050610  2・1ゼネスト

戦後60年の憂鬱
    その4

占領初期の日本

 

マッカアサーは1945年、昭和20年8月30日に厚木にパターン号で到着し、9月2日には東京湾において、戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印を済ますと、早速日本統治の開始に掛かったが、9月11日にはもう戦犯容疑として39名の逮捕命令を発した。

同時に、「言論及び新聞の自由」に関する覚書を出したが、こういう占領政策というのは後世から見ると歴史ということになろうが、当時としては非常に輻輳していたわけで,例の戦犯という言葉も、今となっては適当かどうか非常に解釈が難しいところである。

「言論と新聞の自由」というのも、幾度も紆余曲折があって、当時は定見が定まっていなかったことは否めない。

ただ占領軍司令官としてのマッカアサーは、メデイアというものに関心を抱いていたことは確かで、だからこそ「言論と新聞の自由」ということを念頭において覚書を出したものと考える。

しかし、こういう行為はある意味で独裁者の統治手法と瓜二つであることに変わりはない。

「言論と新聞の自由」といいながら、すぐにプレス・コードなるものを出して、今度は反対に規制をし始めたわけで、こういう政治的対応というのはまさしく独裁者の手法そのものといわなければならない。

しかし、これも当時の状況を鑑みれば致し方ない面がある。

何しろ、敵陣へ乗り込んできて、つい1ヶ月前までは敵であった人々を統治しなければならないという状況を考えれば、そうそう善意の塊のように、絵に書いた餅を演ずるわけにも行かなかったろうと推察する。

プレス・コードに関して言えば、これは占領軍が自分に都合の悪い記事は公表を差し止めるという意図の下に出来た規制であったが、そのことは言葉を変えて言えば、マス・メデイアをコントロールするということであった。

日本のメデイアというのは実に情けない存在である。

旧体制の下では大本営発表しか取材方法がなかったし、新体制になればなったで、プレス・コードという規制を掛けられ、自分の見識というものが全く表せなかったことを考えると、まさしく権力の犬以外のなにものでもない。

こういうと「民主化の未熟だった時代ならば致し方ないではないか?」という自己弁護を引き出しかねないが、時代の殻を破ってこそ進歩があるわけで、それが出来ない以上、ただの売文業者という他ない。

それはそれとして、マッカアサーは次から次へと日本の旧秩序を破壊していったが、その中でも政治犯の解放ということが大きなポイントであった。

10月10日には府中刑務所を出所した日本共産党の徳田球一らは、出るや否や「人民に訴う」という声明を出したことは先に述べたが、占領軍の行なった旧秩序の破壊に伴って、治安維持法というものが撤廃されるや否や、日本では共産主義者が天下を取ったようにさえ見えたものだ。

翌、1946年、昭和21年メーデーでは食糧メーデーといわれるように、庶民からは食糧配給に対する鬱憤が大きなうねりとなって露呈してきた。

これは敗戦という成り行き上当然の帰結である。

その前の戦時体制の下では食糧生産に関わる総ての成年男子が兵役に回されていたわけで、農業を担うものがいなかったからである。

そこにもってきて戦地や、外地からの引揚者や、復員してきた人たちが巷間には溢れていたわけで、当然のこと食糧不足というのは必然的な流れであったと思う。

農家では、働き手の成人が皆兵隊として軍務に就いていたわけで、農業をするものがいなく、当然収穫も思うように行かなかったことは火を見るより明らかである。

ところが、そんなことは今ここで私がいうまでもなく、当時の人々にもわかっていたはずである。

にもかかわらず、「食糧寄こせ!」という大衆運動をどう解釈すべきか、という点が今の私にとっては大きな課題である。

この時の皇居前のシュプレヒコールでは「天皇はたらふく食っている!」という筵旗があったけれど、これも旧体制の下ならば完全に不敬罪にあたるものであろうが、たった1ヶ月でこうも豹変する我々同胞の思考というものをどう考えたらいいのであろう。

戦前の共産主義者たちはマルクスの思考を極めて忠実に、尚従順にトレースしていて、階級闘争を金科玉条と思い込んでいたので、階級の頂点にいる天皇を陥れたい、という潜在的願望があったからだとでも解釈すべきなのであろうか。

戦前の共産主義者たちは今の共産党員よりも教義に極めて忠実であったようで、革命を信じ、階級闘争を信じ、天皇制廃止を信じていたので、占領軍が統治をしている限り自分たちの要求が認められるとでも思っていたのであろうか。

それにしても、あの軍国主義の下で、天皇至上の雰囲気がわずか1ヶ月足らずのうちに見事にひっくり返るということは一体どういうことなのであろう。

あの戦時体制の下でもそれだけの潜在的なエネルギーが内包されていたということであろうか。

そのエネルギーが、治安維持法というたった一本の法律によって、パンドラの壷の中に押し込められていたということであろうか。

私はそうは思わない。

これらは我々の民族の日和見な潜在的な意識、先を見る先見性の賜物だと思う。

現状に如何に妥協すれば身の安寧が維持できるか、という思考回路によって、そういう傾向がコントロールされていると思う。

つまり、「バスに乗り遅れるな」、という心理だと思う。

戦前の軍国主義の下では、そのバスが「鬼畜米英」であり、「欲しがりません勝つまでは」であり、「本土決戦」であったが、それが1ヶ月も経つと「天皇はたらふく食っている」、「食糧寄こせ!」という風にバスが変わってしまったわけである。

右から左へと、我々の日本民族、大和民族というのは、雪崩をうって精神的な大移動をしてしまったものと考える。

その原動力は、我々の民族の持つ時流を読み取る先見性であり、潮の目を逃がさない機敏な日和見だと思う。

我々の潜在意識としてのこういう精神的な葛藤は、あくまでも外圧に対して如何に身を処すかという点で、極めて受動的なわけで、外圧そのものを押し戻す力はない。

21世紀の今日、平成17年5月から6月にかけて中国や韓国で勃発した一連の騒動も総て外圧なわけで、そういう国々から投げかけられた問題提起に対して、如何に受動的な態度を取るかということに振り回されている。

我々が、内なる力を誇示して毅然たる態度を取ったとすれば、それは必然的に外圧をより一層呼び寄せてしまい、事態は収拾の付かないところまでいってしまったに違いない。

だから、外圧に対して如何なる態度を取るかで、国内において意見が二分されているというのが現実の姿なわけである。

大東亜戦争が終わってみると、日本はそれに敗北したわけで、一般国民としては、天皇を中心とした日本の国家、大日本帝国というものに騙されたという感じは払拭しきれるものではなかったと思う。

「俺たちは死に物狂いで戦ったのに、敗戦とは何事か!」という感想は捨てきれるものではなかったに違いない。

ならば、その責任は軍部の高官と、政府に有るのではないか、そしてその上にいた天皇にもあるのではないか、という疑義は当然持つのが当たり前だと思う。

この国民の不満を見事に利用したのが共産党だと思う。

マッカアサーに開放された日本共産党の面々は、こういう国民の不満に上手に便乗して、それを大衆運動という形で拡大していったものと考える。

戦後の食糧難というものが何時まで続いたのか正確には知らないが、とにかく終戦の2、3年間は食うこともままならなかった困窮の時代であったことは確かだ。

旧軍人の家族は、世間の非難をモロに浴びて、文字通り持っている衣類を農家に持っていって、それこそ二足三文で芋やその他の食べ物と交換して竹の子生活を強いられ、戦災によって両親と死別した浮浪者(戦災孤児)と呼ばれた子供が巷には溢れていたが、農家とても労働力としての一家の大黒柱が戦死したり、復員前でいなかったのだから、日本全国がてんやわんやの混乱の時期であった。

こういう混乱の中では、米が金よりも価値があった。

何処に行くのにも米持参でなければ食にありつけなかった時代である。

しかし、こういう混乱の中でも、日本の行政は案外しっかりしていたと思う。

この時代、米穀通帳というのがあって、都会に住む人にとってはこの通帳がないことには米の配給が受けられず、それはいきなり死に直結する問題であったが、これは既に昭和16年、日本がアメリカと戦端を開く前に戦時体制として、米の配給の機構が出来上がっていたということである。

ある意味では統制経済であったが、国難に際してこういう手立てを予め施していたということは、極めて用意周到な措置であったといわねばならず、それは戦後の混乱期にも十分に機能していたということである。

こういうことが末端まで十分に機能していたということは、日本の行政が素晴らしかったと言っても良いと思う。

ところが我々は飽食に慣れてしまうと、このように上手く機能した行政措置に対する感謝の念を奇麗さっぱり忘れてしまう。

国の行政として当たり前といってしまえばそれまでであるが、この当たり前のことが当たり前に行なわれたことは非常に大事なことだと思う。

ともすると、為政者に対する不平不満のみ声高に叫ばれるが、当たり前ことが当たり前に行なわれたことに対する感謝の気持ちを失うということは、人間として未熟なことだと想う。

この時代の食糧難というのは、それこそ筆舌につくし難いものがあったが、今それを語る人がほとんどいない。

その中でこの米穀通帳というのは十分に機能を果したと思う。

この食糧難を見かねて、勝者であるアメリカは、エロナ基金というもので日本人に食糧を援助してくれた。

個人的には、このころ私は新制小学校に入学していたが、学校給食でコンデンス・ミルクを飲んだ記憶がある。

あまり美味しいものではなかったが、ミニマムの栄養補給だけは出来ていたに違いない。

そして配給ではナッツの缶詰とか、コンビーフの缶詰などというものが支給されたように記憶しているが、当時の我々には馴染みのないものではあったが、ミニマムの栄養補給にはなっていたであろうと想像する。

その意味で、私は子供心にも、負けてよかったとさえ想ったものだ。

それと同時に、アメリカ人はこんな良いものを食べているのかと、大いに驚いたものである。

我々には古来から敵に塩を送るということがあったが、あの戦争に勝ったアメリカは旧敵国の人間に食糧を送って飢餓から救ってくれたわけである。

しかし、外国からの援助だけではとうてい満足は出来ないわけで、今、私よりも年上の方々、60代から70代の人はあらゆる代用食を経験しているはずである。

私の個人的な経験からも、イナゴや様々な川魚、ヨモギからセリにいたるまで、山野に生えている食べられるものは何でも食べた時期があった。

戦後の初期においては、日本全国が似たりよったりの飢餓の線上をさ迷っているという状況であったので、革命の時期としてはもっともふさわしい時であったことは確かである。

 

2・1ゼネスト

 

そして、その革命の機運が最高潮に盛り上がったのが、1947年、昭和22年の、2月1日に実施予定であったゼネストである。。

ゼネラル・ストライキというものは革命の手段と手法であって、当時の日本の国民全部が飢饉と飢餓にあえいでいるときはまさしく革命前夜にふさわしかった。

日本の共産主義者たちは、そういう機運に便乗してここにゼネストを行うべく画策したのである。

このゼネストには、今でいうところの官公労を始めとして、全逓、日教組、総同盟等々、日本のあらゆる労働者が結集することになっていた。

それが実施されれば日本は完全に麻痺していたに違いない。

あれから60年余りたった今日、当時のこういう社会情勢に関して、誰も振り返って評価しようとしないが、あの原爆の落ちたときでさえ日本の鉄道は機能していた。

確かに、爆心地の近くでは不通箇所もあったであろうが、日本全体からすれば機能していたと見るべきであり、名古屋空襲、東京空襲のときでも該当の地域では部分的に不通であったかもしれないが、日本全体では機能していた。

終戦の8月15日でさえも鉄道はきちんと機能していたのである。

それが人為的に日本全国で完全に止まるということは、我々、日本人が自らの力で日本の息の根を止めるということである。

本土決戦並みの愚行であったろうと思う。まさしく自殺行為である。

共産主義者に煽動された諸々の労働組合はそれをしようとしたのである。

しかし、それは前日マッカアサーの指令が出て中止となって、あの井伊弥四郎の「一歩後退、二歩前進」という悲痛な声明となって現れたのである。

あの時期にこの「ゼネストをやろう!」という発想を、我々は深く考察しなければならないと思う。

あの社会情勢の中で、確かに、日本の津々浦々に至るまで飢餓と困窮が行き渡っているときに「革命をしよう!革命を起こそう!」ということは、共産主義者ならずともそういう衝動に駆られることは否めなかったと思う。

革命でも起こさないことには、我々は生きながらえない、と思い込むのは極普通の感覚であったに違いない。

しかし、そういう思いに浸ってしまった人は、やはり社会の表層だけを見ていた人たちだろうと思う。

海の潮目を船の上から見ている人たちだろうと思う。

屋根の上の風見鶏を下から眺めている人たちだろうと思う。

あの状況下で、ゼネストを実施したら、どういう状況が現出するのか全く考えないで、「バスに乗り遅れるな!」、とばかりに共産主義者の煽動に飛びついた人たちだろうと思う。

この民族の性癖というべきか、我が民族の付和雷同性というべきか、先行きを無視した思考は、先の太平洋戦争にはまり込んで行った思考回路と全く同じ軌跡を踏襲しているではないか。

先が読めないまま、周囲の雰囲気に飲まれて、さも先見性があるような気分に浸って、提灯持ちの後にくっついて繋がって歩くという姿ではないか。

先のことが読めないというのは神様でない限り解決が付かない問題であるが、我々、日本民族の発想は、ここで「やって見なければ結果は判らない」という思考に行き着くのである。

だから、この考え方は、我々日本人には非常に受け入れやすい面があるが、それは「己を知り敵を知る」という努力をせず、「運を天に任せる」という非常に不確定な発想である。

やるからには徹底的に相手を研究するという努力をせず、「やって見なければ判らない」という安易な思考のまま、ことに当たってしまうから結果が惨敗となるわけである。

「やって見なければ判らない」というのは絶対的な真理なわけで、だからそれを旗印にして結論を急がせるのが我々の在野の人々であって、在野の人々は責任がないから非常に無責任に為政者を責めることができるのである。

ところが、為政者としては自信が無いまま決断を下してはならないにもかかわらず,周りから責められるので、敢えてその欲求を飲まざるを得ない。

我々の政治の状況というのはすべてこうである。

為政者が為政者として確たる信念で事に当たると、それを独裁と称して忌み嫌うわけで、為政者が在野の人々に迎合すれば、結果は惨敗となるが、実施したのが為政者であるから悪いのは為政者だということになってしまう。

統治する側とされる側では当然ものの見かたは相反するわけで、在野の立場からすれば、当面の負の責務は回避したいのが常であるが、統治する側にしてみれば、長期的な展望に立って、今は少々我慢を強いられても先行きに展望があれば、そちらのほうを選択したい、と想うのが普通だ。

昨今の日本の進歩的知識人と称する人々、評論家と称する人々は、統治する側を糾弾すればそれでことが足りると考えがちであるが、統治する側というのは私利私欲で政策を牛耳っているわけではない。

戦後の政治では、党利党略という部分が少しは見え隠れしているが、それとても個人の利益追求という範疇のものではない。

総じて日本の為政者というのは国民全般の利益追求ということで政策を担っていると思う。

外国の為政者のように、政権を担っている間に蓄財を図るということはほとんど皆無といってもいいと思う。

ところが昨今の政府を糾弾する手法というのは、さも個人的な蓄財をしているかのような問題提起の仕方をしているが、これも現実をよく自分の目で見、自分の考えで思考していないという証拠で、人のいうことを受け売りしているに過ぎない。

こういう日本人の政治的感覚がこの昭和22年のゼネストのときにも見事に露呈しているわけで、あの時代のあの状況から見て、あのタイミングでゼネストを実施すればどういう状況が現れるのか、普通の常識を備えたものであれば必然的にわかるものと想う。

それでも尚遂行しようとした井伊弥四郎や労働界の幹部は、如何に先見性に欠けていたかということである。

まるで旧帝国軍人の高級官僚たちが太平洋戦争、大東亜戦争に嵌りこんで行った軌跡と全く同じではないか。

旧軍隊の高級官僚と、労働界の頂点に立つものが、同じ日本人である限り、同じ行動パターンを踏襲している構図だと思う。

双方とも、現状認識というものを考慮することなく、目の前の現象に目を奪われて、先のことを考慮することなく、猪突猛進しようとしたわけだ。

そして在野の人々の立場からすれば、目の前の問題を早期に、目に見える形で解決してもらわないことには、為政者や組合のトップにいる人々の値打ちがないわけで、その解決を急がせるという構図だと思う。

確かに、昭和22年という時代では、インフレは止めどもなく更新し、庶民は飢餓と貧困にあえいでいるので、そういった問題の刷新は、早急に図らねばならなかったことはいうまでもないが、だからといってゼネストを打てばそれが解決できるか、という補償は何処にもないわけで、すればしたで尚一層の混乱を招くことは確実であった。

マッカアサーは当然そのことがわかっていたから、土壇場でそれを中止させたが、それがわからないままストに入ろうとした井伊弥四郎の思考というものを我々は厳しく糾弾しなければならないと思う。

これは井伊弥四郎の個人の問題ではないと思う。

日本共産党の問題だと思う。

井伊弥四郎そのものは国鉄労組の人間で、共産党員であったかどうか知らないが、国労そのものが共産党員に牛耳られていたことは否めないと思う。

当時の状況を鑑みるに、国労ばかりではなく、官公労も、日教組も、全逓も、総同盟も、あらゆる労働組合に共産党員がもぐりこんでいたことは歴然たる事実であろう。

マッカアサーの指令で、共産党員も公然活動が許されていたので、戦中のように非合法ではないが、合法的なるが故に、更に活動がエスカレートしてしまって、際限なく非合法に近づいてしまったのである。

このあたりの行動パターンも、戦前、戦中の日本の軍隊の行動パターンに驚くほど類似していると思う。

つまり、自己規制が効かないという点で、根が同じ日本人あるが故に、自分のしていることの良し悪しが判らなくなるという特徴がある。

何処までが許される行為で、そこから先はしてはならない行為だ、という判断が出来ず、後からアジられると際限なく突き進んでしまうという傾向がある。

この、後ろから大勢のものがアジるという行為を、我々はよく注視しなければならない。

後ろから大勢のものがアジるということと、「煽動」とは少々ニュアンスが違うが、この行動に大儀が絡みつくと、それは正当化されてしまうことになり、これが非常に怖いことである。

戦中に、神風特攻隊に志願して大空に散った若者達は、ある意味で後ろからアジられてその役を買って出たといえるし、「煽動」に乗せられてその役を引き受けたとも取れるが、これと同じことが戦後の日本共産党の内部でも起こっていたわけで、それがもう少し後で出てくる戦後の三大不思議話しに繋がっていると思う。

 

民主化という欺瞞

 

2・1ゼネストというのは、マッカサーの一声で事なきを得たが、それで政情が安定するというものでもない

しかし、この政情不安はマッカサーがいたお陰で革命にまで進展しなかったということは言えていると思う。

当時のマッカアサーの威力というのは、天皇陛下以上で、そのイメージを植えつけたのは云うまでもなく、あの二人で並んだ写真に他ならない。

あの写真を目にした日本人は、あれで完全に自分たちを統治するものが天皇からマッカアサーに代わったということを認識したに違いないと思う。

そして、マッカアサーが共産主儀者たちを解放したことによって、その後の日本は計り知れない影響を受けることになった。

ところがこれらの影響は、民主化という言葉で言い表されていたので、それが共産主義者によってなされていることに全く気が付いていない。

というよりも、GHQによってなされたことが、共産主義者の狙っていたことと軌を一にしていたので、そのことに気が付いていない。

先に述べた農地改革なども本来ならば日本共産党がすべきことであったが、これをGHQがしてしまったわけで、日本共産党といえども刺身の褄のような存在でしかなかった。

こうした大枠の改革はGHQの独壇場であったが、日本の共産主義者たちは既存の組織に潜り込んで、恰も、がん細胞のように組織の内部から日本の従来の社会秩序、既存の価値観、価値体系というものを深く静かに蝕んできた。

その結果として、今日、21世紀の日本の姿があるわけで、今、誰しもそのことを考察しようとはしていない。

マッカアサーは、日本の国内でこういうストライキの要求が出てきたことに対して、これは日本の政府、当時の政府に欠陥があるのではないかと推察して、吉田茂に総選挙をするように指示を出した。

この時点では共産党の支持はさほど多くはなかったが、これが昭和24年の総選挙では一挙に35人と、9倍弱の躍進であった。

この間には、韓国の独立とか、中国の共産主義革命の成就、即ち中華人民共和国の成立とか、外部の影響があったとはいえ、この戦後の一時期は、日本共産党の蜜月の時代であった。

その間に、戦後の三大不思議、不可解な事件が起きている。

下山事件、三鷹事件、松川事件という大きな事件であるが、このいづれにも共産党員がかかわっていたのではないかと噂されていたが、結論としては証拠不十分で、関わっていたと思われていた共産党員は冤罪ということで無罪放免となっている。

下山事件というのは、当時の国鉄総裁の暗殺という意味合いからテロとも取れるが、これも迷宮入りだし、三鷹事件と松川事件は鉄道関係者でなければし得ないにもかかわらず、犯人はわからずじまいである。

普通に、共産主義者があらゆる組織の中に浸透したといった場合、それはどうしても国鉄だとか、日教組というような、明快に立場を表明している組合を念頭においているが、本当は目に見えないところに浸透した共産党員の活動が怖いのである。

例えば、高級官僚、裁判官、検事、警察の幹部、こういう国家の機構の中枢にまで浸透した共産党細胞の存在が非常に怖いが、これを炙り出すということは現段階では不可能だと思う。

又、そういうポジションの人が共産主義者であったとしても、必ずしも共産党員である必要はないわけで、通常の職務の中で、共産主義的な判断、決断をさりげなくすることによって、旧来の秩序、及び価値観を転覆させることは簡単なことである。

学校の先生が、普通の授業の中で「天皇は戦争で多くの人を殺したから天皇制は廃止にしなければならない」と教えたところで、それだけのことでその先生を追放していい理由にはならない。

あくまでも法規に照らして法規に違反しない限り、追放することは出来ないわけで、それこそが民主的社会の恐ろしいところであり、アキレス腱にもなっているわけである。

日本共産党は戦前・戦中を通じて、共産主義の大命題であるところの武力革命、武装蜂起、天皇制廃止を唱えていたが、牢獄から開放された途端、昭和21年2月には、武装蜂起、武力革命を放棄して、平和革命方式を採用すると表明したが、これは一体どういうことなのであろう。

共産党が共産党の大命題である武力革命を放棄してしまえば、もう共産党を名乗る値打ちが無いではないか。

治安維持法のある厳しい時代に、武力革命を信奉しながら、占領の時代になって、牢獄から解放されると、それを放棄するということはどう解釈したらいいのであろう。

中国ではまだ国民党と中国共産党が戦争している最中に、さっさと日本では平和革命方式を採択してしまったわけだ。

これは一体どういうことなのであろう。

ここにも日本民族としての潜在的行動が露呈しているのではないかと思う。

つまり、内輪喧嘩である。仲間割れである。

人が複数寄り集まれば、その中では意見の対立というのは自然発生的に現れるのは致し方ない。

問題は、それにどういう風に対処するかということだと思うが、これこそ日本人の組織の根底に横たわる澱のようなものではないかと考える。

大日本帝国の軍部の高級官僚から、日本共産党の末端の細胞に至るまで、日本人の組織では必ず仲間割れというか、仲間内での意見の対立が生まれ、その処理如何で組織そのものが壊滅してしまうわけである。

そういう混沌とした状況を一番明快に解決する手法は外圧を利用することである。

江戸時代末期の混沌とした政治状況を打破したのは、たった4杯の黒船の到来であったが、内輪の内紛に対する外圧というのは、何も外国の影響でなくてもいいわけで、誰か相当力のあるものが外から圧力を加えればことは収集するということである。

ところが、その外圧というのが国家権力だとすると、一斉に批判の矢が飛び交うことになるが、国家権力の中に共産主義に被れた官吏がいて、極普通に当たりまえの事として通常の業務の中に、共産主義的思考を紛れ込ませてしまうと、批判の矢が飛び交うことがないので、世の中は際限なく堕落の方向に転がっていくということになる。

共産主義者にとって狙った通りの結果になるということである。

共産主義者である限り、党員であろうとなかろうと目的は一つなわけで、それは現行の社会秩序の破壊の一言に尽きるわけであり、その目的のために通常の業務の中でそういう方向に判断や決断を下せば、世の中というのは知らず知らずのうちにその方向に向かうと思う。

勝った側の言い方によれば太平洋戦争、我々の側の言い方によれば大東亜戦争、この戦争で西洋列強の究極の戦争目的は、日本が再び太平洋やアジアで隆盛を図れないようにすることであった。

ABCD包囲網というのは、チャイナ・Cを除けば皆、昔の西洋列強なわけで、彼らは日本という国の興隆が真底恐ろしかったのである。

彼らの視点から日本を見れば、眠れる獅子といわれた大清帝国を下し、史上最強といわれたロシアの軍隊を打ち破り、ゼロ戦は作る、戦艦大和は作る、という国の存在が恐ろしくてならなかったに違いない。

そのことから考えれば、もう二度とそういうことを日本にさせてはならない、と考えるのも当然の成り行きである。

そのためには如何なる方策があるかと考えたとき、日本人というものを民族ごと骨抜きにする以外にそれを防ぐ道がなかったわけである。

民族ごと骨抜きにするには、日本人が古来からもっている価値観や、社会的秩序を徹底的に否定しなければならないと考えたわけで、対日占領政策というのはその思いを実現すべく、その線に沿って、出来上がっているのである。

そして、それは言葉を変えて表現すれば、民主化という言葉に置き換えられるが、この言葉、つまり民主化という言葉を水戸黄門の印籠のように掲げ、それに依拠して改革が進められると、我々、日本人は、自分たちが骨抜きにされていることに全く気が付かなかったのである。

尚且つ、それは不思議なことに、共産主義のすすめる社会秩序の破壊とも全く軌を一つにしているわけで、共産主義者がしようと思っていたことは、全部GHQがしてしまったわけである。

共産主義者は組織の中に潜入して、その細かい軌道修正をするだけで済んでしまったのである。

ただ彼らの失敗は、為政者というものを悪者扱いにして協力を拒むという点であった。

共産主義というからには、統治者というのは統治する立場なるが故に、どこまで行っても悪者でなければならないわけで、その殻が破れなかったので、GHQの改革にただ乗りした割には評価されていない。

我々の政治の状況というのは、戦前・戦中は政治と軍事が輻輳してしまって、何処までが政治で何処からが軍事だという境界線が不明であったが、戦後は軍事というものがなくなってしまったので、丸々政治の範疇ということになった。そのことにより、戦後の民主政治というのも民主化の度合いに非常に稚拙な部分があったことは否めない。

我々、大和民族というのは真の民主政治には適合していないのかもしれない。

というのも、理論整然たる議論ということが我々には出来ない。

テレビで国会答弁を聞いていても、質疑応答の論戦が全く下手である。

質問する側に、質問することの意味がわからず、それを曲解して自分の所信を述べているようなものまであるわけで、法案の審議に付いて質問するということの意味が判っていないのではないかとさえ思える。

国会における審議では、いきなり答えられないような質問を唐突に出されては審議が中断してしまうので、予め質問の要領が答弁する側に渡されているにもかかわらず、質問そのものが揚げ足取りに終始している。

国会議員の国会にける質問が、揚げ足取りに終始していては意味がないと思う。

問題の本質を突く質問でなければ、国会の質疑応答として意味を成さないのではないか。

問題の本質を突く質問が出来ないということは、審議されている議案に対して不勉強のそしりを受けても致し方ない。

戦後の政党政治の中にける野党の存在というのは、与党に対して反対のベクトルが大きければ大きいほど意義のある野党という認識のようだが、この発想そのものが既にお可笑しい。

提案された議案に対して、与野党とも「絶対反対!」という態度は、まことにおかしなことだと思う。

法律、法案の提出、提案された法案の審議というのは、そこにたどり着くまでの過程で、国民の何らかの希求があったからこそ、そういうことになるわけで、それがオール・オア・ナッシングなどということはありえない。

国会議員たるものは、そこをよく考えなければいけない。

現状では政党のための政治であって、党利党略のための政治に摩り替わってしまっているところが不毛の政治ということだと思う。

これも我々日本人が言葉で議論するという民主主義の根幹をマスターしきれていないことが原因だと思う。

我々の政治下手というのは、わが民族の持つ根源的な要因に起因しているのではないかと思う。

我々は古来から「和をもって尊うとしとす」という概念をもっており、「万機公論に決すべし」ともいうが、ここで言われている「和」とか「万機公論」というのは、長老の根回しを指し示しているのではないかと思う。

会議をする前に長老の根回しがあって、それで大体の結論を確定しておいて、会議ではそれを確認する程度に治めるという意味ではないかと思う。

会議の席では「喧々諤々、口角泡を飛ばすような議論をするな」という意味ではなかろうか。

会議の席では、お互いに和気藹々のうちに,取り留めのない話でお茶を濁して、血走った議論をするなということではなかろうか。

「万機公論」にということは、会議の俎上に載せる前に、あらゆる意見を聞いて、用意万端整えてから会議に臨めという、ということではなかろうか。

我々の政治下手は、公の場では相手の揚げ足取りに終始して、言葉尻をつかまえては溜飲を下げて、それで議論に勝ったような気分に浸って、議案の中味に付いての審議が全くお留守になってしまっている。

そして最後の採決になると、「少数意見を汲み取れ」ということになるが、少数意見を汲み取っていれば、民主主義というものが破綻してしまうことに全く気が付いていない。

多数意見で事を決して、そこに少数意見を加味したとしたら、元の木阿弥に戻ったということで、採決の意義が失われ、物事が決まったことにはならないではないか。

こういう馬鹿馬鹿しさを国会議員たるものが演じているわけで、これこそ政治が三流といわれる所以であろう。

マッカアサーがいみじくも言った「日本人の政治は12歳の子供だ」という言葉は、実に的を得た言葉だと思う。

マッカサーの指針

 

マッカアサーは、連合国軍最高司令官という立場であって、彼の行動はアメリカ本国、乃至は連合国としての極東委員会の管理下におかれていた。

彼の立場からして、アメリカ本国は致し方ないにしても、連合国極東委員会の存在は非常に小うるさい存在であった。

それは無理もない話で、対日戦に関して言えば、実質、アメリカ一国が日本と戦ったわけで、連合国の一員であるソビエットなどは、まるで火事場泥棒的な存在だということはマッカサーにも判っているし、中国などは連合国の一員とはいうものの、対日戦に関してなに一つ戦勝国側に貢献したところがないわけで、そういうことが全部わかった上で、連合国極東委員会の下に身を置かなければならない不合理はやるせないものがあったに違いない。

そうした状況下で、昭和21年3月20日、極東委員会は、日本の憲法改正に伴い、日本の世論を尊重するように決定した。

この決定を見たマッカサーは、ここで大いに心配になったものと考える。

日本の現地にいない極東委員会と、現地で実際に占領業務をしているマッカアサーでは、当然、認識のずれがあることは考えられることで、こうなることを予想していたマッカアサーは、先手を打っていたのである。

その年の2月3日に、マッカアサーは「日本国憲法はこうあるべし」という指針を隷下のGHQ内、民生局ホイットニーに示した。

それを受けて、民生局内のスタッフ総勢14、5名のものが10日頃までに大慌てで作ったのが今の日本国憲法の素案となっているわけである。

ところがその間に、日本側でも憲法改正の試案(松本試案)が作られて、それを13日にマッカアサーに提出したところ、これは前の憲法の小手先の改革でしかなかったので、マッカサーはそれを一蹴して、代わりに民生局案を示し、「このようにせよ!」と言われてしまったのである。

こう出られると、日本側としてはそれを翻訳するだけしか選択肢がなく、それが今日の日本国憲法となっているのである。

この経緯はある程度、勝者と敗者という関係、占領軍と被占領国民、戦勝国と敗戦国という立場からすれば致し方ない面がある。

この一連の過程の中で、マッカアサーは戦争の無意味さというものを理解し、戦争が人を苦しめる現実というものを理解し、もう人類は戦争などすべきではない、ということ思い募らせていたことは事実であろう。

それで、新しい国家には戦争をする術を与えてはならない、という理想を盛り込むことにした。

つまり、彼は理想主義者であるが故に、主権国家が戦争を放棄することなど、あくまでも理想であって、現実離れしていることを周知しながら、実験的に日本国憲法の中に紛れ込ませたのが戦争放棄の第9条である。

彼、マッカアサーは軍人一家で、彼自身、戦争の無意味さというものを人一倍理解していたが故の発想であろうが、それは同時に人類の理想ということも承知していたわけで、理想である以上、現実とは同じにならないということも承知していた。

日本国憲法に戦争放棄の条項を盛り込ませたということは、あくまでも彼の実験であったわけで、1950年、昭和25年、5月に朝鮮戦争が始まった時点で、彼の実験は実質的には終焉を向かえてしまったわけである。

彼は、被占領国に戦争放棄を押し付けながら、4年後にはそれを自分から覆さなければならないことになった。

もともと彼自身も戦争放棄ということをそう真剣に考えていたわけではなく、太平洋戦争ではアメリカ将兵の人的消耗が相当に激しかったので、こんなことをそうたびたびされたら叶わないという、軽い気持ちで実験を試みたにすぎないと思う。

そして、彼の隷下の民生局にはニュー・デイラーと称するアメリカでも革新的な人々が集まっていたので、彼らはそういう意味でも、日本という新しいフィールドで、新しい実験をしたわけである。

いわば我々は実験台にされたわけである。

尚、戦勝国が被占領国の憲法にまで関与することはウイーン条約に反することもマッカサーは承知していたので、彼は自分が押し付けたというポーズを極力押さえ、日本側があくまで自主的に憲法を作ったかのようなポーズを取らなければならなかったのである。

何処の国の主権国家でも、その国の憲法を作るともなれば、その国の最高の知識人を集結させて、練に錬って作り上げるのが普通であって、占領軍の一セクションがわずか一週間かそこらで書き上げたものを採択するところなどないはずである。

この時期、昭和22年から23年という、戦後の復興もまだ軌道に乗っていないこの時期、占領下という状況においてはそれも致し方ない面がある。

しかし、そういう状況下で制定された憲法である以上、作った側、つまりGHQの民生局の面々も、これは暫定的なものだという認識であった。

主権を回復したならば当然改正する、されるに違いない、あくまでもそれまでの暫定的なものだ、という認識であった。

だからいい加減に作ったというわけではないが、地球規模で見て、普通の常識を備えた人ならば、そう考えるのが当たり前だと思う。

ただし、この憲法は旧来の我々の常識を完全に覆すには十分なインパクトを持っていた。

ある意味で、大きなカルチャー・ショックであって、それは我々の旧来の因習や、慣習や、ものの考え方を根底から覆すことには大きく貢献した。

ところが戦争放棄の条項は、今日では大きく状況が変わってきて、戦後しばらくの間、占領下にある限りにおいてはアメリカ軍というものが我々の上に覆いかぶさっていたので、我々は戦争放棄、つまり自衛戦争までも放棄したままでも生きておれた。

ところがサンフランシスコ講和会議で、日本が再び主権を回復したならば、自衛戦争までも放棄するということは、理論的にもありえないわけで、だからこそ、それを作った人たちも、自分たちの作ったものは暫定的なものだ、という認識でいたのである。

そして今日の日本というのは、アメリカに次ぐ経済大国である限り、自分の国を自分で守ることを規定していない憲法などというものは、全く意味を成していないわけである。

尚、その上、日本の自衛隊の実力というのはアジアでも決してひけをとらないところまで来ているにもかかわらず、憲法のみ占領下のままでは、どうにも陳腐といわざるを得ない。

マッカアサーは自分が軍人なるが故に、戦争の無意味さというのは身に沁みて理解していたわけで、戦後の廃墟の中で、無に等しい日本には、再軍備という負の負担を掛けまいとして、人類が今まで考えたこともない戦争放棄という理念、理想の実現を試みたが、それも朝鮮戦争が勃発すると、一気に吹き飛んでしまったわけである。

自分たちが占領している間は、被占領国が戦争放棄していても、それは何ら自己矛盾を呈しないが、被占領国が主権を回復して、主権国家として世界に位置つけられれば、主権国家が自主的に、かつ一方的に戦争放棄するということは、主権そのものを放り投げたに等しいことである。

敵対する相手に、好き勝手に欲しいものを持っていってくれというに等しいことではないか。

1951年、昭和26年のサンフランシスコ講和会議は、日米安保条約とセットになっているわけで、これがあったから我々は戦争放棄したままでも、好き勝手にされることはなかったが、安保条約というのはあくまでも条約であって、アメリカ側の思惑が大きく左右している。

アメリカが自分の国益から見て、メリットがないと判断すれば、いつでも解消されるわけで、それでも我々が戦争放棄の憲法を抱えたままで、この生き馬の目を抜く国際社会で生きておれるかどうかということだ。

今でも、21世紀にいたっても、日本国憲法を改正するのに反対するグループがあるが、その人達というのは、あまりにも人間というものを知らなすぎると思う。

日ごろ、善意の人たちとだけ付き合っているので、世の中は善意の人ばかりだと思っているものと想像するが、この世の中にはそうそう善意の人がいるわけではなく、人の弱みにつけ込んで甘い汁を吸うことに執心している人も掃いて捨てるほどいる。

理想や理念を掲げれば、それがそのまま通るというものではない。

理想と現実というものをよく自分の目で確かめなければならない。

マッカアサーも、自分の理想、理念を自分が統治している日本国の憲法に盛り込んでは見たものの、それは朝鮮戦争が勃発すると一気に現実に引き戻されて、時の首相吉田茂に自衛隊(この時点では警察予備隊)の創設を指示している。

人々を統治する側というのは、大なり小なり自分の理念、理想を実現しようと努力しているであろうが、それは常に現実に阻まれるわけで、そこで施策が理想とかけ離れたものになってしまうのである。

ところが、在野の統治される側、つまり大衆にしてみれば、自分の行為、行動に責任が伴わないので、いくらでも理想論をぶち、理念を謳いあげ、声高に為政者を非難できるが、こういう無責任な大衆の声に迎合すると、為政者としては失敗に繋がりかねない。

民主主義の世界では、大勢の声は「善」であるという考え方が普遍的であるが、それはポピュリズムというもので、必ずしも善政を保証するものではない。

日本国憲法というのは、誕生のときから大きな矛盾を内包していたわけで、その元凶はいうまでもなく戦争放棄の条項である。

主権国家が(当時は占領下であった)自存自衛の戦争まで放棄するということは、人類誕生以来この時までなかったわけで、自分の国を守るということは、主権国家として第一の筆頭課題であったにもかかわらず、それを全面否定した第9条というのは、本来ならば噴飯ものであったはずである。

ところが、天皇よりも偉いマッカアサー元帥からそれを言われると、我々には言い返す言葉もなかったに違いない。

だから、あの状況下で、占領軍の意向を飲まざるを得なかった状況はよく理解できる。

 

護憲論者の発想

 

けれども問題は、あれを「平和憲法だ!」という我々、同胞の思考回路である。

第9条で戦争放棄を謳い、「もう我々は決して戦争は致しません」と宣言しているから「平和憲法だ」、という言い分には全く納得がいかないものを感じる。

自衛のための戦争も真っ正直に否定しているわけで、それでいて安保条約にも反対している人達というのは、もう日本の国民ではないと思わなければならない。

中国の回し者か、韓国の回し者か、北朝鮮のスパイとでも言わないことには説明がつかないではないか。

自分の国というものを全面否定しているわけで、主権国家の国民足り得ていないではないか。

戦争というものは誰しも好き好んでするものではない。

戦争になる前には当然話し合いが行なわれるわけで、その話し合いに双方の国益が絡んでいる以上、そう安易に妥協できるわけもなく、話し合いが暗礁に乗り上げたとき、問題を解決するためには最後の手段として武力行使をちらつかせて、相手に妥協をせまることは国際社会では常套的な手法であって、この時、我が方は「決して武力攻撃をしません」と宣言してしまえば、我が方のみが何処までも妥協を強いられて、我が方の国益は全く守られないということになってしまうではないか。

それでも尚戦争をしたくないとなれば、これはもう奴隷に成り下がるほかない。

戦争をしたくないというのは、いづれの国でも同じであって、交渉が行き詰まったとき、時と場合によってはそれも辞さない、という意志を表明することによって、相手も戦争したくないのだから、この辺りで妥協しようかという風に外交のカードとなるわけで、何でもかんでもすぐにドンパチをすればいいというものではないし、そのことは赤ん坊でも判っていることである。

祖国の主権を守るためには戦争、武力行使も辞さないという考え方、態度は地球規模で普遍的なことである。

目下、国連加盟国は191カ国あるということであるが、日本を除く190カ国では極々普通の常識になっていると思う。

それは好戦的ということと全く次元の違うことである。

そしてもう一つ我々が考えなければならないことは、憲法改正ということがオール・オア・ナッシングとなって、今の護憲派の人々の主張というのが、日本国憲法を一字一句触ってはならないという思考に固まっていることである。

21世紀という時代に合わせることが罷りならぬという論法に陥っていることである。

先の、明治憲法を不磨の大典として崇め奉った結果として、それが時代状況に合わなくなって、現実と憲法の乖離が大きくなった結果が、先の戦争の根底に潜んでいるという認識に欠けている。

明治憲法は、明治22年に公布されたが、それが昭和の時代に入るともう古くなって社会の現実と合わなくなっていた。

それだけ社会の近代化が早かったわけで、明治の残りの時代と大正時代と昭和の20年で幕を閉じているのである。

人間の営む社会というものが日進月歩で進化しているならば、憲法もその変化に合わせて小まめに修正してしかるべきである。

護憲派の人々は、この発想に真っ向から反発しているわけで、憲法が時代状況によってころころ変われば、時の為政者によって都合の良い様に変えられるから嫌だという論法だろうと思う。

しかし、戦後の日本の政治の状況を見て、為政者が自分の個人的な意思で事を成した例があるであろうか。

吉田茂の講和条約と日米安保、岸信介の安保改定、佐藤栄作の沖縄返還、田中角栄の日中正常化交渉等々これらの功績は本人の個人的な意思であったろうか。

一見、個人の意思のように見えるが、それらは当時の日本国民の潜在的な願望、欲求、願いを実現したわけで、独裁者が個人的な意志でことにあたったわけではない。

民主政治の中で、国民の大多数の願望を集約した結果を具現化したのであって、ワンマンな独裁者が自分の願望を勝手気ままに実現したわけではない。

民主主義のシステムと、法律の枠組みの中で、国民の声を集約して、それを具現化したものと考えなければならないと思う。

私は戦争を賛美するものではないが、昔から言われているように「人の嫌がる軍隊に、自ら進んで入る馬鹿もいる」という言葉は世界的規模で正鵠を得た言葉だと思う。

この地球上の何処の国に行ってもこれは真実だと思う。

出来れば誰でも兵役など避けて通りたいと思っていると思う。

しかし、主権国家の国民たるもの兵役に就くことが国民の義務ともなれば、馬鹿だとか嫌だとか言っておれないわけで、地球規模で見た場合、こういう国家、つまり徴兵制を採用している国家のほうが多い。

兵役等という、誰でも嫌がる仕事を、志願制に頼っていては人が集まらないので、強制的に徴兵制でかき集めるという構図だと思えばいい。

戦後の日本人の生き方を60年も見てきて、それでも尚、憲法を改正すれば軍国主義に逆戻りするという思考は、如何に我々同胞の資質、本質、現状認識がないのかということを露呈してしまっている。

狼少年と同じで、「狼が来る、狼が来る!」と、ありもしないことを声高に叫んで、自分では警告を発しているつもりであろうが、我々、同胞の現実の姿を如何に知らないかということだと思う。

「9条があるから平和憲法だ」という論理は、あまりにも現実の人間というものを馬鹿にした発想で、こういう夢想から覚醒しないことには、我々は、またまた奈落の底に転がり落ちる危険性がある。

マッカアサーの指示で出来た憲法も、価値が全くなかったというわけではない。

あの状況下では十分に価値があり、9条もアメリカの占領下では致し方ない面があったことは否めない。

占領下の日本には、選択の余地が無かったわけで、だからこそ我々は「押し付けだ!」というのだけれど、あれは押し付けではなく日本人の自主的なものだ、という大学教授もいるのだから人様々だ。

あの日本国憲法は、我々の旧来の価値観を180度ひっくり返したことは事実だと思う。

その中でも、婦人の地位向上に貢献したのはゴードン・シロタと称する、当時22、3歳の若い娘であった。

彼女はGHQの民生部に属していたので、この憲法草案の作成にもかかわりをもっていた。

それで「身の回りの資料をかき集めて一週間ぐらいで作り上げた」と本人がテレビのインタビューで答えていたが、彼女は彼女なりに職務に忠実たらんとていたことは頬笑ましいが、それを戦後の日本人が後生大事に金科玉条のように守り通すということは、少々陳腐な光景ではなかろうか。

彼女が若い女性だったから非難するわけではない。小娘が作った文章だから非難するわけではない。

それを金科玉条として崇め奉っている同胞の姿が、餌を投げてくれるヤンキー娘に尻尾を振って擦り寄っていく犬に見えてならない。

憲法の条文を、偉い学者が頭を捻って書いたものではないので、値打ちがないと言うつもりはないが、作られた時代状況というものを考えれば、然るべき時に改正して当たり前、という発想に至るのが普通ではなかろうか。

9条の理念も、残せるものは残せばいいわけで、全く改正が罷り成らぬという論法は成りたたないと思う。

 

吉田茂の発想

 

戦後60年の間に、一番改正の時期としてふさわしかったのは、云うまでもなく講和条約を締結して再度主権を回復し、新たに国際社会の一員として世界に認められたときだったと思う。

この時の首相は吉田茂であったが、彼自身の考えの中には、憲法改正も当然視野に入っていたこととは思うが、彼の場合、外交官の道を長いこと歩んでいたが故に、軍隊、軍部、軍人というものに対する不信感が相当に強かったのではないかと思う。

彼の考えの中では、主権国家が軍隊を持つことは当然であろうが、日本民族の軍隊だけは何とも信じきれない何かがあると思っていたものと思う。

それは即ち自分の民族に対する不信感であったと思うし、国益を維持するのには外交、つまり遠謀術策で事足りると考えていたものと思う。

これは今の平和論者のいう「話し合い」ともいくらかニュアンスが違うわけで、口先の騙し合い、裏切りあい、ブラフをかける、脅し、賺しというものを縦横に使って、武力行使をせずに国益を維持しようというものだと推察する。

朝鮮戦争の勃発が1950年、昭和25年6月25日に始まると、8月10日にはGHQは警察予備隊の創設を首相吉田茂に指令してきた。

このことは、占領軍が日本に対して再軍備させようと図ったけれども、軍隊というもに不信感を持っていた吉田茂は、極力抵抗して、その妥協案として警察予備隊という呼称でお茶を濁したわけである。

あの時代状況から考えてみると、日本はまだまだ戦後の復興も軌道に乗らず、疲弊困憊していたわけで、その中で軍事費を捻出する余裕など全くなかったため、吉田はアメリカのお古の兵器で装備して、一応マッカアサーの顔を立てたわけである。

吉田にしてみれば、主権国家たるものは軍隊を持つのは当たり前なことは充分承知していたが、当時の日本の状況から見て、それでけの余力がないと察していた彼は、それをアメリカに肩代わりさせる魂胆であった。

そうすれば日本としては軍備に使うべき金を、戦後復興に回せるわけで、敗戦で焦土と化した日本、祖国を見るにつけ、勝った側のアメリカの力を最大限利用する魂胆であったものと推察する。

そこが外交官たる吉田茂の本領で、口先3寸でブラフを掛け、お古とはいえアメリカの資金で軍備に毛の生えたようなものを作ったわけである。

ところが日本の政界というところは、そういう遠謀術策が通じない世界で、安易な揚げ足取りに終始しているので、吉田に「9条は自衛権も放棄したものだ」という意味の答弁をさせてしまったわけである。

吉田にしてみれば、日本の金で再軍備をしたとすれば、ただでさえ困窮している財政を尚圧迫することになるので、それをアメリカに肩代わりさせて、その間に復興を急ごうと考えていたに違いない。

吉田茂は戦前、戦中を、外交官という立場で、日本の軍部の行動を見るにつけ、切歯扼腕していたに違いない。

当然、彼には日本の行きつく先も判っていたものと考える。

それ故、彼は日本の軍隊、軍部というものにいささかの同情も持っていなかったと思う。

だから再軍備にも反対、自衛のための戦争にも反対、安保条約があれば十分と考えていたものと推察する。

あの時代、日本中の日本人は、誰も彼もがマッカアサーを天皇陛下よりも偉い人と考えていたが、吉田茂だけは腹の中で笑っていたに違いない。

だからサンフランシスコ講和条約締結の後でも、日本人が日本国憲法を作り直して軍隊を持つよりも、アメリカの傘の下に潜り込んでいたほうが、金も掛からず、人的犠牲も出さずに済むし、困窮した予算の心配をすることもないし、自衛権を放棄したとしてもアメリカがいるではないか、ということで憲法改正には消極的であったものと考える。

彼の個人的な考え方は、今の護憲論者の改正反対とは自ずから違っており、憲法を改正すると軍国主義に繋がるという発想とは相容れないものがあるように思う。

吉田茂には選良意識があって、日本の大衆というものは馬鹿だという意識を持っていたと思う。

ところが今の護憲論者の論調はこれとは全く逆で、一般国民は立派な人間ばかりであるが、為政者が馬鹿だから軍国主義に舞い戻るという論法である。

同じ憲法改正反対でもその内側に秘めるベクトルの方向が完全に逆向きになっている。

マッカアサーではないけれども、日本人、日本民族の政治感覚というのはまさしく12歳の子供の域を出るものではないとつくづく思う。

戦前の軍国主義の蔓延も、一部のオピニオン・リーダーの煽動に踊らされた結果であり、その時代の風潮としては「軍国主義でないものは人で非ず」という雰囲気が日本全国を覆っていた。

日本の大衆というのは極めて従順で、真面目で、「人の振り見て我が振りなおす」、「バスに乗り遅れるな」、という民族的潜在意識があるものだから、時代時代において、その時代に迎合しないものを排除してなんら良心の呵責に感じないものが大勢いる。

これは日本人が日本人である限り、同じ行動パターンを踏襲するわけで、今日においても進歩的文化人が「憲法を改正すれば再び軍国主義に舞い戻る」とラッパを吹くと、「偉い大学の先生が言うのだからきっとそうだろう」、「偉い学者の言う事だから間違いないだろう」と、恰も烏合の衆と同じで、それに追従してしまうわけである。

もしそれが本当ならば、進歩的文化人や偉い大学の先生というのは、自分の身の回りの同胞に付いて何も知らない、判っていない、判ろうとしない人々と言わなければならない。

戦後60年の日本の教育の成果を何一つ評価していないということに繋がる。

戦後60年にわたる日本の教育は、日本人を際限なく駄目にしたと思っているが、そういう心配をする進歩的文化人や偉い大学の先生というのは、その現実をさっぱり理解していないということになり、戦後の日本人は旧体制のまま純真で、滅私奉公を何の疑いもなく信じている人々だという認識を持っているということになってしまう。

これもものの本質をしっかり自分の目で見、確かめていないということの証拠であって、本質をずらして議論しているということに他ならない。

憲法改正反対というポーズは、現行政府、今の為政者の施政に反対という意思表示であって、こういう人たちのこういう意志というのは、結局のところ、為政者に誰がなっても心から納得するということがないわけで、自分たちは常に、為政者に対して反対の意思表示をすることで、政府の施策を監視しているというポーズに過ぎない。

憲法の成り立ちなどはどうでもよく、日本の国際貢献もどうでもよく、日本が外国から舐められてもどうでもよく、島の一つや二つ取れてもどうでもよく、ただただ「悪いのは日本政府だ!」ということが言いたいだけの輩である。

それかといって、自分が自民党の総裁に成り代わって統治する側に身を置くには力がなさ過ぎるわけで、しょせん犬の遠吠えということに落ち着く。

ところが政党という立場に立って考えると、野党の立場からすれば、そういう勢力をも自分の陣営に引き入れておきたいわけで、そうすることによって対抗勢力に見せかけることができるからである。

我々、日本人の政治というものは戦前・戦後を通じて党利党略で動いていることに問題の根源が潜んでいると思う。

党利党略が問題の本質を越えられないので、占領下で出来た憲法を変えようとしても、党としての利害得失が目の前にちらつくため、意見を素直に集約することが出来ない。

そのことが、巷間に、進歩的知識人と称する人々が憲法改正反対を唱える大シュプレヒコールを許すことに繋がっている。

「戦後60年間、我々が戦争に巻き込まれなかったのは平和憲法のおかげだ!」などという馬鹿げたことをいう進歩的知識人の傲慢さ、無知さ、馬鹿馬鹿しさ、というのは話にならない。

それをいうなら「自由民主党の努力のおかげで戦争に巻き込まれなかった」というべきである。

それは歴史が示しているではないか。

戦争などというものは、しないに越したことはない。

しかし、現実には武力でしか解決できないこともあるわけで、というのは、戦争というのは政治、外交の延長線上にあるわけで、相手国との話合いがこじれたとき、「実力行使も考慮に入れますよ」という態度を示さねばならないときがあることも謙虚に受け止めねばならない。

そうなる前に話し合いが纏まればそれにこしたことはないが、話が纏まらず、妥協が得られなければ、「実力行使も考慮に入れますよ」という態度を示せば、相手も戦争までして固執するのが得かどうかを再考するわけで、それが外交交渉というものである。

ところが、我々の場合、最初から「武力行使は決してしません」と相手に言ってしまっているので、相手は何一つ妥協する必要がないわけで、問題は何一つ解決しないということになる。

問題が一向に解決しなくても、一般国民に直接的な被害がないものだから、それで平和な状態が続いていると思い込んでいるが、国益が損なわれている状態が依然と継続しているにもかかわらず、それには一向に気が付かないでいる。

 

連合国の思惑

 

戦後60年を経過して、我々はもう一度日本国憲法というものをその経緯の段階から見直してみる時期に来ていると思う。

特に、その根底に秘められていた、当時の日本を占領していたアメリカの思惑、そして対日理事会のメンバーの思惑というものを考えてみる必要がある。

日本を取り巻く連合国というのは、中国が入っているとはいうものの、彼ら西洋列強から見れば中国など刺身の褄程度の認識でしかなく、本命は日本を如何に骨抜きにするかというのが、連合国側の共通した思惑であり、共通認識であったと思う。

そのことは同時に中国の国益とも一致し、中国もそう願っていたに違いない。

その意味で、連合国としては完全に思惑が一致していたということである。

連合国側という枠組みで、戦勝国というものを眺めてみると、お互いの思惑にそれぞれ温度差の違いというのはあったが,アメリカとソビエット連邦について言えば、日本に関する限り利害が完全に一致していたのである。

日本を弱体化したままの状態で留めておきたい、という点で、この二国及び旧連合国としては完全に利害が一致していたのである。

日本国憲法の第9条の条項は、最初、マッカアサーの思いつきに近い発想であったが、それはソビエット連邦にとっても、日本が金輪際武力行使をしないということが保障されたとすれば、これほどありがたこともないわけで、北方4島は未来永劫ソ連のものということが確定したようなものである。

60万にも及ぶソビエット抑留者に対しても何一つ補償することをしないで済むわけだから、これほどありがたいこともないわけである。

アメリカはアメリカで、これで再び対日戦(普通の認識ならば、何時の日にか日本は再び報復に立ち上がる)が有るのではないかという恐怖を考えずに済むわけだから、そういう点でソビエットとも完全に利害が一致するわけである。

しかし、この憲法を起草したGHQ・民生局の面々は、この憲法が暫定的なものであることを十分承知していたので、再独立の暁には、日本は憲法改正するであろうと思っていた。

それを押し付けられた我々の側は、「あれは世界にまれに見る平和憲法だから改正いたしません」といっているわけで、ここに「世界の常識は日本の非常識で、日本の非常識は世界の常識」という現実が現れているのである。

あれが「平和憲法だ!」という我々、同胞の思考回路は一体どうなっているのであろう。

我々の同胞の中でも一段と教養も知性も豊かな人々が、そういうことをいうということは、その思考の根底には一体何があるのであろう。

私が思うに、こういう人々は、戦争というものが政治と切り離なされた別のイベントとでも思っているのでろうか。

戦争というものは、好戦的な為政者が個人的な私利私欲を追及するあまり、善良な市民を戦場に駆り立てるという認識なのだろうか。

だから、そういう人たちが好き勝手に戦争という手段を取らないように、第9条というのはそのまま残しておかなければならない、と思っているのであろうか。

こういう思考の元に、今の憲法の改正に反対しているとしたら、これまた、ものの本質を知らないということに繋がってしまう。

戦争の本質を知らないままの議論ということになってしまう。

ただここで注意しなければならないことは、戦争の本質といっても、その本質は常に変化している、ということを知らなければならない。

本質は常に変化しているが、根本的に変わらない部分もあるわけで、本質を知るということは、時代と共に変わる部分と変わらない部分を正確に認識する、ということが大事だと思う。

盲人が像を撫ぜて、それで全体を判断をするような愚を冒してはならない。

戦争を忌み嫌うことは地球規模で見て普通のことであり、人として普遍的な感情であることに変わりはない。

ただし、主権国家の国民の一人という立場に立ってみると、自分の祖国に降りかかってきた国難というものは往々にしてあるわけで、それを外交官や政治家が話し合いで解決できている間は良い。

外交官や政治家が話し合っても解決できない場合、当然それは自分の属する祖国のほうが妥協するか、あるいは武力行使しか選択肢がなくなるわけで、その時一国民として自分の祖国に対して、どういう態度を取るかという問題に繋がってくると思う。

戦後60年間、我が祖国は国難に際して常に自分のほうが妥協してきた。

妥協し続けてきたので、国難は何一つ解決できていない。

北方4島の問題然り、北朝鮮による邦人拉致問題然り、我々は話し合いをするのみで、一方的に妥協するのみできたので、何一つ問題解決していないではないか。

それは、話し合いでは埒が明かないからといて、ここで武力行使という選択肢をとれば、日本国中に反対の嵐が吹きすさぶからである。

つまり、今の日本の国民にとって、北方4島の問題などどうでもいい問題なのである。

北朝鮮に拉致された人たちは、その家族を気の毒だとは思うけれども、それを取り返すのに、同胞の血を流してまですることはないと思っているのである。

悪いのは小泉首相なのだから、彼に責任を覆い被せておけば良い、というのが我が同胞の本音なわけである。

外から国難が降りかかってきても、それを振り払うのは外交官であったり、政治家であったり、自分とは関係のない官僚や政治家の責任だから、自分はそういう人たちを非難さえしておれば、政治に関与し、国を憂いていることになる、という思い込みに浸っているだけである。

北方4島の問題も、北朝鮮による邦人拉致の問題も、大多数の日本人にとっては自分とは関係のない他人事なわけで、相手から武力を伴う暴力に直接曝されたわけではないので、こちらから仕掛けることはないという判断である。

これらの国難は解決されたわけではない。

ただただ解決が先送りされているだけで、これを単刀直入に解決しようとすれば戦争するほかない。

北朝鮮に経済制裁せよという意見が姦しいが、大衆の声に便乗してそれをしたところで効果はありえず、問題はますます複雑になるだけである。

21世紀の日本の政治家で、そういう決断を仕切れる人は一人もいないと思う。

ということは、未来永劫、北方4島は帰らず、拉致被害者は帰国できないということになるわけで、それは総て日本の政治家が悪いということになる。

進歩的知識人をはじめとする日本のオピニオン・リーダーは、何時でも、何処でも、自分たちの政治家を非難中傷して、どんなことでもその総てを政治家の所為にして、自分は日の当たる場所で安逸な生活をほしいままにしているのである。

21世紀の日本が如何様になろうとも、それは政治家が悪いのであって、善良な一般大衆は、一般庶民はそういう政治家に騙されているのだという論調である。

 

 

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