テレビ局

 

再度、マスコミ批判

 

テレビの堕落

 

今、世間ではライブドアとフジテレビの喧嘩が姦しいが、ライブドアのホリエモンのいう「ITと放送の融合」というのはなかなか意味深な言葉だと思う。

彼、堀江貴文氏はこういう言い方をしているが、その言葉の裏には今の放送業界の体たらくに我慢ならないという思いがあるのではなかろうか。

今の民放でまともに大人が見れる番組があるであろうか?私は一つもないと思う。

ニュースを見たければNHK一局で十分だと思う。

ニュースとしては少々遅いときもあるが、民放のアナウンサーのように、早口で下品な語り口ではないので、落ち着いて安心して画面を見ておれる。

去年、NHKでは番組制作費のネコババ事件が露呈して受信料の不払い運動がひろがりつつあるようだが、あの不払い運動というのは不祥事を口実にしているだけで、本当のところはアンチNHKが本音で、NHKの真面目さが不真面目な大衆から敬遠されているだけのことだ。

あれほど巨大な組織ならば不祥事の一つや二つはあって当たり前だし、警察や、先生や、公務員や、銀行、はたまたコクドのことを思えば、NHKだけを目つぼに取るというのは明らかに偏見以外のなにものでもない。

決して褒められたことではないが、組織が大きくなれば性根の腐った人間が紛れ込むことはある程度致し方ない成り行きだと思う。

放送業界はやはり放送の内容で勝負すべきで、その意味するところは、あくまでも良質の番組で競争すべきであって、「面白ければ総てよし」というものではないと思う。

物つくりの現場では品質改善、品質向上で激しい競争が行なわれて、現在のトヨタや日産、はたまた松下やSONYがあるのに対し、放送業界では品質低下(番組の低俗化)すればするほど儲かるということは一体どういうことなんのであろう。

「面白くなければテレビでない」とはフジの日枝会長の言であるが、これほど視聴者を馬鹿にした言葉もないと思う。

フジテレビ側にすれば視聴者がテレビ局を稼がせてくれているわけではなく、テレビの儲けというのはあくまでも番組を買ってくれるクライアントにあるわけで、クライアントの金玉さえ握れば安泰だ、という魂胆が見え見栄ではないか。

視聴者不在というよりも視聴者を頭から馬鹿にした発言ではないか。

番組の低俗化にはクライアントも大きく関わっていることとは思うが、主体的には局の経営方針だと思う。 

それとフジの局員もニッポン放送の職員も、現状に甘んじるばかりで、ぬるま湯からは一歩も出ようとしない、出る勇気のない肝っ玉の縮み上がった連中ばかりで変革を恐れてばかりいるではないか。

民放テレビ局よ、大人が安心して楽しめる面白いテレビ番組を作ってみよ、と言いたい。

ところが本当はこれはかなり難しい課題だと思う。

「面白い」ということと、「大人が安心して見れる」ということは相反する要因で、60代の人間が面白いと思うことを20代の人間はそう感じないだろうし、その逆も成り立つわけで、万人を納得させるということは多分不可能なことだと思う。

とはいうものの、誰も見ていない、見れない、恥ずかしくて目を覆いたいような番組を流して、公共の電波で金儲けするな、と私は言いたい。

放送業界、特にテレビ業界の番組の低俗化ということは日枝会長のように、「面白くなければテレビでない」というような発想のものがトップにいるからこういう体たらくを擁しているものと考える。

それに番組を買うクライアント、つまり広告主がそういうテレビ局側の言うことを鵜呑みにして金を出すから、テレビ番組の自浄効果というものが現れてこないものと考える。

民放に関する限り視聴者は受診料を払うことなく、タダで番組を見ているわけで、タダだから何でもかんでも先方から送られてくる堕落した番組を受け入れているに過ぎない。

愚民そのものである。

民放テレビ局にきちんとものの言える立場というのはやはりテレビ局に金を払っているクライアント、広告主である。

くだらない番組には金を出さない、というきちんとした企業倫理さえわきまえておれば、今日の状況というのはありえないと思う。 

ところがクライアントはクライアントで、視聴率というデータを示されると、テレビ局側に異義申し立ての矛先が鈍ってしまうわけで、そこであっさりとテレビ局側に篭絡されてしまう。

広告主がきちんとポリシーをもって、教養と知性の均衡を維持し、バランス感覚を持って、広告宣伝にそういうものを繁栄させようという熱意を持ってさえいれば、視聴率に惑わされることもないと思う。

視聴率が良いからといって、それがそのまま広告主の企業イメージのアップに繋がるとも思えない。

視聴率がいいということは、馬鹿な愚民がその馬鹿さ加減にどれだけ共鳴したかのバロメーターであって、それがそのままスポンサーの企業イメージの向上に繋がるとはとうてい思えない。

問題は良い番組と馬鹿な番組の定義が、関わる人の立場によって大きな乖離があるわけで、日枝会長のような立場の人間は、いくら番組の内容が空虚であっても、視聴率さえ良ければそれが良い番組であろうが、我々良識ある大人から見れば、日枝会長のいう良い番組の対極に位置するものでなければとても良い番組とはいえない。

それよりももっと根本的なことは、この狭い日本であまりにもテレビ局というものが多すぎると思う。

朝の5時から翌日の2時3時まで、一日22時間近くも電波を出しぱなしにしている局が日本全体でいくつあるのであろう。

日本全体では1日100時間以上の放送ということになる。こんな馬鹿な話もないと思う。

これだけ電波を出し続けていれば、番組の内容を考えている暇はないのも当然だと思う。

放送にアナを空けないように、それを埋めるだけでも、内容的にはどうでもいい低俗のきわみのような番組でも流さざるを得ないはずで、番組の内容を吟味している暇もないと思う。

我々、良識ある大人が安心して見ていれる番組というのは、今のところNHKしかないと思うが、おしむらくはこのNHKでさえも世評に答えて低俗化に向かおうとしているのが気になる。

戦前のラジオ放送のように、挙国一致体制を鼓舞したり、戦意高揚を宣伝することは論外だとしても、今の日本というのは、言論の自由が保証されているのだから、もっともっと良質の放送というものがあってもいいのではなかろうか。

言論の自由とか、民主主義の高揚という文言が、戦後の我々の社会では、反政府、反体制の方向にしか作用していないというのは一体どういう理由によるものでしょうか。

これは政府に協力したり、統治する側に立って物事を考えると、それは戦前の体制に戻ってしまうのではないか、という影に怯えているから知識も教養も豊富な進歩的文化人は、それを恐れて反政府、反体制のポーズを取っているのではなかろうか。

フジテレビの日枝会長の経歴など知る由もないが、田舎からポット出てきた山猿ではあるまいし、テレビで見るあの容貌から察するに、相当に世渡りの経験も、知性も、教養もある人物とお見受けするが、それが「面白くなければテレビではない」という発言である。

この発言の中には知性も、理性も、教養も、何一つ垣間見れないではないか。

ものつくりの現場では毎日毎日、これでもかこれでもかと品質改善、品質向上を研究しているのに、テレビ業界は年月を経るごとに、その作る番組が低下しているではないか。

確かに、垂れ流しのようにタダで送られてくるテレビ番組を見て一喜一憂する愚民の存在というのはある。

こういう人達はタダで送られて来る番組である以上、くだらなければくだらないほど面白がってみる。

こういう番組を見る人々を表現する言葉は、やはり愚民としか言いようがないのではなかろうか。

トヨタや日産、はたまた松下、SONYという企業も、切磋琢磨して作り上げた商品を売るためには、やはりこういう愚民を相手に商売をしなければならないわけで、愚民に受け入れられる番組にコマーシャルを流さなければならず、低俗な番組と知りつつも、広告主とならざるを得ないのかもしれない。

その意味で日枝会長の術中に嵌っているともいえる。

テレビ番組というのも、そこらの不良青年、チンピラ、ヤンキーねーちゃん、ヤンママというような軽薄な人間が造っているわけではない。

立派な大学を出、教養も知性も兼ね備えた人間が携わっていることと思うが、そういう人間が低俗な人間向けにより低俗化しようと、敢えて教養と知性に反駁するような方向付けで番組制作に携わっているとしか思えない。

そのことは彼らに低俗というそのこと自体がわかっていないのではないかと思う。

人が喜べさえすれば、その内容の如何に関わらず、それが良い事だと思い違いをしているのではなかろうか。

戦後60年を経過して、60年前に価値観の大転換を経験した世代もこの世から消えようとしている今、われわれ日本人の価値観というものは根底から消滅してしまったのであろうか。

戦後も間もない頃は、旧の価値観と占領軍から押し付けられた新しい価値観の葛藤があったが、旧世代がいなくなったことで、その葛藤が消滅してしまって、今はものごとに対する価値観そのものがなくなってしまったのであろうか。

60年間に、我々日本人の価値観が消滅してしまった、ということは旧世代の人々の責任だと思う。

戦争で敗北した責任も、彼ら旧世代が負わなければならないことはいうまでもないが、戦争で敗北したことで、旧世代の人々はあらゆる面で自信を喪失してしまい、次の世代を育てる指針を見失ってしまったものと私は解釈する。

中でも最大の失敗は、自由の履き違いを是正できなかったことだと思う。

GHQが政治犯を釈放したとき、自由にも「倫理の枠内の自由」という概念を見つけ出すことに失敗して、ただただ意味もなく自由というパンドラの箱を開けてしまったので、自由ということはなんの制約もなく、モラルの枠という大枠をも超越して、自由奔放と履き違えてしまったことにあると思う。

そして、それは共産主義の目指す秩序の破壊と軌を一つにしていたわけで、秩序を維持しようとする動きをすべからく反動と決め付け、抑制し切れなかったことにあると思う。

少しでも旧秩序に回帰しようとすると、「戦前に舞い戻る」という呪縛を掛けて、それを遺棄し続けてきた結果が、今日の状況だと思う。

そしてそういう風潮を助長してきたのが、進歩的知識人と称する左翼系の文化人であったわけで、マスコミで文化人がそういう事を大言壮語すれば、無知蒙昧の愚民はおのずとそういう人の言質を正しいものと錯覚するのも無理はないと思う。

この時の文化人というのは、いうまでもなく半分は旧世代の価値観を体験していたにもかかわらず、新しい価値観に何の疑問も感じずに、後先のことを全く考えることなく、擬似民主主義に猪突猛進してしまったわけである。

この時、進歩的知識人と自認する人々が擬似民主主義に猪突邁進した様は、ほんの少し前の先輩諸氏が、軍国主義に猪突猛進した様と全く同じ行動パターンであった。

目の前にぶら下がった民主主義が擬似的なものであることに気が付かず、古い価値観と新しい価値観の狭間で、彼らは自分たちの子孫、自分たちの子供、次世代を担う若者の教育に自信を失ってしまい、子供を放任することが新しい教育だと思い違いをしたわけである。

子供というのは放任しておけば野性のままに育つわけで、それは野蛮ということに他ならないが、その結果が今出ているわけで、社会に適応しきれない、社会に順応しきれない、ニートと呼ばれる働こうともせず働く意欲も失った若者が出てきているではないか。

どんな未開な人類でも、大人としての躾はそれなりにあるわけで、それが我々の今日の日本には存在していないではないか。

教育をする、躾をするということは、ある程度の強制を伴うわけで、本人の立場からすれば大きな試練を伴うことは当然で、上からの強制がなければ教育の意味もないし、躾などできるわけがないではないか。

戦後の価値観では、この強制が罷りならぬということで、子供の自主性などと奇麗事を言っているが、それは教育や躾を最初からスポイルするものでしかない。

教育で一番大事なことは、この上からの強制と、子供の自主性のバランスを取ることのはずであるが、戦後の知識人は、その点を考えたことがあるであろうか。

そのことに考えが及ばなかったということは、戦後の知識人は、教養や知性を本から学ぶだけで、人間というものの本質を自分の目で見、他人との接触で感じ、人間の行動を細かく観察したことがないということである。

そして本で読んだ知識で、理想のみは高くなったが、現実の人間というものを知らないので、空理空論のみが先走って、現実と大きく乖離してしまった。

テレビの話に戻すと、こういう中で育って優秀な大学を出た若者が、いざテレビ番組を作ろうとすると、大衆が喜ぶ物は何かという問題に直面したとき、無意味でナンセンスなものを大衆が喜ぶことに気がついたわけであるが、その大衆というのはあくまでも愚民でしかなかったわけである。

愚民は暇をもてあましているので、つまらない馬鹿げた番組でも口を開けて大笑いして見ているが、愚民でない人々は、大口をあけている暇もなく実生活、現実の社会の中で活動しているのである。

ホリエモンはそこを打開しようとしているのではなかろうか。

 

壮大なマネーゲーム

 

マスコミ批判はこれまでも度々してきたが、今回のライブドアとフジテレビの喧嘩は資本主義社会では当然のことで、今更驚くにはあたらない。

資本主義社会において、企業が株式を発行して資金を調達するシステムである以上、あって当たり前のことである。

現に、お互いに株式を持ち合いしているから何%取得という言い方が強調されるのであって、企業乗っ取りという言い方は、泥棒でもするような言い方をされているが、決してそうではなく、普通の商取引と同じだと思う。

乗っ取られたくなければ、西武の堤義明氏のように、全株(過半数)自分で所有するほかない。

ホリエモン、堀江貴文氏は常にラフな格好をしているので、既存の頭の硬直したビジネスのトップからはよく思われていないが、人の格好で人物を評価すること自体、思考のシーラカンス以外のなにものでもない。

服装でその人となりがわかる、とはよく言われる言葉であるが、それは封建制度華やかなりし頃の話で、今や日本は何処もかしこも中流ばかりで、服装で人の懐具合がわかるような状況ではないと思う。

「背広を着ていないから会うに値しない」などという言い方は思い上がりもはなはだしいと思う。

ここで私が不思議に思うことは、ニッポン放送は既にライブドアの系列下に入ってしまったが、ニッポン放送の社員達がライブドアに対していっせいに反発していることである。

よほどニッポン放送の居心地がよかったということであろうか。

ニッポン放送というのは確かにフジテレビの親会社として労せずしてフジテレビの収益を確保できていたので、その意味ではニッポン放送の社員としては居心地も待遇もそれなりに良かったろうとは思う。

しかし、サラリーマンというのは会社が個々の人間の殺傷与奪を握っている、という現実はなんとも致し方なく、元の国鉄でさせ潰れることはないと思われていたものがJRに変革させられ、昔の電信電話公社もNTTに変わり、専売公社もJTに変革したことを考えれば、そういう波が我が身に押し寄せることも致し方ない面がある。

それがサラリーマンという宮使えの厳しいところだ。

それともう一つ日本の企業の不可解な点は、株の持合ということである。

株というのも立派な動産であるので、資産としての価値があることは理解できるが、民間企業がお互いの会社の株を持ち合って、それをビジネス上で反映させるという行為は、日本的な相互扶助の精神だとは思うが、この部分が近代的なビジネスからすれば非常に前時代的な行為ではないかと思う。

そもそも株というのは資金調達の手段であったわけで、株を買うということは、買う側からすれば配当を期待しての投資という意味があるのが常道だと思う。

ところが日本の企業経営者というのは、株を発行して資金を獲得するところまではノーマルな思考であるが、その株に対して配当をしなければという意識は薄く、株を買うほうの人も、投資をして配当を得るという意識は薄く、株の売買の利ざやで儲けようという意識が強すぎると思う。

株の売買の利ざやというのは、株による資金調達の副次的なあり方のはずであったものが、それがメインになってしまって、その利ざやであぶく銭を儲けようとするからバブルが発生し、それに煽られてバブル崩壊という現象が起きているわけである。

今回の場合でも、ニッポン放送とフジテレビではお互いに株を持ち合っていたわけで、そこにライブドアが割り込んできたものだから大騒ぎを演じているが、お互いに株を持ち合っている間柄では、離合集散というのはこれまでも日常茶飯事に行なわれていたにもかかわらず、第3者が全く空白の状態から唐突に現れたので大騒ぎしているに過ぎない。

ライブドアの堀江社長はニッポン放送を手中に収めたところで、ニッポン放送を潰してしまうことはないわけで、なんとなればそれでは巨額な資金を投入した意味がなくなるではないか。

彼は巨額な資金を投入して尚一層ニッポン放送がこれまで以上に利潤を生む企業にしようとしているものと考える。

そう考えれば中の社員はそうそう恐れることはないと思う。

堀江社長が「ITと放送を融合する」といったところで、すぐにそれを実行するわけでもなく、ましてや社員をすべて解雇するわけでもない、ということは容易に想像できることで、そんなことはありうるはずがないではないか。

巨額な資金を投入して、買収した企業を潰すなどという馬鹿な経営者はありえないはずである。

ただし過去のニッポン放送の経営指針は大きく変更することは目に見えているが、現場で働く人々をただちに解雇するということは全く考えられない。

しかし経営の要を握っている人が路頭に迷うことはありうる。

つまり此処で演じられていることは壮大なマネーゲームであって、双方で企業価値という言葉が行き交っているが、企業価値とはイコール企業の資産価値ということで、ニッポン放送、フジテレビというマスメデイアとしてのメデイアの本質を突く論争とは一線を画していると思う。

ホリエモンがニッポン放送を支配したとしても、彼は自分の考えだけを強調し、偏向した内容の放送するなどということはありえないと思う。

 

絶対正義

 

21世紀という時代に生きる我々人類は、大まかに主権国家と称する目には見えない枠に囲まれて生きているわけで、その枠内ではある種の運命共同体が形成されている。

国家という枠で囲まれたある運命共同体は細胞膜で囲まれた内包液のようなもので、当然中には核がある。

この細胞は当然他の細胞とも接しているところもあれば、海で隔てられているところもあるわけで、細胞膜と細胞膜の接するところが国境という言葉で言い表されている。

この細胞は当然他の細胞との影響を受けあっているわけで、隣接していればそれは直ちに深刻な問題となりうるが、海で隔てられていれば間接的な影響ということになる。

明治維新以降の日本は、この日本という細胞が自己増殖して、巨大になろう、アジアの巨大細胞になって周囲を囲い込もうとした。

ところがそれは太平洋の向こう側に存在したアメリカという巨大細胞に阻止されてしまったので、先祖返りをして明治維新前の日本に収縮してしまった。

その先祖返りをしたとき、日本という国家の細胞膜はもうずたずたに亀裂が入って、膜として意味を成さなくなってしまった。

膜に内包されたその中心にあるべき核は、常に新陳代謝を限りなく展開し、常にスクラップ・アンド・ビルドを繰り返しているものだから、核としての威厳もつかず、定着もせず、存在意義さえ失われようとしている。

細胞を形作る膜を丈夫にし、内包するあらゆるものを外部の刺激と同化しないようにすることは、細胞全体の生存意義であり、存在価値であり、それでこそ運命共同体の存在意義といわなければならないが、戦後の我々日本という細胞は、それが溶融してしまっている。

細胞としての膜も、それが内包するゲル状の溶液も、その中心にあるべき核も、皆爛れてしまって、細胞としては死んでしまった状態である。

個々の個人を原子とすれば、その原子が集合した小さな組織体を分子だと仮定すると、原子も分子もすっかり爛れてしまって、本来の姿を呈していないようなものだ。

この原子なり分子なりをつなぎとめているものが情報としてのマスコミ二ケーションだと思うが、この原子や分子の触手としての情報が、本来、同胞として存在している他の原子や分子を蝕んで、膜のほころびから外に出てしまって、隣接する他の細胞を扶助し、それが有利に生きられるように、その触手が作用している感がある。

日本の進歩的大手マスコミは、同胞の結束を固める方向に触手を作用させず、その反対に同胞をバラバラの状態に離散させる方向に機能している。

内側から細胞の内部を蝕んでいるガンと同じである。

戦後のわれわれは確かに豊になった。アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になった。

地球上に太古から生存する人類という種は、豊になる目的を富国強兵に求めていた。

あらゆる民族、あらゆる国家がそれを追い求めた。

富国と強兵は同義語であり、同意語であり、別々にはありえなかった。

国が豊になることは同時に軍備もそれに見合うものだという考え方が普遍的であった。

それは細胞膜を強固にすると同時に、内包する細胞液も、その中心にある核も、丈夫で硬いものにすることが同時進行で行なわれるのが常であった。

それに反し、我々の戦後の生き様というのは、内包液はふわふわできわめて密度の薄いもので、量そのものは極めて豊に大きくなったが、それを囲む膜はそれに比例して極めて薄く、ほころびだらけで、そのほころびから染み出した内包液は、他の細胞に栄養を補給しつつある状態である。

食って糞して寝る、という人間の最低限の欲求のみはかろうじて確保されているので、細胞膜を強固にしなければならない、という発想には至らないのである。

そのことはもっと具体的に言えば、国家の枠組みとしてのバリアーを硬くすることであるが、それは国民に苦痛を強いることになるわけで、戦後の萎縮した我々日本人の発想では、国家が国民に苦痛を強いることは罷りならぬ、という発想に依拠しているため、バリアーを硬くすることなど真っ平ごめんという按配である。

そんなことをしなくても、食って糞して寝ることだけはできるわけで、誰があえて火中の栗を拾おうとするものか。

そんなことは政府の仕事だというわけである。

日本国政府というのは、自分たちの政府であるにもかかわらず、まるで赤の他人事のように、どこかの悪賢い人種が、かってに日本国民を搾取している、といわんばかりの言い方である。

自分たちの政府であるにもかかわらず、まるで他人事のような感じで捉えている。

戦前の我々には、原子や分子をつなぎ合わせる触手のような機能を持つコミニケーションの手段としては、NHKのラジオと若干の新聞と雑誌しかなかった。

それが戦後といえば、数々の民間放送から数え切れないほどの出版物まで巷に氾濫して、触手が密生してしまった。

この触手が密生して団子のように絡まってしまうと、その中ではお互いの原子や分子を同胞という粘着性のある媒体からはじき出して、粘着性を劣化させ、ぼろぼろに断ち切り、他の細胞にくっつくものが現れてきた。

その顕著な例が、進歩的文化人と称する我が同胞の中に不定形に広がった異分子である。

彼らは絶対正義を標榜に掲げ、絶対正義なるが故にだれも正面から反駁し得ないわけで、その言動は神をもたじろがせるような超越的なものである。

例えば、「人の命は地球より重い」といわれれば確かにそうで、人の命の大事なことは否定のしようもない。

今の話題でいえば、「BSEの牛肉は危険だから輸入禁止にせよ」といわれればもう反駁の余地はない。

「原子力発電は100%完璧でなければ建設するな」といわれればもう反駁の仕様もない。

しかし、こういう完全なる安全、完璧な安全というのはあくまでも理想であって、人間の生き様には予期しない出来事が次から次へと起きるのが現実の姿である。

完璧に越したことはないが、100%の完璧というのは人間の人知では築き上げれないものと考える。

戦後の日本の知識人というのは、それを自らの政府に要求するわけで、「それは実現不可能だ」といえば努力が足りないと切り替えしてくる。

人間の命は地球より重いのだから、不測の事故で人が命を落とすと、「それは政府の責任だから金よこせ」という欲求になる。

こういう欲求が出てきたとき、学識、経験の豊な進歩的知識人というのは、必ず欲求を起こしたほうの味方につき、「政府は金を払うべきだ」という論調を繰り返す。

これは彼ら進歩的知識人というのが、絶対正義を旗印にして、理想の実現こそ正義だと思い違いをしている証拠だと思うし、弱いもの、管理される側、統治される側は弱いのだから、権力を持っている側はそれに対して金を払うべきだ、という左翼的思考が成せるものだと解釈している。

彼らにしてみれば、自分の金で払うわけではなく、政府が国庫から払うのであれば、湯水のように使っても構わない、という発想が根底にあるものと考える。

国庫が底をついてもそれは政府の責任で、自分たちとは関係なく、自分たちはあずかり知らぬという論法である。

BSEの牛肉輸入禁止の措置もおかしなもので、アメリカ人はパクパク牛肉を食べているのに、それを輸入した日本人だけがBSEにかかるというのも非常に根拠に乏しい論拠だと思う。

その心は、BSEに掛かるリスクは依然として双方に残っているので、アメリカ人は掛かってもいいが自分達は嫌だという、本音の部分をカモフラージュしているに過ぎない。

それを否定するとすれば、この措置は国内産業保護としか言い様がないではないか。

それならばそれで、そういう理由を正面に出したほうが相手も理解しやすいと思うが、BSEにかこつけて輸入禁止措置をとれば、相手が不信感を持つのは当然だと思う。

BSEの牛肉を輸入すれば、日本人が罹病する可能性があることは否定の仕様もないが、それはあくまでも可能性であって、成るかもわからないがならないかもわからないわけで、アメリカ人はそのリスクを背負って牛肉を食べているのをどう説明したら良いのか。

こういう情報が原子と原子、分子と分子の間に幾層にもなって絡み付いているので、その中にある人間の理想と現実が埋没してしまい、どれが真実でどれが現実かという見極めがわからなくなってしまっている。

人が理想の実現に向けて努力することは「善」だと我々は思いがちであるが、これも程度問題で、絵に書いた餅をがむしゃらに追い求めたところで、それが実現するとは限らず、それが徒労に終わることもある。

BSEの牛肉の問題でも、原子力発電の問題でも、リスクというのは完全にゼロでないことはいうまでもないが、それを完璧にゼロにするということは絵に書いた餅を追い求めるに等しい。

学識、経験の豊な進歩的知識人といわれる人々は、本来ならばそういう画餅を追い求める空虚な行為を諌める方向に論点を展開しなければならないと思うが、それを煽る方向に論議を展開している。

 

奴隷根性

 

戦争と平和の問題でも、戦争と平和でどちらが良いのかと二者択一を迫られれば、平和が良い事は論を待たないわけで、そんなことは幼児でもわかるし、サルでもわかる。

何も進歩的知識人が口から泡を飛ばして議論するまでもない。

そこで問題となる事は、平和、平和と念仏を唱えておれば平和が向こうからやってくるかどうか、ということを進歩的と称せられている知識人は真摯に議論しなければならないと思う。

ただただ観念論で平和、平和と言っているだけでは平和は達成されないわけで、平和を維持するためには、主権国家の国民は血のにじむ努力をしなければならない。

なんとなれば、平和というのは一方的に宣言すればそれで出来上がるというものではなく、相手とのバランスで成り立っている以上、そのバランスをとる努力をしなければ平和は確立されないのである。

そのバランスの中には当然軍事力のバランスもあるし、外交的努力ということもあるし、相手国に対する経済支援、人道的支援、災害復興支援というものや、各国との協力体制というもろもろの行為が含まれているのは当然である。

平和を維持するためには、まず自分の国、自分の祖国、自らが属している社会というものを愛する気持ちがないことには、平和を志向するあらゆる努力が水泡に帰してしまうのである。

韓国が竹島の問題を提起したとき、我々の側が韓流ブームで浮かれていては、問題の解決に至らないのである。

中国が南京大虐殺を外交のカードとして持ち出してきたら、我々の側は、はっきりとあれは中国側の捏造だということを声をそろえて反駁しなければ真の平和ということは維持できないのである。

我々、戦後の日本人は、武力衝突で血が流されていない限り、平和的な状態だと思い違いをし、血を見ていないので平和だと勘違いしているが、国益が侵されている以上それは平和な状態ではないと認識してしかるべきだ。

国益が犯されてもへらへらしていて何が平和だと言わなければならない。

南京大虐殺は、歴史をさかのぼれば、中華民国、中国国民党政府、いわゆる蒋介石の政府が日中戦争中に対日戦用に鼓舞宣伝したデマゴーグに他ならないわけで、それを中華人民共和国が引き継いで今日にいたるまで対日外交交渉のカードとして使っているわけで、戦後の日本の進歩的と称する学識経験者は、そういう真実を真摯に受け止め、日本の国益ということを考えなければならないと思う。

あれは蒋介石がでっち上げたデマゴーグで、事実無根であり、対日宣伝戦の大いなる成果であったことは否めないが、それを中国共産党がそのまま踏襲して外交カードとして使っているに過ぎない、とはっきりと反論すべきことである。

日本が中国にODAで多額の資金を用立てると、相手はそれを軍事費に当て、日本に向けて刃を磨いているわけで、我々の側からすれば、日本の金で中国は対日戦の防備というか攻撃の準備を整えているのである。

それでも現実には血を見るわけではないので、平和だと勘違いしている。

戦争は目に見えるかたちのドンパチだけではないわけで、目に見えないところで熾烈な国益の争奪戦が行なわれている、という現実を直視しなければならない。

目に見える形のドンパチは、既に外交交渉の中にその萌芽を潜めていることが、地球規模で見て普遍的なことであるが、戦後の我々は、交渉の場にのぞんで、衣の下に甲冑を散らせつかせることを放棄して、丸裸で交渉に臨んでいるので、守るべき国益というのも丸裸の状態では十分に保護されないのもいたしかたない。

こちらは丸裸であるが相手は厳重に甲冑を装備しているわけで、相手は言いたい放題のことがいえ、我々の側はどこまでも妥協せざるを得ない。

戦後の日本の進歩的知識人というのは、戦争というとすぐさま条件反射的にドンパチを連想し、流血を連想し、武力による抑圧を連想してやまないが、我々は戦後60年、十分に先の大戦の教訓を噛み締めたではないか。

それでも尚戦前への回帰を危惧するというのは、我々の同胞を全く信用していないという証拠である。

同胞を信ずることなく、相手国を憧憬してやまないという神経は私には信じられないことである。

そして、これが国を危うくする元凶でもあるが、そのことに我々は非常に疎いと思う。

古典的な兵法である「孫氏の兵法」では、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言っているが、我々は戦後60年、敵を知ることも、己を知ることもスポイルしてきた。

「敵」という言葉を聞くだけで、すぐに戦前の軍国主義を想起し、「己を知る」ということは、その意味すら理解していないのではないかと思う。

「敵を知る」ということは相手を研究するということで、「己を知る」ということは自らの民族性を省みるということに他ならないが、敵を知り、己を知るということを経済の視点でのみ捉えてきたのが戦後の我々ではないかと思う。

経済力というのも大きなパワーには違いないが、経済だけでは国益というのは維持できないわけで、経済力に見合った武力が背景にないことには、張子の虎の用にもならないのである。

戦争と平和という二者択一を性急に迫られるという状況は常にあるわけで、現に北朝鮮による日本人拉致の問題、竹島の領有権の問題等々は、武力の背景がないことには一向に解決の兆しすらないではないか。

北朝鮮が横田めぐみさんのニセの骨を送りつけるなどということは、武力でしか解決できない話で、先方は日本がそういう事をする気配がないということを知っているからこそ、そういう形で我々を愚弄しているのである。

竹島の領有権の問題にしても、武力を使わずに解決しようとしても決してできるものではない。

これらの問題をきちんと解決しなくても、今の日本に住む日本人には何の痛痒もないわけで、敢えて火中の栗を拾う努力を怠っているだけのことである。

問題が解決されなくても、明日から我々の生活が逼迫するわけでもないので、問題の解決を先延ばししているに過ぎない。

衆愚としての日本国民は、ただただ政府の執る政策の不具合、不手際をののしり、政策の不備を姦しくわめき立てれば、それで国益を守っているかのごとく錯覚をしているに過ぎない。

戦争反対は赤子でも言うし、サルでも唱和する。

日本の進歩的知識人は赤子でも分かること、サルでも理解することを、さも尤もらしく知識人ブッテわめいているだけのことで、彼らの知性、理性というのは赤子かサル並みでしかない。

彼ら進歩的知識人というのは、60年前に日本はアメリカに戦争で負けたということを忘れてしまったのであろうか。戦争に負けた以上、奴隷になるほかないではないか。

奴隷根性が骨の髄まで沁み込んでしまったのが戦後の日本の進歩的知識人といわれる人々だと思う。

奴隷根性が骨の髄まで沁み込んでしまったので、「やられたらやり返す」という人間の基本的な潜在心理、基本的潜在意識、人間が太古から持つ普遍的かつ潜在的な感情を喪失してしまった。

だから、やられてもやられっぱなしで、へらへらして、軍事的強国の顔色を上目使いに伺いながら、人の命は地球より重いだとか、人権だとか、子らを戦場に送るなだとか、原爆許すまじだとか、戦争は2度と繰り返しませんだとか、お釈迦様の掌で大暴れしている孫悟空のような振る舞いをしているわけである。

日本の周辺国家を見よ。

日本以外に丸裸の国があるか?

北朝鮮は軍備を持っていないか?

韓国に軍隊がないのか?

中国が平和国家か?

こういう国と外交交渉をするのに、こちらだけが丸裸でいたとしたら、相手も裸の付き合いをしてくれるのかと問いたい。

我々日本はアメリカとの戦争に敗北したので、100%完全なるアメリカの奴隷となってしまったわけではない。

弱い犬ほど吼えるというように、アメリカには吼えからかすが、アジアの諸国にはぎゃあぎゃあ吼えるようなことは仕切らず、尻尾を巻いて擦り寄っている図である。

確かに、経済的にはアメリカに次ぐ経済大国になったかもしれないが、その精神においては完全に奴隷のそれでしかない。

民族の誇りや名誉で飢餓が克服されるものではない。

名誉や誇りで良い生活が保障されるわけでもない、良い車に乗れるわけでもない、良い家に住めるわけでもない。

だから戦後の我々は、そういうものが欲しいが故に徹底的に奴隷に徹する方法を学んだわけで、奴隷ならば名誉も誇りも不必要なわけで、相手にゴマをすって、相手にご機嫌伺いを立てて、上目使いに下から卑屈な目で相手の顔色を伺い、奴隷根性丸出しのおべっかを使って問題を先送りしているわけである。

我々はアメリカと戦争してアメリカに負けて、アメリカの奴隷になったわけではない。

1945年の日本の敗北というのは連合軍に対して敗北したのであって、その連合国の中に先の中華民国は名を連ねていたが、中華人民共和国がいたわけではない。

とはいえ我々は中華民国に敗北したわけではなく、まして中華人民共和国や韓国や北朝鮮に敗北したわけではない。

旧ソビエットとはたった一週間しか戦争をしなかったことを忘れてはならない。

今の北方4島の問題は、戦争中に日本軍が敗北して撤退したから占領されたわけではない。

そこのところを間違わないようにしなければならないが、我々が連合軍に敗北した以降というものは、米ソ2大国が出現してしまったわけで、そのためアメリカは日本を自分の陣営に取り込もうと、日本の民主化を推し進めると同時に、アメリカ流の民主主義を日本に植え付けようと躍起になり、大勢の若者を自分の国に招聘したが、このフルブライト留学生として渡米した日本の若者は、帰国すると民主主義をどう取り違えたのか知らないが、反体制として、反政府運動として、自国を批判することが民主主義と勘違いしてしまったのである。

こういう勘違いは、戦前に大東亜共栄圏とか、王道楽土とか、満州は日本の生命線だとか、アジアの開放というプロパガンを信じたのと全く同じ精神構造であって、一億総火の玉と化した軍国主義の正反対の現象である。

運動のベクトルが正反対を向いているだけで、本質は同じである。

それは自分の頭でものを考えない、人がやるから自分もやる、人のふり見て我が身を正す、バスに乗り遅れるな、という言葉で言い表されている付和雷同性というわが大和民族の潜在意識に他ならない。

アメリカという国は良きにつけ悪しきにつけ公開された国で、何でも見れ,何でも言える自由の国だから、日本の有象無象の大衆がいくらわめいていても、政府がしっかりしてさえおれば日本国民よりも日本政府を信じていた。

ところがもう一方のソビエット連邦というのは、徹底的に情報を隠匿した結果として、日本の中の進歩的と自他共に認める文化人、知識人たちは、そこにユートピアを勝手に思い描いてしまったのである。

共産主義の本を読めばそこにはユートピアが描かれているわけで、誰もそれを実際に見ることが出来ないので、現実にもそうなっているものだと信じきってしまったわけである。

アメリカの現実を見ると、現実はそうそう立派なことばかりではないわけで、汚い部分も目に付いたが、ソビエットの方は何も見えないものだから、こちらでは素晴らしい世界が出来上がっていると勘違いしてしまったわけである。

このことは即ち相手を知らなかったということで、それと同時に自分の無知もさらけ出したことになる。

このことは「孫氏の兵法」でいうところの「相手を知り己を知る」ことに完全に反しているわけで、その結果として今日の我々があるものと考える。

自国を批判できる自由というのは極めてありがたいことであるが、そういう人達には、その有り難さというものがさっぱり理解されず、批判されるようなことをする政府は罷り成らぬというわけだ。

これこそ100%の完璧を主張してやまない子供の論理である。

人のやることには齟齬があるのが当たり前で、その齟齬が分かった時点で、出来る限り早急にそれを悔い改めれば、それはそれで済む事の筈である。

ところが自分達の政府を憎むあまり、外国を利するような行為をして、自分の国の国益を損なう方向に事を運ぼうとするものがいるとすれば、これは由々しき問題といわなければならない。

ナショナリズムをことさら強調する気はないが、韓国が竹島の問題で日本を侮辱するような行為に出たら、当然日本国民として憤慨してしかるべきである。

中国が内閣総理大臣の靖国神社の参詣問題を提起してきたら、日本国民としては当然それは「内政干渉ですよ!!!」と声を大にしていうべきである。

北朝鮮の日本人拉致の問題でも、経済制裁などと生易しいことでは埒が明かないわけで、当然「武力に訴えてでも解決するよ!!」という態度を示すべきである。

これはナショなりズムの問題ではなく、人間として、21世紀に生きる人間として、人間のもっている普遍的な潜在意識なわけで、そういう危機感を欠いた今の日本人というのは奴隷以外のなにものでもない。

自分達が奴隷であることを知らないのは正に我々日本人だけである。

 

バブル的マスコミ

 

60年前にさかのぼれば、東京空襲では10万人、広島の原爆では27万人、長崎の原爆では16万人、ソ連に抑留された日本人の数は60万人といわれ、尚北方四島は戦後不法占拠されたままでいるではないか。

これだけの同胞と領土が犠牲になっていながら、我々は世界でアメリカに次ぐ経済大国であるにもかかわらず、仕返しをしようという発想が全くないではないか。

仕返しなどとんでもなく、戦争反対だけの大合唱ではないか。

これって奴隷根性そのものではないか。

名誉や誇りでは生を維持できないことはわかっているが、果たしてこれでいいのだろうか。

平和というものは、赤子でもサルでもそうありたいと願っているだろうが、21世紀に生きる日本人が、赤ん坊やサルと同じ精神構造のままでいいものだろうか。

私は何も今すぐドンパチを始めよといっているわけではない。

ドンパチだけが戦争ではないわけで、日本が21世紀の地球上で生き延びる、生き長らえる、子孫を繁栄させる、カーブはゆるくとも右肩上がりの成長を目指す、ということ自体が既にある種の戦争なわけで、主権国家としてドンパチをするということは最低、最悪の選択であることはいうまでもない。

誰も好き好んでそういう選択をするわけではない。

この地球上の主権国家は、須らくそうだと思うが、「ドンパチも辞さない」という意思表示が大事であって、それが外交交渉のカードになっていることは論をまたない。

ところが戦後の日本は、最初からこのカードを持っていないわけで、自分達の方からそのカードを放棄しているのである。

だから相手は言いたい放題したい放題であるが、問題は我々の側にそれを助長して止まない同胞がいるということである。

相手が利するように、我々同胞の側の揚げ足を取ろうとする売国奴の存在である。

日本の内閣総理大臣が我々の英霊に参詣すると、中国が「先の大戦の反省が足りない、軍国主義の復活だ」とイチャモンをつけたとき、我々の中から「そうだ!そうだ!」という声が上がれば、相手は小躍りして喜ぶのが目に見えるではないか。

韓国が日本の教科書にイチャモンを付けてきたとき、「もっともだ!もっともだ!」と我々の側から声が上がれば、相手は小躍りするに決まっているではないか。

我々の側の誰がそういう声をあげるかといえば、毎日毎日額に汗して働いている真面目な日本人はそんなことをしている暇はないわけで、それは当然暇にかこつけて、自分の政府の足を引っ張ることしか能のないマスコミしかありえないわけである。

マスコミがそういう発言をすれば、相手は「日本の国内でさえ我々の主張に賛同している人間がいるではないか」と、鬼の首をとったような態度になるのも当然である。

これを昔の言葉で表現すると「売国奴」という言葉が当てはまる。

何もナショナリズムを煽る気はないが、平和を希求するという大儀でもって、相手国の提灯を持つ必要もないわけで、普通に、常識的に考えて、不当だと思うこと、相手の思い違い、不当な干渉は、そのことをはっきりと相手にいうべきで、それは戦前への復帰でもなければ、軍国主義の回帰でもないはずである。

我々の同胞の中にそういう日本人がいるということは、敗戦から60年このかた、我々の生き様の中にその原因があるわけで、それは前の世代がきちんと次世代を教育してこなかったからだといわなければならない。

60年前、日本がアメリカに敗北したとき、その時点ではまだ生き残っていたわが同胞は大勢いた。

ところがこの同胞たち、この大戦に生き残った世代の日本人は、前線に行くには若すぎ、成人としては未熟だったが、戦争終結という状況の中に身を置いてみると、都市は破壊され、焼け野原になっており、そこには復員してきた人や外地からの引揚者が溢れており、食料は絶対量が不足しており、人の世としては正に地獄を体験したわけである。

そういうところにもってきて、アメリカの占領政策であらゆるものが民主化の名の下に価値観が180度転換してしまい、今まで日本が負けるなどと信じられなかったことが目の前で覆されてしまったわけである。

今まで信じてきた自分の祖国が根底から崩れ去り、何も信じられなくなってしまったことは同情に値するところだ。

ところが、「信じられない」「こんなはずではなかった」「騙された」と、いくら言ってみたところで人は生きるために食わねばならないわけで、自分も食い、家族にも食わせ、子供達を養なわねばならなかったに違いない。

こういう状況では奇麗事など言っておれず、まず目の前の飢えを克服するという課題を解決しなければならなかったわけで、そのため次世代を躾、教育しなければという心の余裕を失ってしまった。

家もなく、食うものもなく、職もないとなれば、これは致し方ない。

今まで心のよりどころにあった価値観というのは総てアメリカ占領軍によって否定されてしまったわけで、その隙間に沁みこんで来た思考が共産主義というものである。

共産主義の基本的発想のエッセンスには、革命を成就するためその前段階として、旧秩序の破壊ということが不可欠なわけで、これが見事にアメリカ占領政策と一致していた。

アメリカの推し進めようとしていた民主化ということは、共産主義者の推し進めようとしていた旧秩序の破壊と全く軌を一にしていたわけで、これが60年後の日本で売国奴の誕生の元凶であろうと思う。

敗戦という従来の日本人には信じられない現実が目の前で起こったとき、その現場に居合わせた我々同胞は、もう目の前が真っ暗というか、頭の中が真っ白というか、虚脱状態になってしまったに違いない。

しかし、生きんがために何かしなければならなったので、精一杯働くことはし続けたが、家族の存在ということを忘れてしまったわけである。

つまり食うことで精一杯で、子供達の教育にまで心が行き届かなかったわけで、子育ては学校に任せっぱなしになった。

ところが、この学校というのが共産主義者に乗っ取られた日教組が牛耳っていたので、旧秩序としてのモラル、道徳、倫理観、礼儀作法というものが全否定されてしまった。

そして家庭の中では、親が子育てに自信を失ってしまったので、自分の子たちに自分達の伝統とか、古くから続いているしきたりとか、古い価値観とか、古い倫理とか、古いものの見方考え方というものを自分の子に教えることをスポイルしてしまった。

そういうものは一切合財「悪」と規定されてしまい、それがため日本は戦争に負けたのであるから、今後はそういうものを一切受け入れてはならないと思い込み、そう信じてしまったのである。

だからその時に丁度成人に達し、自我に目覚め、夢多き青春を迎えようとしていた世代は、空腹を満たすに精一杯で、物事の本質を考えるゆとりもなかったし、前線や外地から引き上げてきた成人に達していた大人達は、それこそ同胞の暗部、理性と知性を失って動物的な状況におかれた同胞の姿を見てしまったわけで、何も信ずることができず、何も頼りにならないという原始社会を見てしまったのである。

この精神的ショックがPTSDとなって、復員してふるさとに帰っても、次世代に何も期待するものを見出せなかったに違いない。

彼らは敵と戦う前に、同胞との間の神経戦に敗北していたわけで、軍隊という組織内における同胞との関わり、軍隊という組織そのもの、戦争をするのに弾もない情況、精神主義ばかりで不合理極まりない作戦、こういうもろもろの不合理、不条理に完全に打ちのめされて、心のよりどころを何処にも見出せないまま復員してふるさとに帰ったのである。

こうして、つらくて過酷な経験を経た人たちは、そのことを自分の子供達に胸を張って語れなかったものと思う。

これが勝ち戦であれば、少々つらいことでも子供達に語れたかもれないが、負け戦では、それこそ内地に残って銃後を守った人たちに語れないわけで、沈黙するほかなかった。

こうして戦争を体験した世代は自信を喪失し、アメリカの民主化政策になにも抵抗することなく順応するほかなかったものと考える。

その結果として自分の子でさえ叱る事が出来ない親が出てきたのである。

自分の子を頭から叱りつける勇気のない、自身喪失した人間が親として堂々と罷りとおっている。

親が子育てに自信を喪失したという現実が、今日の売国奴を生む底流にはみゃくみゃくとして流れていると思う。

一方、中国や韓国では日本が彼らを抑圧したということが親から子へ、子から孫へみゃくみゃくと語りつがれているわけである。

歴史を純粋に歴史として認識すれば、因果応報ということが常であって、日本が中国や韓国を支配したことにもそれなりの理由と原因がある筈だけれど、彼らにしてみれば自分達の民族の汚点を子々孫々に語り継ぐ必要はないわけで、被害者として被害者意識のみを語り継ぎ、日本に対する対抗意識を高揚し続ければ、それで民族の誇りは維持されるわけである。

中国大陸に住む人々、朝鮮半島に住む人々から日本を見れば、彼らの感覚では日本は何処までいっても夷狄に他ならず、倭の国に他ならず、地の果ての野蛮国に他ならず、日出ずる国であってはならないのである。

この認識を彼らに改めよといっても改まらないことは、明治維新以降の日本政府の彼らに対する対応を見れば明らかであるし、そもそもそれであるからこそ先の大戦になったではないか。

だから彼らの認識では、本来、彼らの風下でおとなしくしていなければならないものが、よりによって彼らを抑圧したのだから、彼らの恨みはそれこそ骨髄にまで届いているわけで、それが故に、彼らは子々孫々にまでそれを語り継ごうとしているのである。

彼らにとって日本は特別な存在だと思う。

彼らは紅毛碧眼のヨーロッパ人に支配されたところで、何ら痛痒は感じていない。

彼らには白人コンプレックスがあって、白人が中国人を抑圧しても、それはエイリアンがしているぐらいにしか感じないが、日本がヨーロッパ人と同じことをすると、もう我慢しきれず、怒髪天を衝くという感情に陥るのである。

それが為、彼らが日本に統治されたということは、民族の誇りも名誉も踏みにじられたということになるわけで、子々孫々その屈辱を語り継ごうとしているのである。

ところが我々日本人というのは、東京空襲で首都を灰にされ、原爆を2発も落とされて、北方4島が不法占拠されても、60万人の同胞がシベリヤに抑留されても、一向にそれを屈辱とは思っていない節がある。

廃墟となった首都に帰って、「さあこれから仕返しをしよう」といったところでそれは無理というものである。

ところが今はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国ではないか。

我々には金があるではないか。

何もドンパチだけが仕返しではないはずで、金で相手の頬っぺたを叩くことだって立派な仕返しではないか。

言葉巧みに国際連合を操って、中国の人々、韓国の人々、北朝鮮の人々に日本に対する言動を封殺する外交だってあるではないか。

それにはまず同胞の中から、こういう国々に利益を供与し、日本の国益を損なおうとしている売国奴を炙り出さねばならないと思う。

この先のこととなると、もう一度治安維持法ということになってしまうが、まさしく歴史は繰り返すということになりかねない。

戦後の歴史教育では、治安維持法で言論の自由が封殺されたから戦争になったという捉え方がされているが、確かに軍国主義を否定するような言動が封殺されたことは事実だろうと思う。

ところが今の日本のように、言論の自由の元で、外国の利益を優先し、外国の思惑に貢献し、自国を不利な立場に貶めよう、導こうとする言論を容認しておいていいものだろうか。

主権国家の国民として、自分の祖国をないがしろにし、自分の祖国に弓を引く人間を擁護する国があるだろうか。

普通の主権国家ならば、国家反逆罪とか、あるいは名前はいろいろあり、それぞれ違っているだろうが、少なくとも自分の祖国に不利益を及ぼすような行為を取り締まる法律を供えているのではなかろうか。

これは政策論争ではないわけで、政策論争ならばこちらの案がいいとか悪いとか、あの国の政策を支持するとかしないとか、様々な論争があって当然であるが、国益を売り渡すということは政策論争とは別の次元の問題で、反逆行為といわなければならない。

それを許すほど寛容な主権国家がこの地球上にあるであろうか。

ここで再びマスコミ二ケーションの問題にもどるわけであるが、国益を守るということは何もドンパッチで領土を守る、細胞膜を強くする、国境の壁を厚くするというだけではないと思う。

その中に住む人々の心が一つに凝縮するという状況も、大いに国益なわけで、その中では統治する側を自分達と敵対するものだという認識こそ払拭しなければならないと思う。

それは戦前のように国民が一斉に「右向け右」に服すように強制せよという意味ではなく、民主的な国家であればこそ、自ら率先して下からのボトムアプの態様で国を愛し、祖国を愛して止まない心情を醸成するということでなければならない。

戦前は富国強兵の政策の下に、それに殉ずることが国を愛する行為であったが、昨今は国を愛するという言葉が逆に作用して、国を愛するといいながら祖国に弓を引いている。

統治の手法・手段については賛否両論が湧き上がるのが民主的な社会として当然であるが、他のグループの押すアイデアが自分にとっては気に入らないから、他国を利する手助けをしていいとは限らない。

例えば、「韓国が竹島は韓国の領土だ」と主張したとき、その主張した事実のみを客観的に報道するだけならば、国を売るということには繋がらない。

ところが、韓国にそういう運動が起きたとき、我々の内側から、それに同調する発言が出ると、それは我々の民族の潜在意識とは異質なものなるが故に、ニュース価値が生じ、それが大々的に報道されてしまう。

これを韓国の側から見れば、「日本の中にも我々の主張に賛同するものがいるではないか、だから韓国のいうことが正しいではないか」という論調になる。

これは当然の成り行きだ。

問題は日本のマスコミが客観的事実のみを客観的に冷静に報道していれば、蜂の巣をつついたような大問題にはならないが、マスコミとしてはそれでは飽きたらないわけで、ことを針小棒大に報道して大騒動を巻き起こさなければ彼ら自身が食って行けないのである。

私のマスコミ批判の結論は、新聞ならば紙面が多すぎるし、テレビの放送ならば放送時間が多すぎるというところに行き着くが、たった一行か二行で済む客観的報道にたいして、紙面を埋める為、放映時間を埋めるため、進歩的知識人と称する人のコメントが長々とつくので、我々のしていることは何でもかんでも悪いことばかりかのような印象を受ける。

韓国が「竹島は韓国の領土だ」と主張したとき、マスコミが「韓国よ、何をいっているのだ、あれはもともと日本のものだ」といえば何もニュースバリューが生じない。

しかし、日本人の大部分は心のなかでそう思っていると思う。

大部分の日本人が心の中ではそう思い、そう考えていることを掘り起こすことは、マスコミとしては別の難しい問題となるが、進歩的知識人のコメントを載せれば、それは国民一般の考えとは異質なるが故に、愚昧な大衆はその人の発言は正しいものと勘違いし、日本国中に大きくセンセーショナルな問題提起となるわけである。

この進歩的知識人というのが、国益ということを考慮することなく、奇麗事で取りつくろうとするから、国益を損なうという現象が起きるのである。

教科書の問題でも然り、総理の靖国神社参詣でも然り、北朝鮮への経済制裁の問題でも然りである。

問題は、今日のマスコミが紙面を埋めるために、放送時間を埋めるために、愚にも付かない記事なり番組を垂れ流しているという現実である。

報道というものが記事を埋めるために、放送時間を埋めるためにあるようなもので、新聞が毎日30ページもあり、テレビの放送が毎日22時間近くもあるとするならば、愚にも付かない記事なり番組でも作って、それを埋め合わせなければならないのは当然である。

マスコミというものが、先に器を置いといて、その器を満杯に保たなければ、と考えているから、こういう体たらくに陥ると考える。

だとすれば、器そのものを小さくすれば、内容は濃厚になってくるものと思う。

今日のように、毎日30ページにも及ぶ新聞、毎日22時間にも及ぶテレビ放送というのは紛れもなくバブル経済時代の遺物だと思う。

よほどの暇人でなければ、毎日の新聞を読みきれるものではないし、テレビを見続けることは出来ない。

新聞など見開き4ぺージで十分だと思うし、テレビなど午前と午後で時間を区切っても十分だと思う。

マスコミ全体として器が大きいということは、それだけ雇用も確保し、多くの人がそれにかかわることで糊塗を凌いでいるとは十分うなづけるが、同時にパイも大きいわけで、その視点こそバブルそのものだと思う。

大きければ総てよしとするバブル的発想だと思う。

 

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