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戦後60年を経過して、今の日本人で先の戦争のことについて知っている人もかなり少なくなったものと思う。
今の若い世代では、ほとんどのものが、かって日本がアメリカと戦争したなどということを知らないのではないかと思う。
今、私は65歳であるが、私でも戦争の体験というのはほとんどないに等しい。
小学校に上がったのが終戦から2年後の昭和22年だったから、それ以前の幼児期の記憶というのはほとんどないに等しい。
けれども、親や周囲の大人の語るのを聞いて、かすかに知識としては知っているし、その後成長するにしたがい、そういう関係の本も読んで一般常識としては知っているが実体験というものはない。
戦後の貧困生活は、本当の意味での実体験として身を持って体験したが、戦争そのものの体験は皆無といってもいい。
そういう状況からして、私よりも若い世代では戦後の体験すら記憶にもなければ、知識も持ち合わせていないものと推察する。
しかし、アジアの周辺諸国ではあの戦争の体験を子々孫々にまで語り継いでいるわけで、先方はそれを反日教育という形で国家が教育でもって行なっているが、我々の側といえば、戦後史そのものすら、近代史ないしは現代史そのものすら、目をそむけて教育の場に登場させない。
アジアの日本の周辺諸国の反日教育というのも困ったもので、事実に基づいた反日ならばある程度は許容しなければならないが、歴史を捏造しておいて、その捏造を根拠にした反日教育ではただただ嫌悪感を植えつける以外の目的は考えられない。
自分の方は捏造した歴史を教えておいて、我々の側に「歴史への認識が足りない」という言い分は筋が通らない。
「捏造した歴史」という言葉は、その中に潜む本質を曖昧にしているが、端的に言えば嘘を教えているということである。
戦後の日本の教育界が近現代史に目をそむける理由の一つは、例の東京裁判史観の呪縛が解けずに、「我々の先輩諸氏はアジアで悪いことをした」、という思い込みが抜けきれないからだと思う。
それがあるが故に、胸を張って近現代史に取り組めないからだと推察する。
それは時の潮流としての東京裁判史観に異論を差し挟むことを許さない、という精神的風潮があるが故に、誰もそれに挑戦しようと試みなかったことが原因だと思う。
この異論を封殺する世の中の風潮というのは、戦前にも同じような風潮が蔓延していたわけで、それでこそ日本国民の全員が軍国主義に洗脳されてしまったのである。
戦後の教育現場では東京裁判史観、いわゆる自虐史観が蔓延したことも事実であるが、戦前においても、軍国主義に棹差すような言動を封殺する、異論を封殺する雰囲気というのは存在していたわけで、戦前、戦後を通じて、異論を封殺するということは、我々日本民族の潜在意識と見なさなければならない。
それは兎も角として、今の若い世代が、60年前のことに全く無頓着という意味で、アジアの近隣諸国から歴史認識が足りないとクレームのつくのも致しかない面があるように思える。
歴史認識を持つということは、何も相手方の言っていることを鵜呑みにすればいいというものではなく、相手は相手なりの論理で日本に対して物を言って来るのであれば、こちらはこちらの論理を展開して、相手のいう論理的矛盾を突かなければならない。
ところが、こちら側としては自分達のしたことをよく知らないことには、相手の言うことに反論できず、鵜呑みせざるを得ないわけで、相手の言い分に反駁するためには、それに対抗しうるだけの真実を知らないことには、それが出来ない。
こちら側の行為、行動を精査して、相手の言う事の矛盾を探し出して理論武装をしなければ、相手と対等に話しが出来ないわけである。
戦後の日本人が、それを怠ってきたことは否めないと思う。
今の若い世代が、自分達の父や祖父が何をしてきたかも知らずに生きているということは由々しき問題だと思う。
中国人から言わせると「日本の軍隊は中国の地で暴虐の限りを尽くした」という表現になるが、これは相手側の政治的プロパガンダだということを理解しないから、相手の言う事に「お説ごもっともです」となってしまうのである。
我々の父や祖父のいた軍隊というのは、世界でまれに見る軍律厳しい軍隊であったわけで、そういう軍隊がそうそう滅多矢鱈と無意味な殺生などするわけがないが、これも自分達の父や祖父のいた軍隊の実態というものを知らないから、相手からそういわれると反駁の術がないわけである。
反駁の仕様ガないから黙っていると、それは相手の言い分を認めたということになってしまう。
「孫氏の兵法」でいうところの「己を知り、敵を知れば、百戦危うからずや」という言葉はまさしく真理であって、敵を知る前に己を知らなければ、あらゆる状況に対応できないということである。
我々は、目の前に漂ってくる匂いや雰囲気という実体の伴わない曖昧なものに敏感に反応してしまうわけで、この表層面にのみ注目して、その深層に流れているものの実態を知ろうとしないので、あらゆる状況下で失敗を繰り返しているものと考える。
これは「敵を知る」という面でもそうであるが、「自分自身を知る」という面でも同じことがいえているわけで、表層を流れる実体のないもやもやとした雰囲気に惑わされてしまうということである。
もやもやとした雰囲気というのは、実体が無いものだから目に見える形で掲示できないので、それを突き詰めていくと、精神主義にたどり着いてしまうわけである。
今の、2005年の時点で、イラクの混乱も「イスラム原理主義の抵抗」というと如何にも整合性のある理知的な言葉のように聞こえるが、あの実態は原始的な人間の潜在意識に過ぎないわけで、あの混乱は原始社会と近代社会の衝突である。
思考が原始のままの人間が、文明の利器を自分の都合に合わせて使っているから、無意味な殺傷が続いているのである。
これを一気に解消しようとしたのがナチス・ドイツのホロコーストであったわけで、今日あれと同じ行為は許されないのだから、近代社会のほうに犠牲者が沢山出ているのである。
原始社会の方には犠牲者をカウントした統計がないのだから死者の数はわからないままである。
サダム・フセインは原始社会の論理でイラク国内を押さえつけていたが、アメリカはこれを民主的な社会にしようと試みたことが今日のイラクの混乱となっている。
日本ばかりではなく、世界の知識人は、このアメリカの行為、ブッシュ大統領の決断をアメリカの専横だと、非難ごうごうであるが、それは部外者として無責任な発言だと思う。
サダム・フセインがあのまま圧制をしているのを許せとでもいうのであろうか。
他国の国政に関与することは罷りならぬという論議は近代思想としては当然であるが、その他国がテロを輸出する可能性があるとなれば、予防措置を取ることも国を預かる人の責務だと思うし、干渉されるのがいやならば、信頼関係を築く努力をすることも国の指導者としては当然の行為だと思う。
サダム・フセインをあのまま放置しておけば、彼が我々の社会に向けて攻撃を仕掛けてこないと保証できるであろうか。
アメリカが世界の警察官ぶるのはアメリカの国力からして当然ではないか。
世界の知識人が、アメリカが、アメリカの論理で、アメリカの正義を振りかざして、世界の警察官ぶる態度が気に入らないという信条は理解できる。
アメリカが正義の建前をかざして警察官ぶるのが気に入らないからといって、サダム・フセインの原始社会に対する抑圧を放置しておけとでも云うのだろうか。
日本でも、世界でも、人を非難することは、いとも簡単なことである。
なんとなれば、本人は何処までいっても部外者なのだから、口先で言うだけならば誰も傷つけないし、格好良いし、理知的に見えるし、それで飯が食えるのだから、それはそれでいいが、当事者というのはそういうわけにはいかないと思う。
ブッシュ大統領が正義を振りかざして世界の警察官ぶらなければ、サダム・フセインはそのまま放置され、イスラム原理主義は見境もなく人を殺し、我々の平和な生活はテロに脅かされ、しなければしないで何故しないのか、と非難が湧き上がるに違いない。
すればしたで非難し、しなければしないで何故しないのかと非難するわけで、統治するものとされるものではこのように評価が揺れ動くわけである。
今回、アメリカはイラク攻撃後のイラク再建に際しては、対日占領政策の成功に鑑みて、それをイメージして事後処理をしようとした節があったように報道されたことが記憶の隅に残っている。
アメリカの対日占領は、アメリカの国益にとって極めて有効に機能したに違いない。
100%以上の成功だと思う。
アメリカは日本を完全に隷属下におけたし、日本の発展はアメリカにとっても有効に機能したし、共産主義の防波堤としても完全に機能を果たしたし、アメリカの対外政策でこれほど成功を収めた例は他にないのではないかとさえ思える。
その後の世界情勢を見るにつけ、キューバでは完全に失敗したし、ベトナム戦争の失敗などを見ても、対日占領は如何に成功裏に終わったかということがいえる。
1945年、昭和20年の時点でアメリカが一番恐れたことは、日本が戦後復興した暁には再度アメリカに挑戦してくるのではないかという恐怖だったと思う。
これは対日戦の前からアメリカ側が抱いていた恐怖であるが、戦争前からその恐怖があったればこそ、日本を焦土と化し、その上日本側の戦争指導した人々を徹底的に根絶やしし、イエロー・モンキーにまで貶めることを画策したに違いない。
そしてそれを名実共に実行推進したのがSCAP−GHQである。
私は「孫氏の兵法」をよく引き合いに出すが、我々日本人は、戦前も戦後も、アメリカとは係わり合いの深い間柄にもかかわらず、アメリカというものをよく知らないと思う。
戦後、フルブライト留学生としてアメリカの金で、アメリカに留学して、アメリカの大学で学んだものでも、アメリカの深層心理を探ってきたものはほとんどいないように見える。
終戦直後の貧乏な日本からアメリカに渡れば、見るもの聴くもの総てが隔世の感があったわけで、その目前のことにのみ心を奪われて、アメリカ人の深層心理というものを本当に探ってきたものはほとんどいない。
今回のブッシュ大統領のイラク侵攻でも、「国連の決議のないまま戦争を仕掛けたのはけしからん」というような評論ならば誰でも出来る。
子供でも、床屋談義でも、競馬場でも、パチンコ屋でも、誰でもそんなことはいえる。
何も、マスコミ関係者や大学の教授というような進歩的知識人と言われるような人の口から言われなくても、めいめい白日のことだ。
「にもかかわらずしなければならなったのは何故か?」という考察が抜け落ちている。
アメリカは、国連が尻込みをしているにもかかわらず、何故一国主義でもって踏み込んで行ったのか、その真の原因は何なのか、というところまで究明して始めて進歩的知識人としての真価が問われるわけで、子どもでも判るようなことを声高に叫んでいるだけでは看板が泣くというものだ。
日本がポツダム宣言を受け入れて昭和天皇が戦争の終結を玉音放送という形で日本国民に周知徹底せしめたのが1945年、昭和20年8月15日の正午である。
8月28日には対日占領軍先遣隊が厚木に到着し、横浜に進駐した。
そして、8月30日には連合国軍最高司令官としてマッカアサー元帥があのパターン号(C−54)で厚木に到着している。
9月2日には東京湾で例の戦艦ミズーリ号の上で降伏文書の調印が行なわれた。
9月15日には進駐軍は横浜から東京の第1生命ビルに拠点を移し、ここがGHQとなった。
ここで敵味方の戦争の仕方というものを深く掘り下げて考えてみると、日本の同盟国はドイツとイタリアしかなかったが、連合国というのは45カ国もあったわけで、これをどういう風に考えたらいいのであろう。
ドイツは、アジアで戦闘をするにはあまりにも離れていたことを考えると、我々はたった一国で、世界を相手に戦いを挑んだに等しいではないか。
1941年、昭和16年、日本が米英に宣戦布告をしたということは、実質、世界中を敵に回したようなものであった。
この状況が、戦前の日本の政治的指導者、軍部の首脳には理解できていなかったのであろうか。
まさしくサダム・フセインが世界を相手に戦争をしたのと同様であるが、こういう状況を当時の我々の政治家なり軍人というのはどう理解していたのであろう。
マスコミはどう理解していたのであろう。
当時でも米英に留学し、米英の政治を研究していた帝国大学の学者とか知識人はいたのではなかろうか。
こういう疑問を呈すると、すぐ「当時は治安維持法があってものがいえる状況ではなかった」という反論が出てくるが、それは自分達の失敗を治安維持法というものに転嫁する方便ではなかろうか。
その前の大正デモクラシーでは、結構色々な意見が飛びかっていたことを考えると、大正デモクラシーで有頂天になって、根も葉もない空虚な言論が横行したので、その反動として、理性的で冷静なものの見かた、思考までもが沈黙させられた、と見なさなければならないと思う。
当時は軍人が幅を利かせていた、ということはよく聞く言葉であるが、それは別の言い方をすれば、国民がこぞって軍人を持ち上げ、あこがれ、羨望していたということでもある。
戦後の昭和40年代の高度経済成長のとき、猫も杓子も証券会社や銀行、不動産業界に羨望の眼差しを向けたのと同じで、昭和初期の時代には猫も杓子も軍人にあこがれたものと考えなければならない。
要するに、それは当時の日本国民の願望であったわけで、高度経済成長のとき、「株や不動産投機をしないのは馬鹿だ」といわれたのと同じで、昭和の初期の時代には「五体満足なもので軍人にならないのは馬鹿だ」という雰囲気であったものと推察する。
だから国民の羨望するものに棹差すような思考、思想を断固押さえ込まなければならない、というのは国民的コンセンサスを得ていたものと解釈しなければならない。
こういう国民的コンセンサスというのは時代と共に変化するわけで、昭和の初期では帝国主義を助長する軍人というのは国民の支持を得ていたが、それが戦後は高度経済成長となり、今日では社会保障とか、介護の問題に変り、環境問題に摩り替わっているだけで、こういう雰囲気に棹差すような言動は、それこそ世間の鼻つまみ者に等しい扱いを受けるのである。
何処の国でも、国民、大衆というのは無責任で、付和雷同で、無知だと思う。
為政者というのは、そういう無知と無理解のうえに上手に乗ることだと思う。
独裁者の専制政治ならば為政者は国民の無知、無理解とは関係なく、自分の意思のみで国民を統治できるが、民主政治では、国民に向かって「お前は無知だ!」とはいえないものだから、世論操作で自分の思いにかなった方向に国民大衆をリードしなければならない。
そのためには政治的プロパガンダが必要なわけで、戦前であればアジアの開放であり、五族協和であり、子々孫々のための鬼畜米英であり、戦後ならば「株や不動産に投資しないのは馬鹿だ」というフレーズであり、今ならば「年金ビジネスや介護ビジネスで儲けないのは馬鹿だ」というフレーズである。
連合国が45か国もあったとはいえ、日本占領は実質アメリカ軍のみであった。
1945年、昭和20年の夏、日本に進駐してきたアメリカ軍は最初厚木に降り立ち、その後横浜に上陸し、横浜から東京に移動する際、進駐してきたアメリカ軍といえども、つい半月前は敵の領域を進軍するのだから非常に緊張していたと思う。
今のイラクでアメリカ軍のおかれた状況と全く同じだったろうと推察する。
それよりももっと複雑な心境に置かれていたのが、負けた側の我々の軍隊ではなかったかと思う。
この映像はあまり流布されていないが、私が過去に見た映像で、この進軍をアメリカ軍の移動車両の上から撮影したものを見たことがある。
それは、アメリカ軍が進軍していく道路を、日本兵が警戒している映像であった。
日本兵は皆道路の両側で反対側を向いて、進軍するアメリカ軍に背を向けて、我々の側の不穏分子が何らかの抵抗をしめさないように、警戒していうように見受けられたが、その点は今のイラクの状況と全く違っている。
つい半月ほど前までは敵であったものが、日本の道路を進軍するのに、日本兵がアメリカ軍を警戒している図である。
この時、警戒に当たった日本兵の後ろ、つまり背中の方をアメリカ軍のジープやトラックが進軍しているのである。
この映像のインタビューの中で、横浜から東京までの間に日本の婦人というのは遠くに一人眺めただけで、全くいなかったと述べていた。
これほど我々の側も緊張し、「アメリカ兵は本当に鬼畜だろうか」という思いで、家に潜んでいたものと推察する。
この時、道路を警戒していた日本兵の心の中というのはいかばかりであったろうか。
つい先日まで鬼畜米英といっていたものが、蓋をおければ自分達が彼らを守ってやらねばならない立場になってしまったわけで、この時の心のありようというのは察して余りあるものと思う。
東京湾で、アメリカの戦艦ミズーリ号上の降伏文書の署名というのも非常に歴史的に意義深いものがあるように思う。
これはある意味で勝った側の勝利のデモンストレーションでもあったわけだが、その意味から考えると、SCAP−GHQとしてのマッカアサー元帥のパフォーマンスでもあ
(写真 田村のHPより)
ったわけだ。
しかし、我々としては実に小憎らしいほどの演出効果であった。
彼はフイリッピンのコレヒドール島から脱出したさい、後に残して苦杯を舐めたウエンライト中将と、シンガポールで山下奉文に苦杯を舐めさせられたイギリスのパーシバル中将に華を持たせて、この場に招聘し、署名させたのであるが、これは演出とは言うものの敵味方を問わず一つの美談に変りはない。
主権国家同志の戦争で、前線での勝敗による停戦協定とか和睦の会議というのは往々にして臨時的な施設つまり前線で行なわれるが、国家の命運を左右する協定がこういう形で執り行われるというのは異例中の異例ではないかと思う。
ある意味では衆人環視の中で行なわれたようなものだ。
この調印式の前に行なわれたマッカアサー元帥の演説というのが、これまた実に格調高く聞く人を魅了したものであった。
8月15日から9月2日までのマッカアサーの行動というのはまさしく西洋と東洋、特に我々日本人にとっては価値観の衝突そのものであったに違いない。
今の時点でこの事例を鑑みるに、この降伏文書に大本営・軍部を代表した梅津美治郎がその直後自決したことをどう考えたらいいのであろう。
軍の最高のトップが、日本の降伏に反対であった、ということを今我々はどう考えればいいのであろう。
天皇の命令でしぶしぶ降伏文書の調印の席には着いたが、書名後、自らの命を断つということは一体どういうことなのであろう。
彼は徹底抗戦派だったということだが、この期に及んで、あの昭和20年8月の状況下で、徹底抗戦、本土決戦などできるわけがないではないか。
そんなことをすれば、それこそ日本民族の殲滅に繋がりかねない、ということが彼には理解できなかったのだろうか。
これ以上戦争終結を長引かせれば、日本民族が滅亡すると思われたからこそ、昭和天皇はポツダム宣言を受諾することにしたのに、それが彼には理解できなかったのだろうか。
我々は、こういうリーダーによって戦争を導かれていたのかと思うと、実に腹立たしい思いがする。
あのマッカアサーの演出した降伏文書の調印式というのは、我々にとっては大きなカルチャー・ショックであった。
カルチャー・ショックということは、何も肯定的にとらえるばかりではなく、否定的な意味合いでショックが大きかった面も多々あろうと思う。
私の個人的な印象では、マッカアサーの行なったセレモニーは、解放的で公明正大、何も包み隠すことのない行為と受け取れるが、人によっては衆人環視の中で降伏文章に調印をさせたことを侮辱と感じた人がいたかもしれない。
マッカアサーは10月2日より日比谷、皇居前の第1生命ビルで執務を行なったが、それは矢継ぎ早に日本の旧秩序を破壊することであった。
10月6日には特高警察廃止。10月10日には政治犯の釈放。10月11日には幣原内閣に対して5大改革の実施を命令。10月15日には治安維持法の廃止。等々と改革指令が出された。
ところがこの指令というのが、厳密のいうと国際法違反になるわけで、アメリカとしてはそれを他の連合国、特にソビエットから追及されることを非常に警戒していた。
ソビエットも国際法違反というのは山ほどしているわけで、それを思えばそうそうアメリカもソビエットの出方を気にする必要はないかに見えたが、やはりそこは名誉に関わってくる問題だと思う。
アメリカとしては直接統治、即ち軍政を引きたかったところであるが、これがジュネーブ協定に引っ掛かるので、間接統治にしたのである。
しかし、こういった一連の動きというのは、日本が敗北する前からアメリカでは筋書きが出来ていたわけで、マッカアサーはその筋書きに沿って演出したという面がなきにしもあらずである。
日本統治における彼の演出の巧みさを見せ付けられたのが、例の天皇陛下とマッカアサーが、二人で並んて撮られている写真である。
昭和天皇は礼服をきちんと着て緊張そのものであるが、マッカアサーは普通の格好で、しかも如何にもリラックスしているポーズのものである。
これは9月27日になって、天皇陛下が皇居前の第1生命ビルのGHQのマッカアサー元帥の元まで出向いて会見した時のものであるが、この写真を公表させるという点に、彼の演出の巧みさが如才なく現れている。
当初、日本側ではこの写真を不敬罪のかどで掲載禁止にしていたが、GHQはそれを解除するように指示し、それによっ
(写真 田村のHPより) て日本全国にその写真が出回ったという経緯がある。
あの写真を見た日本人、当時の日本人は、つい1ヶ月前まで「鬼畜米英、撃ちてし止まん」と云っていた日本人は、これでもって我々の祖国、日本が本当に戦争に敗北したという現実を味わったのではないかと思う。
世の歴史家はこういう状況において、マスコミの影響というものを全く無視して、政治の当局者、統治者の意向のみを重箱の隅をつつくようなニュアンスで取り上げて、それが政局の動きだと勘違いしているが、この写真を新聞に掲載するしないという判断、決断に際して、マスコミとして、新聞人として、生きとし生ける人間として、日本人としての理性と欣司をもっていなければならないと思う。
不敬罪に当たるから掲載しない、GHQから指示されたので掲載する、ではまるで子供の行為と同じで、新聞人として、言論人として、理性ある良識のある日本人、特に軍国主義下で生き延びてきた、生き永らえてきた人間としての価値が全く存在していないではないか。
それはそのまま戦前、戦中の国威掲揚の大本営発表を鵜呑みにして報道したのと寸分違わぬ報道姿勢ではないか。
旧体制の下では禁止され、新体制の下では発表せよといわれ、先のことを考えると新体制に迎合しなければ糊塗を得られないという状況を勘案すれば無理もないとは思うが、それにしても本来知性も理性も備わっているべきはずの言論界が「あっち向いてホイ、こっち向いてホイ」のままでは児戯にも劣ると思う。
これだから日本のマスコミ業界は、戦時中は大本営発表をそのまま流して、我が同胞を騙し続けておきながら一遍の釈明もなく、反省もないのである。
あの写真は戦前、戦中を「欲しがりません勝つまでは」の合言葉で頑張ってきた同胞をどれだけ落胆させたか知れない。
この天皇陛下とマッカアサー元帥が会談した時の通訳が、元駐米アメリカ大使館で日本の宣戦布告の文書を清書するのに手間取って、真珠湾攻撃の後にしてしまったアホな大使館員の勝沼勝三である。
あの戦争中を通じて、日本の外務省は、この失敗を失敗とも意識していなかったのではないかと思う。
日本の宣戦布告の正式文書が、真珠湾攻撃の最初の一撃の後になってしまったことの意義を全く理解していなかったと思う。
こういう事態を昭和天皇が一番危惧していたにもかかわらず、それをしでかしてしまった。
手違いなど言って済ませる問題ではないと思う。
今にも戦争が始まるかどうかという時に、現地の外務官僚たるものが、のんびりと日常的なルーチンを決め込んでもらっては困るわけで、それ相応に緊張して、即応体制をとっていて当然のことで、それをタイピストがいなかっただとか、送別会があったなどと児戯にも等しい言い訳で責任転嫁されては困るわけで、この認識が戦前、戦後を通じて外務省にはなかったのではないかと思う。
それはさておき、その勝沼が天皇陛下の通訳としてこの場にいたわけであるが、ここで問題となってくるのが天皇の言葉で、天皇はマッカアサーに対して「自分の身はどうなっても構わないから、国民を助けてくれ」という意味の事をいったとされている。
マッカアサーは、当初、天皇は命乞いに来たものだと思ったらしいが、自分の命のことよりも国民を救済することを願ってきたのだということが判って、その言葉にマッカアサーが感激した、ということが彼自身の回顧録に記されていると伝えられている。
我々日本人の立場からすれば、この天皇の言葉というのは、ああいう立場に置かれれば自然に出てくるものと思う。
この会見の詳細は我々国民にはわからないわけで、ただそれを間じかに聴いて知っている人間といえば、あの勝沼勝三だけである。
この時の天皇の言葉というのは、マッカアサー自身が自分の回想録にも書いている通りに、それを素直に受け取る我が同胞の知識人というのは極めて少なく、彼の自己顕示欲だと決め付ける論議が多い。
しかし、世界の歴史を知れば知るほど、敗者が勝者の前に命乞いをするのではなく、自らの命を差し出して、国民の救済を願うという例はないわけで、そういう意味でマッカアサーが驚いたのもうなずける。
世界の常識では、戦争で負けた国の統治者は殺されるのが普通であったわけで、ならば逃げる、亡命するというのが当たり前であった。
この時の天皇にしてみれば、当然自分もそういう処遇を受けても仕方がないと思っていたものと推察する。
だから、心の内では死を覚悟して、それゆえに正装で出向いたのではないか、と私なりに推察する。
今でも昭和天皇の戦争責任というのは巷間に姦しいが、天皇自身は非戦論者であり、不拡大方針であったにしても、現実に天皇の軍隊が地球規模で世界中を席巻したことも事実なわけで、当然、敵の側からすれば天皇の戦争責任というのは問うて当たり前だと思う。
我々の側から見ても、天皇の名で戦争をし、天皇の名で戦争を終わらせたことから鑑みて、その犠牲者というのは、軍も民間も合わせて、日本国民の全部が塗炭の苦しみを味合わされたことから考えても、ある程度の戦争責任はあると思う。
しかし、昭和天皇というのはマッカアサーの占領統治に十分の利用されたわけで、異民族をこういう形で統治する手法というのは、敵ながら天晴れな手腕だと思う。
ここに西洋流の合理主義が表れているように思う。
それは、我々のものの考え方と完全に違っているが、アメリカの日本統治が彼らの側の視点から見て非常に成功した原因は、やはりこうした徹底的に相手の研究を重ねた上の合理主義のなせる技だと思う。
戦後60年に際して、我々が考えなければならないことは、アメリカの対日占領統治が彼らの視点から見て非常に成功したことで、そのことは我々の側の視点に立てば、完全に骨抜きにされ、弱体化され、無害化され、くらげのような軟弱な国家に成り下がり、究極のエコノミック・アニマルにさせられたのは何故かということである。
日本がそういう国家になるように、マッカアサーは焼け野原の日本で、様々な施策を施したわけで、その手始めに、自分と昭和天皇の並んだ写真、つまり敗者と勝者が並んで、勝者はいかにも暖かそうに、慈悲深く、敗者を庇護しているかのような印象の写真を流布するよう仕向けたのである。
東京の焼け野原に呆然と立って、この写真を眺めた我々の同胞は、その時点で徹底的に金玉を抜かれてしまった。
完全に精神が癒えて、かっての大和魂も、武士道も、民族の誇りも、愛国心も、どこかに昇華して、精神的なメルト・ダウンしてしまった。
完璧に大和魂を消失してしまった。
従来の価値観を完全に失ってしまった。
今まで現人神と思い込んでいたものが、完璧に否定され、自分と同じ人間に騙された、という思いが噴出してきた。
ここでも報道ということが大きく影響しているわけで、昭和天皇を現人神と祭り上げたのもマスコミならば、昭和天皇とマッカアサーの並んだ写真を全国に配布して、価値観の転換を促したのもマスコミということになる。
戦中は大本営発表をそのまま流して、国民にニセ情報を流し続けたのもマスコミならば、戦後は掌を返したように、価値観の大変換を増幅して流し続けたのもマスコミである。
この写真が日本人に与えた影響というのは計り知れない程大きなものがあったと思う。
この写真を日本全国にばら撒くことによって、マッカアサーはその後の日本改造が非常にやりやすくなっていたのではないかと思う。
それは数字では表せないであろうが、それによって日本人は急速に自信を失い、自尊心を失い、民族の誇りを失い、愛国心を失い、公共の福祉に奉じる心を失い、アメリカのおし進める諸々の改革に従順に順応するようになったのではないかと思う。
太平洋戦争、この呼称は彼ら連合軍の言い方であって、我々が言う時は大東亜戦争でなければならないが、この言葉一つとっても、既に我々は彼ら連合軍の術中に嵌っているわけで、今の日本の知識人で誰一人大東亜戦争というものがいないではないか。
連合軍というとき、それは基本的に西洋列強をさしているわけで、中国が入っているではないかという反論がありそうであるが、彼らから見て中国など刺身の褄のようなもので、日本とのかかわりの中でたまたま実質的に戦争をしていたから彼らにとって利用価値があっただけのことで、対日戦の作戦上、仲間の一員に加えられただけのことで、精神的な絆で結ばれていたわけではない。
アメリカのルーズベルトが日本を罠に嵌めてまで戦いをしたかった背景というものを考えたとき、彼らの目的は、日本という民族をこの地球上から抹殺したかったに違いない。
彼らの視点から日本を見れば、我々は人間の内にも入っていないわけで、サル並みの認識だったからこそ原子爆弾の投下がなされたわけで、そのサル、イエロー・モンキーが彼らの植民地を開放しよう、アジアを開放しよう、満州を近代国家にしよう、などという構想を実現しかねない力をもっていることに畏怖の念をもっていた。
だから、そうさせてはならじというわけで、寄ってたかって日本叩きをしたのである。
よって、彼らの目から見れば、日本人が自信を失い、自尊心を失い、民族の誇りを失い、愛国心を失い、公共の福祉に奉じる心を失い、ただただエコノミック・アニマルとして小さな4つの島に閉じ込めて、二度と世界という舞台で力を誇示させないようにすることがあの戦争の究極の目的だったのである。
マッカアサーはそれを具現化したわけであるが、我々の同胞は、相手を知ることを非常に疎かにする傾向があるので、未だに西洋列強の遠謀術策の真の意図を理解していない。
マッカアサーは連合国最高司令官であった。
その上には連合国としての対日理事会や極東委員会というものがあり、アメリカはその一員に過ぎず、マッカアサーはその下に属していたわけで、そういう経緯から、対日占領政策には連合国の合意を得て、それに基づいて行なうのが本筋であった。
しかし、この時は、既に冷戦の兆候が芽生えていたので、アメリカ、ひいてはマッカアサーは、ソビエットの介入を五月蝿く思い、彼自身の判断で多くの日本の改革が進められてしまったのである。
冷戦の芽生えというのは、アメリカの大統領の交代があったからで、日本を戦争に引き込んだルーズベルトは、1945年4月に没してしまったので、その後トルーマンが大統領に就任したが、彼は前任者と違って共産主義というものに非常に懐疑的であった。
だから、それが表面に出てきたのが冷戦構造であった。
ルーズベルトは共産主義というものに非常に寛容であって、共産主義よりも日本を脅威と受け取っていたが、トルーマンは共産主義の本質を見抜いていたということである。
戦争が終わった時は、アメリカ大統領はトルーマンに変っていたので、マッカアサーは当然トルーマンの指針に合わせなければならないわけで、この辺りのシビリアン・コントロールは実に見事だといわなければならない。
我が同胞の軍隊は「天皇の命令は至上である」といいながら、自分たちは天皇の命令を無視して、どんどん独断専横して戦争を拡大していったが、マッカアサーはきちんと本国の命令の枠内で日本統治をしていたわけである。
天皇の戦犯除外も、彼の独自の判断ではなかったわけで、本国の指令でそういう措置がとられたのである。
人間の作るあらゆる組織は、基本的には上意下達でなければ組織そのものが機能しないことは当然である。
1945年のアメリカの主権国家としての有態も、このセオリーに則っていたが、我々の昭和の初期にはこのセオリーが機能していなかったわけで、天皇を頂点とする大日本帝国の中で、上意下達が機能せず、軍部の一部が横道にそれた行動をしていたにもかかわらず、それを軌道修正する努力が全くなされていなかった。
しかし、この時代の歴史を詳細に見てみると、全くそういう努力がなかったわけではない。有るにはあった。
というのは昭和15年2月2日、米内光政内閣のとき、首相の施政方針演説の後の代表質問で、斉藤隆夫代議士が粛軍演説をしたとされている事件があった。
実際は粛軍などというアクテイブなものではなく、政府の軍部に対する態度を批判しただけの内容であったので、万雷の拍手があったにもかかわらず、結局、彼は非国民というレッテルを貼られて政界から追放されてしまった。
この状況を見るにつけ、彼の演説に万雷の拍手をしながら、結果的に彼を追放したその当時の国会議員、政治家の面々の心の内というのを今我々はどう解釈したらいいのであろう。
この斉藤隆夫の処遇を当時のマスコミはフォローしたであろうか。
当時の帝国大学の偉い先生方はフォローしたであろうか。
当時のマスコミや、知識人といわれる人々は、須らく当局の提灯持ちに徹していたではないか。
ここで完全に日本のシビリアン・コントロールは壊滅し、その意味を喪失し、軍部の専横を許すことになったといわなければならない。
戦後、同じ敗戦国としてなにかにつけてドイツと比較して語られるが、そこで常套的に出てくる言葉は、ドイツの侵した罪はナチスの犯した罪であって、ドイツの一般国民はそれに追従しただけだから罪はないという論議である。
こんな馬鹿な話しもないと思う。
この論法でいえば、我々の場合であっても、あの戦争の罪過は日本の一部の軍国主義者の所為であって、一般国民は何も罪はなく、むしろ被害者だということになる。
この論理は、田中角栄が日中正常化交渉に際して、会談に臨んだ時に先方の周恩来の発した言葉であるが、戦後60年もすると、日本でもこういう論調が増えてきたが、斉藤隆夫の政界追放の過程を見ると、あの当時とはいえ、国民の中から選挙で選出された一議員を、軍国主義に固まった国民から選出された他の大勢の議員が追放したという構図である。
彼の演説に万雷の拍手があったということは、彼の言わんとすることに、心の中では大いに同意、同調し、賛同し、もっともだと納得していたに違いないが、それが行動となると相反する態度になったわけである。
当時の政治家達は、この時点で完全にシビリアン・コントロールというものに見切りをつけて、政治家としての矜持を喪失し、軍部に下駄を預け、その後我々は奈落の底に転がり落ちたということだ。
マッカアサーという人物をよくよく考察してみると、彼には日本でいうところの武士の魂があったのではないかと思う。
我々の古来の価値観には、文武両道という言葉があって、彼はそれを両方とも兼ね備えていた人物ではないかと思う。
彼の生い立ちを日本流に言えば武士の出である。
父も軍人で、彼自身もウエストポイントを主席で卒業して、世界各地を駐在武官として見て回っていたわけで、見方を変えれば、戦争のプロであると同時に、国際政治、外交という面でグローバルな視点を合わせ持っていたことになる。
それでいて主君、この場合はアメリカ大統領のことであるが、には何処までも忠実であるという点が日本の古典的な武士の生き様に相似しているではないか。
対日占領政策でも主君、つまり大統領との意見の衝突はしばしばあったが、その度に話し合いをしているが、主君の意向に反してまでは行動をしたわけではないが、結果的に彼は大統領から解任されてしまった。
我々は、彼からまことに不甲斐ない言葉を戴いている。
敗戦直後には「日本は4等国になった」と言われた。
彼の目から見れば、敗戦直前の日本の作戦を見ればアホに見えたのも当然だと思う。
彼の視点からすれば、太平洋戦争の開始の時の日本は1等国に見えたに違いない。
それが戦争を継続するに従い、日本の作戦の幼稚さがだんだんと露呈してきたので、終わってみれば彼の脳裏の中では、日本の軍隊は馬鹿ではなかろうかという思いに至ったものと考える。
彼が日本の軍隊を馬鹿だと思うにいたる根拠は、やはり我々は決定的に兵力が不足しているにもかかわらず、それを特攻、特別攻撃隊というかたちで、人命を軽視して戦いに挑んだ点を指ししめしているのではないかと推察する。
こういう状況に追い詰められれば、降伏するのが世界的に常識だと考えていたので、それをせずにあくまでも人命軽視のまま、無駄とわかっていながら抵抗をする姿を見て、アホと見えたのではないかと思う。
現実的に、東京にGHQを設置した時の状況を見れば、一国の首都がこれだけ壊滅的な打撃、一国の首都がこれだけ壊滅的に灰燼に帰すまで戦争を続けたということは、馬鹿としか見えなかったのではないかと思う。
戦後60年を経過した時点で、我々は60年前の日本の姿、東京の姿というものを思い描いてみる必要がある。
今の若い世代には、日本がアメリカと戦ったことすら知らないものがいると聞く。
そういう世代は、当然、日本が過去にアジアでしたことも知らないわけで、それではアジアの近隣諸国から、「歴史への認識が足りない」と苦言を呈されても致し方ない。
私自身の成長に伴い、様々な本を読んでみると、マッカアサーの占領政策が実施されたとき、日本では大きな変革のときを迎えたことになっているが、その変革の最大の効果は旧体制の価値観を払拭したことだろうと思う。
軍部は当然廃止されたが、あの当時にまだ日本に現存していた組織、官僚組織から民間企業の組織、その他諸々の組織の中で、実にめまぐるしいほどの変革が起きたのではないかと思う。
GHQの指令で、公職追放とかレッド・パージとかで、当時の日本の既存の組織では、組織のトップというのは軒並み、その地位を奪われ新旧の交代を余儀なくされたのではないかと想像する。
今日の日本、60年後の日本は、この時の基盤の上に成り立っていることを考えると、この世代の戦後復興にかける責任はまことに重大だと思う。
一般論として、組織のトップというものは、学校出立ての若造がいきなりその座を占めるということはまずありえないわけで、組織の中で、手練手管を経験して、40代50代になって、そろそろ組織の上のほうに来るわけであるが、こういう世代がGHQの方針で一斉に追放されてしまったとなれば、その代わりとしては当然それよりも若い世代がその地位を得るということになったと推察する。
当時の年齢で50代60代のものが追放され、30代から40代のものがその地位を引き継いだのではないかと思うが、こういう世代がまず最初に価値観の大転換という衝撃波をモロに受けて、受けたと同時に組織のトップになったものだから、旧習を踏襲するというわけには行かず、新しい道を開拓しなければならなかったに違いない。
その時、目の前にあった指針というのが共産主義という理想郷であったことは容易に想像できる。
この当時、共産主義者の理念と、GHQの推し進める民主化の理念というのは軌を一にしていたわけで、その路線を踏襲することはGHQからなんのお咎めもなかった。
ここに日本人の精神の腐敗が蔓延した理由がある。
公職追放やレッド・パージで、旧来の頑迷な考え方というのは払拭されてしまったが、我々はこの時、旧来の思考というものを何でもかんでも捨て去ってしまったので、今日の精神的根無し草が蔓延したものと考える。
GHQが日本人の軍国主義を封殺したとき、純粋なる軍国主義的発想と、人としてわきまえなければならない倫理というものを峻別することなく、何もかも全部一緒に「古いものは悪い」と断定してしまったからこういう体たらくになったものと考える。
これはその当時の大人、即ちあの当時に成人に達していたか、兵役につくかつかないかのぎりぎりの世代、年で言えばあの当時20歳から30歳ぐらいの世代が、価値観の転換に一番戸惑った世代ではないかと想像するが、価値観の転換に戸惑いながらも、彼らは上がいなくなってしまったものだから、ところてん式に押し出されて組織の要職につく機会に恵まれた。
そして組織の要職についてみると、従来の手法は全く使えず、新しい価値観でもって組織を運営しなければならず、それは同時に自信喪失でもあったわけで、ここでGHQの推し進めるものが人間の倫理に反するかどうか、という峻別をスポイルさせてしまった。
この世代は今存命中ならば80歳以上の方々となる。
今存命中の政治家を例に挙げるならば宮澤喜一とか、中曽根康弘、亀井静香、後藤田正晴というような長老になるわけだが、彼らは終戦の価値観の大転換を身をもって体験しているものだから、完全に人間としての、男としての金玉を抜き取られてしまって、精神的くらげ人間に成り下がっている。
完全にPTSDに罹っている。
彼らは、私如き凡庸に較べれば数倍も頭が切れなければならないが、完全に武士道というものを失っており、ノブレス・オブリッジという概念も持っていない。
ただただ他国との摩擦を恐れるあまり、エコノミック・アニマルに徹する生き方しか選択し得ない。
ひとたび外国が物を言えば、ただただ恐れおののいて謝罪するか、上目遣いに相手の顔色を伺って金を出すしか能がない。
これこそポピュリズムの最たるもので、無知な大衆に迎合して、テレビの視聴率のように自分の人気に一喜一憂しているだけである。
私がこういう人たちを糾弾する根拠は、彼らが憲法改正に非常に消極的だからである。
彼ら自身、憲法の制定の欺瞞性を身を持って体験しているにもかかわらず、その憲法を後生大事に維持しようと思い、護憲の方に身を摺り寄せ、トラブルを回避することに身をやつしているからである。
少しばかり同情的な視点に立ってみれば、彼らはその前の憲法、つまり明治憲法を知っているからとも言えるが、あの焼け野原の東京で、皇居前の第1生命ビルの権威を知っている立場の者としては、現行憲法に触ることは恐れ多いと思っているのかもしれない。
中曽根康弘はマッカアサーに建白書を提出したといわれているが、それだけの気迫があるとするならば、日本独立の際には憲法改正を声高に叫ぶべきではなかったのか。
昭和27年のサンフランシスコ講和条約で日本が再び独立を回復したときが、名実共に、憲法改正の一番良い時期であったが、時の首相吉田茂は日本の防衛というものをアメリカに肩代わりさせる選択肢を選んだ。
日本の独立は安保条約とセットになっているわけで、完全に自立ということになれば、当然軍隊の保持ということをしなければならず、それを担保にするとすればアメリカの傘の下にいるほかないわけで、そのためには現行憲法のままでいかなければならないということだったろうと思う。
しかし、政治家というのは、特に戦後の民主主義の政界では、選挙民から選出されないことには文字通りただの人になってしまうわけで、あの時点でそういうことを言えば選挙民からソッポを向かれる恐れがあった。
それが恐ろしくて沈黙をしていたと見なさなければならない。
憲法を改正すれば、それがそのまますぐに昔の軍国主義に戻るというわけではないはずであるが、宮澤喜一、中曽根康弘、亀井静香、後藤田正晴という自民党の長老たちさえも、憲法を少しでもいじればすぐさま軍国主義の復活に繋がりかねない、という畏怖の念を持っていることは確かだと思う。
こんな馬鹿な話もないと思う。
現行憲法の理念は素晴らしいものがあるとして、その理念は理念としていくら憲法を改訂したところで生かそうと思えば生かせるわけで、今の憲法の良い所は良いところとして、そのまま残すことも十分可能なはずであるが、そういうことを一切合財認めないという論法は、完全に論理的に破綻していると思う。
マッカアサーの日本統治の憎らしいくらいの狡猾さというのは、主権国家の憲法を左右することはジュネーブ協定に反することを知っていたものだから、彼は日本側が自主的に作ったというポーズを取らせたところである。
この点が、今でも左翼陣営が、「あの憲法は押し付けではない」と主張するところであるが、こういう左翼の状況認識はあまりにも馬鹿げていると思う。
戦後の60年間、日本の知識人、左翼勢力、革新を唱えるグループのすべての面々が、この論調に組しており、あの憲法は平和憲法であって、あれに手を加えることは軍国主義の復活に繋がるから許されないことだ、という思考は完全にアメリカの対日占領の目的に合致している。
それは同時に共産主義国の利益にも直結していた。
戦後60年間、日本人の中から、アメリカが制定した憲法を後生大事に堅持してくれる人々がぞくぞくと出てきて、それが大勢を占めたということは、アメリカの対日占領政策が100%の完全さで完遂されたということである。
60年後の今日、我々はエコノミック・アニマルに徹してきたおかげで、衣食足りて礼節を知るべき時期に来ているが、果たして本当にそういうことが言えるであろうか。
マッカアサーの行った改革で、今日の人がすっかり忘れていることは農地改革だと思う。
これこそ本来ならば共産党がしなければならないことであったが、日本の共産党員というのは基本的にインテリーが多く、そのインテリーというのは家が裕福であったが故に、農民の苦労というのはほとんど体験していないと思う。
戦前、戦後を通じて、学問をするということは裕福でなければ出来なかったわけで、その裕福な人が大学というエリート集団の中に身を置いてみると、そこには素晴らしい理想郷が今すぐにでも実現しそうな雰囲気が漂っていたわけである、
そういう理想に燃えて共産党に入ってみると、外から見るのとは大違いで中では派閥闘争に明け暮れていた。
だから階級闘争といいながら、自分たちの農民、農村の実態を全く知らないまま、革命ゴッコ、擬似革命のみを追い求めていたのである。
アメリカは、日本の農村と農民の封建主義が軍国主義の温床だと考えたに違いない。
旧敵国ながらまことに的を得た洞察力だと思う。
確かに、我々の祖国では、この封建主義の基盤が農村にあったわけで、食糧を生産するセクションが一番貧乏だったからこそ、他国にまで雄飛して、それの確保を目論んだに違いないと、アメリカ側は目を付けたと思う。
この過程を大学の先生達は色々な小難しい言葉で言い包めて、それを学術論文と称しているが、要は日本の戦前の海外雄飛という発想は、貧乏からの脱出に過ぎない。
この農村の人々の貧乏からの脱出が、戦前はアメリカを始めとする移民であったが、この日本からの移民をアメリカが禁止したことが大東亜戦争、太平洋戦争の遠因にはあると考える。
これは昭和天皇もそう考えていたようであるが、彼の立場から、責任を他に転嫁するような発言は慎まなければならないので公にはされていないが、内心そう思っていた節がある。
アメリカへの移民が禁止されたので、それが大陸、アジア大陸、中国満州への移民というものを正当化、乃至は整合性を持ってきたのではないかと考える。
とはいうものの、これはあくまでも日本の内側の事情であって、中国大陸における日本軍の行為と行動を正当化できるものではないことはいうまでもない。
ただし、この当時の日本軍というのは、徴兵制というシステムの中で、こういう農村の貧しい人々で構成されていたわけで、こういう人々が外地に赴任したとき、貧しさゆえの卑しさ、虐げられてきたものの反発というものが一気に噴出するという現象は多々あったと想像する。
軍隊という組織の一員に組み込まれて外地に来てみると、自分たちよりも尚過酷な人生を背負わされている人たちを目の前にして、優越感に浸り、自己の座標軸を見失い、専横に振舞い、自己満足に耽った人々がいたことは想像に余りある。
しかし、マッカアサーも6年半の日本占領を経験してみると、あの戦争中の日本人の猪突猛進のエネルギーの根源が、この貧しい農村の人々の貧乏からの脱出にあったことに気がついたものと想像する。
マッカアサーはそれに気がついたので、連合軍司令官を解任されて、アメリカ上院で演説をしたとき、「日本は自存自衛のために戦争に突き進んだ」と公言してはばからなかったのではないかと思う。
日本の共産主義者たちは、自分が裕福な階級からの出身者なるが故に、自分の足元の現状認識が出来ておらず、農村の改革など見向きもしなかった。
この農地改革というのはまさしく革命そのものだと思う。
今の現時点で、誰もそれをそういう風に捉えている人がいないが、この農地改革こそが日本の戦後復興の元だと思う。
日本の農業は、戦前、戦後を通じて自国民を十分に食わせることは出来なかったわけで、だからこそ海外にまでの進出となったが、日本の農業が自国民を食わせるだけ十分な収量が得られない最大の原因が、農村のシステムにあると彼ら、GHQは考えたのである。
いや、これもGHQが日本に着いて始めて思いついたわけではないと思う。
いくらアメリカ軍だとて、上陸して1ヶ月や2ヶ月でそこまで洞察することは不可能だと思うので、もう既に事前にプランが出来ていたと見なすほうが妥当だと思う。
そういうことを考えるとマッカアサーの対日占領政策というのは対日理事会や、極東委員会で出来ていたプランを実施に移したということかもしれない。
だからといって、その主導権は当然アメリカが握っていたわけで、アメリカ以外に日本をこれだけ研究しうる能力とアイデアをもった国が他にあろう筈がない。
農地改革というのは革命そのものであった。
あの時、土地を取り上げられた豊かな地主というのはどういう心境であったのだろう。
地主が地主になる過程というのは、結局のところ、小作農が自分の土地を自分で守り出来なかったから、地主に売り渡すという形で地主の土地保有が肥大化したものと考える。
突き詰めれば資本主義の原始的な形だと思う。
小作農が自分自身の営農に行き詰まるということは、様々な要因があったに違いなかろうが、結果的に富裕な金持ちの地主に農地が集約されたことが不在地主というものを作り出したわけで、ここに共産主義者の好む階級闘争の根源があったわけである。
これは日本だけのことではなく、地球規模で食糧生産の現場、つまり農業の形態としては、こういう形が出来上がっていたに違いない。
そこでアメリカ占領軍が日本においてこの農地改革、農地解放をしたということは、アメリカ軍が共産主義革命をしてしまったということに他ならない。
これによって日本の農家は解放され、自助努力が報われるようになったが、不在地主の抑圧から解放された農家が、今度は時代の経過と共に、昔の不在地主以上の資産家になってしまった。
戦後60年という時の経過の中で、昔、筵の2,3枚の金で手に入れた、つまりただ同然で手に入れた土地が、億という資産価値を生むようになってきたので、濡れ手で粟以上に笑いが止まらないという現象が起きている。
こうなると人の一生は運次第ということになってしまう。
戦後政府の推し進める巨大プロジェクトでは、必ず土地にまつわる闘争が起きているが、このとき土地を提供する側の人々は、必ず「先祖伝来の土地を何が何でも死守しなければ」、という決議を声高にまくしたてているが、60年前は水飲み百姓で、地主を顔色を上目使いに伺っていたものが、今更何を言うのかという思いが頭をよぎる。
私が不思議に思うことは、この農地改革のとき、土地を取られる側の地主達が、その時何も言わなかったことが不思議でならない。
それほどアメリカ進駐軍の威光が恐ろしかったものだろうか。
戦前の治安維持法の元でも革命を夢見ていた人がいる一方で、自分の土地が二足三文で取られるというのに、何の抵抗も示していないということは一体どういうことなのであろう。
戦後、進駐軍が行なったあらゆる改革についても同じことが言えるが、このとき我々の側は全く抵抗ということをしてない。
これは一体どういうことなのであろう。
時代の波には争えない、というあきらめの境地に陥っていたということだろうか。
これは戦前についても同じ事がいえるわけで、国家の指針には何一つ抵抗することなく、羊の群れのごとく実に従順に従ったことと表裏一体をなしているわけで、アメリカ占領軍だったから黙して従ったというわけではなさそうで、ある権威に対して抵抗する思考を欠いていたのではなかろうか。
戦前は天皇という権威に、戦後はマッカアサーという権威に、何も考えることなくただただ単純にひれ伏していたのだろうか。
国家という組織、この組織は地球規模で見てピラミット型をしているのが普遍的な有態だと思うが、ピラミットの頂点が人間ではなく神と認識していたのだろうか。
戦前には天皇を現人神として奉ったことはあるが、マッカアサーまで神と認識していたのであろうか。
そして、そのピラミットの頂点と底辺の間には当然中間層というのがあるわけで、常識的に考えれば、この中間層というのは中産階級であり、知的には相当に知識と経験をもった知識人層だと思うが、このピラミットの中間層というのが底辺をリードして然るべきなのに一向にその役を果たしていないような気がしてならない。
ピラミットの頂点の一部を除けば、それ以下のものは、まことに従順に従うということは、統治という点からみると、これほど理想的な姿もまたとないわけで、その意味で我々は極めて統治されやすい、統治する側からすれば統治しやすい民族だということが出来る。
上からの強権力で押さえつける統治には極めて従順だが、自分たちで自分たちを統治する民主的政治を行うという段階になると、これが百家争鳴の感を呈し、議論百出で一向に纏まらない。
民主政治には神に相当する権威がないものだから、銘々が銘銘に勝手なことを言って、決まったと思ったらそれを覆すようなことを繰り返し、結局もとの木阿弥に戻ってしまうわけである。
民主政治には神に匹敵する権威がないものだから、上意下達が機能せず、各階層で勝手に命令・指示を解釈して、その解釈の基づいて勝手に遂行してしまうので、事の一貫性が維持できない。
戦前、戦後の我々の姿を見ていると、そんな風に思えてならない。
農地改革は日本の農村の近代化に大いに貢献したことはいうまでもない。
かっての水飲み百姓が自作農になって、自分の才覚を十分に発揮できる基盤を築いたことは否めないが、それも法律のバックアップがあって始めて可能であったわけで、そういう意味で日本の農家も規制でがんじがらめに縛られていたことも事実である。
規制を設けないことには又馬鹿な水飲み百姓が土地を手放して、不在地主を作り上げないとも限らないので、規制の網をかぶせた事も当時の状況としては致し方ないことである。
ところが戦後の復興は、この農地の規制を維持しきれないほどの急激な変化であったわけで、都市周辺からその規制は徐々に意味を失ってしまった。
それは同時に、ただで得た土地が億万という価格で取引され、農地解放で自作農となった人々を億万長者にしたてたということになる。
地球上のあらゆるところで、人間の社会というのは農業を主体とする封建主義とその制度で成り立ってきたと思う。
特に、農業というのは自然に支配されているわけで、その上日本のように米作というのは人々が協力し合わないことには成り立たないわけで、その意味でいわれのない因習が付きまとうことも自然の成り行きだと思う。
一つの集落が運命共同体として成り立っている状況は、米作農家という点からすれば自然の成り行きで、こういう状況下に近代的思考が入り込んでくると、人々が惑い戸惑うのも致し方ない。
そういう状況下に、御国のためにご奉公という思想が入り込むと、これには大儀がある分、抵抗の基盤が最初から存在していないわけで、それは必然的に軍国主義にそのままストレートに繋がってしまったものと思う。
この思考回路を、我々の同胞の中から誰一人解明するものがおらず、アメリカ進駐軍から指摘されるということは我が同胞の知識人というのは「象牙の塔」の中で何をしていたのかと問いたい。
マッカアサーの対日占領政策というのは、その大部分が既にアメリカ本国でプランの出来ていたものを彼が実施したという側面が非常に強いと思うが、我々が歴史の教訓として学ぶべきことは、平和な時こそ、諸外国の事情を研究・探求しておかなければならないということだと思う。
我々は戦時中、適性用語ということで英語を習うことを禁止したが、これほど馬鹿げた発想もまたとないわけで、これでは「孫氏の兵法」でいうところの「敵を知り、己を知れば、百戦危やうからず」の教えを全面否定しているものではないか。
我々のあの戦争の理念は立派であったが、相手の国情や民族の深層心理とか潜在意識を研究することを怠ったが故に、自分たちでは崇高な理念に燃えて行なったつもりでいても、相手は決してそうは取ってくれなかったではないか。
戦後出てきた答えは、我々の独りよがりの自己満足、思い込みに過ぎなかった、という結果ではないか。
平和なときに相手の国情や深層心理や潜在意識を研究するということは、非常に地味な仕事で、すぐに金になることでもなければ、すぐに効果の出ることでもないわけで、我々としては誰もそれをしたがるものはいないけれど、戦前のアメリカはそれをしていたわけで、戦争に勝利するや否やすぐさまそれを実施に移したのである。
かの有名な「菊と刀」を著したルース・ベネジェクト女史は、日本軍の捕虜を観察することであの名著を書いたのであるが、日本の「象牙の塔」にこもっていた旧帝国大学の偉い先生方には、こういう研究があったであろうか。
満州で日本軍の731部隊が人体実験をしたというのは、まんざら嘘でもないと思うが、これとても実用一点張りで、すぐにでも役に立つ実用効果を狙った行為である。
人体実験といえば旧九州大学でも実施されたといわれているが、それもこれも医学という狭い領域の実用実験であったわけで、人としての本質をつまびらかにするという意図のもとで行なわれたわけではない。
あくまでも医学という枠の中のことである。
何処の国でも同じであろうと思うが、知識階級というのは為政者の奴隷であってはならないと思う。
為政者に諫言して始めて習得した知性と教養が花開くというものであって、ただたんに為政者の言うがままにしているだけでは御用学者のそしりを受けても致し方がないが、為政者に諫言するということは、大きな勇気が必要なことはいうまでもなく、命惜しさに沈黙を守っていては、磨かれた知性と教養が曇ってしまう。
ここで問題となってくることは、民主主義の元では、知識人が為政者に諫言するという行為がそのまま反政府運動になってしまうことである。
為政者は為政者の思惑で自分の行動を律しているわけで、それに諫言をするとなると、従来の為政者の思惑を否定しなければならなくなる。
大局的な見地から、そういう諫言を素直に聞き入れてくれる為政者ならば問題はないが、為政者ともあろうものが、人の言う事にころころと自分の信念を変えていては、それこそ為政者としての値打ちを失ってしまうわけで、自己の信念を通すということから考えればそうそう人の言う事に良い格好ばかりしておれないのも現実だと思う。
だから為政者に自己の考えを改めさせるには、反政府運動にまでおお事にしなければ、それが実現しないのが民主政治の負の遺産だと思う。
知識人に反政府運動をさせない状況というのが戦前の日本の政治の状況だったと思うが、そういう状況をフォローしたのも、これまた知識人であった、というところに我々が奈落の底に転がり落ちた原因があったように思う。
美濃部達吉の「天皇機関説」への批判も、斉藤隆夫に対する批判も、すべて当時の日本の知識階層の行為・行動であったわけで、知識人が率先して軍人政治家の提灯持ちに成り下がっていたということだ。
戦前の日本では、知識人の総てがこういう時流に迎合する、日和見な知識人であふれていたわけで、彼らは時代が変ると掌を返したように反政府運動になだれ込んできた。
それも無理もない話で、もともと頭の良い人たちなのだから、時流を読むことには長けているわけで、日和見の真価を遺憾なく発揮できるわけである。
この社会的雰囲気のベクトルが、そういう知性も教養も必要のない領域では、それこそモロに「バスに乗り遅れるな」という潮流が逆巻いているわけで、それに棹差すような言動には極めて臆病であったといわなければならない。
日本が戦争で敗北したことによって、戦時中の眠れる知識人達、眠らされていた知識人、沈黙を強いられていた知識人達が一斉に口を開いたので、我々は今亡国の淵をさ迷っているわけであるが、ここでも環境が許せばそれこそ一斉に「バスに乗り遅れるな」という群集心理が渦巻いている。
その様はまるで無学文盲の一般大衆の思考と全く同じで、知識人としての矜持は全く見られない。
学識経験の豊富な知識人が、無知蒙昧な民衆と同じように、群集心理で右往左往しては知識人の意味をなさないが、政治、つまり人を統治するということは、学問や知識では御せないということかもしれない。