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NHKの「新生プラン」

メデイアの技術革新

 

NHKが20日(平成17年9月)、「新生プラン」なるものを発表した。

最近のNHKにまつわる不祥事から受信料不払い運動にいたる一連の動きに対して、再生を心がけるという趣旨のものであろう。

それに関連して翌日の朝日新聞、読売新聞は2社とも社説でこの問題を取り上げていた。

NHK、朝日新聞、読売新聞ともマス・メデイアの中の大企業という意味で、同じ問題を抱えているからであろう。

しかし、私の個人的な考え方からすれば、NHKというのは日本のメデイアの中でも特異な存在だと思う。

少なくとも、メデイアとしてのラジオという文明の利器を、人類が得た当時の状況をそのまま引きづって今日まで来ているのではないかと思う。

その状況を引きづったまま、テレビというものにのめりこんでいったから、今日の受信料不払いという問題が出てきているのではないかと思う。

電波を使って情報を伝達する、という文明の利器の発達過程で、それが登場した当初には思いもよらないほどの跳躍があったので、NHKとしてはそれに組織として、またはシステムとして技術革新に追従することに出遅れてしまったのではないかと考える。

昭和の初期の放送業界というのはNHK1局しかなかったが、この時代には電波を送り出すほうも、それを受けるほうも、そのハードウエアーは膨大な大きさの設備が必要であった。

それがため、そう誰でも彼でもが安易に電波を出し、または受けるということは考えられなかった。

だから日本放送協会という団体を作って、それが放送という電波の発信を一手に引き受けていたに違いない。

そしてそれは戦争の経過とともに、国威掲揚に利用され、軍国主義の吹聴に利用され、結果的に銃後の国民はNHKの流す情報にだまされ続けたということになってしまった。

そして戦後の復興とともに、電波を発信し、それを受信するハードウエアーの部分では非常な技術革新が進んで、トランジェスター・ラジオというようなものが登場してくると、NHKの受信料というものの意味が大転換してしまった。

戦前というよりは、昔といったほうがいいと思うが、とにかく昔は一家に一台5球スーパー・ラジオがあって、そのこと自体が社会的ステータスであった。

夕食後の団欒に一家が集まってラジオ・ドラマを聞くという時代ならば、ラジオを聴く以上、受益者負担という意味で、受信料の支払いは致し方ないという感覚がごく普通であったと思う。

ところがトランジェスター・ラジオが出現すると、それで野球放送を聞いているとき、この放送の受信料はどうなっているのか、誰も疑問に思わないのが普通の感覚ではないかと思う。

5球スーパー・ラジオが居間に鎮座しており、それを家族が囲んでいるときには、確かに受信料の意味が明瞭であったが、ポータブル・ラジオの時代になって、民放もNHKも混在している状況下で、放送を聞いている人は、受信料のことを思い浮かべるであろうか。

これはラジオというものの技術革新の賜物で、それは受け手の受信機のみならず、発信する側の機械も技術革新が進んだわけで、そのことによって民間放送というものが成り立つようになってきたのである。

民間放送というのは企業収益を広告料から賄っているので、受信する側からは一銭もとらない。するとポータブル・ラジオで野球放送を聞き入っている庶民の立場からすると、「民間放送はただなのにNHKだけなぜ受信料を払わなければならないのか」という素朴な疑問は当然であろうと思う。

こういう放送を取り巻く状況の変化にNHKは対応が遅れていたものと考えざるを得ない。

ラジオの民放とNHKの不合理な関係は、丸まるテレビの状況に生き写しされたわけで、テレビでもラジオと同じ状況を踏襲していたことになる。

ラジオでもテレビでも、片一方はただなのに、なぜNHKだけ金を払わねばならないのか、という疑問は当然だと思う。

 

国家とメデイア

 

今回のNHKの「新生プラン」というのは、本来ならばNHKの在り方そのものを問いかけるものでなければならないと思う。

不祥事を克服するとか、経営の刷新などという小手先の変革を越えた、もっともっと大きな根源的な存在意義を問い直すべき問題ではないかと考える。

小泉首相は郵政の民営化問題に精力的に動いているが、NHKに限っては、逆に国営化が必要ではないか、と私は個人的に考える。

人を統治するには情報源を握るということが統治者としての最も気を使うべきことだと思う。

民主的な国家の首脳から専制君主的な首脳にいたるまで、国民を統治しようとするからには、情報の発信・受信に神経を集中させることは統治の要だと思う。

その意味で、開かれた民主主義国家のアメリカは国営放送というものが存在していない。

イギリスは開かれた民主主義国家であるにもかかわらず、日本のNHKと同じように、半官半民というか特殊組織で運営しているが、フランスとなるともう国営放送が存在するわけで、それ以外の民主化の度合いの低い国家では、その大部分が国営放送だと考えていいと思う。

つまり、国家が情報の発信に直接かかわっているということである。

国家が情報の発信に直接かかわっているといっても、国家の出す情報というのはニュースとしての価値しかないわけで、ニュースなどというものを一日中放送できるわけでもない。

問題は、ニュースに絡んださまざまな国家の思惑を、どう国民に浸透させるかという点で、その意味で、戦前のNHKは戦争遂行を大いに鼓舞し、戦意高揚に大いに貢献したことになる。

この点に関して、当時のNHKを糾弾することはあまりにもかわいそうだと思う。

NHKだとて軍部に頭を押さえつけられていただろうし、軍部の言うことを聞かなければ命さえ保障されなかったことだと想像できるからである。

メデイアを戦争遂行に上手に使ったのはナチス・ドイツのゲッペルスといわれているが、アメリカのフランクリン・ルーズベルトも実に巧妙にラジオというメデイアを使っていた。

旧ソビエット連邦、今の中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国というような非民主主義国では、完全に国家がメデイアを掌握してしまっている。

統治する側としては、マス・メデイアを自分の味方に引き入れたいと思うのは理の当然だと思う。マス・メデイアを国家の視点から見た利用価値というのは、ただ単に情報の上意下達というだけではなく、国民を全部自分のほうに振り向かせる強力な武器となるからである。

非民主的な国家では、国家に対抗する手段というものを封殺しておけば、統治する側としては非常に有利というか安泰なわけで、そのためにマス・メデイアを完全に掌握しておくのである。

民主的な国家では、それとは逆に、国民のさまざまな思考を表現させるためにメデイアというのは自由に競争しあっているが、その中には現行政府に反対の意思を表明するものから、政府に迎合するものまで、自由に意見を述べる機会が与えられている。

自由主義ないしは資本主義的な立場からすれば、メデイアというものは、沢山の企業体がお互いに自由に競争しあって、文化の向上に貢献する方向に向かえば、それこそ人類の理想であろうが、理想はあくまでも理想であって、現実とは常に乖離があるのが常道である。

メデイアが自由に競争しあって文化の向上に貢献するためにも、メデイアに関わっている人間も生きていかねばならず、そのためには企業体も利潤をひねり出し、中で働く人を食わせなければならない。

そのためにはどうすればいいかということになると、広告料をとって、それで社員を食わせるということになる。

だとすれば、広告主が金を出してくれそうなコンテンツを作らねば成らないということになり、そのことは、文化的に低レベルな方向にコンテンツの内容を合わせなければならない、ということにならざるを得ない。

広告主に依存している民間のマス・メデイアというのは、こういう宿命を背負っている関係上、コンテンツの文化的向上というのはありえない。

常に大衆に迎合するコンテンツしか作りえない、というのが民間のメデイアの宿命だと思う。

ここで、広告主となる企業側に理性的、理知的な文化に対する良心が残っていれば、低俗なコンテンツには金を出さない、という選択があるはずなのだけれど、視聴率というデータで示されると、ついつい自分の良心を曲げてまで、大衆に迎合し、利益の追求を優先させなければならない、とする企業家精神を変えることはできない相談となる。

メデイアと一般国民とのつながりにおいて、国民が本当に求めている情報というのは、放送の場合ならば一日24時間のうち1時間でしかなく、新聞ならば両開きの4面だけで十分だと思う。

後の大部分のスペースというのは、国民の求める情報としては蛇足そのものだ。

しかし、放送をする側、新聞を発行する側としては、それでは自分たちの持つキャパシテーが余ってしまって、商売にならないので、国民が求めてもいないものを押し付けて、放送時間を延長し、紙面を多くして、余分の付加価値をつけた振りをしているのである。

余分な付加価値を視聴者に無理に押し付けて、そこから利潤をひねり出そうとするものだから、その付加価値の部分に低俗な文化が充満して、国民はますます低俗化の方向に転がり落ちていくという寸法である。

メデイアと言うのは、確かにその国の文化の一翼を担っていると思う。

ラジオ、テレビ、新聞というのはその国の文化を担っていると思う。

古今東西、文化というのは伝播しないことには文化にならないわけで、ある特定の地域、特定の人にとどまっていては、それは死滅した文化ということになってしまう。

それが死滅していては文化とはいえないわけで、広範に広がって多くの人がそれに接して初めて文化たりうるわけである。

昔の遣唐使は船で文化の伝播をし、シルクロードでは、それが駱駝の背によってなされたわけである。

19世紀から20世紀は、それが電波によってなされる時代になったわけであるが、電波がそういう役目というか、使命というか、そういう機能というか、そういうものを持っているとわかれば、統治する側としては、それを自分のほうにひきつけておきたいという欲望に駆られるのも当然のことだと思う。

だからこそ民主化の度合いの低い主権国家では、国家が直接それを監督下におくというのも水の流れの様に当然のことである。

逆に、民主国家では、それが国民の自由に任されているわけで、それは何故かと言った場合、その答えは、国家が国民を信用しているから、という意外に言いようがない。

国家が国民に周知徹底させるべき情報というのはそうそう量が多いわけではない。

我々の場合、官報を見れば一目瞭然であって、官報こそ日本国政府が日本国民に周知徹底すべき情報そのものであるが、この官報というのは読んでも面白くもなんともない。

読み物としては無味乾燥を通り越して砂を噛むような味気ない読みものである。

しかし、内容的には国家が国民に周知徹底させるべき法律の改正や、手続きの変更を含んでいるわけで、国民の知るべき情報としてはきわめて価値の高いものの筈であるが、その言わんとすることの判りにくさといったら筆舌に尽くしがたいほどである。

まさしく六法全書そのものである。

民主主義国家のメデイアというのは、国家の情報発信を請け負っているだけではなく、民間同士の情報発信をも請け負っているわけで、そこに民主主義国家のマス・メデイアとしての存在価値を見出しているわけである。

情報の上意下達だけではなく、横の広がり、面の広がりをも担っている。

だから民主主義国のメデイアというのは、文化という形態をした、民族が根源的にもっている精神の流れ、考え方の過程、底流にある潜在意識に無頓着のようにみえるが、そういうことに無頓着のまま、そこに新しい価値観が出来上がってしまうというところが本当は恐ろしいのであるが、誰もそれに気がついていない。

民族が古来から引き継いだ根源的な文化に無頓着のまま、新しい表層的な流れ、国民の上にのしかかっている新しい雰囲気、新しい潮流としての表層面を、新しい価値観であると思い込んで喧伝することが恐ろしいのである。

こういう状況下で、せめてNHKぐらいは日本の文化というものを意識した存在であってほしいと思い、願うものである。

良心と善意の問題

 

NHKの新生プランでは、受信料の不払いが多くて経営が成り立たない、ということが記されているが、このNHKの抱えた受信料の不払い運動というのも歴史の澱だと思う。

NHKというものが、昭和の初期の時代から連綿とその組織が生き続けてきたカス・残滓だと思えてならない。

昭和の時代だけでも63年、平成になってからも17年、この間にNHKはその存在の在り方を変革しなければならなかったのではないかと思う。

この間に、電波を送り出す側のハードウエアー、受信する側のハードウエアー、新しい放送システムとその技術の飛躍的な革新というものがあったわけで、それに比して組織の変革は昭和初期のままであったからこそ、今になって受信料の問題が浮上していると思う。

私の個人的な考え方からすれば、NHKは国家が国の金、すなわち税金で運営すべきだと思う。その代わり、受信料の徴収というのは当然廃止すべきだという意見だ。

逆に、反対側の意見としては、郵政事業と同じで、完全民営化という方法も当然あると思う。

過去80年間の歴史の中で、NHKがこのどちらかの選択をしていれば、受信料の不払い運動という問題はありえなったと思う。

NHKの受信料の支払いというのは法律で定められているが、罰則が無いそうで、放送を聴く人の良心に任せられているということである。

戦前の我々の国民生活から考えれば、国民の誰も彼もが一様にラジオを持っていたとは考えられないので、法律もそういう人たちを考慮に入れて、一応、受信料の支払いを定めては見たものの、受信機を持っていない人から徴収するわけにも行かず、罰則規定を作らなかったのではないかと想像する。

しかし、その当時、ラジオ受信機を持っていた人は、ある程度社会人としても普通の良識を備え、NHKの受信料支払い済みのステッカーは、近隣のステータスになっていたのかもしれない。

それにも増して、NHKの組織そのものがまだまだ小さく、受信料でそのすべてが賄いきれたのではないかと思う。

私の個人的なNHKに対する思いは、NHKは日本文化の象徴となるべきだと思う。

今でもNHKは海外に向けて日本を紹介する番組を放送しているが、これはまことに地味な仕事で、民家企業では採算性の点から決してしえない仕事だと思う。

地味なるがゆえに国内でも誰も評価していないのではないかと思う。

海外に向けてこういう地味な仕事しているNHKを、国内の受信料の徴集で経費をまかなうというのも、ある意味で筋の通らない話で、だからこそ国家がNHKの経営に関与すべきだと私は考える。

国鉄の民営化のときも、今回の郵政の民営化の問題のときも、「不採算部門の切捨てがあるからだめだ」という論議があったが、誰も乗らない鉄道でも、僻地ならばこそ残しておくべきだ、という論理は整合性があると思う。

それにもかかわらず、不採算部門の切捨てが断行されたのは、経費の負担に耐えかねたからである。

社会主義体制ならば、不採算部門の切捨てなどということはまったく通らないであろうが、資本主義で経費が天文学的な数字になるとすれば、小異を切り捨てて大同につかねばならないのも致し方ない。

しかし、NHKの受信料の不払い運動というのは、NHKの内部の不祥事を理由のひとつに上げているが、基本的にはそんな理由で不払いをしているのではなく、もともとNHKというきわめて官僚に近い組織に対して抵抗しているに過ぎない。

受信料の支払が法律で定められているにもかかわらず、罰則がないことも承知の上での確信犯だと思う。

こういう考えの人たちというのは、既定の概念に対して抵抗したがる傾向がもともとあるわけで、NHK内部の不祥事があろうとなかろうと、何らかの理由さえつかめば、それを武器として、対立抗争を打ちたてようと手薬煉ひねっているわけである。

こういう人に吊られて、社会人として良心の欠けた人間が便乗しているのである。

NHKが新生プランを発表した翌日の読売新聞では社説とは別に、解説のページでNHKの受信料に関するコラムが掲載されていた。

その中で、消費者問題に詳しい紀藤正樹弁護士の弁として、「消費者契約法から見た場合、消費者に、一方的で不利な契約は無効という点で、妥当といえるかどうか。もともと契約自由の原則から言えば、契約を義務つけている放送法自体が憲法に違反しているのではないか」と述べている。

弁護士ともあろうものが、こういう見解を示しているのである。

この弁護士には人間としての良心、日本人としての良心、人としての善意、公共に対する奉仕の精神というものがまったく見えないわけで、ただただ自己の利益を法律という無味乾燥したものと照らし合わせて、自己の権利を主張しているに過ぎない。

確かに、NHKの電波は勝手に向こうのほうから飛んでくるわけで、受ける側としては、それを送ってくれと要望したわけではない。

しかし、勝手に飛んで来る電波でも、たまにはそれを見ている以上、何がしかの料金は払ってしかるべきだ、という発想は人としての良心でしかなく、また人としての善意でしかない。

街頭で行われている共同募金や書名運動と同じで、それに答えるのは受け手の側の良心と善意でしかない。

放送法で定めていることはそういうことではないかと思う。

NHKの電波は消費者が好むと好まざると勝手に飛んでくるわけで、その電波を受けて、その内容を見ようとすれば受信機が必要なわけで、それを持っている人も持っていない人もいるものだから、誰でも彼でも全員から受信料を徴収はできなかったのである。

ただただ受信機を持っている人の良心と善意に頼るほかなかったものと考える。

5球スーパーのラジオが一家に一台の時代ならば、人々はそういう良心をもち、そういう善意ももっており、NHKの組織自体も規模が小さかったので、その受信料で運営ができていたものと考える。

不払い運動を契約の問題に摩り替えるのが、法律を生業としているこの弁護士の考えであろうが、公共放送の受信料不払いの問題を、そういうふうに権利と義務の関係に置き換えた捉え方すること自体が、きわめて近代的というか現代的というか、自分本位の利己主義に満ちた戦後の民主主義教育の結果だと思う。

これは人としての良心の問題だと思う。

今回のNHKの不祥事で、今まで契約していた人が契約を解除するというケースも多々あろうかと思うが、基本的には今まで契約をしていない人に対して新しく契約をしてくださいという問題である。

そこで契約をするしないは、良心の問題であり、善意の問題であり、公共の福祉に貢献するかどうか問題だと思う。

今の日本に住んでいる普通の日本人で、民法のテレビを好んでみる人はよほど低俗な人だと思う。

文化のレベルで言えば低層の人々だと思う。

普通の良識を備えた人ならば、10分も見ておれないと思う。

見ておれないのでテレビをつけっぱなしにしておいて、手のすいたときにちらりちらりと覗き見しているのである。

決して意を固めて構えて見るということはしていない。

人は自分に興味のあることならば、集中してテレビの画面を見ると思う。

たとえそれが民放のくだらない番組であろうとも、自分に興味があれば集中してみると思うが、自分にとってはどうでもいい問題なので、テレビはついているが、本人は見ているわけではない。

しかし、それでもその番組がテレビの画面に映っている以上、視聴率としてはカウントされるわけで、民放テレビ局と言うのはその視聴率でしのぎを削っているのである。

民放テレビ局の放送内容の低下には、広告主としてのクライアントの責任も大いにあると思う。広告の契約をするときに、その番組の内容にまで立ち入って、注文を出せばくだらない番組を作る製作現場も、もう少しまともなものを考えると思うが、今の現状はクライアントが一緒になって番組の低俗化に拍車をかけているようなものだ。

NHKにはこういうものがないので、人間の良心と理性がそのまま出る点が素晴らしいと思う。

これを官僚的と称して嫌う人がいるから困ったものだ。

すなわち人間としての落ち着きとか、素直さとか、良心とか、理性とか、知性というものを信じない人間があまりにも多すぎると思う。

そういうものを馬鹿にすることが世に受け入れられることだと勘違いしている向きもある。

NHKの「日曜討論」と、民放の田原総一郎の討論番組を見比べてみれば一目瞭然量ではないか。

「日曜討論」は、まじめにまじめに話し合おうとするあまり見ているほうは面白くない。

一方、田原総一郎のほうは、感情丸出して、口からつばを飛ばして相手をやりこめようとするから、見ていて確かにこちらのほうがおもしろい。

この差は、大雑把に言って、国民のマス・メデイアに接する際の教養と知性の差となって現れていると思う。

良識ある大人の感覚からすれば、当然NHKの「日曜討論」に軍拝をあげるべきところであろうが、単純にそういう行動をとると、その人が良い子ぶっていると思われるのが嫌で、敢えて田原総一郎のほうに肩を持ちたがる傾向があるように思える。

田原総一郎の司会のほうが、肩肘張らなくて、堅苦しくなく、砕けたもの言い方なので、そのほうが親しみが沸く、というような言い分で、NHKよりも民放のほうを人は贔屓にしがちである。

本来、良識を持っているべき大人がこれだから、若い人たちからすれば、NHKのやることなすことが面白くないと映るのも致し方ない。

今の大人にとって、NHKというのはまるで官僚制の元での国家権力としての放送局ぐらいにしか映っていないのではないかとさえ思える。

だからNHKの番組制作にかかわる不祥事というのも、官僚の不祥事と同じ感覚にしか映っていないのではないかと思う。

巨大な組織になれば、あってはならないこととはいうものの、不祥事の一つや二つはついて回るわけで、それは組織というものを人間が作っている以上、大なり小なり免れない宿命だと思う。

民放だとて同じような不祥事はいくらでもあるわけで、それを理由にして受信料の不払い運動を起こすというのは理にかなっていないと思う。

 

文化の進展

 

問題は、NHKの受信料の徴収ということ自体が、現在の社会にマッチしているかどうかという点を洗い直さなければならないと思う。

戸建ちの家に住む良心的な人はきちんと受信料を払っているだろうけれど、これがマンション住まいともなると、もう共同アンテナで受信しているので、好むと好まざると受信料というものは徴収されていると思うが、仮に会社で台風や交通渋滞の情報収集のためテレビを見ているとなると、法人として受信料を払っているものだろうか。

こういうことを考えると、テレビを見ているからといって、その中からNHKを見ている人だけを追跡することはほとんど不可能ではなかろうか。

電話や手紙で督促するといっても、テレビを見ている人全部を追跡することはたぶん不可能ではないかと思う。

よしんば追跡できたとしても、「うちはNHKは見ない」といわれたら、それ以上の督促はそこで破綻してしまうのではなかろうか。

いっそのこと、民放のように一切受信料というものを取らなければことは簡単だ。

だから受信料の徴収ができずに経営ができないとなれば、いっそのこと民放と同じようにコマーシャルを流して、広告主にその経費の負担をさせるという方法も真剣に考えなければならないと思う。

私個人としては、NHKは民間にするよりも国営放送として税金を投入して運営すべきだと思うが、これは昨今の民営化の方向に逆らうことなので、実現の見通しは皆無といってもいいかと考えている。

民間テレビ局も、中には良い番組もあるが、相対的に見て、目を覆いたくなるような番組ばかりなことも事実だと思う。

ここで私がいつも疑問に思うことは、メデイアに関わっている人たちの文化の度合い、つまり人間としての知性とか、理性とか、それまで受けてきた教育の結果としての教養とかは、一体どうなっているのかという疑問である。

人間の考え方というのは時代とともに変化するのが当然だと思うが、今テレビ番組を制作している人たちというのは、一体どういう考え方でああいうものを作っているのであろう。

また広告主としてのクライアントは、自社の広告に、どうしてああいうくだらない低俗な番組に金を出したがるのであろう。

番組を作る人、その番組を買う人、それを発信する局の人には、文化とか、教養とか、知性とか、理性というものが存在していないのだろうか。

そして世代間の意識のギャップということも大きな問題だと思う。

放送とか、メデイアに関わらず、人類の進化、つまり文化の進展というのは常に人間の中の若者によって推し進められてきたことは疑いのないところだと思う。

サルの社会でも、彼らの形態の進化は、常に若い固体によって推し進められているわけで、若いサルが芋を洗って食べることを覚えると、年老いたサルがそれを真似ることで、群れ全体に芋を洗うという文化ができるといわれている。

人間の社会でも、これと全く同じことが行われているように思う。

「日曜討論」の堅苦しさというのは若者には全く受けないわけで、それに比べ田原総一郎の砕けた司会の仕方は、若者に大いに受け入れられているのではないかと思う。

つまり、私が「日曜討論」のような落ち着いた語り口のほうが好きだ、ということは既に文化として敗退しており、マイナーな存在でしかないわけで、それは古い古典的な思考で凝り固まっているということである。

文化の進展という場合は、そういう古い思考を乗り越え、打破し、前に前に進まなければならないということである。

考え方の古い人間は、いつの時代でも「今の若者は!!!」という述懐をするが、文化の進歩というのは、常に現在を乗り越えて、古い思考を打ち破って前に進んでいる。

しかし、現実の社会というのは、古い世代と新しい世代が同居しているわけで、これはどんな国家でも、どんな民族でも同じ状況下に置かれていると思う。

だから地球規模で見て、どんな国家でもどんな民族でも、古い世代は「今の若者は!!!という述懐がついて回っているのである。

若者が従来の古い概念を打ち破ろうとすると、古い世代はそれを押さえ込もうとする。

その論的根拠として、習慣だとか、伝統だとか、因習だとか、らしさという言葉が使われるわけであるが、これらはすべて古い概念であって、若者はそういったものを一向に気にする様子がない。

この現実を見た古い世代は「今の若者は何を考えているのかさっぱり判らない」という述懐になるが、若者は若者で、新しい文化を築き上げつつあるわけである。

いかなる国家でも民族でも、その中では古い世代と新しい世代が共存しているわけで、その中で古い世代が新しい世代に、自分たちが古来から連綿と受け継いできた価値観をどれだけ残せるか、という問題は大きな課題だと思う。

ここで古い世代が安易に新しい世代に迎合してしまうと、軽量浮薄な世相の現出となってしまうのである。

「裸の王様」

 

昨今、日本は中国から靖国神社の参詣に絡んでさまざまな言い分を聞かされているが、中国の指導者も戦後世代で、昭和初期の日本の状況も、中国の状況も直接には知らない世代だと思う。

にもかかわらずそういうことを言ってくるということは、彼ら中国では、古い世代が新しい世代にそれに関する相当な刷り込みをしていたということを如実にあらわしているということである。

それに反し、我々の側は、そのことを全くしてこなかったということだと思う。

だから、古い世代と新しい世代が同じように同居しているのはどこの主権国家でも、どの民族でも同じだろうが、古い世代が新しい世代に、何を伝え、何を残し、何を教え、何を捨て去ってもいいか、ということを決するのはそれこそ民族の知恵だと思う。

中国の首脳が日本の首脳に対して、「首相としての靖国神社の参詣は罷りならぬ」という言い分は、中国の古い世代が、中国の新しい世代にそういう価値観を植え続けていたわけで、我々の側では一切そういう価値観も持たなければ、靖国神社の何たるかも教えてこなかったので、「中国の機嫌を損ねるから小泉首相は靖国神社に参詣しないほうがいい」などという陳腐なことをいう羽目になるのである。

そして、これを臆面もなく言う世代というのは、あの戦争を体験した古い世代のほうに顕著にそういう傾向が強い。

我々が、過去の歴史を新しい世代に教えてこなかった、という責任も古い世代が背負わなければならないと思う。

昭和の時代だけでも63年、平成の時代になって17年という月日の流れの中で、昭和初期のことを若い世代に教えてこなかった責任はひとえに古い世代にあると思う。

20世紀の後半から21世紀に生きた日本の古い世代の人々は、戦争に敗北したという事実が重く、厚く、深く心に突き刺さって、その精神的ショックから立ち上がることができず、若い世代を押さえつけるという生物固有の進化の過程を乗り越えることができなくなってしまった。

地球上に住むあらゆる種族、民族というのは、原始的であればあるほど古い世代が新しい世代を押さえつけ、押し込め、若者の無軌道な行為をいさめ、修正し、民族の存在価値に沿った生き方を強要する通過儀礼のようなものをもっているのが普通である。

ところが、我々は戦争に負けたことによって、そういうものを一切「悪」として葬り去ってしまった。文化の進化は、若者が旧弊を打破することによって前に進む、と前に述べたが、我々は戦争に負けたことによって、古い世代そのものが守らなければならない伝統とか、因習とか、習慣とか、らしさというものを否定してしまったので、その後に続く若者は完全なる野放図の状態に育ってしまったのである。

戦後に育った若者にとってみれば、自分たちが打破すべき古い秩序も、因習も、伝統も、らしさも、何も残っていなかったのである。

だから彼らは自分たちの行動を規制する枠というようなものが一切ない状態で育ったので、彼らは自分たちのしていることが良いことなのか悪いことなのかさっぱり判らない状態にいるわけである。

髪を茶髪に染めて、破れたジーパンをはいていても、それがみっともない姿だ、ということが彼らには判っていないのである。

なぜかといえば、誰もそれがみっともない姿だということを教えないからである。

「裸の王様」の話と同じで、王様が裸でいても、誰も「王様は裸だ!!!」といわないものだか、王様自身、自分が裸でみっともない格好でいるということはわからないのである。

親も、学校の先生も、王様が裸でいることを個人の自己主張として認めているからである。

ある若者が凛々しく、立派に見えるかどうかというのは、そういう認識、それと同じ価値観を、その人が持っていないことにはそういう感想、感情というのは沸いてこないのである。

前にそういう価値観がインプットされていない人は、そういう若者を見ても、何の感想も沸かないわけで、茶髪で破れたジーパンをはいている若者をみっともないと思う感情も、前にそういう価値観がインプットされていない限り、そういう感情には至らないのである。

新しい世代は古い価値観を打ち破って前に進むというのが歴史としての真実であろうが、だからといって何でもかんでも古いものを打ち破ればいいというものではない。

そこには主権国家として、民族として、一人の人間として、いつまでもいつまでも守り通さなければならない何かがあるということも歴然たる現実だと思う。

我々は先の戦争で敗北したことによって、その時に若者であった世代の人々、今の年齢で言えば70歳から80歳代の人々が、日本人として、日本民族として、古来からもって来た価値観、持ち続けてきた価値観、伝統、因習、習慣、らしさというものを全部否定する側に回ってしまったものと考える。

そういう価値観を捨て去った後に来たものが、進駐軍に押し付けられた新しい価値観であって、その時できた新しい価値観というものが民主主義というものであり、民主化というものであった。

ところが、これは封建制度を覆すという意味では非常に効果的であったが、人の世、我々の民衆の生き様というのは、ただ単純に封建制度のみで回っていたわけではない。

その封建制度の中にも、人として最低限守らねばならない倫理、道徳、人としての道、というかけがえの無いものがあったにもかかわらず、それを戦争で生き残った世代が全否定してしまったのである。

戦争で生き残った世代が、戦いに敗北したという結果からして、そのあとに登場してきた占領軍の民主主義というものを、何の疑いもなく、何もためらうことなく、受け入れてしまった。

戦争で負けたという現実からして、それはある程度は致し方ない面もあるが、占領軍が無理やり押し付けた民主主義というものを、すべてありがたく受け入れてしまったところに我々の過誤があったと思う。

我々は、戦前においては軍国主義をありがたく受け入れ、戦争に負ければ、押し付け民主主義をありがたく受け入れてきたわけで、そこには自らの内なる力で自らを変革する、改革する、脱皮するという発想が微塵もなかったわけである。

そういう意味からすれば、明治維新は我々が自らの内なるエネルギーで大きく変革した事件であったと思うが、それ以降の我々日本人の生き様というのは、自らの内なるエネルギーで成した大きな変革は一つもないといわなければならない。

敗戦はある種の外圧であったわけで、この外圧を経ることで、我々は価値観の大変換を経験したことになるが、そのことの責任は古い世代の人々にあると思う。

いつの世でも、世の中を管理運営しているのは古い世代であって、若者が社会の中枢に君臨できないのはいつの時代になっても変わらない真実である。

 

知の象徴

 

さて、NHKであるが、NHKもこの昭和の激動を我々庶民と同じように受け入れてきたものと思う。ところが、そういう変動を潜り抜けてきたにもかかわらず、受信料の徴収ということは大昔のまま、人々の良心に頼っていたわけで、昔の庶民はそれなりに良心的であったに違いないく、NHKで放送を聞かせてもらう以上、受信料を払うことには何の抵抗もなかったに違いない。

ところが戦後の復興の中で、技術革新が進行してトランジェスター・ラジオ、いわゆるポータブル・ラジオというものが出現すると、受信料というものがおかしくなってきた。

ましてテレビの時代になって、民間放送局がただでテレビ放送を発信するようになると、受信料というものがますます意味不明のものになってきてしまったものと考える。

数あるラジオ局、テレビ局の中で、なぜNHKだけが受信料をとるのか納得がいかなくなるのも当然だと思う。

ことがここまでくればもうNHKは受信料で運営することは不可能だと思う。

それで今後はどうするか、という問題になれば、国営にするか、それとも民営化してコマーシャルで運営費をまかなうか、という二者択一を迫られると思う。

個人的には国営放送にして、文化の低俗化の防波堤にしたいと思っているが、世の流れとしては、民営化してコマーシャルを流すという方向に向かわざるを得ないように思う。

NHKの運営というのは法律に縛られているわけで、それだからこそ、公正公平ということが維持されているものと考えられる。

「日曜討論」を見ても、どんな弱小政党にもおなじように時間を割り当てているのはそのためだと思う。

しかし、この公平公正ということも、見ようによっては、逆に偏向しているようにも見える。

たとえば、共産党や社民党のような、どう見ても日本の国益を損なうような政党、自分の祖国の足を引っ張るような政党にも同じように分け隔てなく時間を割り当てるということは、こういう政党にとっては非常にありがたいことで、この場を借りて自らの主張を心置きなく発言できる場を与えられているようなものである。

今日の政党政治の中で、政党の政策を論じて意見が別れるのならば致し方ないが、共産党や社民党の言っていることは、自民党の存在そのもの、自民党と公明党の連立の状態そのものを批判しているわけで、存在そのもの否定する論議などというのは受け入れられないと思う。

「郵政民営化はこれこれのデメリットがあるから反対だ」という論議ならば聞かなければならないが、最初から「小泉首相の提案だから反対」「小泉が憎いから反対」では政治を私物化しているし、政治の場で私怨を晴らそうとしている、としか言えないではないか。

「確かな野党」などという共産党のスローガンは一体なんだといわなければならない。

社民党の「若者を戦場に送らないように憲法改正には反対」という言い草も、普通に聞いて納得できるものではない。

「風が吹けば桶屋が儲かる」式の取り留めのない論理といわなければならないが、これがNHKの電波を利用して日本全国に情報発信されるのである。

共産党や社民党にとってこれほどありがたい制度もないではないか。

彼らはNHKの受信料を果たして払っているであろうか。

私はNHKから金をもらっているわけではないが、NHKというのは日本の知の象徴だと思う。「NHKなど見ない」といって粋がっている人がいるが、その人は社会を斜に構えているのだと思う。

NHKが「不祥事を起こしたから受信料を支払わない」という言い分は、ある種のこじつけ以外の何ものでもないと思う。

あまりに真面目すぎて、面白みに欠けるという点は確かにあるが、だからといって、NHKを敬遠する理由にはならないし、NHKこそが日本文化のミニマムの線を維持していると思う。

そのNHKも、人気がないことを理由に、大衆に迎合する傾向が目に付くようになりつつあるが、私は大衆などに迎合する必要などさらさらなく、毅然とNHK独特の路線を貫き通せばいいと考えている。

我々、庶民とか大衆とか、国民と呼ばれている人々を包括している国家というのは、当然のこと国家の意思というものをもっていてもいいと思う。

大自然の中で誕生した原始人類は、自分たちの仲間の将来に対して、ある何らかの意思を持ち続けて生きているものと考える。

それは子孫繁栄であったり、他の人々との共存共栄であったり、時にはその意思は世界制覇の願望や野望であったりもするだし、ホロコーストであったりするときもあろうが、人の集団としては何らかの意思、グループの意志というものを持ち続けていき続けたと思う。

その人の集団としての集まりが、国家というものを形成したとすれば、その人々の意思というものは、当然のこと、その国家が引き継いでいると思う。

だとすれば、メデイア、すなわちマス・メデイアに対して、国家がその意思を付託してもおかしくないと思う。

現に共産主義国では、それが当然の事として行われているわけで、国家はマス・メデイアの殺生与奪権を完全に握っているではないか。

ことほど作用に、マス・メデイアというのはその主権国家の意思を端的に表現する優れた機関だと考えなければならない。

我々の祖国はありがたいことに民主国家なるがゆえに、国家がマス・メデイアの殺生与奪権を握っているわけではなく、メデイアは自由に自分の裁量で報道する自由が保障されている。

しかし、NHKだけは放送法で、報道の自由を、際限なく、勝手気ままに、野放図に、振舞うことを束縛されている。

すなわち公平公正なる報道が強いられているので、偏った報道ということは許されていない。

だから「日曜討論」でも、どんな小さな政党にでも公平に発言の機会が与えられているわけである。

ところが民放の田原総一郎の番組では、どの政党を出席させ、どの政党を省略するかは自由に局側、放送する側で決められるのである。問題は、この自由さにある。

我々、日本国民に与えられている自由というものは非常に大事なことであるが、戦後の我々はその大事さについて全く無関心だと思う。

だから自由と我侭を履き違えるという現象が起きているのである。

NHKは「公正公平を遵守する」というある種の箍を法律によってはめられているわけで、一方、民放というのは、法律の箍というものは一切なく、あるとすれば「公序良俗に反しない」というモラルが問われるのみである。

この違いは大きいと思う。

問題は、今の日本国民がNHKよりも民放の方を好んで見るという現象である。

これはひとえに国民全体の思考の低落、文化の低値安定、知的水準の低落化、愚民化というものだろうと考える。

こういう環境の中で、NHKを見る人よりも民放を見る人間のほうが多いわけで、テレビが出現した当初においてさえ、「一億総白痴化」と称した大宅壮一郎のよう先見の明のある人もいたが、今まさにそれが現実のものとなっている。

国家というものは、人間の集団として、その集団の意志というものを持っていると思う。

集団の意思というか、人間の集合体としての団体として、自分たちの意思とか、理念とか、理想とか、希望というものを持っていると思う。

だから共産主義国家では、それを国民の広範に普及せしめるために、マス・メデイアの殺生与奪権を硬く握り締めているが、民主主義国家では、それほど露骨なことはしていないが、多かれ少なかれそれに近い状況はあると思う。

人間の集合体としての国家は、国家としての意志をきちんと持っているのが普通の主権国家であって、共産主義国家がメデイアの殺生与奪権をがっちり握り締めているというのも、その現れである。

だとすれば、国家というものは「自分たちの国民が将来これこれこういう形の人間を作りたい」、という希望というか、理想というか、目標というか、そういうものに合わせるように善導したいという願望を持つことも自然の流れだと思う。

つまり、主権国家というものは、その国の将来像にあわせて、その国をこういう方向に導きたい、という意図を持っているのが普通だと思う。

ただただ食って糞して寝るだけの人間を養成しているのではないはずである。

国家というものに、そういう意思があるとすれば、メデイアに対しても、そういう意図の線に沿った在り方を欲するのが当然だと思う。

言い方を変えれば、国益というものがそこには絡んでくるわけで、メデイアの存在というのは、国益とのバランスの上にあるわけで、メデイアの側からすれば、国益に沿った存在でなければならないわけである。

我々の場合、戦前のメデイアは軍部に押さえ込まれていたので、国家の意思の前に軍部の意思が前面に出てしまったということはあったと思う。

しかし、戦後の民主化の過程では、民主主義の前提の元で、人々はさまざまな考え方が許容されたので、そのさまざまな考え方を収斂するのに、「公平公正」という言い方しかできなかったに違いない。

メデイアは国家の意思を国民に周知徹底させる有効な手段であることは論を待たないが、今の日本の状況というのは、そう大業なものではないと思う。

もしそうだとすれば「公平公正」ということが成りたたなくなるわけで、その意味でNHKが国家の意思をまともに代弁している風には見えなのが当然で、それでこそ「公平公正」が貫かれていると思う。

しかし、日本人としてのミニマムの知性、理性、教養の具現化という面では大いに貢献していると思う。

心のさもしさ

 

まさしく公共放送と名打つだけあって、日本の現実の姿をモロに映し出していると思う。

しかし21世紀という今日の状況を鑑みると、NHKを受信料で運営するということは多分不可能ではないかと思う。

これが有線放送ならば、受信料を払わない人にはカットするということができるが、相手が電波である以上、受信料を払わない人には見せないということはしえないのではないかと思う。

そして電波を出す側も受ける側も、ものすごい技術革新で進化しているのであるから、そういう状況下で、国民の良心に訴えて、善意的に受信料の納付に協力させる手法というのはもうありえないのではないかと思う。

NHKに不祥事があろうがなかろうが、そんなことで不払い運動が沈静化することはありえないと思う。

NHKには不祥事がなくなって、クリーンな経営になったから受信料を払い込んでやろう」などという善意の人は、今の日本国民の中には一人もいないのではないかと思う。

もしそういう善意が少しでも残っているとすれば最初から払い込んでいると思う。

なんといっても、「民放しか見ていない」と言い切れば、受信料は払わなくても済むという理屈が通っている限り、まともに払う人はいないと思う。

払う意思のある、善良で、良心的な人は最初から払っていると思う。

我々が今憂うべきことは、NHKの受信料を払わずに済まそうと考えている人たちの、精神的な更生の方法である。

そういう人たちに対して、民事裁判に訴えてまで強制的に取り立てようとしているようだが、そんなことでことが解決するとは思えない。

問題は、こういう人々の良心の欠如、善意の欠如、知性の欠如、教養の欠如ではなかろうか。NHKの受信料を払わなくても罰則規定がないから払わない、という人々の心のありようが一番問題ではなかろうか。

NHKは見ていない」と突っぱねれば、受信料を免れるからと思っている人々の精神の荒廃が一番問題なのではなかろうか。

NHKの受信料を払うのは馬鹿だ」と思っている人の、現代的ミーイズムの修正が必要なのではなかろうか。

これが生活保護を受けているような人で、食うにも事欠いているような人ならば、ある程度の同情は致し方ないが、現実にはそうではないと思う。

払っている人がいる一方で、払わない人がいるから不公平だという言い分は、大人の論理ではないと思う。

理由にならない理由だと思う。

罰則がないからルールが守れない。

恩恵を受けても恩義を返すことが義務付けられていないからしない。

人が払わないから俺も払わない、という言い分は、まさしく子供以下の言い草ではなかろうか。

これが戦後60年の日本の民主主義の成果ではなかろうか。

罰則がないからルールを守らない、守らなくてもいい、という発想は、きちんとした大人の思考であろうか。

幼稚園児ではあるまいに、これがわからない大人があまりにも多すぎると思う。

これは一体どういうことなのであろう。

21世紀に生きている日本人というのは、罰則が怖くて法律を守って生きているのだろうか。

もしそうだとすると、人間としてあまりにも可愛そうではなかろうか。

人間として、すべきこととすべきでないことがわかっていない、していいこととしてはならないことがわかっていないので、法律を持ち出してきて、法律の罰則に照らし合わせて、すべきこととすべきでないことを選別しているとすれば、実に哀れな人間だと思う。

企業買収とか、税務報告というような専門的な問題ならば、そういうことが当然ついてまわるわけで、そういうときにこそ法律に照らしあせてことを処理すれば、経済事犯というのもこの世からなくなると思うが、この場合はそういうことを言っているのではなく、ただ単純に社会生活を送るのに刑罰を恐れて生きるとすれば、あまりにも情けない人間だと思う。

人間が生まれながら備えている善意だとか良心というものが全くない、ということになるではないか。

人は、社会的な生活の中で人格というものを形成すると思うが、ここに戦後60年にわたる戦後の日本人の民主主義の成果が見事に現れていると思う。

戦後、我々は、古い価値観を全否定することが民主主義というものだ、と思い違いをしてきたが、その思い違いの結果として、今日、ルールをまもらなくても構わない、という思考が醸成されたものと考える。

ルールそのものが古い価値観の代表であって、それは旧世代の築き上げたものだから、それを打ち壊すことが革新的なことだ、という間違った考え方に浸ってしまったものと思う。

先に、文化の進展は若者が古い価値観打ち破ることで前に進んだと書いたが、確かに、文化の進展はそうであるが、ここで古い世代が若者に対して踏ん張って、古い価値観の中にも捨て去ってはならないものがある、ということを教えてこなかったことが戦後の一番の問題点だと思う。

戦後の混乱期の中で、古い世代が新しい世代に迎合して、古い価値観ならばなんでもかんでも打ち壊すことが進歩的、革新的なことだと思い違いをしたところにあると思う。

しかし、いくら世の中が変化しようとも、人として、してはならないことと、しなければならないことに変化はないと思う。

どんな世の中になろうとも、決められたルールは守らなければならないし、人のものは盗んではならないし、人に嘘をついてはならないし、人を殺してもならないわけで、そういったものはいかなる時代状況においても決して変わることのない倫理だと思う。

ところが、戦後の民主教育では、こういったものも否定されているわけで、守れないルールはルールのほうが悪いし、革命のためならば人を殺そうが、人に嘘をつこうが、人を騙そうがそれは許される、という論拠が明確に論証されてきた。

「革命のため」という前提条件があれば、何でもかんでも許される、という間違った観念が普遍化してしまったのである。

「革命のため」という部分を、「アメリカをつぶすため」とか、「大企業をつぶすため」とか、「自民党をつぶすため」という言葉に置き換えてみれば一目瞭然と明らかになるではないか。

このことは一般の社会秩序の破壊ということを指し示しているわけで、それが民主教育の名でもって学校現場で行われていたことを考えれば、「NHKの受信料を払う必要がない」、という論拠も当然ここに根源があると言わざるを得ない。

戦後も60年を経過すると、終戦直後に生まれた人でも60歳になっているわけで、この世代になれば当然社会の一線から引退する世代になっている。

こういう人々を戦後教育を受けた第1世代といわなければならない。

この世代の人々が、戦後の日本をリードしてきた以上、モラルの欠如した大人がゴマンといてもなんら不思議ではない。

昔も今も悪人はいる。

犯罪者というのはいかなる世の中になろうとも皆無にすることはできない。

しかし、問題は、こういう悪人や犯罪者の存在ではない。

一見立派な社会人として、きちんと職業につき、きちんと仕事をし、きちんと社会生活としているように見える極普通の人間、極普通の社会人のモラル低下である。

こういう人たちのモラルの低下であり、こういう人たちの良心や善意の在り方が問題なわけである。

極普通のサラリーマン、極普通の公務員、極普通の警察官、極普通の先生が一日の仕事を終えて家に帰り着いて、少しリラックスしようとテレビのスイッチをひねったとき、堅苦しいNHKを見るとは限らないがNHKをまったく見ないということもありえないと思う。

通常は肩肘張らない民放を見ていようとも、定時のニュースとか、NHKスペシャルとか、日曜討論とか、目的にあわせてNHKを見る機会がまったくないとは想像できない。

問題は、そういう人たちがNHKの受信料を払わないということである。

全員が全員払わないわけではないことは言うまでもないが、払わない人が何のペナルテイーもなしに社会生活をしているので、払っている人から不公平感が出るのである。

今、日本の社会で活躍している人々、年齢で言えば30代から60代の人々で、教育のない人というのはありえないと思う。

その大部分の人が、高等教育まで受けた人々だと思うが、そういう教育程度の高い人々が、NHKの存在を否定し、NHKの受信料を払わないでいようとする、その心のさもしさが大問題なわけである。

受信料を払いたくない、という心のさもしさをカモフラージュするためにNHKの不祥事をキーワードとして使っているが、我々が憂うべきことは、その教養ある社会人の、心のさもしさ、心の浅ましさ、精神の貧しさである。

NHKは公共放送として民間テレビ局ではしえない、いわゆる銭にならない事業もあえてしているわけで、そういう金にならない事業をこれからも継続しようとすれば、我々はこぞって協力しなければならないはずである。

このことは形を変えた福祉に対する奉仕だと思う。

NHKの先行きを考えるとき、国営にして税金で継続するとすれば、それこそ国家の機関となってしまって、文字とおり国益優先になってもしまう可能性があるし、民営化してコマーシャルで運営するとなれば、限りない番組の低俗化が心配なわけで、NHKを今の状態のまま温存しようとすれば、視聴者が積極的に受信料を納付する以外道はないと思う。

この現実に対して、今の日本の人々は、非常に無責任だと思う。

その無責任の根本のところには、今の日本の人々の心のさもしさ、心の浅はかさ、精神の貧しさが潜んでいると思う。

 

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