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郵政解散に思う

 

8日、参議院本会議で、小泉氏の推す郵政民営化法案が否決されたことで、衆議院の解散ということになったが、こういう事態を招いた最大の原因は、亀井、綿貫、古賀という自民党内の重鎮が小泉純一郎を嫌悪するあまり、子分どもに賛成票を投じることを禁止したからに他ならない。

本来、自民党内で意見の相違があっても致し方なことはよく理解できるが、自分のところの党首が、郵政民営化を旗印にして総裁選に立候補し、それで総裁になって以上、他の者は自分たちの党首に協力するのが普通の人の普通の倫理だと思う。

これら自民党3悪人は、小泉純一郎という人物を個人的に怨み、憎んでいるわけで、それを党の重鎮としての立場で、子分どもに圧力をかけるなどという態度は、人間として最低の屑だと思う。

人間の値打ちとしては一番見下げた振る舞いだと思う。

他のものが郵政民営化を掲げれば、これほどの抵抗は示さなかったかもしれないが、相手が小泉なるが故に、「あの変人に功を立てさせてなるものか」という感情が先走りしていると思う。

ところがマスコミは、抵抗勢力という言葉は頻発するが、その抵抗勢力がこの3人であるということを具体的な名前では取り上げない。

現時点では党の役職に付いていないので、そういう態度なのかもしれないが、この法案が廃案にされた最大の理由はそこにあるはずだ。

小泉首相がいみじくも言ったように、「国会は郵政民営化しなくてもいい」という判断をした、ということは的を得た回答だと思う。

良識の府であるべき参議院議員が、党の重鎮の圧力に屈して、自分の信念を曲げたとしか我々には思えない。

つまり、良識の府であるべき参議院議員も、昔のヤクザの倫理と同じで、義理と、人情と、金で自らの信念を売り渡したとしか我々国民には見えない。

「民で出来ることは民にさせる」、という小泉氏の言っていることがそれほど悪いことなのであろうか。

今回の参議院というのはそれを端的に態度で示したわけで、小泉氏がいうように、「郵政の民営化は必要ない」、「郵便職員を36万人も抱えたままでいい」ということを態度で示したということである。

 

野党の反対はわかる。

野党は与党に対して何でもかんでも反対していれば、それで議員報酬、つまり月給はもらえるわけで、それはそれで致し方ないが、自民党議員が自分の党の総裁の方針に叛意を翻すということは、このことからしてもう自民党は土台骨が腐っているということになる。

小泉氏は「衆議院で反対票を投じた議員は公認しない」と言っているが、これは当然の措置だと思う。

党首に楯突く者を何故に飼っていなければならないのか、と思うのは小泉氏ならずとも極普通の心理だと思う。

政党というグループ内で、意見の相違があることは、これは当たり前のことである。

しかし、そのグループの中で、その個々の意見が、義理や、人情、はたまた金というもので売ったり買ったりされることは許されないことだと思う。

昔の田中角栄や金丸信はそれを露骨にやっていたので叩かれたが、金で信念を売買すれば明らかに顰蹙を買うが、義理や人情ならば表ざたにはならないわけで、いくらでも言い逃れが出来る。

いわゆる派閥の力学というものである。

小泉氏は前々から「自民党をぶっ壊す」ということも言っていたので、今回の解散では本当にそういうことになりかねない。

彼の心の中には、わけのわからない自民党の重鎮や派閥の領袖よりも、公明党のほうが頼りになるという考えが伺える。

選挙後の政局でも、公明党と組む事をはっきりと言っているわけで、その意味からして従来の自民党とはいささか趣が違うようだ。

それにしても小泉氏の郵政改悪法案というのは衆議院では五票差で可決、参議院では十六票という差で否決されるということは、それほどこの法案は意味のないということであろうか。

良識の府と言われる参議院で否決されるということは、この法案がそんなに我が国益や将来の日本にとって意味のないことなのであろうか。

小泉氏が、「私が押し進めようとする郵政民営化という行政改革が、国会で不信任決議されたものだ」と思う、というのは当然の事だと思う。

彼は総理になる前からそれを争点としてはっきりと旗印に掲げ、誰も手をつけようとしなかった改革に手をつけようとしたわけで、そのことを国会、参議院が否決するということは、行政改革、その他のあらゆる構造改革を一切しなくていいということになる。

こんな馬鹿な話もない。

事態が此処まできてしまうと、もう彼に対する反対勢力のことを誰も言わないが、彼、小泉氏は終始一貫して郵政改革のことを述べ立てていたわけで、今更、説明不足だとか時期尚早等という繰言は通らないと思う。

彼の性格として、人の言う事を聞き入れず、自分の信念にこだわり続け、人のアドバイスを聞き入れない、ということは森前首相との会談でも如実に現れているが、これを世間及びマスコミ一般では彼の頑迷さという言い方で糾弾している。

自民党内の反発も此処から来ていることは想像にしくはないが、これは政治の局面でマイナス要因なのであろうか。自分の信念をもって、それを党の公約にまでして、総理の座を占め、総理になったとたんに先輩諸氏、元総理経験者としての先輩のいうことを利いて、自分の初志を曲げるようでは、かえって人間性が疑われるというものである。世間及びマスコミというのは、極めて無責任なわけで、彼が初心に忠実たらんとすれば、頑迷だと言い、人の言う事を聞かないといい、独裁だと言い募るわけで、ならば彼が先輩のいうことを全部聞き入れて、彼の信念をあやふやなものにしたとすれば、それはきっと玉虫色の八方美人的なものではあろうが、しょせんそれは骨抜きされた滓のようなものでしかない。

世間およびマスコミというのは、結果がどう出ようとも、それはそれなりに飯の種になるわけで、ただただ無責任なことを言って、あらゆる責任を統治する側にぶつけていればそれで済んでいる。

しかし、それでは統治される側としては我慢ならないわけで、統治される側としては、そういう無責任なマスコミや世間というものをよくよく注視して眺めていなければならない。

ただマスコミ業界も食うか食われるかの生存競争を生き抜いているわけで、その中で生き残るためには、国民に喜ばれる情報、国民が喜びそうな情報というものを提供しなければならない。

だとすれば、国家に政府に迎合した論説や、論調を展開したとすれば、それは国家や政府に媚を売るものというわけで、それこそ御用マスコミとして、国民や一般大衆からソッポを向かれる。

そうなっては彼らの存在意義も失われてしまうので、国民に喜ばれる内容にしようと思うと、統治する側を揶揄、誹謗、中傷、悪口を言い、揚げ足を取り、笑いものにしないことには彼らマスコミというものが国民に受け入れられないのである。

民主主義の未熟な国は、それではならじと言論統制をするが、我が国は戦後この言論統制には懲りた経験があるので、未熟な民主国家のような稚拙な手段というのは、成し得ない状況になっている。

今回の解散劇でも、ある意味では自民党内の重鎮をなす議員の造反劇であるにもかかわらず、メデイアは亀井静香、古賀誠,綿貫民輔の悪口は言わず、抵抗勢力などと善悪を明確にすることなく、意味不明の表現をしながら、小泉氏のみを悪役に仕立て上げられているではないか。

仮に、小泉氏が総理経験者としての先輩や、自民党内の重鎮のいうことを素直に受け入れていたとしたら、郵政改革法案は完全に骨抜きにされ、玉虫色にはなるかもしれないが、改革案としては意味を成さないものになったに違いない。

彼に限らず、仮に誰が総理になろうとも、本人の信念を何が何でも貫き通し、初志貫徹をしようとすると、頑迷だとか、聞く耳を持たないとか、独裁だとか、変人だいって非難するが、ならばといって先輩諸氏のいうことを、お説御もっともといって、みな聞いたとしたら今度は玉虫色だとか、個性がないだとか、骨抜きにされただとか、いって非難するわけで、ならば一体どうすればいいのかということになる。

総論では賛成しておきながら、各論に入るとそれぞれに私利私欲が絡み、利害得失に左右され、支援者への義理が入り、一歩も前に進めないということになる。

小泉氏は郵政改革に反対票を投じた人は公認しないといっているが、これは当然の措置だと思う。

問題は、こういう当然のことを当然のこととして今まで実施してこなかった、実施し切れなかった過去の先輩諸氏の手法がもう時代遅れになってきたということだと思う。

戦後60年もたって、自民党を支持する国民の側も相当に代替わりしていると思う。

綿貫氏などは、自民党を愛しているだとか、好きだからなどとインタビューで答えていたが、そんな感情論の罷り通る時代ではなくなってきたと思う。

愛しているとか好きだといいながら、自分たちの党首の足を引っ張るような人間を、今の若い世代が容認するはずがないではないか。

こういう感情論で政治をしようとするから、派閥の力学が成り立つわけで、政策論議を脇に置いておいて、恩義だとか、義理だとか、金で子分を引きとめようとして、法案に反対か賛成かの踏み絵を迫るわけである。

派閥の領袖が、党首の意向と軌を一にしている分には、何ら問題が浮上することはないが、派閥の領袖が党首に個人的な怨恨を持っていたときには、法案の中味の審議そっちのけで、感情論が先走り、それに子分が追従していく構図が今までの自民党の本質であったと思う。

亀井静香や綿貫民輔のやっていることはこういうことである。

派閥というものは、ある程度仲良しクラブ的な要因を秘めていることは致し方ないが、いやしくも政治家の集団ともなれば、政策論議で内輪の結束力を維持するものでなければならないと思う。

自民党内においても、ひとつの法案を通す遠さないという段階で、賛否両論があるのは極自然なことだと思う。

「此処を修正すれば通す」とか、「修正は出来ない」とかいう議論は、それこそ百出するであろうが、最後のところはやはり多数決原理に従わなければならないと思う。

多数決原理に従う段階で、それが本人の意思で、賛成なり反対なりの意思表示することは致し方ないが、それに圧力をかけること自体、民主主義的ではないと思う。

掛ける方も悪いが、掛けられてそれに従うほうも同罪だと思う。

今回の郵政法案に関しても、野党やマスコミは、小泉首相の説明が不足しているということを何度も言っていたが、これは少々おかしい言い分だと思う。

これだけマスコミ各社が取材合戦をしている中で、小泉氏が自分の口から微にいり細にわたって説明しなくても、彼が総理に就任以来言い続けていることなのだから、それでも尚説明不足というのであれば、それはマスコミの問題のはずである。

マスコミの報道姿勢の偏りを、小泉氏の所為にしているわけで、こういう論調に我々は騙されてはならない。

ただ自民党員の中にも、民主党員の中にも、郵便関係者の支援で国会議員になっている人がいるわけで、そういう人達は表立って郵政民営化法案に賛成をすることは支持者を裏切ることになることはよく理解できる。

だから、自民党員だからといって、必ずしも全員一致で賛成しなければならないことはないが、それを拡大解釈して派閥の領袖が自分のところの党首に反旗を翻すということは人語に落ちる行為だと思う。

衆議院を解散させた小泉氏は、そのことによって国民の間では人気が回復したが、評論家とか知識人からは相変わらずこっぴどく叩かれている。

評論家とか知識人というのも、マスコミとグルになっているわけで、時の首相を叩かなければ、自分の存在価値がないような気持ちに浸っているが、実に無責任で好い気なものだ。

日本の戦後60年の政治を批判し続けてきたマスコミと進歩的知識人というのは、結局はもぐら叩きと同じで、誰が出てきても、叩いて、叩いて、叩きのめしただけで、自分たちのほうは一向に反省することもなければ、自浄作用を働かせることもせず、無責任体制を擁護し続けてきたではないか。

あらゆる経済事犯に関しても、検察や捜査当局の後追い取材をするだけで、自分たちで犯罪の目を暴きだすということは仕切れていないではないか。

人を批判するということは誰でも安易に出来る。

自分は蚊帳の外にいて、蚊帳の中のことをああでもないこうでもないということは誰でも彼でも安易に出来ることであるが、蚊帳の中に入って、もしくは火中に入って栗を拾う行為というのは、そう誰でも彼でもが出来ることではないと思う。

 

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