05071302 後藤田正晴
平成17年(2005年)7月13日の朝日新聞15ページ、オピニオンのページに後藤田正晴氏のインタビュー記事が載っていた。
以前、後藤田氏、宮澤喜一氏、中曽根康弘氏に関して、これらの人々は先の戦争のPTSD(心的外傷後ストレス傷害)に罹っているという意味の拙文を残しているが、この新聞記事を読んでまたまた憤慨の気持ちが嵩じてきて再度雑文に挑戦する気が湧いてきた。
インタビューの狙いは、彼に靖国参詣問題や極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判の整合性を問うて、彼から否定的な答えを引き出そうという意図のもとに行なわれているが、それに答える彼の心の中にあるものは、やはり戦争というものを体験した、あの当時の人たちが共通にもっているPTSDが如実に現れていると思う。
彼はおん年90歳ということで、戦中は6年間も軍務に就いていたと本人が言っているが、それはそれで当然のことであろう。
だが、今、あの60年前のことを振り返ってみると、あの時代を経験した人達は等しくPTSD、つまり心的外傷後ストレス症候群を罹って、それを未だに克復できないでいるということは不思議でならない。
靖国問題に関連して、最近様々な本を読んでみたが、戦後生き残った人々は、「もうあんな苦労はこりごりだ!」、「もうあんな悲惨なことはこりごりだ!」、という気持ちが一杯で、「あんな苦労するぐらいなら死んだほうがましだ!」というぐらいまで追い詰められていたように思える。
そこで、後藤田正晴氏も復員してから、この東京裁判を傍聴したと言っていた。
その時の感想というのが「ああいう被告達に指導されていたのか!」という述懐であった、と本人は述べている。
無理もない話だと思う。
その時の後藤田氏も60年前のことで若かったろうし、自分も軍務に就いて上官の命令で動いていたことを思い浮かべれば、「あんな指導者の言うことを聞いていたのか」、「あんな指導者のために働いていたのか」、「あんな指導者のいうことを真に請けていたのか」という述懐というか、悔しさというか、自分のしてきたことの無意味さを悟ったのではないかと想像する。
だからこそ、それが心的外傷となって、その後の彼の生涯を通じ、あの時代の日本を全面否定する発想が彼の精神の根本に澱となって沈殿したのではないかと想像する。
彼らにとってみれば、あの極東国際軍事法廷・東京裁判というのは、まるで天災地変か、天からエイリアンが降ってきて旧日本軍の戦争指導者を好き勝手に懲らしめた、というふうにしか映っていないのではないかと思う。
だからその裁判の整合性などというものは考えたこともなく、天与のもので、雷か、台風か、地震と同じ様なもので、人知ではなんとも致し方ないというふうに映っていたのではないかと想像する。
その昭和の20年から21年、22年という時代の日本国民は、その数年前には軍人が意味もなく威張り散らした、軍人の天下を徹底的に遺棄していたわけで、その時の日本国民の政治指導者に対する恨み、戦争指導者に対する恨みというのは、筆舌に尽くし難いほど凝り固まっていたものと想像する。
それもある意味では致し方ないことで、あの昭和の初期の政治指導者、戦争指導者たちが、結果として日本を戦火の渦に巻き込み、敗戦に導いたわけで、その敗戦の結果として、国民は途端の苦しみを味合わされたのだから、その恨みは当然のことだ思う。
その中心には東条英機がいたわけで、彼は日米開戦の時の総理大臣だったが故に、敗戦後の風あたりも一番ひどかった。
彼は拘留されるさい、収監に来たMPの姿を見て、拳銃自殺をしようとした。
そしてそれに失敗したとき、真っ先に彼の近所の医者を呼びに行ったが、この医者は簡単な止血をしただけで帰ってしまったといわれている。
その後、収監に来たMPが自分の血液を提供して、輸血が行なわれ、一命を取り留めたとされている。
この時に駆けつけた医者は、近所に住んでいたとはいえ、個人的に東条英機という人物に相当に嫌悪感を持ち、心から怨んでいたにもかかわらず、現役中はそんなことを態度に表すことも出来なかったゆえ、日本の敗北ということで、それが露骨に態度に出たものと思う。
このお医者さんの心境が、その当時の国民の声、戦争指導者に対する当時の日本国民の態度というものを如実に表していると思う。
国家、及び国民が死に物狂いで戦ったが、結果が敗戦であれば、国家に協力した国民の感情としては、そういう為政者に憤懣が向かうのも致し方ないことであろう。
それから60年たった今日の後藤田氏の心の中には、そういう感情がかまどの残り火のように連綿と残っていたとしても何ら不思議ではない。
しかし、過去の政治の失敗に臍を噛むことと、将来の日本の歩むべき道を模索することとは全く次元の違うことであって、過去の事例から将来を判断することは間違いの元だと思う。
過去から学ぶべきことは学ばねばならないが、過去のPTSDから脱却できないまま、将来を語っても意味はないと思う。
戦争を仕掛け、その結果として敗戦という状況を作り出したのが我々の為政者であったが故に、我々はあの戦争の惨禍というものを、我が同胞の所為に帰結させているが、これは本当に仕方のないことであったのであろうか。
アメリカはあの戦争を早く終結させるために広島と長崎に原爆を使ったと言っているが、我々はそれに対してなんの抗議もすることなく、それを受け入れている。
今のわが同胞の平和主義者と称する人達は、原爆の惨禍があたかも日本の為政者の責任であるかのようなアピールをしているが、果たしてこれでいいのであろうか。
原爆を落としたのがアメリカであることが明白にもかかわらず、戦後の日本の進歩的知識人というのは、それがあたかも日本が悪かったからあの惨劇が起きたかのような口ぶりである。
こういう発想の延長線上に、極東国際軍事法廷いわゆる東京裁判を容認する思考があるのではなかろうか。
我々は、歴史というものを考えるとき往々にして「正しい」とか「正しくない」という基準、正邪、善悪、正義・不正義という価値観で見がちであるが、人間の営みの記録である歴史というものは、そういう倫理感では測り切れないものが在るように思う。
戦争という実力行使は、避けれればそれに越したことはないが、双方が国益を賭け、民族の生存が懸かっている以上、奇麗事では済まず、時と場合によっては実力行使も辞さない、という覚悟がいるものと思う。
これは「正しい」とか「正しくない」という基準、正邪、善悪、正義・不正義という価値観では計るべきことではなく、自らの生存が懸かっているわけだから、生か死の問題である。
事態が此処まで切羽詰れば、後に残された問題は、座して死を待つか、窮鼠猫を噛む式で反撃するかの道しかない筈である。
広島、長崎の原爆投下に関していえば、アメリカにはアメリカの道理があったわけで、だからといってアメリカは正しい選択をしたとはいえないと思う。
ただそのことによってアメリカはアメリカの将兵の命を100万単位で救ったということはいえる。
100万の将兵の命を助けるためならば、日本の非戦闘員を含む婦女子を殺戮することが正しい行為となりうるのであろうか。
それと同じ論理が日米開戦についてもいえるわけである。
ABCD包囲網で、我々は生存権までも奪われそうな状況に追い込まれてしまったのだから、「窮鼠猫を噛む」式で真珠湾に攻撃を仕掛けたという部分が多々あると思う。
後藤田正晴氏をはじめとする戦後生き残った同胞が、「もうあんな苦労はこりごりだ!」、「もうあんな悲惨なことはこりごりだ!」、という気持ちは十分良く理解できるが、あの時、日本が「戦争をしない」という選択をした場合は、我々は座して死を待つ道しかなかったのである。
あの戦争中の惨禍のことを思うと、「あんな苦しいことを経験するぐらいならば、座して死を待っていたほうが良かった」、という意見も出てきそうであるが、それは結果論というもので、仮にあの時の為政者がそういう態度であったとすれば、国民の側が黙っておらず、政府を批判し、恐らく実力行使ということになっていたに違いない。
あの時の為政者というのは何も好き好んで戦争をしたわけではない。
日米開戦でも最後の最後まで戦争回避の手法を探っていたではないか。
それよりも前に、我々日本人はアメリカのルーズベルト大統領というものをもっともっと糾弾しなければならないと思う。
今更アメリカ大統領を糾弾したりすれば、それこそ内政干渉になるであろうが、自虐史観にとらわれるよりも、もっともっと大きな目で世界というものを敷衍的に見なければならないと思う。
広島、長崎の原爆も、極東国際軍事法廷いわゆる東京裁判も、その根源的な思考はフラックリン・ルーズベルトに端を発していることを知らなければならない。
極東国際軍事法廷いわゆる東京裁判は、戦争というものを通して個人を裁いたものであるが、世界人類のために本当に裁かれるべきはフラックリン・ルーズベルトでなければならない。
ところが彼は戦勝国側なるが故に、誰もそれを裁けないでいる。
ここに「勝者は正義」だという、擬似正義が罷り通ることになった。
後藤田正晴、宮澤喜一、中曽根康弘等々の日本の政治家の重鎮達も、そこに気がついていない。
「勝者は正義」だという擬似正義によって目くらまし受けているのに、そのことに一向に気がつこうとしていない。
日米開戦、日米戦争、対米戦争、太平洋戦争、大東亜戦争というのは完全に我々・日本民族が騙され、欺かれ、嵌められた戦争である。
誰が日本を嵌めたかといえば、フラックリン・ルーズベルトその人である。
彼は日本を罠に嵌めたが、ハワイのアメリカ太平洋艦隊司令長官キンメル大将をも騙して、日本が攻撃するという情報を彼にだけは与えていなかった。
情報を与えられなかったキンメル大将は、日本の攻撃の防御の手はずが出来ず、膨大な被害をこうむったが、ルーズベルト大統領は日本にそれをさせるのが狙いであったわけで、そのためには味方さえ騙していたことになる。
我々は騙されたとも知らず、嵌められたとも知らず、「勝った勝った!」と有頂天になっていたわけで、その陳腐さに何故戦後の進歩的知識人は目覚めないのであろう。
ルーズベルトの策略の結果として、日本人は残虐で、卑怯な民族だ、というイメージをアメリカのみならず全世界にばら撒かれてしまったのである。
彼のこの行為はアメリカ海軍とアメリカ国民の双方をも騙したことになる。
フラックリン・ルーズベルトという人物は、完全なる人種差別主義者であって、日本人などサルと同じ程度にしか見ていなかったものと考える。
彼は、実力行使の手段としての戦争に訴える前から、徐々に日本という民族を締め上げてきたわけで、何故に彼が日本人と日本民族にそれほどまでに嫌悪感を募らせたかといえば、それは我が民族の勤勉性によっていると思う。
我々がシナ人のように曖昧模糊として、掴み所のない、名誉も誇りも意に介さず、国土が蚕食されてもなんとも思わない民族ならば、彼もこれほどの嫌悪感を露にしなかったかもしれない。
事実、アメリカはこの時期中国に対しては軍事援助さえしているわけで、彼は黄色人種の全部を嫌っていたわけではなく、日本人、日本民族を嫌っていたのである。
彼がアメリカという大地で、日本民族というものを眺めたとき、これらに、つまり日本民族というものが世界を席巻してしまうのではないかという危惧を抱いたからだと思う。
そういう危惧を抱いた彼は、まず最初に日系移民の締め出しを画策し、それと同時にアジア大陸、つまりシナにおける日本の行動を牽制し始めたのである。
彼の頭の中には、世界はそのうちに日本人に全部盗られてしまうのではないか、という心配があったものと推察する。
というのも、あの時代、日本の年号でいえば昭和の初期の時代に、黄色人種の中で自前で軍艦を作り、飛行機を作る民族というのは日本しかなかったわけで、そういう能力こそがフラックリン・ルーズベルトの人種差別を助長したのではないかと想像する。
結果的に、彼は人種差別主義なるが故に、日本人をサル並みにしか見ていなかったからこそ、広島、長崎に原爆を投下してもなんら良心の呵責に応えなかったのである。
正確にいえば、原爆投下のときには彼は既に死んでいて、実際はトルーマンであったが、トルーマンは前任者の軌道を踏襲したに過ぎないと思う。
あの第2次世界大戦のとき、人種差別主義者というのはなにもルーズベルト一人であったわけではない。
連合国、いわゆる西洋先進国、イギリス、フランス、オランダ、オーストラリアという国々は、国家としても人種的偏見に凝り固まっていたわけで、ルーズベルト大統領一人が極端な人種差別主義者であったわけではないが、日本がアジアを席巻したことで、こういう人種差別主義者に虐げられていたアジアの諸民族が、民族の自意識に目覚めた意義は大きいと思う。
問題は、後藤田氏のような戦後政治の重鎮が、あの極東国際軍事法廷いわゆる東京裁判を素直に受け入れ、「戦勝国の国民を納得させるための勝者の知恵だ」と言い切っている点である。
これこそ戦後の自虐史観の萌芽ではなかろうか。
13日の対談では他にもこれに類するところが随所にある。
「負け惜しみの理屈は止めたほうがいい」とか「裁判の結果を受け入れた以上、それに今更異議を唱えるようなことをしたら、国際社会で信用されるわけがない」とか、(小泉首相が靖国神社に参詣すると)「サンフランシスコ講和条約を守る意志がないということになる」などと言っているが、これほど自虐史観にさいなまれた言葉もないと思う。
これこそ戦後を生き延びた日本人の陥ったPTSDだと思う。
左翼陣営の言っていることと本質的には全く同じことを言っているではないか。
彼らは若いとき、それこそ一途な思いで日本の勝利を信じて戦ったと思うが、その結果として、心ならずも思いもしなかった敗戦という状況を受け入れなければならず、その真の理由を探りに極東国際軍事法廷まで傍聴に行ったところ、そこで裁かれていた彼らの指導者の姿を見て愕然とした、ということはよく理解できる。
少なくとも、敗戦の原因は、彼らの政治と作戦の失敗の結果であることに間違いはないが、その後の日本再生ということを考えれば、そこでPTSDに罹ったままではならないと思う。
昭和20年のあの焼け野原の東京の姿を見れば、これを再生させることは、あの戦争に生き残った人々の使命であることになんびとも疑いの余地はなかったと思う。
そのためには、彼らを指導した人達のことを徹底的に調べ、同じ失敗を繰り返してはならないと、失敗から何かを学ぶ精神がなければならなかった。
失敗の原因を探求することと、占領政策を受け入れることはまったく別の次元の問題だ。
あの状況下で、我々は生きんがためには目の前の勝者の占領政策を受け入れなければならないことはいうまでも無いが、それと精神まで敵側に売り渡すこととはまったく別の問題だと思う。
あの裁判で、11人の判事の中でただ一人日本無罪論を展開した判事がいた。
インドのラダ・ビノード・パール判事であるが、彼は徹頭徹尾、日本は国際法に照らして侵略国家ではなかったと言い続けて、西洋列強の帝国主的植民地支配を糾弾しつつ、日本を擁護し続けた。
東京裁判では彼の意見は採択されることはなかったが、今では彼の判断が正しかったことが世界的に認められている。
占領当事者であるマッカアサーを筆頭に、ウエッブ裁判長から、キーナン検事長までが、あの裁判に疑義を露にしている中で、何故に我々の側があれを無批判に受け入れなければならないのかと問いたい。
世界の目が、極東国際軍事法廷は無意味であったと認めたとしても、戦後に残された我々の立場としては、我々を塗炭の苦しみの中に突き落とした同胞を許すことができない、だからあれでいいのだという論法はあまりにも感情論に走りすぎていると思う。
パール判事は日本に好意を寄せていたから、日本贔屓だったから、日本無罪論を展開したのではない、と本人は言っている。
ならば何を根拠に日本無罪論を展開したのかといえば、それは「真の正義」だということだ。
「真の正義」を突き詰めていくと、かってアジアを席巻した西洋列強の行為、帝国主義的植民地支配がことごとく日本のした行為以上に「悪」であったという点から、連合国は日本を裁く権利がないと結論つけているのである。
日本の軍隊がアジアの国々で快く迎えられたといっているわけではなく、悪いこともしたが、それは西洋列強のしたことと較べればものの数には入らないという意味で、連合国は日本を裁く立場にはなり得ないといっている。
彼の変わることない信念は、国際法に照らして、極東国際軍事法廷が日本を裁くに値するかどうか、国際法に照らして日本のとった行為が正しいか否か、を問うているわけで、彼は法・国際法を基準にして物事を考えているのであって、戦中の日本の行為を全面的に容認しているわけではない。
日本のした行為を裁く法が確定していない以上、それでもって日本を裁くことができないといっているのである。
日本のしたことが全部「善」であったといっているわけではない。
此処を履き違えてはならないと思う。
裁くべき法が無いから裁けない、といっているだけで、行為そのものを是認しているわけではない。
パール判事の母国がインドということで、インドはイギリスに200年にわたって植民地支配されていた経緯から、黄色人種として西洋人・コーカソイド系の白人に対する敵愾心がそういう考え方をなさしめたかもしれないが、彼の論理は当初占領軍が公表させなかったにもかかわらず、学会では広く受け入れられて、それの正しさを多くの人が認めるところとなった。
先に、歴史を「正邪」、「善悪」、「良し悪し」で測ってはならないと述べたが、我々の場合、その機軸がその場の雰囲気、ムード、感情によって右に揺れたり左に揺れたりするので、「真の正義」という一本筋の通った機軸になる概念そのものがないから、そういうことになるわけで、あの戦後の時期に我々は占領軍に逆らっては生きていけなかったことも事実だと思う。
そのことを「正邪」、「善悪」、「良し悪し」で測ることは出来ないと思うが、戦時中、我々はアジアで残虐非道なことばかりしてきたのだから、勝った側に対して何一つものをいうことも憚れる、と自虐的になるということは問題の次元が違うと思う。
戦時中、我々の軍隊はアジアで極悪非道なことをしていた、という事を我々自身で検証もせず、一方的に相手のいうことを鵜呑みにすること自体がPTSDに罹っている証拠である。
東京裁判が連合国側の証拠のみを検証して、弁護側の証拠は総て却下していた事実から見ても、この裁判の整合性が極めて疑わしいにもかかわらず、問題のすり替えの元のところに、この極東国際軍事法廷、東京裁判史観というものが横たわっている。
ところがパール判事の場合は、国際法というものを基準に、日本の国家の施策としての戦争を眺めているわけで、確かに戦争犯罪というものはこの当時でも存在していたが、平和に対する罪とか、人道に対する罪という概念は、この当時にはまだなかったのだから、それで日本を裁くということは不合理だ、といっているわけである。
昭和の初期の段階から戦争の終わった昭和20年9月(降伏文書の調印は9月2日)までの日本国家としての行為は、侵略にはあたらないというわけである。
それを侵略というならば西洋列強、西洋先進国、連合国の全部が同じことをしているではないかというわけである。
ところが、その不合理を押し付けられた我々は、アメリカ軍の占領政策というものを意図も簡単に受け入れてしまったわけで、あの占領下では負けた側の国民として自主性の出せる余地は全くないと思い込んでしまったのである。
あの裁判の最中に、アメリカの軍人であの当時の日本とドイツを往復した人物がいた。
以下は、菅原祐 著 「東京裁判の正体」 231ページから抜粋したものである。
占領下における日独比較論
以下東京裁判中、ドイツを視察して帰ってきたアメリカ軍のある将校の話である。
日本人は日本精神とか大和魂というが、自分の見たところでは精神復興もドイツが先ではないかと思う。
ドイツ人は占領軍に対しても、お前達3等国民がわれわれ1等国民を統御するなんて笑止千万だといった態度で冷笑している。
ニュルンベルグ法廷でも、被告達は判事や検事を睨みつけて、死刑でも何でもやれるものならやってみろ、という態度をしている。
もちろんドイツの町にもパンパンはいる。
しかし、日本のパンパンのように、アメリカ兵の腕にすがって、誇らしげに空を仰いで、大道を闊歩はしていない。
いかにも恥ずかしそうに下を向いて、ドイツ青年の目を避けて歩いている。
ドイツや日本に限らない、世界のいたるところ、女が食えなくなると、最後のものを売って命をつなぐが、ドイツの女たちの違うところは「生きるために肉体は売るが魂は売らぬ、いわんや国家に対する忠誠心は断じて売らぬ」というのが彼女たちの心意気であり、共通の台詞である。
これに引き換え日本の有様はどうか。
両家の子女までがチュインガムを噛んで、ケバケバしい化粧をして得々としているではないか。
女ばかりではない。男までがパンパンのように4等国民になりさがって、民族の誇りも伝統も捨て去って、乞食や奴隷のまねをしているではないか。
われわれに手引きをしてくれる投書や密告者も、われわれには重宝だが、日本人としてはこれでよいのか。
ドイツの労働者たちは、敗戦国民が戦勝国民と同等に働いて再建が出来るか、と夜に日をついで働いている。
ストに明け暮れている日本の労働者とは覚悟が違う。
資本家も、祖国再建のためには利益が無くとも資本を投下している。
政治家もアデナウワー以下、命がけで真剣にやっている。
これではご自慢の精神復古もドイツのほうが先のようだね
以上の文章は翻訳されたものとはいえ、アメリカ人が日本とドイツを比較した感想である。
実に我々にとっては耳の痛い話だと思う。
こういう事実を後藤田正晴、宮澤喜一、中曽根康弘たちはどういう気持ちで感じ取っていたのであろうか。
加藤周一、色川大吉、小田実、大江健三郎等々の左翼系の知的文化人はどういう気持ちで聞くのであろう。
パンパンの例が如実に示しているように、このパンパンの部分に、これらの人の名前を入れて考えた場合どういうことになるのであろう。
占領軍であるところのアメリカ兵の腕にぶら下がって、ケバケバしい化粧に身を包み、チュウインガムを噛みながら、青空の下を恥ずかしげも無く闊歩するパンパンと、これらの人物の顔が合わさってくるのは私だけであろうか。
敗戦に導いていった我々の同胞を怨む気持ちは判らないでもないが、それは窮鼠が猫を噛んだ結果であって、猫を噛まねばならないほど追い込まれた我々の同胞をどうすればよかったのであろう。
あの状況で、仮に対米戦をしなくても、遅かれ早かれ我々は死に直面するわけで、戦っても死、戦わなくても死となれば、死に物狂いで戦う選択をするのが人として当然の行為ではなかろうか。
パール博士はそこを就いているからこそ、日本は無罪だといっているのである。
しかし、戦後の日本人は、最初から戦わずして死を選択する方をとろうとし、「それは同胞の政治家が悪いからだそういうふうになるのだ」と結論つけようとし、それだからこそ民族の誇りや、伝統や、価値観が問われるのである。
戦後の一時期の日本人は、まさしくアメリカ兵の腕にぶら下がったパンパンと全く同じ精神構造に飼いならされていた。
「飼いならされた」といえば、他動的な印象を受け、何か強いものから強制的に仕付けられたという印象を受けるが、実際は、自ら進んで尻尾を振りながら擦り寄っていった、という部分が顕著に見受けられた。
目の前の体制に素直に順応するということは、ある意味では民族の優れた面でもある。
国家の興隆、即ち民族の興隆が右肩上がりの時はそれが非常に有機的に機能するが、右肩下がりのときにも、それは同じ様に機能するにもかかわらず、その時には国民の側から大きな不満が噴出するわけである。
パイが大きくなりつつあるときは、少々の不満もパイの成長率が飲み込んでしまうが、パイが小さくなるときには、それこそ不平不燃を吸収する場も無くなるわけで、それが露骨に表面化してしまう。
しかし、人間性の優れた部分というのは、こういうときにこそ表面に露呈してくるわけで、状況が変わったからといって、不平不満を一挙に表面に出すという行為は、人間として実に見下げた忌むべき行為だと思う。
我々は民族としてこういう考え方を深層心理の奥底に秘めていたのではなかろうか。
だから、あの戦争で我が国民を敗戦に導いた同胞を、同胞の手で縛り首にするに偲びず、「勝者の知恵」ということで、それを占領軍がしてしまったので、図らずも自らの手を汚すことを回避したのではなかろうか。
しかし、此処には「真の法規」というものが、それこそ実行力のある存在として登場していないわけで、人間の集団としての極自然人の感情的な発想で、アメリカ西部劇で出てくるリンチの構図と同じということである。
リンチは、野蛮な人間の野蛮な意趣返しに他ならず、法が普遍化する前の擬似正義の施行であって、現在ではなんびとも法によって裁かれるべきで、法律に定められていないことは裁けないというのが普遍的な倫理になっている。
しかし、法というものは常に人間の行為の後からついてくるもののようだ。
パール博士のいう「事後法で人を裁けない」ということであれば、一番最初に悪事をしたものは裁判で無罪になるということになる。
法というものは、最初の悪事を教訓にして生まれるわけで、戦前の日本で共産主義の蔓延を防ぐために治安維持法が制定されたが、日本に共産主義というもの入ってこなければ、この法律も生まれることはなかった。
戦後の評価では、この治安維持法はもっとも忌むべき法律で、最悪の法律ということになっているが、ならば日本の青年が皆が皆、共産主義に毒されてもかまわないのかということになる。
戦後はこの法律が廃止されたので、日本の社会は大混乱を来たしたではないか。
治安維持法が拡大解釈されて、罪もない人が拷問とうの被害を受けたから、この法律は駄目だ、という論法が罷りとおっているが、思想・信条の自由が拡大解釈されて、共産主義者のオルグ活動が白昼堂々と行なわれ、内ゲバとか、社会基盤の公然たる破壊が行なわれているではないか。
この事実は、人というものは法律を自分の都合に合わせて都合のいいように利用しようとするということである。
自分の都合に合わせて都合よく使えないと、「戦前には治安維持法があったから自由にものがいえなかった、だから戦争に嵌り込んだ」、という論法で、責任を他に転嫁するわけである。
確かに、戦前には治安維持法があったから自由にものが言えなかったのも事実であろう、戦後はGHQがあったから思う様に出来なかったのも事実であろう。
ならば、そういう外圧がなくなった時点には少しは元に復そうという気概があっても不思議ではないはずである。
精神の復元力が効いてもいいと思うが、これが全くないのである。
GHQがいた時は、お互いに生きんがために彼らの顔色を下から上目使いに伺いながら生きなければならなかったかもしれないが、1951年、昭和27年9月にサンフランシスコ対日講和会議で日本の独立が承認されたならば、当然、自主的な国家運営に復帰せねばならなかったと思う。
約6年間にも及ぶ占領政策の中で、あの戦争で生き残った日本人は、見事に金玉を抜かれ、愛国心を喪失し、民族の誇りを投げ捨て、目前の利得の追求のみに生きるように骨抜きにされてしまったわけである。
まさしくアメリカ兵の腕にぶらさがるパンパンそのものである。
それは戦前にフランクリン・ルーズベルトの考えていたことの完全なる成功であったわけで、彼はそのことを夢見ており、それは日本を焦土と化し、2発の原爆投下で見事に彼の夢が結実した。
日本人、大和民族を完全に骨抜きにし、金玉を抜いてしまうことは、実に世界平和に貢献することでもあったわけである。
西洋列強の究極の願望であったわけで、それは同時に世界が最も望む所でもあったし、旧連合国の究極の戦争目的でもあったわけである。
ある意味で、我々も名誉や誇りで飯が食えるわけでもないので、徹底的にエコノミック・アニマルに徹しておれば、不要な流血ということをせずに済む。
後藤田正晴、宮澤喜一、中曽根康弘クラスの人物ならば、こういう状況は十分に判っていたものと思うが、判っていたからこそ彼らは戦後こういう道、即ち西洋列強が日本民族を骨抜きにしようとするその思考を素直に受け入れ、それに逆らうことを拒否し、自主性というものを内に押さえ込んで、目前の安全と平和を享受する選択をしたのである。
そしてそれは「もう二度とこんな苦労はしたくない」という戦後に生き残った国民の願望とも一致していたので、彼らは政治家たり得たのである。
しかし、一国のリーダーたるべきものが、自分の国の名誉とか誇りというものをきちんと明示しないということは、まわりまわって、その国の国民全般にわたる国益というものに跳ね返ってくるものと考える。
例えば、卑近な例でいえば、中国や韓国が内政干渉がましいことを言ってくるのに、こちら側がそれを黙殺、乃至は反駁を加えずにいたら、先方の内政干渉はますますエスカレートしてくるのは必定である。
最初は些細な教科書の記述の仕方の問題だったとしても、それが次の段階では在留邦人の扱いの問題に展開したり、進出企業に対する圧迫の問題にすり変わってくることは必定である。
こちら側に国益があるとすれば、当然、先方には先方の国益があるわけで、日本の教科書に中国や韓国が嘴を入れてくるということは、すでに先方の国益を日本に対して実践しているということである。
彼らの国益とはなんだといえば、日本に対して「我々はこれほど強い態度で臨んでいるので、日本は我々の言うことを素直に聞き入れた。だからもっともっと頑張って国益を伸張しましょう」ということになるわけで、彼らは彼らの国威掲揚に大いに貢献しているのである。
そしてこれが度重なってくると、究極的に金の問題に行き着くわけで、先方は最後は金を要求するということになる。
日本が昭和20年のまま、1945年のまま、戦争が終わった時の状態のまま、つまり東京も名古屋も焼け野原で、町には焼け爛れたビルがあり、電線は垂れ下がり、走っている電車の窓には木片が打ちつけてあるような状態ならば、中国も韓国も日本の教科書のことなど何ら問題にすることもなかったに違いない。
ところが戦争が終わった時には、焼け野原で見渡すかぎり荒涼とした廃墟であったものが、戦後60年たってみると、勝った側よりも数段と興隆しているわけで、勝った側としては、自分たちで昔の軍国主義の日本の戦争指導者、政治指導者を縛り首にしておいたにもかかわらず、これは一体どういうことだ、という疑念を彼らは当然持ったに違いない。
その状況がメデイアの発達で、彼らの国民にも知れ渡ると、彼らの指導者としては、「何とかしてこの繁栄を誇っている日本に一泡吹かせておかなければならない」、という思いに駆られるのも必然的な流れだと思う。
中国や韓国から教科書の問題で内政干渉がましいことを言われ、その相手の言う事を検証もせずに受け入れるということは、第2、第3の内政干渉を引き起こすということを知らなければならない。
この時に、かって連合国が我々に押し付けた価値観に呪縛されたままことに当たると、我々は国益を損なうことになってしまう。
国益というと何か大げさな感じがして、一般国民の生活と掛けはなられたものに感じがちであるが、今の拉致被害者の問題はきわめて具体的に国益が犯されている例で、あれを究極的に解決するには最終的には金を渡すか、戦争するかしかない。
今の日本では戦争で事を解決するという選択肢はありえないと考えるので、最終的には金を払うということになろうが、そうすると文字通り「泥棒に追い銭」ということを容認することになってしまう。
人類の倫理観の上からは決して許されることではないが、今の日本人の感覚からすれば、「人命は地球より重いのだから政府は金を出してでも拉致された人を取り返せ」という結論になると思う。
問題は、日本が戦後の60年間でアメリカに次ぐ経済大国になってしまったものだから、アジアの周辺諸国は何かと日本の金を充てにしているわけで、その金目当てにあらゆるイチャモンをつけてきているにもかかわらず、我々は「金持ち喧嘩せず」で生きて行こうとしていることである。
我々は、明治維新以降、富国強兵を国是として満州帝国まで作り上げて、日本人、大和民族としての究極の夢を目の前にして、1945年、昭和20年というときに、それを奇麗さっぱり御破算にして、見事に木っ端微塵に喪失してしまった。
そして、それから60年という歳月を経ることで、戦前の明治維新以降の夢を見事に実現したということは一体どういうことなのであろう。
敗戦という外圧を受けて、我々はこの地球上で例のない特異な国、自分で自分の身を守ることを放棄した特異な国として、身を守るべき費用を何ら負担することなく来たからであろうか。
自分たちの価値基準の元となる憲法の制定を他国に委ね、それを有難く受け入れてきたので、祖国愛、民族の誇り、祖国の名誉というものを放棄したため、その分経済発展に力を傾注することがで来たからであろうか。
しかし、我々が20世紀の後半にアメリカに次ぐ経済大国になってからのアジア諸国の日本叩きというのは、戦前の西洋列強の黄化論と酷似しているわけで、戦前も我々は一等国を目指し、それを目標に西洋列強に挑戦したら、西洋列強のほうで過剰反応を起こし、日本に対する袋叩きの心情が普遍化したことと類似している。
世界的な規模で見て、日本が地球規模で世界一になろうとすると、必ずどこかの国がそれを押さえつけようと我々の前に立ちはだかる構図をよくよく注視しなければならない。
戦前、昭和の初期の時代には、日本の発展の前に立ちはだかったのは西洋列強、コーカソイド系の白人達であった。
白人の立場から見て、「黄色人種の日本人に負けてたまるか」という人種的偏見があの戦争の遠因にはあると思う。
そして結果的には、西洋列強、つまりコーカソイド系の白人達は、彼らの目的を見事に達成して、黄色人種の日本の発展を一度は阻止しえたのである。
ところが、あの熾烈な戦いが終わって見ると、黄色人種、つまり今まで西洋人に植民地支配されていたアジアの人々は、「日本人があれだけ出来るのなら我々も同じことが可能ではないか」という自覚に目覚めたわけである。
そうなってみると、白人の帝国主義、コーカソイド系の人々の植民地支配も大きなうねりに翻弄されて、もう過去の栄光に浸っておれなくなって、新しい時代が登場することになった。
ところが、この新しい時代というのは共産主義にフォロー・アップされた部分が非常に大きい。
それというのも、貧富の差を出来るだけ早い期間に解消しようということになれば、共産主義によって、上からの強制的な改革が必要なわけで、これらの人々が民主主義に目覚める時期を悠長に待っておれなかったから、こういう地域では共産主義がある程度伸張することは致し方なかった。
戦後の日本も、進駐してきた米軍が、かっての共産主義者たちを解放してしまったので、その意味からすれば、米軍、即ちGHQの指令としての占領政策も、実質的には共産主義者のする赤色革命とほとんど同じだった。
日本の旧体制から見れば、GHQの推し進める改革というのは、共産党の推し進めるものと何ら変わることがなかったと思う。
日本共産党がすべきことをGHQがしてしまったようなものだと思う。
そして国際軍事法廷つまり東京裁判というのも、共産党が革命で政権をとたっときの人民裁判と全く同じ構図であったわけで、裁判の整合性など最初から問題外であったにもかかわらず、後藤田正晴、宮澤喜一、中曽根康弘クラスの戦後の政治家としての重鎮達も、当時は皆これを嬉々として受け入れたわけである。
復員してきて、国際軍事法廷を傍聴した後藤田正晴氏は、そこで裁かれているかっての政治指導者を見て、「こんな人物に指導されていたのか!」という述懐というか、感慨というか、やるせない気持ちでそれを聞いていたと本人が述べている。
しかれども、本当に敗戦の責任者を自分たちで裁き、責任を追求しなければならない、という発想は微塵も湧いていないわけで、戦勝国のしたことを素直に受け入れているということは一体どう考えたらいいのであろう。
この疑問は、彼ひとりではなく、宮澤喜一氏にも中曽根康弘氏にも当然同じ比重で覆いかぶさっているはずであるが、彼らはその問題に対してコメントを残していない。
此処には、やはり負けるような戦争を指導した為政者達も自分と同じ同胞だからというわけで、責任の追及を曖昧にする村意識が垣間見えている、ということではないかと思う。
政治の失敗ということは刑事犯ではないわけで、失敗したからといって刑罰があるわけではなく、本人が辞職すればそれ以上の追及はしない、というのが我々の責任の取り方であったのではなかろうか。
仮に、軍人の例で言えば、自分の企画した作戦が失敗であって、多くの将兵が意味もなく死んだとしても、作戦を失敗したからといって、それを刑事犯として告発できないのと同じではなかろうか。
同じことが政治家についても言えるわけで、政治、外交で失敗したからといって、それを刑事犯として裁くことはありえない話だと思う。
戦勝国は我々とは立場が違うから、そのありえないことを強引にしたわけであるが、インドのパール判事は、そこを注視して、日本は外交と政治に失敗したとしても、侵略の意図はなかった、といっているのである。
がしかし、極東国際軍事法廷いわゆる東京裁判というのは、我々の側の外交と政治の失敗を刑事罰に匹敵すると結論つけたのである。
こんな不合理、不条理は後藤田氏クラスの人間ならば当然判っている筈だと思うが、判っているからこそ、それを受け入れ、エコノミック・アニマルに徹しようと努めているのであろうか。
中国や韓国から何を言われようとも、我々が富を失うことがなければ、現在の生活が後戻りすることがなければ、それでいいのではないかという発想であろうか。
これこそ究極のパンパン思考ではないのか。
この自虐史観というのは我々が同胞を信じない、信じてはならない、同胞のすることに常に懐疑的であれ、という典型的な表現だと思う。
戦前、戦中の我々一般庶民に広範に広がっていた軍国主義というのは、いわば「バスに乗り遅れるな」式の付和雷同的な挙国一致の運動であったが、戦後はその民族的エネルギーのベクトルが逆向きになったので、為政者、特に政局を司る人々に対しては、ことごとく反対することが世間の潮流になってしまった。
世間の潮流になるということは、その時代の価値観で格好が良いということではないかと思う。
戦前では日本人の誰もが軍人にあこがれ、軍人になることが夢であり、村一番の秀才、町一番の秀才が、その誉れをほしいままにしたが、それこそその時代では格好良い生き方であった。
国民の思考のベクトルが逆向きになったとはいえ、その潮流としての本質は、付和雷同的な「バスに乗り遅れるな」式の民族的精神構造にあることは、戦前も戦後も何ら変わるものではない。
後藤田正晴、宮澤喜一、中曽根康弘等々の戦後の日本の政治家の重鎮達のなかで、宮澤喜一氏に軍歴があるかどうかはしらないが、他の二人は立派に軍歴があるわけで、そういう人だからこそ極東国際軍事法廷の不合理、不条理を声を大にして語らねばならないのではないか。
過去に固執するわけではないが、歴史としてあの時代に日本が置かれた真の在り方、真実の姿というものを善悪を抜きにして語り継がねばならないのではなかろうか。
昭和の初期に日本の置かれた立場というものを真に理解すれば、極東国際軍事法廷、東京裁判をそう安易に受け入れることはできないはずである。
「我々は負けたのだから仕方がない」ではあまりにも無責任だと思うし、勝者の価値観をあっさり飲むなどということは、民族の誇りと名誉が許さないのではなかろうか。
国と国が戦争をするということは遊びではないわけで、双方とも全国力を傾注して戦っているが、結果として当然勝ち負けがある。
しかし、国と国が全国力を傾注して戦うという場合、ここには「正義」とか「善悪」とか「良し悪し」という問題は微塵もないわけで、あるのは民族の名誉と、誇りと、価値観の維持があるだけで、そのために生死を賭けて戦うわけである。
結果として、当然、勝ち負けはある。
負ければ当然、民族の名誉も、誇りも、価値観も地に落ち、悔しさと悔悟の気持ちしか残らないだろうが、それでも人々は戦うのである。
ところが戦後の我々にはこういうものが一切ない。
これは一体どういうことなのであろう。
戦後の我々は、アメリカという核超大国の庇護のもとに生かされているので、自らを守るということを自分の脳で考えたことがない。
親の愛情に見守られて、すくすくと育った純情無垢な子供のようなもので、ちょっとしたいたずらをするとすぐに親としてのアメリカが軌道修正してくれるので、我々はのうのうとのんびり生きてこれたのである。
北朝鮮による拉致被害者の問題でも,普通の主権国家ならば実力で攫われた人を取り返すところであるが、我々はアメリカから突き放されるのが怖いので、何かとアメリカに解決してもらおうと上目使いに下から様子を眺めているが、アメリカだとて日本人の10人や20人攫われたところで、そんなことは日本が自分で解決すべきだと突き放している。
戦後の我々はもう2度とアメリカと戦争する勇気も、実力も、気力も、覇気もない。
アメリカばかりではなく、世界のどの国ともそういうことをしたくないと思っている。
意味もなく戦争するだけが男気ではないが、人として金玉を抜かれてのほほんとしていては男気もへちまもないと思う。
ただ我々は、戦後余りにも繁栄しすぎて、今の享楽を失うのが怖くて、「金持ち喧嘩せず」の心境に至っているのではないかと思う。
些細なことで喧嘩して命を失うよりも、金持ちならば何事も金で解決できれば金で解決すればいい、という発想に至っているのではないかと思う。
だから中国でも韓国でもこの日本の本音を知っているからこそ、教科書に嘴を入れ、靖国神社に参詣することに異議を差し挟んで来るのである。
そのことは相手も自ら国益を考えて外交戦略として言っているわけで、そこで我々の側で相手の言う事に賛意を表すような同胞がいるとすれば、相手としては鬼に金棒なわけである。
敵対する相手に自分の味方がいるようなものではないか。
相手が外交戦略としてそういうことを言ってきたら、我々の側としては国民が一致して相手の言う事を詰るという態度に出れば、相手も「これは言っても無駄だ」ということに気付くが、我々の側で、「そうだそうだ!」とエールを贈るような発言が出れば、相手として益々この問題をエスカレートしてくるのは必定である。
靖国神社の問題で、河野洋平が首相経験者に会って、意見の集約し小泉首相に迫ったということはこういうことであって、まるまる中国の国益に奉仕しているということに他ならない。
戦後の日本が、こういう発想のリーダーに率いられてきたので、原爆は落とされっぱなしで、ソ連の抑留では何一つ補償が得られず、北方4島も帰らず、北朝鮮の拉致問題では解決の糸口さえ見出せず、中国や韓国から教科書問題まで嘴を入れられる状況になっているのである。
私のとってこの状況は、後藤田氏が復員してきて極東国際軍事法廷を傍聴したときの述懐と全く同じものを感ずる。
戦争中もさることながら、戦後60年の日本の政治というもの見ても、我々は政治ということには非常に稚拙な民族だと思う。
連合国最高司令官のマッカアサー元帥がいみじくも言ったように、我々の民主政治というのは12歳の子供に等しいというのはまさしく至言だと思う。
我々、日本民族、大和民族というのは、ものつくりには長けているが、こと政治に関するかぎり、12歳の子供と言われても仕方がない体たらくである。
戦後60年たっても一向に改まるものではなく、これは我々の民族の持つ本質的なものかもしれない。
戦前において、東条英機内閣が対米戦の火蓋を切ったので、彼は未曾有の悪者に仕立てられているが、彼とても「俺が!俺が!」と、人を押しのけて総理大臣にしゃしゃり出たわけではなく、重臣から指名されて、それを受けてなったわけで、総理のイスに固執したわけではない。
戦局が傾くとあっさりとイスを明け渡している。
ことほど左様に、我々同胞の為政者は他の国の政治家のようにそのイスに固執する人というのは極力少ない。
ある意味で、権力に淡白ともいえるが、別の意地悪な見方をすれば、責任の分散ということも言える。
問題は、権力に固執するかしないかではなく、ことを決めるのにどういう過程を経るかということである。
他所の国の政治の状況を詳しく知っているわけではないが、恐らく進歩的な民主国家では、単純な多数決原理でことが決まると思う。
その多数決原理が、何処まで公明正大に浸透しているかということだろうと思う。
それと多数の意見を集約するのに如何なる手法、趣向で意見の集約をしているかということである。
我々の場合は、古来から「和をもって尊としとする」精神が連綿と生き続いているので、多数決原理で一刀両断にばっさりとことを決することには忸怩たる思いが残ってしまう。
だから「少数意見も尊重せよ」ということになって、ことがスムースに決しきれないという面がある。
我々は農耕民族なるが故に、集落単位で農耕を営む慣習から完全には脱皮できず、それはある意味の村社会を形成しがちだ。
村社会の形成ということは、村の中の個人の意志を尊重するよりも、村全体の利益を優先させる考え方をするわけで、その部分に「和」の精神が強調されるということだ。
だから、この村社会の中では、多数決原理というのは機能しないわけで、何となく長老のいうことに従うことによって村社会の調和が保たれ、そのことがある意味で秩序にもなっているわけで、それは歴然たる上意下達のシステムとは相容れない態様となっている。
絶対的な権力者が有無を言わせず上から命令するという風にはならないわけで、誰が命令権者で、誰がそれに服従する立場か、ということが曖昧になっているのである。
村社会の中では、命令権を持つ立場も回りもちで、つまり権力者の立場そのものが回りもちなものだから、あるときは命令権者足りうるが、ある時は自分も服さねばならない立場になる。
自分が命令する立場のときに、有頂天になってあまりひどいことをしておくと、立場が逆になった時には、仕返しがあり、跳ね返りがあり、しっぺ返しが来るので、必然的にあまり極端なことは控えるということになる。
しかし、小さな村の場合はそれで済んでいたが、これが国家規模におおきくなると、村社会と村社会のぶつかり合いになってしまうわけで、政情というのは混沌としてしまうのである。
そういう観点で昭和の初期の日本の政治というものを見てみると、政府と、軍部と、官僚とが三巴の抗争を繰り返していたわけで、相互に協調ということがなかったものだから結果として戦争に負けるということになったものと考える。
その上、軍人出身の政治家、軍人出身の官僚というものがあまりにも多く、軍人と政治家の峻別さえ出来ない状況になっていた。
そしてこういう人達、つまり当時の日本のリーダー達の議論というのが、政治の本質を忘れ、国の舵取りという使命を忘れ、出身母体の名誉とか、卒業年次とか、成績とか、先輩・後輩という序列で人事をしていたので、国として傾くのも致しかたない。
民主政治で国政が執り行われるということは、国をつかさどる人達が、トラブルを解消するのに話し合いで、その問題の本質を語り合って、その語り合った結論として多数決があるわけで、何かの法案を作ったり、ことを決するときには、人間の集団である限り、賛否両論が出るのは自然の流れだと思う。
その賛否を語りあって、全体の利益としては、どちらを採用するかを決することだと思う。
その過程ではお互いに語り合い、話し合わなければならないが、その話し合いは当然のこと問題の本質に付いて喧々諤々の議論をして、相手を納得させるものでなければならない。
それで、西洋列強の言語というのは、こういう場合に相手を説得させるには非常に適しており、彼らも相手を説得する話し方というものを習得して、常にそれに磨きを掛ける努力をしている。
ところが、我々、日本人、大和民族というのは、幸か不幸か同一民族に極めて近い人間の集団なものだから、以心伝心ということが潜在意識として刷り込まれてしまっている。
だから、相手を完璧にまで言い負かすことははしたない行為という風に思い、品のない行為だ、という認識が顕在化している。
「そんなことは言わなくても判っている」であろう、「相手は当然理解している」であろう、という思い込みでことを進めてしまいがちである。
だから国会での法案審議でも、法案の中味の審議よりも、個人的な言葉の揚げ足取りに終始して、法案の中身に付いての審議が疎かになってしまっている。
というよりも、法案の中味に付いては事前の根回しで十分理解しあっているので、法案の審議をしている、というポーズを取ることによって、民主政治を実践しているという形を整えているに過ぎない。
大方の場合、その法案が可決するか否決されるかまで事前に調整が済んでしまっているので、形だけの審議をして芝居を演じているに過ぎないものと考えられる。
それもこれも、我々、日本人、大和民族というのは言葉で相手を説得するということが非常に苦手で、口先から出る言葉には重きを置いていないからではないかと思う。
相手のいう言葉に対して、その言葉を受け取る方は、言葉とおりに受け取らないわけで、「口ではあんなことを言っているが、本当はそうではなかろう」という思い込みに浸る傾向がある。
英語圏の人がI
love you と言えば、本当に愛しているということで、言葉と行為が一致しているが、我々がそれを言ったとしても、誰もそれを真に受けないはずである。
だから我々は言葉の上からも本当の民主主義、デモクラシーというのはマスターしきれないと思う。
我々の政治や官僚の言葉で、「善処する」とか、「前向きに検討する」という言い回しがあるが、これは西洋人ならずとも我々でさえも言葉の真意が皆目わからない表現である。
終戦の詔勅でも「国体が護持される」という表現があるが、此処でいう国体というのが一体何を指し示しているのかはさっぱり判らない。
我々が話し合うという場合、こういう意味不明の言葉をいくら投げあったとしても、問題の核心に迫ることはできないので、言葉の戦いというものが形式に終わってしまう。
事の真意は、根回しの段階で決着がついているわけで、その根回しをして決着の着いたことに形式的な箔をつけるためにだけ会議が持たれるというのが現実ではなかろうか。
この根回しの段階では、それこそ村社会の利害得失が熾烈にぶつかり合うわけで、それだからこそ、派閥の離合集散が渦を巻き、暗中模索の中の駆け引きとなるものと推察する。
この状態は、デモクラシーの対極にあるものでなければならないが、我々は戦前、戦中を通じて、形のうえではデモクラシーで通してきたのである。
立憲君主制ではあっても、デモクラシーは維持されていたが、そのデモクラシーが極めて不完全であったので、マッカアサーは「12歳の子供だ」と称したにちがいない。
体制としてはデモクラシー、いわゆる民主主義体制であったが、その中で軍人が異常に増殖したところに、軍国主義に嵌り込んでいった真の理由があると思う。
軍人が幅を利かせたから、軍国主義になったというのも少し妙なところが在るように思う。
昭和の初期の時代においては、日本の軍隊、軍部の建軍以来の精神的基盤がメルトダウンし、破壊され、組織が時代の進化に取り残されたところに日本が奈落の底に転がり込んだ真の理由があるように思えてならない。
ところが、この日本の軍隊というのは、あの時代、我々の庶民そのもの、国民そのものと同じ存在であったわけで、軍部の悪口をいうということは、自分で天に唾しているのと同じことと映ったわけである。
昭和初期の時代、日本の軍隊が天皇の赤子ならば、日本国民も同じ様に天皇の赤子であったわけで、同じ赤子として相手の悪口は言えなかったに違いない。
それに、あの徴兵制の元で、日本の軍隊を支えていたのは一般国民の父であり、兄であり、弟であり、夫達であったわけで、まさしく血を分けた肉親達であった。
こういう肉親達を指揮・監督していたのは、俺らが村の一番の秀才たちであり、俺らが町の秀才たちであったわけで、とても軍隊や軍部を批判することは出来なかった。
これがあったが故に、あの戦争に生き残った我々の同胞達は、自分たちで、自分たちを、奈落の底に突き落とした同胞を、自分たちで裁くことが出来なかったのである。
それをし始めると、その責任の一端は、回りまわって自分のところにも来てしまうわけで、それが判っていたからこそ、勝者に勝手にやらせておいて、自分たちは口を拭っていたのである。
勝者は勝者で、勝った実績を自分たちの国民にも明示しなければならなかったわけで、その意味からして極東国際軍事法廷というのは、どんな形にしろ、それに類するものをしなければならなかった筈である。
そういう意味で後藤田氏のいう「勝者の知恵」というのは正鵠を得ているかもしれない。