05063003  極東国際軍事法廷

自虐史観の根源を探る

天皇の決意

 

最近、中国や韓国から日本の首相が靖国神社に参詣すると、「軍国主義の復活につながる」からという理由で、内戦干渉がましいことを言われ続けている。

先方がそういう事をいう根拠は靖国神社にはA級戦犯が合祀されているから、そういう人たちの霊に、国家の首脳が参ることは、その人々の功績を称えることに繋がる、という論理展開である。

それに追従する日本のマスコミや、文化人と称する進歩的知識人といわれる人々が大勢いることも嘆かわしき問題とは思うが、その前に、この民主主義の世の中で、大勢の人が、中国や韓国のいうことを「日本の国益のために聴け!」という以上なんとも致し方ない現象だと思う。

この論調をなす人たちは、「国益」というものを本当に理解して言っているのであろうか。

この風潮の中で、小泉首相が何処まで自分の信念を通すことが可能か、大いなる見ものであるが、私個人としては、日本の首相たるものは外国の干渉に屈することなく堂々と靖国神社に参いってもらいたいと願う方の部類である。

靖国神社に合祀されているA級戦犯という言葉も、私個人としてはあまり使いたくない言葉であるが、今はもう言葉として定着してしまっているので、使わざるを得ない。

そもそも、このA級戦犯という言葉は、極東国際軍事法廷で使われた言葉で、これは戦争というものが勝者と敗者という二極分化を導き出す以上、負けた側としては甘受せざるを得ないものと思う。

負けた以上、何を言われても、どんな扱いを受けようとも、どんな言い方をされようとも、反駁の仕様がない。

だからこそ一旦始めた戦争は勝たねばならないのである。

極東国際軍事法廷、略して東京裁判というのは、今日ではその整合性がはなはだ疑問視されているが、今の我々同胞の平和主義者といわれている人たちは、案外この裁判の整合性を容認している節がある。

我々の祖国はポツダム宣言を受諾することであの戦争から開放された。

あの未曾有の惨禍を呈した先の戦争を、「この辺りで終わりにしよう」、と考えて決断したのが昭和天皇であった。

天皇の心中では、「もうこれ以上継続すれば、文字とおり日本という国が殲滅の危機に瀕してしまうので、何とかそれだけは避けたい」という気持ちだったろうと思う。

しかし、それでもなお本土決戦をしようとしていた我が同胞がいたことを我々は真摯に考えなければならないと思う。

天皇のこの時の決断がもう1年か2年先に行なわれていたら、我々の受けた惨禍も半減していたかもしれないが、それを言い出せない雰囲気、そういう発想を封じ込める思考、それを言えば殺されかねない雰囲気というものが日本の国土全般に霞のようにたなびいていたものと考える。

昭和初期の段階で、日本の政府というのは常に戦争には消極的であったが、軍部が独断専横した結果が未曾有の災禍となってしまったわけで、この軍部という組織そのものが、日本の国民の各層各階層に敷衍的に広がった人々から成り立っていたので、軍部を正面きって非難することが出来なかった。

政府の不拡大方針を無視して、どんどん中国大陸の奥深く入り込んでいった軍隊、軍部の指揮官というのは、俺らが村、俺らが町の英雄であったわけで、村一番、町一番の秀才であり、出世頭であったわけで、そういう人たちが指揮官として中国の農村を急襲すると、相手はどんどん奥に逃げていくわけで、そのたびに我々の側では「勝った!勝った!」と有頂天になっていたものと推察する。

日本全国がこういう雰囲気に酔っているときに、戦争を終わらせる方策など口先に乗せられなかったものと考える。

しかし、昭和天皇がポツダム宣言を受諾しようと腹を決めて、玉音放送をすると、地球規模で拡散していた日本の軍隊は、それこそ一斉に武器を置いて降伏するということは一体どういうことなのであろう。

天皇の膝元の東京では、玉音放送をさせまいとして反乱した将兵がいたにもかかわらず、世界に散らばっていた日本軍の出先の将兵は一斉に武器を置くということは一体どう解釈したらいいのであろう。

天皇の一声で日本軍は見事に戦いを止めた。

それに反し、東京の焼け野原を目の当たりにしていた在京の軍人達はそれとは反対に、真剣に本土決戦をしようとしていたことを、我々はどう考えたらいいのであろう。

天皇の一声で、外地の軍隊が一斉に武器を置いたということは、彼らは嫌戦気分に首まで使っていたということであろうか。

1945年、昭和20年8月の時点で、世界各地に駐留、進攻、転戦、守備、残地していた将兵は、兵站もままならない中で、もうこれ以上の戦いにはほとほと嫌気がさしていたということであろうか。

そういう心理状況は察して余りあるが、そうとでも考えないことには、あれだけ「鬼畜米英」、「欲しがりません勝つまでは」、「八紘一宇」、というスローガンが如何に空虚なものであったかということである。

昭和天皇は東京の焼け野原の惨状を見て、ポツダム宣言を受諾する決意を固められたのではないかと推察する。

 

 

 

カイロ宣言とポツダム宣言

 

参考のため、ポツダム宣言を掲載し、それでポツダム宣言を私なりに解釈してみると。(田村HPより借用)

1 吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート、ブリテン」国総理大臣は吾等の数億の国民を代表し協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり

2 合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり 右軍事力は日本国が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞(こぶ)せられ居(お)るものなり

3 蹶起(けっき)せる世界の自由なる人民の力に対する「ドイツ」国の無益且無意義なる抵抗の結果は日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり 現在日本国に対し集結しつつある力は抵抗する「ナチス」に対し適用せられたる場合に於て全「ドイツ」国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃(こうはい)に帰せしめたる力に比し測り知れざる程度に強大なるものなり 吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく又同様必然的に日本国本土の完全なる破滅を意味すべし

4 無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘(わがまま)なる軍国主義的助言者に依り日本国が引続き統御(とうぎょ)せらるべきカ又は理性の経路を日本国が履(ふ)むべきかを日本国がけっていすべき時期は到来せり

5 吾等の条件は左(以下)の如(ごとし)し 吾等は右条件より離脱することなかるべし 右に代る条件存在せず吾等は遅延を認むるを得ず

6 吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐(くちく)せらるるに至る迄は平和、安全及正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て日本国国民を欺瞞(ぎまん)し之をして世界征服の挙に出ずるの過誤(かご)を犯さしめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず

7 右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕(はさい)せられたることの確証あるに至る迄は聯合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲(ここ)に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし

8 「カイロ」宣言の条項は履行せらるべく又日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし

9 日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし

10 吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも吾等の俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるべし 日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし 言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし

11 日本国は其の経済を支持し且公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することを許さるべし 但し日本国をして戦争の為再軍備を為すことを得しむるが如き産業は此の限に在らず 右目的の為原料の入手(其の支配とは之を区別す)を許可さるべし 日本国は将来世界貿易関係への参加を許さるべし

12 前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては聯合国の占領軍は直に日本国より撤収(てっしゅう)せらるべし

13 吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す右以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅(かいめつ)あるのみとす

 

この文言を見て、最後の第13項を注視してみると、これは日本軍の無条件降伏を要求するものであって、日本という国、及び政府に対して無条件降伏を要求するものではないことが判る。

しかし、内容的に恫喝というか脅迫的な文言となっている。

「完全なる壊滅あるのみとす」というのは完全なる恐喝である。

尚、ポツダム宣言が前のカイロ宣言の発展型のものだと考えると、カイロ宣言では「日本国の無条件降伏」となっているにもかかわらず、それが「全日本国軍隊の無条件降伏」という言い回しになっている点も曖昧としたものがある。

一般的な思考から言えば、ポツダム宣言が「全日本国軍隊の無条件降伏」という言い方をしている以上、文民の容疑者というのはあってはならないような気がするが、そういうところが「勝てば官軍」という典型的な例なのであろう。

この極東国際軍事法廷の依拠するところは、このポツダム宣言の第10項でいうところの「我らの俘虜を虐待せるものを含む一切の戦争犯罪人に対して」というところに主眼があるものと考えなければならない。

このポツダム宣言を文字通り解釈するとすれば、この文言を狭義に捉えなければならず、それならば国際条約、国際慣行に沿ったもので条理に則ったものといえる。

捕虜を虐待したものは戦争犯罪人といわれても仕方がないし、それは国際的にもそう認定されている。

ところが極東国際軍事法廷の趣旨というのはそれを大きく逸脱しているではないか。

それは連合国最高司令官マッカアサーの定めた裁判規定(憲章)に記されているわけで、それにはこうなっている。

 

第2章 管轄及ビ一般規定

 

第5条(人並ニ犯罪ニ関スル管轄)

 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス

 左ニ掲グル一又ハ数個ノ行為ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪トス

 (イ) 平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加

 (ロ) 通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反

 (ハ) 人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為

上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス

 

こんなことはポツダム宣言には一言もなかったわけで、その点からしても、この裁判が極めて根拠のとぼしい、報復的な性格のものだということがいえる。

ポツダム宣言で言っている「我らの俘虜を虐待せるものを含む一切の戦争犯罪人に対して」という部分の「一切の戦争犯罪人」という部分を拡大解釈して、「平和に対する罪」とか、「人道に対する罪」というのを捏造して、通例の戦争犯罪の中に加えてしまっている。

今、我々の同胞の中で、自虐史観に首までドップリ浸かっている人達は、かなりのインテリのはずで、そういう人達は、この二つの宣言文の相違は十分に理解していると思う。

ところがそれを承知の上で、尚、我々の同胞を貶めようという思考は一体どこから出ているのでだろう。

この二つの宣言文の整合性を認識しながら、それでも尚同胞を貶めたいという発想は、利敵行為としか言いようがないではないか。

しかも、この二つの条項は事後法で、勝った側が敗者の側を裁くために新たに作り上げられた概念であったわけで、従来の国際法にはなかったものである。

戦争というパワー・バランスの中で、負けた側としては何を言っても通らないわけで、それだからこそ「勝てば官軍」ということである。

だから戦争では勝たなければならないのである。

このカイロでアメリカ・ルーズベルトと、イギリス・チャーチルと、チャイナ・蒋介石が寄り集まって対日戦を協議している丁度そのころ、日本でも東条英機内閣が大東亜会議というものを開催していた。

日本軍が、アジアを専制支配していた欧米列強の勢力を叩きのめしたので、アジアでは一気に独立の気運が勃興し、ビルマ、インド、フイリッピン等々のアジア諸国は、稚拙であったとはいえ一応この機会に独立をなしたのである。

しかし、チャイナの蒋介石というのはアジア人の心を斟酌することなく、欧米に祖国を蚕食されていたにもかかわらず、その欧米、西洋列強に媚を売って保身を図っていたということになる。

チャイナの中でも汪兆銘はアジアの側に視点を向けて、日本に協力する気持ちが盛んであったが、惜しむらくは志半ばで倒れてしまい、日本は彼の本意に答えることが出来なかった。

1943年、昭和18年の秋というのは、連合国側では対日戦に向けて結束を固めていたが、アメリカ、イギリス、ソビエット(まだ対日戦には至っていないが仮想敵ではあり続けた)、チャイナと敵に回した日本は、日本単独では如何ともしがたい状況に追い詰められてきた。

ビルマ、インド、フイリッピンが独立をしたといっても、日本の軍事力が背景にあったからこそ一応独立宣言が出せたけれども、日本の軍事力が消滅すれば、風前の灯に近い状況であった。

しかし、彼らは精神的には大いに日本の影響を受けたわけで、「日本人に出来れば我々にも出来るのではないか」、という自信を得たことは確かだと思う。

それに引き換え、蒋介石という男は実に政治的巧者であり、外交的には実に狡猾そのものである。さすがシナ人である。

日本憎さのあまり、西洋列強に媚を売り、自分たちではまともに日本と戦えないので、アメリカとイギリスに日本を叩かせておいて、その結果だけを掠め取ろうとする、その魂胆が実に小憎らしいというか見事に功を奏している。

彼の外交的狡猾さというのはカイロ宣言に見事に現れているわけで、

カイロ宣言


一九四三年十一月二十七日(署名)

 ローズヴェルト大統領、蒋介石総統及びチャーチル総理大臣は、各自の軍事及び外交顧問とともに、北アフリカで会議を終了し、次の一般的声明を発した。
 「各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。
 三大同盟国は、海路、陸路及び空路によつて野蛮な敵国に仮借のない圧力を加える決意を表明した。この圧力は、既に増大しつつある。
 三大同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行つている。
 同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。
 同盟国の目的は、千九百十四年の第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。
 日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される。
 前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する。
 以上の目的で、三同盟国は、同盟諸国中の日本国と交戦中の諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大で長期間の行動を続行する。

第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。
蒋介石はこの文言をカイロ宣言の中に盛り込むことによって、自分は戦わずして戦後、自分の領地を取り返すことが可能になったわけである。

アメリカとイギリスに日本を叩かせておいて、自分は懐手のまま「漁夫の利」を得ようという魂胆が見え見えである。

中国、チャイナ、蒋介石が、日本と効率よく、まともに戦えないというのは、中国側に内なる問題を抱えていたわけで、その意味でも私はあの当時の中国に果たして主権があるのかどうか疑問視する次第である。

 

国家を裁くということ

 

カイロ宣言、ポツダム宣言と続いて、日本が戦争に敗北した暁には、我々の領域が本来のあるべき姿に戻ってしまうというのは、ある意味では致し方ないことである。

明治維新以降の我々の先輩諸氏の努力は、1945年、昭和20年でもって水泡に帰したという言い方も可能かと思うが、それは我々の側の政治の失敗、外交の失敗、作戦の失敗の帰結であって、我々の失敗を相手側から戦争犯罪といわれる筋合いは毛頭ないと思う。

戦争犯罪というのは、捕虜を虐待したか、脱走だとか、命令違反だとか、ハーグ陸戦協定違反というような具体的な事例を指すべきで、そうでないものを十束一からげにして、戦争犯罪者、戦犯などと言ってはならないと思う。

しかし、戦後、我々はポツダム宣言を受諾して戦争に負けたのであって、それは完全なる無条件降伏だと思い込んでいる向きもあるが、厳密に言えばポツダム宣言を受け入れるということは条件つきの条約を交わしたことであるにもかかわらず、それが1945年、9月2日の東京湾上におけるミズリー号上での降伏文書の調印では、無条件降伏とすり変わってしまっているのである。

あの時点で、我々の首都、東京は文字とおり灰燼と化していたのである。

東京ばかりではなく、名古屋、大阪、広島、長崎等々の都市は、文字とおり灰燼と化したのである。

まさしく戦い敗れて山河あり、という状況であった。

焼け野原の東京に進出してきた、連合国最高司令官マッカアサーは、皇居前の第1生命ビルにGHQを置くと、すぐさま様々な日本改革案を発表、実施した。

その中でも尤も重要なものが勝者の敗者に対する報復ではなかったかと思う。

ところがこれは正面切って論理的に説明できないわけで、勝者が敗者を如何様にも成敗するということは、近代文明に逆行することになるが故に、民主社会を標榜する以上、大ピラには言えないが、心情的にはせざるを得ないものと映っていたものと推察する。

勝者が敗者に復讐をするということは、20世紀までの価値観ならなら許されることであったが、近代文明の名の下ではそれは野蛮な行為と認識されるようになっていたので、その野蛮さをカモフラージュしなければならなかったのである。

それでマッカアサーは、それに少しでも整合性を持たせるため、極東国際軍事裁判所憲章というものを作って、それに基づいて裁判を行なう手法をとったのである。

だが、いくら見せかけを繕って、近代文明に対して少しでも整合性を指し示そうと考えたとしても、基本的には同盟国最高司令官のマッカアサーに託された、勝者の敗者に対する報復以外のなにものでもない。

国際法上の推敲を重ねた理念ではなく、ただ勝った連合軍が、敗者を懲らしめるための裁判であるので、軍の最高司令官が少しばかり国際法にかなうべく体裁を整えた裁判に過ぎない。

しかし、勝った側としては何らかの措置をしないことには、心情的に収まりきれないことも事実だろうと思う。

形は違ったとしても何らかの措置はあったに違いない。

裁判というものは国家間の紛争解決には非常に微力なものでしかないと思う。

国内法であれば、国家を代表するパワーとして警察というものの存在が個人の横暴を抑えるのに有効に作用し、三権分立の機能が実効あるものとして有効に作用するが、国際的な場、国家間の紛争では、調停者がいくら有効的、整合性に富んだ裁定を出したとしても、それを実効せしめる有効なパワーが無い以上、なんの意味もないということになってしまう。

国家と国家の紛争において、仮に調停者が極めて整合性に富んだ裁定を下したとしても、それを誠実に遵守させるべき、強力なパワーが存在していない以上、いくら立派な裁定でも全く意味を成さない。

調停を遵守させ、それを実効せしめるためには強力な警察力に匹敵するパワーがいるわけで、そう仮定するとすれば、そのパワーを持っている国というのがアメリカ一国ということになってしまう。

そういう国際間の暗黙の倫理が確立されていない以上、先の第2次世界大戦後の尤もらしい裁判劇も、結果的に勝ったものが勝った側の論理で勝手に決めるということになってしまう。

極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判というのがまさしくそれである。

あの裁判は正義とか、正邪とか、良し悪しという基準で執り行われたわけではなく、勝った側の論理で敗者を裁くという報復裁判以外のなにものでもない。

しかし、あれだけの戦争を引き起こしておいて、その戦争に勝った側としては、何らかの報復をしないことには、命を賭して戦った意味がないわけで、理由の如何を問わず、勝者は敗者に対して何らかの処罰をせざるを得なかったと思う。

その意味で極東国際軍事法廷というのは、整合性があろうがなかろうが、避けて通れない大きな関門であったことは間違いない。

 

贖罪に嵌る

 

1945年、昭和20年という年においては、確かでそうであろうと思うが、問題は、それ以降60年余りも経過しているにもかかわらず、我々の側で、あの裁判の整合性を信じている人間がいるということである。

極東国際軍事法廷、いわゆる東京裁判の欺瞞性というのは裁いた当人の中からさえその不合理が指摘されているのに、それを受け入れた我々の側では、頑なにその正当性を信じて疑わない人達がいるということが不思議でならない。

「あの戦争の惨禍は決して繰り返したくない」という気持ちは十分に理解できるが、そのことと当時の我々の側の政治指導者を戦争犯罪人と呼んで由とすることは全く次元の違う問題で、これを同一視する神経は、同じ同胞として理解に苦しむ。

あの裁判で、A級戦犯として死刑台の露と消えた東条英機は、「敗戦の責任は我にある」として潔く死んでいったが、彼自身の政治的行為を犯罪と呼ぶことには死ぬまで贖っていた。当然のことだと思う。

日本を敗戦に導いたという意味で、当時の戦争指導者、政治指導者というのは、後世に残された我々に対して、敗戦の責任は負うべきであろうが、戦争遂行という行為と、その過程は犯罪と呼ぶべきことでは全くないと思う。

昭和の初期の日本の置かれた立場からすれば、あの戦争は西洋列強の仕掛けた罠に嵌りこんだようなもので、日本としては誰が統治者であろうとも、いづれの日にか、同じ道を歩まねばならなかったのである。

基本的に西洋列強というのは、日本という黄色人種が世間を席巻することに言い様のない嫌悪感を抱いていたわけで、アメリカでは日本が日露戦争に勝った時点から、もう日本を仮想敵国としていたようだ。

それに反し、我々の側は最後の最後までアメリカと戦うことを回避しようと努力をし、交渉を重ねていたではないか。

西洋列強、特にアメリカのWASPにとって、黄色人種というのは鼻持ちならない存在なわけで、彼らから見ると、日本人など人間のうちに入っておらず、猿と同じ程度に考えていたものが、飛行機は作る、軍艦は作る、植民地は獲得する、という現実を目の当たりにすると、もう心理的に面白くないわけで、生理的な嫌悪感が露になったのである。

その証拠に、西洋列強のアジアの植民地経営の実態を見るがいい。

彼らは自分の利得のためにだけしかアジア人を見ていないではないか。

搾取するだけで、現地人の福祉とか、社会基盤整備などという発想は毛頭持っていないわけで、ただただ富の狩場に過ぎない扱いではなかったか。

日本の進出によって、彼らの富の狩場が縮小することに彼らは非常に危機感を覚え、真綿で首を絞めるように日本に対して締め付けをしてきたではないか。

真綿で首を絞めるということのなかには、アメリカの日本移民の排斥というのも、その中に入るわけで、こういう西洋列強の真綿で首を絞めるような日本締め付けに対して、日本政府は外交努力でそれを跳ね返そうとしたが、それでは生ぬるいというわけで我が方の軍部が突出してしまったのである。

そして、この軍部の突出を、当時の日本国民は総て容認していたのである。

その根拠には、アメリカの日系移民排斥というものが遠因となっていることは間違いない。

なんとなれば、当時の日本は非常に貧しくて、海外雄飛をしなければその状況は克服できないと考えていたからである。

だから軍部が政府の不拡大方針を無視して中国の奥地に進んでも、それを容認していたのである。

政府が外交で解決しようとする態度を軟弱として非難したのである。

歴史というのは、つまり人間の執り行う政治というものには失敗がつきものであって、我々が昭和の初期に戦争という泥沼に足を突っ込んだのも、政治の失敗であったとすれば、アメリカが国際軍事法廷で敗者としての我々を裁いたのも、ある意味でアメリカの政治の失敗であったわけで、自分たちの失敗をその内側の人間が暴き立てるというのも、人間として見下げた行為だと思う。

人間は生れ落ちたときから祖国の恩恵を受けて生育していることに、如何なる国民も、如何なる国家も、反駁の仕様がないはずで、自分の祖国の失敗を、声高に叫ぶ国民というのは、もうその国の国民とはみなされないと思う。

祖国の失敗は失敗として、謙虚に受け止めなければならないことはいうまでもないが、それを他国の利益をフォローするために、声高に叫ぶということはもう売国奴と寸分の変わりもないと思う。

ひた隠しに隠す必要もないが、それかといって他国がそれを外交カードとして利用しているのに、それをフォロー・アップするような発言というのは、大いに反省する必要があると思う。

我々が戦後60年間、この極東国際軍事法廷・東京裁判の価値観から抜けきれず、自虐的史観に嵌り込んでいる最大の理由は、我々、日本民族というものは感性が豊かで、感情に溺れやすい性癖が災いしていると思う。

つまり、人の心を慮る感性に長けているので、常に相手の心情を推し量り、自分のほうが過剰反応している結果だと思う。

特攻隊で、身を挺して祖国のために立ち向かった若者の心境と全く同じで、自分のことよりも、相手の利益を優先し、自己犠牲を何とも思わない美しい心根と思うが、国際間の駆け引きというのは、こういう美しい心根では通用しないわけで、論理的に何処までも論理を追及して、理詰めで相手に掛からないと「軒下を貸して母屋を取られる」ということになってしまう。

自愛よりも、他愛を優先するという心境は、あの特攻隊員達と同じ心根だと思う。

つまり「自分は死んでも後に残された同胞が末永く生きられれば」、というのと同じで、「自分の国がアジアの人々を苦しめたので、それに報いるためには、今生きている我々は、どんな贖罪でも受け入れなければならない」、という思考だろうと考える。

こういう自愛よりも他愛を優先させる感情というのは実に尊いと思うが、これも自分たちの単なる思い込みに過ぎないわけで、相手にしてみれば、隙あらば根こそぎ利益を引き出そう虎視眈々と狙っているわけで、相手の心情を冷静に推し量って考えなければならないことは云うまでもない。

奇麗ごとで、格好良いポーズを取ろうとしたり、知識人と思われたいとか、話のわかる人間と見られたいとか、寛容な人間と思われたい、もの判りのいい人間と見られたいなどという姑息な思考で自分の政府、乃至は後世のために若くして散華した同胞に泥を塗るような愚に陥ってはならないと思う。

そして、相手に贖罪をすべきものは自分ではなくて日本の現行政府であって、そのために国益が損なわれれば、それは政府の責任で、国民は一切合財関係ない、という視点に立った発想だろうと思う。

この考え方の根底にある思考は、政府と自分は全く関係のない立場であって、政府というのはあらゆる人々、自国民だけではなく、他国民をも完全に満足のいく、納得のいく施政をしなければならない、という支離滅裂な理想の実現だと思う。

ある意味で非常に無責任な思考である。

特攻隊員たちは、自分の思いに死を賭していたが、こういう理想主義者は、口先だけの詭弁を弄するのみで、死を賭けた事態になれば、それは政府の責任で自分とは関係ないことだ、と逃げるものと推察する。

 

平和への希求

 

我々は、昭和20年8月15日の天皇の詔勅で一斉に武器を地に置いて戦争を終結したが、この時点で、日本全国の人々が心の底から「もう戦争はこりごりだ」という思いを抱いたものと推察する。

無理もない話で、前線でも銃後でも、この時点の日本人というのは、生きた屍同然であったわけで、誰一人生きた心地を持っていなかったと思う。

だから、その反動として「もう戦争は嫌だ!」という思いが全国民に染み渡るのも致し方ない。

この思いそのものが既に感情論であり、感性のなせる技であり、そこには論理的な思考というものが欠如していることを証明している。

戦争とは政治の延長線上の行為であり、政治とは切り離せない事柄だ、ということを冷静に考えることをスポイルしてしまって、ただただ「もうあんな苦労は嫌だ!」という嫌悪感が先に出てしまっている。

だから戦争、つまり政治の延長線上にある実力行使というものを冷静に分析して、自分たちの犯した失敗を研究し、失敗の原因が何処にあったのか、ということを探求し、2度と同じ失敗をしてはならない、という理詰めの論議が成熟していない。

9・11事件以降のアメリカのイラク攻撃、アフガニスタン攻撃等々を見てみても、あれはアメリカにとっては国内政治の範疇であるが、我々から見るとアメリカが世界制覇を目指しているように見える。

しかし、アメリカの立場に立ってみれば、これらの戦争は国内政治の延長線上の行為であるが、そうなる前に国際的なテロ行為というものを整合性を持った論理で調停して、それを止めさ、テロをしたものを処罰し、調停に従わせるパワーを持った国が何処にもいないから、アメリカは自分でそれをしなければならなかったわけである。

だから独断専横しているように見えるだけである。

アメリカで9・11事件のようなテロが起きれば、たとえブッシュ大統領でなくても、誰が大統領であったとしても多分の同じ措置をとったに違いない。

なんとなれば、それがアメリカ国民の安全を確保する手段だからである。

為政者としては、誰が大統領であろうとも、同じ手法をとるものと考える。

これは戦争を容認するものではないが、世界の誰かがテロの首謀者をアメリカに引き渡せば、それは直ちに終わると思うし、世界は戦争反対を叫ぶ前に、テロの首謀者を探し出すことが先決だと思う。

戦後60年間、我々は「もうあんな苦労は嫌だ!」という思いから平和思考になっているが、平和思考そのものは何ら咎める必要はないが、平和というのは自分の方で平和宣言をすればそれで四方八方丸く納まって平和が到来すると思っているとしたら大間違いである。

平和を希求するとすれば、平和なときにこそ国際間のパワー・バランスを緻密に研究し、近隣諸国の何処が仮想敵国になりうるのか、何処と同盟が可能なのか、何処に相手の戦略兵器が隠匿されているのか、という戦争のための準備というか、可能性というか、そういうことを緻密に研究しておく必要がある。

先の戦争でも、我々の側は戦争の準備ということを全くしないまま泥縄式に嵌り込んでいったではないか。

日中戦争然り、対米戦然り、我々は戦争のための準備をすることなく、ただただ戦線不拡大、戦争回避の方策のみを探っていたではないか。

飛行機を作り、船艦を作っていたではないか、という反論が出そうだが、あれは軍拡としての一般論の結果であって、具体的な戦争準備ではなかったと思う。

我々は、中国戦線では戦線不拡大、対米戦に関しては戦争回避の努力を開戦間際まで続けていたことを忘れてはならない。

それでも結果として戦火に巻き込まれたわけで、勝者はこれをどういうふうに解釈したのであろう。

今の我が方の同胞は、この時の我々の側の政治家、為政者の努力をどのように解釈したのであろう。

我々の方は日中戦争では戦線不拡大方針、対米戦に関して言えば、最後の最後まで戦争回避の努力をしていたにも関わらず、戦争の結果が敗北ということになった故に、そういう努力をした我々の側の為政者を、戦争犯罪人と呼称せざるを得ない不合理さに、何故、同胞の総てがそれを受忍してしまったのであろう。

こんな馬鹿な話しもないではないか。

この時の我々の側の為政者は、日本国民に対しては敗戦の責任、戦いを敗北させた責任、負けるような作戦を遂行した責任は負わなければならないが、相手から戦争犯罪人といわれる筋合いは毛頭ないと思う。

この時の我々の側の為政者は、戦線不拡大方針を願い、極力戦争回避の努力をしていたことをどのように評価したのであろうか。

もっとも、相手側の立場に立てば、日本政府の意向がどうであれ、彼らの将兵を数多殺傷したという意味から、何らかの処罰をしたいのは山々なれど、犯罪者という言葉ではなく、もっと他の言葉で言い表すべきだと思う。

戦争犯罪人という言葉からは、「捕虜を意味もなく滅多矢鱈と殺した人」、という狭い意味での解釈しかなりたたないと思う。

戦後60年間、我々は「もうあんな苦労はしたくない!」という思いから平和を希求する気持ちがことのほか強くなったことは当然のことであるが、それはやはり人間のもつ感情がそうさせているわけで、この感情の赴くままに、平和の本質、裏返して言えば戦争の本質を探究する努力を怠ると、同じ轍を踏む可能性が再び現れると思う。

平和の本質も、戦争の本質も、突き詰めれば人間研究ということに尽きると思う。

 

昭和の初期という時代

 

共産主義の階級闘争ではないが、人間というのは統治する側とされる側の2種類しかないと思う。

民主主義というのは、統治する側とされる側が常に入れ変わることの可能な政治システムだと思うが、そのことによって、ある時期統治する側に身を置いた人は、統治される側の願望や希求をある程度具現化するものと考える。

先般、中国から首相の靖国神社参詣に関して内政干渉がましいことを言われて、それに関連して日本の内部からも様々な意見が噴出しているが、その意見の多くに、「国家の権力者によって戦場に狩り出された」という表現が頻繁に使われたが、こういう言い方をされると、日本の国内には一般庶民とは別に「権力者」という別の人たちがいる、「権力者」という別の階層がある、一般庶民とは別枠の「権力者」という人々の集団がある、という印象を受ける。

昭和初期に時代においても我々は民主主義体制の下で生きてきたわけで、その民主主義というものが今から思えば多少不完全で、その政治システムにおいても、民主化の度合いが多少未成熟な部分があったとしても、基本的には選挙で選出された人たちが国会を運営していたことに変わりはない。

選挙制度が今の基準からすれば非常に未成熟だったことは否めないが、そういう状況下においても、当時の政治家も憲法を遵守しようと心掛けていたにもかかわらず、その憲法そのものに欠陥があったが故に、政治の場から軍人を排除できなかったという意味でシビリアン・コントロールが極めて不完全であったことは否めない。

しかし、大方の政治の流れ、つまり統治のあり方としては、権力者達が国民を奴隷のように勝手気ままに死地に追いやったというわけではない筈である。

ましてや、「権力者」という別の種類の人々がいたわけでもなく、そういう階層があったわけでもなく、しょせんは一般国民の中から選出された人たちであったわけである。

ところがそういう環境の中で、軍人が政治家を差し置いて、その頭越しに権力を振るったことは事実だと思う。

政治家そのものは未熟とはいえ普通選挙法によって選出された人々であったが、その上に選挙によらずに権力を振るうことの出来た軍人というのが威張りだしたのが昭和の初期の時代だったと思う。

この軍人達の横暴を抑え、政治と軍事というものをきちんと切り離して物事を考えることができなかった、それを許したという意味で、その点は政治家の責任だと思う。

ところがそれも明治憲法の不備がそこには横たわっていたわけで、この不備がある限り、政治家としてはそれ以上の手腕というのは発揮しえなかったと思う。

軍人達が政治家を差し置いて威張りだしたその元は、青年将校たちのクーデターであろうと考える。

青年将校、つまり軍人がクーデターを起こし、テロを起こし、暗殺で政府要人を殺しても、その処罰が曖昧で、非常にゆるいものであったが故に、それを見た一般の国民乃至は政治家の目からすれば、軍部がそれを容認しているように見えたものと推察する。

こういう時代背景から、政治家達も徐々に軍人、軍部にゴマをする形が醸成され、軍人達が威張ることを容認する形になったものと推察する。

昭和の初期の時代に、青年将校の反乱が続発したということは、ある意味では軍の綱紀が緩んできたということである。

そういう意味では昭和の初期の日本軍は組織疲労していたといってもいいと思う。

ただ惜しむらくは、当時の日本人で誰一人この大日本帝国の軍隊が理念を喪失して、組織疲労していたこと、日本の軍人達が精神的にメルトダウンしていたことに気がつかず、極めて健全な精神と肉体を持っているかのように錯角していたことだと思う。

あの時代の日本の軍隊、軍部というのは日本民族そのものであり、大和民族そのものであったと思う。

なんとなれば、その集団を成している個々の人間はみな一般庶民の父や、兄や、弟や、夫であったわけで、まさしく血を分けた肉親そのものが軍隊という組織を形成していたので、ある意味で庶民、国民、市民そのものといってもいい存在であったと想像する。

ただ一般のシャバと違っている点は、その中では歴然とした階級制度が機能していたということである。

そしてその階級というのは必ずしも人間の品性を現すバロメーターにはなりえず、品性の卑しいものでも、ところてん式に年功序列で階級の階段を上ることが可能であったということにある。

極端な例を示せば、今でいう不良少年のようなものが徴兵で2等兵で入隊したとすると、最初がつらいのは皆同じであるが、半年か1年も経てば、その元不良少年も1等兵に昇格するわけである。

2年も勤めれば上等兵となって下に2階級も後輩が出来ることになるわけで、この品性の卑しい上等兵の下についた部下というのは目もあてられないほど悲惨な状況に置かれると思う。

そして、そういう人間が外地に転出したとすれば、戦線で相手の人、つまり敵と遭遇したとき、どういう対応になるのか想像に余りあると思う。

戦線で敵と遭遇したならばある程度のことは致し方ないにしても、敵国の民間人と接したときが問題だと思う。

軍律が厳しければ、そういうことは杞憂に終わるであろうが、軍律が緩んで差し迫った戦闘もないというときに、相手の民間人とのトラブルを引き起こす可能性は十分考えられる。

今、戦後60年もたって未だにアジア諸国からこの時の日本軍のことをとやかく言われるというのは、こういうところに原因があるものと推察する。

軍のトップの方では、こういう下々の事情に通じていないわけで、司令官や高級参謀は下々の兵隊の行為・行動までその全部を掌握仕切れていなかったのではないかと思う。

こういう旧日本軍に対する批判というのは、戦後といえども非常にしにくい状況に陥っていると思う。

というのは、そういう人たちは、みな一般庶民の父や、兄や、弟や、夫であったわけで、その総てが死んでしまっており、靖国神社に祭られてしまっているので、旧日本軍を批判するということは、英霊を侮辱するという行為に映ってしまうからである。

昭和の初期という時代に、軍人達が威張り、軍隊のシステムそのものは組織疲労し、軍人たちの精神がメルトダウンした原因を真摯に見つめ直さないことには、21世紀に向かう我々の同胞の将来も展望できないと思うし、今現在、我が日本の国民の大部分は完全に精神的なメルトダウンの状況に陥っていると思う。

人間の織り成す社会の中では、その中で生息している人々の希求する欲求というものが時代と共に変化しているのが常だと思う。

人類が未開の時代には、農業が主題で、如何に効率よく農業をするかが大命題であったが、それが産業革命を経ると、織物業が大きなテーマとなり、それと共に商品経済が勃興して、貿易が盛んになり、大航海時代を経るに従い、帝国主義的市場確保が大きなテーマになってきたわけである。

このことが人間の希求する欲求というものが時代と共に変化しているということだと思う。

我々の身近な例の中では、明治維新で身分制度が否定されて四民平等という風潮が普遍化すると、人々は昔の身分から如何に脱出するかが個人の欲望となって、いわば故郷に錦を飾る立身出世というものに憧れを抱いたわけである。

これが国民的に普遍化した。

そのなかで一番手っ取り早い手法は、官費の学校に入って、軍人として立身出世をすることであった。

戦後でも、高度経済成長真っ盛りのとき、大学の工学部を出た人が、商社や銀行、はたまた証券会社に殺到したことがあったが、あれはそういう業界が一番この時代の花形産業で、給料もよかったから、人々がそういうところに殺到し、優秀な人材がそういう業界に集中したということである。

人が競いあってある特定の業種に集中するということは、その業種が一番その時代の人々の希求するものを具現化しているということを表している。

それが昭和初期の時代には軍人になることであって、戦後では銀行や証券会社に入ることであった。

人は優秀であればあるほど、時の潮流には敏感で、世の中の潮の目、時流を探り当てるには優れているわけで、そういうところに優秀な人材が集まって来るわけである。

明治維新以降の明治の時代と、大正の時代のなかで、その当時の優秀な人材は総てこういう理由によって軍隊にあこがれ、そこは彼らの欲求を十分に満たしたはずである。

ところが我々の同胞のなかでいくら優秀であったとしても、日本人という枠から逃れることは出来ないわけで、これが軍人を官僚組織そのものとしてがんじがらめに束縛してしまう。

高級軍人が官僚になってしまったところに、昭和の悲劇が潜んでいたのではないかと思う。

貧乏人の子沢山の環境から、官費の学校に入り、そこで立身出世をして、官僚として押も押されぬ立場に立ってみると、地球規模で考えた場合、此処で私利私欲に走るのが普遍的な人類の生き様であろうが、我が民族の場合は此処で同胞愛が先に立って、同胞の貧困を何とかかしなければならない、という使命感にさいなまれたものと思う。

根が優秀なだけに、私利私欲よりも公益に殉ずることを考えるわけで、そこでその目的遂行のために猪突猛進をしてしまったものと推察する。

東京裁判で裁かれた人たちでも、私利私欲に走って蓄財に奔走した人は皆無ではないかと思う。

そういう意味では、非常に清廉潔白な方々ではなかったかと思う。

問題は、軍人が官僚に成り下がってしまって、官僚の官僚のための官僚の政治を推し進めたところに昭和の悲劇が潜んでいたと思う。

つまり軍人達が自分の分限を逸脱して、政治家と同じ様な発想に立って、日本の政治に関わってしまったことが悲劇の原因だと思う。

軍人勅諭では軍人は政治に関与してはならないと決められていたにもかかわらず、それが遵守されなかった点にその原因があったものと考える。

人間が自分の幸福を追い求めるという行為は、ある意味で基本的人権の一種だと思うが、それも周囲の環境のバランスの上でのことで、自分で自分勝手に思ったとおりのことを押し進るとすれば、相手との摩擦を引き起こすことは必定で、そこには気配りというものが必要であったことはいうまでもない。

昭和の初期においても、日本の政治家、軍人でないリーダー達は案外こういう気配りをしていたが、軍人達はそういう国際関係のパワー・バランスに全く無頓着で、中国大陸で少し強く出ると先方はどんどん奥地に逃げ込むので、それを見た我々は「勝った!勝った!」と大喜びしていたわけである。

問題は、この大喜びをしていた人達である。

それは現地の兵隊ばかりではなく、日本全国の人々が、敵が逃げて日本側の戦線が少し延びると「勝った!勝った!」と大喜びしていたわけで、我々銃後の国民の側の問題であったものと考える。

先に「権力者によって死地に追いやられた」ということを述べたが、その当時の権力者というのは、いわば我々日本の国民の中の選抜された一部の人々であったわけで、それは俺らが村の秀才であったり、俺らが町の秀才達であったことを忘れて、「権力者」という別の人種かのように錯覚して論議をしているが、突き詰めれば一般庶民、一般国民の中からその時代の要請を具現化すべく選出された人々であったことを忘れていると思う。

戦争が終わってみると、日米開戦をした時の総理大臣が東条英機で、彼は在任中の大部分を総理という職責にいたので、結果が敗北であったことから、戦後、我々、同胞のなかからでさえ非常に人気を落とした。

東条英機だとて、「俺が!俺が!」といって自分からしゃあしゃり出て総理大臣になったわけではなく、たまたま指名されたのでそれを受けただけで、総理大臣になったからといって、面白半分に兵隊を死地に追いやったわけではなく、まして私利私欲で蓄財を図ったわけでもない。

しかし、対戦相手の敵の立場に立ってみれば、アメリカの将兵を沢山殺したという点からアメリカ側としても真っ先に報復したい人物であったことには間違いはない。

問題は、この時の内閣総理大臣が指名されて誕生したという点にあると思うが、これは当時の我が国の民主主義が未熟であって、元老からの指名を受けて総理大臣の職が確定するという点にあったと思うが、この時代には誰が総理大臣になろうとも同じ道しか選択の幅は残っていなかったと思う。

総理大臣の職というのは、最初は国民一般乃至はマス・メデイアから嘱望されて、上手い具合に奉り崇められるが、時の経過と共に、それが非難中傷となり変わってしまうところが日本の政治が何時までたっても三流の域を出れない理由だと思う。

最初は美辞麗句で本人を祭り上げておいて、これで日本の将来がいかにも明るくなるかのように喧伝し、下にも置かぬ扱いをしておいて、途中でハシゴをはずしてしまうわけで、その結果として政治が混迷するということになってしまう。

その意味で日本の政治が三流という根本のところは、政治家の力量よりもマス・メデイアの政治家への接触の仕方になるのかもしれない。

メデイアが政府を批判すると、それは恰も有識者が知恵を絞って思考した結果としての結論かのような印象を受け、反対に政治家がメデイアを見ると、恰も一般大衆の総合的な意見かのような印象を受けがちであるが、それはメデイア自身の主観にすぎないわけで、結局のところ盲人が象を撫ぜているようなもので、政府も国民も双方が間違った情報、乃至は誤謬を信じているわけである。

要するにメデイアの報ずることは全く信用ならないということを肝に銘じて、判断は自分自身でしなければならないということである。

メデイアの情報を信ずるか信じないかは自己責任ということである。

昨今の小泉首相の評価もそれと全く同じ軌跡を歩んでいるわけで、彼の場合3度の自民党総裁選に挑んで、3度目にしてその座をしとめ、それと同時に総理大臣の職を獲得したわけであるが、彼は総理になる前から郵政民営化ということを言っていたにもかかわらず、法案の採決間際まで「説明責任を果たしていない」などという批判が付きまとっていた。

総理の立場というのは、批判されることもその職域の中ではあろうが、整合性のある論理展開で批判されるのならば致し方ないが、感情論で、彼が気に入らないから「法案成立に反対だ」では、政治家として何をか況やである。

 

ボトムアップされた軍国主義

 

昭和の初期の日本の政治の状況も、これと全く同じことが展開されていたと想像する。

郵政の民営化の問題ならば、直接的に人命に関わることはなかろうが、ことが戦争ともなれば、当然人命に直接的に関わってくるわけで、軍の高級官僚にとっては赤紙1枚で招集された兵隊などというものは、人間の内に入っていなかったかもしれない。

官僚の官僚たる所以は縄張り意識だと思う。

既得権益の確保だと思う。

この場合、私利私欲による蓄財のための既得権益という意味ではなく、自分の所管が拡大したり、ないしは縮小したりすることが大きく既得権益と絡んでいると思う。

そして軍人の誇りとは、やはり実績なわけで、どれだけの戦果を挙げたか、ということが最大の関心ごとだと思う。

それに軍国主義というものが覆いかぶさってきているわけである。

そして、この愚国主義というものは、政府の中枢がそれを鼓舞したというよりも、案外、一般庶民の願望の集約として日本全国に広がったと思う。

共産主義というのはマルクスとエンゲルスによって編み出された一種の哲学なるが故に、知識階層から下の方に広がったという面があるが、軍国主義というのは一般庶民の草の根運動的なものが集約されて、それが時流の潮の目となり、それに抜け目のない先見性に富んだ一部の人間が便乗して、鼓舞吹聴した結果ではないかと思う。

一般の市民、国民の中にある大きな考え方の流れが出来たとき、それは一種の大儀となるわけで、その大儀を実現するのは政治家の役目という認識が普遍的であろうと思う。

そういう意味で、戦前の、昭和の初期の我々の軍国主義というのは、一般市民から湧き上がってボトム・アップされた思考ではなかったかと思う。

戦後の左翼系の知識人は、マルクス主義を愛して止まないので、いわゆる権力者が上から軍国主義を押し付けたという捉え方をしているが、実情は下からのボトム・アップではなかったかと思う。

ならば当時の教育現場で校長が皇居遥拝やご真影の遥拝を強要したのはなんだったのかという疑問に突き当たるが、確かに文部省がそれを強要したことは事実であろうが、文部省にそれを強要させた背景には、下からの軍国主義興隆の運動があって、それを受けてそういう措置がとられたものと考える。

行政の執り行う行政措置というのは、その大部分が国民の要望、要請を国サイドが受け入れて、国民の負託に応えるべくそういう措置が生まれるものと考える。

天皇陛下や総理大臣が好き勝手に自由気ままに行政措置を講ずるということはないと思うし、その国民の要請・要望を吸い上げるのが政治家というものであろうと思う。

そして、下りてきた行政措置に対して個人的に快く思わない人がいることは当然であろうが、「納得行かないから自分はそれに拘束されない」という論法も非民主的であることに異論はない。

明治維新で昔の身分制度から開放された士分以外の階層にとって、官費の学校に入って官僚としての軍人になることが夢であり、願望であり、立身出世の一番の近道であったわけで、そこにもってきて日清・日露の戦いに勝ったことで、軍人に対する評価というのは絶大なものになったと想像する。

軍人になることが庶民の夢であったとすれば、その先には軍人の活躍の場がなければならないわけで、その行き着いた先が、帝国主義的領土拡大であったのではないかと思う。

ところが不思議なことに、この帝国主義的領土拡大を常に引き締めようとしていたのが日本の政府であった。

それに反し、軍人の集団、いわゆる軍部というのは、常に領土拡大を願っていたわけで、この軍部の行動というのは、皮肉なことに当時の国民感情を素直に具現化していたのではないかと考える。

今でも80歳代の人は、「子供の頃は軍国少年であった」ということを回顧的な雰囲気の中で語っているが、昭和の初期の時代というのは、この軍国主義というものは国民的に整合性を持っていたわけで、当時の老若男女はことごとく軍国主義者であったわけである。

つまり、言い方を変えれば、軍国主義というのは国民の草の根運動的な広がりをもっていたと考えるべきで、その希求を実現しようとしたのが軍部であったと見なさなければならない。

そして、それに抵抗し続けたのが政府ということになる。

話は少々飛躍するが、人間の集団の中にはどうしても威張りたがる人間というのが大なり小なり紛れ込んでいるのが常だと思う。

如何なる国家にも、如何なる民族にも、そういう人間は少なからずいるものであるが、我々にもそういう人間が少なからずいたわけで、そういう人間がこの軍国主義という大儀を我が物顔に人に押し付け、強要し、この大儀を否定するものを差別して恥じない人間が大勢、我々の同胞の中にもいたわけである。

21世紀の今日では、タバコを吸う人を罪人のような目で見る人や、環境に協力的でない人を蔑む人というのは結構いるわけで、本人はそういう行為をすることで人類に貢献していると思い込んでいるが、実態はただの虐めであったり、自己満足に過ぎないということが多々ある。

昭和の初期の日本にも、こういう陳腐な思考から抜けきれず、時流としての軍国主義に過剰に反応した人が大勢いたものと推察する。

その典型的な例が、民間人にまで「生きて不慮の辱めを受けず」という戦陣訓を強要した軍の指導者である。

普通に常識を備えておれば、こんな馬鹿な話しはないはずである。

あの戦争中を通じて、政府の理念は実に素晴らしいものがあったはずであるが、今日アジア諸国から旧の日本が糾弾されるその大きな理由は、アジアに進出した日本軍の下層の部分の行為・行動が先方からの顰蹙を買っているのである。

このことを今に生きる我々はよくよく考えなければならないと思う。

立派な理念を実施しようとする、いわゆる権力者の舌の根も乾かないうちから、組織の下部のほうでは先方の顰蹙を買うようなことを平気でしでかしていたのである。

この事実は、軍隊をなしている人々、つまり我々のおじいさんや、お父さんや、兄や、弟や、夫たち、いわゆる日本人の庶民としての大衆の振る舞いが先方の顰蹙を買ったということである。

我々は戦後、アメリカやソ連の兵隊達が如何にも劣悪な人間かのようなことを言っていたが、我々の同胞の軍隊でも同じことであったわけである。

徴兵制の元での軍隊組織というのは、その国の大衆の成り代わりと見なしていいと思う。

南京大虐殺はあまりにも有名であるが、先方のいう被害の状況、つまり30万人もの被害者というのは白髪3千丈式の嘘ということはいえるが、多少の無益な殺生というのはあったろうと考える。

占領地に進出した我々の軍隊は、そこでは勝った側として相手の人々に対して大いに威張り散らしたことはありうると考える。

昭和の初期までの日本軍は、軍律の厳しさで世界に誇れる存在であったと思うが、それ以降の日本軍では、軍律の厳しさというものはなくなってしまったのではないかと思う。

その証拠に、青年将校たちの反乱が頻発したではないか。

将校が反乱やクーデターをするようでは、そういう将校を内包した部隊が外地に行った場合、どういう行動に出るのか察して余りあるではないか。

そういう部隊が唯我独尊的な行動に出れば、相手からの摩擦は避けられないわけで、それが証拠に昭和18年に東京で開催された大東亜会議では、それに出席したアジアの諸国からそういう苦情が呈されているではないか。

戦後こういう形で日本の旧の軍隊を糾弾することは非常に心苦しい状況になっている。

なんとなれば、その軍隊には我々のおじいさんや、お父さんや、兄や、弟や、夫たちが所属していたので、彼らの行為を誹謗することは偲びず、本人達も自分のしてきた行為を語ろうとせず、その上英霊となってしまった人の悪口をいうと言うことは、そういう人達を貶めることになってしまうので、どうしても口が重くなってしまう。

ある意味で我々、日本民族の負の遺産というわけである。

 

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