051102001 伊藤律

戦後60年の憂鬱
   その10

 

祖国に対する怨恨

 

先の戦後60年の憂鬱・その9では小野田寛朗氏の話から入ったが、彼、小野田氏が、戦後も約30年間ルパング島で戦い抜いたのは、やはり国家の命じた使命に忠実足らんとしたからだと思う。

戦後60年も経ってみると、この小野田氏の心の支えとなっていた国家の使命、国家から命じられたことを何が何でも完遂しなければならない、という使命感は世間一般に非常に希薄になっている。

いやむしろ、国家が国民に要求してくることには懐疑の目を向けなければならない、という逆向きの思考のほうが幅を利かせているように見える。

戦後、こういう風に、心の在りようが逆転した人達から小野田氏を見ると、かえって陳腐にさえ見えるのではないかと想像する。

何故にそれほどまでに祖国に忠義立てするのか、という疑念のほうが先にたつと思う。

戦後の日本では民主主義の名の元で、国家に不服従の人のほうが開明的な人間とでも思い込んでいる節がある。

先の戦争の結果として、我々は奈落の底に落ち、途端の苦しみを味わった。

その苦痛があまりにもひどく、筆舌に尽くしがたいほどのものであったので、そこで従来の思考が停止してしまったのかもしれない。

敗戦という、今までに経験したことのない状況に追い込まれて、ものを考えることが出来なくなってしまったに違いない。

そういう状況下に、アメリカ進駐軍は民主主義というものを押し付けてきたので、我々は従来の価値観をきれいさっぱり捨て去って、新しい民主主義という価値観の波に乗り移ってしまったものと考えざるをえない。

民主主義の普及ということは、アメリカ占領軍としては必然的な行為であったわけで、彼らにしてみれば、日本の旧来の価値観としての軍国主義というものがことのほか恐ろしかったわけで、それを払拭するためにも古い価値観を一刻も早く日本人から取り去らねばならなかった。

このアメリカ占領軍の政策は見事に成功したわけで、我々は、老いも若きもすべてが民主主義を信奉するようになった。

ところが我々は、この民主主義というものの本質を知らないまま、表層的な部分のみを見聞きして、それが民主主義だと思い込んでしまったので、ここに我々、戦後の日本人の民主主義というものはいびつな形で仕上がってしまった。

価値観の大転換のとき、その行き過ぎをセーブするのは長老的な大人の責任だったと思う。

物事の変革というのは、如何なる事象でも、若者の率先によって達成されている。

若者は常に変革を求め、前に進もうと考え、従来の殻を破ろうと突き進みがちである。

それをセーブするのは、若者の上に立つ長老的な人達でなければならないはずで、歴史というのは、若者が殻を破ろうとするパワーと、それを押さえ込もうとする保守的なパワーの綱引きの加減で、徐々に徐々に進化するのではないかと考える。

ところが我々の場合は、それが敗戦という状況下で一斉に方向転換をしてしまった。

老いも若きも、価値観の転換の是非を考える間もなく、半ば強制的に方向転換をさせられてしまったのである。

敗戦という状況は実に悲惨な状況であったわけで、そこで生き残った我々同胞は、もう価値観の転換の是非などを考えている間もなかったことは事実だと思う。

東京は全面的に焼け野原で、国会議事堂の前で畑を作っている有様であり、見渡す限り焼け野原で、残っているものといえば焼け爛れたビルの残骸だけであった。

当然、大阪、名古屋、広島、長崎も、東京と似たり寄ったリの状況で、日本中が食糧難の時代であった。

戦争が終わって、もう空から爆弾の雨が降ってくることはなくなったが、地上では逆に食い物がなくなってしまったわけで、戦争に負けた我々は、まず最初に食うことの心配からしなければならなかった。

何にもまして、まず己自身の生の維持を確保することから考えなければならなかった。

つまり、原始社会に舞い戻ったということである。

そういう状況下では、旧の価値観も、新しい民主主義も、頭で考えている暇はなく、今日生きんがために、明日生きんがために、何をなすべきかということが問題であったわけである。

そういう状況のところに、戦地からの復員兵が帰ってきたり、ソ連からの抑留者が帰ってきたりしたわけで、国内の復興がまだ仕上がっていないうちから大勢の人々が帰ってきたので、国内の混乱は一向に収まる気配がなかった。

問題は、こういう状況下において、アメリカ進駐軍は民主化の名の下に、共産主義者を野に解放したことにある。

アメリカという国は、共産主義というものに非常に寛大で、それは良い意味でとれば、民主主義が徹底していたので、個人の思想・信条の自由が保障されていたということでもあるが、共産主意義者にとって見れば、アメリカは豊かな国だからこの国では革命は成り立たない、ということが最初からわかっていたことが関係していたと思われる。

ところが敗戦直後の日本では、今まで述べてきた終戦直後の状況からして、何時革命が起きても不思議ではない状況が続いていたのである。

そういう状況のところに、政治犯の釈放という名目で、共産主義者が解放され、彼らは凱旋将軍のようにもてはやされて出獄した。

アメリカ占領下の日本は、それこそ何時共産主義革命が起きても不思議ではない状況であったが、その革命をアメリカ占領軍・GHQが先に行ってしまった。

共産主義者の大命題をGHQが先取りしてしまった。

ここで問題にしなければならないことは、我々の同胞のものの考え方である。

わが同胞の統治のされ方と統治の仕方である。

1945年、昭和20年8月、天皇陛下がポツダム宣言を受諾し、戦争を終わらせようとしたとき、それに反対して反乱を起こした帝国軍人の存在、この同胞の存在を我々は今どう考えたらいいのであろう。

昭和天皇が、もうこれ以上戦争継続は成り立たないからポツダム宣言を受け入れて戦争を終わらせようとしているときに、一部の軍人は尚徹底抗戦を主張し、わが同胞を絶滅させようと考えていたことを我々は今どう考えたらいいのであろう。

それとは逆に、一般国民の側でも、8月15日までは「鬼畜米英、撃ちてし止まん」といっていたものが、一夜明けたら「天皇はたらふく食っている、米よこせ!」という筵旗の掲揚というのを我々は今どう考えたらいいのであろう。

「天皇はたらふく食っている、米よこせ」という筵旗の掲揚は、紛れもなく共産主義者の典型的な態度であろうが、あの軍国主義の最中で、特高の目が厳しいなかで、隠れ共産主義者というのがこれほど日本の国内に潜伏していたのであろうか。

それともアメリカ占領軍の民主化運動に真っ先に飛びついた進歩的な人であったのだろうか。我々同胞の、統治の仕方、され方というのは実に摩訶不思議だと思う。

戦争の始まる前、昭和の初期の時代に、大正デモクラシーと呼ばれていた日本の政党政治があっさりと消滅していった事実も実に不思議な現象である。

昭和になる前の大正時代には大正デモクラシーと呼ばれる政党政治の蜜月時代があったにもかかわらず、それが大政翼賛会に収攬されていく過程も実に不思議な成り行きだと思う。

その不思議さの中には、我々の同胞の統治の仕方とされ方が大きく関わり合っていると思う。

この関わり合いを究明することこそ、歴史の教訓としなければならないと思う。

戦後の混乱期に、戦地から復員してきた同胞、ソ連に抑留されていた人達の帰還者、銃後の日本で生き延びた同胞、特に女性たちというのは、みな成人に達していた人達である。

この人達は価値観の大変換を身をもって体験したことになる。

価値観の大転換を経験しただけならばまだいいが、彼らは自分が今まで信じてきた祖国というものに裏切られたわけである。

「勝つ!勝つ!」と言われ、そう思い込まされて、今まで艱難辛苦を乗り越えてきたにもかかわらず、蓋を開ければ見事な敗北であったわけで、彼らにしてみれば、自分の祖国に騙されて、嘘を言われ、裏切られて、散々食い物にされたという印象は拭い去れないものと思う。

まじめに祖国に尽くしてきた人ほど、その落差は大きいと思う。

戦時中という状況の中で、まじめに祖国に尽くした人ほど、尽くそうと勤めた人ほど、正直で、純真で、素直で、学業の成績もきっと良かったに違いないと思う。

こういう人達が一斉に騙されたということに気が付いたともなれば、その反動も、そのまじめさに比例して大きなものになるのも致し方ない。

戦後の日本の思想界は、こういうことを反映しているのではなかろうか。

そしてそれは、アメリカ占領軍の対日占領政策の機軸とも合致しているわけで、日本を征服したアメリカにしてみれば、そういう祖国に裏切られたと感じている勢力を味方に引き入れれば、彼らの望む占領政策がスムースに行くことは間違いないと考えたわけである。

戦時中に、まじめに祖国に殉じようと考えていた日本の秀才、いわゆるまじめな人達が、戦後、自分が祖国に裏切られたことで何を信じていいかわからなくなって、アメリカの占領政策に追従するまでは仕方がないが、問題は、そういう積極性もなく、ただ旧秩序と新秩序の間で自分の座標軸を見つけれなかった人達である。

 

統治されるものの不満

 

例えば、まことに些細なことではあるが、今の若者は箸を基本どおりに使えない。

これは家庭教育に起因していると思うが、その家庭教育を怠った最大の理由は、敗戦のときにすでに大人になっていた世代が、敗戦の価値観の大転換で、生きる自信を喪失して、自らの子たちに箸の使い方もろくに教えなかったということを物語っていると思う。

家庭における躾さえも、この世代、敗戦のとき成人に達していて価値観の大転換を身をもって体験した世代がスポイルした結果として、今の若者に現れていると私は考える。

敗戦のとき、15、6歳以上の人ならば何らかの形で、価値観の大転換を身を持って体験しているわけで、その中で自分自身も生きる指針を失い、それに伴い古い倫理観も見失い、ただただ食わんがためにのみ思考が働き、刹那的な気分から何時までたっても脱却できなかったからだと思う。

そしてそれが澱となって、戦争という言葉を聴くだけで拒否反応するようになってしまった。

非常に過酷な体験をして生き残ってみると、すべては今まで言われてきたことが嘘であったわけで、名実共に奈落の底に突き落とされたことを悟ってみると、もう自分自身の信じれるものは何もないわけで、あらゆることに幻滅を感じていたに違いない。

その心中は察して余りあるものである。

その反動として、人にものを強要することに生理的な不快感を覚えるようになり、その延長線上に、自分の子供にさえ好きなことを好きなようにすればいいという、一見物わかりの良い態度が最上だという心境に至ったものと推察する。

人として、ある特定の方向付けをすることは、その人を不幸にするという発想は、一見物分りの良いように見えるが、これはともすると野放図のままにしておくということにもつながるわけで、それは躾や教育の否定ということになる。

躾や教育ということは、ある程度の強制が伴わないことには成り立たないことである。

戦後60年のその結果が今顕著に現れているわけで、子供を野放図にしておいても、素直に育つ子は素直に育つが、もともと性質の悪い子は、如何なる躾や教育を施してもその子が本来もっている根本的なものが良くなることはない。

昨今では、こういう発想は差別を助長するということで、忌避されがちであるが、世の中を物分りの良い発想や、思考で、良くしようと思っても、理念だけでそれが出来るものではない。

現実を直視して、現実に添った対応をしなければ物事は成就しない。

問題は、敗戦のときに生き残った人々が、その敗戦のショックからいまだに精神的な復活が出来ていないという点である。

敗戦のショックがPTSDとなって、自然人の自然の感情にまで回帰していないという点が最も憂うべき事柄だと思う。

この敗戦のショックの中で一番大きなものが祖国に対する不信感の醸成ということであろう。

あの戦争に生き残った人々、特にあの時期に15、6歳であった人々は、旧体制の中でも一番若年の社会の構成員であったわけで、その分一番苦労した世代でもある。

平和なときならば一番多感な時期で、自己に目覚め、ものを考え、悩む時期に、社会的に一番下層階級の社会人として、組織の中に埋没しながら一番過酷な体験をさせられた人達と考えていいと思う。

その人々が戦争が終わったからといって、今まで通り、祖国に忠実足りえないのは当然のことだと思う。

その上、アメリカ占領軍の施政方針というのは、今まで彼らが教えられてきたことの全く逆のことなわけで、その現実を見るに付け、自分の祖国とはいったい何のか、ということを大いに悩んだに違いない。

この思いが強烈に心に残っているがため、彼らの経験してきたことを全否定するのに全く抵抗感もなく、自分たちの子孫にも自分たちの経験してきたことを語ろうともせず、継承しようとも考えなかったものと思う。

そしてそれは大きな流れとして、旧秩序の全否定という視点から、共産主義革命の路線と軌を一にしていたのである。

階級闘争ということは、組織としてのシステムを否定するということであって、その前には旧来の秩序を全否定しないことにはならないわけである。

そしてアメリカ占領軍の政策に素直に従ったということは、ほんの少し前までは、我々の同胞の軍国主義にも素直に従ったということであって、昭和20年8月まで我々同胞の唱えていた軍国主義と、それ以降新しい帝王として我々の上に君臨した進駐軍では、その方向性が逆向きではあったが、そういう強権力に従順に従うという性質は、我が民族性が普遍的にもつものであったわけである。 

昭和初期の我々同胞の軍国主義が、我々を奈落の底に突き落として終焉した後、上から押し付けられて、アメリカ占領軍の戦後の日本民主主義というものも、あれから60年という歳月を経ることによって、いよいよその終焉に近づきつつあるように見える。

人が集団で暮らす社会というのは、如何なる未開の民族であろうとも、そこには統治する側とされる側というシステムが存在すると思う。

民主主義というのは、その統治するものを下から選び出そうというシステムだと思う。

しかし、何千、何万という同胞の中から、誰か一人を統治するものとして選出しようとしても、その選び出された人に対する不平不満というものは決して払拭されるものではない。

数ある人間の中には、人が選出した統治者に対して、反対意見のものが必ずいるわけで、それは人間の集団という社会である限り、如何なるときでも、如何なる場所でも、普遍的なことだと思う。

問題は、この不平不満が何処まで許されるかということだと思う。

旧ソビエット連邦、旧東ドイツ、現中華人民共和国、現朝鮮民主主義人民共和国という共産主義の国家の中で、それが何処まで許されていたかである。

我々の日本の中では、あの大戦中においても、こういう共産主義体制のほうが良いと考えていた面々がかなり沢山居たということが今から考えると不思議でならない。

 

伊藤律の30年

 

ここで伊藤律の登場となるわけであるが、彼は1913年、岐阜県に生まれ、二十歳のときにももう既に共産党員として入党していたと資料には書いてある。

日本軍がどんどん中国大陸に進出、今はこれを植民地支配というらしいが、攻め入っているときに、彼は日本共産党に入党していたということである。

これをこう文字で表現すると、ただそれだけで終わってしまうが、あの時代に田舎出の若者が共産党に入党するということは、思想的に非常に早熟であったということである。

一人の男の二十歳のときというのは、自分の将来に迷いに迷っている時期であって、早々安易に自分の将来を決定すけるようなことは出来ないはずである。

そして、この時代の普通に優秀な若者ならば、まず軍の機関に身を置くような思考をしていたのではないかと思う。

彼が二十歳のときといえば1933年で、日本軍は中国大陸で「勝った!勝った!」と、奥へ奥へと入り込んでいった時期で、そのときに普通のありきたりの優等生ならば、海軍兵学校か陸軍士官学校を目指したはずであり、それが時の時流というものであったのではないかと想像する。

ところが彼の場合は全く別の選択をしていたということである。

世の時流というものに真っ向から逆らっているわけである。

この時代の共産党員ともなれば、特高に付け狙われるのも当然で、事実、何度も投獄されて、最終的にはゾルゲ事件にも関与し、北林トモを特高に売ったのではないかとさえ言われている。

この際は、売ったか売らなかったかは問題ではないが、私が不思議に思うことは、二十歳という年齢のときから国家、つまり自分の祖国に対して抵抗ばかりしてきたその信条である。

これはゾルゲ事件でリヒアルト・ゾルゲと共に死刑になった尾崎秀美についても同じことが言えるし、戦前・戦後を通じて日本共産党員のすべてについても同じことが言えるが、この世に、日本人として生まれてきて、自分の祖国に抵抗ばかりして生涯を終えるということは一体どういうことなのであろう。

自分の祖国に盲従するということは、確かにある意味で律儀ではあるが、それと同時に無責任でもあり、その結果として我々はあの戦争で奈落の底に突き落とされたことは拭いようのない事実である。

それを全面否定するとなると、こういう伊藤律や尾崎秀美や共産党員の行き方を全面的に肯定しなければならないことになる。

私の個人的な思考では、こういう人々を容認することはとても出来ない。

少なくとも、この世に生を受けた以上、世のため人のために何らかの奉仕をするのが人の生きがいでなければならないと思う。

先に述べた小野田寛朗氏は、戦争終結を知らずにジャングルの中で少数の部下と共に約30年間戦い続けていた。

一方、伊藤律は兵役に服したかどうかはしらないが、戦前・戦後を通じて、一貫して祖国に抵抗し続けて、結局のところ、共産主義国家・中華人民共和国で、約30年間幽閉されて、廃人となって帰還したわけであるが、この両名の生き方を考えると実に不思議な感慨を覚える。

私の個人的な考え方としては、小野田寛朗氏は国家の指針を実に忠実にトレースしていたと思う。

我々は普通に生きているとき、誰も国家の指針を自分がトレースしているなどということを考えて日常生活を送っているわけではない。

普通に生活して普通に仕事をしているとき、人は、そんなことを考えているわけではないが、平穏な生活を送るということ自体が、国家に対して奉仕しているわけで、統治ということは国民がそういうことを継続できる環境を整えることだと考える。

普通の一般市民が、朝起きて仕事に向かう、職場に向かう、あるいは自分の生業に精を出す、学校の先生は学校に行き、警察官が自分の持ち場を守る、という普通の生活をつつがなく継続するというだけで、それは国家、自分の祖国に対して大いに貢献しているということだと思う。そのためには、そこにきちんとした秩序が確立されていないことには、こういう平穏な生活は確立できないわけで、そこが共産主義者には飽き足らないのである。

一般国民が平穏な生活をいくら求めていても、主権国家という枠内では収まりきれない外部要因が、その枠の外からいくらでも押し寄せてくるわけで、これがあるとその枠の中の平穏な生活は右に左に大いに揺れる。

わかりやすい最近の事例でいえば、北朝鮮の拉致被害者の問題とか、それほど極端な事例でなくとも、アメリカのBSEの牛肉の輸入に関する問題とか、キムチに回虫の卵が入っていた問題とか、これらの問題はすべて海外の問題であるにもかかわらず、外部要因として我々の平穏な日常生活に直結している問題で、それによって我々の日常生活は大いに揺れ動いている。

今は平和的な話し合いで解決の糸口を探しあっているが、これとても双方に国益が絡んでいるわけで、話し合いの仕方しだいでは、何時でも実力による解決ということに摩り替わらないとも限らない。

となると、この揺れを実力で解決しなければならない時が来るとも限らないわけだが、戦後の日本はそれを禁じられている。

禁じられているというと他動的に聞こえるが、その実、自分で手を縛っている。

だから、我々の祖国がこういう問題を実力で解決しようと決断したとき、祖国の統治者とそれに従属する国民としては、どういう対応をすべきか大いに悩まされるわけである。

海外とのトラブルを実力で解決しようと決断するのは、当然のこと、その国を統治している側であるが、ならばその国に従属している国民として、自分たちを統治しているものに対して、何処まで従順でいたらいいのかという問題は極めて難しいと思う。

戦前の日本人は、その大部分が極めて従順に祖国に忠誠を尽くした。

しかし、結果として我々の祖国は、その忠実に奉仕した大部分の国民に嘘をつき、騙して、敗北という結果を招来させてしまった。

国家と国民の関係において、先の戦争の結果は、祖国が国民を騙したことになったが、国民の側としては、何処までも自分の祖国を信じ、ある者は戦地で死亡し、ある者は共産主義国ソビエット連邦に抑留されてしまったわけで、生きて帰ったものは戦後、祖国に対する恨みが骨髄にまでしみこんでしまったとしても致し方ない。

大部分の日本人がそうであったにもかかわらず、小野田寛朗氏はたまたま終戦を知らなかったばかりに、戦後約30年間も尚祖国に忠実足らんとしていたわけである。

彼の行為とその思考は旧大日本帝国軍人の鑑だと思う。

彼は世界に出しても決して恥ずかしくない、日本の軍人として誉れ高い存在だと考える。

軍人、兵隊、兵士という職業というべきか、仕事というべきか、階層というべきか、こういうジャンルの人々の心のうちにある祖国に対する忠誠心というのは、万国共通の認識だと思うが、彼の約30年間に及ぶ戦闘継続ということは類希なる例ではないかと思う。

それに引き換え、同じ30年でも伊藤律の場合を我々はどう考えたらいいのであろう。

彼の場合は小野田寛朗氏とは全く逆に、祖国に対して抵抗の30年、反抗の30年であったわけで、これを人の生き方として我々はどう考えたらいいのであろう。

その抵抗の仕方も、ひそかにこっそりと祖国をぬけだし、誕生間際の共産中国に渡って、散々日本に対する悪口雑言を吐いて、その挙句として共産中国につかまり、拷問され、片輪にされ、牢につながれての30年である。

彼の場合、若干、二十歳のときから特高に追われ、つまり官憲からは追い回され、戦後、解放されたならば世情騒乱に手を貸し、アメリカ占領軍からもレッドパージで追われ、共産中国に逃亡してまで自分の祖国を敵に回し、その挙句、味方であるべき共産中国で獄につながれ、30年も幽閉されて片輪にされて祖国に送り返されたわけで、他人事ながら彼の人生は一体なんであったのか不思議でならない。

同じ反逆者であった尾崎秀美の場合、彼は祖国によってその生を閉ざされたが、それは抵抗の相手としての祖国、つまり本人からすれば敵と戦って戦死したという思いがしないでもない。

彼、つまり尾崎秀美本人は殺されることに何の悔悟もなく、正々堂々と敵の手に命をゆだね、立派な戦死だったという感じがするが、伊藤律の場合は可哀想を通り越して馬鹿とさえ思えてくる。犬死以下だと思う。

彼が中国に逃げる過程、また中国国内で獄につながれる過程には小説以上の複雑怪奇な物語があるのだろうけれど、彼はそのことについてはとうとう死ぬまで語らなかった。

その意味でも彼は馬鹿だと思う。

私の察するところ、彼は結局党の仲間に嵌められたわけで、それほどまでして日本共産党をかばう彼はよほどの馬鹿でしかない。

数少ない情報を寄せ集めてみると、彼は戦後の開放時に徳田球一に可愛がられ、その後のレッドパージで追放されると、新生中国へ潜入し、中国で野坂三造の嫉妬心から反感を買い、それで中国共産党に売られたようである。

しかし、彼の人生は、若干、二十歳のときから一生涯、逃げ回るだけの人生あったではないか。逃げ回っていないときは、暗い牢獄につながれているときだけで、こんな惨めな人生など普通の人では考えられない。

彼の若かりし頃、普通の日本人は、祖国に忠実足らんと艱難辛苦を重ねていたわけで、その結果として祖国に騙され、裏切れ、敗戦という憂き目にあっていたが、彼の場合は、日本共産党に忠実足らんと奔走した挙句、党に裏切られ、党に騙され、中国共産党に売られたわけである。

だとすれば、ここで人間としての復讐心がむくむこと頭をもたげて、党の腐敗や堕落を一切合財暴いてやろう、という気持ちにならなければおかしいと思う。

敗戦後の大方の普通の日本人も、我々を敗北させた旧連合国に対して仇を取ろうと考える人が独りもいない点で、伊藤律の心境と相通じるものがあるといわなければならないかも知れない。

戦後の物分りの良い知識人たちは、共産主義者というだけで「追い回す官憲が悪い」という言い方で、祖国の民主化の度合いが低いことを糾弾しようとするが、統治の肝要は、統治者に対する反抗者を如何に押さえ込むかということだと思う。

だから共産主義国家というのは、意図も簡単に反逆者と思しき人間を捕まえては投獄して、黙らせてしまうが、民主国家ではそんな極端な手法は取れないわけで、相当に抵抗の度合いがひどい場合でなければ反逆者を捕まえるということは許されない。

普通の主権国家であれば、その中には統治するものに協力するグループと、反抗するグループの双方を内包しているのが常態だと思う。

国家に反逆するグループを何処まで肝要に扱うかで、その国の民主化の度合いが測れると思う。

国家に素直に忠誠を誓ってくれる国民は、何処の国においてもなんら問題ではなく、国家の成立というのはそういう人々で成り立っていると思う。

普通の国民が、普通の市民が、普通に日常生活を送り、普通に仕事に励み、普通に納税し、普通に兵役に付くことによって国家というのは成り立っているが、それは統治される側の国民にとって良いことばかりではないはずで、国家の国民たるには個人として嫌な責務も負わなければならない。

普通の国家として、その国民にとっていやな責務といえば、やはり納税の義務と兵役の義務であろうと考える。

昨今では、兵役というのは必ずしも強制的な国ばかりではなく、志願制のところもあるが、人類が近代主権国家を築くまでの過程では、その大部分の国家が徴兵制を採用していたはずである。

兵器というものが未発達のときは、兵器の数が戦争の帰趨を左右していたが、今日のように兵器が近代化すると、兵器の数だけで戦争の帰趨を決めることは不可能になった。

戦う集団として、昔は人の数が重要であったが、今日では人の数よりも殺しのテクニックがプロフェショナル化してきて、誰でも彼でも数さえ多ければいいというわけには行かなくなった。

戦う集団としての軍隊も、より専門化し、より高度化してきたわけで、徴兵制で集めてきた有象無象の人間を集めただけでは機能しなくなった。

そういうことが背景となって、意欲のある志願者のみの集団になってきたものと推察する。

ところが昭和の初期の時代というのは、わが国では兵役が国民の義務であったわけで、兵役の適齢期の人々は、半ば強制的に兵役に付かされたのである。

しかし、これは我々の祖国のだけの特殊な事情であったわけではなく、あの戦争を戦ったあらゆる国家ではすべて同じような条件下にあったものと推察する。

この地球上のすべての主権国家で、それに属する国民は祖国に忠誠足らんとして生きており、祖国が徴兵制を採用しておれば、素直に兵役に付くことは常識中の常識だと思う。

しかし、この兵役というものを個人レベルで考えれば、誰しも好き好むものはいないわけで、出来うれば避けられるものならば避けたいと願っているのも、万国共通であろうと考える。

とはいいつつ、国家の体制がどうであろうとも、自分の祖国に忠誠を尽くす人は、その国ばかりではなく他の国でもそれなりに評価されることも万国共通である。

そういう前提条件がある中で、伊藤律とか尾崎秀美のように、祖国に反逆ばかりしていたような人は、どの国からも賤しまれ、蔑まれ、軽蔑されるのが当然だ。

現に、伊藤律は共産中国で、日本、つまり自分自身の祖国を破滅の方向に導こうと画策していたわけで、こんな人間を共産中国でも信用するはずがないではないか。

彼が中国で獄につながれるに至る過程には、日本共産党内の権力争い、主導権争いというコップの中の嵐のようなものがあって、それに巻き込まれたという面が無きにしも非ずであるが、結果的には中国は彼を散々利用して、利用価値がなくなったところで廃人にしたわけだ。 

この世に生まれてきた人間として、これほど無意味な人生も他にないと思う。

人がこの世に出てくるときは、自分の意志で出てくるわけではないが、一旦出てきたからには、赤ん坊のときから成人に達するまでの間に、肉親の恩恵、地域の恩恵、郷土の恩恵、祖国の恩恵を全身に受け、それに包まれ、育まれて生育するわけで、だとすれば当然成人に達したならば、そういうものに対する恩返しということがあるのは普通の有り体だと考える。

恩返しというと何か特別なことでもしなければならないように受け取られがちであるが、何も特別なことをしなければ恩返しにならないというわけではなく、社会人として普通に日常生活をするだけでも立派な恩返しだと思う。

社会人として普通に自分の生業をきちんとこなし、警察の世話になるようなことをせず、決められた法規をきちんと遵守して生活していれば、それだけで立派に社会に貢献し、ひいては恩返しをしていることにつながると思う。

尾崎秀美も伊藤律も、共産主義社会の実現を夢見ていたことは察して余りあるが、彼らは普通の平均的な日本人よりも頭脳明晰、学術優秀な人間であったものと想像する。

こういう人間がどうして共産主義社会という絵に描いた餅を追いかけていたのであろう。

尾崎秀美などは、ゾルゲに渡した当時の日本の立場を現状分析した資料などは、まことに当を得た正鵠であったわけで、そういう現状認識の出来る人間が、どうして絵に描いた餅を追いかける、というような愚を犯していたのであろう。

共産主義の目指す社会というものは確かにユートピアには違いないが、そんなユートピアがこの世に実現できると心からそう思っていたのであろうか。

だとすると、きわめて正確な現状分析の能力からして、ユートピアの実現性という雲をつかむような話とのギャップがあまりにも大きいではないか。

尾崎秀美は刑に服するとき、自分はやるだけのことはやったという満足感に浸って悔悟の念を示さず堂々と刑に服したといわれている。

悪漢ながら天晴れだと思う。

この態度は、東京国際軍事法廷でA級戦犯として刑に服した東条英機の死に様と実に良く似ていると思う。

東条英機は、敗戦の責任を一切弁解することもなく、一身に背負って刑に服したが、世間では彼の真意を理解していない人が多いようだ。

彼の場合、生前の行いの中であまりにも敵が多かったため、生前のイメージで語られるので、彼が「戦争の責任は一切私にある」といっても、誰も真に受けるものがいなかったと考える。

しかも、彼は牢につながれてからそういう発言をしているわけで、当時はその言葉そのものが国民にまで伝わってこなかった。

伊藤律の場合、東条英機に比べれば比較の対象にもならないが、この世に生を受けた人間として、彼の生き方というのは哀れをとおりこしてむなしささえ覚える。

普通の日本人からすれば、彼の生き様など人畜無害であろうが、だからこそ、どこかに彼を弁護できるものがあるのではないかと思うが全く見あたらない。

 

識者の分別

 

1990年のソビエット連邦の崩壊から、冷戦終結の波以降というもの、共産主義という亡霊の影は著しく薄くなってしまったが、我々の国では敗戦後のアメリカ占領政策と、この共産主義というものが妙な具合にミックスしてしまった。

その根本のところには、アメリカ占領政策が民主化という名のもとで、本来ならば共産主義者が行うべき改革をすべて実施してしまったので、彼らは無為で無意味な行動で、自己の存在をアピールしなければならなくなってしまったことにある。

その上、アメリカ占領軍の推し進めることは、そのすべてに民主化という冠が付いているので、それが実質共産主義的な行為であったとしても、その本質を見失ってしまい、民主化とさえ唱えれば、誰も抵抗できなくなってしまったのである。

民主化という言葉は、旧体制の反動として、軍国主義に対する水戸黄門の印籠のような役割になってしまって、民主化と唱えれば、それはもう免罪符を得たようなものであった。

ここにも我が大和民族の特質が見事に出ているわけで、戦前においては挙国一致で軍国主義であったものが、敗戦の結果としてアメリカ占領政策が始まると、手のひらを返したように、民主化の波に乗り遅れまいと怒涛のように一斉に方向転換したのである。

終戦直後の食うに食い物なく、住むに家なく、働こうにも職のないときには、時の為政者に従順にならざるを得ないというのは理解できる。

まさしく「窮余の一策」という言葉もあるとおり、あの状況下では致し方ない面があることは否めない。

そしてこの状況下で占領政策の一環として行われた民主化という共産主義的改革は、まず第一目標が旧秩序の破壊ということであった。

戦前の軍国主義的ものの考え方の一掃である。

学校という教育現場では、教科書に墨を塗ってまで、旧秩序の破壊、旧思想の撲滅ということが推し進められた。

旧秩序の破壊という中で、人間として誰でも普遍的に持たなければならない倫理というものまで、古い考え方だといって放棄してしまった。

大日本帝国臣民を奈落の底に突き落とした軍国主義と、我々の先祖から連綿と引き継いできた価値観、倫理観というものまで一切合財、古い封建思想だという理由だけで葬り去ってしまったことである。

その典型的なものが、長老を尊ぶことの否定であり、権威への不信である。

あの「勝つ!勝つ!」といわれていた戦争が、結果的には敗戦であった最大の理由は、長老を尊んで、権威を盲信したという、この二つで導かれたといってもいいと思う。

あの戦争を指導したのは軍の権力者としての長老であり、その長老が失敗した以上、長老の権威というのも全否定されても致し方ない。

あの敗戦直後の状況というのは、まさしく革命前夜の状況であったと思う。

何時革命がおきても不思議ではない状況だったと思う。

しかし革命はおきなかった。それは一体何故なのであろう。

私が思うに、我々の同胞、我々の民族というのは、誰か自分たちの象徴として崇め奉るものがないことには生きていけなかったのではないかと思う。

敗戦の前まではそれが天皇であったが、敗戦の後はそれがマッカアサー元帥に変わったわけでだけで、我々は誰か自分たちの崇め奉るもの必要であったのではないかと考える。

それが時には天皇であったり、時にはマッカアサーであったり、時には鰯の頭でも良かったわけであるが、共産主義者だけはこの鰯の頭ほどの効果もなかったということである。

それはなぜかといえば、共産主義者には権威がなかったわけで、昭和の初期の共産主義者というのはいずれもインテリであって、インテリが上から七色に輝く理想をいくら庶民に説いたところで、庶民のほうではそれを信じようとしなかったからである。

しかし、国民というのはインテリだけではなく、また無学文盲の烏合の衆だけでもなく、インテリと大衆の間には広範な中間層がいたわけで、その中間層から共産主義者というものを見ると、「共産党とは、はなはだ不可解な組織だ」ということを見抜かれていたのである。

問題は、アメリカの占領政策がこの共産主義の指針と全く同じようなことを民主化という呼び方で実践してみると、その中間層をなす人々は、それが共産主義の指針と瓜二つであるということに気が付かなかったことにある。

だから本人は共産主義者でないにもかかわらず、言うこと成すことが共産主義者と同一という結果になってしまった。

戦後の民主化の風潮のなかで、思想・信条の自由が保障されて、共産主義者だとてそのことを理由に取り締まられるということはなくなり、公認政党にもなりえたので一時はそれこそ日の出の勢いで勢力が伸張した時期もあったが、そういう状況になればなったで、コップの中の嵐を演じて、ソ連派と中共派に分かれて足の引っ張り合いを展開したのである。

伊藤律の幽閉も、このコップの中の嵐が大きく影響していたことは間違いないが、そういうことをしておいて、そのことを恥ともなんとも思わない彼らの神経が普通の日本人、いわゆる人畜無害の中間層の人間からも敬遠された理由であろう。

この中間層の人達は、党内の派閥争いには嫌気がさしていたが、共産主義の思想そのものにはあくまでも人類の夢として、人間の理想として、その実現を願う心境というのはそのまま残っていたのである。

それで本来共産主義者がしなければならなかったあらゆる改革をアメリカ占領軍がしてしまったものだから、この中間層の人達は、それが共産主義の実践であることに気が付かないまますごしてきたわけである。

これが新しい民主主義だと思い違いをしてしまったのである。

だから自分の気に入らない法律は、法律のほうが悪い、という発想に至ったのである。

この価値観の転換のときに、あらゆる職場ないしは学校、又は、あらゆる組織で、今までカチカチの軍国主義であったものが一夜明けたら民主主義ということになって、昨日までのものの考え方を180度ひっくり返した発想をしなければならなかったので、教える側も教えられる側もさぞかし仰天したことだろうと思う。

墨で塗りつぶした教科書を使った世代は、この価値観の大転換を身をもって体験したに違いない。

それ以降というものは、新しい民主主義ということで、共産主義的な思考が世の中に蔓延してしまったため、それが今日の日本を形作っていると思う。

先日、テレビで東京のマンション建設予定地で桜の木を切ることに反対する住民運動の様子を放映していたが、そこに登場していた住民代表の態度というのは、まるでヤクザが善良な市民に難癖をつけている状況と瓜二つであった。

抗議されている業者が、ほんの少し体に触ったら、抗議している側が大げさにひっくり返って難癖をつけていた。

こういう態度というのは、暴力団が善良な市民から金を巻き上げる手段と全く同じで、これは共産党員が団交と称して管理職をつるし上げる行為と全く同じである。

こういうことが市民運動と名を変え、団体交渉と名を変え、暴力団まがいのこういう行為をすることが、個人の欲求を満たすためには良いことだという認識が一般化した。

している本人は、これは共産主義者の常套手段だということに気が付いていないと思う。

戦前は、個を犠牲にして国家の奉仕することが善であった。

しかし戦後は、国家が国民に対して奉仕しなければならないということになった。

国家が国民に対して何かをしようとしても、原資がないことにはそれが出来ないわけで、その原資を確保することに対して、国民はなんら責任を負おうとしない。

国民は国家というものは打ち出の小槌を持っているに違いないと思い込んでいる節がある。

これが今の共産主義者といわれる人の基本的な思考になっていると思う。

原資を考えるのは国家の責任で、国民の側はもらえるものさえもらえればいい、後のことは勝手でそっちで考えよ、という発想である。

今の日本共産党というのは公認政党とはいえ、決して政権を担う可能性がないものだから、きわめて無責任な発言をしても、その責任を問われることは全くないわけで、言いたい放題のことが言えている状況だと思う。

戦後60年の時間の中で、アメリカ占領軍が我々に対して施していった民主化という考え方は、完全に我々日本人を骨抜きにした。

もっとも、アメリカ占領軍の究極の目的が、日本人、日本民族というものを完全に骨抜きにするところにあったわけで、その意味からしてもアメリカの占領政策と日本共産党の旧秩序の破壊ということは完全に利害が一致していたことになる。

アメリカの進駐で、政治犯として牢獄につながれていた共産党員たちが解放されると、彼らはアメリカ占領軍を解放軍とまでおだて祭ったが、マッカアサーは日本の共産党員におだてられて舞い上がるような馬鹿ではなかった。

彼は彼の損得勘定を計算した上での解放であったが、その後の数年間の日本共産党の動きというのは実に不可解なものであった。

戦後の混乱も一段落しかけた昭和24年に、立て続けに旧国鉄で不可解な事件がおきた。

下山事件、三鷹事件、松川事件と、いずれも国鉄にかかわる不可解な事件で、そのいずれも真犯人はわからずじまいで、こんな馬鹿な話もないと思う。

松川事件では東芝の工員と国鉄職員が逮捕されたが裁判で最高裁にまで行って証拠不十分で全員無罪という結果になった。

この裁判では広津和郎が活躍して全員無罪を勝ち取ったわけだが、この背景には「共産主義者を救済せよ」という大命題が見え隠れしていたわけで、何でもかんでも当局側が悪いということが強調された。

この裁判を見ると、裁判官の中にも共産主義者はかなりの数いるものと考えなければならない。戦後の日本は、個人の思想・信条の自由が保障されているので、裁判官であろうとも共産主義者であってもかまわないが、その行き着く先は偏向した判決が多くなるということであろう。

松川事件などもその最足るものだと思う。

名張市の「毒ぶどう酒事件」が、いまだに判決が確定していないのも、当局の言うことが全く信頼されていない証拠だと思う。

警察の言い分も検察の言い分も、当局だからという理由で、全く信用されていないから裁判が長引いているものと考えなければならない。

なぜ裁判官が警察の言い分も検察の言い分も信用しないかといえば、それは裁判官が偏向した赤い赤い裁判官だからとしか言いようがないではないか。

共産主義者にとって当局というのは何処まで行っても敵なわけで、敵を倒すということ、すなわち敵を困らせるとういうことは、共産主義者にとって至上命令だからである。

「疑わしきは罰せず」などと奇麗事を言って偏向した判決を出そうとしているからである。

赤い赤い裁判官も困ったもんだが、偏向した学校の先生にも困ったものだ。

小学校や中学校の先生ならばまだしも、大学の先生が共産主義者であってもらっては国民の側としては全く困ったことだと思う。

大学で共産主義というものを研究するまでは確かに学問の領域であろうが、研究した成果を実践してもらっては、国民としてははなはだ迷惑な話だ。

その辺りの分別が、大学の先生という知識階層に判らないはずがないのに、判っていながら尚それを実践しようというところが。

共産主義者の共産主義者たる所以である。

歴史というものは、あるとき急に方向転換するものではない。

1945年、昭和20年8月15日で価値観の大転換があったといっても、中身の人間は連綿と生き続けてきたはずである。

このときに分別ある大人ならば、今までいくら祖国に裏切られ、騙され、過酷な生活を強いられたからといって、人間としての基本的な倫理まで投げ捨ててはならない、という大人としての分別はなかったのであろうか。

戦前、戦中、戦後といえども、高等教育を受けた人は残っていたはずで、そういう人達は、いくら価値観の変換を迫られても、人として捨ててはならない最低限のモラルというものを指し示すべきではなかったかと思う。

そういう時にこそ、今まで受けてきた高等教育の真価を大衆に指し示すべきではなかったか。

昭和の初期に、軍の施設ではない文部省管轄の高等教育を受けることができたということは、もうそのことだけで選ばれた選民であったわけで、一般大衆とはかけ離れた雲の上の存在であったはずである。

まず第一に、学校に行けるだけ、家が裕福でなければならなったわけで、その一事を以ってしても、国民をリードすべき立場であったはずである。

尾崎秀美も伊藤律も、そういう立場の人間であったはずである。

世の中を少しでも良くしたい、というのは主義主張を超えて万人の思うところである。

共産主義者だけがこの世を良くしたいと思っているわけではない。

この世に生を受けた人は、誰でも彼でも、自分の住んでいる世の中をより良いものにしたいと願いつつ、ありきたりの日常生活をしているわけで、共産主義者だけの専売特許であるわけがないではないか。

先の戦争も、日本人の生活、アジアの人々の生活をより良いものにしたい、しなければならない、そうしようという発想の元で、西洋列強との戦いになったわけで、結果としてはその手法が誤っており、政治的にも稚拙であったし、外交的にも失敗であったが、その理念はより良い生活を求めての行動であったわけである。

理念はそうであったが、それの実現の手法が間違っていたので、我々は結果として同胞に騙された、という憤慨につながったことは事実であるが、問題は、戦後の大学、高等教育の場で、共産主義者が「これからの世の中を良くするのは共産主義でなければだめだ」と国民の言いふらすことである。

共産主義の社会ならば、「同胞が同胞を騙すようなことはない」と鼓舞宣伝するわけで、それを真に受けた若者はついついそれにひきづられてしまうということである。

しかし、共産主義の国家でもやっていることは我々のしていることと大差ないわけで、民主主義が未熟な分、我々の社会よりも深刻な問題を抱えていることも、普通の人間ならば理解できていると思う。

とは言うものの、大学という権威の中で、そういうことを吹き込まれると、純真で、実直で、素直なものほどそれを真に受ける危険性がある。

戦前は軍国主義が時流となっていたが、戦後は共産主義が時流となってしまったわけで、何時の時代でも、若者はその時流に便乗しようと粋がるものである。

若者は、そういう時流に敏感で、それこそが若者の特長であろう。

戦前の軍国主義華やかりし頃は、優秀な若者ほど率先して軍の教育機関に自ら進んでいったし、国家に死を以って奉仕する行為にも、優秀な若者ほど率先して身を挺していたではないか。

この若者のエネルギーが戦後は逆のベクトルとして作用するわけで、優秀な若者ほど共産主義の理想に感化され、現行政府の行政措置に我慢ならず、反政府という態度に出るわけである。

けれども、優秀な若者といえども、何も情報がないうちはそちらに走ることは出来ないわけで、若者をそういう方向に走らせる仕掛け人がいると思う。

戦前において、優秀な若者を軍国主義に走らせた仕掛け人というのはいうまでもなく軍人たちであった。

軍部が中国大陸で奥のほうに行けば行くほど、当事のマス・メデイァがそれを「勝った!勝った!」と宣伝するものだから、純真な若者は、当時の日本を貧困から開放するには、中国大陸にこそ理想郷があるものと思い込んで、軍人、軍部の後に続け、と軍国主義に走ったものと想像する。

それが戦後になってみると、大学の先生たちが「旧の日本政府の過誤は、軍国主義者の誤りであったのだから、我々は政府の言うことをまともに聞いたらまた奈落の底に落ちる、だから決して政府の言うことは聞いてはならない」と教え込んだものだから、世の中の全部が反政府になってしまったわけである。

価値観の大転換のときこそ、知識人、教養人、大学教授の人々、マス・メデイアの関係者というのは、人としての基本、人間としてのミニマムの倫理、人として最低限持っていなければならない価値観というものを説いて回らなければならなったものと考える。

これでこそ教養人、知識人、インテリーとしての真価だと思うが、こういう人達が真っ先に時流の提灯持ちをするものだから、そういう時流をかぎつけることに秀でた優秀な若者ほど、その時流に真っ先に飛びつくわけである。

そしてそれはメデイァにとっても非常にニュース・バリューがあるわけで、マス・メデイァも一斉にそれこそ洪水のような取材攻勢を掛けることになるものだから、普通の一般大衆も我先に「バスに乗り遅れるな!」ということになる。

ところが世の中というのは、ニュースにならないような、ごくごく普通の生活の中で、日々進化しているわけで、会社員が毎日もくもくと会社に行って面白くもない仕事を黙ってこなす、学校の先生が毎日悪餓鬼相手に悪戦苦闘して汗をかく、スーパーのレジが毎日同じ仕事を無表情に繰り返している、工場の工員が毎日毎日油まみれになって働く、こういうごくごく普通の生活を送ることによって成り立っているのである。

共産主義の理念は確かに立派であるが、その理念を達成するためには、こういうごくごく当たり前の、普通の生活の中で全く意識していない秩序を真っ先に壊さなければならない、という発想に問題があるのである。

従来の、まったく意識していない、普通の生活の中では知らずに済ませているような秩序を壊さないことには、革命という変革が達成できないわけで、そのことを彼らの表現で言えば、階級闘争という言い方になる。

団体交渉というと、さも立派な行為のように聞こえるが、その実態はつるし上げに他ならないわけで、そのつるし上げの過程で、論理的な議論がなされるかというと、そうではなく「風が吹くと桶屋が儲かる」式の唐突な議論を、衆を頼んで大声で相手にぶつけるわけで、交渉などという生易しいものではない。

こういう言葉のすり替えは、戦前の大本営発表と同じ構図なわけで、我々の中身が変っているわけではないので、我々の採る行動パターンは、体制が変わってもそう安易に変革できるものではない。

 

騙され続ける同胞

 

戦後も昭和40年代になると、終戦で外地から引き上げてきた兵隊たちが子つくりに励んだ結果として、そのころの赤ん坊が大学生になる時期にさしかかった。

いわゆるベビーブームであるが、問題はこのころの親の考え方である。

このベビーブーマーたちの親が、自分の子供にどういう教育を願ったかということである。

この世代の親は、価値観の大転換を身をもって体験した世代である。

終戦で戦地から生きて帰ってきた人たちというのは、性的には十分子つくりの出来る年頃であったはずで、祖国に裏切られた挫折感が子つくりのほうに傾いたとしてもなんら不思議ではないが、その挫折感、政府に対する不信感が拭い去れないが故に、自分自身の生きる指針さえも持ち得なかったのではないかと想像する。

自分自身が生きる指針を失っていたので、自分の子供にも、自分の体験を語り継ぐ自信を失っていたと考えられる。

親から子に語り継ぐということは、何も自分自身の保身の術だけではないはずで、語り継ぐべきものとしては、地域の伝統であったり、風習であったり、生き様であったりするわけだが、これらのものは戦後の民主教育の中ですべて封建的ということで良くないこと、悪しきこととして認識されてしまったため、この世代の親というのは自分の子供に対して親としての指針を全く示せなかったのである。

そして、その結果としてまことに善人ぶった、物分りの良い、理解のある、若者の無軌道に迎合した、偽善者ぶった人間が、進歩的と称する知識人として幅を利かせたのである。

要は、この時、1945年、昭和20年8月15日に成人に達していた人達が、価値観の大転換をあまりにも素直に受け入れたということである。

確かに、戦争の終わった直後というのは、生き残った人々はまず最初に食の確保に走らなければならなかったことは理解できる。

しかし、戦後も日にちがたち、復興も曲がりなりにも軌道に乗り、不十分とはいえ衣食がどうにか確保できる時期になれば、終戦時には飲まざるを得なかった価値観の大変換を元に戻す思考が生まれてきてもよかったのではなかろうか。

事実そういう動きはあったが、それを我々の同胞は、軍国主義の復活とか、復古調だとか、又暗黒の時代に戻るとか、逆コースだとか、反動政治だとかいう言い方で封殺してしまったではないか。

その主体は、終戦のときに生き残った成人たちの集団であったわけで、それは思想的には左右両方の陣営にそういう人達がいて、我々の失ったものと回復しようという陣営は、少数の右翼としてラベルを貼られて排撃されてしまった。

人間の社会というのは統治するものとされるもので成り立っているが、統治するものは、ある国やある地方では個人的な富の蓄財が常態となっている野蛮な国や地方も、この地球上に存在することも事実である。

しかし、民主的な近代国家では、統治するものとしての国家元首が私的に富を収奪するなどということは考えられない。

多少、高給を取るということはあろうが、国民にただ働きさせておいて、自分は酒池肉林にふけり、富を収奪するなどという構図はありえないと思う。

統治するものの目指す行政措置というのは、ある程度は国民の願望を反映しているわけで、国民の中の願望と自分の思いが合致したとき、為政者としてそれを実施に移そうと判断し、それに法的後ろ盾を与えようとするものと考える。

統治するものとしては、国民の全員の願望を実現するということは不可能だと思う。

あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、というわけで国民の全員を満足させるということは理論的にありえないと考える。

だから政府が戦後の価値観をほんの少し元に戻したいと願っても、当然それに反対する勢力というものがあるわけで、それが与党と野党の対立という構図になるわけであるが、ことが与党と野党の対立である間はまだ正常な政治形態であるが、この対立に大衆というものが絡んでくると、世の中は騒然となってくるのである。

大衆がものを言う時代、言える時代というのは、本当はすばらしい時代である。

とはいうものの、それにも程度というものがあるわけで、言葉でそれを言っている間はまだ良い。そのうちに議論が激昂してくると、実力行使という手段に出てくるようになるわけで、こうなると共産党員の独断場と化すわけである。

戦後の日本の若者も、口では反戦平和を唱えているが、口先の平和主義とは裏腹に、彼らは非常に好戦的かつ戦闘的である。

戦時中の日本の陸軍将兵と同じように、相手が敵だと認識すると、極めて好戦的なおかつ戦闘的な資質を兼ね備えている。

戦時中の日本の将兵は、食うものもなく武器も不十分な中で、各地で玉砕したが、戦後の学生運動の闘士たちも、何も武器を持たず、石ころを拾い集めて、東大安田講堂に立てこもって、篭城戦をしたのを見ると、やはり同じ日本人として、自分が大儀と思っていることを何が何でも遂行しよう、という場面に遭遇すると、若い血が騒ぐということであろうか。

戦前の若者は、その青春の血の騒ぎを、国に奉仕する方向に注いだ。

国家のために滅私奉公する方向に、若い血潮の気高いエネルギーを傾注させたが、戦後の若者は、同じように赤い血潮を持っていながら、それを反政府の方向に向けていたわけで、武器もなく石ころやレンガをはがして抵抗戦を試みても、彼らの敵、つまり警察の側は、彼らを殺す気は全くないわけで、同じような赤い血潮がみなぎっていたとしても、結局はお坊ちゃんの戦争ゴッコの域を出るものではなかったということだ。

こういうべビーブーマーたち、いわゆる全共闘世代は、平和主義に被れていて、戦争、戦うということ、戦闘するということを具体的には知らず、それを意識的に嫌悪してきたので、その戦いぶりというのは観念論でしかなく、いわゆる原始人の域を出るものではないが、口先だけは立派そうなことを言っていたに過ぎない。

このとき、世の知識人、識者と言われる人々は、学生側の言い分を真っ向から否定して徹頭徹尾、学生のしていることの不合理性を説き、社会秩序を乱した行為だということを説き、不法行為だということを説いて回らなければならなかったはずだが、こういう場面でそういう人達がそれこそ良い子ぶって、物分りの良い態度を取り、当局側の非を突き、奇麗事を並べるので、彼らのしていることがさも良いことのようにうけとられかねない。

この事が価値観がひっくり返ったままの、新しい民主教育の成果だというわけである。

東大の医学部の学生たちが安田講堂を占拠した事件がおきたのは、1968年、昭和43年である。

やはりあの過酷な戦争を生きぬいて、戦地から無事帰還した将兵たちが、戦後の混乱の中で子作りに励んだ結果としてのベビーブーマーたちである。

この世代は丸まる戦後の民主教育の中で育った世代で、彼らがこういう行動に出るということは、つまり反体制、反政府、反自民、造反有理という思考の成熟は、どう考えてもその親の思考をそのまま映し出しているとしか考えられない。

その親の世代の責任だと思う。

そして、その親の世代というのが、今まで何度も述べてきたように、価値観の大転換を身を以って体験した世代である。

この世代が、アメリカ占領軍の民主化というものが、共産主義の実践と紙一重ということに気が付かず、民主化と名が付けば、何でもかんでも無条件に受け入れた結果だと思う。

価値観の変換を迫られたときに、それに抵抗できなかった状況というのはある程度は理解できる。

又、それまで忠実に祖国に奉仕した結果が、敗戦ということで祖国に裏切られたという思いも理解できる。

祖国に裏切られて意気消沈しているときに、新しい君主・マッカアサーが民主化というばら色の未来を展開したので、ころりと騙されたということも理解できる。

だとすると、我々、日本人、日本国民、日本民族というのは、常に誰かに騙され続けているということでもある。

 

扇動に載せられる愚

 

最近のテレビ番組には、政治を茶化した番組があって、その中でハマコー・浜田幸一がいみじくも言っていた。

「戦後の日本はアメリカの植民地だ!」と。私もそう思う。

我々は戦争でアメリカに負けたのである、敗北したのである。

戦争で敗北した国民、負けた民族は、戦勝国の奴隷になるのが歴史の必然である。

我々、戦後の日本国民の足には鎖は付いてないが、実質はアメリカの奴隷だと思わなければならない。

奴隷でない国民、あるいは民族だとしたら、当然、自存自衛の措置をとらなければならない。

アメリカの奴隷でない、自立した国家ならば、「日米安保条約があるから、専守防衛でいい」などという議論はありえないと思う。

60年代の安保闘争というのは、岸信介が進めようとした、片務的な安全保障条約を双務的な安全保障条約に変えようという趣旨に対する反抗であったわけである。

つまり日本の立場を一歩でも、ほんの少しでも、自存自衛の国にしようという考えに対して、日本の革新勢力は「日本はアメリカの奴隷のままで十分だ」という態度を示したということである。

20世紀後半から21世紀に掛けて、この地球上で主権国家が自存自衛を貫こうとすれば膨大なエネルギーを必要とする。

その経費節減のため共存共栄という考え方が広がったわけであるが、お互いに協力し合うといっても、お互いにその主権を尊重し合わないことには共存共栄も成り立たないわけで、互いに主権を尊重するということは、何も相手の言うことを鵜呑みにするということではないはずである。相手の言いなりにお金をばら撒くことでもないはずで、それは個人レベルの隣人との付き合いと同じことである。

ところが個人レベルの話でも、一家の主人と奥さんで話が違うでは、円滑な話し合いができないのと同じで、相手は一応主人の話を信用しようとするが、後ろで奥さんが主人の足を引っ張るようなことをしていれば、一家としての名誉も信用も台無しになることは一目瞭然である。

日本の戦後の政治家は、外交の面でこういうことを平然としでかしている。

その代表的な例が、昭和33年の日本社会党の浅沼稲次郎が中国で、「アメリカ帝国主義は日中両国の共通の敵だ」と言ったことに尽きる。

野党とはいえ、こんな馬鹿な発言をする政治家の存在があればこそ、日本が中国から舐められるわけで、こういう認識不足が戦前に日本の軍部が中国の奥地にはまり込んで行った最大の原因だと私は考える。

認識不足あるいは無知ということが、政治に対して大きな影響を与えていることは非常に沢山あると思う。

極端な例では、日本がアメリカと戦争するということも、時の為政者がアメリカの国力というものの認識不足、無知の結果として見誤っていたわけだし、戦後の安保闘争、あるいは学園紛争というのも、無知から生まれた騒乱だと思う。

ことの本質を知らないまま扇動に載せられて、浮かれて踊ったという側面が拭いきれないと思う。無知や認識不測ということも、ある意味で作り上げられた概念であることもある。

情報があったにもかかわらず、その情報の価値を見抜けず、誤った道を選択するという場面が我々の歴史の中には相当あるものと考えなければならない。

戦争をする、アメリカと戦うということを考えた場合、誰でも勝つことを念頭において考えていたことに間違いはないと思うが、我々の場合は、そのためのOR、つまりオペレーションリサーチをする発想がなかったように思われる。

確かに、挙国一致とか、戦時体制としての統制経済になったことはあるが、これもある意味で戦意高揚の効果を狙った精神的なものではなかったかと思う。

冷静に技術的な見地からすれば、国民からなべ釜まで供出させるようでは、戦争の勝ち目は最初からないに等しい、という考えに至らなければならなったはずである。

南方から物資を輸送しながら戦争を遂行する、などという泥縄式で戦争に勝てるわけがない、と軍官僚のトップや政治のトップにいた人は気が付かねばならなかったはずである。

だからこそ、戦争開始に至るまでは何度も御前会議が持たれ、結論はそう簡単にはでなかったが、結果としては開戦も止むなしということになった。

戦後の安保闘争から学園紛争の過程でも、暴れている学生たちは、ことの本質をほとんど理解していなかったと思う。

当事者は確かにことの本質を理解していただろうが、それを支援していた多くの学生は、ことの本質などどうでも良く、ただただ騒げばよかったのではないかと想像する。

このことの本質を知らないまま大騒ぎをするということは、戦前、戦中に日本中が軍国主義一色になった構図と全く同じではないか。

中国で、日本軍が進むと、当時のマスコミ、新聞とラジオが「勝った!勝った!」と大騒ぎして報ずるものだから、国民も浮かれに浮かれて、ちょうちん行列という仕儀に至ったものと考える。

ことほど左様に、大衆というのは扇動に乗りやすいものである。

そこに物分りに良い、良い子ぶった知識人が「大衆の声を大事にしなければならない」とか、「民意を尊重せよ」などと、おためごかしのことを言うものだから、烏合の衆はますます上長するのである。

国家が、その国民の大多数の声の通り、望む通りに運営されたとしたら国は滅びてしまうではないか。

主権国家の自存自衛ということは、その国民に多大な犠牲を強いるものであることは論を待たない。

我々の国がアメリカの奴隷に徹しておれば、国民の不満はアメリカにぶつければ済むことである。

しかし、我々が自存自衛を貫こうとするならば、国民の側でその負荷を背負わねばならない。自存自衛を貫くということは、水や空気のようにただで得られるものではない。

その内側に生きるもろもろの人々は、何らかの負担を背負って、多少の犠牲を払わなければ、それは確立できないのである。

 

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