051129 11月24日
2日目のホテルはワシントンホテルで、那覇市の中心部にあったが、完全なるビジネスホテルで、ホテル内には何一つ見るべきものはなかった。
それで翌朝、朝食を済ませてから街中に散歩に出てみた。
最初、沖縄県庁前まで歩いていって、そこから国際通りまで行ってみた。
この国際通りというのは名古屋で言えば広小路や錦通りのようなものでいわば歓楽街である。
朝の8時頃、のこのこ歩いていても何も見るべきものはないのが当然である。
店店はまだシャッターを閉ざし閉店していたが、不思議なことにアメリカ軍の放出品を扱う店だけが店を開けていた。
古びた弾薬箱などが店先に並んでいたが、今更こういうものを手に入れて喜んでいる年は当の昔に過ぎ去ってしまった。
国際通りを一回りしてホテルにたどり着いたら9時半近くになっていたので、荷物をまとめてチェック・アウトをしてロビーで待っていた。
すると、この日のガイドが来てくれていた。
この日もタクシーを一日貸切りの状態で、戦跡めぐりをすることになっている。
家内がインターネットで調べまくってくれたおかげで非常に価値ある旅行が実現した。
車に乗り込んだら、最初、ガイド氏が「どういうコースで行きましょうか?」と尋ねたので、こちらも事前に調べた戦跡めぐりの標準的なコースを言ったら「ではそうしましょう」ということで、まず最初に首里城に行くということになった。
何処をどう走ったか皆目わからないが、すぐに首里城に着いた。
ここは街中で、駐車場が地上ではなく地下になっていた。
エスカレータで地上に出てみると、そこは観光案内施設とレストランが併設された立派な建物であった。
そこを出ると緩やかな登り坂になっていて、目の前に頑丈な朱塗りの城門があった。
これが例の「守礼の門」というわけだ。
2千円札に登場しているものだ。
門までの参道というか、その途中では、きれいな民族衣装を来た女性が何かを勧誘していたが、きっと記念写真の勧誘であったのだろう。
私は写真を撮るのに夢中でよく注視していなかった。
守礼門(しゅれいもん)
「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。
中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。
首里城での多数の城門や建築物には「公式の名称」の他に「別名」が付けられている。それらの呼び名から往時の琉球人の詩的な感覚が読みとれる。守礼門は古くは「首里門(しゅりもん)」ともいわれたが、庶民は愛称として「上の綾門(いいのあやじょう」と呼んだ。「上の方にある美しい門」という意味である。
1527〜55年(第二尚氏4代目尚清王(しょうせいおう)代にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもので、その後今日まで沖縄を象徴する観光施設として利用されている。2000年の記念紙幣2,2000円の絵柄にもなっている。
これは沖縄観光のあまりにも定番過ぎる定番であるが、世界遺産である限り、そのいわれも知らないことには意味がない。
21世紀の今日ではインターネットというものがあるのでまことに便利だ。
この門を通過するとすぐに左側に石で出来た単調なモニュメントのようなものがあったが、これは園比屋武御獄石門(そのひゃんうたいしもん)ということで、王様が旅に出るとき、道中の安全を祈願する石門ということであった。
その次にはまた門があって、これは歓会門(かんかいもん)というそうだ。
これが実質城内に入る最初の門ということらしい。石作りの頑丈な門である。
この門を過ぎると次は階段になっているが、この階段は段そのものに傾斜がつけられていて、歩きにくいが、これはわざとこういう作りにしてあるということだ。
この階段の下には四角い井戸があって、そこには「トレビの泉」よろしく小金が投げられていた。
私も小銭を投じてきた。
階段を上りきったところにまたまた門があってこれは瑞泉門ということだ。
下に泉があるからこう命名されたのであろう。
ここから道なりに進んでいくとようやく城内ということになるが、この城というのは我々の城という概念を覆すものである。
私はまだ中国には行ったことはないが、例の南京大虐殺といわれている南京の写真を見ると、案外それに似ているような気がしてならない。
この首里城というのは、中国式に、壁で外敵を防御するという発想の元に出来ている。
だから主要構造物を塀でくまなく囲んで、万里の長城を連想させる様式である。
だが、我々の城の概念というのは、堀で敵を防御するという発想になっている。
そして、城そのものは戦闘指揮指令所であるが、首里城の場合敵が場内に入ったらもう防御の方法がないように見受けられる。
というのは城内が大きな空間になっており、四方は建物で囲まれているが、真ん中は大広間というわけだ。
戦う要素を捨てて、王様のさまざまな儀式を執り行う居城という感が強い。
こういう発想そのものが完全に中国の影響であろう。
それで、城そのものは入り口の奉神門から南殿、正殿、北殿という建物で囲まれているということであるが、我々の認識でいうと、主要な建物は北から南向きにあるのは普通ではないかと思うが、ここでは東側に主要なものがあって、それが西向きに位置するということである。
パンフレットの図面は、主要なものを上に描いているので判りにくいが、首里城全体として、西から東に上っていくという構図になっているようだ。
建物に囲まれた真ん中は御庭と呼ばれ、紅白の幔幕のように色分けされていた。
ここで中国からの使者を接待したということであるが、それが冊封というものであったのだろう。
この造形が中国の紫禁城に酷似していることを称してパンフレットは「中国とのつながりが深かった」と記しているが、それは言葉のアヤでないかと思う。
中国、特に昔の漢民族の認識からすれば、朝鮮、日本、琉球、台湾などという周辺諸国は夷\そのもので、犬か狸ぐらいの認識しかなかったはずで、琉球が冊封師を受け入れ、紫禁城を模倣したということは、それだけ中国の思考を受け入れ、それに寄りかかっていたということである。
ところが日本、つまり倭国は、そういう風に中国に寄りかかるという発想は、聖徳太子の時代からなかったわけで、先方にどう思われようとも、独立自尊の気概を失わず、移入すべきものは惜しみなく取り入れたが、何もかも言われるままに鵜呑みして受け入れたわけではない。
入れるものと入れないものを倭の国の人々、つまり我々の先祖は選別していたのである。
大陸から冊封師がきても、一応外交上の礼節は尽くすが、言われることを鵜呑みしていたわけではない。
この独自性が19世紀から20世紀に掛けての近代化レースに勝利した理由ではなかろうか。
平城京や平安京が中国の都市を模したものといわれているが、模した部分もあるが、完全なる模倣ではないわけで、その証拠にこれらの都市には壁というものが全くないではないか。
そこに行くと、この首里城というのは100%完全なる模倣で、ただ規模が小さいだけのことで発想の根底のところに、中国を見習い、追いつき追い越せ、という思惑がにじみ出ているように見受けられる。
この城を、今日の時点で警備している係員が要所要所に立っていた。
その服装が昔の琉球の男性の衣装であった。
黒い、多分、麻織りではないかと思うが、お坊さんの着る紗のような生地の着物に帯を締め、頭には色違いの帽子を被っていたのでついつい質問してしまった。
「頭の帽子は階級によって色が違っているのでしょう?」と聞いたら、「そうだ!」と答えたので、「現在はどうか?」と聞いたら、「勤続が長い人が高貴な色を被っている」といっていた。
大いに納得。しかし、この着物の帯は不思議な結び方である。
男物の帯については兵児帯と角帯しかしらないが、沖縄の着物に関しては、男も女も、その結び方が我々の知っているものとは全く違う。
どうなっているのか皆目判らない。
首里城整備の経緯パンフレットより
「1945年(昭和20年)の沖縄戦で、首里城は戦火を受け灰燼と化した。
戦後、1950年(昭和25年)城跡に琉球大学が創設され、沖縄の人材養成・学問の府となった。
その後、歴史・文化を愛する多くの関係者の努力により守礼門をはじめ歓会門・久慶門などが復元された。
首里城の復元が具体的な話題にのぼったのは、琉球大学のキャンバスの移転が具体化した時点からである。
沖縄県は首里城公園基本計画(昭和59年)を策定し、自民党沖縄戦災文化財復元等に関する小委員会においては、首里城公園を沖縄復帰を記念する国営公園として整備すべきことが提案された。
その後、1986年(昭和61年)に首里城公園のうちの首里城跡の部分を国営公園として整備することが閣議決定され同年、国営公園以外の部分について県営公園として整備することが決定されるなど、着々と準備が進められた。
同年から首里城正殿の設計に関する検討も開始された。
1988年(昭和63年)度には実施設計を完了した。この間、土木工事はもとより中国、韓国の宮殿建築の調査も実施された。正殿の設計検討に当たっては学識経験者等よりなる委員会が組織され、綿密な考証が積み重ねられた。
そして正殿の建築工事は1989年(平成元年)11月3日(文化の日)、伝統的な木曳式を経て着工された。1992年(平成4年)11月3日、県民、国民待望の首里城公園の一部開園が実現した。
首里城公園は国営公園部分と県営公園部分を総称した名称で、そのうち国営部分は正式には「国営沖縄記念公園首里城地区」と呼ばれる。その理由は、国営沖縄記念公園が海洋博覧会地区(本部町)とこの首里城地区に分かれているためである。首里城公園は国営、県営の区別はあるものの、歴史、敵、文化的に一体な都市公園であるので、公園全体を海洋博覧会記念公園管理財団が一元的に管理・運営している。」
ここも本来ならば一日掛けてゆっくり見て回らなければならないところである。
しかし、限られた日にちと費用に制限があるので次に移ったが、次は
ガイド任せで、後部座席に座っているので何処をどう走ったからさっぱり判らないが、「着ました!」といわれて車から降りると、右側に立派な記念館が並んでいた。
本来ならば、この記念館の中に入ってゆっくりと当時をしのびたかったが、ガイド氏が言うには中に入るときりがないのでパスしましょうということになって、いきなり「平和の礎」に連れて行かれた。
ゲートを潜るときれいに整備された芝生の上に、当時の日本の魚雷とか米軍の魚雷とかがが赤さびて朽ち果てたままコンクリートの台座の上に展示してあった。
その奥、右側には黒曜石の畳2枚分、厚さ30cmほどのものがジグザグに並べられて、そこにはそれぞれこの戦いで没した人の名前が刻まれていた。テレビでもよく放映されるシーンである。
沖縄人のものと、それ以外の他県の人の分が分離されているということであるが、ここでの戦没者は18万人ということである。
その内訳は、沖縄人の人が半分で他県の人が残りの半分ということである。
中に入ったとき真っ先に思い出したのは、ワシントンのアーリントン墓地のことである。
二つの記念碑の考察はあとに譲るとして、そのパンフレットに記されていることを書き写すと
「
1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。
90日に及ぶ「鉄の暴風」は島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。
沖縄戦は日本において唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦戦争で最大規模の戦闘でありました。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っていることあり、その数は10数万人に及びました。
あるものは砲弾で吹き飛ばされ、あるものは追い詰められて自ら命を断たれ、あるものは飢えとマラリアに倒れ、また敗走する自国軍隊の犠牲にされたものもありました。
私たち
この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄の心の原点であります。
沖縄の心とは、人間の尊厳を何よりも重くみて、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは戦争で犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人々に私たちの心を訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して
ここに述べられていることは、事実ではあろうが極めて左翼的な思考の基で書かれた文章だと思う。
確かに、この地で我々の同胞はひどい仕打ちを受け、大勢の同胞が命を落としたことは事実であろうが、このパンフレットの文面からは、それをしたアメリカ、米軍を憎む文言が一つもないではないか。
40万とも言われているアメリカ軍の来襲が、たった「鉄の暴風」という形容で書かれているだけで、1940年、昭和20年ともなれば、アメリカ軍でも日本の交戦能力が底を着いていることが判っていたはずで、判っていながらほとんど無抵抗に近いこの島に「鉄の暴風」と形容されるほど砲弾をぶち込んだわけで、無益な殺生をしたのはアメリカ、米軍、連合軍側であったではないか。
沖縄県民はなぜそのことについて口をつぐんでいるのか不可解千万である。
米軍の来襲をあたかも台風の来襲のような感覚で捉え、悪いのはそれの対応を誤った日本人であるかのような印象で綴られているではないか。
沖縄戦の歴史的教訓を次世代に語り継いだ暁には、「50年後100年後には、この仇を打ちましょう」という発想が全く出てこないというのはどういうわけなのであろう。
これこそ戦後60年間の日本の左翼的思考の典型的な見本ではなかろうか。
そして、この地はアメリカ軍による虐殺の実施現場であるわけで、中国人の発想、中華人民共和国の発想、中国共産党の発想からすれば、「平和祈念」ではなく「米帝邦人虐殺歴史館」でなければならないではないか。
それが何故に平和祈念なのであろう。
「米国の軍事支配に抗しつつ」ではなくて、沖縄県民は常時ピストルを携行して、不埒なアメリカ人を見つけたらすぐさま射殺する気概と自尊心を持たなければならにではないか。
大学の構内にヘリが落ちたら、乗組員をすぐさま射殺する政治的度胸が必要なのではないか。
幼い女の子が暴行を受けたら、犯人をすぐさま射殺する覚悟と勇気を持つべきではないのか。
それでこそ米軍の軍事的支配を跳ね除ける
この資料館の展示室に関する文章でも、典型的な左翼思想がにじみ出ている。
「第1展示室、沖縄戦への道、
明治政府は琉球王府に対して武力を背景とした琉球処分を断行した。
それにともない沖縄県は皇民化政策によって急速に日本化を進めた。
一方、近代化を急ぐ日本は、富国強兵策により軍備を拡張し近隣諸国への進出を企てた。
満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと拡大し、沖縄は15年戦争の最後の決戦場となった。」と記されている。
それと関連して、沖縄は自分たちは日本で最初で最後の地上戦の戦場であったことの被害者意識が猛烈に強いように見える。
彼らの視点からあの戦争を振り返ってみると、戦争の被害は沖縄県人だけがこうむって、内地の人々は酒池肉林に耽っていたかのような認識ではないかと思う。
戦争の被害ということであれば、広島、長崎の原爆、東京、名古屋、大阪の空襲というのは沖縄の人にどう理解されているのであろう。
これらの都市の空襲では、それこそ軍人よりもそのすべての犠牲者が民間人であり、女子供が犠牲になったわけで、沖縄県人だけが特別に過酷な状況に置かれていたわけではない。
愚痴はこれぐらいにして、「平和の礎」のほうであるが、これは見事と言うほかない。
アメリカ・ワシントンのアーリントン墓地も、アメリカの国益に殉じた人が整然と葬られているが、アメリカはかって戦争で負けたことがないので、ここに葬られている人々は、大なり小なり英雄である。胸を張ってアメリカの国益に殉じた人ということが出来る。
しかし、この「平和の礎」には敵側の人も葬られているということであるが、これも中国や韓国の習慣ではありえないことではないかと思う。
彼らに掛かったら、敵は死んでも敵わけで、犯罪者は死んでも犯罪者の烙印を押されたまま、ということである。
その点、我々の考え方は実に柔軟性に富んでいるわけで、死ねば敵味方もなくなってしまう、ということであろう。
このおおらかさが平和主義の根底には流れているのではないかと思う。
だからこの「沖縄の平和主義を世界に訴え、恒久平和に寄与する」という思考につながっているものと思うが、平和というものは、自己満足の押し付けでは確立できない、ということを意識的に思考から削除してしまっている。
自分さえ武力を行使しなければ、決して攻めてくるものはいない、という思い込みにしたりきっている証拠である。
これはあの戦争中を通じて、我々は「勝つ!勝つ」と信じこまされて、それを鵜呑みにしていた状況と同じで、それは科学的な状況分析や、科学的かつ世界的視野、および世界的展望の欠如ということであって、それが沖縄戦の悲惨な状況につながっているということである。
此処ももっと時間を掛けて資料館の中も十分観察したかったが、身を惹かれる思いで次の「ひめゆりの塔」に移動した。
ここは駐車場がほとんど未整備といってもいいくらい雑然としていた。
丁度、愛知県稲沢市の「矢合の観音様」の前のような状況であった。
駐車場を取り囲むように土産物屋が並んでいて、車も雑然と留めてあった。
そこで車を降りて道路を横断するとそこに顕花をする花束を売っていた。私も一束買って奉げた。
正面に大きな横長の石碑があったが、碑文は読めなかった。
その右手脇に例の「ひめゆりの塔」があった。
塔そのものは身の丈1m弱の自然石に「ひめゆりの塔」と彫られていた。
まことに見栄えのしない控えめな碑であった。
その脇に大きな洞穴があって、ここで彼女たちが奮闘した、ということはわかる。
その奥に「ひめゆり平和祈念資料館」という立派な建物があった。
パンフレットより、
「ひめゆりの由来、
ひめゆりとは植物の花のひめゆりとは関係ありません。
沖縄師範学校女子部と
1高女は「乙姫」、師範は「白百合」と名づけられていました。
両校が併設されることによって校友会誌も一つとなり、両方の名前の一部を合わせて「姫百合」となりました。
ひらがなで「ひめゆり」を使うようになったのは戦後です。」となっている。
「資料館設立について
米軍の沖縄上陸作戦が始まったのは1945年3月26日。
深夜、沖縄師範学校女子部・
3月26日、米軍は慶良間列島に侵攻、4月1日には沖縄本島中部西岸(読谷から北谷の間)に上陸、米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠をとる間も無くなっていきます。
5月下旬、米軍が迫る中、学徒たちは日本軍と共に陸軍病院を出て本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい砲爆撃の続く中で6月18日を迎えます。
学徒たちは突然の解散命令に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。
陸軍病院に動員された教師、学徒240人中135人、在地部隊その他で90人が亡くなりました。
米軍は沖縄戦を日本本土攻略の拠点を確保する最重要作戦と位置づけ、物資のある限りを使い、対する日本軍は米軍の本土上陸を一日でも遅らせるために、壕に潜んでの防衛・持久戦をとりました。
沖縄を守備するため、軍は県民を根こそぎ動員を企てると同時に、学徒隊を編成して生徒たちの戦場動員を強行しました。
持久作戦、根こそぎ動員は12万人余にのぼる沖縄住民の犠牲を生みました。」
亡くなった若い命には、心からお悔やみの心情を奉るに、いささかの心の迷いもないが、この記念館設立の趣意書にも、沖縄の人々の内地人に対する恨み節の心情が汲み取れるような気がしてならない。
沖縄戦は当然のこと、アメリカ軍も日本本土攻撃のための布石だったことは間違いないし、日本軍も、それゆえになんとしても守備しなければならない試金石であったことは間違いない。
その中で、沖縄の民間人までもが戦場に狩り出されたことはまことにいたましことではあるが、そういう経緯から、沖縄の人々には、本土の犠牲になった、本土を救うために我々は捨石になったという被害意識が見え隠れしているように伺える。
この意識は本土にいる人にも充分あるわけで、我々は沖縄の犠牲の上に今日があるという意識をもっている人も少なくないと思う。
沖縄は確かにアメリカ軍の敵前上陸を迎え、熾烈な地上戦が展開されたので、その惨状は特別なものがある、という印象は拭い切れないが、戦争の惨禍に軽重はないと思う。
本土の軍需工場に学徒動員で出ていて、B−29の空襲で亡くなった学徒や女生徒は悲惨でなかったとはいえないと思う。
今、「男たちの大和」という映画が人気を集めているらしいが、この戦艦「大和」も、沖縄を救済すべく単騎で沖縄に向けて出港したわけで、内地の人々が沖縄を最初から見捨てたわけではない。
あの戦争において、沖縄の置かれた地勢的な位置が、沖縄の惨状を増加したものと考えなければならない。
それは同時に21世紀の今日でも、沖縄の地勢的な位置の占める重要性は変わるものではない。
我々は負けたが故に勝者にものを言うことを控えて、負け犬が尻尾を巻いて逃げるのと同じように、平和・平和といって念仏を唱えている図ではなかろうか。
60年前、日本の、いや沖縄の若い女生徒が辛酸を舐めさせられてならば、60年後100年後には、金髪のヤンキー娘に同じことを味合わせてやろうという発想がどうしてこの地から出てこないのだろう。
かく言う私も、本当は、同胞をそういう状況にまで追い込ませた邦人の戦争指導者・政治指導者を糾弾したい気持ちでいっぱいである。
私はひめゆり平和資料記念館で一冊の冊子を購入した。
彼ら、若くして逝った英霊に鎮魂の意味を込めて購入したが、この冊子を見ても、彼らをこういう境地に追い込めた我々の同胞の、つまり日本軍司令官の名前が極めて控えめで、ほとんど記載されていない。
これは一体どういうことなのであろう。
彼ら、犠牲者の手記は山ほど記されているのに、彼らをこういう境遇に追い込んだ我々の同胞、こういう状況に引き釣り込んだ軍の幹部に対する恨み節が全くないというのはどういうことなのであろう。
ここに我々の戦争に対する反省の甘さがあるのではなかろうか。
沖縄の人々が、本土の犠牲になったという被害意識の前に、我々の同胞を糾弾する恨みがもっともっとあってもいいのではないか。
沖縄という島に、軍歴輝かしい軍人、高級軍官僚と、年端も行かない生徒たちと、一般の市民がいたとすれば、軍人ならば目の前の海にアメリカの艦船が雲霞のごとく集まり、「鉄の暴風」ほど銃弾を浴びたとすれば、その後の状況は如何なることが待ち受けているか自ずとわかっているはずである。
こういう状況になっても、なおかつ戦うというのであれば、次席司令官は先任司令官を殺してでも民間人の命を救うべきではなかったかと思う。
ただただ命令に忠実であるだけが上に立つ人の器量ではないと思う。
命令に反しても、民間人には危害の掛からないように措置をするのが本当の愛国心だと思う。
しかし、そうは言っても、天皇陛下がポツダム宣言を受け入れて降伏すると言っているのに、尚且つそれに反抗して、徹底抗戦を主張し、テロにまで走った同胞・旧軍人がいたのだから、辺境の沖縄で、住民を道連れに徹底抗戦をしようとした司令官がいても不思議ではない。
司令官は、全滅を目前にして自分だけ自決すれば、それで責任から開放され、職責を全うしたことになるかもしれないが、道連れにされた部下とか、年端もいかない生徒たちはたまったものではないはずである。
軍の仕事に使うだけ使っておいて、「さあ解散命令だから好きなところに行け」といわれても、こんな無責任な話も無いと思う。
解散命令を出したときに、「お前たちは民間人なのだから、白旗を掲げて行け、そうすれば生き残れるであろう」、というぐらいのアドバイスはしてしかるべきだと思う。
しかし、この冊子の中にはその解散命令を出した人の名前が記されていないではないか。
それは、その命令そのものが如何にも無責任きわまるものだから、意図的に書かれていないものと思わなければならない。
つまり、その解散命令を出した軍人を庇っているということである。
同胞からこれほどの仕打ちを受けて、尚、同胞を庇うということは一体どういうことなのであろう。戦争だから敵の砲弾で死ぬのは致し方ない。
しかし、味方の誤判断、味方の責任放棄で死に追いやられては、犬死に以下で、たまったものではない。
この冊子には、その味方の悪行を糾弾することが一行も載っていないということは一体どういうことなのであろう。
それでいて、アメリカ軍に対する恨みも一言もない、というのは一体どういうことなのであろう。
ただただ犠牲者の体験だけが書かれているだけで、それが如何に過酷なものであったとしても、それだけでは歴史への教訓にはなりえないと思う。
この惨劇の張本人は基本的には牛島満という司令官であり、もっと言えばアメリカ軍のはずである。
そのことをもっともっときちんと考察しないことには、いくら惨めな惨状を書き綴ったところで、歴史への教訓足り得ないと思う。
惨めな惨状をいくら書き綴ったとしても、それは感情論の域を出るものではなく、過去の失敗を乗り越える力・エネルギーを生み出すとは考えられない。
我々がよりよい日本を後世に残すためには過去の失敗から学ばなければならないわけで、そのためには同胞の失敗を深く細やかに考察しなければならない筈である。
そこでは、当然、失敗の当事者として、各司令官の資質を問題にしなければ歴史の教訓は得られない。
しかし、我々はこういうひどい目にあっても、自決した司令官に同情こそすれ、その業績の失敗を暴き立てることに遠慮している。
惨劇の犠牲者がいくら惨劇の様子をリアルに表現したとしても、それで世の中が変わるものではない。
まして、それだから平和が我々の上に舞い降りてくるというものでもない。
いくら「このような悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない」といったところで、その悲惨な状況を作り出したのは相手であって、その対応が不味かったからこそ、その悲惨さがより大きくなったわけで、悲惨な状況を繰り返したくなかったら、相手より強くならなければそれは実現しない。
「このような悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない」と、いくら大声で叫んでみたところで、それは負け犬の遠吠えでしかない。
負け犬の遠吠えでしかないから、アメリカの軍事支配に抗しながら生きていかざるを得ないのではないか。
悔しかったら、アメリカの金髪娘に、ひめゆり学徒と同じ体験をさせてみることだ。
それでなければ、ここで若き命を落とした女生徒が浮かばれないのではないか。
もう一度同じことを再現せよという意味ではない。
我々は、悲惨な経験をしたのだから、また同じ失敗を2度と繰り返してはならない。
ならばどうするかと考えたとき、平和・平和と念仏を唱えているだけでは米国の軍事支配から脱却できないわけで、それから脱する戦略を冷静に科学的に思考するようにしなければならない。
また同じ悲惨な体験を繰り返さないための戦略、プロジェクトというものを考えたとき、沖縄県人の一人一人が銃で武装してアメリカ人の不法行為を見つけ次第、片っ端から殺してしまうというのも一つの案だと思う。
これは当然のこと、極端な例であるが、平和・平和と皆が念仏のように唱えておれば、米国に軍事支配されたままではあるが平穏な生活が出来るかもしれない。
しかし、それは戦前、「鬼畜米英」と日本全国の人が唱えていたことと同じで、結果的に、それは虚像であり、幻であったわけで、敵の実態は鉄壁の軍事国家で、豊かな軍事力を持った合理的な戦争遂行国家であったわけである。
戦前の我々は結果的にみれば、同胞のデマゴーグに騙されたということと同じではないか。
「ひめゆりの塔」の脇にある薄暗い洞窟を覗きながら、複雑な面持ちでたたずんでいた。
沖縄戦の悲劇としては、この「ひめゆりの塔」のみが特に有名になっているが、ここで購入した冊子によると、沖縄本島においてはすべて学校がこれと同じ体験をしているということだ。
女子が8校、男子が12校、すべてが同じ体験をしていると見なしていいと思う。
島全体が戦場になったのだからある面では致し方ない面がある。
ここでは丁度昼になったので、土産物屋の一軒に入って腹ごしらえをした。
私は、腹にこたえないものと思って蕎麦を注文したら、「大中小とある」というではないか。
だから「小」と言ったけれど、「小」では少々物足りないかなと思ったが、それで十分満腹になった.あれが「大」や「中」でしたら食べ切れないほどであったに違いない。
ここからガイド氏はまたサトウキビ畑の中を走って、喜屋武(きゃん)岬に案内してくれた。
両側にサトウキビ畑が広がっている光景はまさしく「さわわさわわ・・・」という表現がぴったりである。
この岬も今まで見てきた沖縄の岬と同じで断崖絶壁の上にあったが、ここでは米軍の追い詰められた住民が大勢身投げした場所ということである。
サイパン島でも、グアム島でも、この沖縄でも、敵に追い詰められると住民が身投げすると言うことは一体どういうことなのであろう。
「戦陣訓」というのがあって、「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉があったことは承知しているが、これは軍人や兵士の戦い方のマニュアルであり、戦闘の心得であったはずだが、それがいつの間にか住民・民間人にまで浸透してしまった、ということは一体どういうことなのであろう。
ウイーン条約の交戦規定では、武装していない民間人は殺してならない規定があったはずで、それは敵味方を通じて周知徹底されていたものと想像するが、我々の側はそれを住民に知らしめなかったのではなかろうか。
日本側の住民が白旗を掲げていれば、攻めてきた米軍側も、白旗を掲げている無抵抗の住民を何が何でも殺傷するということはありえなかったのではないかと思う。
にもかかわらず、追い詰められた住民は自ら死を選択しているわけで、これは一体どういうことなのであろう。
同じ日本人でも、満州や朝鮮からの引揚者は、敵のロシア兵や、戦いもせず戦勝国になった朝鮮人や、中国人の中を変装したり、男装したり、恥も外聞も金繰り捨てて、生に執着し命からがら引き上げてきているわけで、この態様の違いは一体どういうことなのであろう。
島という地勢的な条件で、いかなる策を弄しても生き延びれない、ということを悟っていたということであろうか。
その前に、白旗を掲げれば命だけ助かるという発想が湧かなかったのであろうか。
私はもう一つ穿った見方をしている。
つまり、突き詰めて言えば、隣の人が自殺したから自分も自殺するという、連鎖反応だと思う。
この日本人の心理状況を克明に解析したのがルース・ベネジェクト女史の「菊と刀」に書かれている恥の文化だと思う。
「ひめゆりの塔」の女生徒たちも、解散命令が出た時点で、おのおのがそれぞれに生きる道を模索して白旗を掲げていれば生き延びれたかもしれないが、隣が、旧友が、あの人が残れば私も残る、あの人が手榴弾で自殺すれば私も続く、という状況ではなかったかと考える。
満州からの引揚者の苦労も、あの人が頑張っているのだから私も頑張ろう、というふうに我々の生の執着というのは、その人の周囲の状況に大きく左右されているのではないかと思う。
同胞が複数集まると、そのグループの中で恥を掻いてはならない、恥とならないように、自分の本心はさておいて、とにかく恥だけは掻かないように、という行動規範がより多くの犠牲を出した理由ではないかと思う。
日本に来たこともないルース・ベネジェクト女史が、日本人捕虜を観察するだけで、これだけ我々の深層心理を解析分析したということは、まことに恐れ入ることだと思う。
そしてアメリカという国が、開戦と同時に敵国の民族の深層心理にまで深く静かに考察したという事実にも驚かざるを得ない。
「2度と悲惨な戦争を繰り返したくない」というのであれば、世界の動き、周辺諸国の深層心理から発想の原点になるようなものまで、研究・究明すべきだと思う。
沖縄の若い学徒の霊に報いるためにも、沖縄県人は仮想敵となりそうな諸国の民族の魂の根源まで掘り下げ、先方の行動パターンを研究し、相手の軍事力を考察し、外交交渉を武器とし、経済力を武器とし、マスメデイアを武器とし、常に備える心構えでいるべきだと思う。
ただ隣りの人がデモに行くから、同僚が言っているから、平和・平和と大合唱していれば世の中は平穏でおれるなどとは露とも考えてはならないと思う。
それでは戦前の「鬼畜米英」という国家的スローガンを鵜呑みにしていた図と同じではないか。
平和なときこそ、相手を研究する一番の好機であるはずである。
そういう時にこそ、隠れた努力を重ねるべきだと思う。
此処は沖縄の岬としては本島最南端ということで、東シナ海と太平洋の両方が見れるということであったが、それ以上の感慨もなく、次にガイド氏は那覇市内の旧海軍司令部壕に案内してくれた。
此処は那覇市内の小高い丘の上にあったが、車を下ろされたとき目の前のモニュメントにはいささか驚いた。
日米開戦前アメリカと交渉にあたった野村吉三郎の揮毫で立派な碑が立っていたので、これには驚いた。
そしてここが壕の入り口で、ここから入場して、だんだんと穴の中を降りて下に出てくるという仕掛けになっていた。
野村吉三郎といえば、日米交渉の直接の窓口であったわけで、日米開戦は日本側がアメリカの罠に完全に嵌められたという印象は拭い去れないものがある。
しかし、この野村吉三郎は、この日米開戦おいて決定的な失敗を背負い込んだということを忘れてはならない。
交渉の決裂は致し方ない。
コーデル・ハルの条件を日本が飲めば、我々は座して死を待つよりほかなかったことは理解できる。
しかし、今にも日米決戦が始まろうかというときに、アメリカ駐留日本大使館の馬鹿どもは、自分の職務・職責を放棄していたことを考えると、私は腸が煮えくり返るほどの怒りを覚える。
奥村勝蔵、寺崎英成、井口貞夫という外交官は1941年、昭和16年12月8日、日本が今にもアメリカに開戦をしようかどうかという時に、同僚の送別会に行っていたり、日曜日でタイピストがいないなどといって、外交文章の清書を遅延させたという体たらくであった。
本来ならば、全権大使しての野村吉三郎が、外務省アメリカ駐在員を自分の職権で指揮監督できたのではなかろうか。
そのあたりの事情は私にはよくわからないが、結果的に、日本の国交断絶の外交文書が、上に述べたような理由で真珠湾攻撃の後になってしまった。
アメリカ側は、この件で、「真珠湾は日本のだまし討ち」ということを大々的にアメリカ国民に宣伝して戦意高揚に努めた。
今にも戦争になるかならないかという時に、同僚の送別会だとか、タイピストが居なかっただとか、愚にもつかないような理由で、日本の国益を失ったという点で、彼らこそ本当の意味で戦争犯罪者だと思う。
職務怠慢の典型的な例ではないか。
そして戦後、これら3人の外交官、奥村勝蔵、寺崎英成、井口貞夫たちは、それぞれに出世しているわけで、外務省の人事は一体どうなっているのかという義憤を抑えきれない。
外務省ではその事が国益を損なったという認識を持っていなかったに違いない。
こんな馬鹿な話があっていいものだろうか。
我々はこの戦争の反省を一体どう考えているのであろう。
あの戦争の反省という話の中で、このことがあまり話題になっていないのは、どういうことなのであろう。
これら3人の外交官に比べれば、東条英機などまことに純真で素朴で勇気ある人物になる。
野村吉三郎が全権大使ということは、当時の外務省・アメリカ大使館の3馬鹿外交官を指導監督する権限がなかったのだろうか。
ここでもらったパンフレットには、この地で自決した太田実司令官の海軍次官宛の電文が載っていた。
「 発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左の電??次官に御通報方取り計らいを得たし。
沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部又通信の余力なしと認められるに付き、本件、県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急ご通知申し上ぐ。
沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんど省みる暇なかりき、然れども、本職の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下???風雨にさらされつつ、乏しき生活に甘んじありたり。
しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦、烹炊婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出るものあり。
所詮、敵来たりなば老人子供は殺されるべく婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せられるべしとて、親子生き別れ、娘を軍営門に捨てる親あり。
看護婦にいたりては軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄りなき重傷者を助けて??、真面目にて一時の感情に駆られたるものとは思われず、更に軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥か遠隔地方の住民地区を指定せられ輸送力皆無の者、もくもくとして雨中を移動するにあり、これを要するに陸海軍、沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらずも)、只管、日本人としての御奉公の護りを胸に抱きつつ遂に????与へ?ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形?????一本一草焦土と化せん、糧食6月一杯を支えるなりという、沖縄県民斯く戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
パンフレットの原文も文語体が多く、ところどころ不明の文字もあって、たどたどしい文章であるが、太田司令官の言わんとするところは十分に汲み取れる内容である。
たった一枚のパンフレットであるが、ここに書かれた電報文は涙なしでは読めなかった。
これを読んでみると地上戦というものの凄惨さというものが手にとるように判る。
おそらくレーニングラードの包囲戦、モスクワの包囲網というのもこういう状況を呈していたのではないかと思う。
ならば中国の南京陥落でもこういう闘い方があったであろうか?
おそらく中国ではこういう状況はなかったに違いない。
この戦い方の違いは一体何なのであろう。
しかし、私はこの壕を中を見ていささか違和感にとらわれた。
というのも、この狭くて細く暗いトンネルの中に立てこもった軍人兵士たちは、こういう状況に置かれても立派に階級制度を維持し続けたということである。
この狭いトンネルの中に、きちんと司令官室と、幕僚室と、下士官、兵員室と区別があるということは、私の感覚では解せないことだ。
医療室と通信室というのは職務上ないしは任務の都合上から別室というのは理解できるが、この期に及んでも、尚、階級制度を維持しているということは理解に苦しむ。
それは彼ら、つまり戦争に携わる人々が、階級という目に見えない架空の権威に振り回されていたということではないかと思う。
開放された開けたスペースであれば、その制度にのっかって組織が機能的に行動するということは理解できるが、地下に追い詰められてまで、その形態を維持するというのはいささか陳腐だと思う。
しかし、当事者は最後までそれに気が付かなかったであろう。
沖縄戦全体を通じて、ここで自決した太田実司令官にしても、摩文仁(まぶに)で自決した牛島満司令官にしても、職務を全うした後、すべきことは全部し尽くした後の自決という風にもとれないこともないが、住民をこれだけ巻き添えにしておいて自決ということはあまりにも責任回避ではなかろうか。
そのことは、天皇に対してだけ責任を感じていたわけで、一般の兵士が天皇の赤子であれば、一般国民だとて天皇の赤子に代わりはないわけで、自分の職責をまっとうせんがために、片一方の天皇の赤子を無駄に死なせたということは非常に考えさせられる問題だと思う。
日露戦争は日本が勝った戦争であるが、この戦争で勝つまでの過程で、旅順を攻略した乃木希輔は、天皇の赤子を大勢無駄に殺してしまったということで、明治天皇の崩御の際に殉死したが、これならば納得がいく。
しかし、住民を戦闘に巻き込ませておいて、自分だけ天皇に対して責任を全うしたからといって、さっさと自決しては少々無責任ではないかと思えてならない。
やはり戦闘の最高司令官であるならば、無抵抗な住民の命は可能なかぎり救済して、自分はその全責任を背負って敵に降伏すべきではなかったかと思う。
あの時代、人間の命があまりにも安易に捨てられてように見えてならない。
「捕まれば敵に殺される」という思考も、現実には何の根拠もない流言蜚語の類であったわけで、それを鵜呑みにする愚がどうして世間一般に蔓延したのであろう。
この一事を以ってしても、我々は敵というものを全く知らなかったわけで、敵を知らなかったものだから、恐怖を自分自身のイメージの中に作ってしまって、死ななくてもいい命を自ら捨てしまったのではなかろうか。
沖縄という土地柄は昔も今も東シナ海に浮か不沈空母であることに変わりはない。
21世紀においてもそれは変わることのない沖縄という島の抱えた宿命だと思う。
地勢的な条件が沖縄という島をそういう宿命の元に置いている。
沖縄が東シナ海の不沈空母の位置から解き放たれるときは、中国が民主化されて、我々と同じレベルの民主国家になるまで待たなければならないと思うが、仮にそうなったとしても中国大陸に住む人々が、周辺諸国を夷狄と見なす風潮がある間は、我々の側としては警戒しなければならないわけで、そうである限り、沖縄が東シナ海の不沈空母という役目を負わざるを得ないと思う。
この日のガイド氏が言っていたことに、この地ではアメリカ軍の関係者の車と軽い接触事故を起こしただけでも、日本の警察だけでは埒が明かず、アメリカのMPが来るまで車も動かせないということであった。
正しく占領下そのものといわなければならないが、だからといって早急にアメリカの基地を撤廃することも、また新たな緊張を作り出すことになるわけで、近未来的に解決できるものではない。
そんなことを頭の中で巡らせているうちに那覇空港に到着してしまった。
空港で車を降りたとき、心から感謝の気持ちがわいてきて、ついついチップを手渡してしまった。
この日は朝から5時間も我々を案内しながらの運転であったので、その労に報いたい気持ちになった。
我々の国はチップの制度というべきか習慣がないのでまことにありがたい。
外国を回るとついついチップで頭を悩ませねばならないが、我々にはそういう習慣がないのでまことに無頓着であるが、アメリカ人は実に巧妙というか実にさりげなくスマートに渡している。
ホテルでタクシーを降りるとき、ガイド付の観光バスから降りるとき、レストランで食事をしたときなど、実にさりげなく優雅にチップをだしている。
思えば旅をするということは昔ならば貴族の行為ではなかったかと思う。
貴族ならばそれにふさわしいノーブル・オブリージがあるわけで、サービスを受けたならばチップを払うということが身についているはずだ。
ところが我々は典型的な平等社会なものだから、タクシーに乗っても、バスに乗っても、レストランで食事をしても、それを労働と考え、労働に対しては正当な料金を払っているのだか、余分なチップは不要と考えているのであろう。
仕事と割り切るあまり、その仕事をする過程での誠意の価値を全く認めておらず、結果が同じならば余分な支払いは不要と思っている。
まあそんなわけで、家内との二人旅も無事終わった。