳しく観察すれば、それこそ一日いても足らないくらいに興味の尽きることない場所であった。

限られた制限時間ではとてもそんなわけには行かず、駆け足で回らなければならなかったが、この公園全体としては実に立派で、また機会があればゆっくりと見てみたい場所である。

集合時間に規定の場所に戻ってみるとすぐに次の観光地、「琉宮城」なるところに連れて行かれた。

バスが到着して車から降りてみると、確かに道路の向こう側に竜宮城を模した建物があったがいかにも安っぽくデザイン的には下手な細工である。

ここでは昼食ということで、すぐの二階のレストランに案内され、指定の場所に座っているとあらかじめ予約しておいた膳が出てきた。

私は「海ぶどう海鮮ちらし」というものを注文しておいた。

というのも、昨日の運転手が紅芋の説明のときに、この「海ぶどう」というのもこの地の名物だ、というものだから一体どういうものか知りたかったからである。

で、出てきたものをよく見ると、確かにぶどうの房に似た小さな小さな海草であった。

それがどんぶりの半分ほどの面積を覆っていた、

格別に美味というわけではなかったが、それでもこの土地固有の食べ物ということだけは体験することが出来た。

琉宮城は、内地の観光地なら何処にでもあるありきたりのドライブインないしは土産物屋という感じであったが、この隣に「蝶々園」というものあった。

蝶ちょがいっぱいいるということで、是非とも見てみたいと思ったが、その入り口がない。

よく観察してみたら、結局はそのドライブインの脇に入り口があったので、入場料を払って中に入ってみると、周囲を遮光ネットで囲った温室のようになっていた。

中にはアゲハチョウによく似たオオゴマダラという蝶がいっぱい舞っていた。

この蝶のさなぎは黄金色をしているということであったが、その実物は見逃してしまった。

この蝶は赤いものが好きということで、園内に赤い野球帽が置いてあったが、そこには沢山かたまって止まっていた。

園内には椰子カニの飼育もしているということで、それらしいものを探したが一向に見つけることが出来なかった。

ここからビオスの丘というところに移動したが、これは我々には全く予備知識のないところであった。

着いてみて、中に入ってみると、ここは要するに熱帯植物園というわけだ。

パンフレットの文句を並べてみると、

「あなたの見ている自然は、本当の姿ですか?

生命の神秘、自然との共生、人となるものの再発見、何気なく接していることが何よりも贅沢に感じられる瞬間、その思いこめて・・・」

「懐かしい沖縄に出会える、人と自然が交わる場所・ビオスの丘。  

丘陵地帯に広がる亜熱帯の森、園内に続く道を一歩はいると原色の緑が目に飛び込み、すがすがしい風があなたを包みます。

そこでは頭上に欄の花が咲き、野鳥やトンボが水面を行き交い蝶が舞う・・・ビオス溢れる森で穏やかなひと時を過ごしてみませんか」となっている。

まさしく、このキャッチ・コピーのとおりのところであった。

ガイドは、この池にある船に乗ることを薦めていたが、乗り場を探しているうちに乗りそびれてしまった。

しかし、その船はデイズニーランドのアトラクションの船と全く同じで、そう言う意味では目新しいものではないが、おそらくそこから見る景色というか、展示物は奇異なものが多かったに違いない。

バスを降りて発券売り場に行くと、ここがガラス張りの超モダンな施設で、そこからエレベーターで下に降りると、もうターザンでも出てきそうな雰囲気であった。

ランの鉢があちらにもこちらにもあって、池には睡蓮が咲いており、そこには水鳥がえさをついばんでいるという、俗世界とは別の空間が広がっていた。

池伝いに歩いていても知らない植物が次から次と現れてくるが、植物の名前を知らないものだから、なんとも不甲斐ない思いがしたものである。

物を知らないということは実に情けない思いがするものである。

ここを出るとバスは一路那覇に向けて高速道路を通って南下した。

沖縄にも高速道路があるとは意外な気がするが、沖縄は思ったよりもモータリーゼーションの波に翻弄されている感がする。

こちらで乗ったタクシーもバスも真新しいもので、鉄道という公共交通機関が未整備なるがゆえに、車に依存する事情は理解できるが、そのうちの車に押しつぶされるようになるのではないかと思う。

バスが交差点で止まったときに、墓が道路わきに展示販売されている光景を窓から見た。

それからガイドが沖縄人の死生観を延々と述べたが、沖縄の人々は先祖崇拝で、先祖というものが何よりも大事で、それゆえにあらゆる宗派の教祖よりも先祖の御霊を大事にするということだ。

それゆえ、内地で言うところの宗教の入り込む余地がなく、寺も教会もないと言うことである。

そのことはある意味で、おのおのが各自の心の支え、ある意味で信仰の根源をなす核のようなものを各自の御霊という形で奉っているのかもしれない。

いわば「鰯の頭も信心から」とも言うし、「八百万の神」という言い方もあるのと同じで、信仰の原始の姿を指しているのかも知れない。

こちらの墓参りというのは、各自の墓の前で一族郎党が集合して盛大な花見の宴を開くということである。

そして、こちらの埋葬は最近になってやっと火葬になったが、それまでは骨葬ということらし。

つまり、一時的に土葬にしておいて、3年後にそれを掘り起こし、骨だけを洗って新たに埋葬するということらしい。

つまり、死後も家族との絆が我々内地人よりも強いということだ。

だからこそ先祖供養ということになるのであろう。

旅というのはこういう出会い、未知との遭遇があるからこそ面白い。

で、バスが那覇市内に入ってくると、ここはもう内地と寸分も変わらない。 

市内のDFSの前でおろしてもらって、家内は早速その中に入っていった。

私は買う気もないものを見る気もしないのでロビーで行き交う人々を眺めていた。

このDFSで働いている女性などは、もう東京・大阪・名古屋と全く変わらない。

しかし、女性のファッションというのも実に不思議で、企業のユニフォームを押し着せで着用している女性は、如何にもきびきびと機能的で理知的で賢そうに見えるが、これが私服に着替えるととたんに堕落したように見えるというのは一体どういうことなのであろう。

女性たちは機能的で理知的で賢そうに見えるファッションには価値観を見出さず、堕落したようなファッションのほうに魅力を感じているということであろうか。

だとすれば、今の若い女性の審美眼というのは完全に昔の、古典的な価値観を失って、真の美、本当の美しさというものを知らないということではなかろうか。

このDFSの前にはモノレール、ゆいレールの駅があったので、早速好奇心に駆られて乗ってみた。

中型のバスを2両つないだようなモノレールで、沖縄唯一の鉄道ということだ。

試乗した感じでは普通の電車とまったく同じで、特別な違和感というのは感じなかった。

このモノレールで2つか3つ通過したところで降りて、この日のホテルに向かったが、ここはいささか探しつらかった。

この日の宿は典型的なビジネスホテルで、何の感慨もなくただ寝るのみであった。

 

次に続く