終戦60周年2 050503

戦後60年の憂鬱
    その2

黄化論の源泉

 

昭和初期の時代において日本が未曾有の戦争にのめりこんでいった理由はなんとなく理解できる。

日本が中国の地に足場を築こうとしたのは、云うまでもなく貧乏からの脱出を、暗黙の了解の元に全国民が求めていたものといえる。

満州国を建国し、そこの社会的基盤整備をして、産業を興隆させ、共存共栄を図ることでお互いに貧乏からの脱出を図ろうという遠大な構想の元に、あのような軌跡を描いたのではないかと推測する。

ところが、そこで我々の中の一部のものが短編急に利益を追求しすぎ、そこで上げた利益を祖国に還元しようと考えていた者がいたことは安易に想像しうる。

それがアメリカの逆鱗の触れ、アメリカはそうはさせじと、あの手この手で日本の野望を打ち砕こうと画策したことが究極的に日米開戦に至ったものと考察できる。

先に、当時の駐米日本大使館の3悪人のことを記したが、大使館員たるもの、相手国の政情を深く、広範に探ることも大事な使命だと思うが、当時の彼らはそういう事をしていたであろうか。

今から考えれば、仮にそういうことをしていたとしても、それを現実の政治に反映させることは多分不可能であったであろう。

そのことは同時に、日本は対米戦争にいつかは突入し、そしてその結果は敗北、勝てないということでもあったわけだ。

ここでアメリカがそれほどまでして、日本の大陸進出を危惧し、阻止しようとする理由は一体なんであったのだろう。

その理由を追い求めるとすれば、それはアメリカの建国の歴史にまで遡るのではないかと思う。

アメリカという国は、云うまでもなく、自分たちの国を自分達の理想に沿って建国してきたわけで、時には戦争し、時には平和的な経済行為としての売買契約で国土を拡張してきたことはいうまでもない。

そのことは同時にヨーロッパの近代を身を持って体験しつつ、国の興隆に貢献してきたということだと思う。

この時のヨーロッパの近代を支えていた思想的根拠といえば云うまでもなく帝国主義であり、植民地主義であったわけで、そういうものの渦中に身を置きながら、アメリカ合衆国というものを作り上げてきたので、国益の保持には武力が背景になければならない、ということを極普通の概念として持っていたものと思う。

まさしく武力こそ国の底力のバロメーターであり、それを実践するのは戦争でしかないと考えていたと思う。

そういう考え方が普遍的であったとすれば、当然、相手国の動向を見る視野にもそれが反映され、そういう動きには敏感になるわけで、20世紀初頭の世界を見てみると、日本という国は、それこそ彗星のように太平洋に端に勃興してきたがゆえに、彼らの目から見れば驚天動地の出来事と映るのも仕方がない。

彼らの従来の認識からすれば、東洋人というのはサルでしかないと思っていたものが、太平洋の端に住む小さなサルどもが、日清戦争ではあの巨大な清帝国を負かし、そしてあの大帝国のロシアまで負かしてしまったという事実は、とうてい信じられない出来事であったに違いない。

この二つの事例から、彼らアメリカは、何時かは日本の頭を押さえつけなければならない、と心の奥底で感じていたものを推察する。

何となれば、イエロー・モンキーがことほど左様に世界にのさばったとすれば、彼らの従来の認識と、彼らの自尊心が許せないと感じ、何時かはこのイエロー・モンキーを叩かねばならないと思っていたとしても不思議ではない。

だからアメリカは何時かその日の来ることを予感、予想して、太平洋戦争の始まるずっと以前からオレンジ作戦という対日戦を想定した戦争遂行プランを作っていたのである。

だから日本が満州国を建設した時は、もうそろそろ我慢の限界に達していたわけで、このあたりで「邪魔者は殺せ」という心理状況になっていたものと推察する。

それはアメリカが日本に変わって中国の地に植民地を作るというものではなかったかもしれないが、とにかく「出る杭は打て」という程度のものであったとしても、今までのヨーロッパ先進国と同じように帝国主義的進展をする我が国、放っておけばそれ以上のことをやりかねない日本という存在が、彼らにとってまことに五月蝿い存在であったに違いない。

彼らの目から見て中国はどう映っていたかといえば、この地は彼らにとってもまるでネイテイブ・アメリカンの地、即ち、西部劇の西部の地と同じで、如何様に料理しようとも何ら痛痒を感じるものではなかったが、ただただ日本がその地に地歩を固めることだけは我慢ならなったに違いない。

アジアの一角に日本が大帝国を作ることは彼らの潜在意識が許さなかった。

ヨーロッパ系の白人としては、日本人というイエロー・モンキーが自分達を同じようなことをし、それ以上に成果を上げるのを見るのは、なんとも辛いことであったわけで、彼らの側に黄化論が起きるのは必然的な流れであったに違いない。

この彼らの心配は見事に当たったわけで、太平洋戦争が勃発したら、見事に彼らは窮地にたたされてしまって、アジアに確保していたヨーロッパ系白人の植民地は一瞬の間に奪還されてしまったではないか。

我が同胞の本質

あの大東亜戦争の我々の側の理念は、あくまでもアジアの開放であったし、アジアの共存共栄を図ろうとしたものだと思うが、アジアを開放したはずの日本が、今、何故にアジアの人々からそう嫌われるのか、ということを深く考察しなければならないと思う。

これこそ我が民族の根底に関わる問題だと思う。

一言で言ってしまえば、我々は他民族を統治する術に長けていなかったということだと思う。

我々は、古来から東海の端に浮かぶ4つの小さな島国で、他民族の侵略も侵攻も今まで経験したことがなかったからだと思う。

いわば「井戸の中の蛙」の状態で、自分達の尺度で相手の人々を推し量ったからだと思う。

そして恩典を与えれば相手はそれに報いてくれるものと、頭から単純に信じていたわけで、多様なものの見方、多様な考え方がこの世には存在しているということを忘れていた証拠だと思う。

西洋人、ヨーロッパ系の白人、西洋先進国のアジアの植民地経営というのは、徹底的に富の収奪に徹していたわけで、富の収奪という目的さえ遂行できれば、後は現地人の生活の向上を図らなければならないなどという発想は毛頭なく、ありのままの姿を変えようなどとは考えていなかった。

ところが我々は富の収奪よりも、共存共栄という大目的のために、彼ら、被統治されている側に、我々の価値観を押し付けようとしたので、そのことが彼らの従来の価値観と衝突して、逆に恨みを買うという図式になってしまったものと考える。

2005年、平成17年の5月には、先月、4月の抗日運動が再燃するのではないかと心配されたが、これは中国側の当局が強引に押さえ込んだ節が見られる。

この5月の暴動の根拠と考えられるのが五・四運動というもので、これは1919年、パリ講和会議の趣旨を骨抜きにしたことに対する、中国人民の抗議活動であった。

つまり、西洋列強が日本の言い分を聞き入れて、日本の権益を擁護する動きに抗議するために、中国において中国人の各階層の抵抗運動が湧き上がったという歴史的事実である。

この争点は、第1次世界大戦でドイツが負けたことによって、山東省のドイツの持っていた利権が日本側に移ったことへの抗議であった。

ここが私のもっとも重視する点で、彼ら中国の人々は、紅毛碧眼の西洋人、ヨーロッパ人、具体的にはドイツ人ならば何の抵抗も示さず権益を許しながら、それがモンゴリアン、モンゴロイド、東海の小島の倭の国の支配に移ると決定的に嫌悪艦を露にするということである。

しかし、ここでもう一つこの運動に注意しなければならないことは、中国の地に共産主義体制が出来上がっていないときには、こういう民衆運動が可能であったということである。

今回の抗日運動を押さえ込んだ中国政府の行動と比較して、民主化の度合いはどちらが進んでいたかを考えて見れば一目瞭然である。

ことほど左様に、戦前の我々は、既に中国からも嫌われ、世界中から警戒されていたのである。

中国の対日感情というは有史以来嫌悪感で固まっているわけで、中国と仲良くしなければ、というのはその場の奇麗事で、両国の理想であり、理想だからこそ現実化し得ないことと考えなければならない。

何故、嫌われたかといえば、やはり武力を背景とした国益追求があまりにも急激であって、恰も洪水のような海外進出であったので、相手側としては危機感と警戒感を募らせたに違いない。

そして我々の海外進出がいくら口先で五族協和、大東亜経済圏確立を説いたところで、相手がそれを信用していなかったからこういうことになったものと解釈する。

相手側、つまり中国の側からこれを見れば、日本がこういうお題目を掲げることさえ片腹痛い、笑止千万の行為に映っていたものと想像する。

ところが日本の実績といえば、武力を背景としながらどんどん先に進んでしまうわけで、その実績に溺れてますます日本の行動はエスカレートしてしまった。

何ゆえに我々は国際世論を無視してまで先に進んでしまったのか、という原因究明をするとすれば、また再び我々、日本民族の本質論、即ち組織論に立ち返らなければならない。

19世紀の後半から20世紀の初頭、日清戦争に勝利し、日露戦争に勝利した、我々の兵隊が中国の地に渡ってみると、彼の地は如何にも野蛮な土地に見えたに違いないと思う。

我々の側だとて、徴兵制の元でかき集められた一般の兵士達は決して裕福でもなく知的に優れていたともおもわれず、無学文盲に近い大衆が、その兵士の中に大勢いたことは否めないが、日本軍というのは極めて軍律が厳しい軍隊で、そういう意味ではまことに従順な集団であった。

ところがそういう彼らの指揮官というのは、先に何度も述べたように、たった一回のペーパー・チェックでその後は特殊な世界の中で純粋培養された特殊な人々であった。

こういう集団が中国に地に上陸して、周囲の人々を見ると、やはり自分達とは異質な未開人に見えたとしても仕方がないと思う。

昨今は、中国側が日本軍は彼の地で「暴虐の限りを尽くした」と声高に叫んでいるが、彼らは彼らの同胞に対してそれ以上のことをしているにもかかわらず、自分達のした行為については全く無感覚である。

同じことを日本人がすると嫌悪感を露にするが、それはやはり彼らの潜在意識としての中華思想が根底にあって、華夷秩序の一番外側の輩が、漢民族と同じことをすることは許し難い精神的苦痛を伴う行為に映るわけである。

その意味ではアメリカが日本のあまりにも急激な海外進出に警戒感を持ったのと同じ心境だといってもいいと思う。

異民族が同じ土地に居を共にすれば、摩擦が起きるのは当然で、その摩擦の解消は軍事力でしか解決できなかったわけである。

そしてそれを行なうと、相手はどんどん奥に引き下がるわけで、だからこちらもどんどん奥に入っていくと、当然、補給線が延びきってしまう。

よって補給がままならないので、自然発生的に現地調達ということになるが、そこでは当然トラブルが生じるのが当たり前で、結果として日本は「暴虐の限りを尽くした」という相手側の主張となるのである。

今の時点で20世紀の初頭の両方の軍隊というものを見てみると、中国側には正式な軍隊というものが本当に存在していたかどうかがはなはだ疑問だ。

国民党政府軍という言葉があるが、これも言葉のアヤで、実質は妙な存在だと思う。

この時代に中国に政府軍があったとすれば、中華民国軍隊でなければならないと思うが、こういう言い方をした文献は非常に少ないのではないかと思う。

大体、中国大陸に統一政府が出来ていない以上、正式な軍隊というのはありえないわけで、その意味で国民党政府軍とか、中国共産党赤軍という言葉はある程度の整合性を持っているが、国際的には通用しないのではなかろうか。

一国の軍隊というからには、その国で定めた正式の服装があり、正式な武器を携行したものでなければならないと思うが、この時代の中国にはそういうものが確立していたであろうか。

戦争にもルールがあったわけで、相手の人間をめった矢鱈と殺していいというものではない。

国の主権の行使として、殺傷してもいいのは正式な軍服を着た戦闘員のみで、女子供や非戦闘員はむやみやたらと殺していいわけではない。

その意味からすれば、アメリカの爆撃や、原子爆弾の投下は、明らかに国際法違反であることはいうまでもない。

だがしかし、この時代、国民党政府軍と、中共の赤軍と、地方の軍閥と、山賊と、夜盗と、強盗が、皆一緒くたになってしまっており、それぞれが殺人のライセンスを勝手に持っていたわけで、そこに日本軍がきちんとした制服と、きちんとして兵器で駐屯しているとすれば、目立つことも目立つが、殺しの結果を全部これに追い被せるのにはまことに都合がよかったわけで、自分達で無差別殺人をしておいて、それを「日本軍がした」と言っても、彼らの側でその真実をわざわざ自分達で暴こうとしないのは当然のことだと思う。

総てを日本軍の所為にしておけば、彼らとしては誰一人傷つかないわけで、こんな重宝なこともないはずだ。

問題は、この時代の日本のエリートが何ゆえに日本の帝国主義的海進出を鵜呑みにして、それに疑義を差し挟まなかったかということだと思う。

戦後、巷でよく言われたことに、当時は治安維持法があって思うことを思うとおりに発言できなかった、という趣旨のことが流布されているが、果たしてそれだけの理由で日本は軍国主義の矛先を収めることができなかったのだろうか。

これを解き明かさないことには、我々は戦争の反省をしたことにはならないと思う。

戦後の価値基準では治安維持法が諸悪の根源という認識であるが、私が考えるには、そこにもう一つ我々の民族の本質があるような気がしてならない。

戦前も戦後も我々の国土は小さく狭いので、広大な土地というのは我々の夢であり、願望でもあり、理想でもあったと思う。

だから国の方針として海外の土地を開拓することがその夢の実現として推奨されてきた。

戦前で言えば満蒙開拓であり、戦後で言えば南米の各地、特にブラジルへの移民であった。

こういうことを鳴り物入れで政府が宣伝していたが、政府が推奨することを真に受けると、とんでもない結果を招くというのが現実であって、戦前でも戦後でも海外雄飛という美名の下に政府の吹く笛に踊らされた人々は悲惨な結果を招いている。

政府も最初からそういう健気な人々を騙すつもりでプロジェクトを立ち上げたわけではないが、結果が失敗であれば弁解の余地はない。

政府が鳴り物入りで喧伝したプロジェクトに、国民が素直に従うと、結果として大馬鹿を見るわけで、国家がいくら推奨したとしても、それを選択した責任は個人にあるわけで、後から政府に騙されたといっても、自分の背負った苦労が帳消しになるものではない。

こういう愚は政府と国民の間には履いて捨てるほどあるわけで、それで戦後、誰でも彼でも政府にものの言える状況になると、自分達の政府が信用できないという状況に陥ったのである。

戦後の経済成長も、ある意味では政府の吹く笛に躍るという側面が多々あったわけで、我々が心しなければならないことは、そういう妄想にいとも安易に飛びついてしまうというところにある。

そしてここに我々の民族としての付和雷同性がにじみ出てくるわけで、「バスに乗り遅れるのは馬鹿だ」という群集心理というか、追従主義というか、「赤信号、皆で渡れば怖くない」という馬鹿な発想に行き着くものと私は考える。

我々は全体主義の国に生きているわけではないので、色々な選択肢があるにもかかわらず、誰かが政府の示す方針に賛同すると、我も我もと無批判にそれに追従してしまう癖がある。

正に「バスに乗り遅れるな」という心理に陥ってしまって、自分で調べ、自分で考え、自分で判断せずに、「あいつがやるなら俺もやる」、「他社がやるなら我が社もやる」、「今ついていかないと時代に取り残される」という「バスに乗り遅れるな」という心理が非常にきつく我々の民族の深層心理に作用してしまうのである。

行き過ぎとその反動

こういう我が民族の本質的な深層心理でもって戦前の我々の同胞を推し量ってみると、どういうことになるのであろう。

戦前、昭和初期の日本のエリートというのは、明治時代に設立されたエリート養成機関という特殊な環境で純粋培養された人たちだと思う。

ここで彼らの住む世界というのが、特殊な社会で、その中で純粋培養された人間集団というのは、出身母体の狭い社会ではなかったかと思う。

例えば、海軍兵学校であったり、陸軍士官学校であったり、東大であったり、と極狭い社会の中で自分のアイデンテイテーを誇示するには、この狭い世界の中で何かをアピールしなければならなかったわけで、そのためには在校中の席次だとか、卒業年次だとか、先輩後輩のつながりというようなことが重大な関心事であったものと考えられる。

それが事を決する時の価値判断になっていたので、国政のことなど眼中になく、ましてや国民のことなど歯牙にもかけずに済んでいたわけである。

その延長線上に、相手の国の国情を慮ることなどもってのほかで、世界がどう見ているかなど、まるで関心がなく、五族協和も、大東亜共栄圏も言葉だけの掛け声に過ぎず、ただただ出身母体の狭い世界のことにだけ神経を集中させていたものと考える。

国というものをトータルに眺めてみると、エリート集団は自分達の出身母体を擁護する狭い見識でものごとを推し量っていながら、底辺の国民の側では「バスに乗り遅れるな」という心理が大きく作用していたのである。

出身母体を擁護する狭い見識でものごとを推し量ったということは、今の言葉でいえば究極の縦割り行政ということになるが、この縦割り行政を平滑にすべきものが、本来ならば政治家でなければならなかった。

ところが、明治憲法下において統帥権が屹立している以上、政治家がそれを乗り越えることは不可能であったろうと思う。

その上に治安維持法というのがのしかかって、戦前の政治というのは完全に死滅していたといわなければならない。

しかし、大正デモクラシーの中で、どうして昭和の初期にそのデモクラシーが死滅していったのであろう。

ここに我々日本人の政治が三流と言われる根源が潜んでいたのではなかろうか。

我々の物事の決定の仕方は、先の御前会議のときにも述べたが、丁々発止と口角泡を飛ばして議論をした後、多数決で事を決するというデモクラシーとは程遠く、前々から根回しをしておいて、会議の場ではそれを再確認するという程度のものでしかない。

このことは根本的に真のデモクラシーとは相容れないわけで、古来の長老政治と同じ感覚でしかないのである。

明治維新後のエリート教育の過程で、西洋の近代思想というものが導入されたかに見えたが、本質のところでは、我が民族の潜在意識としての長老政治のパターンを払拭しきれず、古来のものの考え方の残滓を引きずっていたものと考える。

ここでいう古来の長老政治ということは、いうなれば村の長(おさ)の統治手法と同じで、和を重んじるという言い方で、なんとなく変りばんこで長を選出し、選ばれた長は自分の在任中は大過なく過ごすことを信条とし、自分が席を降りて長を交代しても、新しい長にたいして徹底的な攻撃をすることを控え、なんとなく恩を売り、お互いに相互扶助の精神で時の過ぎていくのを待つというスタイルである。

これこそ和を重んじる長老政治の典型な例である。

これは民主政治の対極にある政治形態なわけで、これを軍部が行なっていたので、日本は奈落の底に転がり落ちたものといえる。

あの当時において、軍部がこういう力を持つに至った過程は、やはり彼らの実績が物をいったのではないかと思う。

中国の地で軍部が活動すると、それを「勝った勝った」と宣伝したのが当時のマスコミとしての新聞であったが、これが国民によって大きく支持され、こうなるとも政治家の出る幕がなくなってしまい、国民は軍部のみを敬愛するようになり、ひいてはそれが軍国主義を助長したものと推察する。

この頃、中国の地では日本軍が少し行動すれば、相手はどんどん奥に逃げ込むわけで、これを繰り返している限り日本軍は「勝った勝った」と浮かれるのも当然で、それに引き換え政治家はこういう目に見える形で実績を示すことが出来なかったはずである。

ここで本来ならば知識人という人が世論をリードしなければならなかった。

帝国大学の先生方というのは、この時代において「象牙の塔」の中で磨いた研鑽を世論に向けて放出して、軍国主義の危うさを、国民大衆に知らしめなければならなかったと思うが、知識人というのはそういう風には行動しなかったわけで、ただただ自分自身も世の風潮に迎合するのみで、学問が真の学問になっていなかったと思う。

政治家も政治家で、大学教授も大学教授で、それぞれの井戸の中、コップの中だけの視野しかもっていなかったということだと思う。

横の連携というものが全くなかったので、日本国中、津々浦々に至るまで軍国主義一辺倒になってしまったものと思う。

治安維持法が大きく立ちはだかったのは、当然、政治家や大学教授の発言に対して大きな抑制ブレーキとなったものと考えるが、この治安維持法というのが共産主義者を取り締まる為の法律であったところに注意を払う必要がある。

日本共産党が非合法ながら設立されたのが1922年、大正12年のことで、これに対抗する意味で普通選挙法と抱き合わせで設立された治安維持法の成立が1924年、大正14年ということである。

戦前の日本人が、ものの言えなくなった背景には、こういう事情があったわけで、大正デモクラシーの行き過ぎが自ら口をつぐまざるを得ない状況を生んでしまったわけである。

いわゆる行き過ぎとその反動というわけだ。

戦前、戦後を通じて共産党、共産主義者の存在ということが日本の動向を大きく左右したということを今我々は真摯に受け入れなければならないと思う。

歴史に「もしも」という言葉、「if」という言葉がありえないことはよく判っているが、近代から現代の地球上に生きる人々にとって、共産主義者の存在というのは非常に大きなファクターを占めていると思う。

マルクスの「共産党宣言」の冒頭に書かれている「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という幽霊である」という言葉ほど共産主義の真髄を表した言葉もないと思う。

まさしく共産主義というのはヨーロッパのみならず、全地球にとって幽霊であった。

この幽霊によって地球上の人間はいかほどの災禍をこうむったか計り知れない。

私、個人的には共産主義というのは一つの宗教だと思っているが、それは各人各様の捉え方があるのでなんに見立てても構わないが、それの及ぼした影響というのは計り知れないものがあることは確かだと思う。

それで、戦前の日本が、この幽霊の如き共産主義を押さえ込むために治安維持法というものを作ったはいいが、この法律はあらゆる反政府運動に適用可能であった。

この法律がなんにでも適用可能だということがわかると、それこそなんにでも適用したわけで、こういう場面で実に我々の民族は付和雷同的というか、自分でものごとを考えないというか、前例主義とでもいうべきか、とにかく利用できるとなると見境もなくそれを使うわけで、こういうセルフ・コントロールが効かないところが軍部の独走とも全く同じ行動規範となっていた。

公安当局が見境もなくこの法律を振り回すので、時の知識人たちは、ものが言えないという状況に陥ってしまったのである。

そもそも治安維持法が出来る前提条件として、大正デモクラシーであまりにも有頂天になって、はしゃぎすぎたという面が有るのではないかと思う。

それは国民の側にあったわけで、差別撤廃の運動から米騒動、労働争議から小作争議まで、ありとあらゆる騒動がこの大正デモクラシーの波に乗って噴出してきたので、そういう民衆に迎合する意味で、普通選挙法を考え、その裏側で跳ね上がりを抑える意味合いで、それを取り締まるための法案が可決成立したのではないかと思う。

ここでも自由化の行き過ぎがあったわけで、我々の行動には理性による自己コントロールということがなく、有頂天になってどこまでも舞い上がるという浅薄な思考があるものと考える。

ところがこれも一人では出来ないわけで、群集心理で、大勢だとセルフ・コントロールということを忘れてしまって、ただただ群集心理で行き着くところまで突き進んでしまい、後で後悔するというパターンだと思う。

軍部も、政治家も、共産主義者も、実にセルフ・コントロールということが下手で、とことんまで突き進んでしまうからその反動が自然発生的に湧き上がってくることは当然の成り行きだと思う。

ところがそういう諸々のことも、国内の問題については太平洋戦争で総てが御破算になってしまったが、海外における日本軍の行為は、相手があることで、政府と政府の話し合いでは一応の決着がついたものの、民衆レベルでは一向に「倭の国の野蛮な民族から屈辱を受けた」という後遺症が癒されていないのである。

それで最近の中国政府はそういう民衆の怒りを煽っておいて、そのことを自分たち政府への不平不満のガス抜きに使い、同時にそれを外交の手段として利用しているのである。

ただ最近の中国の動きで注視しなければならないことは、1919年の五・四.運動では抗日のデモが許されていたが、昨今ではそういうデモを政府が封じ込めたということを改めて考察する必要があると思う。

民衆がデモ行為で、ある程度の意思表示が行えるということは、即ち民主化がそれだけ進んでいるということで、今日のように、デモが封じ込められたということは、民主化が後退したということだと理解しなければならない。

共産党の一党独裁政治の現実がそこには現れているということだ。

負け方の見本

戦前の状況がこうであったとしても、我々の戦争の終結の仕方も実に妙な按配だったと思う。

ポツダム宣言の受諾の最低条件というのが「国体の護持」というものであったが、この言葉は実に意味不明の言葉だと思う。

そもそも国体というのが何をさすのか定義が定まっていないような気がしてならない。

国体とは天皇制のことであったのだろうか。

「国体の護持」ということは天皇制を潰さないということと同義語であったのだろうか。

それにしても、昭和天皇がポツダム宣言を受け入れ、戦争を終結させると言っているのに、尚それに不服で、徹底抗戦をしようとしていた同胞がいたことを我々は今どう解釈したらいいのであろう。

1945年、昭和20年というときに、あの東京の焼け野原の状況を見て、それでも尚戦争を続けようとした同胞の存在を我々はどう受け止めたらいいのであろう。

こんな馬鹿な話もないと思う。漫画以上に陳腐な発想ではないか。

何がこういう奇妙奇天烈な思考に導いたのであろう。

本当に、真底、我が同胞を本当の意味での滅亡、殲滅に導こうとしたのであろうか。

第一あの天皇制の下で、あの軍国主義の下で、「天皇陛下の命令は至上のものであった」にもかかわらず、それに素直に服そうとしなかった同胞の存在をどう考えたらいいのであろう。

このことは同時に開戦にいたる過程でも如実に現れているわけで、天皇が紛争不拡大の方針であったにもかかわらず、その天皇の意思と全く逆のことをしてきたことを考えると、「天皇の命令は至上のものであった」ということは嘘であったといわねばならない。

天皇を頂点とするピラミット型の組織、つまり旧大日本帝国という国家組織の中で、底辺の庶民と天皇の中間に位置する我が同胞達は、下々のものには「天皇の命令は至上のものだ」と言いながら、自分達は心からそれに服していなかったということに他ならない。

そのことを考えると、当時の日本国民は2重に騙されていたということになる。

戦争を終結させるのに、ポツダム宣言を受け入れ、それに「国体の護持」を交換条件として連合国側に飲ませたので、無条件降伏ではないという論議があるが、「国体の護持」などということは相手側、つまり連合国側にすれば何の意味もないわけで、事ここに至れば我が祖国の殺生与奪権は相手が握っていたわけで、言葉の定義など何の意味もない。

連合軍側の占領の手際よさというのは実に見上げたものだと思う。

我々の民族にはない合理主義の典型的な有態であったように思う。

政治を徹底的に合理化するとそれがデモクラシーに昇華するのではないかと思うが、正に絵に書いたような合理主義の典型であったと思う。

それは同時に、我々の民族の被占領の仕方がよかったともいえるが、これも地球規模で見て、非常に珍しいことではなかったかと思う。

確かに、あの状況下でも尚徹底抗戦を叫んでいた同胞がいた反面、大部分の我が同胞は、実に従順に占領に服したものだ。

日本占領下の中国大陸ではこうではなかったわけだし、フセイン政権をアメリカ軍によって倒されたイラクでもこうでなかった。

占領してきたものに対して徹底抗戦をしていたわけで、何処にこういう相違の根源があるのであろう。

 

 

 

 

セルフ・コントロール

話が横道にそれてしまったが、共産主義というものがこの20世紀初頭に地球規模で広がったことは人類の生存に良きにつけ悪しきにつけ大きな影響を与えたものと思う。

大正デモクラシーの波に乗って、当時の日本の知識人の中にも大いに共産主義に賛同するものが出てきたことは時代の流れに便乗するという意味で、ある程度は理解できる。

その根底には新しいものにはすぐに飛びついてみるという、善意に解釈すれば、進取の気性といえる部分もあろうが、それよりも「バスに乗り遅れるな」という心理、つまり我々が民族として持つ「右へならえ」式の潜在意識から考えれば、当然の成り行きだと思う。

が、この共産主義というものが、「これまでの一切の社会秩序を強力的に転覆することによってのみ、自己の目的が達成されることを公然と宣言する」と言っている以上、既存の政府でこれを容認するほど寛容な政府というのはありえない。

1922年、大正11年に非合法で結成された日本共産党が、こういう趣旨で活動を始めたとすれば、統治する側としては当然それに対抗する手段を取らざるを得なくなるものと思う。

それが1925年、大正14年の治安維持法となるわけで、ものごとには須らく因果応報という不文律が存在することから考えれば、悪法といわれたこの法律にも、それを作らなければならない背景というものが存在していたわけである。

19世紀から20世紀初頭の世界というものを敷衍して眺めた場合、そこには共産主義思想の跋扈する背景があったことは否めない事実だと思う。

ということは恐らく世界中の国々で、貧富の差があまりにも極端に広がっていたことが考えられる。

これらの状況は多くの小説が示している。

例えば、ドストエフスキーの「罪と罰」、パール・バック女史の「大地」、はたまたスタインベックの「怒りのぶどう」等という小説は、この時代の社会を如実に表現している。

日本でいえば「女工哀史」「蟹工船」等々、枚挙にいとまない。

こういう状況を打破するためには共産主義しかありえない、と世の人々が思い込むのも致し方ない面があったことは否めない。

日本とて例外ではなく、稚拙な資本主義が帝国主義に便乗して殖産興業の名の下に貧富の差が拡大したことは想像に余りある。

こういう状況から鑑みて、当時の知識階級の善意の持ち主達は、こういう状況をなんとしても改善し、皆が少しでも幸せに生きれるようにと考えたとき、共産主義にその活路を見出した、という成り行きは理解し得ないことではない。

ところが統治する側にしてみたら、自分達の社会的秩序をむやみやたらと破壊されては困るわけで、どうしても「取り締まらなければ」という結論に達することも必然的な流れであったと考える。

この時代、つまり19世紀から20世紀初頭に、世の中を美しいものにしなければ、という善意の持ち主も居ることはいて、新しい実験も試みられたが、人間の根源的な本質を改善するのに、善意は通じないわけで、そのことごとくが失敗に終わっている。

共産主義も、それを限りなく大きくしたようなものと考えれば、それはそれで由としなければならないが、問題は、それをなすのに武力行使も辞さない、革命のためには人を殺しても構わない、という発想を内包しているという点にある。

そして、「共産党宣言」が高らかに謳いあげているように、「社会秩序を転覆する」という点に、統治する側としてはどうしても寛容になれないポイントがあったと思う。

思想としての旗印は、人を魅了するに十分魅力に富んだ表現がなされているが、問題は、その思想を実践する側の人間にある。

人間である以上、それはどこまで行っても人間であって、共産主義であれ、民主主義であれ、帝国主義であれ、その思想を道具として使う人間の側の問題に帰結すると思う。

1991年、ソビエット連邦が崩壊して、共産主義という言葉も、思想も、色褪せてしまった感がするが、19世紀から20世紀の初頭において、この共産主義というものが当時の知識人を非常に魅了していたことは否めない。

その魅力の虜になって人生の進路を誤った知識人は、掃いて捨てるほどいただろうと思うが、それは何も知識人だからというわけでもなく、共産主義に被れたからというわけでもなく、それぞれの個人の問題であったかも知れない。

しかし、共産主義というものが戦前・戦後の日本に大きな影響を与えたことも否めない事実だ。

戦後の日本も、共産主義国になったわけではないが、この共産主義の持つ旧秩序の破壊というものが、民主化という言い方で、戦後の日本人に大きな影響を与えたものと考える。

結局、歴史とか、政治とか、社会というのは突き詰めれば総て人間関係に由来するものと思う。

戦前に共産主義というものが日本に入ってくると、その対抗手段として統治する側は治安維持法を作り、すると今度はこの治安維持法が一人歩きしてしまって、あらゆる言論を封殺してしまうという結果を招いたが、それもこれも総て人間の行為であったわけで、歴史を振り返るということは、人間を研究するということに行き着く。

そこで、この一連の流れを人間の思考にまで掘り下げて考えてみると、結局のところ、我々の行為・行動というのは振り子のように、一旦極限まで突き進むと、今度は反対にその揺り戻しが極限にまで振れるのではないかと想像する。

それを水平軸で捉えればサイン・カーブ、コサイン・カーブということになろうが、その軌道から大きくはみ出てしまったのが、あの大東亜戦争、太平洋戦争であったと思う。

それで戦争に敗北したという時点で、再びもとのサイン・カーブ、コサイン・カーブに戻ろうとしたときに、ここでまたまた共産主義というものが頭を持ち上げて、社会に一層の混乱を撒き散らした。

マッカアサーを頂点とする占領軍は、真っ先に日本の政治犯の釈放を行なったが、連合軍というのは共産主義というものに非常に甘い認識しか持っていなかったわけで、これまで対日戦にかかわる何度かの会談でも、共産主義者との関わり方に何の不安も抱いていなかった節がある。

この会談ではアメリカのルーズベルトは何度もソビエットのスターリンと会っていたにもかかわらず、共産主義者というものの本質を全く理解していなかった。

彼は、共産主義者といえども自分達と同じ価値を共有しているに違いない、という認識しかもっていなかったので、何ら警戒する様子がなかった。

ところが戦争が終結するとすぐにソビエットはその触手を日本に伸ばして、あわよくば労せずして得るものがないかと、臆面もなく試みたではないか。

こういう共産主義者の領土的野心というのは主義主張のなせるものではなく、あくまでも人間の野心の問題だと思う。

1917年のロシア革命も、共産主義を抱えたレーニンという個人の勝利であったわけで、レーニンが共産主義という主義主張を上手に道具として使って、ロシアの民衆を煽り、それでもって旧来の皇帝というものを潰すことに成功したわけで、ロマノフ王朝のニコライ2世というのは共産主義を掲げるレーニンという個人に滅ぼされたと見るべきである。

その後を引き継いだスターリンという個人も、人間的に誠実な人間でなかったことはソビエット連邦のその後の歴史が示している。

1945年の時点で、アメリカのルーズベルトはその共産主義の本質、ソビエット連邦の本質、スターリンの人となりに全く無知であったと見なさなければならない。

1945年8月15日の時点では、ルーズベルト大統領はもうこの世に居らず、トルーマンになったが、彼の敷いたレールはしばらくは継承されたわけで、その線に沿って当時の日本共産党員は、政治犯の釈放という棚ぼた式の外圧によって開放されたのである。

ところが彼らも実に愚かで、現状認識というものが全く解っていなかった。

 

 

 

 

 

1945年、昭和20年10月10日、人民に訴う。(毎日新聞発行「戦後50年」より)を見ると、この現状認識の不理解ということは、とりもなおさず、我々が大東亜戦争、太平洋戦争に嵌った過程と同じ軌跡を踏襲しているわけで、ここに見えてくることは、我々日本民族というのは主義主張が相反していようとも、することは同じだということである。

しかし、アメリカ占領軍によって牢獄から解放された日本共産党の面々というのは、実に好い気なものだったと思う。

彼らと同じ同胞は、南のジャングルで地を這い、泥水を掬って生を長らえ、北のシベリアでは極寒の風雪の中で歩哨にたち、内地では爆弾の雨の中を逃げ惑い、戦火に追われて水に飛び込んだりしていても、彼らは鉄格子の中とはいえ、三食昼寝つきで鉄筋コンクリートの要塞のような日本で一番安全な別荘地にいたようなものではないか。

牢獄から出てくる彼らは特別にやつれたようにも見えず、この時代の日本人の中では一番栄養が行き届いていたように見えるではないか。

こんな馬鹿なことがあってたまるか。

出れば出たで、まるで英雄気取りで、この驕り高ぶった宣言文は一体何だと言わなければならない。

開放されて野に放たれると、こういうことをしでかす彼らをみれば、統治する側としては当然許し難く思うのも自然の成り行きで、結局のところ占領軍もそうそう甘い顔もしておれず、再び弾圧ということに成ったではないか。

ここでもセルフ・コントロールが効かなかったということだ。(毎日新聞[戦後50年]より)

 

金太郎飴

それにしてもあの戦時中は「天皇陛下の命令は至上のものであった」という割には、一旦戦争に負けたとなると、我々の同胞の変わり身の早いのには本当に驚かざるを得ない。

日本の大衆は、進駐軍の政治犯解放で牢獄から出てきた日本共産党の面々が、誰も彼もみな栄養満点の姿で出てくるのを見た瞬間、世の移り変わりの兆候を一瞬にして悟ったものだろうか。

それとも今まで抑圧されていたバネが留め金を外されて一気に跳躍したものだろうか。

「天皇陛下の命令は至上のものである」という言葉で、何もかも辛抱させられていたにもかかわらず、戦争の結果が政府の言っていたことと正反対の結果になってので、一様に政府不信に陥ったということであろうか。

この時点では、これらの理由の総てが大きく絡みあっていたのではないかと想像する。

今まで「勝つ、勝つ」と言い続け、「決して負けることなどない」と言い包められてきたものが、蓋を開けてみれば完全に間違っていたわけで、政府のいうこと、お上の言うことは間違いがないと思い込んでいたものが、全部嘘だったということになれば、騙されたという思いも当然で、それに続いて、政府とかお上は信用ならないという感情が沸くのも致し方なく、当然の流れではあると思う。

政府の言うことを真面目に、固く信じていたものほど騙されたときの落胆の振幅も大きかったと想像する。

この時の、この当時の、日本の人々、都会の空襲で焼け出された人々、学徒動員で生徒を引率していた先生、学童疎開で生徒の世話をしていた先生、内地で出撃の訓練を受けていた人々、これらの人たちが玉音放送を聞いた時の気持ちというのは、どんなものであったのだろうか?

時々は雑誌や新聞に掲載されているが、人それぞれに騙されたと思った人も大勢いたであろうし、逆に自分達の努力が足りなかったど感じた人もいただろうし、張りつめたものが急に萎むように感じた人もいただろうし、その思いは多種多様であったろうと思う。

私の父親の自分史では、当時40歳前後だった父は、玉音放送を山手線の駅で聴いたということを述べているが、自分自身は特別な思いはなく、先行きのことを先輩の家まで聞きに行ったと書き記している。

だとすると、その後何度も映像で見た皇居前で皇居に向かってひれ伏している老若男女の我々の同胞の姿は一体なんなのかといわねばならない。

この映像に写っている我が同胞は一体何故皇居に向かってひれ伏していたのであろう。

(毎日新聞社「戦後50年」より)

天皇制のもとで、天皇のみが唯一信じるにたる存在だったとしたら、それこそが国体というものではなかったろうか。

玉音放送を聴いた時の印象というのは多くの人が語っているが、その人たちの言を聞くと、開放されたとか、明るくなったとか、目の前が開けた、というように総て開放感に満ちた発言をしている。

それというのも、それを語った人達が当時若くて、学生であったり、学童であったりして、生活の当事者ではないのでそういう印象を受けたものと思う。

無理もない話だと思う。

8月15日までは灯火管制が引かれ、窓には黒い暗幕を張り、外出には防空頭巾を携帯しなければ成らず、米持参でなければ外食も出来ないという状況からみれば、戦争が終わればそういう状況から抜け出れると思い込むのも当然の成り行きだと思う。

しかし、生活者にしてみれば、実際食うにも事欠いていたわけで、社会が混乱している以上、制度があってもその制度がきちんと機能していなければ当然の成り行きだ。

だから何とかして家族と自分の食い扶持を確保しなければならなかったわけで、それは必然的に食料メーデーという形で大衆運動として噴出してきた。

しかし、こういう社会的な情況というのは共産党、共産主義者にとっては一番革命に導きやすい状況でもあったわけで、事実、共産党員というのは連合軍に開放されて英雄として我々の前に出現してきた。

先の「人員に訴う」というプロパガンダも、こういう世情には極めて効果的であったものと考える。

ところが彼らも自分達の民族の本質というものを全く考えたことがないので、やはり同じ民族同士という意味で、大戦を遂行した我々の同胞と同じ思考パターンを踏襲していたのである。

彼らの考えている革命や共和制の樹立というプロパガンダも、旧体制の考えていた東亜新秩序の樹立、大東亜共栄圏の確立と全く同じ思考パターンであったわけで、共産党員も、内務省の特高警察も、政府も、軍人も、同じ日本民族という同質性を持っている限り、政治は三流の域を出るものではなく、何処まで行っても金太郎飴と同じで、切り口は変わっても本質は変らないということである。

戦争が終了して、戦いが止んだ時期というのは、当然、混乱の極みに達していたわけで、我々の側の社会的秩序も社会的基盤もことごとくが正常に機能していなかっのだから、共産党や共産主義者にとっては一番革命をするのには都合のいい時期であった。

だがそれが出来なかったということは、やはり腐ったとはいえ日本の社会というのは、その根の部分がしっかりしており、世の中に銃器が出回っていなかったからだと解釈しなければならない。

革命というものは銃器がないことにはなしえないわけで、ロシア革命でも最初に軍隊の武器庫を襲い、武器を手にした大衆によってなされたわけで、我々の場合は、その武器の管理が行き届いていたから日本では革命が成就しきれなかったものと思う。

同時に、この時代の日本共産党のリーダー達というのは、ある意味でインテリーであったので、銃器で人を殺してまで政権を取るということに非常に臆病というか、嫌悪感を持っていたとも考えられる。

だから開放されてすぐ、終戦の翌年には日本共産党は武力で政権を取るという方針を改めて、平和方式で、民主的手法で政権を取る、ということを宣言しているが、これではもう共産党の名に値しない。

この時点で日本共産党は党名を変えるべきであった。

それともう一つ、こういう時勢でありながら、共産党が革命を仕切れなかった要因として、内部抗争が原因していると考える。

日本中の社会的秩序が大混乱している中で、革命を実行するには最適な条件であったにもかかわらず、それが出来なかったということは、内部の意思統一が出来ていなかったということも大きな原因だと思う。

如何なるグループでも、人が複数集まれば、意見の相違というのは極々普通に出てくるわけで、それを本来インテリーであるべき指導者が上手くコントロールできなかった、ということはやはり我々の民族の本質に根ざすものがあったのではないかと想像する。

今の我々の政治の状況でも、自民党内、民主党内の様相を見れば一目瞭然であるが、日本共産党内でもあれと同じことがおきているわけで、そういう意味で我々はどこまで行っても政治が一流になることはありえないのではないかと思う。

民主化という大儀

日本共産党はこういう状況下で革命を本気でする気があったかどうかは不明だが、その後60年という経過の中で、共産主義というものが日本に及ぼした影響というのは計り知れないものがあると思う。

これら、目に見えたり見えなかったりする諸々の影響は、言葉の上では共産党や共産主義とは言われていないから、人々は気が付かずにいるが、戦後の60年の日本の社会には計り知れないほどの大きな影響を及ぼしていると思う。

それらは「民主化」という言葉に言い換えられているので、人々はそれが共産主義の主張するものを内在しているということに気が付かずにいる。

共産主義者が革命を目指すのは当然のことであり、それだからこそ共産主義であり共産党であるが、戦後の日本共産党は、この革命を放棄してしまったので、本来ならば厳密な意味では共産党ではないはずであるが、革命を放棄したことにより、公認政党として日本国民により広範に思想を広めるという意味では成功しているといえる。

思想を広めるという言い方は、極めて善意に解釈した言い方であって、もっと本質的に表現すれば、「旧秩序の破壊に貢献した」といってもいいと思う。

人間の集団としての社会は、常に動き、向上しようとする内部運動があり、人々の考え方も時代と共に変化し、よりよい社会に向かって進歩しようとしている。

ところが我々は一人だけで生きているのではなく、我々の民族だけが生きているのでもなく、人と人、民族と民族、国と国がお互いに関連しあって生きているわけで、個人が、ある民族が、ある国が、良かれと思ったことでも他から見るとまったく評価が逆転していることもある。

我々の過去も、その総てが「悪」であったわけではない。

戦前、戦中の我々のものの考え方の総てが「悪」であったわけではない。

アジアの人々のよりよい向上を願いつつ行った行為も、結果が「悪」であったが故に、それは全面否定されてしまったが、ものの考え方の中には捨て去るべきものと、永久に捨ててはならないものが両方共存しているはずで、我々は戦争に負けたからといって、戦前のものの考え方の総てを捨て去らねばならないということはないはずである。

ところが戦後の初期では、共産党と共産主義者が、我々の民族の根源的なものまで全否定しようとしたら、それに同調する軽佻浮薄なものどもが次から次へと現れて、付和雷同してしまったのである。

この付和雷同こそ我々が災禍に転がり落ちた最大の原因であったにもかかわらず、それと同じ現象がここで再び再燃したのである。

「欲しがりません、勝つまでは」といいつつ奈落の底まで転がり落ちたのだが、その民族的根源には「赤信号、皆で渡れば怖くない」という心象風景があったわけで、その行きついた先が敗戦であった。

敗戦になっても、またまた「皆で渡れば怖くない」という民族的根源は失われることなく付和雷同の光景が復活し、共産党と共産主義者の吹く笛に踊らされたのである。

ベクトルの向きはまったく逆向きであるが、この極端から極端に揺れる振幅の広さというものをどう考えたらいいのであろう。

武装闘争を放棄した共産党と共産主義者たちは、それを民主的な政治の場で実現しようと宣伝戦を展開してきたが、そこで使われる常套句が「民主化」という言葉である。

その対極として「右傾化」という言葉が出来、民主化に反対する動きに対しては「右傾化」という言葉で反撃した。

戦後の世の中で、「右傾化」といわれると、もう犯罪者のごとく響いたもので、それは戦前においては「赤」といわれると恰も犯罪者のように見えたのと全く軌を一にしている。

戦前、戦後を通じて、こういう心象風景を呈すること自体が、我々の民族が、自らの頭で物を考え、自らの判断力で物事を決めるということを放棄した証拠ではないかと思う。

何時もいつも、政治的プロパガンダに踊らされ、カリスマ的な人間の言動に左右され続け、常に誰かを仰ぐ対象を見つけてそれを仰ぐことで自らの思考力を停止させておかなければ気が治まらないという現象ではなかろうか。

「民主化」という言葉は、占領軍も日本統治の手法として大いに使ったわけで、この時代、つまり終戦直後の日本の状況下では、アメリカ占領軍の統治手法と、日本共産党のめざす我が国の統治の方針が全く同じ路線に重なり合っていた。

それは無理もない話で、日本に進駐してきた占領軍としては、日本古来のものの考え方をことごとく除去しないことには彼らの目指す占領統治が実現しないわけで、旧来の日本の社会秩序や、社会の精神的な基盤というものを打ち壊さなければならなかった。

それは共産党としての基本方針とも丸ごと合致していたわけで、本来ならば日本共産党が全面的に進駐軍に協力しなければならないところであるが、この党が天皇制廃止を唱えている限り、日本国民の支持が得られないことも歴然たる事実であった。

日本共産党の中で、野坂参三はそれを理解していたが、例によって党内で覇権争いが熾烈を極めているので意見統一が出来なかったことはいうまでもない。

そういう状況下で、日本共産党の旧秩序の破壊ということは、とりもなおさずGHQがことごとくそれを代行してしまった。

本来、共産党がすべきことを全部GHQがやってしまった。

日本共産党と言えども、GHQの前では赤子も同然であったことはいうまでもないが、革命ということを考えると、これほど条件の揃った時期もまたとなかったが、それにもましてGHQの統治が上手かったということだ。

それもこれも、やはり民族としてのものの考え方にあると思う。

アメリカ人に民族という言葉は適当でないかもしれないが、だからこそアメリカにはバイタリテイーがあるのかもしれない。

我々、日本人も、朝鮮人も、中国人も、いうなれば生粋の純血主義で、異民族の血というのが混じっている割合が極めて少ないが、アメリカ人は逆に異民族の血が大いに交じり合った人たちだからこそ、合理主義というものに一本筋が通ってように見える。

我々は、純血なるが故に、ともすれば情に流されやすいが、彼らは理論詰めの合理主義で、情や古い習慣に惑わされることもなく、実利主義で物事を考えるから、その辺りの発想の違いがこういう結果を導き出していると思う。

彼らアメリカ側は、既に戦争を始める前から、日本占領を念頭においたオレンジ・プランというものを持っていたのに較べ、我々の側では、山本五十六の言ったとされている勇名な逸話で「1年か2年は戦って見せるが後はわからない」という言葉にもあるように、全く行き当たりばったりで事を始めたわけである。

大体、アメリカと戦争をしようというのに、南方を占領して、そこから物を運びながら戦争をするという発想そのものがいかにも泥縄式で、合理性にも欠けるし、無計画だし、あまりにも綱渡り式でもあったわけで、これでは発想の時点で既に敗北しているようなものである。

我々には物資の不足は致命的だったわけで、それは戦争するしないを議論する前からわかっていたにもかかわらず、そこに踏み込んだということから、何故、我々はそういう行動を取ったのかを掘り下げて考えなければならないし、それをして始めて我々は先の大戦の反省という原点に立ち帰るものと思う。

ところが戦後の日本の風潮というのは、昭和20年、1945年8月15日以前のものを総て「悪」と決め付けて、寄せ付けることさえ遺棄し、ましてそういうことを考えるだけでも「右傾化」と非難し、「復古調」と非難していたわけで、それでは先に共産主義者を「赤」と言って排斥したのと同じ発想でもって同じパターンを踏襲していたのと同じである。

まさしくベクトルが反対向いているだけで、やっていることは同じと言わねばならない。

だからこそ付和雷同であり、「赤信号、皆で渡れば怖くない」という深層心理が見事に露呈しているわけである。

自分で物事を考えないから、大勢の人のやっていることについていけば安心できるわけで、まさしく「人の振り見て我が振りなおす」という行動パターンである。

そこにもってきて、戦後は取り締まるものがなくなったので、こういう考え方は底なし様相を呈して拡散してきたわけだが,そこでものを言ったのが「民主化」という合言葉であった。

戦後、進駐軍が行なった日本の行政改革は、その総てが本来ならば日本共産党がしなければならないことであった。

内務省の解体から、財閥の解体から、思想・信条の自由を求める運動から、農地改革から、教育改革の総てが本来ならば日本共産党がすべきことであったが、彼らは一向にそれに寄与した風には見えない。

日本共産党は、施政についてそれだけのアイデアを持っていなかったことも確かだろうと思う。

戦前の非合法活動の中で、政権が取れるなどということは考えられず、自分達が政権を取ったらこういうことをするなどというアイデアは最初から存在していなかったと見なさなければならない。

主要幹部は皆牢獄につながれていたわけで、三食昼寝つきの別荘に居ながら、これら主要幹部はそこまでのアイデアを構築するには器が小さすぎたのではないかと思う。

もう一つ穿った見方をすれば、彼ら自身も、日本が負けるなどということを信じていなかったのかもしれない。

これは戦後、開戦の時の政府首脳であった人たちが、戦犯として巣鴨プリズンに収監されたときでも、かってはお互いに「日本をどうするか!」で裏取引、駆け引き、手練手管で政界をかき回していた仲間連中も、一旦収監の身になってみると、お互いに話もしないほどの仲たがいをしたのと同じで、共産党の主要幹部も、一旦牢獄という塀の中に身を置いてみると、かっての同志も赤の他人同士のような疎遠な関係に陥ったのかもしれない。

とにかく、開放された日本共産党員は、戦後の自由化の浪の中で、何者にも拘束されずに自由に行動できるという状況に置かれてみると、彼ら自身どういう風に行動していいのかさっぱり理解しきれていなかったように見える。

だから、本来、日本共産党がすべき日本の改革を、GHQが見事に成就してしまったので、彼らには出る幕がさっぱりなかったわけである。

GHQの極めて老獪な手口は、間接統治という手法で、表向きは日本政府を立てておいて、裏でその日本政府を管理監督していたわけで、これを大局的な視点から見ると非常に民主的に映ったに違いなく、アメリカの行政手腕に反対を差し挟めなかったものと思う。

第2次世界大戦の戦勝国というのは実質アメリカ一国であった。

勝利は連合国のものだとはいうものの、イギリス、フランス、中国、ソビエットなどは勝ったとはいうものの、国内の状況は惨憺たるもので、勝利は名ばかりであった。

実質はアメリカ一国のみが名実共に勝利したわけだ。

 

 

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